〜9〜
夕食を食べ終えると、外はいつの間にか暗くなっていた。真樹の作った簡単手軽なインスタント物アレンジコースを綺麗に完食し、それでもまだ足りなさそうな稜を見て、真樹は席を立った。
「これ、とっておきなんだから」
そう念を押し、冷凍庫の中から茶色い何かを出して稜に向かって投げて寄越した。
「アイスだ。これ、高いヤツだよね」
見事にキャッチしたそれを稜が手の中で転がしながら眺めていると、真樹は台所からスプーンを持って来る。それが一つだけなのを見て、稜は怪訝そうな顔をした。
「真樹さんは? アイス、食べないの?」
「言ったでしょ? それはとっておき。どうしても食べたい時のための秘密のアイスなんだから、一個しかないの」
「じゃあ、俺が食べちゃったら真樹さんの分、無くなっちゃうじゃん」
慌てて手の中のアイスを、真樹に返そうとする。
「いいのよ、どうせダイエット中だし」
真樹はそれを掌で押し返した。眉根を上げて、未練はないとばかりにニッコリと笑って見せる。
「へえ、ホントにダイエットなんかしてんだ」
またも寄越される、しげしげという音が聞こえてきそうな視線。
「嘘言ってどうなるっていうのよ」
真樹は少しだけ憤慨したような低い声で応じた。
「……誰のために?」
不意に聞こえた問いかけは、今までの口調とは違っているように思えた。
「え?」
思わず、稜の顔を見る。
「……なんちって」
そう言って思い切りよく蓋を取った稜の視線は、もうアイスに釘付けだ。スプーンを持って、また『いただきます』のポーズを取る。一口すくっては美味しそうに口に運ぶ稜を眺め、さっきのはやっぱり聞き違いだったのだと真樹は思った。
テレビも今日はあまり面白い番組が無い。お決まりの顔ぶれが並ぶバラエティ番組をついダラダラと最後まで観終わったところで、真樹は飾り棚の上に置いた時計を見た。針はもうすぐ十時になるところだった。
「そろそろ時間、マズいんじゃない?」
いくら夜中まで誰も自宅に居ないのだと言っても、制服を着た高校生があまり遅くまで外にいることは感心しない。真樹はコマーシャルに変わったテレビ画面に視線を戻しながら、暗に帰宅を勧めた。
「んー……」
聞いているんだかいないんだか、判らない声が返ってくる。真樹は声の主を見て、呆れてしまった。
「あらま……。気持ち良さそうな寝顔だわ」
お腹が膨れると、人間、誰しも睡魔に襲われるものだ。稜も座椅子に背中を預けたまま、静かな寝息を立てていた。
「この子がモデル……ねえ」
至近距離で、目鼻立ちの整った顔を見下ろす。長い睫毛に縁取られた瞼を開けば、その下には力強い瞳が隠れているのだろう。滑らかな肌は、女であるこちらが気後れしてしまいそうなほど綺麗で、ああやっぱりモデルさんなんだな、と思わせる。
「辛かったんだね」
さっきは言えなかった言葉。懸命に今の状況を受け入れようとしている稜の中の張り詰めた想いを崩してしまわないように、呑みこんだ言葉。
真樹はその柔らかそうな髪に手を伸ばし、そっと触れた。母親が子供にするように、頭を優しく撫でる。触れた髪は、想像した通り柔らかかった。それは傷つき易い稜の心を表しているようで、何故だか哀しくなる。
「ん……真樹、さん?」
稜が身じろぐ。真樹はとっさに手を引っ込めた。二、三度ゆっくりと瞬きをした後で、稜は薄目を開けた。
「今、何時?」
「もうじき十時になるところよ」
言いながら、真樹は窓の外を窺う。雨はまだ降り続いているようだ。激しい雨音が、テレビの音声に負けない位の音量で聞こえて来る。
「俺、そろそろ帰るわ」
長い手足を見せ付けるように伸ばし、稜はひとつ、欠伸をした。
「じゃあ、ちょっと待ってて。車まわしてくるから。その足で雨の中走るの、辛いでしょ」
真樹は立ち上がると、バッグをテーブルの上に置いた。中からキーケースを取り出すと、玄関に向かう。振り返ると、稜が立ち上がろうとしているところだった。
