〜7〜
雨が降っている。朝のうちは晴れていたのだが、午後になって泣き出しそうな空模様になり、先ほどからポツポツと降り出したのだ。
「天気予報は、ハズレね」
真樹は信号待ちの車の中で、小さくため息をついた。
今日は買い物をして帰ろうと、自分の車で出社した。シルバーの軽自動車。コンパクトなのによく走る。狭いスーパーの駐車場でも停められ、駐禁でさえなければ、道路脇に停車していてもあまり邪魔にならない。街乗りにはもってこいの車だ。
今日は営業部の車がどれも空いていなくて、真樹は外回りをするのに自分の車を使っていた。外注手配の関係で、急に何件か回らなくてはならない用件ができたのだ。
あと一件回れば帰社できる。そんなに時間のかかる用件ではないので、残業も一時間程度で済むだろう。今頃社のみんなは、定時を迎えている頃だ。
雨がだんだん激しくなってきた。フロントガラスに叩き付けられた雨粒は、ワイパーにすくい取られる前にガラス面に広がって、視界をさえぎる。予期せぬ雨に、傘を持たない人達は前屈みになって走って行く。
「コンビニに傘あるのに」
見れば数件先にコンビニがある。傘には用はなかったが、温かい缶コーヒーでも買おうと、真樹はコンビニの駐車場に車を乗り入れた。一番端のスペースに前進で停める。
店内に入り、ブラックの缶コーヒーと、眠気覚ましのガムを一つ、手に取った。仕事中なので、そんなに時間を掛けるわけにはいかない。レジでお金を払うと、お釣りを待つ間、真樹は何気なくドアの方に顔を向けた。
彼女の瞳が一点で止まる。
「まさか、ね」
真樹の唇から、小さな呟きが漏れた。
「……お客様?」
お釣りを渡そうと、レシートと一緒に差し出した店員が、怪訝そうな顔でこちらを見ている。取り繕ったような笑顔を浮かべてそれを受け取ると、真樹は財布を開きながら、またドアの向こうに視線をやった。
そんな偶然が続くわけがない。二度はあっても、三度目はないだろう。
ドアの横、ゴミ箱の脇に、こちらに背を向けて立つ長身の制服姿。空を見上げているのか、長めの髪が肩にかかっている。それを見て、真樹は思わず失笑した。
稜の学校の制服だ。確かにここは、あの学校の近く。だがそこに立つ男子生徒が、稜本人だなんて……そう何度も偶然が重なるわけがない。
――別に会いたいわけじゃないわよ――
店の中から覗く真樹に、彼は気づいていないようだ。清算済みのコンビニ袋を中指に掛けたまま、真樹はしばらくその様子を窺った。
空を眺める後姿が携帯を取り出した。何事か話した後、すぐにそれをポケットにしまい込んだ。
「あ、時間」
真樹もいつまでもそうしているわけにはいかない。ドアを押し開け、すれ違いざまに一瞬だけ制服の彼を見上げる。
顎のラインが綺麗だ。だがすぐに真樹は自分の車の方に体の向きを転じ、ボタンを押してロックを外すとすばやく乗り込んだ。
顔はよく見えなかった。真樹とは反対の方向を、彼は見ていた。
スタートスイッチを押し、エンジンを掛ける。カーオーディオから流行りの曲が流れ出した。
雨はまだ降り続いている。
車のフロントガラス越しに目を離せないでいる真樹の前で、制服の彼が顔を正面に戻した。
「……!」
真樹は絶句した。
そこにいるのは紛れもなく、稜。濡れた髪から雫が垂れている。雨の中をここまで歩いて来たのだろう。時折恨めし気に空を見上げては、肩で息をついている。
女子高生だったなら、これだけの偶然が重なれば、二人の間に運命を感じていたかも知れない。だが真樹は、運命を信じるには現実を見過ぎていた。
物憂げな表情がどこか痛々しい。止みそうもない雨が、一層彼の表情に影を落とす。
真樹は車のエンジンを止め、ロックを外した。雨の中、車外に出てドアを閉め、自分もコンビニのひさしの下に走りこむ。
「何やってるのー?」
真樹は稜に向かって声を掛けた。雨音に紛れてそれは聞き取りにくいものとなったが、彼は漂うような視線を真樹に向けた。
「あ」
稜は口を開けたまま、驚いた顔でこちらを見返している。新しい雨の雫が、前髪から落ちた。
「真樹さんだ」
独り言とも問いかけともつかない言葉が、稜の口から零れた。
「よく会うわね。雨宿り?」
「んー、ちょっと帰るの遅くなったら、降られちゃって」
真樹の言葉を機に、稜はまた恨めしそうに空を見上げた。
「傘……」
真樹は自分の車を振り返った。
