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あなたが、好き。


〜4〜


 彼は何かを考えるように、下を向いて自分の前髪を触った。
「俺さ、あれから考えて……言い過ぎたな、って思ってさ。その……『俺とストレス解消しようか』なんて言って。あれって、セクハラだよね……その……俺、真樹さんとシたいとか、そういうんじゃなくて……あれ? えと……そうでもなくないんだけど……」
 一語一語言葉を選びながら、稜はとつとつと言った。上目づかいに真樹を窺い、気恥ずかしさやバツの悪さと懸命に闘っているように見える。
 真樹は『しまった』と思った。謝らなければいけないのは自分の方だったのに、稜に先を越されてしまった。余計なプライドが邪魔して素直になれない自分は、高校生以下か。もう会うこともないからと、何もなかったような顔をして、何事もなかったことにして、曖昧に立ち去ろうとしていた。
 居心地の悪さを隠すように、口元に営業用のスマイルを浮かべる。
「あ……気にしてた? いいのよ、会社でいっぱい言われて慣れてるから。もっと酷いことだって」
 言葉だけでなく、宴会で酔って抱きつかれたことだってある。その位軽くあしらう事ができなければ、女が男の中に混じって仕事をしていくことなんてできない。
 ふと、稜を見た。まだきまりの悪そうな顔をして、こちらを窺っている。
 真樹はひとつ、息をついた。ヘタな小細工など通用しない、純粋な目が、そこに在った。
「えと……それよりごめんね。私の方こそあなたに謝らなくちゃいけないわ。すっごく態度悪かったし。あなたにしてみれば、お客さんに強い事言えないのは当たり前なのに、チャラチャラしてるだなんて八つ当たりして……。店の方、大丈夫だった? 店長に怒られてたでしょ。あと、あの時のお客さんも」
 酒の勢いがあったとはいえ、さんざん悪態をついてしまったあの日を改めて思い返し、余計に自分がとてもいやらしい人間になったような気がした。大人としていけない事をしてしまったと、今なら反省もできるのに。
「あ、それなら大丈夫。あそこ俺の知り合いの店だから。怒られても、クビにはされないよ。あと、お客さんも別に適当な事言って発散して帰ったみたいだし」
 稜が細かく(うなず)きながら言った。つんつんとした前髪が、頭の動きに合わせて揺れた。
「そう、良かった」
 真樹はとりあえずほっと息をついた。あれから自分のせいであのウェイターがクビになっていたらどうしようかと、あの日背中で聞いた店長の怒声を頭の中で思い返す度に、罪悪感を感じていたのだ。
 心が緩み、口元も緩む。
 ふっ、と息が漏れた。
「……あの日、付き合ってた彼と別れたの。あなたの言った通り。心読まれたのかと思ったわ。仕事でも上司に嫌味言われるし……。ほーんと、最悪な日だった」
 自分が悪態をついてしまった原因を、彼は知る権利があるはず。まだ彼が興味を持っているとも思えなかったけれど。
 カッコ悪い話だけれど、今更高校生の前でカッコつけたって、意味はないと思った。今ここで少しくらい素直になってもいいだろう。
「大変だったんだ」
 さも分かります、といった表情で稜が相づちを打つ。
 子供に会社という組織の中で働く者の事が分かるわけない。恋愛経験だって大人のそれとは違うだろうに……と思うと、真樹には目の前の稜が自分に合わせて精一杯背伸びしているように見えた。
「でも、あなたもさんざんだったよね。私みたいなのに絡まれて」
 真樹は彼をいたわるように言った。
「俺はそんなに最悪でもなかったよ。おかげであなたと話せたし。あなたの事、綺麗だって言ったのも、本心」
 本当にそう思っているのか分からないセリフをさらりと言ってのけ、稜は綺麗な笑顔を作った。
「何バカな事言ってんのよ」
 一旦瞼を閉じると、真樹は笑いながら稜から視線を外した。店で客をあしらうのに使う文句なのかも知れない。子供の言うことを真に受けて喜べる程、真樹の心は純粋ではなかった。
「ねえ、どうして彼と別れたの」
 真顔になり、稜が訊いた。
「大人には大人の事情があるの。……もう。そんな事、聞かないで」
 真樹は茶化すように笑った。
 高校生の彼に話しても、分からないだろう。好きとか嫌いとかの純粋な気持ちだけで恋愛する事を許されている、彼らには。周りからのプレッシャーや世の中の常識、いろいろなものにがんじがらめになって身動きできずにいる自分をどう説明したらいいのか、真樹自身にも分からない。
「あ、ひどい。俺のことガキ扱いして」
 ダミ声のようにわざと潰した声で、稜が言った。ふざけているのか本心なのか、よく分からない。
