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あなたが、好き。


〜13〜


 パソコンのディスプレイを見つめながら、真樹はため息をついた。既に昼休みに入っている部屋は、照明が落とされて薄暗い。この部屋の社員は皆、昼食をとりに社員食堂に行ってしまった。だが今日が電話の取次ぎ当番の真樹は、休憩時間を一時間、後にずらすことになっているのである。
「あんなこと……」
 思い出せば、頬が熱くなる。アルコールがすっかり抜けた今でも、ふとした拍子にあの時の稜の瞳に宿った甘い光を思い出している自分がいた。
――どうかしてる、私――
 思い出すたび、胸の奥を柔らかいもので締め付けられているように感じる。訳の判らない切なさに、泣き出してしまいそうになる。そんな自分を、真樹は恥じた。
 相手は高校生。まだ親の庇護のもとにある、子供だ。大人の自分が、そんな子供の気まぐれに振り回されて良いわけがない。
 いつの間にか、稜といることを自然に受け入れている自分。心の奥底で、警鐘が鳴っているような気がする。漠然とした不安が、胸を()ぎった。
 もう会わない方が、いいのかも知れないと思った。だからあの日、稜が帰った後で、彼の電話番号を着信拒否リストに入れた。
 真樹は、携帯をバッグから取り出し、履歴を確認する。そこには取り次がれることのなかった、稜の番号が何件も表示されていた。
『ホントに電話して、いいの?』
 捨て犬のような瞳で、躊躇うように訊いた、稜の声。少し鼻にかかった不安げな声が、真樹の耳に蘇った。
――傷つけたのかも知れない――
 思い出せば罪悪感に襲われ、真樹は携帯を手の中に握り締める。
 稜と居る時間を、心地よいと感じ始めている自分がいた。もしあの時間を失ったなら、今よりももっと大きく暗い穴が、自分の体の真中に開いてしまうような気がした。
 真樹は携帯を握る自分の指に、視線を落とした。薄い色のマニキュアが塗られている爪。それは毎日の業務をこなすため、短く切り揃えられていた。この爪を、指が綺麗に見える長さまで伸ばしていたのは、何年前だったのか。
 そう、あれは学生時代。望めばそこに、どんな未来でも開けると信じていた頃。
「ふ……」
 真樹の口からため息混じりの笑みが零れた。稜と居る時間を失う。けれども、それで良いのかも知れない。もともと自分は、一人だったのだ。耕治と別れたすぐ後で、たまたま仔犬が懐くように摺り寄ってきたのが稜だっただけなのだから。お遊びは、もうお終い。仔犬はいつか飼い主のもとに――彼が本来いるべき場所に、帰さなくてはいけないのだから……。
 窓から外を眺めれば、向かいの白いビルに日の光が反射して、とても眩しく見えた。窓ガラスがキラキラと光って、まるで宝石のようだ。
 昼休みはもうすぐ終わる。今日は天気が良いから、コンビニでおにぎりでも買って公園のベンチに座って食べるのもいい。
 あそこで稜と出逢った日を思い出した。誰かに殴られて、顔を洗っていた。
 真っ直ぐにこちらに向けられる、純粋な瞳を思い出し、真樹の胸がチリリと痛んだ。
 あの瞳を――自分は失ってしまうのかも知れない、と思った。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴って、社員が各々の席に戻って来た。斜め前の席にも、片野が座る。
「じゃあ私、休憩に行ってくるわね」
 真樹は立ち上がると、机の引き出しからバッグを取り出して肩に掛けた。
「先輩、あの……」
 片野が周りを気にしながら、言いにくそうに小さな声で切り出す。
「下に、あの人が来ています」
 そう言って、じっと真樹を見上げる。
「あの人……って、誰?」
 真樹は訊き返しながら、少しだけ腰を(かが)めた。
「この間居酒屋で会った、モデルの『稜』に良く似た人……」
「えっ?」
 驚いて思わず訊き返した声は、思いの外、室内に響いた。真樹は辺りを見回すと、慌てて自分の席に座り直す。
「あの、ウエイターの子? ……どうして?」
 心臓の鼓動が大きくなったのが分かる。何故だか胃のあたりがザワザワして、自分が今から何をするつもりだったのか、分からなくなってしまった。
