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あなたが、好き。


〜10〜


 真樹は相変わらず、仕事に精を出していた。むしろ、以前よりももっと、のめり込んでいたと言ってもいいかも知れない。
 「また電話する」と稜は言ったが、それから二週間、彼からの電話はなかった。こちらから電話するのも躊躇われ、「忙しいから」と自分に言い訳をして、そのままにしてしまっていた。


 仕上がったばかりのデータを持って、真樹はチェック室に来ていた。物件によってはデータ管理部で行なうだけでなく、こうして他の部署で何重ものチェックをかけてクライアントに引き渡すものもあるのだ。
「水谷先輩、この頃なんだか怖いですよ?」
 仕事を担当者に手渡して、部屋を出て行こうとする真樹に、隣の席から声がかかった。視線を巡らせば、福浦が仕事の手を止め、崩した笑いを浮かべてこちらを見上げている。だがその笑いはちっとも嫌味ではなくて、むしろ好感が持てた。
 二十四歳の誕生日を迎えたばかりの彼は、真樹の後輩であるデータ管理部の片野と仲が良い。付き合うところまでは行っていないが、お互いに好意を抱き合っているのは、傍目からも見て取れた。
「え? そう?」
 その笑いにつられるように、真樹も笑った。『怖い』なんて言われて笑い返している自分もどうかしていると思ったのだけれど。
「怖い程、データが正確。もう、人間コンピューターかって言うぐらい」
「何よ、それ」
 その例えの古めかしさに、真樹の笑みが深くなる。
「おかげで俺らは楽させてもらってるんですけどね」
 福浦が悪戯っぽく言う。
「楽なんてしちゃ、ダメよ。ちゃんとベリファイかけてくれてるんでしょうね?」
 真樹の瞳が少しだけ険しくなる。福浦は目を見開き、片手を上げて目の前でブンブンと振った。
「当たり前っスよ。ちゃんとしてますって。でもここんとこ続けて持って来てくれたデータ、十二件ともミスなし。これって新記録ですよ。でもって、只今記録更新中」
 指に挟んだノック式のボールペンをクルクルと器用に回しながら、彼は大きくひとつ頷いた。
「そりゃ、私、頑張ってるもの。負けてたまるもんですか、っての」
 拳を握り、小さくガッツポーズをして見せる。途端に福浦が破顔した。


――負けてたまるもんですか、っての。
 真樹は廊下を歩いていた。チェック室から真樹の所属するデータ管理部へは、廊下をしばらく歩かなければならない。廊下に敷き詰められた毛足の短いカーペットを踏む自分の足音を聞きながら、真樹は苦く笑った。
「誰によ?」
 先ほどの福浦との会話を思い出し、自分の言葉に突っ込みを入れる。幸い真樹の他に、誰もここを歩いている者はいなかった。
 何に対して、自分は負けまいと頑張っているのだろう。
 神経質そうな、ウチの課長? 自分よりも若い後輩達? それとも前に進めずに縮こまっている、自分自身にだろうか。
 同期入社の女性社員は、一人、二人と辞めていった。そのほとんどが結婚退職である。
 今時それも無いだろうと真樹は思ったのだが、転勤族との結婚では、どうしても女の方が仕事を続けることを断念せざるを得ない。こうした一見華やかそうだが実は地味なIT産業の中に身をおいていると、出逢う男は社内か、もしくはクライアントに限られて来る。
 社内結婚であれば、夫婦が同じ会社にいるというのは都合が悪いことが多い。またここのクライアントは、あちこちに支社を持つ大会社がほとんどなのだ。そしてそこには転勤という非情なシステムがある。
 気が付けば、いつの間にか真樹は同期の中で最後の一人になっていた。
 負けまいと前を向いて一生懸命にハードルを跳んでいたら、知らない内に一人ぼっちになってしまっていたような気持ちだ。