「だって本当に子供じゃない。まだ未成年。タバコも吸えない、お酒も飲めない」
 真剣に答えるつもりはなかった。真樹も軽口で済ませられるならと、オーバーな表情をつけて言った。
「俺タバコ嫌いだもん。喘息みたく、咳出るし。酒はちょっと位なら飲めるけどね。……おっと」
 稜は手を伸ばし、カクンと膝を曲げた。その拍子にずれたデイパックを、片手で掛け直す。
「飲んでるの?」
 思わず彼の顔を見てしまった。
 影でコソコソ……というのなら分かるが、会って間もない人に、いたって普通の生徒に見える彼が飲酒をしている事をさらりと言ってのけるなんて。自分が現役だった頃では考えられない。真樹が高校生の頃、三年生の二学期に学校にバレて、退学になった生徒もいたと記憶している。それだってさんざんワルぶっていた生徒だった。その感覚のギャップに、真樹は少々面喰らった。
「ん……しょっちゅうじゃないけどまあ、何か有った時に適当に。バイトもああいう所だし。今時この歳で飲んだ事ないやつなんていないでしょ」
 悪びれる様子もなく、稜はさらりと言ってのけた。
「そうかも知れないけど……普通、そんなおおっぴらに、言う?」
 真樹は半ば呆れながら訊いた。
「罪の意識、ないし」
「捕まるわよ」
「やだっ。おねーさん、チクる気?」
 稜が突然芝居がかった動作で肩をすくめ、眉をひそめる。真樹は少々しらけて、笑おうとした口元を妙な感じに歪ませた。
「……疲れた。あなたのノリに付き合っていられる程、暇じゃないの。さて……と、もう行かなきゃ」
 スーツの腕を一旦伸ばして、腕の方にずれていた時計を手首に戻す。肘を軽く曲げて顎を上げ、目を細めて時計を見た。
「その時計の見方、大人の女って感じだね」
 稜が小首を傾げてその動作に見入る。
「はいはい、ありがと。えーと、駐車場どっちだっけ」
 それを軽くあしらい、真樹は気にも留めていない様子で訊ねた。実は建物の周りをぐるりと回ったことで、自分が車を止めた駐車場の位置が分からなくなってしまったのだ。方向音痴というわけではないが、古風な煉瓦造りの建物に目を奪われている内に、自分がどこをどう歩いたのか、分からなくなってしまった。
「ねえ、質問にまだ答えてない」
 稜が不満そうな声を上げる。
「何?」
 その言い方が子供っぽくて、真樹は思わず弟の征人と話す時のように素っ気無く応じた。
「『どうして別れたのか』って訊いたでしょ?」
「言わない」
 なおも訊き出そうとする稜に向かって、表情を変えずに短く言う。
「言わなきゃ、これ返してあげない」
 稜がトランプを扇形に開いて持つ時のように、手の中でファイルの裏側から携帯をずらして見せた。
 見覚えのある携帯に、真樹は自分のバッグを探る。横のオープンポケットに入れておいた携帯が無くなっていた。
「あ、それ、私の携帯。信じらんない。あなたここから盗ったわね」
 抗議の声を上げる。
「盗ったなんて人聞きの悪い。落ちそうになってたんだよ。さっき、酒飲むとか飲まないとか話してる時にさ。ここのマグネット、ちゃんと留めてなかったでしょ。俺が受け止めてやんなきゃ、今頃落ちてぶっ壊れてるよ。それ阻止してあげたんだから、感謝して欲しい。それより、ね。教えて?」
 取り返そうと伸ばした真樹の手を片手で阻止しながら、稜が覗きこむ。力でも腕の長さでも、自分は完全に負けてしまっている。
「言えない。ただね、向こうから別れようって言われたの! ……んもう、ふさがりかけた傷口をパックリ開くような事、訊かないでくれる?」
 傷付きたくなかったから、他人事のように手短かに答えた。
「もういいでしょ」
 携帯に手を伸ばすと、またも阻止された。
「うそ、振られたの? 信じらんない。おねーさんみたいな綺麗な人、振るなんて」
 稜はまるで自分のことにように驚いて見せた。
「そうでしょ、そう思うでしょ」
 茶化されるかと思ったのに擁護してくれたのが少し嬉しくて、真樹は冗談めかして同意を求めた。目の前で、稜が何度も頷く。
 吸い込まれてしまいそうなほど透き通った瞳が、そこに在った。
「……何でだろなー。好きじゃなかったのかも知れない。あの人のこと」
 稜の瞳の中に自分の姿を見つけると、ぽつりと本音が漏れた。
「え?」
 稜が口を少し開いたまま小さく訊き返す。
「好きじゃなかったのに、こんなもんかな、って気持ちで付き合っちゃったのがいけなかったのかな。なんかこう、会ってる内に相手に点数つけてる自分がいるの。これは合格、これは不合格……って。向こうにだって、そんな態度とってたら、バレバレだよね。怒らせちゃったんだと思う」
 場違いな笑みすら浮かんでくる。悲しい時、辛い時に素直に泣けない、大人のずるさを自分は持っている。
