〜2〜
どこをどう歩いたのか。真樹の足は、いつの間にかにぎやかな通りへと向いていた。
「なーんか、このまま帰りたくない気分」
空を見上げた。曇っているのか、星はひとつも見つけられない。街灯に照らして、腕時計を見た。
「八時……か」
今から家に帰っても、食事の支度をすれば九時を過ぎる。一人暮らしをしている真樹には、温かい食事と一緒に待っていてくれる家族はいなかった。遅くからまとまった物を食べれば、夜中に気持ち悪くなって目が覚めてしまう。もとより何かを食べたいという気持ちが、真樹の中からすっかり抜け落ちてしまっていた。
「疲れた……」
明日は完休だ。久し振りの休みなのに、スケジュール帳には何も予定が書かれていない。女友達も、結婚したり彼が出来たりして、昔のように女同士で遊びに行くことも少なくなった。その隙間を埋めるように、いつもなら耕治が何か口実を見つけては誘って来るのだが、明日からはそれもないだろう。
真樹は、バッグの中から携帯を取り出した。
連絡先を呼び出して、サ行を表示させる。そこから下にスクロールさせた。
『杉村耕治』。
もうこの連絡先を使うことはないと思う。自分のもとから去って行った人の名前を眺めながら携帯を操作し、削除の項目を選んだ。
『削除しますか?』
確認メッセージが表示される。その文字の上に、初めて告白された日の景色が重なった。
気の毒になるほど緊張した面持ちで、前から気になっていたのだと言われた。特定の人がいないのなら、自分と付き合って欲しいと言った彼。真樹が首を縦に振ったら、ガッツポーズをして喜んでいた彼。
身を焦がす程好きなわけではないけれど、この人となら、今度こそうまくいくかも知れない。おだやかに時を重ね、別れの場面を迎えることなく、そのままずっと……。
そう思っていた。つい、先ほどまでは。
『とりあえず、ビール』
自分にとって、耕治はとりあえず注文しただけのビールだったのだろうか。本当に望むものは他にあるのにとりあえずの誤魔化しで注文されたビール。そんな存在だと心のどこかで思っていたから、彼にそれを見透かされてしまったのだろうか。
しばらく画面の文字を見下ろしていたが、真樹はそのまま削除することなく、ジョブの取り消しをした。
真樹は、待ち受け画像が表示された液晶画面をそのまま見つめていた。画面の隅に表示された時計が、音も無く数字を変えた。照明が落ちて、画面が暗くなる。
もう一度、空を見上げた。やっぱり星は出ていない。ゆっくりと重力に引かれるように、顎先を下げた。
再び、連絡先を呼び出し、サ行を表示させた。
液晶画面を指でなぞり、スクロールする。下からせり上がって来た名前を見て、真樹は指を止めた。
『柴山瑠実』。
発信を押す。ピッという確認音がして、スピーカーから発信音が聞こえ始めた。携帯を耳に押し当てると、何度目かの発信音の後に、ふいにそれは途切れた。
『もしもし?』
相手が応答する。明るい声が、スピーカーに押し当てた耳から頭の中に直接響いてくるようだ。
真樹の表情が、少しだけ明るくなった。
「瑠実? 私、真樹」
『真樹? 一週間振りだねー。元気だった?』
「うん、元気。一週間しか経ってないんだもん、そんなに変わらないよ」
『そりゃ、そうだ』
瑠実の明るい声が軽口を聞かせる。真樹の沈みがちな口元が、少し緩んだ。
「あのさ、今、近くにいるんだけど、久し振りに飲まない?」
本当はそんなに近くにいるわけではない。でも、このまま帰りたくなかった。大学時代の友人である瑠実と、他愛も無いお喋りをして過ごしたかった。タクシーを飛ばせば、十五分位で瑠実の家に着くだろう。
『あー、ごめん。今から男が来るのよ。でも珍しいね、真樹の方から誘うなんて。……何かあった?』
なんだ、この間の人とまだ続いてるんだ……と真樹は思った。いつもながら瑠実は鋭いな、とも。
「ううん、何でもないよ。この間会った時も時間短くてあんまり話できなかったし、明日完休だから、女同士でとことん飲むのもいいな、と思っただけ」
『そうかー。それならいいんだけど。今日はほんと、ごめんね。珍しく真樹の方から誘ってくれたのに』
「何よ、その珍しくっていうのは」
