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あなたが、好き。


〜15〜


 喉の痛みにしばらく悩まされはしたが、真樹の風邪はそんなにひどくはならなかった。
 今日は稜の高校に出向く、最後の日。先方の担当者も随分慣れ、システムも落ち着いたので、これからは月に一回の定期サポートに切り替わる。それは本来の担当である営業部に任されることになっていた。
 週に一回のペースで行っていたにも関わらず、あれから校内で稜と会うことはなかった。
 真樹は用件を済ませ、担当者に丁寧な挨拶をして事務所を出る。来客用の駐車場に止めた車のところまで、古風な煉瓦造りの建物を見上げながら歩き始めた。駐車場は、ここからぐるりと建物を半周した辺りにある。何でも事務所前の庭は、建物との景観を考慮して造られた非常に価値のあるものなのだそうだ。だんだんと車が普及してきて駐車場が必要になった時、少々の不便には目を瞑って現在の場所に決められたのだ……と、担当者との雑談の折に聞いた。
「だからって、あんな不便なところに駐車場を作らなくてもいいのに」
 ぶつぶつと文句を言いながら歩く。それでもこうやって煉瓦造りの建物を眺めながら歩く時間を、真樹は好きになっていた。
 古い時代に造られた建物は、歴史の流れをその中に感じさせてくれる。時間に追われ、先を急ぎがちな心を、ゆったりとした時間の中に引き戻してくれるようだ。
 最初にここを訪れた時と同じように、真樹はパンプスのかかとをなるべくそっと下ろしながら、大きな音を立てないように注意して歩いた。静けさの中の心地良い緊張感を自分の靴音で汚すのは、やっぱり今でもいけない事のような気がしていた。
 ふと見れば、デザイナーの手によると思われる制服に身をつつんだ生徒達が、友達と挨拶を交わしながら帰って行く。真樹も帰社するのは、定時に近い時間になるだろう。


「真樹さん」
 唐突に、後から声を掛けられた。驚いて振り返ると、そこには黒いデイパックを片方の肩に背負った稜の姿があった。
「今、仕事終わり?」
 ずり落ちそうになるデイパックを背負いなおし、稜は訊いた。
「うん、これから会社に帰るところ」
 真樹は唇の端を引き上げて応えた。
 学校の敷地内にいるせいだろうか。稜がとても眩しく見える。若さと、希望と、悩みと――青臭くて、苦くて、楽しいことばかりではないけれど――それでも二度と戻ることの許されない真樹には、とても眩しく輝いて見えるもの。
 そんなものに満ちた学校という空間の中にいることが許されている彼は、真樹にはとても眩しい存在に思えた。
 真樹は自分でも知らない内に、目を細めた。稜がそれに応えるように笑みを零す。それからふと、何かを思い出したような顔つきになった。
「そういえば今日さ、またバイトなくなっちゃったんだ。休むヤツのフォローに入る予定だったんだけど、そいつが急に出て来れることになって」
 稜はそう言って、真樹を上目遣いに見る。
「……でさ、真樹さん、約束まだ果たしてくれてなかったよね?」
「……は?」
 稜の言葉に、真樹の口から何も取り繕わない声が漏れた。
「だからさ、Bのおふくろの味コースが、まだ……」
「あ!」
 思い出し、真樹は素っ頓狂な声をあげた。
 前に家で夕飯を食べさせた時、そんな約束をしたような気もする。その時適当につけた記号を持ち出してくるあたり、稜のおふくろの味コースに対する執念のようなものが感じられて、真樹は思わず笑ってしまった。