「先輩の弟さんだって言ってましたけど……その様子じゃ、やっぱり嘘なんですよね?」
 片野の言葉に、真樹は絶句した。よりによって、弟だなんて。何を考えているのだろう、彼は。
「そうですよね。向こうは私のこと覚えてないみたいでしたけど、すごく印象に残ってたから私は覚えてたんです。弟さんなら、あの店で会った時に先輩が紹介してくれるはずですもんね」
 片野の声が(とが)めているように聞こえるのは、自分にやましいところがあるからなのかも知れない。
「あの……ごめん……あの子ったら、どうして……」
 机の上に視線を落とし、ため息をつく。語尾は消え入るように小さくなり、自分自身への問いかけに変わっていった。
 片野が自分の席から手だけを伸ばし、真樹の机を指先でトントンと叩いた。真樹は促されるように、机の上からその指先を伝って視線を上げる。その先で、片野が眉根を少しだけ持ち上げた。
「彼、待ってますよー」
 反対の手を口に当て、ほとんど聞こえない位の声で言った。その目は笑っているようにも見える。片野が怒っている様子でないのを見て、真樹はほっと胸を撫で下ろした。
「あ……ありがと」
 周りを視線だけで窺って、誰もこちらを気にしていないのを確認すると、真樹はそっと席を立った。


 小さくチャイムが響いて、エレベーターが一階に着く。
「あ、姉ちゃん、こっちこっち」
 扉が開いて一歩踏み出した瞬間、脇から声を掛けられた。渋い顔で真樹がそちらを見ると、眼鏡をかけて私服を着込んだ稜が、エレベーターのボタンの辺りに背中を預けて立っている。
 こうやって見ると、背の高さやスタイルの良さもあって、高校生には見えない。彼の私服も、地味な色使いではあるが、仕立ては良さそうだった。眼鏡をかけているのは、その顔立ちを隠すためなのか。黒っぽいフレームが目立つそれは、色白の稜に良く似合っていた。
「そこ、邪魔」
 渋い顔のままで短く言うと、真樹は彼の腕を乱暴に引っ張ってそこを離れた。幸い昼休みが終わったばかりで、ホールには案内係の女性の他に、人は居なかった。
「やっぱり、あの人で良かったんだ」
 大股で先を歩く真樹の後に従いながら、稜はクスリと笑った。
「何がっ?」
 渋い顔を更に渋くして、真樹は噛み付くように言った。
「弟です、って言ったら不思議そうな顔をしてた。あの人、こないだの人だよね? 真樹さんに取り次いでもらうのに、何課にいるのか判んなかったから、見たことある人をつかまえてみた」
 知っていてやったのかと、真樹は脱力する。立ち止まって、稜を振り返った。
「あなたねぇ……」
 そこまで言って、案内係の女性がこちらを見ているのに気付いた。気まずい笑みを貼り付けて、会釈をする。案内係の女性が下を向いたのを機に、稜の腕を引っ張ったまま、案内ブースの前を速足で抜けて建物を出た。
 外は、オフィスの窓から見た通り、脳天気なほどの晴天だった。青い空に白い雲が浮かんで、長く見つめているとその残像が目に焼きついてしまいそうなほどだ。真樹は稜の腕を掴んだまま、前に二人が会ったことのある公園に入って行った。
 ベンチの前まで来ると、真樹は稜の腕を放り投げるように乱暴に離した。
「何よ、さっきのアレ。……『姉ちゃん』って」
 まるで本当の弟のような呼びかけに、真樹は何故だかイライラしていた。弟の征人(ゆきと)にそう呼ばれることはある。名前で呼ばれることの方が多いのだが、それでも人前では姉ちゃんと呼ぶこともあるのだ。
 慣れているはずなのに……稜の声でそう呼ばれたら、何故だか心の奥底にチクリと棘が刺さったような気がした。そうして、そんな自分にまた、腹が立つ。
「だって、『姉を呼んで下さい』って頼んだ手前、真樹さんって呼ぶのも変でしょ?」
 細かくうなずきながら、稜はさらりと言った。癖のない前髪が、それに合わせて揺れる。
「片野さん……って、あなたが伝言頼んだ人だけど、あの人、あなたが弟じゃないなら、なんでここに来たのかって不審に思ってるわよ?  だいたい、わざわざ会社に来ることないじゃない。こんな、待ち伏せみたいなことして……」
 真樹はわざと音を立てて、ドサリとベンチに座り込んだ。背中を背もたれに打ち付けたような気がしたが、今はその痛みもあまり気にならない。
「……だってさ」