「ゆっくりでいいよ。そんなに早く戻って来られないから」
足を庇いながらの稜を気遣い、真樹はそう声を掛けてドアを開けた。
外は相変わらずの雨だ。来た時よりも幾分雨足が弱くなっているものの、暗闇が辺りを支配している分、余計に雨の音が際立って聞こえる。
稜が待っているからと、真樹はパンプスの踵を気にしながらも、その中を走り出した。
閉まってしまったドアの向こうで、足音が遠ざかって行く。あの調子では、多分真樹は走って行ったに違いない。
稜は、下睫毛に溜まった生理的な涙を指先で拭う。
「走ったりしたら、跳ねが上がっちゃうだろ」
真樹の履いているパンプスは、たぶん合成皮革なんかじゃなくて本革だ。雨に濡れたら大変なのに……と、稜は要らない心配をしてみる。だがそれが、自分の為に急いでくれているからなのだということも判るから、唇の端がなんとなく持ち上がってしまう。
「ふ……」
意味もなく、笑みが零れた。本当は、ちゃんとした意味があったのだろうけれど。
視線をテーブルに戻せば、目の前に真樹のバッグがある。横のオープンポケットから携帯がはみ出して、今にもテーブルの上に転がり出そうだ。
「またかよ」
ちゃんとマグネットが付いているのに留めていないから……などとブツブツ言いながら、それを拾い上げる。おそらく革製であろうカバーの中から覗く赤いメタリックなボディが、颯爽と仕事をこなす真樹に良く似合っているような気がした。
いけないとは思いながら、カバーを開く。指紋認証をかけていないようで、電源ボタンを押せば待ち受け画面に照明が灯り、桜の花の写真が映し出された。
「今時、これ……?」
もうとっくに桜の時期は終わっている。けれどその写真を見つめている内に、それが真樹にとても良く似合っているように思えた。
『ピ、ピ、ピ……』
何度かボタンを押してやると、画面に番号が表示された。
「不用心ですよー」
操作しながら稜はつぶやく。新しい機種だから、機種変更したばかりでまだカスタマイズし終わってないのかも知れない。
セキュリティをしっかりしていない携帯なんて、簡単だ。適当にどこかのボタンを押してやれば、どの機種でも機能なんて似たりよったりだから直感で操作ができる。稜は表示させた真樹の番号を自分の携帯に登録した。そこから真樹の携帯に発信して自分の番号を登録すると、バッグのオープンポケットにそれを戻した。
マグネットをきちんと留め終えたところに、真樹が玄関のドアを開けて顔を覗かせた。
「車、まわして来たよ」
そう言って小首を傾げる彼女は、稜が今まで自分の携帯を触っていたことには気付いていないらしい。
稜はテーブルの上の真樹のバッグを拾い上げた。
「これだけでいい?」
少しだけそれを持ち上げ、眉根を上げて見せる。
「あ、ありがと。ゆっくりでいいからね。無理しないで」
声を掛けた真樹に、稜は綺麗な笑顔で応じた。
最速でワイパーを回しているのに、雨はフロントガラスを覆って視界を悪くする。真樹はいつもよりも慎重に、ハンドルを握った。
車は住宅街を抜け、田舎道を走って行く。街灯の少ないその道は、田んぼの真ん中を突っ切って、真っ直ぐに伸びていた。ヘッドライトの中に浮かび上がるアスファルトの路面は、雨に濡れて一層黒く沈んで見える。それでも真樹の部屋を出た時と思えば、幾分雨足が弱くなっていた。
「これがうちから桜の宮ハイツまでの近道なのよ。暗いし人通りも少ないから、絶対に車の時にしか通らないけど。……あなた、いつもは何で学校まで通ってるの? 自転車とか?」
前を向いたまま、真樹は尋ねた。特別興味があるわけでもなかったが、何か話していないと間がもたないような気がしたのだ。
「バイト入れてる時は、行きはバス。帰りは店長の奥さんが帰るついでに送ってくれるんだ。遅くなるとバスなくなっちゃうし。バイトの無い日は、チャリで通ってる」