「笑うなんて、ひどいな。……ってか、忘れてた?」
「ごめん、ごめん。忘れてたわけじゃ、多分ないけど」
 真樹はスーツの袖の下から、腕時計を振り出した。
「……多分かよ」
 それを眺めながら、稜が不服そうな声でつぶやく。
「なかなかお互いの予定が合わないもんね。じゃあ、今日ご馳走しよっか?」
「やりっ」
 稜は下を向いて目を瞑り、小さくガッツポーズをする。
「でも私、今から会社に帰らなくちゃいけないの。そうね……今から一時間後に、前に会ったコンビニで待ち合わせなんて、どう?」
 既に帰り支度を済ませて校舎の外にいるというのに、このまま学校に残って待っていてもらうのは可哀相だ。だからと言って、今から彼を車に乗せてしまっては、一緒に会社に帰ることになってしまう。彼と一緒にいるところを、会社の人間に見られるのは嫌だった。それなら、ここから近いあのコンビニで待っていてもらった方が、稜も時間がつぶせて都合が良いだろうと真樹は思った。
「わかった。じゃ、待ってる」
 稜は素直に真樹の言葉に従う。真樹も歩き出しながら、片手を上げて見せた。
「忘れないでよー」
 くるりと(きびす)を返した真樹の背中を、稜の声が追いかけた。もう一度くるりと回って彼の方を向き、真樹は大きく頷いてみせた。


 残った仕事を定時ちょっと過ぎには何とか片付け終え、真樹は席を立った。
「お先に失礼しまーす」
 まだ残っている人達に挨拶をすると、真樹はバッグを持って部屋の外に出る。
「あ、先輩」
 エレベーターへと続く廊下で、後から声を掛けられた。振り返ると、片野が資料を抱えて立っている。
「残業?」
 真樹は資料を視線でさした。
「ええ……データに不備があって、差し戻しです。福浦さんに怒られちゃいました」
 そう言うと、片野は少し寂しそうな顔をする。真樹は彼女の肩に手を置いた。
「彼、そういうところ容赦がないから。まあ、それだけ仕事に私情を挟まないってことだから、彼の仕事は信頼できるんだけどね」
 二人で稜の店に行った二日後、片野からチェック室の福浦と正式に付き合うことになったと聞いた。祝福した真樹だったが、これからより一層、片野のデータに対する福浦のチェックは厳しくなるだろうな、とも思ったのだ。
 社内恋愛は難しい。相手が仕事上で関わりがあるのなら、尚更だ。そこに一切の私情を交えてはいけないばかりか、より一層の厳しさを周りは求める。そうでなければ、「何を浮ついた気持ちでやっているんだ」と、二人共が評価を落とされることに繋がるのだ。
 二人の気持ちだけの問題ではなくて、そこに周りの目が加わるから、社内恋愛のハードルは高いと言えるのだろう。
 真樹はポンポンと優しく片野の肩を叩いた。
「頑張ります、私。先輩、お疲れ様でした」
 それに応えて、片野が笑顔を見せる。この子なら、ちゃんと社内恋愛に対する荒波をくぐってゴールまで辿り付けるんだろうな、と真樹は思った。


 コンビニの駐車場に車を入れると、既に稜が中で待っていた。雑誌コーナーで立ち読みをしている。一心に誌面に見入っていて、こちらになど気付いていない様子だった。
 駐車場からガラス越しに見る彼は、雑誌を読む姿もとても(さま)になっていた。
――隠し撮りとか、されてるんだろうな――
 ちらりとそんな思いが胸を過ぎる。
 相手は高校生。しかも、休業中とはいえモデルさんだ。二十七歳でOLをやっている自分とは、あまりにも境遇が違いすぎる。客観的に自分と稜が一緒にいるところを見て、周りの人はどう思うのだろう。
 姉と弟?
 友達?
