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あなたが、好き。


〜1〜


 ――それから二人は結婚し、お城の中で末永く幸せに暮らしました

 「いいなー、真樹の所にも、王子様来てくれないかなー」
 「王子様なんていないよ。これは絵本の中のお話だよ」
 「真樹だけの王子様、いるもん。それで幸せに暮らすんだから」
 「真樹ちゃん、そんな事言ってると、お嫁さんになれないよ」


 薄暗く照明の落とされた部屋の中に、電話の呼び出し音が鳴っている。三回鳴ったところで、当番の女性社員が応対した。
「お電話有難うございます。データ・クリエイトでございます……申し訳ございません、只今休憩中でございまして……はい、そういったご用件でしたら営業部の……」
 女性社員の声は、それから先はっきりとは聞き取れなくなった。メモを取ろうと前屈みになったので、各自の机の上に置いてある資料やファイルの陰になって、声がこもってしまったのだろう。
 自分への電話ではなかった事を確認すると、真樹はまたパソコンの液晶画面に向き直った。
 昼休みだというのに、データの仕上げをこなすため、パソコンに向かっている。昼休み直前にデータ管理部の鈴木という男性社員が、五日前に上げた筈のデータの一部手直しを依頼して来たのだ。
 自分の手掛けた物件では無かったのだが、今日に限ってこの仕事を担当した社員が休んでいるというので、課長の許可をもらった上で、仕方なく自分が引き受けた。
 あと五分で昼休みが終わる。
――早く仕上げなくちゃ――
 真樹は他にも依頼されている未処理案件のトレーを覗き込み、キーボードの上の手を一段と早く動かした。
「水谷君、頼んでおいたデータ出しておいてくれたかな」
 休憩室から出てきた課長が、真樹の机の脇に立った。少し靴底を引きずるようにして歩くその音が、今日はやけに耳についた。
 時折痰が絡んだような音の混じる声。煙草の吸いすぎで、喉を傷めたのだろうという、女子トイレでの噂がある。その風貌からあまり女性社員に評判の良くないこの課長は、よく化粧直しをしながらの暇つぶしのネタにされている。
 管理職らしく妙な威圧感を持つその声に、真樹は背筋がムズムズするような感覚を覚えた。
「あ、まだです。営業部の鈴木さんのデータを上げてから、すぐ出します」
 真樹は入力の手を休めて、課長を見上げた。下から覗く課長の顎には、もう既に伸びかけた髭がうっすらと見て取れる。傍に立っているだけなのに、課長からは煙草の臭いが漂って来た。
「困るよ。急ぐんだから」
 課長がわざとらしく自分の袖口をたくし上げ、腕時計を覗きこむ。眼鏡の奥の神経質そうな目元が、更に歪んで見えた。
「課長のデータは二時と聞いていましたが? 鈴木さんのデータの手直しが一時アップなので、そちらを優先させました」
「鈴木君のは一時だったのか? キミ、三時って言ってなかったか?」
「いえ、一時アップと課長にお伝えして、許可を頂きましたが」
「そうだったか?」
「はい。こちらの用件メモをお見せして、確認を取りました」
 真樹は手元に有ったメモ書きを手にとり、課長にもよく見えるように少しだけ持ち上げた。そこには確かに一時アップと走り書きがされている。課長は小さく、だがいまいまし気に息を吐いた。
「じゃあ仕方ないな。こっちのデータ、二時には必ず出せるようにしておいてくれよ」
「はい。わかりました」
 真樹はそう言うと、またパソコンに向き直った。カチャカチャとキーを叩く軽い音が、薄暗い部屋にやけに大きく響いた。
 廊下に数人の足音が響いたと思ったら、不意に照明がついた。社員達が昼休みの余韻を残しながら各自の席に戻りはじめる。椅子を引く音や話し声に紛れて、真樹のキータッチの音も気にならなくなった。
「まったく、女も二十五歳過ぎると扱いにくいな。理屈ばっかりで、こっちの言うこと素直に聞いてくれなくなるんだから」
 課長のスーツの腹の辺りから、ブツブツと小さな声が響いてくる。真樹は再び顔を上げた。
「はい?」
「いや……なるべく早く上げといてくれ」
「はい、わかりました。一時半位には仕上がると思います」
 少しバツの悪そうな顔で真樹の返事を聞くと、課長は自分の机に向かって歩き始めた。数歩行ったところで、思い出したようにこちらを振り向く。
「ところで、水谷君、結婚はまだかね?」
「はあ……まだそんな話は有りませんけど」
 唐突な話題に、真樹はまた課長を見るはめになった。本当はあまり面と向かって話をしたい相手ではなかったのだが、その内容の唐突さに、思わず顔を上げてしまったのだ。
「昔の大奥ではね、女は二十四を過ぎると『オシトネジタイ』と言って、殿様と床を共にしなくなったものだ。君はもういくつだっけ?」
 真樹には、課長の言わんとしている事が、すぐには理解できなかった。
――オシトネジタイ? ……何だ、それ――
「……二十七ですが」
――女性社員に歳を訊くのはセクハラだぞ――
 言いながら、真樹は心の中で毒づいた。
 課長の口元がひどくいやらしい形に歪む。
「じゃあ、とっくに『オシトネジタイ』か。ははは……。じゃ、頼んだよ」
「はい……」
 課長の遠ざかる声に向かって、真樹は受け取り手のいない返事を返した。彼の勝ち誇ったような笑い声からようやく嫌味を言われたらしいと理解し、とげのある塊が喉元までせり上がって来る。だが真樹はそれをどんな言葉にすれば良いのか分からずに、キーボードの上で指をかたく握り締め、ただ唇を噛んだ。


