〜5〜
いつもと同じ毎日。
いつもと同じ顔ぶれ。
それでも時間は過ぎて行く。
自分の中で、時間は確実に過ぎて行く。
「水谷先輩、今夜飲みに行きません?」
退社のチャイムが鳴ると、斜め前の席の片野という女性社員が声を掛けてきた。
「今夜?」
「ええ、今夜です。三時の休憩の時に話が有ったんですけど、先輩、席外してらして」
くったくなく微笑む片野の顔を見ながら、真樹は一瞬気持ちが高揚し、そして急激に萎んで行くのを感じた。
片野は若い。去年の入社だから、今は二十二歳だろうか。仕事にも慣れ、かといってそんなにスレてもいない時期だ。本来の性格も良く女性特有の気配りもできる子で、彼女の微笑みを見ていると、何故だか真樹は自分が惨めになった。
『お褥辞退』。
心の隅に、ずっと引っかかっている。課長が言ったあの言葉も、世間一般の見方なのかも知れない。今まで自分では意識していなかったが、周りからはそういった目で見られていたのではないかと、真樹は知らない内に臆病になっていた。
「あ……悪いけど、今夜は……」
行きたくないわけではない。誘われて、一瞬嬉しかったのも事実だ。でも、この子達と一緒にいれば、嫌でも自分の歳を感じてしまう。
「いいじゃないですか、たまには。他にも何人か来るんですよ。システム管理部の池アさんとか、あとチェック室の福浦さんとか、先輩も知ってる人達ですから」
片野は自分を慕ってくれている。「先輩、先輩」と、自分を立ててもくれる。彼女は同性の自分から見ても、充分可愛らしい。
「みんな若い子ばっかりね」
一生懸命誘ってくれる片野に、真樹は苦く微笑み返した。
「歳なんてそんなに違わないじゃないですかー。先輩綺麗だから、私達の方が浮いちゃうかも知れないですよ。ね、行きましょう?」
真樹の心の中の葛藤に気付く様子もなく、片野はくったくなく言葉を並べる。
真樹はふいに、換気用に開けっ放しにして来た風呂場の窓が気になった。今夜は雨になる、と休憩室のテレビで観た天気予報で言っていた。
「やっぱりいいわ。他に寄る所もあるし、窓開けっ放しで来ちゃったのよね。誘ってくれて、ありがと」
風呂場の窓なんて、放っておけばいい。どうせ濡れてしまうんだから。換気用の延長クレセントも取り付けてあるし、窓には格子がはまっているから、防犯上も何も心配もない。
――でも私は気になるんだから――
自分の心に言い訳をして、真樹は軽く会釈をすると、バッグを取り上げて席をたった。
課長に嫌味を言われてから、真樹はことあるごとに、つい自分の年令を気にするようになった。そんな事、気にしても仕方がないと分かってはいても、坂道の上で一度転がり出したボールがなかなか止まらないように、自分でもこの気持ちをどうすることもできなかった。
帰る道すがら、途中のコンビニでペットボトル入りのお茶を買ってその袋をブラブラと揺らしながら、真樹は急ぐでもなくゆっくりと歩いた。
こんな気持ちがいつまで続くのか。
まだ若いと言い切れる自信はなかったし、もう歳なのよと割り切って言える程、諦めてしまう事はできなかった。
中途半端な自分が、この先どの位……。
いっそ家庭に入ってしまえば、こんな気持ちを持っている暇もないだろう。子育てに追われ、家事に追われて自分の為に使える時間は減ってしまうだろうけれど、家庭を守るという気概は生きる希望にもなるだろう。
だが社会に出て自分そのものを盾にして働く限り、その矢面に立って踏ん張らなければならないのは、やはり真樹自身なのだ。後ろ盾も、守るべきものもない自分は、その心の持ちようひとつで、容易にへし折れてしまうかも知れない。
先の見えない不安とやり残した事への後悔が、真樹の頭の中でぐるぐると回る。
飲みに行った片野達は、もう店に入って盛り上がっている頃だろう。
あの道を曲がらなかったら、自分の人生は変わっていただろうか。
あの時、違う選択をしていれば、今頃こんな風にコンビニ袋を下げて惨めな気持ちで歩いていなかっただろうか。
すり抜けて行ってしまった時間はもう取り戻すことはできない。けれど本当に、自分の今までの選択は本当に正しかったのだろうか……。
のしかかるような得体の知れない重圧と出口の無い思いに、真樹の足取りはますます重くなっていった。
薄い雲が白くたなびき、空が高く見える。公園の中は人影もまばらだ。暑くもなく寒くもない。
五つ並んだ内の一番端のベンチに座り、真樹は遅い昼食を摂っていた。真樹から一番遠いベンチの脇に、水飲み場がある。栓が甘いのか、蛇口からポタポタと水が滴っていた。
シフトの都合で午前中の仕事が昼休みに食い込んだ。この時間、社員食堂も閉まっている。真樹は近くのコンビニでおにぎりを二個と、最近流行りのペットボトル入りのお茶を買って、ここに休憩に来たのだった。
