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あなたが、好き。


〜3〜


 月明かりの下、アパートの前には、パンパンにはち切れそうになったゴミ袋が三個出されている。真樹が通り過ぎようとすると、ゴミを漁っていた野良猫が驚いて走り去って行った。
「ゴミ出しは、明日だっつーの」
 『夜のうちにゴミを出してはいけない』という回覧板が、この間回ったばかりだ。規則を守らない人達のおかげで、ちゃんと規則を守っているこちらまで、なんだかゴミ出しに罪悪感を感じてしまう。カラス避けのネットもかぶせずに放置してあるそれは、大抵夜のうちに野良猫に荒らされてしまうのだ。中から臭い水が出て、いつもその辺りの路面は色が変わって見えた。
 今流行りのメゾネットタイプのアパート。真樹はその端の部屋に住んでいた。
 鍵を二箇所回し、ドアを開ける。奥の部屋で電話が鳴りはじめたのが聞こえた。誰だろう。でも今はそんなこと、どうでもいい。とにかく誰かと言葉を交わしたかった。今夜の惨めな自分を知らない、誰かと。例えそれが、セールスの電話だったとしても構わないと、真樹は思った。
「……、二」
 玄関でパンプスを脱ぎながら、呼び出し音を数える。真樹の家の電話は、六回鳴ったら留守電に切り替わるように設定してあるのだ。
「三……、四……」
 蹴り出すようにパンプスを脱ぎ捨てると、安定の悪い高いヒールが自力で立っていられずに転がった。それを直すこともせずに、真樹は電話に急ぐ。
「五! ……もしもし?」
 飛びつくようにして受話器を上げると、真樹はすぐさまそれを耳に押し当てた。
『真樹ちゃん? 私』
「……あ、おねえちゃん」
 懐かしい声だった。真樹と四つ違いの姉の、真樹によく似た声がスピーカーから流れて来る。何度か電話を掛けてくれたけれど、このところ真樹の帰りが遅かったりして、留守電に吹き込まれた伝言しか聞けていなかったのだ。こうして会話したのは、何ヶ月ぶりだろう。
『やっと出た。今日も留守電に向かって喋らなきゃいけないのかと思ったわ』
 そう言って、姉は笑う。
「だから、前から言ってるでしょ。携帯に電話してくれればいいのに」
 真樹は半分ふくれっ面になりながら、そう言い返した。
『今時珍しい固定電話が引いてあるんだもん、そっちにかけた方が面白いじゃない』
「何よ、それ」
『結婚生活には刺激が必要なのよ』
 妹の固定電話にかける事が刺激になるとは思えないが、サバサバした性格の姉は、周囲も驚くほど早く結婚した。確か短大を出てすぐ、二十歳だったと記憶している。すぐに授かった娘は、現在小学四年生。その後で体調を崩し、それ以上子供は望めない体になった。
 いつも「早く結婚しておいて良かった」と言っている。そうでなければ、自分は子供を持つことができなかっただろう、とも。
 実家の近くに居を構え、何かと理由をつけては入り浸っているらしい。歳の離れた弟の征人(ゆきと)の様子もよく知っている。
 電話の内容は他愛もないものだった。
 征人が大学の友達とバンドを組んだとか、近所のボロアパートが取り壊されて新しいマンションが建ったのだとか、どこの店のおやじが再婚しただとか、主婦のネットワークをフルに駆使して集めた情報を真樹に話してくれる。
 それでも親元を離れて一人暮らす真樹には、とても有り難かった。忘れかけていた故郷の様子が、ありありと目に浮かぶ。通学路の途中にあったお化け屋敷のようなボロアパートが、綺麗なマンションに生まれ変わった様子。それが、見てもいないのに手に取るように分かった。
『ところで、この間言ってた彼とは、どうなった? もう具体的な話、出てるの?』
 突然、姉が話題を変えた。ノスタルジックな気分に浸っていた真樹は、その言葉で現実に引き戻された。
「ああ、あの人……別れちゃった」
 感情のこもらない声で、真樹は答えた。
 思い出したくはないが、いずれ姉にも言わなくてはならない。変に期待を持たせたままだと、却って自分が辛くなるような気がした。
『え? いつ?』
 心底驚いたような声が返って来る。
「……今日」
『今日!』
「そう、今日。ほんの四時間程前」
