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あなたが、好き。


〜17〜


 真樹は一人、照明の落ちた昼休みのオフィスにいた。今日もまた当番として残っている。本来当番だった女性社員が体調不良で休んだので、その代わりに真樹が臨時で引き受けたのだ。
 片野は福浦と一緒にランチに行ったようだし、他の社員もそれぞれお気に入りの店に昼食を摂りに行ってしまった。誰もいない部屋はガランとしている。いつもは時折電話が鳴るのだが、今日に限って一本もかかって来なかった。
 真樹は自分の机の隅に広げた指示書に従って、外注から上がって来たデータをクライアントの指定した様式に従って変換していた。いつ外部からの電話で中断させられるか予測がつかないから、昼休みのこの時間はいつも、一定のキー操作をした後はパソコン任せにできる作業に充てることにしている。
 静かな部屋の中で、真樹のパソコンのハードディスクだけが時折カリカリという小さな音を立てていた。この音が鳴り始めると変換作業も終わりに近付いたことを示す。もう少しでポップアップの画面が、作業の終了を報せてくれるだろう。
『あなたが、好き』
 昨夜稜がくれた言葉が、ふと耳元で聞こえたような気がした。
 自分の気持ちを口にしないまま曖昧にしてあの場を終わらせてしまったが、思い出せば心の中に温かいものが(とも)ったように感じる。だが同時に、冷たいものが背筋を這い登ってくるようにも感じるのだ。
 世間はきっと、二人を許しはしない。
 稜が今までみたいに傍に居させて欲しいと言ったから、前のように着信拒否はしていない。けれども真樹は、彼に会うのが怖かった。引き摺られて行く自分を感じるのが、恐ろしかった。
 これ以上逢わない方がいいのではないかと思う。だがそう思う心の片隅で、逢いたいと願う自分もいる。
 誰かに必要とされることが、自分にも必要なことだと気付いてはいた。だがいつの間にかその相手が稜である事に、喜びを感じている自分を見つけてしまった。
 このまま二人で進むことはできないだろう。これが同年代の者同士の付き合いなら、何も問題は無いのに。二十七歳という自分の年齢が――十八歳という稜の年齢が、二人で居ることを許さない。
 もうすぐ昼休みも終わる。軽いお報せ音と共に出てきたポップアップの画面を閉じ、真樹は小さくため息をついた。


 暗く電源の落ちたままの携帯を手の中で弄びながら、稜は携帯の動きに翻弄されて揺れるストラップを眺めていた。昼休みの校内は、絶え間ないざわめきが支配している。体育館下のピロティにも、それは聞こえて来た。校内放送で流される流行の曲が、よく知っているものに変わる。それに合わせて軽くつま先でリズムをとり、稜は携帯を何度もひっくり返した。
 昨夜は真樹に上手くはぐらかされてしまった。あれ以上追い詰めるようなことをすれば、もう来るなと言われてしまいそうだったから、彼女の気持ちを強くは訊けなかった。
 嫌われているとは思えない。嫌いな相手に食事を作ってくれるほど、真樹はおめでたい人間ではないだろう。自分に向けられているのは好意だと思いたい。だが弟のように思われているのか、それとも男として見てくれているのかがよく判らない。
 自分が想っているのと同じぐらい、自分を想ってくれているなら嬉しい。でもそれは有り得ないだろう。日に日に育っていく真樹への感情は、自分でもコントロールできないくらいに稜の中で大きくなってしまっていたのだから。
 唯一真樹と繋がっているように思えるのは、この携帯。傍に居ることは許してくれたから、きっと前みたいに着拒はされていないと思う。
 あんな事があった後だから、彼女からかかってくることは無いだろう。自分からかけてみようとも思ったが、これ以上しつこくしたら嫌われてしまいそうで怖い。
 我ながら情け無いとは思うけれど、まるで初めて人を好きになったようなとまどいに、稜は翻弄されていた。


