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あなたが、好き。


〜6〜


 下校のチャイムが鳴って、生徒達がわらわらと校舎の中から溢れて来る。友達と並んでお喋りをしながら楽しそうに帰る者、自転車に乗って、徒歩の生徒をよけながら走っていく者……。
 その制服の群れの中に、稜がいた。黒いデイパックを片方の肩にかけ、ポケットに手をつっ込んでいる。背筋をピンと伸ばし、肩でリズムを取るようにして歩いて行くその姿を見かけると、一部の女子生徒の輪の中から密かに華やいだ声が上がった。
「稜、明日な!」
 自転車の生徒が、彼を追い越しながら、その背中に声を掛けた。
「おう、明日なー」
 稜も軽く手を上げ、それに応じた。口元の傷は、もうない。
 自転車を見送り、脱力したように下げた手が、すぐ脇を通り過ぎようとした女子生徒の腕に当たった。
「きゃ……」
「あ、ごめん」
 当たった所を確認するように覗き込みながら、稜は謝った。そんなにひどく当たったわけではないが、もし自分の爪などで怪我をさせていては大変だ。どうやら制服の袖に当たっただけらしく、女子生徒の手には傷はなかった。
 傷付けていないのを確認すると、稜はゆっくり彼女の顔に視線を移す。
 女子生徒がこちらを見上げた。その口が何かを言いかけて不意にやめる。みるみる内に口元にとまどったような不自然な笑みが貼り付けられた。
「え……と、三年の……稜さんですよね?」
 相手は当たった手のことなど眼中にないように、話しかけて来た。可愛い系の顔立ちで、くるくると動く瞳が綺麗だ。
「あ? ええ、そうだけど」
 怪訝そうに稜は言った。
「……ですよね! 私、雑誌で見ました、あなたのこと」
 女子生徒の顔がパッと輝く。年下だろうか。同じ学年の中には見ない顔だ。生徒数が多すぎる上、学年ごとに棟が分かれているので、異なる学年の者まではなかなか覚えられない。
「もうモデルのお仕事はされないんですか?」
 女子生徒が期待のこもった眼差しを稜に向ける。
――またか――
 稜は内心困ったことになったと思いながら、曖昧な笑みを浮かべる。
「ウチの学校、バイト禁止でしょ。それで引っ掛かっちゃって、今休業中」
 校則知ってるでしょ、と、稜は胸ポケットから少しだけ頭を覗かせている生徒手帳を指先でトントンと叩いた。
「じゃあ高等部を卒業したら、再開するんですね!」
「うーん、わかんない」
 ますます期待に満ちた目を向けられ、稜は言葉を濁した。
 二年前――まだ稜が一年生になったばかりの時に、雑誌のモデル募集に誰かが勝手に応募し、通ってしまった。母親が元モデルだったという事もあり、あながち縁の無い世界ではなかったので、すんなり溶け込んだように思う。『稜』という下の名前だけで、一年くらい仕事を続けただろうか。だが彼の通う学校ではアルバイトが禁止となっている。ちょっとした騒ぎにもなって、何度も生徒指導部と話し合いが持たれた。そしてモデル事務所とも話し合った結果、籍だけは所属するものの、高等部卒業までのしばらくの間、休業という事になったのだった。その頃には雑誌だけでなく、テレビ番組のオファーが来はじめていた。
 入っていたスケジュールを消化し終えたのが、結論が出てから四ヶ月後。あれから半年以上経つ。同学年の者の間では何となく触れてはいけない話題になっているようだ。誰もその事については訊かないし、稜自身も自分から話題にすることはなかった。
「カッコ良かったです、稜さん。すごいファンだったんですよ。この学校を選んだのだって、サイトで調べて受験したんですから。やっと会えて嬉しいです」
 女子生徒の唇から、白い歯が零れた。
「事務所のプロフには載ってない筈だけど……?」
「調べようと思えば、いくらでも調べられますよ。掲示板だってありますし」
