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あなたが、好き。


〜14〜


 稜に電話してもいいかと訊ねられ、構わないと答えた。あれから真樹は、頭の中で何度もシミュレーションをしていた。
 電話がかかって来たら、何気ない声で応対をする。笑ったり、時には文句を言ってみたり……そんな簡単なこと。けれどもつい先日までは普通にできていたことが、何度もシミュレーションをして体に覚えこませてやらないと、上手くできないような気がした。
 今日はあまりパッとしない天気だ。まるで真樹の心の中を映すように、薄い灰色の雲が空を覆っている。計算された明るさの電灯の下でも、パソコンのディスプレイがどことなくチラついて見えた。
 今はちょうど午後の会議の最中で、主だった男性社員は別室に移ってしまっている。片野や他の女性社員も、それぞれの仕事の都合で席を外していた。誰もいない部屋の中、真樹は一人でパソコンとにらめっこしていた。
 間近から、携帯の振動する音が聞こえた。いつもは人のざわめきで聞こえないそれが、今は誰も居ないせいでしっかりと感じられる。真樹は辺りに誰もいないのを確認すると、引き出しを開け、バッグから控え目に震え続けるそれを取り出した。
 発信者には、稜の名前が表示されていた。心臓が大きく跳ねる。真樹はひとつ大きく息を吸って、通話状態にした。
「もしもし?」
『あ、真樹さん? 俺、稜。急にバイトなくなっちゃったんだけど、今日会えないかな?』
 電話の向こうから聞こえる、鼻にかかった甘い声。少しエコーがかかっている。
「う……んとね、今日は病院寄ってから帰るから」
 心臓の鼓動は、どうやら落ち着いてきたようだ。山積みになった未処理のトレイに目をやり、真樹はボールペンのノック部分でこめかみを軽く突いた。残業にはならないだろうけれど、定時ぎりぎりまでハードに働かなくてはならない。
『どうしたの? 風邪?』
 心配げな声が聞こえる。
「そうみたいなのよね。なんだか喉が痛くて」
 真樹は、いがらっぽい喉を押さえた。早めに対処しないと、きっと酷くなる。一人暮らしの真樹にとって、たとえ風邪であっても、病気になるというのは厄介なことなのだ。
『いいよ、俺、その病院まで行くから。どこの病院?』
 背後で、チャイムの鳴る音が聞こえる。稜はまだ学校にいるのだろうか。
「あなた、電話なんかしてて大丈夫なの? 学校内って携帯使用禁止なんでしょう?」
 真樹は声をひそめた。こちらがそんなことをしたって、電話の向こう側には関係ないのかも知れないが、条件反射とでも言うのだろうか。
『あ、大丈夫。今トイレだから。他に誰もいないし』
 電話の向こうで、少し笑ったような気配。どうりで声が響くはずだ、と真樹は思った。
「じゃあ……うちの会社の近くにある、栄病院って知ってる?」
 真樹は、後から行くつもりの病院名を告げた。
『ああ、俺も何回か行ったことあるから判るわ。じゃ、そこの待合いで待ってるから……あ、ヤベ。授業始まる。じゃね』
 早口で締めくくると、通話が切れる。
――普通に話せるじゃない、私――
 無機質に響く終話音を聞きながら、真樹は小さく息を吐き出してクスリと笑った。


 会社を定時ちょっと過ぎに退社し、真樹は病院に行った。今日は車で来ていたので、歩かなくて済むのはありがたかった。待合室で稜を探してみたが、彼はまだ来ていないようだ。雑誌を読んでいると、じきに名前が呼ばれ、診察室へ通される。
 思った通り、真樹は風邪のひき始めだった。医師から暖かくして休養をとるようにと言われ、薬をもらう。
「真樹さん」
 会計でお金を払っていると、後から声を掛けられた。振り返るとそこに、制服のままの稜が、デイパックを肩にかけて立っていた。