「貸そっか? ビニール傘買うのも馬鹿らしいでしょ」
稜の返事も待たず、真樹は車のドアを開けて置き傘を取り出した。紺色で、男子高校生が持っても違和感はなさそうだ。
「はい、これ。返すのはいつでもいいから」
稜の手に傘を持たせ、真樹は笑顔を作った。稜は一歩も動かず、真樹から手渡された傘に視線を落としている。何か変だな、と真樹は思った。
「それ、真樹さんの車?」
「そうよ」
「あのさ、頼みがあるんだけど。傘貸してくれるより、この車で送ってくんない? 俺ん家まで」
稜は顔を上げ、傘を押し戻すようにして、軽い調子で言った。
「だめ。私これからまだ一件回るところが有……」
「お願いします」
断る真樹の目をしっかりと見据え、少し前屈みになって畳み込むように稜が言い募る。紺色の傘を握り合ったまま、二人はしばらく睨み合うように向かい合っていた。
「だ、め!」
たった二文字の言葉を歯切れよく言うと、真樹は傘から手を離した。
「ちぇ」
稜は仕方なくといった風に傘を受け取ると、巻きをほどいて柄にあるボタンを親指で押す。破裂するような重い音とともに、紺色の花が咲いた。
彼が一歩踏み出す。
「あれ?」
その動きがぎこちなく見えて、真樹は思わず口を開いた。
「どうしたのよ、その足」
「何でもなーい」
抑揚なく拗ねたように言って、稜はそのまま行こうとする。真樹はその制服の背中を掴んだ。
「何でもないわけないでしょ。ちょっと待って」
「ホントに何でもないから。ほっといてよ」
振り返りもせず、強情に歩いて行こうとする稜。真樹はその背後で小さく息をついた。
「……わかった、送ってあげる」
声のトーンを低くして、真樹は言った。
先ほどの暗い表情も、雨のせいだけではなかったようだ。濡れた髪から雫が落ちているのも同情を誘い、一層自分が酷い事をしているような気分にさせられる。こんな姿を見せられて、真樹は彼を放っておけなくなってしまった。
「いいの?」
子供のような無邪気な顔で、稜が振り向いた。さっきとは随分態度が違う。
「その足……辛いんでしょ。送ってあげるから、乗って」
諦めたような表情で、真樹は自分の車を視線で指した。今度は滅多に使わないリモコンでロックを解除する。
「やった。感謝です、恩にきます。あ、ところで一件回るとこ、大丈夫? 何なら俺乗っけたまんま行ってもいいよ。帰り遅くなってもいいから」
饒舌に話し、足を引き摺りながら、稜は車に近づいた。ドアを開けてシートに腰を落とす。
「冗談。やーよ、誰かに見られたら何言われるか分かんないもの」
続いて真樹が運転席に乗り込んだ。
「どうしても今日回らなきゃいけないわけでもないし、時間も遅いから明日にする。えーと、ちょっと待ってね、会社に電話するから」
ドアを閉め、バッグの中から携帯を取り出す。連絡先から会社の番号を呼び出した。数秒間の沈黙が、車内を満たす。稜が黒いデイパックの中から粒ガムを取り出し、口の中に放り込んだ。
「もしもし。データ管理部の水谷です。内線、一、三、六お願いします。……はい。……あ、片野さん?」
下を向いて話していた真樹が、不意に稜を見た。稜は指先につまんだ粒ガムを彼女に向かって差し出し、眉根を上げる。それを目線で断って、真樹は続けた。
「助かったわ、いてくれて。残業? ……そう。丁度良かった、あなたに頼みがあるの。私、今から直帰するから、ID通しておいてくれる? 今日の報告書は明日の朝一で提出します。……え? ああ、その件は片付いたから。大丈夫、私一人で何とかなったわ。じゃ、お願いします」
短いやりとりの後、真樹は耳から携帯を離して終話ボタンをタッチした。ピッという音の後、また車内は静かになった。
「仕事してる人の話し方だったね」
ガムを
咀嚼しながら、稜が首を傾げてこちらを見た。濡れた前髪が頬に貼り付いている。真樹はダッシュボードの中からタオルを取り出して彼に渡すと、唇の端を申し訳程度に引き上げた。
「当たり前じゃない。本当に仕事してる人なんだから」
ギアをバックに入れ、アクセルを踏む。静かなエンジン音と共に、車がゆっくりと後退を始めた。適度に下がったところでブレーキを踏み、ドライブに入れようと、ギアに手を伸ばす。そこに稜の膝があった。
「こら。この車小さいんだから、もうちょっと足閉じて」