「……と。グラフ、よし」
 真樹の指が、パシッと音をたててエンターキーの上で踊った。短く切り揃えた爪に派手ではないマニキュアを施してある。色白の彼女によく似合う色だ。画面上にカラフルなグラフが描き出され、資料の体裁が整った。
『キーン、コーン……』
 タイミング良く、退社のチャイムが鳴った。壁に掛かった時計を見ると、五時ちょうどを指している。作成したデータをセーブし、パソコンの電源を落とした。冷却ファンの回転音が止んで、耳がより遠くの音を拾えるようになった。
 真樹はバッグの中に入れた携帯を取り出した。仕事中はマナーモードにしてあるので、休み時間になって携帯を手にしてみないと、着信があっても分からない。案の定、未読メールのマークがついていた。
 発信者、杉村耕治。
 真樹の現在付き合っている恋人からだ。帰り支度をする社員で次第に騒々しさを増してきたのを幸いに、マナーモードを解消してボタンを押す。小さな確認音と共に、受信メールが表示された。
『今日七時、いつもの店で会いたい』
 いつものように絵文字の一つも見当たらないメールの文字が、液晶画面の上に無機質に並んでいた。


「稜、悪いな。今日は店に出てくれ」
 小洒落た洋風居酒屋の二階で、店長がロッカー室に入って来たばかりの若い男をつかまえた。
 稜と呼ばれた青年は、二、三度瞬きをした後で顔を大仰に歪める。
「えー、嫌ですよ店長。俺、学校にバレたらヤバいっスから」
 共用になっているハンガーラックから厨房用の制服を取り出しながら、稜はほとんどダミ声に近い程わざと潰した声で抗議した。
 ここは彼の知り合いの店だ。店長とも気心がよく知れている。アルバイトとして雇われているが、もっぱら厨房専門だ。
「本当はお前には店の方を専属でやってもらいたいんだよ。お前が出てると売り上げが伸びるからさ。学校の事さえなけりゃいいんだが……確かあっちの仕事も学校絡みで辞めたんだったよな」
「まだ辞めてませんよ。休業中です」
 控えめにではあるが、稜は店長の言葉を訂正する。
「あ、そうだったか。とにかく今日は譲歩してくれ。大手の給料日前で、そんなにお客多くないと思うから」
 いつもは奥の厨房の手伝いをしている。調理には手を出さないし、大したことはしていないのだが、皿洗いや片付けなど、店長の手の回らない雑用くらいはこなせている。
「裕介のやつがまた急に親戚の葬式だって言うんだよ。今日は他にも休みのヤツいるから、店の方が足りないんだ。な、頼む」
 袖を通すためにボタンを外しかけた厨房用の制服を稜の手から奪い取り、別のハンガーラックから店内用の制服を外して投げて寄越す。
「ほれ、今日はこっち!」
「マジですかぁ」
 稜は勘弁して欲しいという顔で店長を見た。
 店長はそんな視線に気づかないふりをして、さっさとロッカー室を出て行こうとする。ドアノブに手を掛け、思い出したように振り返った。
「なあ、お前からも裕介に言ってやってくれよ。今度親戚殺したら、クビだって」
「何スか、それ?」
 しぶしぶ渡された制服を頭から被りかけていた稜は、シャツの布地を鷲掴みにして無理やり下げると、ボタンの隙間から顔を覗かせた。
「ズルなんだよ、あいつの休みは。とっくにバレてんだ。福島の叔父さん、死ぬの二回目だから」
 困ったもんだ、という顔付きで、店長がため息をつく。
「はあ……。会ったら言っときます」
 脱力した声で、稜も困ったような愛想笑いを返した。
 店長が行ってしまうと、稜の指は留めかけのボタンの上で止まる。
「また、何か言われるんだろな……」
 天井を見上げ、ふう、とため息をついた。学校にバレるから、というのは、店に出たくない理由の半分だ。あとの半分は……。
 自分のことなど、知らない人ばかりの場所でなら、店に出ることも億劫ではない。おそらく今日も、客から何か言われるんだろう。
 店長に見せたものとは別の苦い笑いを貼り付けたまま、稜の手はいつまでもボタンの上に留まっていた。