「大丈夫? やっぱ、風邪だった?」
 真樹が手にした薬を、背後から覗き込むようにする。
「うん。今日はちゃんと休むようにって言われちゃった」
 真樹は薬の袋をバッグにしまい、歩きながら車のキーを確認した。
「今日、車なんだ?」
 後をついて来た稜が、それをめざとく見つける。
「そうよ。あなたは?」
 真樹も訊き返した。
「歩っき、でーす」
 変な抑揚をつけ、首でリズムを取るようにして稜が言った。癖の無いツンツンした前髪が、顔の前で揺れる。
 それならちょうど良かったと、真樹は彼を自分の軽自動車のところまで連れて行った。ボタンでロックを解除してやると、稜は首をすくめ、体を折りたたむようにして助手席に乗り込んだ。それでも足だけは上手く折りたためずに、シフトのところまではみ出させている。
「毎度毎度、こんな小さな車にお乗せして、すみませんね」
 真樹は慇懃無礼(いんぎんぶれい)な口調で言いながら、こちらにはみ出た稜の膝を、ペチッと叩く。
「……っ、()ぇ」
 稜がわざと大きな声を出した。
「いい加減、学習しなさいよ」
 小声で呟きながら、真樹はスタートボタンを押してエンジンをかけ、車をスタートさせる。助手席で稜がしぶしぶといった感じで膝を閉じたのが見えた。
 喉が痛いだけで、頭は別に痛くないし、熱もない。今、薬を飲めば、症状の軽いうちに治すこともできるだろう。
「どこかで早めに薬、飲んじゃいたいな。えっと、水……自販機寄っていい?」
 前を向いたまま、真樹は訊いた。周りの景色が後に流れていく。カーオーディオからは、流行りの曲が聴こえていた。
「薬飲むならさ、先に何か食べなきゃいけないんじゃない? ついでだからあそこで食べて行こうよ」
 稜が指差す方向には、ファミレスがあった。真樹は一瞬、スーツを着たこの格好でファミレス……と躊躇した。だが、隣に座る稜を窺うと、たまにはいいか、と思いなおす。
 バイトのある日は、家での食事を断ってくるのだと言っていた。今日は急にバイトがなくなったらしいから、多分彼はこのまま帰っても、一人でコンビニ弁当か何かで済ますことになるのだろう。真樹だって、このまま家に帰ったら、ちゃんと何か食べるのかどうかも怪しい。それならここで一緒に食べた方が、お互いに良いのではないかと思えた。
 ファミレスに着くと、真樹は車を店の入口から一番近いスペースに駐車した。二人の目の前で、運良くそこが空いたのだ。
「ラッキー。普段の心がけがいいおかげよね」
 あまり具合の良くない時には、こういう小さな幸運が嬉しかったりする。真樹はサイドブレーキを左足で踏みながら、小さくガッツポーズをした。
「子供みてー」
 隣で稜が苦笑する。それを横目でチラリと一瞥しただけで、真樹はさっさと車を降りた。
 バタンと大きな音がして、ドアが閉まる。
「あ、待って。怒った?」
 稜も笑いながら、続いて車を降りた。一人で先に店内に入って行こうとする真樹に追いついて、その腕をとる。
「ごめん、ごめん。そんなに怒んないでよ」
 真樹の顔を覗き込むと、彼女がふいに立ち止まった。
「え……?」
 稜が見ているのに気付かないはずは無いのに、真樹はそんなことはまるで眼中にないかのように、店の入口にあるショーケースの中を熱心に見つめている。
「えっと、私、リゾットが食べたい。やっぱり風邪の時は、おかゆよね」
 そう言って、納得したように大きくうなずく。
「……なんだよ」
 気が抜けたように言うと、稜はまた笑い出した。
「やっぱ、子供みてー。食べ物を目の前にすると、他のことブッ飛んじゃう、って?」
 笑いながら、稜は目尻に溜まった涙を指先で拭う。突然その後頭部に、何かがぶつかる衝撃。