 退社時刻を告げるチャイムが、室内に鳴り響いた。真樹のパソコンは、まだカリカリという音を立てながらデータの処理をしている。ほうっ、と息をついて視線を宙に彷徨わせると、斜め前の席から片野が遠慮がちにこちらを伺っているのに気付いた。
「……どうしたの?」
 眉根を上げて、真樹は訊ねた。片野の仕事はきりがついているらしく、彼女のパソコンの電源は落とされていた。だが机の上を片付けるでもなく、視線はこちらに向けたまま、手は所在無さげに処理済の原稿の束をもてあそんでいる。
「先輩、今日これからお時間ありませんか?」
 言ってしまってから、片野は何かを堪えるように唇を引き結ぶと、視線を原稿に落とした。
 真樹は自分の机の上を見回した。まだ仕事は残っているけれど、明日に回せないこともない。それよりも片野の様子がいつもと違うことに、真樹はいくばくかの不安を感じていた。
 そういえば昼の休憩から戻って来てからの片野は、口数が少なかったように思う。いつもなら些細なことでもきちんと真樹に確認を取ってから仕事にかかるのに、午後からの彼女はずっと黙ったままだった。もっとも彼女の仕事はそれでも充分信頼に足るものなのだけれど。
「ええ、いいわよ。今日は私、車で来ているから飲めないけど」
 真樹がそう言い終わると、短くお報せ音が鳴ってポップアップの画面が処理の終了を告げた。
「良かった……有難うございます」
 片野が安堵したように微笑む。けれどもその表情には、はっきりとは感じ取れないが少しばかりの影がさしているように見えた。
「お店は……そうね、私の知っているところでいい?」
「はい、先輩にお任せします」
 手はパソコンのキーボードを操作しながら、真樹は片野の言葉に応えるように笑って見せた。
 片野に店の選択を任せなかったのは、今日は稜のいる店に行きたくなかったからだ。片野は稜のことを気にしていたみたいだから、またあの店に行こうと言うかも知れない。そうすれば、おそらく稜にも会うことになってしまうのだろう。昨夜あんな事が有ったばかりだ。どんな顔をして会えばいいのかよく分からない。自分の中で、まだ気持ちの整理がついていなかった。
「じゃあ……」
 けれども真樹の知っている店なんて、そんなにたくさん有るわけではなかった。どこに行こうかと考えて一番最初に頭に浮かんだのが、元彼の耕治と一緒によく行った店だった。
 今でもあの店の中に入るのは勇気がいるのではないかと思う。別れの景色を彩った、店の内装。あの時飲んだカクテルの色。あれから一度もあの店を訪れたことはなかった。思い出せば、ふさがりかけていた心の傷が(うず)く。
 不意に、稜の言葉が胸に蘇った。
『あなたが、好き』
 あの時の、泣き出しそうな色に染まった彼の真摯な瞳を思い出した。チリリと心が痛んだけれど、ほんの少し、呼吸が楽になったのを感じる。
 自分は誰かに必要とされている。こんな自分でも、傍にいて欲しいと言ってくれる人がいる。それが例え九つも年下の高校生だったとしても――誰からも必要とされなくなってしまったわけではないのだと思えることが、今の真樹には救いだった。
 少しだけ長く、息を吐いた。反動で吸い込んだ空気は、次に紡ぐ言葉への勇気をくれる。
「いいお店を知っているの」
 なるべく綺麗に笑うように努力しながら、真樹はパソコンの電源を落とした。