「負けちゃった方が、良かったのかな……」
 端から見れば、自分は可愛げのない女なのかも知れない。頑張れば頑張る程、孤立していくように思える。
 結婚退職を夢見ているわけではないけれど、キャリアウーマンを目指しているわけでもなかった。ただ、与えられた仕事をミスなくこなし、自分にできることを精一杯やろうとして来ただけだ。
 大きな会社や外資系では、こんなことはないのかも知れない。だが真樹が勤めるような規模の会社では、いまだに暗黙の内に男女の格差があるのだ。
 男であれば評価されることが、女であるばっかりに評価されない。そればかりか、可愛くないとさえ思われてしまうなんて……。
 会社だけではない、人々の意識の下にも、そんな格差は潜んでいる。
 何てつまらない世の中なのだろう。何も煩わしいことを考えなくても良かった、学生時代に戻りたいと真樹は思った。


 チェック室に持って行ったのとは別件のデータを上げて自分でチェックをし終わった頃には、定時近くになってしまっていた。真樹は机の上を大雑把に片付け始める。
「水谷先輩、今日こそ飲みに行きましょうよ」
 斜め前の席の片野が真樹に声を掛けた。あと少しとは言え、まだ退社時刻前なので、小さな声である。真樹と片野の他は、この席の並びに座っている者はいない。皆、どこか他の部署に用事で出掛けているのだろう。
「え……? 私は……」
 真樹は言い淀んだ。この前の誘いも断ったのだ。あまり断り続けると、片野が気を悪くするかも知れない。
 机の上に向けていた視線を、片野に向ける。彼女の表情がいつもと違って真剣なものに見え、真樹は目が離せなくなってしまった。
「ええっと、他には誰かいるの?」
 思わずメンバーを訊ねてしまった。それを聞いてしまった後で断れば、その内の誰かと仲が悪いのかと勘繰られてしまうかも知れない。真樹は、しまったと思った。
「いえ、先輩と私の二人だけで」
 そう言った片野は、どことなく落ち着きがなく、いつものくったくのない微笑みが見られない。真樹は引っ掛かりを覚えた。
「わかった。私はもう終われるけど、そっちは定時にあがれそう?」
「大丈夫です。じゃあ、ロッカー室を出たところで待っていて下さいね」
 片野が言い終わるや、退社時刻を告げるチャイムが鳴り始める。真樹はパソコンの電源を切り、クリーナーでディスプレイとキーボードを拭いた。備品を全て引き出しの中にしまってから机の上も綺麗に拭き、「お先に」と部屋の皆に声をかけてデータ管理部を後にした。


 今日の真樹は、車で出勤したのではなかった。飲んで帰るには都合が良かったが、ふと考えれば、それを知っていて片野は自分を誘ったのかも知れない。
 ロッカー室を出たところで待っていると、片野が少し遅れてやって来た。
「どこに行く?」
 真樹はできるだけにこやかに訊いた。
「先輩、お勧めのお店ってあります?」
 片野の言葉に、つい先日別れたばかりの耕治とよく行った店を思い出す。だが即座に真樹は、それを打ち消した。
 耕治とあんなことが有った後だ。別れの場面を彩った店の風景の中に再び身を置く勇気が、今の真樹にはなかった。
「私は特に……。片野さんは、どこか良いお店知ってる?」
 暗く沈んでしまいそうな思考を無理やり引き上げるように、真樹は言った。
「じゃあ、最近良いお店見つけたんで、そこにします?」
「いいわよ、どこでも」
 あなたに任せるわ、と真樹は微笑んだ。


 片野が真樹を案内したのは、小洒落た洋風居酒屋だった。店内に入って初めて、ここが稜のバイト先の店だったと知る。この間は精神的に参っていた上、行き当たりばったりに入ったので、ろくに店の外観を覚えていなかったのだ。