「病人に余計な体力使わせないの。ほら、あなたも決めて」
 上目遣いに窺えば、真樹の仕事用のバッグが稜の頭の上に乗っている。真樹は伸ばした片手でそれを更に押し付けながら、稜を促した。
「イテテテ……って、そんなとこに体力使わなくてもいいじゃん」
 文句を言いながらも、稜はバッグが落ちないように、両手で支える。
「ゴチャゴチャ言わずに、さっさと決める。あ、それパソコン入ってるから、落とさないでね」
「……はい」
 諦めたように、稜は返事をした。そんな大事なものが入っているなら、こんなことしなくてもいいじゃないかと思ったのだけれど……ふと、その遠慮の無さが、彼女と一緒にいて居心地の良い理由の一つだと気付く。バッグを支えようと伏せた顔が、いつの間にか緩んでいた。ゆっくりとバッグの下から頭を抜いて、稜はそれを大事そうに両腕で抱え込んだ。


 ウエイトレスに案内されて、絨毯が敷き詰められた店内を歩く。二人は一番奥の禁煙席に通された。料理を注文すると、ウエイトレスはメニューを抱えて奥へと下がって行った。
 植え込みを通して、窓の外には街の景色が広がっている。
「いい天気だね」
 稜が空を見上げた。
「うん……こんなとこ入るの、久し振り」
 真樹も空を見上げ、それからぐるりと店内を見渡した。店の中の座席には、ラフな格好をしたカップルや、若い学生達のグループが座っている。それぞれ楽しそうに笑ったり、何やら本を開いて真剣に見入っていたりした。
 スーツを着て仕事をするようになってから、ファミレスへはあまり来たことはなかった。洒落た居酒屋や小料理屋などには行ったことがあったが、ファミレスという明るくチープな場所は、スーツを着る人が行ってはいけない場所のような気がしていた。
 真樹の中にはどうやら変なプライドがあったらしい。稜と一緒だと、今までのこだわりは何だったのだろうと思える。
 外を眺める稜を、そっと目の端で窺った。彼の瞳は遠くに向けられていて、心までが自由に羽ばたいているように見える。
 こうして稜と一緒にいると、純粋だった昔の自分を取り戻せるような気がした。失ったと思っていた可能性が、本当は全く無くなってしまったわけではないのだと信じても良いような気がした。
「お待たせしました」
 しばらく待っていると、ウエイトレスが注文した料理を運んで来た。それぞれの目の前に料理とカトラリーを並べ、一礼して下がる。
「……ふうん、合格ってとこかな」
 その後姿を眺め、稜が点数をつけた。
「何、それ」
 真樹はスプーンでリゾットをすくい上げ、息をかけて冷ましながら訊く。
「俺さ、一応接客業みたいなことやってるじゃん? つい気になってさ、観察しちゃうんだよね」
 稜も自分のカレーライスに、豪快にスプーンを差し入れた。
「ま、接客業に関わらず、いつかは何かの役に立つと思って、人間観察は欠かさないの」
 ひとさじすくって、ろくに冷まさずに口に運ぶ。熱さと辛さでむせ、稜は思わず水の入ったコップに手を伸ばした。
「馬っ鹿ねぇ……」
 真樹はクスクスと笑う。それから真剣な顔になった。
「やっぱり、戻るんだ?」
 それが何を意味しているのか、言わなくても通じたはずだ。
「うん……今はまだ良く判らないけど、その可能性も全然無いわけじゃない」
 稜は曖昧に笑いながら、今度はちゃんと冷ましてから、口の中にカレーを運んだ。
 いつかは仕事に復帰するかも知れない。その時のために、自分にできること……。蓄える知識や経験は、少しでも多い方が良いに決まっている。
 稜は、また新たにすくい上げたカレーを見るふりをして、その向こうの真樹を見た。
 今まで、逃げることばかり考えていた。誰も自分を知らなかった昔に、戻れるものなら戻りたいと思っていた。