 真樹の言葉に、稜は何も返して来なかった。
「でもね、なんかショックだった。相手の事、そんな好きじゃなくても。『別れよう』なんて言われたら、『おまえはもう要らないんだ』って言われたみたいで。……まあ、実際そうなんだろうけど。要らない人間。その人にとって必要ない人間になっちゃったんだね。あーあ、私のこと必要だって人、現れる日が来るんだろうか」
 姉にも、親友の瑠実にさえも言わなかった想い。『おまえはもう要らないんだ』と突き離された寂しさを、それでも本当は誰かに言いたかったのかも知れない。話すことで、自分の気持ちに整理をつけたかったのかも知れないと思った。
 恋愛対象にならない高校生だからだったのか、それとも自分に意見する大人ではなかったからなのか。
 彼が自分の生活とは何の接点もない相手だったからなのかも知れない。
 真樹の気持ちは、稜の前でするするとほどけて言葉になった。
「それ、相手が逃げたんだと思うよ」
 黙って聞いていた稜が手を伸ばし、真樹に向かって携帯を差し出した。
「『逃げた』?」
 それを受け取りながら、彼の言葉をそのまま返す。
「このまま一緒にいても、この人は自分を見てくれない。これから先、捨てられてしまうかも知れない。それなら傷つく前に、自分から捨ててやれ……って感じかな」
 真樹が携帯をバッグにしまうのを見ながら、稜は静かにそう言った。
「あなたが要らないんじゃなくて、ホントは欲しくてたまらないから、逃げた」
 真樹の手が止まる。しまいかけた携帯のストラップを見つめ、そこからふわりと視線を漂わせた。
 一瞬……。
 一瞬、気持ちが軽くなったのは何故だろう。
「鋭いわね。心理学者になれるかも」
 真樹はぎこちなく笑うと、稜を見上げた。
「それはどうも」
 肩をすくめ、稜が応じた。
 制服のエンジ色のネクタイが、風にあおられて揺れた。
 真樹はそれに目を留め、ハタと気づく。
「私達、まっ昼間から濃ゆい話してると思わない? しかも、あなたなんか制服着てるし。学校の敷地内で高校生とする会話じゃないよ、これって」
 照れ隠しとも苦笑いともつかない顔で、真樹は首を振った。
 こんなの、子供とする会話じゃない。この子達はまだ、そんな打算とエゴの入り混じった大人のドロドロした感情を知らなくていい。
 真樹は、喋り過ぎたことを少し後悔した。
「確かに」
 稜が一旦視線を逸らし、笑った。
「えーと、来客用の駐車場はあっち。あの建物の向こう側。一人で行ける?」
 腕を伸ばし、体ごと指で方向を指し示すと、稜は首を巡らせて真樹を見た。
「行けるわよ。じゃあね、ありがと」
 稜の指し示した方向を遠い目で追うと、真樹は礼を言い、彼に視線を戻すことなく歩き出した。


 真樹の去った方向に顔だけを向けて、稜はその背中を見送っていた。建物の角に真樹の姿が隠れてしまうと、視線だけはそのままに、肩にかけたデイパックをもう一度背負い直す。二度続けて瞬きをしてから、ゆっくりと顔を戻した。
――この間、泣いてた――
 あの日、暗い歩道の上、二人並んで立っていた。背けた顔の向こう側で、真樹が泣いているのが分かった。
『本心隠していい子ぶって……』
 彼女から投げつけられた言葉は、そのまま稜の触れたくない部分を突いていた。
 久し振りに接客の方に回されて、苛立ちを感じていた。自分に声を掛ける客は、みんな自分をまさに『雑誌から抜け出た』存在として見ていた。
 曖昧に笑いながら、ひどく苛立っていた。その感情に任せて、真樹にひどい事を言ってしまった。
 彼女が店を飛び出してから、胸の中に苦い思いが広がったけれど、彼女の涙は自分のせいだけではないようにも思えた。
 彼女を追って店を飛び出したのは、何も店長に言われたからだけではない。だけどやっと見つけたのに何も掛ける言葉を見つけられないまま、彼女は一度も自分を見ることなく走って行ってしまった。
 あれからずっと気になっていた。女の人を泣かせたのは、これが初めてではない。でも、真樹のような大人の女の人が泣くなんて、思わなかった。
 彼女の涙は、稜の心に落ちて小さなトゲになった。
 今日、偶然出会えて、あの日の事を謝ることができた。名前も聞けた。
――それで?――
 スーツの袖の下から時計を眺める、『大人の女の人』の顔をした真樹が目に浮かんだ。
――それで俺は、どうしたいの?――
 もう会うことも無いかも知れない。あの人がまた店に来る保証なんて、無い。大体、自分から誰かを店に誘うなんて、初めてだ。どうしてそんなことをしたのかさえも、分からない。
 自分でも訳の判らない混沌とした想いを持て余したまま、稜は真樹が消えたのとは反対の方向に歩き出した。