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あなたが、好き。


〜12〜


 二人は間もなくホームに滑り込んで来た車両に乗り込んだ。電車の中は混んでいなかったが、空いているというわけでもなかった。
 なるべく人目につかないように、真樹はしっかりと顔を上げていた。制服の稜と並んで座っていても、自分さえしっかりしていれば、姉弟ぐらいには見えるだろう。
 だが、電車の揺れは、気分の悪さを一層募らせた。降りる駅に着く頃には、真樹は込み上げて来るものを堪えるのに精一杯だった。稜の肩を借りて、なんとか自宅までたどり着いた。


「だから言っただろ? ほら、鍵貸して」
 真樹が差し出した鍵を二つの鍵穴に差し込んで開錠し、稜は真樹を支えたままドアを開けた。
「お邪魔しまーす」
 小さな声でそう言うと、玄関脇のスイッチを押した。電灯がついて、リビングへと繋がる廊下が明るく照らされる。靴を脱いで上がり、真樹のパンプスも脱がせてやった。女物のパンプスは、指先で少し押してやるだけで簡単に踵から外れ、玄関に転がった。
 真樹の顔色は随分悪かった。電車に揺られたせいで、更に酔いが回ったのかも知れない。
「トイレ、行く?」
 吐きたいだろうからと、稜はトイレの電灯もつけた。
「うん……ごめ……」
「いいから、早く行って来な」
 ドアを開いて、真樹を半ば押し込むようにする。ドアが閉まったのを確認すると、稜はキッチンへと向かった。途中にある電灯のスイッチを次々に弾き、家全体を明るくした。
 コップに水を汲んでショーケース付きのガラステーブルの上に置くと、救急箱を出しにかかる。この間、自分が怪我の手当てをしてもらったから、どこに置いてあるのかは知っていた。
 水が流れる音がして、真樹がトイレから出て来た。洗面所で口をすすぎ、フラフラした足取りで壁を手で伝っている。リビングのテーブルまで来ると、床に敷いた丸いカーペットの上にペタンと座り込んだ。
 稜は救急箱の中から粉の胃薬を出して、水の入ったコップと一緒に真樹の前に差し出した。真樹はのろのろとそれを手にして、袋を切ろうとする。だが酔って上手く力が入らないせいか、指がすべって上手く開けることができなかった。
「仕方ないな……貸して?」
 稜は真樹の手の中からそれを取り上げると、封を切って口を広げ、彼女の前に差し出した。
「ありがと」
 短く言うと、真樹はそれを口の中にパラパラと注ぎ込む。一瞬、苦そうな顔をしたが、水で一気に流し込んだ。
「飲めた? じゃ、それ貸して」
 掌を上に向けて差し出すと、真樹は素直にカラになった薬の袋とコップをその上に乗せた。稜はそれを受け取って、薬袋を丸めてゴミ箱に放り込み、コップを片付ける為にキッチンに立った。
「ありがと……何もかも」
 小さな声で、真樹が言った。シンクの中にコップを置いて振り向いてみれば、こちらに向ける瞳はアルコールのせいか、潤んで見える。それがまるで誘われているように感じられて、稜は背筋をぞくりと何かが這い登るのを感じた。
 今の真樹に、いつもの大人の余裕など、欠片も見当たらない。いつもと同じに笑っているように見えるが、スルスルとこちらの言うことをかわしてしまう、あの大人の笑みではなかった。
 真樹の隣に座る。
「真樹さ……」
 名を呼びながら真樹を窺うと、目が合った。稜はふと言葉を切る。
「ん、何?」
 続きを急かすように、真樹の声が甘く響く。自分は何を言うつもりだったのか。稜はそっと視線を外した。
「……少し、寝たら?」
 誤魔化すように、床に置いたままになっているバッグをテーブルの上に置き直してやる。真樹が寝たら、自分はここを出て行こう。玄関の施錠は、合鍵でも貸してもらって自分が済ませ、郵便受けから家の中に放り込んでおけばいい。
「化粧、まだ落としてないから寝られないよ」
 すねるように、真樹が言った。
 稜は部屋の中を見渡した。救急箱が出たままになっているのに気付き、とりあえずローボードの中にしまう。するとその横に、ドラッグストアなどで見たことのあるメイク落とし用のクレンジングシートを見つけた。
「これでイイ?」
 訊きながら、既に手はそれを取り、真樹に向かって差し出していた。
「あ、うん、これでいい」
 真樹はシートを一枚引っ張り出すと、メイクを落としにかかった。稜はそれを黙って見ていた。
 手をあげているのが辛いのか、真樹の手つきは大雑把で、顔全体をゴシゴシとこするようにしている。
「ああ、もう」
 見かねて稜は、それを横から奪い取った。
「だめだよ、そんなにこすっちゃ。肌、痛めるよ?」
 メイク落としは慣れている。自分もモデルをやっていた頃、メイクさんに「こするな」とよく言われたものだ。だんだん慣れて自分でも上手にメイクが落とせるようになった。こんなことを毎日やっている女の人は大変だな、と思いながら。
 新しいシートを一枚引き出して、指先に巻きつける。
「……気持ちいい」
 稜の指が肌の上を滑る度、真樹は目を瞑ったまま唇の端を微かに引き上げた。優しくふき取る指先は、まるで壊れ物でも扱っているかのようだ。
「でしょ? 俺、こう見えても、メイク慣れしてるから」
「ふふ……メイク慣れ、ね。あなた、顔立ちもそうだけど、肌も綺麗だもの。メイクしたら、似合うでしょうね」
 目を瞑ったままの真樹が、少し首を傾げる。
「女の人がするのとは、また違うよ。赤っぽい口紅なんて使わないし」
 メイクで汚れたシートをゴミ箱に投げ捨て、次のシートを引き出しながら稜は言った。
「似合うかも知れないわよ」
 真樹の唇が、悪戯っぽい笑みの形に引き上げられた。
「きもっ。やめてー」
 稜は真樹の顔を撫でる手を止め、鼻に皺を寄せた。薄目を開け、真樹が笑う。
 もともと薄化粧の真樹は、メイクを落としてもそんなに顔が変わらない。唇が、ひとしきり笑った後で元のように閉じられた。
 メイク落としシートを巻いた稜の指先が、その上を撫でる。形の良い真樹の唇は、柔らかな弾力で彼の指を押し返した。
 稜は、その唇から目が離せなくなっていた。真樹は目を瞑っている。安心し切ったような顔で、全てを自分に任せてしまっているように見える。
――無防備だ――
 その唇に直に触れたいという衝動が、稜の背中を突き抜けた。
「真樹さん……」
 稜が呼ぶと、真樹は目を瞑ったまま、唇の端だけを引き上げて応えた。
 稜はメイク落としシートを外し、まだ湿っているその指を真樹の唇に向かってゆっくり伸ばす。触れるか触れないかのところで、壊れ物に触れる時のようにそっと撫でた。
 真樹の瞼がぴくりと痙攣した。化粧を落とした睫毛が、それでも長く、影を作っている。引き込まれるように、稜は唇に触れていた指を頬に滑らせた。もう片方の手も反対側の頬に添え、真樹の小さな顔を両手で挟み込む。