 けれども真樹と出逢って、彼女にまともに相手をしてもらうためにはどうすれば良いのかと考えた。復帰するのか、しないのか。まず自分の将来をしっかり見据えなければ、と思った。
 モデルの仕事自体は、嫌いではない。カメラの前に立てば、自分でも気付かなかった自分が、引き出されてくるのを感じる。それは自分が演じているのだけれど、カメラという媒体を通さなければ見えて来なかったものだ。大勢のスタッフの手を借りて、違う自分を演じる。その過程を、稜は嫌いではなかった。
 真樹が傍にいてくれれば、自分を商品として見る人達の中でも、顔を上げて歩いていけそうな気がする。自分自身を楯にして戦って、どんなに傷ついても、彼女の傍にいれば楽に呼吸ができるような気がする。
 だから失いたくない。
 絶対に真樹を失いたくないと、稜は思った。


 それぞれの料理を食べ終えて、二人はコーヒーを注文した。真樹は、食器が下げられたテーブルの上に、仕事用のバッグから取り出したノートパソコンを広げた。
「ちょっと変換しておきたいデータがあるの」
 稜の顔をチラリと窺う。家に帰ってからだと、多分寝てしまうからできないと思ったのだ。
「いいよ。俺もついでだから、ここで宿題やってくわ」
 そう言うと、稜もテーブルの上にノートを広げた。
 ウエイトレスが二人分のコーヒーを運んで来て、テーブルの上に並べる。伝票を端に置いて、一礼して下がった。
 一番奥の禁煙席に座っているせいか、二人の傍を通る客はいなかった。真樹のキータッチの音と、稜のシャーペンを走らせる音が、呼応するように響いた。
 どの位、そうしていたのだろう。二人のテーブルに、ふと人の影が差した。
「あの……」
 遠慮がちに声が掛けられる。真樹が顔を上げると、二人組の女子高生がそこに立っていた。丈の短いスカートと、大きなリボンタイが印象的な制服姿だ。その視線は、稜に向けられている。真樹は腕を伸ばし、テーブルの向こうの稜の腕を突付いた。
「……ん?」
 よほど集中していたのか、稜はそこに女子高生が立っていることに、気付いていなかったようだ。突付かれた腕から真樹の指を辿り、顔を上げる。真樹がしきりに女子高生の方を視線で指しているのを見て、初めて彼女達に目を向けた。
「あの、『稜』さんですよね?」
 彼と視線が合うと、女子高生が華やいだ声を上げた。一応訊ねてはいるものの、そうだという応えを確信しているようだ。興奮しているのか、その声は大きく店内に響いた。二人とも、ファンシーショップで売られていそうな、キャラクターのついたノートを胸に抱えている。
「えっと、握手して下さい。あ、それからサインもお願いします」
 こちらの素性は判っているとばかりに、笑顔のままノートを差し出す。
 稜の眉が、ぴくりと動いた。
「声かけてくれてありがとう。でもちょっと、ボリューム落としてくれないかな」
 声は穏やかだが、強い意思を持った視線で女子高生を見据える。
 せっかく真樹と居るのだから、そっとしておいて欲しいと稜は思っていた。こんな大きな声を出されたら他の客にも迷惑だし、何より騒がれるのは困る。
「私達、稜さんのファンで」
「こんなとこで会えて、超ラッキーだよねー」
 稜の声など聞こえなかったかのように、女子高生は小刻みに飛び跳ねながら、お互いに顔を見合わせる。その声は、他の客に配慮したものではなかった。何人かの客が、何事かとこちらを見ている。
 稜は小さく息を吐いた。
「ごめんね、ルールを守れない子には何もしてあげられない」
 ぴしゃりと拒絶する。公共の場で騒ぐなんて、もってのほか。自分のことしか考えない、子供のすることだ。
 そう思いながら、ふと真樹と最初に出逢った日を思った。あの時の自分もこんな風に見えていたのかと、改めて自分自身の子供っぽさに嫌気が差す。