『マネージャーさんだって何も言わないじゃないですか』
――あぁ、マネージャーとモデルか――
 ファミレスで会った女子高生達が言っていたっけ。
 真樹は苦く笑い、車を降りてドアを閉めた。
 コンビニのドアを開けると、軽やかなチャイムの音が店内に響いた。稜が、ふわりと雑誌から顔を上げる。真樹の姿を見留めると、花がほころぶように笑った。
――可愛い……なんて思ったら、不謹慎かな――
 こんなところで待ち合わせなんて、しない方が良かったのかも知れない。周りの景色に溶け込んでいるようでいて、でもどことなく(まばゆ)い光をまとう稜に、気付いてしまいそうになるから……。
 真樹は慌てて視線を逸らした。入口近くのガムのコーナーに向かって、足早に歩いて行く。見るともなしに商品を眺めていると、背後に人の気配がした。
「なんで逃げるのさ」
 鼻にかかった、稜の声。不機嫌そうだけれど、甘えて拗ねているようにも聞こえる。
「別に、逃げてなんかないわよ。ガムをね……そう、ガムが欲しかったのよ。すっごく」
 真樹は適当に商品を選ぶふりをした。
「ふうん。眠気対策? それとも息爽やか系?」
 稜が後から体を(かが)める。自分の髪に彼の髪が絡んでしまいそうで、真樹は焦った。
「ええっと……息爽やかなのがいい……のかな?」
 慌てて言った言葉は、疑問形でなんだか支離滅裂だ。まるでこれでは、憧れの先輩に声を掛けられて、しどろもどろになっている女子高生のようだ。
「なんだ、それ? うーんと……これなんか、お勧め」
 稜が笑いながら手にとったのは、ボトルに入ったカラフルな粒ガムだった。
「俺、粒ガム好きなんだよね。最初に噛んだ時の、あのシャリッとした感じがたまんない」
 そう言って、ボトルを真樹の手に押し付ける。
「……買うの?」
 真樹は肩越しに稜を見上げた。
「買うんでしょ? 『すっごく欲しかった』んだから」
 稜は眉根を上げて、それに応えた。
「……うん」
 言ってしまった手前、真樹はしぶしぶそれを持ってレジへと歩き出した。
「あ、俺さっきの雑誌買って行くわ」
 稜が雑誌コーナーに目を向けた。
「じゃあ私も、欲しいのあるから」
 真樹も一緒にそこに向かう。若い女性に人気のファッション雑誌の隣に目的の雑誌があるのを見つけ、それを手に取った。
 それぞれが清算を終えて、車に乗り込む。真樹は駐車場を出ると、家とは反対方向に車を走らせた。
「方向、違くない?」
 最初の信号に引っ掛かったところで、稜が言った。
「買物しなくちゃいけないから」
 真樹はこの先にあるスーパーの名前を口にした。今日は自分だけの夕食のつもりだったし、買物は明日するつもりだったから、材料が足りないのだ。
「えー、あそこより真樹さんチの近くのスーパーの方がいいじゃん。安いし、大きいから品数多いし」
 稜が違う店の名前を挙げる。
「俺、あそこのプライベートブランドのココアが好きだったりする」
 まるで引き返せと言っているような目で、真樹を見た。
「だってあなたを連れてるのに、近所の店になんか、行けないでしょう? 私はまだ引越したくありません」
 真樹は、ご近所の目って怖いんだから、と続けた。稜が助手席から身を乗り出す。
「それって、俺のこと、男って認めてくれてるってことだよね?」
 喜々とした声。真樹はこちらにはみ出した彼の膝を、左手でペチッと叩いた。
「テ……っ」
「またその話?」
 真樹は怒ったように、ため息をついた。
「傍目から見たら、あなた男でしょう? それとも、スカートでもはく? そしたら近所の店で一緒に買物してあげてもいいわ。結構似合うんじゃない? あなた、綺麗だから」
 不機嫌だったはずなのに、最後の方は笑いが混じってしまう。そのままクックッと声をたてて笑いながら、真樹は申し訳なさそうに稜を見た。