「ふうん。それって面倒臭くない? 家を出る時間がその日によって違うわけでしょ」
「ホントは面倒臭いんだけどね。でも母さんが許してくれないんだ。昼間はいいけど、最近は夜遅くなると男でも危ないからって。ホラ、俺はまだ『商品』らしいから、顔に傷でもつけたらいけないとか思ってんだろ」
「あ、そっか。今は休業中なだけだって言ってたわね」
「う……ん、戻るかどうかは分からないんだけどね」
そんな勿体無いと言おうとして、何気なく覗き見た稜の横顔がいつになく真剣だったから、真樹は言葉を呑み込んだ。
メディアの向こう側を覗いて、嫌な目にも遭ったと言っていた。そんな場所に再び戻ることを、稜が何の愁いもなく望んでいるとは思えなかった。
――『商品』、か――
自分を商品なのだと言い切ってしまう稜の胸の中には、どんな想いがあるのだろう。もう一度覗き見た稜は、まだ表情を崩していない。唇を引き結び、凜とした眼差しで行く先を見据えるその顔は、未成年なのにとても大人びて見えた。
綺麗な顔立ちだ。母親が心配するのも分かる。
「お母さんは、あなたがモデルをやることに賛成なのね」
子供の芸能界入りに、反対する親は多いと聞く。そんな中で、稜の母親は、息子がそんな世界に身を置くことに賛成しているのだろうか。
「ウチは母さんもモデルやってたから」
なんてことはない、といった感じでサラリと稜は言った。
「へ……え。血は争えないってところね」
だからこんなに綺麗なんだと、稜の白い頬を横目で窺い、真樹は納得した。
「ちなみに、今はモデル事務所も経営してる」
「ふうん。じゃあ……」
母親の経営するモデル事務所に所属していたのかと訊こうとして、真樹は不意に言葉を濁した。彼の口調があまりにも他人事を話す時のように淡々としていて、感情が見えてこなかったからだ。本当はこんな話題、嫌だったのかも知れない。立ち入ったことを聞きすぎたかと、真樹はそれきり口をつぐんでしまった。
稜もそれ以上、自分から何かを言い出す気配はない。暗い車内に、沈黙が降りた。
「あっ」
不意に真樹が小さな声を上げた。続いて嫌そうに顔をしかめる。
「どしたの?」
車の心地よい振動に、眠りの世界に引き摺り込まれそうになっていた稜が、半分霞のかかった頭をヘッドレストから起こした。
「蛙!」
「え?」
子供の頃にはよく聞いたものの、高校生になった現在では記憶の彼方に葬られていた名詞に、稜の頭の中の霞が一気に晴れる。怪訝そうな顔で、真樹を見た。
「それが、どうしたのさ?」
「蛙、踏んだ」
「……」
「これっくらいのヤツ」
前を向いたまま真樹は左手で小さな円を作り、眉間に皺を寄せる。
「蛙ぅ? 分かんの? あんな小っさいの踏んで」
嘘だろ、と稜が鼻で笑う。
「分かるわよ。ピョンピョン跳んで来るのが見えたもの。それにハンドルにね、こう……プチッて感じが伝わって来た」
真樹は肩をすくめて見せた。
「プチッ……って……うえ。なんか、想像しちゃった」
稜の頭の中に、濡れて黒々とした路面に横たわった、やけに白く光る蛙の轢死体が思い浮かんだ。
「やめてよー。私も想像しちゃったじゃない」
「そっちが先に言ったんだろ。決めた。俺、免許取っても絶対に蛙踏まない」
「私だって踏みたくて踏んだわけじゃないわよ」
真樹も、抗議の声を上げた。
少しの沈黙の後、どちらからともなく笑いが漏れる。轢かれた蛙には申し訳ないが、気が付けばさっきまでの重たい空気がいくぶん和らいでいた。
車は桜の宮ハイツB棟のエントランスから伸びる車寄せに横付けにされた。車寄せの下に入れば雨に濡れる事無く乗り降りができる。さっきよりも随分雨足が弱くなったとはいえ、濡れないで済むのは有り難かった。豪奢な造りのマンションに似つかわしく、その向こうに見えるエントランスホールも大理石をふんだんに使った贅沢な造りになっている。真樹の軽自動車の小さな車体が、ここで見ると余計に小さく思えた。こんな場所には、大きな外車や高級国産車のセダンタイプが似合いそうだ。