 入ってから「しまった」と思ったのだが、今更引き返そうと言えば片野に勘繰られてしまう。一人ならまだ良かったが、会社の人間と一緒の時に稜に会ったりしたら、何と言えば良いのか分からない。
 できれば稜に会いませんように、と願いながら、真樹は片野に続いて入り口近くの席に座った。なるべく顔を上げないようにして、テーブルの隅にあるメニューを広げた。
 すかさず盆を持ったウエイターが近寄って来る。コトリと小さな音を立てて、テーブルにお通しとおしぼりを置いた。
 その整った指先に、真樹はどきりとする。稜ではないかと恐る恐る視線だけを上げて見ると、そこにいたのは微かに営業用の笑みを浮かべた別人だった。
 そう言えば彼は、いつもは厨房を手伝っていると言っていたではないか。ここからは死角になって厨房は見えない。真樹が見つかることも無いだろう。
 ほっと、安堵のため息をつく。
「先輩、大丈夫ですか? 飲めます?」
 片野はそれを体調の悪さととったのだろう。席の向かい側から、心配げに真樹を見ている。
「いえ、大丈夫よ。ちょっと疲れたかな。それだけ」
「じゃあ、何を飲みます? とりあえず、ビ……」
「ねえ、チューハイ飲まない? 美味しいのよ、このカシスのが」
 片野の唇が「ビール」と動く前に、真樹はそれを遮った。
 とりあえずビール、と頼むのは、耕治の癖だった。誰でもそうなのかも知れないが、今はあまり聞きたい言葉ではない。
「先輩、前もここに来たことあるんですか?」
 片野が不思議そうに見つめる。真樹はまた、「しまった」と思った。この間ここで飲んだカシスのチューハイが美味しくて、あれから市販の似た様なテイストの缶チューハイを買った程気に入ったのだ。
「家でね、缶チューハイ飲んだのよ。カシスのだったんだけど、それが美味しくて。健康にもいいそうよ」
 真樹は何とか誤魔化した。別にやましいことをしているつもりは無いが、稜のこともある。あまり彼と知り合いであることを、他の人に知られたくなかった。
 それに前にも来たことがあると知ったら、「いいお店があるんですよ」と連れて来てくれた片野が、がっかりするかも知れないと思ったからだ。
「そうですか。私もそれ飲んでみようかな」
 片野は何も疑うことなく、真樹に笑顔を向けていた。
「じゃあ、カシスのチューハイを二つ。それから焼きなすと手羽先を二人前お願いします」
 真樹は片野に確認しながら、待っていたウエイターに注文を告げる。小さく会釈すると、ウエイターは盆を持って店の奥に下がって行った。
「で、どうしたの? 何か話があるんじゃない?」
 お通しに箸をつけながら、真樹は話を振った。片野が言いにくいのなら、こちらから水を向けてあげようと思ったのだ。
「はい……えっと」
 いつもは柔らかい雰囲気ながらもきっぱりした所もある片野だが、今日は歯切れが悪い。真樹はお通しから片野に視線を移した。
「先輩にこんなこと相談しても迷惑かな、とは思ったんですけど……私、福浦さんから付き合って欲しいって言われて……」
「うん? それで?」
「ほら、あの人ってちょっと調子の良いところがあるじゃないですか。誰にでも愛想いいですし、話し易いから人気も有るし……だから本気なのかな、と思って」
 そう言うと、片野は頬を染めて目を伏せる。真樹はそれを可愛いと思った。こんな可愛い仕草をされたら、男なら護ってあげたいと思うだろう。真樹自身は、絶対にできない仕草だ。羨ましい、と思う。
「ちゃんと福浦くんから付き合って欲しいって言われたんでしょ? だったら迷うことないじゃない」
 真樹は明るく言った。今、ほんの少し心を掠めた、醜い思いに蓋をして。
「それにね、端から見てると、二人はお似合いよ。福浦くんも絶対あなたにぞっこんよ。……あ、ぞっこんなんて言葉、今はあんまり使わないか」