「……勘弁して下さい」
 稜は両手を小さく挙げて、降参のポーズをとった。
 駐車場に車を止め、スーパーに入る。真樹の家の近くの店とは違って規模は小さいながらも、この店もかなり良心的な値段だった。
「でさ、何作ってくれるの?」
 カートを押しながら、稜が訊ねる。
「そりゃ、おふくろの味って言ったら、肉じゃがでしょう」
 定番メニューの肉じゃがは、真樹も大好きだった。実家を離れる時、一番最初に母に教えてもらったのが、肉じゃがだった。
『栄養もあるし、簡単だからね』
 そう言いながら醤油を足した母の横顔を、今でも覚えている。あれから数年。真樹もいつの間にか、母が自分を産んだ歳を越えてしまった。
「おー、俺、肉じゃが大好き。こう、ホコッて崩れそうなジャガイモがいいんだよね」
 稜の声が、ノスタルジックな思いに捕らわれそうになる真樹を、現実に引き戻した。
「はいはい、ジャガイモを語ってないで、さっさとレジに行く」
 真樹はわざと明るい声を出した。離れた家族のことを思えば、一人で毎日摂る食事の何と味気ないことか。今日は稜が居るから、まだいい。けれどこの先、自分の隣に誰かが居てくれて、当たり前に食事を一緒にするなんていう日が、来るのだろうか。
「へーい」
 またも妙な思いに捕らわれそうになる真樹を、稜の軽い返事が引き上げてくれた。


 二人で食べた食事は、美味しかった。一人で食べるのとは違って、作るのにも気合が入る。美味しいと言ってもらえれば、素直に嬉しいと思えた。
 稜は出されたものを、残さず全部平らげた。全ての料理に舌鼓を打つ姿に、真樹は自分の頬が緩むのを感じた。
――まるで餌付けね――
 彼の背中で振られる尻尾を見たような気がして、真樹は心の中で笑った。


 食器を片付けた後、真樹は稜の向かいに座った。座椅子は二つあって、テーブルを挟んで向かい合うように置かれている。二人は、それぞれがコンビニで買ってきた雑誌を読み始めた。
 真樹が買ったのは、テレビ雑誌だった。一人暮らしなのに新聞をとるのは無駄のような気がして、定期購読はしていない。テレビ雑誌を買えば、ドラマや映画の情報も一緒に見ることもできる。ニュースならテレビを観れば、最新の情報を知ることができた。
 真樹は気になっていた番組の予告編をチェックし終え、何気なくその他のページに目を通した。パラパラとページをめくる指先が、綴じ込みハガキの部分で止まる。そこには結婚情報サービスの広告が載っていた。
「……こういうのも、アリなのかな」
 それをぼんやりと眺めながら、真樹はポツリと漏らした。その呟きに、稜が顔を上げた。自分の雑誌を脇に置いて、膝立ちのままテーブルをぐるりと半周し、真樹の後ろに回る。
「あ、やーらし。そうやってどこかにいい条件の男がいないかって、物色するんだ?」
 真樹の背後から雑誌を覗き込むと、非難の混じった声を上げた。
「やらしいって……」
 真樹は振り返って、稜を睨んだ。
「まあ、でもそういうサービスなのよね、これって。なんだか就職活動みたい」
 自分が今の会社に就職する時の気持ちを思い出し、眉根を上げて苦く笑った。
「あ、開き直った。少しはそこに出逢いの夢を見てる……ぐらい言わないのかよ」
 呆れたような声で、稜が言う。
「別に、あなたの前でカッコつけようなんて思ってないから」
 真樹はピシャリと突き放した。
「どうせ知らない同士がその場で出会って、結婚に向かって付き合い始めるわけでしょ。少しでも条件がいい方が、良いじゃない」
 昔、結婚のことを永久就職だと言った時代があった。今は離婚率も増えて、永久就職なんて言葉、使わなくなってしまったけれど……やっぱりこれも一種の就職のようなものなのかも知れない、と真樹は思った。
「結婚、するんだ」
 改めて気付いたというような顔で、稜が言った。