母子連れが真樹の前を通って行く。帽子を被り、おぼつかない足取りで歩く子供は、母親にくっついたり離れたりしながら、それでも自分で歩こうとしている。それを見守る母親も、時折厳しい声で注意をしながらも、愛情溢れる優しい眼差しを子供に注いでいた。
不意に目の前の子供が転び、火がついたように泣き出した。母親は一言二言、言葉を掛け、子供が自分で起き上がったのを確認すると、水飲み場に連れて行く。そこで子供の膝を洗って土を落とすと、バッグから絆創膏を取り出して貼ってやった。母子はまた、歩き出した。
姉の子が小さい時、まだ親元にいた自分が姉の代わりに遊びに連れ出した事も有ったと、真樹は思い出していた。
――途中で泣かれて、途方に暮れたっけ――
子供には、どうしてもその母親でなければならない瞬間がある。他人が入り込めない母と子の絆を感じたものだった。
そんなふうに自分を必要としてくれる存在が、この先の人生の上に現れるのだろうか。誰か、自分を必要として、自分もその相手を必要とする、そんな存在に巡り合えるのだろうか。
水飲み場の方から、別の水音が響いてくる。何気なくそちらに目をやった真樹は、そこに見覚えのある制服を見付けた。
後姿で、顔までは分からない。確かあの制服は、稜の通う高校のものだった。しきりに口の辺りを気にしているようだ。何度も屈みこんで口元を濡らしては、指で触っている。
――こんな時間に何やってんだろ――
母子連れが去り、他に動くものもなくなった公園の中で、真樹の目は自然にその男子生徒に吸い寄せられていた。
あれ位の頃、自分は何をやっていただろう。
好きなことに熱中するあまり、明け方近くまで起きていた翌日は、授業中眠たくて仕方なかった。けれど熱中して仕上げたことを思い出せば、口元が緩んだ。友達が家に泊まりに来て、朝まで他愛も無いお喋りをしたこともある。それは友達と自分だけに分かる絆を結んでくれた。頑張って勉強すれば成績も上がり、男女の区別なく順位が出た。努力すれば、必ず結果は自分に返って来た。
自分の目の前には、ずっとキラキラした何かが待っていてくれると信じていた。望めば、どんな願いも叶うと信じていた。
男子生徒が屈みこんでいた上体を起こし、ポケットを探り始めた。ハンカチを探しているのだろう。時折掌を振っては、伝う水滴を振り落としている。
男子生徒がくるりと上体を捻った。
「あ」
真樹は食べかけの二個目のおにぎりを手に持ったまま、そのこちら側で口を閉じる事ができなくなった。
稜だ。
――偶然って、重なるものなのね――
考えてみれば、今までだって何度も会っているのかも知れない。これまでは知らない同士だったから、そんなに気にもしていなかっただけかも知れなかった。
そういえば、真樹の会社と稜の通う高校は、それほど離れてはいない。
こちらに半分見せている彼の顔は、口元が赤くなっている。何かあったのだろうか。
真樹はバッグの中からハンカチを取り出して、彼に歩み寄る。
「使う?」
手にした食べかけのおにぎりもそのままに、真樹はハンカチを持った方の手を差し出す。ポケットを探っていた稜が、顔を上げた。
「真樹さん……どうしたの、ここ?」
ハンカチと真樹の顔を見比べながら、稜が驚いたような声を上げた。
「私の会社、あそこ。あの大きな看板の」
真樹は視線で近くのビルを指し示した。ビルの屋上には、『データ・クリエイト』と描かれた青地に白い文字の看板が、青空に溶け込むようにそびえている。
「うちの学校から近いじゃん」
それを見上げながら、稜は眩しそうに目を細めた。
「シフトの都合で、今お昼休みなんだ」
稜と同じく、会社のビルとそれに続く青空を見上げ、真樹は言葉を続けた。
「だろうね。……それ」
稜がこちらに向き直り、真樹の手の中のおにぎりを顎で指した。真樹は別に気にする風でもなく、立ったままその残りを口に押し込んだ。
「女が大口開けて、男の前でおにぎり立ち食いするかな、普通」
ハンカチを受け取りながら、稜が苦笑する。
「誰が、男?」
「俺」
真樹の醒めた問いに、稜は自分の胸を人差し指で指した。綺麗な指先だ。
「そうだっけ?」
「ヒドイ。またガキ扱いしてる」
「だって、本当にガキなんだもん」
「分かったよ。酒もタバコもだめだから、って言うんだろ? こないだ聞いたよ、それ」
「もう一個あった」
「……何」
稜が嫌そうに訊き返す。
「結婚。あなたいくつだっけ?」
「十八」
「じゃあ一応は結婚できるけど、親の同意が要るわね」
「はい、はーい」
ふてくされたように言いながら、稜は受け取ったハンカチで口元を押さえる。傷に響いたのか、顔の片方を痛そうにしかめた。
「どうしたの……って、聞かない方がいいのかな」
真樹は遠慮がちに言った。転んでできたような傷ではない。どこかにぶつけたわけでもないだろう。