 真樹の言葉に、片野が笑って首を横に振る。
 ウエイターがチューハイと焼きなすを運んで来た。けずり節の良い匂いが鼻腔をくすぐる。
 片野と真樹は、チューハイのジョッキを手に持ち、小さな声で乾杯をした。
「大丈夫、彼は根は誠実な人だから、社内の女の子にその気も無いのに声なんて掛けないわよ。リスク大きいんだから、社内恋愛は」
 そう言って、ジョッキを持ったまま片眉を上げて見せる。
「それにね」
 真樹はジョッキを持ち上げて、チューハイを一口含んだ。
「あー、美味しい。……そうそう、それにね、あなたも福浦くんのこと、好きなんじゃないかと思うんだけど……どう? 当たり?」
 真樹は自分でも何故だか今日は良く口が回るな、と思った。アルコールのせいではないだろう。だってまだそんなに飲んでいないのだから。
 タン、と軽い音を立てて、テーブルの上にジョッキを置く。中身のチューハイは半分に減っていた。
「当たり……です」
 片野がジョッキに指を添えたまま、ますます頬を染めて俯いた。彼女のチューハイはまだほとんど減っていない。
「なら大丈夫よ。どっちが先にそういう想いに気付いたのかは知らないけど、お互いの中でお互いを認め合ってるってことでしょ? 全く知らない人から告白されるより、ずっといいじゃない」
 焼きなすに箸を伸ばしながら、真樹は言った。
――そう、全く知らない人から告白されるよりも。
 自分と耕治の出逢いがそうだった。面識は有ったものの、言葉を交わしたのは数えるほどだったのに。そんな自分を彼は好きだと言ってくれた。付き合うことにした後も、彼の中で真樹に向けられていた時間に、真樹自身が追いつくことはできなかった。
 稜もそうだった。なまじ顔が知られているばかりに、全く知らない人から告白される。相手の中で密かに育まれた時間に、彼が追いつくことはできなかった。
――いやだ、何であの子のこと思いだしてるのかしら――
 この店に入ってから、稜のことばかり気にしている。真樹はそんな自分に呆れ、箸の先に乗ったままの焼きなすを、思い切り良く口の中に放り込んだ。
「有難うございます、先輩。私、なんだか元気が出ました。社内の人と付き合うのって、大変だって友達から聞いてたものだから、及び腰になっちゃって……」
 片野が申し訳なさそうに真樹を見た。
「その友達、正解ね。大変よ、社内恋愛って。だからこそ真剣にならざるを得ないんだけどね」
 ほら飲んで、と片野を促す。勧められるまま、彼女はジョッキを傾けた。
「……幸せになれるわよ、あなたなら」
 ジョッキの向こうの片野の顔を、アルコールの熱の回った瞳で眺めながら、真樹は薄い笑みを唇に刷いた。


 片野は化粧室に行くと言って席を外していた。テーブルの上には氷が溶けて薄くなったチューハイのジョッキが二つと、綺麗に食べられて、汁だけが残った皿が置かれている。
 間を持たせるために、いつもより多めに飲んだ。でもそんなに酔っていないと思う。後輩と二人だからという気遣いからよく話したけれど、それは大人の気遣いの範疇(はんちゅう)だ。
 真樹はスーツの袖から腕時計を振り出した。針は九時半を指している。そろそろお開きかな、と思った。
 手元に引き寄せようとバッグに手を掛けた時、それが微かに振動しているのに気付いた。
――誰?――
 真樹は携帯を手に取った。店に入る時にマナーモードにしたのだ。着信音は鳴らないけれど、バイブレーターが赤いメタリックなボディを震わせている。いつもそうしているように、カバーを開いて発信者の名前を確認した。
『神鳥稜』
 三週間前からこの携帯の連絡先に加わった名前が表示されているのに、真樹は驚いた。たった今も、彼がバイトするこの店にいるというのに。
 通話ボタンを押す。