『ははは……気に障っても気にしないで。今度埋め合わせするから』
「期待してるよ」
『じゃーね』
「うん、じゃね」
瑠実が終話ボタンに指を伸ばす気配がする。通話終了の音が鳴る前に、真樹も通話終了を押した。ほんの数秒の差ではあるけれど、瑠実との会話が楽しかっただけに、あの無機質な音を聞くと気が滅入ってしまいそうだと思った。
携帯のカバーを閉じて、バッグにしまう。真樹はひとつ、大きく息をついた。
「あ、ラッキー。稜くん、今日は店に出てるんだ」
店に入って来た若い女性客が店内を見回して、一人のウェイターを見つけた。親しげな笑顔を見せて、近寄って行く。連れの女性客が三人、その後をぞろぞろとついていった。
「人、足んないから仕方なく。俺は嫌だって言ったんですけどね」
話かけられたウェイターが苦笑いの顔で応じた。つんつんと垂らした不揃いな前髪が、目を覆う位の長さまで伸ばされている。今時の若者風だ。最近テレビでよく見る芸能人がやっている髪型で、瞬く間に若い男性の間で流行ったらしい。
真樹はテーブルに肘をついたまま、見るともなしにそのやり取りを見ていた。
瑠実にふられた後、それでも家に帰る気にはなれず、ふらふらと歩いて行き辺りばったりでこの店に入った。店の雰囲気は小洒落ていて、広い店内ではモノトーンの制服を着込んだウェイター達がトレーを片手にあちこちのテーブルで注文を取っていた。
真樹の目の前では、何杯目かのチューハイがグラスの中で氷と溶け合っていた。つまみになる物もほとんど取らずにアルコールばかり頼んでいた真樹は、自分でも既にでき上がる一歩手前だとわかった。
「つまんないよー、稜くんいつも奥ばっかやってるから」
先ほどの女性客が、媚びるような声を上げた。
――うるさいな――
耳障りとしか思えなかった。昔、同級生の中にもいたっけ、こんな子が。同性に向かっては絶対に出さない、甘えた声。自分にはできないと、真樹は随分心の中で反発していた。
「接客苦手だから、マジ勘弁して欲しいんですけどね。俺、人見知りなんで」
応じるウェイターも、調子を合わせながら軽く受け流す。苦笑いを崩さずにはいるが、目は笑っていない。
――軽いわね――
パッと見はイケメンの部類に入る顔立ちだが、媚を売る女とセットにして見ると、真樹の目にはチャラチャラと薄っぺらく見えた。
「うっそだぁー」
場所もわきまえず、女性客が甲高い声を出す。アルコールの回った頭にキンキンと響いて、真樹のこめかみが刺すように痛んだ。
「稜くーん、こっちオーダーまだなんだけど」
他の席から声がかかる。
「はい、ごめんなさーい、今行きます」
ウェイターが移動したのを機に、女性客の団体は自分達の席を見つけに奥へと入って行った。
「せっかく稜くんが店に出てる貴重な日なんだから、いっぱい頼まなくちゃ。何回も運んでもらうから、覚悟しといてね」
さっき声を掛けた客が、嬉々とした声で言うのが聞こえる。こちらも若い。二十歳台になったばかりか。
「売り上げに貢献してくれて、ありがとう」
綺麗な営業用スマイルで、ウエイターが微笑んだ。
――ここはホストクラブか――
真樹は酸っぱいものが喉をせり上がってくる感覚をどうにか押さえ込みながら、心の中で悪態をついた。
――入るんじゃなかった、こんな店――
あのまま素直に家に帰っていれば良かった。そうしたら今頃、こんな嫌な思いをしなくても済んだのに。途中のコンビニで缶ビールでも買って、家に戻ってシャワーを浴びて……。
――悲しい独身女の図ね――
誰もいない部屋の電気をつける瞬間が一番嫌いだ。『ただいま』の声がやけに響いて聞こえる。
『じゃあ、とっくにオシトネジタイか。ははは……』
『少しの間、会わないでおこう。俺達』
課長と耕治の声が、頭の中でぐるぐると回り始めた。
耐えられない程の胸の悪さに、真樹は化粧室へと急いだ。
化粧室で胃の中のものをあらかた流す。もともと食事といえるような固形物は口にしていない。胃液と混じり合った酒ばかりが、虚しく水流に巻き込まれていった。真樹は口にハンカチを当てたまま、ふらふらした足取りで自分の席に戻って来た。なんだか壁が動いているように見えた。ゆっくり腰を落とすつもりが、足がもつれて倒れこむようにして座る。背もたれで腰をしたたかに打ち、ドサッと派手な音がした。