「ん……、別に言いたくない事じゃないけど」
傷を押さえる手を休めず、稜は続けた。
「元カノのこと好きなヤツに殴られた。……イテテ」
「元?」
「そ、別れちゃったから、元カノ。向こうから俺のこと振ったんだよ。なのに何で俺が殴られなきゃいけないんだろ……あ、これ洗っとくね」
うっすらと血が滲んでしまったハンカチをズボンのポケットにしまいながら、稜は肩をすくめた。
「振られた理由と関係あるんじゃない?」
高校生でも、それなりの修羅場は有るんだな、と真樹は思った。でもそれは大人ほど現実味のあるものではないだろうと、自分の来た道を振り返ってみる。
「ほら、あなたが浮気したとか、彼女の気に障るようなこと言ったとか」
「浮気って……生々しいな。違うよ、そんなことしてない」
「ふーん、そうなの」
「やっぱ、アレかな。俺が真剣にあいつと向き合わなかったから……かな。真樹さんと同じ、だね」
稜の言葉に、真樹は一瞬動きを止めた。
――同じだ――
自分が耕治と真剣に向き合わなかったから、別れを告げられた。稜も彼女と真剣に向き合わなかったから、別れた。
自分の曖昧な態度が相手を怒らせてしまったんだとしても、決して自分は要らない人間になったのではないと、稜は言った。相手が傷つきたくないから、先に別れを告げたのだ、と。
同じような経験をした稜だから、言えた言葉なのだろう。本当はそういう風に、彼も思いたかったのかも知れない。
だからこの間、稜の一言でほんの少しだけ、心が軽くなったんだ。
「向こうから告白されてさ、軽い気持ちで付き合ったんだけど、なんか彼女の求めるものが俺には重いっていうか……」
近くのベンチに腰をかけ、稜は指を組んで伸びをした。伸ばした手足がやけに長い。そのまま頭の後で手を組み、口をへの字に結んで空を仰ぐ。
「自分が好きな気持ちと同じ位返して欲しい、なんて、しんどいよ。正直俺にそういうの、求めないで欲しい。俺の好きになる人は、俺が決める。向こうから一方的にバッって来られてもさ、なんか……応えられないんだよね……」
脱力したようにカクンと顎を引くと、足元の小石を足先でもてあそぶ。スニーカーの先に当たった小石は小さな音を立てて、足の届かない所まで転がって行った。
「それ、分かる。どっちかの想いが強いと、もう一方はその強さにへし折れそうになるんだよね」
真樹と耕治の関係も、そうだった。彼が好きだと言ってくれる度、却って引いてしまう自分がいた。
真樹は妙に共感してしまう自分にとまどいを感じながらも、稜の話に引き込まれて行った。
「お互いに気持ちが高まって付き合い始めたわけじゃないからさ、こっちが及び腰なのは仕方ないと思わない? まして俺は告白されるまで元カノの事知らなかったんだし……。なのに原田のやつ」
「原田?」
「ああ……俺を殴ったやつ」
頭の後から腕を外し、稜は大きく息をついた。ほんのり紅くなった左頬と血の滲んだ口元が痛々しい。
「腹いせ、かな。元カノが原田に頼んだとか、その辺じゃない? あいつら結構話、してるみたいだし」
そう言って、稜はまた口をへの字に曲げた。
「何だか私達、似たようなことしてたんだね」
子供だと思っていた稜が自分と同じ思いを抱いていたことに少々の驚きを感じながら、真樹は転がって行ってしまった小石を見つめた。ゆっくりと息を吸い込む。
「……なんで、真剣に人を好きになれないのかな」
「さあ?」
真樹のつぶやきに、稜がぶっきらぼうに答える。
「分かってたら、こんな事になってないし」
血の滲んだ口元を、引きつったように歪めた。
それきり、真樹も稜も口をつぐんでしまった。方法が分かればとっくにそうしている。同じような傷を持つ二人がこうして並んでいても、答えが見つかるとは思えなかった。
真樹は腕時計をスーツの袖から振り出すと、目を細めて時間を確認した。
「あ、またその時計の見方」
稜が少し華やいだ声を上げる。
「大人の女だとか何とか言うんでしょ。こんなの、時計見る時は誰でもこうなると思うけど。私の特許じゃないわよ」
真樹はつっけんどんにそう言うと、立ち上がってスーツの皺を手で払った。
「もう行かなきゃ。じゃあね」
今日はちゃんと目を見て、別れの挨拶をした。この間より稜がほんの少し、大人に見えた。
「ハンカチ、返さなくていいから」
そう言って、真樹は視線を外した。自分を見上げる稜をそのままにして、体の向きを変える。視界の端で、稜が立ち上がった。
「店、来てよ。マジで。こないだのお詫びに、おごるからさ」
背中に稜の声が追いすがった。
「子供におごってもらう程、困ってないわよ」
首だけを巡らせ、大人の笑みを見せて真樹は言った。このまま店に行かなければ、もう会うこともないかも知れない。
何故だか少し、心の端っこがちぎれたような気がした。