〜16〜
真樹の家を出て、稜は歩いた。外は暗くなりかけていたが、足下が見えないほどではない。けれども空は今にも泣き出しそうで、それがまるで自分の心を映しているかのように思えた。
――あんなつもりじゃ、なかったのに――
稜はひとつ、ため息をついた。
自分の気持ちにやっと気付いた。今まで形になっていなかった想いに、ようやく名前を見つけることができた。
真樹と一緒に居たいという想い。それは、きっと恋だ。
あの時、酔った彼女の唇に触れたいと思ったのも、彼女の口から出た結婚という言葉に動揺したのも――全て、自分が彼女を恋しく想っているからなのだ。
子供、と言われて哀しかった。今までのように、冗談で受け流すことが、どうしてもできなかった。
突っかかってしまった自分を、彼女はどう思ったのだろう。今頃きっと、すごく怒っているに違いない。もしかしたら、もう会ってくれないかも知れない。
――いやだ――
だんだん余裕が無くなってくる。自分でもわけのわからない感情の起伏に振り回され、どうしたら良いのか判らなくなってくる。
『俺とする? レンアイ。ちょうどいいじゃん、恋に真剣になれない同士で』
冗談めかして言ってみれば、やっぱりあっさりとかわされてしまった。少しでもその言葉に、何かを感じて欲しかったのに。
「何やってんだろ、俺……馬鹿みたいだ」
稜は片手で顔を覆い、その場にしゃがみ込んだ。ガードレールに背を預けると、デイパックの金具が当たって、カチンと小さな音をたてた。
風が雨の匂いを運んで来た。遠くから、濡れたアスファルトの匂いが漂ってくる。天気予報は外れだった。今日は一日中、晴れだと言ってたのに。
こんな日だった。初めて真樹の家に行ったのは。足の怪我を心配して、手当てをしてくれた。温かい真樹の手を感じれば、いつになく素直な自分が居た。
モデルをしていることを打ち明け、それまで誰にも言ったことのない胸の内を吐露した。弱音、悩み、葛藤……。
彼女は黙って、それを受け止めてくれた。そんな彼女を、失いたくはないのに。
とうとう空が泣き出した。雨粒が次第に大きくなり、髪を濡らす。毛先から滴り落ちた雫は、頬を伝って地面に落ちた。
制服のブレザーにも雨が染み込んで、肩の辺りが重い。それでも稜は、そこから立ち上がる気になれなかった。
地面を踏みしめる音が近付いてくる。ここはそんなに人通りのない場所だ。傘もささずにしゃがみこんでいる自分は、傍目から見れば不審者のように見えるのだろう。雨に濡れて、なんて惨めなんだ、と思った。
たとえ通りすがりの人にでも、こんな惨めな自分を見られたくなくて、稜は体を小さく縮めた。
「タクシー、待ってるの?」
優しい声とともに、傘がさしかけられる。驚いて顔を上げると、真樹が心配そうに見下ろしていた。
「真樹さん……」
言った語尾が、震えているような気がした。
「すぐにはタクシー来ないでしょ。雨が降り出したから、きっとこの辺で待ってるんじゃないかと思って」
真樹の声が柔らかく響く。彼女の家を気まずい思いで出て来てしまったことなど、まるで無かったかのように。ふと足下を見れば、突っかけた家履きのサンダルの中で、ストッキングの足が濡れているのが見えた。きっとあちこち探して、走り回ったのに違いない。
稜はのろのろと立ち上がった。
「電話、まだしてない」
真樹を見おろす。
「だから、いつまで待っても、タクシーは来ないんだ」
苦く笑うと、稜は真樹の手から傘を受け取った。
「濡れてるわよ。制服もビショビショじゃない。乾かさなきゃ」
真樹は傘を稜に預けたまま、雨の中を歩き始めた。彼女を濡らしてはいけないと思うから、稜も傘をさしたまま、その後をついて行く。しばらく無言で歩いた後、二人は真樹の家に戻っていた。
「さ、入って」
畳んだ傘を受け取って、真樹が促す。
「いいの?」
遠慮がちに、稜は訊いた。
「風邪ひくから」
真樹は稜の背中をそっと押した。促されるまま稜は玄関を上がる。出されたスリッパに履き替えてリビングに入ると、ほとんど中身の減っていないマグカップが二つ、出て行った時と同じように、テーブルの上に置いてあった。
「ブレザー脱いで。乾かさなきゃ」
真樹が後ろからブレザーの衿に手をかける。稜が体を
捩ると、それはスルリと脱げた。
「真樹さん、あのさ……」
「ごめんね」
真樹が、稜の言いかけた言葉をさえぎった。
「本当は、あんなこと言うつもりじゃなかったの。子供だなんて馬鹿にしたみたいな言い方して……ごめんなさい」