「何よ。人を変わり者みたいに言わないで」
 真樹は唇を尖らせる。けれどもそれはほんの数瞬のことで、すぐにまた苦い笑みに変わった。
「人と同じように恋人を見つけて、一緒に過ごして、時期が来たら流されるように結婚して、子供産んで……。多分私は、そういった生き方しかできない。人と違ったことをするのが怖いから。みんなと同じじゃなきゃ、安心できないから」
 雑誌を置いて、コーヒーを煎れようと立ち上がる。残された稜は、所在無さげにまた自分の席に戻った。
「要は私、小心者なのよね」
 コーヒーメーカーをセットして、真樹はまた座椅子に座った。再び雑誌を手にすると、綴じ込みハガキが栞のように主張して、先ほど見ていたページが開いた。
 綺麗な女の人が、こちらに向かって微笑みかけている。
「どうせ普通に生活してたって、恋愛にのめり込めるような相手と出逢えないんだから。できれば別れたくないじゃない? そうすると結局、恋愛イコール結婚……になっちゃうのよね。だったら、こういうとこで相手を選ぶっていうのもアリなのかも」
 自嘲するように、真樹は笑った。コーヒーメーカーから、コーヒーの良い香りが漂ってくる。湯のはじける音がしばらく続いて、それは静かになった。


 稜は自分の雑誌を見るふりをしながら、視界の端でそっと真樹を窺った。彼女は雑誌を見ながら、何事か考え込んでいる。
 結婚を口にする彼女は、やはりそれを望んでいるのだろうか。
――真樹さんが、誰かのものになる――
 稜は胸の奥で、何かがぞわりと(うごめ)くのを感じた。
「真樹さんさ、何歳なの?」
 彼女の歳を知らなかったことに、稜はこの時、初めて気付いた。そんなことは、関係ないと思っていた。
「女の人に歳を訊くのは、セクハラです」
 雑誌から顔も上げずに、真樹は言った。
「俺の歳は訊いたじゃん」
 テーブルの向こう側から手を伸ばし、稜はサッと真樹の雑誌を取り上げた。
「あっ、返しなさいよ」
「教えてくれなきゃ、ダーメ。返さない」
「どろぼう」
 手を伸ばして取り返そうとする真樹をからかうように、稜は更に高い位置でヒラヒラとそれを揺らす。
「二十七歳! こら、返せ!」
 どさくさに紛れるように、真樹が叫んだ。稜は真顔になり、ヒラヒラさせていた雑誌をゆっくりとテーブルの上に戻す。
「ふうん。それって、結婚、焦る歳かなぁ?」
 急いで雑誌を取り返す真樹を眺めながら、稜はポツリと呟いた。今のままではいけないのだろうか。いつか真樹は、誰かのものになってしまうのだろうか。
「別に焦ってるわけじゃないわ。ただ、今から恋愛するなら、もう別れるのは嫌だっていうだけ」
 真樹が、雑誌ごと自分の体を抱えるようにして言った。その姿はまるで見えない何かから自分を守ろうとしているようだ。
 稜の胸の中で蠢くものが、心の奥底から何かを引き出そうとする。
 別れることを前提として付き合う恋人なんていないと思う。けれどもそうやって付き合いだした恋人達のうち、何組が結婚というゴールにまで辿り付けるのだろう。
 自分や真樹だって、それぞれに恋人と呼べる人が居た。だけど、真剣に相手と向き合えないせいで上手くいかなくなり、どちらも別れてしまった。
 ずっと相手と一緒に居たいと思う気持ち。そんなもの、今まで感じたことが無かった。
 ――真樹に出逢うまでは。
 稜は、俯いてしまった真樹の、見えない顔を見つめた。
 真樹が他の誰かとの結婚を考えてしまったなら、自分はもう、彼女の傍に居ることができなくなってしまう。
 そんなのは、嫌だ。
 真樹は自分の居場所だ。カッコ良くない自分でもいいと、言ってくれた。迷ったり傷ついたりしてる自分でもいいと、言ってくれた。ありのままの『神鳥稜』でいられる、唯一の場所。
 真樹の傍に居たい。彼女を失いたくない。これを……この気持ちを、何と呼べばいい?