 相手はすっかり舞い上がっている。店に来る客と同じだ。雑誌の中で流行りの服を着てポーズをとっている男が目の前で生きて動いているというだけで、有頂天になっている……そんな顔だ。
「そりゃ、ありがとう。あのさ、悪いんだけど俺がこのガッコーにいるって事、なるべく内緒にしといてくれる? あんま、騒がれたくないんだ」
 覚えていてくれて悪い気はしない。だが同時に、心の中のどこかに寒い風が吹いたように感じた。稜自身、今はあまりこの話題に触れたくないとも思っている。
「じゃ、俺はこっちだから」
 短く声を掛けると、稜は校門を出たところの横断歩道の手前で立ち止まった。
「あの……っ!」
「何?」
 呼び止められ、たった今そこから視線を外した相手を再び振り返る。
「あの、良かったら私と付き合ってくれませんか?」
 肩越しに見る女子生徒の顔は、上気している。だがその表情からは、自信のようなものが感じられた。
 可愛い顔立ちだが、それを自分でも充分承知していて、武器にしている……そんな様子だ。その笑顔の裏に見え隠れする自信が、少し鼻につく。稜の好みではなかった。
「うーん……俺、もうそういうの、やんない事にしたんだ。ごめんね」
 悪いとは思ったが、稜は淡々と言った。
「でも……」
「キミさ、俺の何を知ってるわけ?」
 言い募る相手に、稜は先ほどの寒い風がまた心の中に吹き始めたのを感じた。
「え……と、いろいろ……雑誌とかネットで」
「雑誌やネットに出てたことなんて、ウソかも知んないじゃん。それ信じて、キミは俺と付き合いたいっていうの? ホントの俺のことなんて、顔以外知らないでしょ? 今会ったばっかだし。それに、俺もキミのこと、知らない。知らないから付き合えない」
 風は次第に強さを増し、荒れ狂う。稜は言葉を選びながら、それでもしっかりと意志を伝えようとした。
「でもっ! 付き合って、それから私のこと知ってくれれば……」
 女子生徒が一歩踏み出す。縋るような視線が、心に痛い。
「『私を知って欲しいの』の次は『私を見て欲しいの』になって、『私があなたを好きな分だけ、あなたも想いを返して』になるんだ。参るよ。もうほんと、勘弁」
 元カノの時もそうだった。断りきれずに付き合ったけれど、それはだんだん負担にしか思えなくなってしまっていた。相手を信じられず愛することもできない自分がいる以上、曖昧に流されて付き合うことはお互いに良くないと思えた。
 女子生徒の顔が一瞬曇り、眉間に皺がよる。泣き出さなければいいが、と思って見ている稜の前で、彼女の唇が不自然に歪む。
「……女の人、だめなんですか?」
 それは笑みのようでもあった。
「はぁ?」
「男の人の方がいいとか」
 断られたら牙をむく。小馬鹿にしたような残忍な笑みを浮かべた女子生徒は、既に先ほどまでの彼女ではなかった。
――既視感。
 こんなことを、今まで稜は何度も経験してきた。メディアの向こうの人間。カメラの向こうで自分を商品として買う、お客。
 最初は宝物でも見るような眼差しで見るくせに、自分のものにはならないと分かった途端、こちらの心などお構いなしに酷い言葉を突き付けて来る。
「俺、ノーマルだけど」
 稜は顎先を上げ、目を細めて相手を見た。
「そういう事もあんまり言って欲しくない。噂ってすぐ広まるからさ。それが嘘であれ、本当であれ。俺はまだ、商品だから」
 カメラの前に立つ時のように自分の心を強く作り、別な人格を装う。向こうが商品として自分を見るのなら、自分も商品としてそれに応じよう。一番カメラ映りの良い角度を相手に向け、稜は挑むように女子生徒を見た。


 強く断れば、報復される。諦めて受け入れれば、相手を信じ愛せない自分の心に苦しむ。適当に付き合ってみても、相手の想いに応えられない自分に気づいてしまう。