「ここの、最上階の角部屋なのよねえ」
フロントガラスにおでこをくっつけるように身を乗り出し、真樹は暗闇にそびえ立つマンションの建物を見上げた。知らない内に、ため息をついていたらしい。稜が苦笑いをするのが聞こえた。
「言ったでしょ、これは親の財産。俺が買ったわけじゃないんだから」
「でもねえ……庶民にとっては、こんな所で暮らせるなんて、夢のまた夢なのよ」
フロントガラスからおでこを引き剥がし、真樹はハンドルを両腕で抱いてその上に顎を乗せた。
「でもどうしてこんな所に住んでるあなたが、バイトなんかしてるの?」
視線だけを動かして、稜を見る。彼も顔を僅かに動かして、真樹を見た。
「ウチは『小遣いが欲しい』って言ったら、何も訊かずにポンッとくれちゃうワケよ」
「ふーん、それならバイトなんかする必要ないじゃない」
「だから、余計にそんな事、言えないワケ」
ヘンな理屈、と思いながら、真樹は曖昧に微笑む。分かったような、分からないような話だ。
――要は、ポンとくれちゃうようなお金は要らないってことね――
そう心の中で言葉にしてみれば、なんとなく納得もいく。それは稜の小さな意地なのだろう。
「今日はありがと。夕飯、美味しかった」
細かく頷くようにしてそう言うと、つんつんと伸びる前髪がそれに合わせて揺れる。稜はドアを開け、足を庇いながら降りた。そうして彼は腰を屈め、開け放ったままのドアからひょこっと顔を覗かせた。
「……またね」
低いトーンの声と共に寄越される視線がいつになく真摯だったから、真樹も『また』は無いかも知れないのだ、なんて否定できなくなる。
「あ……ええ、また」
軽く微笑んで、片手を上げた。同じく片手を上げて振り返した稜が軽い音をさせてドアを閉めると、真樹は不可解な戸惑いから逃れるようにアクセルを踏んだ。
『カッチ、カッチ、カッチ……』
ウインカーの音が、流行りの曲が流れる車内に響いた。
一人になってしまうと、車内はとても暗く感じた。来る時に通った田舎道を走る気がしなくて、真樹はちょっと遠回りながら街灯の多い大きな道を選んだ。
さっきまで隣に在った無駄に長くて邪魔な手足の主は、豪奢なマンションに消えていった。今頃は昇りのエレベーターを降りて、ドアの鍵を開けているのだろうか。
「ちゃんと帰れたかな」
あそこからなら、痛む足を庇いながらでもそんなに辛くはない距離だ。帰れない筈がないのにと、真樹は自分の独り言を頭の中で打ち消した。
――そういえば、アイスあげちゃったんだっけ――
とっておきの秘密のアイスを稜に食べさせてしまったことを思い出し、途中のコンビニに車を停めた。とっておきのアイスは、ちょっと贅沢をしていつもよりも高めのものを選んだ方がいい。そうすれば、勿体無くてなかなか食べる決心がつかないから。
アイスとペットボトルのミネラルウォーターを買って、真樹はコンビニを後にした。
景色が見慣れたものへと変わり、メゾネットタイプのアパートが真樹の目に入ってくる。車を駐車場に入れると、もう雨はあがっていた。
アスファルトを踏むパンプスの硬い音が、静まり返った住宅街に響く。水溜りを避けて跳ぶように歩きながら、真樹は玄関にたどり着いた。
鍵を二つ開錠し、ドアを開ける。灯りの消えた部屋に、さっきまでの温かな空気の名残はなかった。
真樹は急いで電灯のスイッチを点ける。
誰かが傍に居るということは、それだけで心が温かくなるものなのか。二人で食べた今日の夕食を思い返せば、家族と離れて一人暮らしをする真樹の胸に、一層寂しさが募った。
――この部屋で耕治と食事した事なんて、あったっけ?――