 今が十一時。耕治と別れたのは七時頃だったから、あれから四時間経ったことになる。飾り棚の上に置いた時計を眺めながら、真樹は冷静に時間計算をしている自分が可笑しくなった。
 スピーカーから、姉のため息が聞こえた。
『なーんだ、今度こそ結婚までいくかと思ったのに』
「ごめん、心配かけて」
 相手には見えないと知りながら、真樹は苦く笑った。
『ま、あんたは昔からそうだったものね。どうせ煮え切らない態度で、相手を怒らせちゃったんじゃない?』
 真樹の頭の中に、耕治の言葉が甦った。
『おまえさ、俺のこと好きじゃないんだろ』
「当たりかも知れない」
 その通りかも知れないと思った。何をやっていても彼の事を考えているような、そんな恋ではなかった。果たして、それが恋と呼べるものだったのかどうかも、今となっては良く分からない。キスをしても、体を重ねても、どこか醒めている自分をいつも頭の隅で感じていた。
『よりによって、今日だなんて……間の悪い時に電話しちゃったわね。じゃあさ、さっさと忘れて、早く次の人見つけなさいよ』
 姉の声が、いたわるように響いた。
「うん……でも今は、そんな気になれないよ」
 何だか心が疲れてしまっていた。このままずっと、自分は恋をせずに生きていくような気がした。
『あんたさあ、まさか究極の理想の恋なんて探してるわけじゃないよね? 昔みたいに王子様を待ってるわけじゃないんでしょ?』
「そんなんじゃないけど」
 言い返しながら、真樹は口を尖らせた。受話器と本体を繋ぐカールコードを、指に巻き取っては離す。変な風にねじれたコードは、カールがぐちゃぐちゃになってしまった。
『ねえ真樹、恋のトキメキなんて、最初の内だけ。どんなに好きな相手でも、一緒に暮らしていく内にだんだんトキメキも無くなって、アラが目につくようになるものよ』
 諭すような口調の姉の声に、真樹は姉の気持ちを少し読み取ったような気がした。
「おねえちゃんも時々お義兄さんの文句言ってるもんね。あんなに大恋愛結婚だったのに」
『うちもご多分に漏れずね。お互いのアラが目立つ時期を越えると、今度は空気のような存在になる。そうやって恋人は家族になっていくの。だから、いつまでも理想の恋人なんて探してちゃダメよ。適当な所で折り合いをつけて、落ち着いた方がいいって。子供、欲しいんでしょ? 歳いってからだと、しんどいわよ。学校の行事なんて、ついて行けなくなるから』
 姉の最後の言葉に、真樹は姉と一緒に出掛けた姪の運動会を思い出した。
「運動会とかPTAとか、ああいうの?」
『そう。保護者が学校行事に引っ張り出されることなんて、しょっ中なんだから。私は若い時にあの子を産んだから、まだいいけど。もう少し上の人になると、PTA対抗レースなんかでよく転んでるよ』
 そう言えばそんな人もいたなと、真樹は思い出した。今四年生の姪が二年生の時だったように思う。あれは二年前の小学校の運動会だったか。派手に転んで救護室に連れて行かれた父兄がいた。
 子供のことはともかく、真樹には今、全てを投げ打ってまで手に入れたいと思う人がいない。男の人に比べて、女は捨てなければいけない物が多すぎる。仕事や姓、ともすればそれまで培った人間関係まで……自分の現在の生活の大半と交換してもいいと思える人。そんな人と恋をしたい。
 そして結婚は、そんな恋愛の延長線上にあると、信じていたい。
 自分だって焦っていないと言えば嘘になる。ただ、出会えないものは仕方がないのだ。
「別に、王子様を待ってるわけじゃない。子供じゃないんだもの、そんなもの、いないって事も分かってる。だけど……」
 ときめきもないまま、本当に相手が好きだという想いもないまま結婚して、果たして幸せになれるのだろうか。諦めという言葉と引き換えにした結婚生活は、本当に幸せなものになるのだろうか。
 姉の言葉を胸に刻みながらも、何か釈然としない自分がいるのも事実だった。


 翌日からも、真樹は通常通り仕事をこなした。課長からは別に嫌味を言われるでもなく、『お褥辞退事件』も本人は言ったことすら忘れているようだ。しかし真樹の方は課長の顔を見る度に、あの時投げつけられた(いばら)の傷跡を思い出してしまった。
 それを頭の中から追い出そうと、真樹は目の前の仕事に打ち込んだ。