稜の足が邪魔になってギアが入らない。不用意に手を伸ばせば、彼の足に触れてしまう。真樹はつっけんどんに言いながら、わざと音を立ててその膝を叩いた。
「痛っ!」
タオルを使う手を止め、稜が恨めしそうにこちらに視線を向ける。
「あ、それとシートベルトもちゃんとして。減点されるの私なんだからね。肘もこっち出さない。運転し辛いでしょ。全く、今の子は手足だけは長いんだから」
「ありがと、俺そんなにカッコいい?」
真樹の悪態をさらりと流しながら、稜は膝を揃えた。軽自動車に押し込むには、彼の手足は長過ぎるようだ。ダッシュボードに膝がつきそうになっている。
「違ーう。誉めてない!」
カカッと小気味良い音を立てて、真樹はギアを入れた。
「家、どっち?」
駐車場の出口で一旦停止し、真樹は周りの様子を窺いながら訊いた。
「ここ、右。桜町の方、知ってる?」
「あー、知ってる。私の家越えてちょっと行ったところだわ」
真樹は右ウインカーを出した。
「そこにでっかいマンションが五棟並んで建ってるでしょ。桜の宮ハイツって……あれのB棟」
「……って、それ、超高級マンションじゃない。あなたの家、お金持ちだったの?」
真樹は驚いて、思わず隣に座る稜の顔を見た。
桜の宮ハイツは十五階建てで、一棟に百五十世帯が入居しているマンションだ。各戸のセキュリティーは万全で、インターフォンを鳴らした訪問者の顔写真を全てパソコンに保存しておける。キーも特殊なもので、絶対に複製ができないと聞いた。確か一戸当たりの販売価格は、最低でも六千万円はするという噂だ。
「かもね。あんな私立に行かせてもらえてるぐらいだし。まあ、あんま俺には関係ないと思うけど」
「はは……関係ない、ね」
乾いた笑いが真樹の口から漏れた。車の切れ目を見計らって、道路に滑り出す。
「ちなみにそこの何階なの、あなたの家は」
「十五階の端っこ」
「最上階の、角部屋……」
ここまでくると嫌味だ。真樹は自分のアパートを思い出し、そのあまりの違いにひきつった笑いを浮かべるしかなかった。
「今、何か思ったでしょ」
妙な具合に唇を歪める真樹に気付き、稜が彼女の顔を覗きこむ。
「でもそれは、俺とは関係ないから。俺がマンション買ったわけじゃないし、そんなの親の財産だもん」
言われてみればそうだけど。確かにあの学校に通っている生徒達は、それなりの年収と地位のある家の子供ばかりだった。真樹は自分の入力したデータを思い出して納得する。
信号が黄色から赤に変わり、真樹は車を停めた。アイドリングの微かな振動が、座席の下から這い登ってくるようだ。
稜が足を気にしている。ズボンの裾をめくった。真樹はその動きにつられるように、視線を彼の足に移す。
赤色が目に入った。
「怪我? ひどいじゃない。血出てるし」
稜の足に滲む赤色を見つめ、真樹は眉根を寄せた。破れて赤く染まる皮膚の周りは赤黒く変色し、腫れている。これでは歩くのは辛いだろう。
「大丈夫だよ。舐めときゃ治るって。……信号、青だよ」
裾を戻し、稜は信号を顎でしゃくった。真樹は顔を上げ、一旦稜の顔を見る。彼は無表情のまま、前を向いていた。信号を確認し、車をスタートさせる。
「大丈夫じゃないって。制服も汚れちゃうし。私の家通り道だから、寄ってく? 確か救急箱があったはずだから……とりあえず血だけでも止めておかないと」
前を向いたまま、真樹は頭の中で救急箱の中身を思い返していた。
まだ雨は止まない。
真樹はメゾネットタイプのアパートの玄関前に車を横付けし、ロックを外した。
「そこの角の部屋の前で待ってて。車、駐車場に入れてくるから」
駐車場はアパートの前にもあるが、真樹に割り当てられたのは裏側にあるものだ。雨の中、足の悪い稜を歩かせるのは可哀想だと思い、玄関先で降ろした。
長身の彼がポケットに手を突っ込んだまま、肩を丸めるようにして立っている。車を発進させ、ふとバックミラーを見ると、下を向いた彼の姿が小さくなっていった。
捨て犬のようだ、と思った。
雨の中、濡れてぐしゃぐしゃになったダンボール箱の中で、拾ってくれる人を待ち続ける小さな仔犬。
角を曲がると、その姿も見えなくなった。
駐車場に車を停め、先ほどの置き傘を手に取る。雨に濡れた紺色の傘は、真樹の膝をも濡らした。
真樹は小走りに自分の部屋の玄関へと急いだ。パンプスのかかとがカツカツと音を立てる。アスファルトに広がった水溜まりが、跳ねを上げた。