 二人の待ち合わせ場所はいつも決まっている。地下へ降りていくタイプで、ドラマなんかに出て来そうな洒落た雰囲気の店だ。耕治が見つけて来て、それ以来二人の待ち合わせ場所となった。真樹の会社と耕治の会社のちょうど真中辺りにあり、料理もそこそこ美味しい。
 真樹が着いたのは七時少し前。店内をぐるりと見回して、あまり目立たないカウンターのすぐ脇のテーブルに座った。
「サンセット・ビューティーを」
 今日は買い物の予定もなかったので車で来てはいない。アルコールもオーケーだからと、綺麗な水色が目を奪う、リキュールベースのカクテルを頼んだ。
 七時になったが、耕治はまだ来ない。五分や十分の遅刻はいつものことだ。真樹はカクテルの水色を店の灯りに透かしながら、課長の言葉を思い出していた。
『じゃあ、とっくにオシトネジタイか。ははは……』
――オシトネジタイ……ああ、お褥辞退のことか――
 フッと乾いた笑いが真樹の口から吐き出される。今更のように、言われた言葉の意味をはっきりと理解した。
 それだけ歳をとったのだと、課長は言いたかったのだろう。いい歳をして結婚の予定もない真樹を皮肉ったつもりか。
 カクテルのグレープフルーツの味が、口の中に爽やかに溶けて行く。しかし、真樹の気分は爽やかになるどころか、反対にどんどんささくれて行った。
 何故だか無性に腹が立った。女の幸せは結婚にしかないと信じている、オヤジの言いそうな事だ。
「ふざけんな」
 綺麗な色で光るカクテルに向かって、小さな声で悪態をついてみる。店の灯りがグラスの中で波に揺れた。
「待った?」
 後から声を掛けられ、真樹は振り向いた。スーツ姿の耕治が、ノートパソコンの入ったキャリングバッグを片手に下げて立っている。
「ううん。私もさっき来たとこ」
 真樹がそう言うと、耕治は口の端を微妙に上げて笑った。
――なんか、変――
 いつもなら、会えばすぐに色々話しかけて来るのに。今日は何だか表情が固い。
「とりあえずビール」
 注文を訊きに来たウェイターにそう言うと、耕治は持っていたキャリングバッグを空いていた椅子の上に置いて、自分も隣の椅子に腰掛けた。
――『とりあえず』ビール、ね――
 耕治はいつも最初にこうやってビールを注文する。『とりあえず』で頼まれるビールはどんな気持ちだろう……と、真樹は思った。本当に望むものは他にあるのに、とりあえずの誤魔化しで注文されるビール。
「お待たせしました」
 先ほどのウェイターが、丁寧に紙製のコースターを敷き、その上にビールのグラスを置いた。そのビールを、耕治は一気に飲み干す。彼がグラスを持ち上げてからコースターの上に戻すまで、真樹は黙って見ていた。
「ねえ、どうしたの? 何か変。いつもと違うみたい」
 自分のグラスの縁を指でなぞりながら、真樹は耕治の横顔に向かって問いかけた。
 しばしの沈黙。真樹の眉がほんの少し、しかめられた。
「少しの間、会わないでおこう。俺達」
 耕治は、たった今飲み干したグラスを見つめたまま、真樹の顔を見ずに短く告げた。思い出したように、濡れた唇を手の甲で拭う。その手をテーブルの上に置くと同時に、やっと真樹の顔に視線を向けた。
「それ、別れる準備って事?」
 耕治の何も映していないような目を見返したまま、真樹は言った。
「そんなはっきりしたものじゃないけど……」
 耕治が困ったような目で曖昧に言うのを、真樹はただ見ていた。拭い切れなかった水滴が、彼の唇の周りに残っている。店の灯りに照らされて艶っぽく光るのを、真樹は何の感情も持たずに見ていた。