 真樹は、うっすらと目を開いた。透き通るような稜の瞳が甘い光を宿して、すぐ目の前にあった。
――え?――
 思う間もなく、すぐにそれは焦点も合わないほど近付いた。真樹の鼓動が跳ね上がる。
「……そんなに、くっついて見るなー」
 茶化すように抑揚無く言いながら、真樹は稜の体を押し返した。彼はそんなに力を入れていなかったらしく、酔った真樹の力でも簡単に押し戻すことができた。再び焦点を結んだ透き通るような瞳は、とまどいに揺れていた。
「あ……、俺……」
「ん?」
 真樹は眉根を上げた。心臓が早鐘のように鳴っている。だがそれを知られまいと、引きつった笑いを貼り付けた。
「化粧、落ちたかな」
 自分は今、どんな顔をしているのだろう。何も気付かなかったふりをして、頬を触ってみる。
「ふーん、上手いじゃない。なんだかしっとりしてるよ?」
 そう言いながら、両手で顔を覆うようにした。化粧を落とした頬は、きっと赤く染まっているに違いない。それを彼に見られたくなかった。
「……俺、帰るわ」
 稜が体を伸ばし、クレンジングシートのケースを元の場所に戻した。
「うん、今日はありがと」
 視線が外され、真樹は小さく息をついた。
 首を伸ばすようにして頷くと、稜はのろのろと立ち上がる。
「じゃ」
 気遣うように真樹を見下ろすと、玄関に向かって歩き出した。靴を履く気配の後、ドアが無機質な音を立てて閉まった。
 頬を押さえたまま、真樹はそれを聞いていた。
 近付いた、稜の瞳。それがとても真剣なものに思えて、何故だか怖いと思った。見続けていたならば、引き込まれてしまいそうだった。
 あの時、茶化していなければ、今頃どうなっていたのだろう。
「……何、考えてるの」
 真樹は稜の居なくなった部屋で一人、眉根を寄せた。