――どうすりゃいいんだ――
 女子生徒は気圧されて逃げるように去って行った。それを横目で見送り、稜はため息をついた。瞳からは先ほどの力は失せてしまっている。
――ほんと、勘弁――
 自分はここにいる。日々生きて、普通に暮らしている。たまたま雑誌に載る仕事をして、顔と名前が売れて、メディアの向こう側を覗いたという、それだけの存在。
『あなたは、商品なのだから』
 あちこちの現場を忙しく飛び回っていた頃、事務所の人間に言われた言葉。きれいなパッケージに包まれた自分は、スタッフの作り上げた商品なのだと。
 顔はもちろん、肌も髪も指も身体も、そして私生活でさえ、およそ稜の持っている全てのものが商品なのだと。
 そこには自分の心の入る余地はない。傷ついても疎ましく思っても、次の撮影の時には顔を上げて胸を張って、またカメラの前に立たなくてはいけない。
 確かにそうだ。だがその言葉は、見えないトゲのように心のどこかに突き刺さり、事あるごとに小さく疼く。
 一度商品として世に出てしまった自分は、もう戻れないのか。
 昔の自分のことなど、誰一人として知る者のいないところに行きたい。
 そうしたら、神鳥稜という人間をもう一度最初から生き直せるかも知れない。
『ガッ』
 稜は消火栓標識の赤い支柱を蹴った。むしゃくしゃした気持ちをどこにぶつけたらいいか分からない。ガードレールの支柱、転がっている缶……。歩きながら、手近にある物を手当り次第蹴って行く。足の裏がジンジン痺れて熱くなった。
「ご機嫌斜めじゃねーか」
 突然背後から声を掛けられ、腕を力いっぱい掴まれた。
「っ……てっ! 何すんだよっ」
 片方の肩にかけていたデイパックがずり落ちて、腕にぶら下がる。
 稜は自分の腕を掴んでいる相手を振り返った。
「……おまえか」
 稜は口の中で小さく舌打ちした。稜の斜め後ろから咎めるような視線を投げかける男子高校生。ふわふわとした髪が柔らかそうで、険のある顔立ちではないのだが、その瞳には嫌悪の色が見てとれる。この間稜の顔にあざを作った張本人、原田優だった。
「神鳥、話がある。来い」
 原田は腕を掴んで引っ張って行こうとする。
「またあの話だろ? もう終わったことだ。それにおまえには関係ない。あれは俺と美緒との間の事だ」
 それを勢い良く振り払い、稜は再びデイパックを背負い直した。
「そう思ってるのはおまえだけだ。美緒はまだおまえのこと……」
 原田がまた稜を掴まえようとする。稜は腕を回して、それを避けた。
「美緒をおもちゃにすんなよ」
「おもちゃになんか、してない。振られたのは、こっちだ」
 やった、やってないの押し問答だ。どちらも一歩も引かない。
「んな事ないだろ! あいつ、泣いてた。お前があいつとちゃんと向き合ってやらないから……だからあいつは傷ついたんだ! おまえだって分かってるだろ。あいつが別れようなんて言ったの、本心じゃなかったって」
 原田に言われなくたって分かっている。分かっているけれど、どうにもならないのだ。美緒に別れようと言われて、正直ホッとした自分がいた。自分と同じだけ好きになってくれとせがむ、無言の瞳から逃れられて……。
「しかたないだろ。俺にどうしろって言うんだよ。美緒と同じだけあいつの事、好きになれなかっただけじゃないか」
 こっちだって苦しいのに。
「それが傲慢だってーの! 誰でもおまえにはいい顔するから、いい気になってんじゃねーのか? 適当に遊んでやれって気持ちだったんだろ。美緒はお前が付き合いを承諾しなかったら、俺んとこに来るって言ってたのに……!」
 原田の言葉に、稜は耳を疑った。
「はぁ? 何、そんな保険かけてたの、あいつ?」
 初耳だ。
「違う! 俺が付き合ってくれって言ったんだ。そん時に『好きな人にコクって、玉砕したら付き合ってあげる』って、冗談で。 俺、それでもいいって言ったんだ。待ってるって」