もう別れてしまった恋人を思う。この部屋に彼が上がることは少なく、いつも彼の部屋か外で食事をしていた。
ワンタンの匂いが微かに鼻腔をくすぐる。キッチンのシンクの中で、使用済みの汚れた二人分の食器が水に漬けられていた。それを見てやっと、さっきの夕食は現実のものだったのだと思える。真樹はバッグをテーブルの上に置き、シンクの片付けを始めた。
洗剤で食器を洗い、水を出そうとしたその時、不意に携帯の着信音が聞こえたような気がした。コックを下げて水を止める。やはりバッグに入れたままになっている携帯から着メロが流れていた。真樹は手近に有ったタオルで手を拭きながら、バッグの中から携帯を取り出した。
いつもそうしているように、発信者を確認する。
『神鳥稜』
「えっ……なんで? ……どうして?」
発信者として表示された名前に、真樹は驚いた。混乱した頭で、それでも指先は通話ボタンを押す。
「はい」
『もしもーし?』
携帯の小さなスピーカーから聞こえてきたのは、少し機械的に処理された稜の声だった。
『真樹さん? 今、家?』
「今帰ったとこだけど……」
『そう、無事に帰れたんだね。よかった』
相手が安堵の息を吐いたのが分かって、真樹は少しだけ唇の端を緩めた。こうやって人に心配してもらえているのだと感じると、心が温かくなる。
『きっとコンビニでアイスでも仕入れてるんじゃないかな、と思ってさ。で、この時間にかけてみた』
携帯の向こう側から、稜の声が小さく笑った気配を感じる。
「買ってたけど……」
『やっぱ、買ってたんだ!』
向こう側の小さな笑いは、爆笑に変わった。
「あのさ……」
『あ、これ俺の番号』
訊ねたいことは山ほどある。口を開きかけた真樹の言葉を遮って、稜の声が楽しそうに告げた。
「……分かってるわよ。名前、出てたから。でも問題なのは、どうして私の携帯にあなたの名前が表示されてるかって事なんだけど」
『ははは、バレましたか』
全く悪びれた様子もなく、あっけらかんと稜は笑った。
「バレてる! 登録したでしょ、私の携帯に、あなたの番号!」
真樹は不快感いっぱいに、眉間に皺を寄せる。そんなことしたって、相手に見えるわけではないけれど。
『ピンポン』
脱力を誘うような、軽い応えが返って来た。
「……卓球じゃないっつーの」
真樹は低い小さな声で呟く。
電話の相手は、人の携帯を勝手に触っておいて、全く悪いとも思っていないようだ。見識の違いに力が抜けそうになるのを堪えようとすれば、思わず子供の頃に聞いたさむいギャグが口をついて出た。
『古いねー、今時そんなオヤジギャグ、流行らないよ。引かれるだけだって』
それさえも稜は一笑に付す。
「とにかく! どうして!」
一言も謝る気配のない相手に、真樹は声を荒げた。『まったく今時の若いもんは』という、どこかの年寄りが言いそうな言葉が、さっきから頭の中でリフレインしている。
今回のことは、絶対に自分に非はない。……はずだ。
まあ、置きっぱなしにしたりして、携帯の扱いはあまり丁寧ではなかったかも知れないけれど、だからって勝手に触っていいってことにはならないはず。
携帯を触られただけなのに、自分の心の中まで触られたような気がした。顔が赤くなるのが、自分でも分かった。
『おふくろの味コースが食べたくなったら、また電話するから。あなたからしてくれてもいいよ、俺に食べさせたくなったら……』
電話の向こう側で、また稜が勝手なことを言っている。真樹は自分の堪忍袋がパンパンに膨れて破裂寸前なのを感じた。
「ならない!」
ダメだ。大きな声を出したら、破裂したみたい。肩で息をして、落ち着こうと努力してみる。
「もう、頭に来た。勝手なことばっかり言って。話にならないわ。じゃあね」
努力は無駄だったようだ。落ち着こうと声を低くしても、余計に怒りが増してしまったように思える。怒りと羞恥で混乱しながら、真樹は早々にこの不毛な会話を終わらせようと、携帯を耳から外す。