「えー、いいじゃないですかー」
「みんな、気にしてないよー」
 稜の反応が意外だったのか、女子高生は口々に文句を言った。
「ごめんね、ホント今は、勘弁」
 判ってもらえないのなら仕方が無い。穏便に帰ってもらおうと、稜は少しばかりの笑みをその顔に貼り付けた。
 コーヒーの香りに包まれて、間近に真樹を感じていられる。そんな風に二人で何気なく過す時間は、自分にとって大切なものだ。それを、土足で踏みにじるような真似はして欲しくない。
「マネージャーさんだって何も言わないじゃないですか。ね、いいでしょ?」
 片方の子が、真樹に向かって同意を求める。こんな所でモデルと一緒にいてパソコンなんか開いているから、マネージャーと間違えられたらしい。
 真樹は何と返したら良いのか判らずに、曖昧な笑顔でそれに応えた。自分の対応次第で、稜に迷惑がかかるかも知れない。是とも否ともつかない笑みを彼女達に向けたまま、視線だけを稜に向けた。
 女子高生に向けられた、稜の瞳が険しくなる。
「いい加減にしてくれ」
 あまりのしつこさに、稜は少しだけ声を大きくしてピシリと言った。
「最低限のルールは守ってくれよ。ちょっと考えればわかることだろ?」
 稜の言葉に、二人組は気色ばむ。
「やだ、怖……」
「えー、テレビとイメージ違うぅ」
「インタビューで言ってたのと、態度違うよねー」
 今までの媚びた様子とは一変して、女子高生達は明らかな敵意を稜に向けた。そのまま数歩、後退(あとずさ)る。
「行こ、行こ」
 肘を突付きあって、彼女達は自分の席へと戻って行った。
「何、あれ。何様のつもり? 性格、悪っ」
「掲示板とかSNSに書いちゃおうか」
「そうだね、稜って偉そうでヤなヤツだって書いちゃおう」
 そう言いながら遠ざかっていく後姿を見送り、稜はため息をつく。心配そうに自分を見ている真樹に気付き、苦く笑って見せた。
「ね、前にも言ったでしょ。拒否すると、いつもあんな風なんだ。そうじゃない子も中にはいるけど……大抵は、ね」
 シャーペンをクルクルと指の上で器用に回す。何回か回った後、それは稜の指から零れ、固い音を立ててテーブルの上に落ちた。
「真樹さんさぁ」
 肘をつき、窓の外に目を向けて、稜が言った。
「どう思った? 俺の態度、間違ってたと思う? こういう仕事してるヤツがプライベートな時間を守りたいって思っちゃ、いけないのかなぁ……」
 目を瞑って、クスリと笑う。
「あんなの、しょっ中なんだ。ホントはいちいち気にしてたら身が持たないんだけどね」
 そう言って目をあけ、稜は再び遠くに視線を向けた。長い睫毛が震えているように見える。真樹は何と言ったらいいのか判らずに、黙っていた。
「俺さ、思うんだ……」
 稜は真樹の応えがなくても、気にしていないようだ。自分の気持ちに整理をつけるために話しているのかも知れない。
「道路のさ、センターラインに沿って真っ直ぐ歩き続けてるわけじゃないのにさ」
 相変わらず視線は遠くに向けたままだ。
「道路?」
 突然の比喩に、真樹は訊き返す。稜は視線を戻し、落ちたシャーペンを拾い上げた。
「人間だもん、あるでしょ? 真ん中を歩くばかりじゃなくて、たまにはフラッと脇に寄ってみたり……って」
 そう言って笑って見せた稜の顔は、諦めを含んで痛々しい。
「確かにね、何かのインタビューで言ったことあるよ。『元気良くサインねだられたりしたら嬉しい』とか何とか……。でもさ、シチュエーションってあるでしょ? 今は勘弁、ってこともあると思うんだ。いつもピシッと同じ考え、同じ行動ってわけにはいかないよ。その振り幅は人それぞれで……。だけど、そういう事、メディアに露出してる人間には許されないのかな、って」