――早く家に上げてあげなくちゃ――
何故だか、そんな気になっていた。
「ごめんね、今開けるから」
手にしたままのキーホルダーから玄関の鍵を引き出すと、真樹は鍵穴に差し込んだ。二つ開錠し、ドアを開ける。先に入った稜が、窺うようにして玄関を見回した。
「もたもたしない。あんまり人に見られたくないんだから」
彼の足を気遣いながらも、真樹はその背中をせっついた。真樹が一人暮らしなのは、お隣さんにも知られている。制服を着たままの稜がこの部屋に上がるところを、なるべく人に見られたくなかった。
「若い男引き込んだと思われるから?」
稜が靴を脱ぎながら振り返った。
「そうよ。ご近所の噂って怖いんだから。まだまだ私、引っ越すわけにはいかないの」
真樹もパンプスを脱ぎながら応じる。稜の体を回りこむようにしてスリッパを手に取ると、彼と自分の前にそれぞれ一足ずつ置いた。
「あ、初めて男って認めてくれた」
稜がからかうように言う。
「周りから見れば、の話よ。男か女か、って訊かれたら、男でしょ?」
「おっしゃる通りでーす」
何言ってるのと、鼻もひっかけない様子の真樹に、稜は諦め顔で同意した。
「そこ、座って……って言いたいけど、足大丈夫? 座れる?」
真樹は稜をリビングに案内した。
「ごめんね。うち、ソファとかないから」
フローリングの床の上に、丸いカーペットが敷いてある。その真中にショーケース付きのガラステーブルが置かれていた。中にはアクセサリーの類がどこかの店のショーケースに飾られた商品のように綺麗に並べられている。
「ん、大丈夫。この座椅子使っていい?」
チェックの座椅子に手をかけ、稜が訊いた。
「ええ、いいわよ」
真樹の返事を待って、稜は座椅子に腰を下ろした。低い視点から、ぐるりと部屋を見回す。白い壁に淡い色のフローリングで、明るい色調にまとまっている。最低限の家具しかない部屋は、とても広く感じた。
「こうやってソファとか置かないと、広く見えるね」
稜は天井を見上げた。
「そうでしょ? ソファって結構場所とるのよ。それに座椅子があれば割と楽に座れるし」
「うん。すごく楽。フローリングにはソファって、決まってるわけじゃないもんね。これもイイかも」
「ありがと」
真樹はローボードの中から救急箱を取り出した。それに気付き、稜がズボンの裾をめくる。
「ちょっとしみるよ」
そう言って、真樹は消毒液を吹きかけた。垂れ落ちる雫を脱脂綿で受け、稜の顔を窺った。
「どう?」
「……平気」
眉間に皺を寄せ、稜が答えた。
化膿止めの薬をガーゼに塗り、傷を覆う。テープで止めて、上から包帯を巻こうとする。
「大袈裟だよ」
稜がそれを断った。
「じゃあズレないように、もっとテープ貼っとこうか」
「それも勘弁。テープは取る時、痛いし。ほら、これ」
稜は自分のすねを指差した。
「毛か」
「毛です」
「そりゃ、痛いわね」
真樹は一旦引き出したテープを元に戻し、納得した。
「ズレなきゃ、それでいいから。ありがと」
稜が裾を戻す。それを見ながら、真樹は救急箱を片付けた。
「例の彼女の友達? 原田くん、だったっけ」
訊くともなしに、訊いた。
「ん……まあね」
稜は首を伸ばすようにしてうなずいた。
「ひどい事するのね」
「……でも、俺もいい加減な事してたからいけないんだし」
稜の頭の中に、原田の言葉が甦った。
『おまえさえ、中途半端にあいつにいい顔しなけりゃ、あいつも泣かなかったし、俺だって……!』
「原田に言われちゃったよ。自分でも思ってたけど……俺ってやっぱ、いい加減なやつなんだわ」
稜は膝を抱えた。
「なんか、嫌だな。あなたがそんな事言うと、私まで否定された気分になる。私達、同じような事してるんだから」
真樹も稜の隣に座り直した。所在なさげに軽く絡ませた自分の指先に視線を落とす。
「人を真剣に好きになれない、って?」
稜は揃えた膝の上に頬を乗せ、真樹を見た。
「うん。私達似てる。どうしてそうなったのかって理由はお互いに違うと思うけど、やってる事はそっくりだわ。私は……」
真樹は指を解き、視線を外した。それは漂って、稜に行き着く。お互いの視線が絡んだ。
「私はもう諦めちゃってるのかも知れない。心の奥底で、人を好きになる事を」
カーテンの向こうでは、雨音が続いている。
お互いの中にお互いの存在を認め合い始めている事に、この時の二人は気づいていなかった。