それだけを言うと、真樹はブレザーを持ったまま、稜の傍から離れて行った。すぐにフェイスタオルを持って引き返して来る。
「それで適当に拭いてて」
突っ立ったまま何も言わない稜に、半ば押し付けるようにそれを渡すと、真樹はまた戻って行く。しばらくして、洗面所から、トントンと何かを叩く音がした。きっと真樹が、タオルでブレザーを乾かしてくれているのだろう。稜はフェイスタオルを握ったまま、座椅子に座って、膝をかかえた。
突っかかってしまったことを、謝ろうとしたのに……彼女は何故自分があんなことを言ったのか、ちゃんと判っていてくれた。
子供と言われて、哀しかったこと。だから、いたたまれなくなって、飛び出してしまったこと……。
目の前で揺れる前髪から、ポタリと雫が落ちた。
突然目の前に、白くて柔らかいものがふわりと降ってきた。フェイスタオルから手を離して慌てて掴むと、それは乾いたバスタオルだった。
「……え?」
振り向けば、いつの間にか傍に真樹がいる。ブレザーの水滴をあらかた拭き取り終えて、戻って来たらしい。
「髪の毛、濡れてる。何よ、まだ拭いてなかったの?」
そう言いながら、バスタオルの上からごしごしと稜の頭を拭いた。
「イテテ……乱暴だよ、真樹さん。イテ……マジ、痛いって」
抗いながらも、稜は嬉しかった。相手が真樹だと思うからなのだろうか。その手の動きは乱暴だったけれど、彼女の気遣いを感じた。しばらくそうやってじゃれ合うように頭を拭かれていると、さっきの気まずい空気なんて、何も無かったように思えてくる。
こんな風に、無防備に人と触れ合ったことなんて、あまり記憶になかった。モデルの仕事をするようになってからは特に、なるべく人と深く関わらないようにして来たのだ。
あけっぴろげの心のまま真樹に触れられていると、その体温ごと彼女の気持ちが染み込んで来るようだ。
頑なに守って来た砦が、いとも簡単に崩れて行くのを感じる。それはとても心地の良いものだった。
「俺、誰かに触れられるのって苦手だって思ってたけど、本当は全然逆なんだって、今気付いた」
ポツリと漏らす。
「え?」
頭の上を動き回る真樹の手が止まった。
「たくさんの人が近付いて来た。でも、同じだけたくさんの人が、俺の傍から離れて行った」
バスタオルに手をかけ、稜はそれを引き下ろした。真樹の顔が間近にある。
「どうせ離れて行くなら……って思って、こんな近くに、人を寄せ付けなかったんだよね。でも今は、なんか嬉しいかも」
ハラリとバスタオルが床に落ちる。横で真樹が、それを拾い上げた。
「……コーヒー、冷めたわよ」
真樹がテーブルの上のマグカップを持ち上げて、差し出した。言われるままそれを受け取って口をつけると、もうそれは飲み頃を過ぎるほど冷めていた。
「ホントに冷めてる」
稜は顔をしかめて見せた。カップをテーブルに戻す。
「考えたら俺、もっと小さい頃から、そんなだったような気がする。……あ、そっか。俺、あんまりギュッて抱き締めてもらった記憶がないんだ。母さん忙しかったからさ、いつも背中ばっかり見てて」
稜はまた膝をかかえて、遠い目をした。
「ずっと……無条件で受け止めてくれる腕が欲しかったのかも知れない」
だから、昔の自分のことなど知らない真樹を――何の先入観も無く、自分を受け入れてくれる真樹を、失いたくないと思ったのかも知れない。
ふざけた真樹に、後から抱きつかれたことがある。首に回された腕が温かかった。真樹の腕から解放された時、首が妙にスカスカした。それは自分で触れても埋められない温もりで、もう一度そこに人の体温を感じたいと思った。
その時からだろうか。自分の周りには、人の温もりが足りないのだと自覚し始めたのは。人と関わりたいと――真樹と関わりたいと、思い始めたのは。
「……なーんてね」
稜は笑いながら、自分でも意識しない内に、指先で自分の首筋をなぞった。
稜の綺麗に整った指先が、自分の首筋を撫でている。真樹はそれを見ながら、きっと彼は、たった今もそこに誰かの温かい指先が触れることを望んでいるのだろうと思った。
たくさんの人に囲まれて、でもそれは、いつ離れて行ってしまうのかも判らないほど不安定な温かさで。
――差し延べられた手を、何の疑いもなく取っても良いのだろうか。
――目の前で微笑む人が、本当に微笑んでいるのだと思っても良いのだろうか。
いつもいつもそんな風に考えて、きっと彼は自分から飛び込むことをやめてしまったのだろうと思った。