「もしもし?」
 真樹はテーブル毎に仕切られている衝立の陰に隠れるようにして、小声で応じた。
『真樹さん? ああ、やっと出た。さっきから電話してるのに、全然気付いてくれないんだもんな』
 恨みがましい声が聞こえる。
「仕方ないじゃない、マナーモードにしてあったんだから。今、店の中にいるのよ」
 真樹は小声で抗議した。
『うん、知ってる』
 電話の向こうの稜が、微かに笑った気配がした。
『連れの人、今化粧室だよね。混んでるみたいだから、当分帰って来ないんじゃない?』
 真樹は驚いて顔を上げた。
 それを知っているということは、稜はこの店にいて、自分と片野のことを見ていたのだろう。ウエイターの中にその顔はなかったから、厨房にいるに違いない。
「どうして私が来てるって知ってるのよ。あなた、厨房でしょ? そこからだと、ここ、見えないでしょうに」
『店長が教えてくれたんだよ。あと、真樹さんのテーブルにお通し持ってったウエイターも、真樹さんのこと覚えてた』
 稜がくすくす笑う気配がする。真樹の顔にカッと血が上った。頬が火照るのが分かる。これは、怒りではない。羞恥だ。
「え! そうなの? やだ……」
 この間、あれだけの醜態を晒したのだ。その場にいたウエイターが真樹のことを覚えていても不思議ではない。
――やっぱり来るんじゃなかった――
 穴があったら入りたいとはこの事だろう。真樹は一層背を丸めるようにして小さくなった。
『大丈夫だよ。あれは全部、俺が悪いんだから。俺が虫の居所が悪くて挑発したんだって、みんな知ってる』
 稜の声がふんわりと真樹の耳に届き、少しだけ冷静さを取り戻すことができた。
「そんな……あなただけが悪いんじゃないのに」
『店に出た日は俺の機嫌が悪くなるって、みんな分かってるから。それに……おっと』
 稜が携帯を隠すような音が聞こえた。手で押さえているのだろう、プールの水の中で聞いているような、くぐもった音が真樹の耳に届く。
「電話してて、大丈夫?」
 しばらくして、手が外されたような気配に、真樹は小声で訊ねた。
『あんま、大丈夫じゃないんだけど……大丈夫』
「どっちよ」
 意味の繋がらない受け答えに、真樹は苦笑した。
『あのさ、店長が真樹さんに謝っとけって言うんだけど……そっち行ってもいいかな』
「え? そんな……ちょっと困る、かも」
『だよねー。だけど俺達があれから何度か会ってるって、店長知らないからさ。それに多分、言っても『そんな偶然あるわけない』って信用してくれないだろうし。んなワケで、一応こないだの事、真樹さんに謝らないと』
「あ……そっか」
『こっちの制服じゃ却って目立つから、店用の制服に着替えてから行くわ。じゃ』
 そこで通話が切れる。今から着替えるのなら、少し時間がかかるのかも知れない。
 化粧室の方向を見やる。稜が言っていた通り、化粧室は混んでいるのだろう。随分前に席を立った片野が戻る気配はなかった。
 ジョッキについた水滴を弄びながら、小さく息をついた。
――あの子との接点を聞かれても、説明に困るわよね――
 万が一片野に、稜と話しているところを見られたら……。
 歳の離れた自分達に、どんな接点があると説明すれば良いのだろう。
 弟の友達? まさか。弟は実家に居る。こんなところにヤツの友達が居る筈が無い。
 店での醜態を今更彼女に聞かせるのも嫌だったし、そんなことをすれば何が原因でそんなことになったのかと、訊かれるに決まっている。今まさに付き合いが始まろうとしている片野の前で、「付き合っていた人と別れたの」なんてサラリと言えるほど、真樹は強くなかった。
――だって、なんか惨めじゃない――
 先輩ヅラして、片野に社内恋愛の勧めを説いたばかりの真樹だ。その裏で、実は自分の恋は破局してましたなんて、言えるわけがない。