 歩きながら、稜は携帯をズボンのポケットから取り出した。電源ボタンを押して立ち上げると、登録してあるタクシー会社に電話をする。
「あ、神鳥です。迎えに来て欲しいんですけど……えっと今は……」
 電柱に貼り付いている看板を見て、自分のいる場所と目印を告げる。用件を終えると、稜は通話を切り、携帯をまたポケットにねじ込もうとした。
 夜の街は、暗く沈んでいる。さっきまで居た真樹の部屋が、今目の前に広がる暗闇に比べてとても明るいものに思えた。フローリングの床に敷かれた、丸いカーペット。ショーケースの付いたガラステーブル。全てが真樹の色に染まっていて、温かく自分を包み込んでくれた。
 そこに居た、真樹でさえ……。
 なのに自分は、あんなことをしてしまった。ようやく少しは、彼女の中に自分の居場所を見つけられたと思った矢先に。
――気付かれなかった……よな――
 真樹は普段と変わらなかった。自分の中に生まれた衝動に、気付いた様子はなかった……と思う。
 自分でも、どうしてあんなことをしたのか、良くわからなかった。
――でも――
 真樹に触れたいと思った。これは決して一時の気の迷いなんかじゃ、ない。
 夜の街を自由に行き交う風が、稜の髪をさらって行こうとする。癖の無い柔らかな前髪が、目の前で揺れた。真樹の顔がそれに重なる。ちゃんと「おやすみ」と言わなければ、と思った。そうしなければ、次が無いような気がした。
 握ったままの携帯を立ち上げる。連絡先のマ行を表示させると、二番目の『真樹さん』という表示に触れた。
 稜の胸に、彼女が押し返した手の感触が蘇った。これ以上踏み込むなと、拒否しているように思えた。
 思い出した途端に、気力が萎える。戻るボタンを押して、全てのジョブを取り消した。
 携帯を無造作にポケットに突っ込むと、スニーカーのつま先で足下の小石をもてあそぶ。アスファルトの凹凸に翻弄されてコロコロと転げるそれは、まるで自分のようだ。どこに転がっていくのか、分からない。まだ将来も何も決められずにいる、自分と同じだ。モデルに復帰するのか、それともこのまま辞めてしまうのか。そんなことさえ上手く決められないでいる自分は、大人の真樹に相手にされなくても仕方がないと思った。
 けれど……。
 彼女を失うのは、嫌だった。一度知ってしまった居心地の良い場所を、失くしたくはなかった。
 街灯の下でしばらく待っていると、一台のタクシーがハザードをつけて稜の目の前に止まった。彼は少しだけ助走をつけて勢いにのると、今までもてあそんでいた小石を思い切り蹴り飛ばす。アスファルトにぶつかる乾いた音を残して、ちっぽけなそれは夜の闇に溶けていった。