 原田は悔しそうに言った。
「……」
 稜には返す言葉がなかった。自分が軽い気持ちで付き合いを承諾しなければ、美緒も原田もそして自分も、違った道を歩いていたのかも知れない。そう思ったら、何も言い返せなくなってしまった。
「おまえさえ、中途半端にあいつにいい顔しなけりゃ、あいつも泣かなかったし、俺だって……!」
 払い除けるのを諦めた稜の肩を、原田が両方の手で掴んだ。
「どうしてだよ! 途中で放り出すくらいなら、何で付き合ったりしたんだよっ」
 そのまま思い切り突き飛ばされた。稜はよろけて歩道に倒れこんだ。運悪く縁石の角に足が当たり、制服こそ破れなかったものの、すねに酷い痛みが走った。
「おまえのこと、もっと好きにさせて……忘れられなくなる程好きにさせといて、それで切るくらいなら……」
 原田が拳に力を込めた。白くなる程握り締め、倒れた稜の上で振りかざす。
「優、やめて!」
 鋭い声が飛んだ。原田が声のした方に目を向ける。同じ学校の制服を着た女子生徒が、肩で息をしながらそこに立っていた。
「美緒……。なんでだよ。おまえを泣かせたヤツだろ、こいつは」
 原田が拳を握ったまま、再び稜を見る。
「それ以上やったら、あたし優を嫌いになる。もう友達だなんて思わない」
 凜とした声で、美緒が言った。
「友達……?」
 原田の拳が緩んで解けた。稜はその下で手をつき、縁石の上に腰掛ける。足が痛んでうまく力が入らない。
「友達、ね……」
 苦く笑うと、原田は稜を一瞥(いちべつ)し、ゆっくりと離れて行った。


「稜……」
 美緒が稜を見下ろした。
「……っ痛」
 稜はズボンの裾をめくって自分の足を見た。縁石の角がまともに当たったらしく、血が滲んでいる。何かで押さえようとハンカチを探す。
「怪我……した?」
 自分のデイパックからハンカチを取り出し、美緒が心配そうに傍らにしゃがみ込んだ。傷に手を伸ばす。
「ほっといてくれ」
 それを邪険に振り払って、稜は顔を背けた。
「あいつに俺殴らせて、それで気が済んだ?」
 硬い声で、稜は言った。
「殴られたの?」
「この前、学校半休だった日に。おまえが頼んだんだろ、原田に」
「あたし、頼んでない。優が勝手にやっただけ。あたしが泣いてるとこ、優は見てたから」
 美緒の言葉に、稜は少しだけ顔を戻した。
「……ごめん。俺、はなっからおまえが頼んだんだって決め付けてた」
 まだ硬い声だったが、その視線は泳ぐように彷徨いながらようやく美緒の顔の上にとまった。
「血、出てる。拭かなきゃ」
 じわじわと濃くなって行く赤色に、美緒は自分のハンカチをその傷に押し当てた。
「俺との事は終わったんだろ? お前の方から別れようって言って来たんじゃないか。もう……俺に関わるな」
 美緒の手をゆっくりと押し戻し、稜はズボンの裾を元に戻した。まだ痛かったが、なるべく力を入れないようにして立ち上がる。
「そんな事言わないで。あたし、やっぱりまだ稜が好き。やり直そ? ね?」
 遅れて立ち上がりながら、美緒が稜に取り縋るように見上げた。
「俺ん中では、もう終わってるんだって」
 稜は、相手の目を見ない。
「だってあたし……まだ……。別れようって言ってから気が付いた。あたし、まだ稜が好きなんだって。稜がいなきゃ、ダメなん……」
「二度目は、ない」
 稜は美緒の言葉を途中で遮った。
「……」
 彼女は縋るような目をしたまま少しだけ唇を開き、何かを言おうとした。だが稜の強い調子に、何も言えずにただその顔を見つめるだけだった。
「ごめん。でも、これ以上想ってもらっても、おまえが辛くなるだけだから。おまえが想ってくれる程、俺は想いを返してあげられないから」
 やっと美緒の目を見返すと、稜は足を引き摺りながら彼女から離れた。
 湿った風が、雨の匂いを運んで来た。