 笑った顔のまま、テーブルに突っ伏した。癖の無い髪が、サラリと零れた。伸ばした手がコーヒーカップに当たる。突っ伏したままシャーペンを脇に置き、手探りでまだ温かいそれを両手で包み込むと、稜はまた顔を上げた。
「そんなこと……」
 真樹はそれ以上、掛ける言葉を見つけられなかった。確かに自分自身も、タレントが目の前にいればきっと、メディアで見たのと同じ反応を期待するだろう。けれどもそれは、素の状態にあるその人にとっては辛いものなのかも知れないと、改めて思った。
 問いかける稜の視線を受け止め切れずに、真樹は下を向いた。そんな真樹を見て、稜が小さく笑う。
「いいんだよ。自分が一番よく分かってるから。ただね、時々すごく不安になる」
 カップの温かさを確かめるように頬にくっつけると、稜はふわりと視線を漂わせた。
「俺はホントは何もできない人間で……ものすごく小さな人間で……なのに、俺のイメージだけが一人歩きしてるんだよね。近寄って来る人はみんな、『モデルの稜』がそこに居るんだと思ってる。その度にいつも、みんなが求めてるのは、メディアの向こう側のカッコいい俺なんだって実感させられるんだ。何もできない俺なんか必要ないんだって、迫ってくるみたいでさ」
 漂う視線が、ふと真樹を捉える。しばしの無言。
「……あなたも、そう? 真樹さんも、何もできない、こんなちっぽけな俺なんて、要らない?」
 捨てられた仔犬のような瞳が向けられ、真樹の心は締め付けられる。懸命に自分の状況を受け入れ、乗り越えようとしながらも、その純粋な心は傷ついているのだろう。多分彼は、メディアに露出した分だけ、嫌なことをいろいろと経験して来たのだ。
 一般人である自分にだって、そういった葛藤はある。だから、稜の気持ちが、全然判らないわけではない。
 『そうであるべき』姿に、自分を当てはめて生きている。書けば必ず賞をとっていた、子供の頃の感想文のように。相手の求める自分という人間を、自分でも知らない内に演じている――。
 それも必要なことだと、諦めてもいた。求められる自分を演じて、自分自身を守ろうとしていた。
 もがきながら、それでもまだ本来の自分を保とうとしている稜の純粋さを、真樹は愛しいと思った。
 稜の視線を受け止めたまま、大きく息を吸う。
「私はあなたがメディアに出てた時を知らない。だから、今のあなたが……迷ったり傷ついたりしてるあなたが、私にとっての本当のあなたなのよ」
 綺麗に飾り付けられた稜でなくてもいい。傷つき、悩み、現実と理想とのギャップに押しつぶされそうになりながら、それでも前を向いて歩いて行こうとする彼が、真樹にとっては本当の稜だった。
「でもね」
 真樹はしっかりと稜を見据え、息を吐きながら小さく笑う。
「私だって、何でもできるわけじゃないわ。歳ばっかり重ねちゃったけど、心の中にはまだ、あなた達と同じように制服着て学校の運動場を駆け回ってる私がいる。ずっとずっと、女の子のまんま、成長できない自分がいるの。みんなはどんどん先に進んで行くのに、私の心だけが置いてけぼりで」
 真樹は、自分のコーヒーカップを持ち上げ、一口含んだ。出されてから随分経ったコーヒーは、それでもまだ温かかった。
「スーツ着て仕事して、後輩もできて偉そうに指示なんか出しちゃってるけど、ホントはいつも、これでいいのかなって躊躇してる。あなたと同じよ。ホントは何もできないのにブカブカの鎧兜つけて、使い方も分からない刀を持たされて、無理やり戦場に立たされてる感じだわ」
 飲みかけのカップを置き、刀を持っているふりをする。稜は肩をすくめて首を振り、笑った。
 女子高生の二人組は、もう店内のどこにも居なかった。あれからすぐに出て行ったらしい。ひとしきり笑って、稜は肩の力を抜いた。
 大人の顔をした真樹が、少しだけ身近に思えた。