 稜が真樹の前に立った。眼鏡を外して折りたたむと、胸のポケットにしまう。思わず真樹は彼を見上げた。
「真樹さん、俺の携帯、着拒(ちゃっきょ)してるじゃん。こうでもしなきゃ、連絡の取りようがないだろ?」
 稜の言葉と強い視線に、真樹は視線を逸らした。バッグの中にある、携帯を思い浮かべた。迷惑電話みたいに稜の番号を拒否リストに入れるのは抵抗があったが、それでも大人である自分が、自分でも説明のしようがないような、一時の感情に流されるべきではないと思ったのだ。
「俺、真樹さんの気に障ること、何かやったんだよ……ね?」
 聞こえた声がとても弱く感じられて、真樹はまた、稜を見上げた。透き通った瞳は、真樹を正面から見据えている。けれどもそれは、自信なく揺れているように見えた。
――やっぱり傷つけたんだ――
 真樹の心が、罪悪感に痛んだ。
 あの日、酔っ払ってしまった真樹を心配して、無事に家まで送り届けてくれたのは、誰だったのか。家の電気を点けて、温かい部屋に真樹を招き入れてくれたのは、誰だったのか。薬を飲ませてくれて、優しい指先で化粧まで落としてくれたのは……。
 稜がいなければ、途中の駅で気持ち悪さに負けて、醜態をさらしていたに違いない。そして誰もいない暗い部屋に帰った時、もっと惨めな気持ちになっていたのだろう。
 彼がいたから、自分はちゃんと大人の体面を保つことができたのだ。
 それなのに……。
 そうまでしてくれた彼を、心無い行ないで傷つけてしまったのだ。せめて電話に出て話をすることぐらい、いつもと同じようにすべきだったのではないだろうか。
 大人、大人と肩肘張っているくせに、人としてちゃんとした対応ができないのでは、子供のままだと言える。いや、年齢を重ねて素直でなくなってしまった分だけ、もっと酷いのだろう。
 あの時と同じだ。居酒屋で口論をしたことを、稜が先に謝った、あの日。全てを曖昧にして、謝りもせずにその場を立ち去ろうとした、自分。
「私……」
 何と言ったら良いのか、判らない。ただ、伝えたい言葉が上手く出てこないのがもどかしかった。
 今一番伝えなければならない、簡単な言葉。
 稜の瞳を見つめながら、真樹は考えた。彼のことを怒っているわけではない。引き摺られてしまいそうになる自分に対して、腹が立っているだけなのだ。それを伝える言葉……。
「ごめんね、それから……ありがとう」
 意味も何も繋がらない、二つの言葉。けれども、それだけが、今の真樹の気持ちを伝える言葉だった。
 目の前に、稜の顔がある。その瞳が、一瞬、大きく見開かれた。そして泣き出しそうな笑顔になり、視線が外された。
「そんなこと言ってもらえるなんて、思ってなかった」
 力が抜けたように、大きな体がベンチに座り込む。投げ出された足の、白い革靴の先が、やけに尖って見えた。
 稜は自分の膝に肘をつき、その掌で顔を覆った。
「もう来るなって言われるかと思ってた……こんなとこまで押し掛けて、ごめん」
 顔を覆っていた指を緩めて、その隙間から真樹を見た。
 真樹はそれに応えるように、ぎこちなく唇に笑みを刷く。
「着信拒否は解除するわ。あれは私の問題なの。だからあなたは、気にしないで」
「じゃあ、また電話してもいいの?」
 綺麗な指越しに、稜の瞳がある。真樹は返事に詰まった。稜にわからないように、小さく息を整える。
「……ええ」
 投げかけられた問いに即座には答えられなかったが、真樹はぎこちない笑顔のまま、それを許した。
 あの時は酔っていたから……。自分さえしっかりしていれば、不可解な感情に流されることもないのだと思おうとした。
 稜の綺麗な瞳を傷つけたくない。彼が他の誰にも弱さを見せられないのなら、せめて唯一それを知ることのできる自分が、その弱さごと彼を受け止めてあげなければいけないような気がした。そうして彼の柔らかい髪をまた、優しく撫でてあげられたなら……。
 何もなかったような顔をして。今までみたいに、冗談も言えるような、そんな関係を。
 そう、自分は大人なのだから――。
 稜の手が顔からはずされた。下ろす途中で、胸のポケットに入れた眼鏡に当たり、微かな音がした。
「……その眼鏡、伊達(だて)?」
 顎をしゃくってポケットを指し、真樹は訊ねた。とりあえず何か話さなくちゃ、と思った。