「痛ったぁ」
情けない気持ちになって、空いている方の手で腰をさする。痛さで紛れたのか、胸の悪さはいくぶん和らいだようだ。
――ああ、失敗。飲み過ぎちゃった――
頭を振って酔いを覚まそうとしたが、却って周りのものがぐるぐる回って見えてしまう。真樹はたまらずに、目を瞑ってテーブルの上に突っ伏した。
背後から足音が聞こえた。それはだんだん近づいて、真樹と隣のテーブルの間で止まった。
「お待たせしました。モッツァレラチーズと完熟トマトのサラダです」
少し鼻にかかった声。薄目を開けて見上げると、先ほどのウェイターが隣のテーブルの客に料理の皿を運んで来たところだった。
「稜くんの髪の毛って、柔らかそうだね。ちょっと触らせてよ」
――またこの男か――
隣の客の華やいだ声を聞きながら、真樹はうんざりだとばかりに、また目を閉じた。
「だめですよ。皿ん中に落ちますから」
ため息が出そうだった。
――静かに飲ませてよ――
「えー、ちょっとだけだから」
――やめろって言ってんじゃないの――
「だめですって……あっ」
突然、真樹は自分の肘に衝撃を感じた。客の手を避けようとしたウェイターの体が、テーブルの端からはみ出していた真樹の肘に当たったのだ。自らの意志とは裏腹に、手が押し出されてテーブルの上のグラスに当たる。薄くなったチューハイが、はずみでテーブルの上に零れ、飛んで来た飛沫が真樹の頬にもかかった。
「ちょっと、何やってんのよ、あなた」
真樹は、自分でもまだこんな元気があったのかと思うほど俊敏に体を起こしていた。それでもやはり、壁がぐらりと動いたように見える。真樹は顔をしかめた。
「すみません、今片付けます」
ウェイターがこちらを向いた。近くで見ると、なるほど、女性客が騒ぐだけの事はある顔立ちだ。肌も見ているこちらが気遅れしてしまいそうなほど滑らかで、モデルだと言っても通用するだろう。黒い髪は染めていないに違いない。艶やかに輝いてサラリと揺れた。自分より随分若く見える。彼は見ている真樹に気づくことなく、使用前のおしぼりでテーブルの上をさっと拭いた。くっきりした切れ長の二重瞼と、伏せられた睫毛が長いのが印象に残った。彼は一通り拭き終わると、片膝をついて使用済みのおしぼりでテーブルから滴っている雫を受けた。
「だいじょーぶ?」
隣のテーブルから甘ったるい声が訊ねる。明らかに自分に向けられたものではない。
――心配する方、間違ってんじゃないの?――
真樹は心の中で舌打ちをした。
「ああ、はい大丈夫です」
屈んでいたウェイターが顔を上げ、隣の席に向かって会釈する。
――もっとピシッと言ってやったらどうなの――
「あっ、触っちゃった。稜くんの髪の毛」
客がどさくさに紛れて、ウェイターの頭に手を伸ばした。
「やめて下さいよ」
ウェイターが、さっきから何度も見せられているお得意の苦笑いを浮かべる。言葉では拒絶していても、この苦笑いと一緒だと本気で嫌がっているようには見えない。適当にあしらって、断りながらも自分をよく見せて敵を作らないようにしているみたいに見える。
本当の気持ちを外から見えないように綺麗な言葉でラッピングし、相手に敵意を持たれないよう、いい想い出だけを残して恋人と別れようとする、ずるい男達のようだ。
――去って行く耕治の靴音が、真樹の体の中で響いた。
『おまえはもう、要らないんだ』
真樹の中で、心のどこかが微かな音をたててひび割れた。力を込めて瞼を閉じ、大きく息を吸い込む。
「……最っ低。」
「は?」
思わず低く漏れた抑揚の無い言葉に、ウェイターが反応した。営業用ではない、素の声なのだろう。飾り気のないそれは、随分つっけんどんに響いた。
――さっきとエライ違いじゃないの――
選別されたような気がした。おまえはもう若くないから。何をこんなところで立ち止まっているんだと、笑われたような気がした。
壊れた心の欠片を踏みつけにする音が聞こえる。今日の不運が全て彼らのせいであるかのように思えた。女性客をキッと睨み付け、口を開く。
「そこのあなた。他のお客の迷惑も考えなさいよ。いつまでもホストクラブごっこしてるんじゃないの。それから、あなた」