 テーブルの上に、ジョッキの外側を流れた水滴が溜まっている。真樹はそれを指先に付け、何も意図せずにテーブルの上に図形を描いた。それは奇妙に捻じ曲がった相合傘に見えた。
「ふふっ……」
 真樹の唇に、笑みが浮かぶ。
 こうやって最後に相合傘を描いたのは、何年前になるだろう。小学生の頃だったかも知れない。チョークで黒板の隅にこの形を描いた後、指先が妙にキシキシして気持ち悪かった。
 けれどそんな気持ち悪さよりも、相合傘の中に書き入れた名前に、真樹は哀しくなっていた。自分の好きな男の子と、自分の去年までの友達の名前。クラスが別れて、友達は友達ではなくなってしまった。クラスで行動を共にする子の方が、真樹よりも大切になってしまったらしいのだ。
 そんな折、真樹が思いを寄せる男の子が、その友達を好きだ……という噂が耳に入った。誰もいなくなった放課後の教室でその相合傘を描いた後、泣いたのを 覚えている。
 他愛も無い、子供の恋愛感情だ。
 けれど……。
 あの頃からなのかも知れない。真樹が人を真剣に好きになれなくなってしまったのは。桜の頃、一年毎にリセットされる人間関係の中で、好きな人に決して選ばれない、自分の身の程を知ってしまったから。


 ふと、傍らに人の気配を感じた。テーブルの上の図形に見入っていたから、人が近付いて来たのに気付かなかったのだろう。
 真樹は片野が来たのだと思って、先輩の笑みを貼り付けて顔を上げた。
「遅かったわね。化粧室、そんなに混んで……あ」
 真樹の言葉は尻すぼみになる。そこに居たのは、片野ではなくて稜だった。
 店内用の制服をきちんと着込んで、片手に盆を持っている。すらりとした体に、モノトーンの制服が良く似合っていた。
 稜の瞳が、長めの前髪の下からこちらを窺っている。唇の端を微かに上げた。
 真樹もつられて微笑む。だがなんだかそれも白々しくて、つい噴き出しそうになってしまった。
「ひどいなあ……俺、決死の覚悟でここまで出て来たのに」
 真樹にだけ聞こえる小さな声で言うと、稜は前髪の下で唇を尖らせる。そんな仕草は歳相応だ。
「決死の覚悟って、ちょっと大袈裟じゃない?」
 真樹の肩が、細かく震えた。稜が少し、腰を屈める。
「他のヤツらも見てるから、一応謝っとくね。この間は、スミマセンデシタ」
 最後の方は、棒読みだ。いかにも『一応』と言った声色に、真樹は破顔した。
「はは……ごめん……あなた、店に出てる時はいつもこの間みたいな感じだと思ってたから……今日は違うのね」
 目尻に溜まった生理的な涙を指先で拭いながら、真樹は隣の席に聞こえないよう、小声で言った。
「そりゃ、真樹さんが居るんだもん。……やっと来てくれて、嬉しいよ」
 稜の声色は、何故だかとても艶っぽく聞こえて、さっきまでの歳相応な印象とはガラリと違うように感じる。真樹は彼を見続けるのが躊躇われて、テーブルの上に視線を戻した。
「何言ってるのよ。私が店に来なくても、携帯に電話して来ればいいでしょ」
 それはまるで、電話して欲しいと言っているように響いたから、真樹はそれ以上言葉を続けられなくなってしまった。
「ホントに電話して、いいの?」
 躊躇うように、稜が訊ねる。その声がいつもの軽い感じの稜の声とは違って聞こえて、真樹は思わず顔を上げた。
 稜の瞳が、こちらを真っ直ぐに見ていた。
「こないだの電話じゃ、あんま良く分かんなかったんだ、真樹さんの気持ち。迷惑がられてるのかな、と思った」
「そんなこと……ないわよ」
 捨て犬のような瞳に、真樹は心の奥が痛むのを感じる。
「それ気にして、ずっと電話かけて来なかったの? 大丈夫よ、迷惑なんかじゃないから」
 柔らかく微笑んで見せる。稜の瞳が、安堵の色に染まった。