「うん……、私服で外に出る時には、してるんだ」
 ぎこちなく、稜が応える。
「学校に行ってる時は校則でできないけど、人前ではなるべく顔は隠すようにしてる」
 店でも仕事の邪魔になってしまうから着けられないんだけどね、と稜は言った。
「そっか」
 だんだんと普通の会話のペースを取り戻して行くのを感じると、何故だか心が丸くなってくる。何の変哲もないやりとりだったが、真樹は自分の心が少し、温かくなったような気がした。


 遅い昼休みを終えて、真樹は自分の仕事に戻った。あれから他愛も無い話を少しして、稜とは公園の入口で別れた。
 昼食を食べ損なったが、失うかも知れないと思っていたものを失わずにすんだ温かさと、彼を傷つけずに済んだのかも知れないという思いに、そんなことはどうでも良くなっていた。今はただ、それを感じていたい。体の真中に開きかけていた暗い穴は、いつの間にかふさがってしまっていた。
「先輩」
 声をひそめて、片野が真樹を呼んだ。今この部屋にいるのは、片野と真樹の二人だけだ。他の社員は、仕事の都合で出掛けているらしい。
「あの人……『稜』ですよね?」
 ノック式ボールペンの頭を出したり引っ込めたりしながら、片野はポツリと言った。キーボードを叩く真樹の指が止まる。ディスプレイから片野の顔に視線を移した。
「私、ずっと引っ掛かってたんです。顔だけよく似てる別人かな、とも思ったんですけど、あの声……」
 片野は何かを思い出そうとするかのように、手元のボールペンを見た。
「前、テレビで観た時に、なんだか印象に残る声だなぁ……って思ってて。今日話をして、この声だ、と思ったんですけど……」
 片野はこちらの様子を窺うような視線を寄越す。それは確信に満ちたもので、真樹はもう誤魔化せないことを悟った。
「そうよ。彼は、あのモデルの『稜』。……しっ!」
 真樹はすかさず、立てた人差し指を自分の唇に押し付けた。何かを言いかけようとする片野の瞳をじっと見据えて、小さく首を横にふる。
「今は、ただの高校生だから。『モデルの稜』じゃなくて、どこにでもいる、ただの高校生」
 だからそっとしておいて欲しいと、真樹は暗に匂わせた。
「どういうお知り合いなんですか?」
 遠慮がちに、片野が問う。真樹は視線を外して、窓の向こうを見やった。
 今までのことを思い出せば、二人の間柄を何と説明すれば良いのか判らなくなる。知り合いというレベルではないだろう。
 友達? それとも……。
『姉ちゃん、こっちこっち』
 耳に残る、稜の声。
「そうね、弟みたいなもんかな」
 笑って応えながら、真樹は心の奥に感じた痛みに蓋をした。


 稜は真樹の去った方向を見ながら、小さく息をついた。視線はそのままに、公園の入口に立てられた、車止めのポールに腰を掛ける。
 一大決心をして真樹の会社まで行ってはみたものの、彼女の顔を見ると、考えていた言葉がボロボロと自分の中から零れ落ちて行ってしまうのを感じた。
『あ……、俺……』
 背中を突き抜けた衝動に負けそうになってしまったあの日、真樹にさえぎられて、最後まで言えなかった言葉。その先に自分は何と続けようとしたのだろう。
 ずっと考えていた。
 真樹の傍に居たいという、この気持ち。今まで同年代のどんな女の子と付き合っても、感じなかったこの想い。
『安心するんだ、真樹さんといると。あなたの傍は、とても居心地が良くて……』
 そう告げた時、彼女には上手くはぐらかされてしまったように思う。続く言葉を、稜自身も見つけられないでいた。
――大人の女の人相手に、俺は――
 最初から相手にされるはずがないから、居心地が良いと思ったのだろうか。会えば必ず何か叱られて、それでもその言葉が自分を思ってくれたものなのだと判るから、心の中が温かくなる。
 ありきたりの言葉で言ってしまえば、きっとそこでお終いになってしまう、この関係。
 稜は大きく息を吸い込んで、空を仰いだ。真樹の会社の看板が、青い空に溶け込むように掲げられていた。
 自分が『神鳥稜』でいられる場所を失いたくない。彼女の傍にいたい。
「……あなたを、失いたくないんだ」
 今まで漠然と抱いていた感情。改めて口にした言葉の強さに、稜自身が一番驚いていた。