真樹はウエイターに向き直る。
「こんないい加減なウェイターが居るようじゃ、この店もたかが知れてるわね」
完全な八つ当りだ。そんな事は百も承知だったが、滑り出した口はもう止まらない。
「客にチヤホヤされていい気になってるんじゃないの? やめてくれって言いながら、本心隠していい子ぶってヘラヘラ笑って……ほんとは敵作りたくないだけなんでしょう?」
険のある瞳で、ウェイターを見上げる。オーバーアクションで肩をすくめて広げた手が、グラスに当たった。グラスは倒れて勢いよく転がり、残っていた中身がウェイターの制服にかかった。ウェイターがゆっくりと立ち上がる。
「……っんだよ。客だと思って人が下手に出てりゃ言いたい放題言ってさ。テーブルからそんな風に肘、出してる方もどうかと思うけど」
軽そうな今までの物言いとは違い、硬い声が真樹に降り注いだ。
――やっぱり――
自分は選別された。
みんな、いい年をしておまえは何をやっているんだと言う。
若い子には甘い言葉をかけても、あと三年で三十路を迎える自分にかける言葉はこんなものか。
「何よ、そのエラソーな態度。あなたも客商売なら、少しは口のきき方に気を付けなさいよね。『はい、すみません』とだけ言って、さっさと後片付けして引っ込んでればいいのよ。静かに飲みたい客だっているんだから。気配りが足りないわよ」
斜めに顔を傾け、にらみ付ける。
「こわーい」
隣の席の客が真樹を見ながら、小声で連れの客に肩をすくめて見せた。そんな様子も、ますます真樹の神経を逆撫でする。このウェイターも、それをもてはやす女性客達も、全てが真樹の
癇に触った。
「最低だな、女の八つ当たりってさ。俺に絡んで、何か楽しいわけ? おねーさん」
開き直ったように、ウェイターが顎先を上げて真樹を見た。
「別に絡んでないわよ。事実を言ってるだけ。あなたこそ、ちょっとばかしカッコいいからって、いい気になってるんじゃないの? 適当にあしらってれば、女は誰でも自分になびく、みたいに思ってるんでしょ?」
「何、それ。言ってること、支離滅裂なんですけど。ろれつ回ってないんじゃないの? 週末に一人でそんなんなるまで飲んで……どうせ彼氏と揉めたとかなんだろうけどさ。全然建設的じゃないよ、この解消の仕方」
「関係ないでしょ。ほっといて!」
ズバリと言い当てられて、真樹は心の動揺を隠すように声を荒げた。店内の何人かの客がこちらに注目し、騒ぎに気づいた店長とおぼしき人が奥から出て来るのが見えた。
「ストレス溜まってるんじゃないの? 何なら、俺が相手してあげようか。俺はいいよ、おねーさんとなら。あなた、綺麗だし」
挑戦的な瞳で、ウェイターが言う。
「きゃー」
隣の席の客が、口を手で押さえ、身をよじって歓声を上げた。
真樹は手近にあった水の入ったグラスを手にすると、勢いよくウェイター目がけてその中身をぶちまけた。パシャッと派手な音がして、ウェイターの顔がびしょ濡れになる。頬をつたった水滴が、顎から制服の胸に落ちていた。
「バカにしないで」
タン! と硬い音を響かせてグラスをテーブルの上に置き、真樹はバッグから財布をひっぱり出した。中から一万円札を二枚取り出し、叩き付けるようにテーブルの上に置く。
「これで足りる? 足りるわよね。お釣りはあなたのお小遣いにでもしなさいよ。どうせこんな風に女からお金もらう事なんて、しょっちゅうなんでしょうけど!」
それだけ言い放ち、真樹は席を立った。駆け寄って来る店長と鉢合わせしないようにテーブルの間をすり抜け、早足で出口に向かう。
「稜……!」
ドアを閉める寸前、ウェイターに向けた店長の怒気を含んだ声が真樹の耳に届いた。
店を出た時は、早足だった。でもそれは次第にゆっくりになる。数軒先の、シャッターの閉まった店の前で、真樹は足を止めた。
――何の店……?――
シャッターに書かれている名前を見ただけでは分からない。この時間に閉まっているのだから、酒を出す店ではないのだろう。
通りには車があふれ、ヘッドライトが光の洪水のように路面を照らしている。歩道も街灯に照らされた所だけがくっきりと浮かび上がって見えたが、歩いている人はいなかった。