『切らないで!』
スピーカーから、稜の叫ぶ声が聞こえた。それが今までとは違って真剣なものに聞こえたから、真樹は思わずそれを自分の耳に戻してしまった。
『だってさ……』
「なによ」
応じながら、ひとつため息をつく。話に区切りをつけようとしたことで、少し冷静さが戻ってきたようだ。
『こうでもしなけりゃ、また偶然真樹さんと逢える保証なんてないじゃん。俺、逢いたいもん、真樹さんに』
「……」
素直に吐き出された言葉に、真樹は何かを言いかけて、そのまま呑み込んだ。すぐさま、間がもたないわ、と思いなおす。
「あなたねえ……」
何か言わなくちゃ、と思っても、やはり言葉は出て来ない。真樹はまた、ため息をついた。
『どうしてなのか分からないけど……安心するんだ、真樹さんといると。あなたの傍は、とても居心地が良くて……。逢ってそんな時間経ってないのに、こんなこと言うのも変だけど』
稜が言葉を選びながら、とつとつと語る。今もたぶん、細かく頷きながら話しているのだろう。それに合わせて揺れる前髪が、真樹には見えるような気がした。
誰かの居場所になる。それは必要とされること。
失くしてしまった自分の価値が、そこにあるような気がした。
「……もういいわ。分かった。携帯、勝手に触ったこと許してあげる」
必要とされることは、たぶん真樹にも必要なことで。だから自分はそれを利用するのだ。真樹は自分の汚さに、少しばかり眉根を寄せた。
稜の、澄んだ瞳が胸をよぎる。さっき感じた汚さの向こう側の心で、純粋にあの瞳がもう一度、笑ってくれればいいと思った。
『ほんと? 良かった』
スピーカーから聞こえる声が弾む。
『で、……』
少しの間があいた。相手がひとつ、息を吸うのが聞こえた。
『また逢ってくれる?』
少し鼻にかかった、落とした声のトーンは、何だか艶めいて聞こえた。真樹はドキリとしながらも、高校生なんて子供なんだから、と自分に言い聞かせる。
「仕方ないわね。いいわよ」
わざと大袈裟にため息をつきながら、真樹は言った。
『……仕方なく、なの?』
それが縋るようなものに聞こえて、真樹はふと、さっきまで稜が座っていた座椅子に目をやった。
寝ている彼に向かって、辛かったんだね、と呟いた自分がいた。あの時、手を伸ばし触れた髪は、想像した通り柔らかかった。それは傷つき易い稜の心を表しているようで、少し哀しくなった。
「ごめん、言い方間違えた。今度はちゃんとした夕飯、作るからね」
真樹は背筋を伸ばし、明るい声で、茶化すように言った。
『間違えた、って……ひどいな、傷つくな。じゃ、今度は何がなんでもおふくろの味コース』
真樹につられたのか、稜も明るく言った。
「わかった。じゃあね」
これ以上、引き摺られない内に。顔を見ることができないから、余計にスピーカーの向こう側の彼を想像してしまう。どんな顔をして話しているんだろうかと、考えてしまう。
自分が必要だと言われたからなのか、それとも……。
いや、今は余計なことは考えたくない。
真樹は、もう切るわよ、と告げた。
『じゃ、また電話するね』
稜も素直に応じ、通話は切れた。
『また』なんて言わなければ良かったのかも知れない。
真樹は大人の女の人で。自分には手の届かない場所に居る人で。
だけど、あの時に感じた安らぎは、手放したくないと思った。あの温かい手を、もう一度感じたいと思った。
「俺の、わがままなのかな」
ふと視線を落とせば、制服のエンジ色のネクタイが目に入った。
まだ制服に縛られている自分。そんな自分は、真樹の目にはどう映っているのだろうか。
茶化していても、真剣にぶつかっていっても、真樹はスルスルとかわしてしまう。
稜はまだ握ったままの携帯をズボンのポケットにしまい込んだ。
真っ暗な窓の向こうに、街の灯りが瞬いて見えた。