 何のミスも指摘されないよう、完璧を目指した。集中したおかげで指定された時間よりも一時間以上早くデータを仕上げることができた。また自分が気づいた問題点も付箋に明記して貼り付け、データの改善を促した。
 それはそれで鼻持ちならないと思われるかも知れなかったけれど、努力すればできることをできないと偽るのは嫌だった。退社時間まで適当にダラダラと仕事をしているフリをして、定時後に気合を入れるような女性社員にだけはなりたくない。それは真樹のプライドが許さなかった。
 午後一番で、真樹が専属で作成したデータについて、クライアントが説明を求めて来た。新しく立ち上げたシステムでデータを使用するのに、担当の者が不慣れなのでそのフォローに来て欲しいとの事だった。
 あいにく、営業部の担当者ではその説明がうまくできない。代わりに真樹が、そのクライアントの所まで出向くことになった。
「水谷くん、今日だけじゃなくて、しばらく営業部の代わりに行ってもらうよ。先方のシステムが落ち着くまで、そうだなあ……担当者があまり慣れていないから、週一で二ヶ月位かかるかも知れんな」
 真樹を呼び出した課長は、神経質そうに机の上のメモ用紙の端を丸めたり伸ばしたりしながら、そう言った。
「はい」
 くるんと丸まった紙が、課長の指と指の間で跳ねる。それを見ながら、真樹は短く返事をした。


 古風な煉瓦造りの建物は、それが古い時代に作られたものだということを示している。真樹はパンプスのかかとをなるべくそっと下ろしながら、大きな音を立てないように注意して歩いた。静けさの中の心地良い緊張感を自分の靴音で汚すのは、なんだかいけない事のような気がした。
 ここ私立城星高校の事務室が今回のクライアントである。有名な私立大学に併設されているこの高校では、今回遅ればせながら、生徒の身上票を全て電算化することにしたのだ。そこには出生地、出身校、親の職業や年収、今までの成績など、個人情報がぎっしり詰まっている。携わる人間が増えればそれだけ情報漏洩の危険も増えるので、実質、ネットワークから隔離したパソコンで、真樹が一手に引き受けたのだ。
 当然、データの細かい判断基準について説明ができるのは、真樹しかいない。営業部は仕事を取って来ただけで、データ的な事柄はほとんど知らなかった。
 事務室で説明を終えた後、真樹は珍しい造りの建物の周りをぐるりと回ってみた。古い煉瓦は所々苔がついていて、しっとりと濡れたように息づいている。時折バッグを持った生徒が数人固まって歩いているところをみると、既に下校の時間なのかも知れない。
 みんな、デザイナーの手によると思われる制服に身をつつんでいる。女の子は短いスカートをひらひらさせ、また男の子はグレンチェックのズボンを少し下げ気味にはいている。有名校でも今時スタイルは健在らしい。
 右手から歩いてきた男子生徒が、友達に向かってクリアファイルを持った手を上げた。しばらく友達が歩いて行くのを見ていたが、こちらに向きを変え、少しうつむき加減に歩き出した。背が高く、片方の肩に黒いデイパックを背負っている。リズムを取るように肩で歩くその姿は、均整が取れてモデルのようだ。
 制服を着ていると、どの子も同じような顔に見える。一人一人の個性なんて潰してしまう、それが制服だと真樹は思っていた。そんな中でもキラリと光って見えるその男子生徒は、真樹とすれ違う寸前、顔を上げた。
「あ」
 男子生徒が真樹を見て、小さな声を上げる。つられて真樹も、その生徒の顔を見た。
「あっ」
 思わず声を上げてしまう。
「ヤベっ」
 男子生徒は、手にしたクリアファイルで顔を隠すようにした。
「あなた、この間の……」
「あちゃ、見つかった?」
 語尾を上げぎみに、質問形で返す男子生徒。
 それは忘れもしない、真樹がさんざん悪態をついた、あの洋風居酒屋のウェイターだった。
 学校の制服を着て歩いていると、あの時の雰囲気とは随分違う。染めていないストレートの髪は校則によるものなのだろうし、少し着崩した制服は、日々の勉学にいそしみ、青春を謳歌する今時の高校生の象徴、そのものだった。
「……そりゃバレるわよ」
 真樹はクリアファイルをパチンと指先で弾く。
「透明なんだもん。顔、全然隠れてないし」
「ども……」