 稜は一点を見つめ、唇を噛んだ。
 結婚という、具体的な言葉を聞いた後だからだろうか。今まで漠然と感じていた気持ちが、稜の体の中で形をとりはじめた。
 突然、頭から電流が流れたように感じた。
――俺は、真樹さんに恋してる?――
 真樹を失いたくない。それは、一人の男として、真樹の傍に居たいということ。彼女の恋愛の相手に、自分がなりたいということ。
 稜は、喉がカラカラになっているのに気付いた。
「コーヒー、できたみたいね」
 真樹が席を立った。顔に風を感じて、稜はハッと現実に引き戻される。
「あ……うん」
 さまよう視線のまま雑誌をテーブルの上に投げ出すと、座椅子にもたれてわざと大きく伸びをした。


 真樹はコーヒーポットを手に取りながら、振り返った。稜が手足を伸ばすのを見て、ふふ、と笑う。
「何でこんな話になっちゃったんだろう」
 笑いながら、それでも心の中では、少なからず動揺していた。何故自分は、余計なことまで言ってしまったのだろう。目の前で伸びをするこの高校生には、何の関わりもないのに。
 自分の恋愛も結婚も、稜には何の関係もない。若さと、希望と、悩みと共に、まだこれから己の道を切り開いて行かなければならない、この子には。
「まずはとにかく、ちゃんと恋愛できるようにならなくちゃ。お互いに、ね」
 そう言ってまた笑い、真樹はこの話を終わらせようとした。マグカップを二つ、もう片方の手に持って、テーブルへ向かう。カップを並べ、ポットからコーヒーを注ぐと、部屋の中に良い香りが満ちた。
 少し考えるような素振りを見せた後で、稜が身を乗り出す。
「俺とする? レンアイ。ちょうどいいじゃん、恋に真剣になれない同士で」
 こちらを見つめる瞳が、妙にキラキラしている。からかわれているのだろうか。言い方も軽く感じられて、何故だか真樹は気分を害した。ぶっきらぼうに、マグカップを差し出す。
「バカな事言わないで。子供と恋愛するほど、落ちぶれちゃいないわよ」
 冷たく言い放つと、稜がカップを受け取ったのを確認し、さっさと手を引っ込めた。
「またガキ扱いすんの? 酒もタバコも……あと、結婚だったっけ」
 子供と言われて、稜も気分を害したようだ。前にした話を持ち出して来る。真樹はそれにもまた、神経を逆撫でされたように感じた。
「もう一つ」
 半眼になって、つけ加える。
「まーた見つけたの!」
「選挙権。ないでしょ、子供には」
 どうだ、と言わんばかりにとどめを刺す。そうして真樹は、心の中で舌打ちをした。
 何をやっているんだろう、自分は。こんなことを言いたいわけではないのに。
「あれ、知らないの? 選挙権あるよ、十八歳以上だもん」
 稜がしれっと言う。そう言えば、何年か前から選挙に参加できる年齢が引き下げられたのだった。真樹はムッとして、更に言い募る。
「……とにかく、高校生なんて子供だって事よ」
「はい、はーい」
 諦めたように言って、稜はそれきり黙ってしまった。唇を引き結んだまま、コーヒーの入ったマグカップを持ち上げた。
「……あちっ」
 カップに口をつけ、その熱さに慌ててまた口を離す。気まずい空気が、二人の間に流れた。
 稜がほとんど飲んでいないカップを置く。
「俺、帰るわ」
 そう言うと、黒いデイパックを掴んで立ち上がった。
「え? じゃあ待って、車……」
「いい」
 立ち上がりかけた真樹を、固い声が制する。
「……タクシーつかまえるから」
 稜はデイパックを肩にかけると、玄関に向かって歩いて行く。リビングからは見えない暗い玄関で、ごそごそとスニーカーを履く気配がした。
「真樹さんにとって、俺はいつまでも年下のガキなんだよね」
 ドアが閉まる寸前、そんな声を聞いたような気がした。