無条件で受け止めてくれる腕が欲しかったと、稜は言った。どんな状況であれ、一人で乗り越えて行くしかないと腹を括ったはずの、彼が。
それは自分にだけ見せることのできる、彼の弱さなのかも知れない、と真樹は思った。
真樹の体が、ふわりと動いた。
「……!」
稜は突然の出来事に、言葉を失った。心臓が、その動きを止めたように思える。
目の前にいた真樹が、ゆっくりと腕を広げた。彼女の指先からバスタオルが落ちるのが、スローモーションのように見えた。その体が近付いて……。
「こんな風に?」
真樹の声が、すぐ近くから聞こえた。自分の頭の後ろに、彼女の頭がある。体を通して直に聞こえるその声は、膝立ちのまま自分の首を抱き締めている真樹のものだった。
「……な……っ」
何故? そう問いかけたい気持ちを、必死で押しとどめる。言葉にして訊いてしまえば、きっと真樹はすぐにでも離れて行ってしまうだろう。
「……真樹さん……?」
稜は、回されている真樹の腕に、そっと手を添えた。逃げないように……離れていかないように。
「黙ってて。恥ずかしいから」
真樹が稜の首を抱いたまま、ピシリと言った。その声は固くて、期待したような甘いものではなかったけれど。
「こんな風に、いつだって受け止めてあげるから……だから大丈夫」
小さな声で恥ずかしそうに付け加えられた、真樹の言葉。
「うん……」
稜は目を瞑った。そうして、唇の端を引き上げた。ほうっと小さく息を吐くと、真樹の体温が、じんわりと自分の体に染み込んでくるような気がした。
温かい。
人の体が、こんなにも温かいものだったなんて。真樹に抱き締められることが、こんなにも嬉しいことだったなんて。
真樹の腕に添えた手が、熱を持ち始めた。一瞬鼓動を忘れたかのように思えた心臓が、うるさいくらいに鳴り出す。
――離れられないかも――
この気持ちに気付かなかったふりなんて、もうできない。真樹を手に入れたい。
「……真樹さん」
稜は真樹の腕から手を滑らせた。自分を抱き締める背中に、その手を回して引き寄せる。真樹が、ビクリと体を強張らせたのが判った。
抱き寄せられて初めて、真樹は自分が何をしたのかを理解した。ただ稜の寂しさを埋めてあげたいと思っただけなのに……まさかそれに、彼が応えて来るとは思わなかった。
「俺さ……」
稜が独り言のように呟く。真樹は、彼の首に回した腕を緩めた。彼の肩に手をかけ、体を引き剥がそうとする。けれども稜の腕は、真樹が離れることを許さなかった。
「なんでこんなに真樹さんに逢いたいと思うのか、って考えた。どうせ相手にされないのに……って思ったりもした」
稜の声が、甘く響く。
「だけど、何やってても、いつの間にかあなたのことばっか考えてる自分がいて。自分でも、わけわかんなくなって」
何か言わなくてはいけない――と、真樹は思った。けれども稜の声に絡め取られてしまったようで、唇が動かない。
「胸んとこ、モヤモヤして息苦しくなって……気が付くと、あなたに電話してた。あなたの声聞くと、安心できた」
真樹を抱き締める稜の腕に、力がこもる。
「なんだか……居心地がいいんだ、あなたの隣。肩肘張らなくても、どんなダメなとこ見せても、あなたになら受け入れてもらえる気がする。ありのままの自分でいられる場所……それがあなたなんだ。失くしたくないって思う」
抱き締められる力の強さに、息が詰まりそうになる。真樹は稜の声を聞きながら、彼がこれから言おうとしていることを、聞いてはいけないような気がした。
「待っ……」
「ちゃんと聞いてよ」
止めようとした言葉は、稜にさえぎられた。顔は見えないのに、まるで彼が泣きそうな顔で笑っているのが見えるような気がして、真樹はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
「これってさ……この気持ちってさ……。自分でも嘘だろ、って思ったけど」
稜の腕の力が緩む。彼の肩にかけたままだった真樹の手が、反動で自身の体を押し返した。
間近に稜の顔があった。その唇が、ゆっくりと開く。
「……あなたが、好き」
「……!」
真剣な瞳で見つめられて、真樹は自分の体が動かなくなったことを知った。
「俺、こんな風に思ったの……こんなに誰かを欲しいと思ったの、初めてで。傷付くの怖がって、いつも真剣に人と向き合うことから逃げてた。でも今度は逃げたくない。……ていうか、逃げちゃいけないと思う。それ位あなたが欲しい。あなたの一番近くに居るのが、俺でなくちゃイヤなんだ」