 男子生徒はファイルを下げて、バツが悪そうに愛想笑いをした。
「高校生だったのね、あなた。若いなー、とは思ったけど」
 そう言いながら、こんな子供の前で泣いてしまったのかと、真樹は自己嫌悪に陥った。さんざん悪態をついてしまったが、高校生相手に大人げなかったと、ますます自己嫌悪に拍車がかかる。
――謝らなくちゃ――
 真樹は何と切り出したらいいのか、迷った。頭の中で必死に言葉を見つけようとするが、浮かんだ謝罪の言葉はどれも陳腐で、体裁が悪い。同世代や上司になら、謝ることも多いが、年下の子供に謝るなんて初めてだ。
「お願いっ」
 突然、相手が顔の前で手を合わせた。パチンと音がして、ツンツンした前髪の向こうから、透き通るような瞳がこちらを覗いている。手にしたクリアファイルがペラリと折れ曲がり、まるで彼の代わりにお辞儀をしているように見えた。
「……何よ、突然」
 真樹はいぶかしげにその瞳を見返した。
「おねーさん、ここの関係者? そうだよね? こんな時間にこんなトコいるんだもんね? じゃあさ、この間の店のこと、学校には内緒にして。でないと、退学になるんで。お願いしますっ」
 合わせた手もそのままに、男子生徒は必死の表情で懇願する。
――バイト禁止だったのか――
 私立高校は厳しいから、そうかも知れないと思った。
「……いいけど」
 真樹は自分の口元が緩むのを感じた。こんな子供相手に、自分は何をやっていたんだろう。今、日の光の下で見るこの男子生徒は、女性客から声を掛けられて適当にあしらっていたあの日のウェイターとは別人に見えた。
――ホストだなんて言って悪かったかな――
「ほんと? おねーさん、物分りいいね」
 男子生徒は快活に言葉を重ねる。それが自分の保身の為の行為なのだと判っていても、高校生らしい飾らない言葉は、真樹のわだかまっていた心を少しだけ溶かした。
「はい、大人ですから」
 今日は酔っていないから、真樹も余裕をもって接することができた。そうだ、自分は大人なのだ。あの時も、客として不快に思ったことを告げるにしても、もう少し言葉を選ぶべきだったと思う。
「あのさ……あれに懲りずに、また店来てよ。俺、いつも奥だけど。『稜呼んで』って言ってくれれば……あ、『稜』って俺の名前ね。神鳥稜っての。神の鳥に、五稜郭の稜。呼んでくれれば挨拶位には出てくからさ。えーと……おねーさんの名前は?」
「水谷……真樹よ」
「どういう字?」
「真心の真に、大樹の樹」
「真樹さん、ね。いい名前だね」
「本当にそう思ってるの?」
「うん、思ってるよ。真樹さん……うん、いい名前だよ。おねーさんに似合ってる」
 こんな風に相手を手放しで認めることができるから、女性客に人気があったのかも知れない、と真樹は思った。だが今日は、それが別段嫌味には思えない。やはりあの日は耕治と別れたばかりで、自分の気持ちがささくれていたのだと改めて思う。
――それとも……?――
 自分に向けられる視線が、しっかりと自分を捉えていると思えるからか。選別されて振り落とされた、残りカスなのだと思わずに済むからなのか。
「そ……そう? ありがと」
 認められることに慣れていない真樹は、なんだか居心地が悪かった。
 それきり会話が途切れた。そこで真樹は、自分が何かを言おうとしていたことに気付いた。だがここまで中途半端に会話を続けてしまった今となっては、あの日のことを謝るにしても『今更』な気がして気後れしてしまう。
 少し待ってみたが、稜も他に何か言い出す気配はない。二人の間に、しれっとした空気が流れ、真樹は所在なさげに視線をあちこち移動させた。
 このまま向き合っていても、会話に進展はないだろう。高校生の話題について行けるような柔軟な頭は持ち合わせていなかった。
 それに、会社に帰ったら今回の報告書を書かなくてはいけない。
 稜とも、もう会うことはないだろう。それなら、こんな所で時間を潰しているわけにはいかない。
「じゃ」
 真樹は精一杯大人の笑顔を見せて、一歩踏み出した。
 スーツのスカートの裾が、足の動きに合わせて揺れた。
「あ、待って」
 真樹の歩き出した方向に向き直ると、稜は空いている方の手で真樹の腕を掴んだ。思ったより強い力で引かれ、真樹は驚いて振り返った。