 この唇と、何度キスしただろう。
 不思議だった。
 これは多分別れだ。たった今、目の前の恋人の口から告げられたのは、サヨナラにも等しい言葉。何も感じないはずはないのに、悲しいとか寂しいとかいう感情を忘れてしまったかのようだ。
「ふーん。……いいよ、分かった」
 ただの一度も瞬きをすることなく、真樹は淡々と答えた。
 それを聞いて、耕治が諦めの色の混ざった長い息を吐く。
「やっぱり、だな」
「何がやっぱりなのよ」
 彼が視線を外したのを機に、真樹も自分のグラスに目を移す。カクテルの水色が、こんな別れの場面には似つかわしくない程綺麗だった。
「やっぱり、そんな風にあっさり納得しちゃうんだな」
「だって、言い出したの、そっちじゃない。私にどうして欲しいわけ?」
 真樹の声は苛立っていた。何を言っているんだろう、この人は。自分から別れを切り出しておいて、こちらの気持ちを試すかのような素振りを見せる。能天気に綺麗なカクテルの色をそれ以上見ていたくなくて、真樹は一気にグラスを傾けた。
――なんか、苦い――
 さっきまで爽やかだと感じていたグレープフルーツの味が、今はやけに苦く感じる。空のグラスは、もはや灯りを映して水色に揺れることはなかった。
「『いやだ』とか言ってくれるんじゃないかな、って思ったけど。そんなの、俺の勝手な期待だったみたいだな。……おまえにとって、俺なんて別に……おまえさ、俺のこと好きじゃないんだろ」
 自嘲するように、耕治がつぶやく。
「好きだけど」
 真樹の声からは、抑揚が失われていた。
「嘘だ」
「……」
 再度言い返そうとした声が、萎えていく気力に引き摺られるようにして消えて行く。真樹の唇から、言葉が失われた。
「もういいや。俺、頭冷やしたい。今何か言うと、多分おまえの事傷つけるから。先に勘定済ませておくから、おまえはまだここに居ていいよ。じゃあな」
 それから先、一度も真樹の目を見ることなく、耕治は椅子を引いた。キャリングバッグを持ち上げ、スーツの皺を払ってゆっくりと体の向きを変える。遠ざかって行く彼の足音が、グラスを見つめたまま微動だにしない真樹の背中に突き刺さった。
 店内の音楽が、スローな甘めの曲に変わる。
――なんて場違いなの――
 真樹は、お腹の中で笑った。
――今の私には、こんな曲似合わないよ――
 恋人達のラブソング。
 涙が出ないのが不思議だった。ただ、『おまえはもう要らないんだ』と言われたのだと理解できただけだった。
 彼にとって、自分は要らない人間になってしまった。今までは時々うとましく思えるほど、あれをしよう、これをしようと誘ってくれたのに。背中に突き刺さった足音は、真樹が一人ぼっちになってしまった事を嫌でも実感させた。
 好き、と言い返せない自分がいる。
――『好き』
 そう、たった一言。
 もう一度、ただその短い言葉を口にしてさえいれば、ここに一人取り残されることは無かったのだろうか。
 言葉を発することができないほど、鉛を仕込まれたように重く閉ざされた唇。
 それをただ映画の観客になったように遠くから感じているのが精一杯だった。
「好……き……」
 重い唇を引き剥がし、無理やり発した言葉は……どこか空々しかった。


 恋人達の終わりを告げるように、やがて店内の曲が悲しい旋律のバラードに変わる。
 真樹は椅子を引いた。
――こっちの方がお似合いだ――
 バッグを肩にかけると、真樹は長い睫毛を伏せて、ほんの少しだけ唇を弓形に引き上げた。