切羽詰まったような声で、稜が言う。真樹はその声に懸命に抗って、ようやく体の自由を取り戻した。寄越される真剣な眼差しを、引きつった笑みでかわす。
「……だめ。そんなの、一時の気の迷いに決まってる。若いから、つっ走ってるだけよ。ほら、頭冷やして」
片手を伸ばし、手近にあったマグカップを稜に向かって押し出した。テーブルに底が擦れて、濁った音が聞こえた。そのまま真樹は俯いて、落としたバスタオルをまた拾おうとする。
「ダメだよ。逃げないで」
その腕を、稜が掴んだ。
中腰で視線を床に落としたまま、真樹は唇を噛む。髪が肩から零れて、頬にかかった。
「私はあなたの事、そんな風に思えない。あなたと恋愛なんて……そんな事できないって分かってる。私が欲しいのは、あなたじゃない」
俯いたまま、真樹は言った。白いバスタオルの生地が眩しく光って、目が痛い。
……嘘。こんなの、嘘だ。
稜の存在を認め始めていることに、自分はとっくに気付いていたはずだった。
コンビニのガラス越しに、稜を見た時。
彼に『姉ちゃん』と呼びかけられて、苛立った時。
ふらつく体を抱き留められ、その距離の近さに戸惑った時。
けれども真樹には、どうしても認めることができなかった。気付きそうになる自分の心に無理やり蓋をして、見ないふりをした。
「なんでだよ。なんで、俺じゃだめなんだよ。あなたが大人だから? 大人のあなたには、ガキの俺なんか不釣合いだっての?」
稜の言葉が、耳に痛い。子供だからという理由をつけて、また彼を傷つけたくない。ちらりと彼の顔を窺えば、澄んだ瞳が自分を見つめている。嘘は許さないと、きつい眼差しが自分を捉えていた。
真樹は眉根を寄せた。
「あなたは何も分かってない。気持ちだけじゃ……世間は認めてなんてくれないもの」
それだけをやっと言って、真樹は顔を背けた。
「そうだよ。あなたの言う通り、俺は何もわかっちゃいない子供さ。だけど、ひとつ言えることがある。この気持ちは……あなたを想うこの気持ちは、本物だってこと。陳腐な言葉かも知れないけど、本気で好きなんだ。誰にも負けない。傍にいたい……触れていたい。俺の全部で、あなたを愛してる!」
稜が声を荒げた。それでも視線を上げることができずに、真樹はじっと床を見つめていた。
彼が言葉をくれる度、呼応するように自分の心が震えているのを感じる。嬉しいからか、それとも怖れからなのか……。
真樹は重い唇を開いた。
「……それは錯覚よ。彼女と別れた後で、たまたま私が傍にいたから。少し長く一緒に居すぎたから、そんな風に思って……」
応える声には、力がない。
「違うよ。そんなんじゃない」
稜が静かに否定した。真樹の肩に手をかけ、背けた瞳を覗き込もうとする。真樹は彼の視線を避けて、一層頑なに床を見つめた。
「違わない。このまま一緒にいたって、何もいいことなんてない。周りに何か言われる度、傷付いて……」
真樹は眉根を寄せ、目を瞑った。揺れる心の中を見透かされてしまいそうで、怖かった。肩にかけられた稜の手に、力がこもるのを感じる。
「言ってよ。そんな優等生的な答えじゃなくて、本当の気持ち、言葉にして俺に伝えてよ。でなきゃ、わかんない。心ん中で思ってるだけじゃ、わかんないよ。周りがどうとか、関係ないよ。そんな言い訳聞くために、ここに居るんじゃない。あなたが俺のこと、どう思ってるのかって事だけが……それだけが……あなたの本当の気持ちが知りたい」
稜の声は、さっきと打って変わって穏やかだ。諭すように、じわりと心に染み込んでくる。彼の気持ちに応えられないと決めている今の真樹には、声を荒げられるよりもそちらの方が辛かった。
「さっきも言ったでしょ? 私は……あなたをそんな風に、想っていない」
何かを守るために、真樹は嘘を塗り重ねた。
――世間体?
――大人の分別?
それが何なのかは、自分でもよく判らなかったけれど……それが稜のためにも、自分のためにも、一番良いことなのだと思えた。
二人の間に沈黙が降りる。付けっ放しだったコーヒーメーカーが、水滴を得て、小さく爆ぜた。
稜がため息をつく。無理やり何かを諦めるように、ゆっくりと小さく横に首を振った。
「分かった。真樹さんが嫌だって言うなら、今すぐ気持ちに応えて欲しいなんて言わない。でも……」
真樹の肩に手を置いたまま、今度はしっかりと瞳を捉える。
「でも、今までみたいに、傍に居ることだけは許して。それさえも、俺から奪わないで」
その瞳はやっぱり純粋なままで――そして、今にも泣き出しそうな色に染まっていた。