ゆっくりと体を回し、シャッターに背中を預ける。ガシャ、と音がして、波状のでこぼこが真樹の背中を受け止めた。
――八つ当りしちゃった――
夜の街並みに、先ほどのウェイターの怒った顔を思い出した。その顔に、耕治の顔が重なる。それはだんだん輪郭がぼやけて行き、課長の顔に変わった。
振り払うように首を振り、顔を伏せる。
「……どうして、こうなのよ」
アスファルトのひび割れを見つめたまま、真樹は絞り出すようにつぶやいた。
付き合った人は、みな自分に愛想をつかして去って行く。『おまえなんか嫌いだ』とバッサリ斬り捨ててくれれば、泣くだけ泣いて次にも進めるだろう。それなのに、みんな曖昧な言葉を残していい思い出だけを残そうとする。真樹の心のどこかに思い出という
楔を打ち込んでおいて、重くなった体でまだ前へ進めというのか。
「ずるいよ……」
身を焦がすような恋をした事はない。この人を失ったら生きていけないと思ったこともない。でも恋人に別れを告げられた後は、確実に自分の傍らから温もりは去って行ってしまうのだ。拠り所を失った心は、糸の切れた凧のように不安定で空虚だ。一人で生きて行ける程、自分が強くない事を真樹は知っている。
仕事だって、そう。真樹がどれだけ気を配ってスケジュールを都合し、データを上げたところで、次から次へと人の要求はエスカレートして行く。できないと言えば能力が無いと言われ、機敏に反応すれば可愛げの無い女と言われる。挙句の果ては、『結婚はまだか』と、さもすぐに出て行けと言わんばかりの嫌味を言われ……。
気持ちが滅入っているせいか、もうこれ以上、踏ん張れないと思った。
親元を離れているからなのか、適当なお見合い話を持ってくるような世話好きなおばさんもいない。もっとも、今はそんなこと流行らないのかも知れないけれど。
結婚がゴールでないことも、ましてや逃げ場所でもないことも分かっている。でも……。
足音が近づいてくる。ここで立ち止まっている自分を、足音の主は追い越して歩いて行くのだろう。人は進んで行く。でも、自分は……。全てのものから自分一人だけ、置いてけぼりにされていくような気がした。
――追い越したいなら、追い越して行けばいい――
真樹は唇をぎゅっと噛み締め、アスファルトを見つめたまま動かずにいた。
「あ、いた」
ちょっと鼻にかかった、聞き覚えのある声。それが自分に向けられたものだと気づいて、真樹は顔を上げた。
そこに立っていたのは、先ほどのウェイター。顔は拭いてあったが、制服は濡れたままだ。途中まで走って来たのか、少し息が上がっている。
「返すよ、これ」
ぶっきらぼうに手を差し出す。そこにはお札が数枚と、小銭が握られていた。
「要らない」
真樹は顔を背けた。少し冷静になったせいか、後ろめたさが胸に広がる。
「店長にも怒られたし、なんか後味悪いから」
そう言うと、ウェイターは反対の手を伸ばして無理やり真樹の手を取り、掌の上にお金を置いた。真樹の指を上から包み込むようにして、それを握らせる。驚いて手元に視線を戻した真樹が、それでも突っ返して来ないのを確認すると、唐突に手を離した。
真樹はなんだか、情けなかった。勢いよく店を出て来た後だけに、さんざん悪態をついた相手と一緒にこんな所に立っているのも、バツが悪かった。夜風にあたって少しだけ冷静さを取り戻した今、自己嫌悪の波が真樹を襲う。
再び顔を背けて拳を握ると、中のお札が乾いた音を立てて
皺くちゃになった。
いろんな事がグルグルと頭の中で回り出す。ツンと目頭が熱くなり、真樹は鼻をすすり上げた。
「どうせ私は『お褥辞退』よ」
フラッシュバックのように色々な人の顔が目の前に浮かんでは消えていく。全ての原因が自分の年令にあるような気がして、真樹の口からつい、言葉が漏れた。
昔はもっと生き易かったように思う。そう、隣に並んで立つこの青年位の頃は。歳を重ねていろいろな事を知ってしまった分だけ、自分は飛べないような気がした。
「『オシトネジタイ』?」
ウェイターが真樹の言葉をそのまま繰り返す。
「……何でもない」
ウェイターの顔をキッと睨み付けてやっとそれだけの言葉を口にすると、真樹は別れの挨拶もせずにその場を後にした。