 店の中はしばらく来ない間に模様替えしたのか、あの時とは様子が違っていた。壁に掛けられたタペストリーは以前より明るいものに替えられていたし、店内のあちこちに貼られた洒落たお品書きは紙の材質が変わり、落ち着いた色になっていた。
 そう言えばこの店は、季節ごとにメニューが少し入れ替わる。その度に店内のお品書きも新しいものに替えられ、それに合わせてタペストリーもかけ替えられるのだ。
 耕治と別れてから、ほんの少しだけ季節が巡っていた。
「向こうの席が空いているけど……あそこでいい?」
 真樹は一番奥の壁際の席を目立たないように指さして振り返った。
「はい」
 片野が笑顔で応える。会社にいた時よりも、少し表情が和らいでいるようだ。真樹は安堵の笑みを浮かべると、先に立って歩き始めた。
 席につくと、ウェイターが注文を訊きに来た。車を運転して来た真樹は、アルコールではなくてソフトドリンクを注文する。
「私ばっかり飲んじゃって、すみません」
 カクテルを頼んだ片野が、ペコリと頭を下げた。
「いいのよ、私もそんなに飲みたいわけじゃないから。晩御飯を食べるつもりで、ね」
 そう言うと、真樹は小首をかしげて眉根を上げて見せた。片野がうなずきながら笑う。すぐに運ばれて来た飲み物のグラスを手に持ち、二人はとりあえず仕事が終わったことに乾杯した。
「先輩……」
 グラスの中身が半分になり、料理の皿を少しつついたところで、片野が話を切り出した。
「今日のお昼休み、福浦さんとランチに行ったんです」
「そうみたいね。チャイムが鳴る前にデータ管理部の前に彼がいたから、呼びに来たのかな、と思ってたわ」
 そう言いながら、真樹は大皿の料理を自分の皿に取り分ける。片野が勢いをつけるように一気にグラスを傾け、淡い色のカクテルを飲み干した。
「福浦さん……今度の異動の対象者になったらしいんです」
 グラスをテーブルの上にそっと置き、片野がぽつりと言った。そのまま小さく息をつき、重力に引かれるように首をうなだれる。
「え?」
 真樹は俯いてしまった片野の手元を見つめたまま絶句した。グラスに添えられた整った指先が、水滴に濡れて光っている。
 真樹の会社は入社してから三年間は全員が本社に勤務することになっていた。そんなに多くはないけれど支社がいくつか有り、入社時には本人が最終的に落ち着きたい支社の希望を出すことになっている。もちろん本社に残ることも可能だし事情が変われば変更することもできるが、八割ぐらいの人は実家近くの支社への異動を希望するらしい。
 確か福浦の実家はそんな支社の一つの近くだったはずだ。何かの折に、いずれはそちらに異動したいと言っていたのを思い出す。
「そう……それにしても、早いわね」
 福浦はこのあいだ二十四歳の誕生日を迎えたばかり。大学を卒業してこの会社に入ってから、まだ二年目だ。短大を卒業して入社した片野とは同期で、だからこそ接点もあったのだが……。
「急に支社に欠員ができてしまって、今のところそちらを希望していたのが彼だけだったみたいです」
 指先の水滴をもてあそびながら、片野が言った。
「それで……どうしたいか、って訊かれたんです」
 片野がテーブルの上で指を組んだ。少し迷ったような素振りを見せた後、ゆっくりと視線を上げた。
「どうしたいかって、ひょっとして結婚とか?」
 真樹の問いに、視線を合わせたままの片野がうなずく。
「ついて来る気はあるか、って訊かれました。でも私達、付き合ってそんなに経ってないし……正直まだ私、結婚なんて考えたことありませんでした」
 そう言ってまた顔を伏せ、ため息をつく。思いもよらず突然人生の岐路に立たされて、戸惑っているようだ。
 結婚はゴールではなく、そこからまた新たな生活を始めるためのターニングポイントに過ぎない。そして女にとっての結婚後の生活は、それまでの人生とは全く違ったものになる可能性もあるのだ。
 仕事や姓、ともすればそれまで培った人間関係まで捨てなければならないこともある。たった一人の人生のパートナーを得るために、自分の現在の生活の大半を諦めなければならないことも――。
 生活拠点がそれまでの所から遠く離れた土地に移るとなれば、尚更だ。パートナー以外の人間を全く知らない状態で、新しい生活を始めなければならない。
 そんな事実を突きつけられて、不安にならないわけがない。そうまでして本当に手に入れたい相手なのか、見極める自信がないと言うのもうなずける。
 けれど……。
「あなたは、福浦君が好き?」
 真樹は静かな声で訊ねた。
「……はい」
 組んだ指を見つめ、片野が応える。
「彼のこと、入社した時からずっと好きだったのよね?」
 真樹の問いに、片野が弾かれたように顔を上げた。
「何となく判ってたわ、あなたの気持ち。福浦君と話す時のあなた、とても幸せそうだったもの」
 真樹は唇の端を持ち上げる。
「付き合った時間の長さなんて、関係ないと思う。恋人として付き合う前から二人はずっと同僚として一緒にいたわけだから、お互いのことも良く判っているでしょう?」
 片野が黙ってうなずいた。
 彼女には確か兄と弟がいたはずだから、家を離れて嫁ぐことができる。聞いていた家庭の事情に間違いが無ければ、片野と福浦の結婚に大きな問題は無いはずだ。
「突然のことだから戸惑っているのね。でも好きな人から必要とされて、社会的にもその人と添い遂げることに何も問題は無いなら、後はあなたの気持ち次第なんじゃない?」
 頭の中で、昨夜の稜が『あなたが、好き』と真摯な眼差しを寄越す。真樹はあわててその幻影を打ち払った。
 片野は自分とは違う。好きな人に何も臆することなく好きと言うことができる。二人が一緒に居たところで、世間の人々が後ろ指を指すことなどあるまい。
「そう……ですね。何も問題は無いと思います。お互いの実家も行き来していますけど、向こうのご両親も気さくな方達ですし」
 片野の指が、空のグラスの縁をなぞる。
 お互いの実家を行き来しているのなら、福浦も片野もこの恋に本気だということだ。社内恋愛というハンデを乗り越え、なおかつ家族にも紹介し合っているのなら、行く末を考えてちゃんとした付き合いをしているということになるだろう。
 時期が来れば自然とそういった流れになったのだろうけれど、福浦の異動という突然の事態でその流れが少しばかり狂ってしまっただけなのだ。彼にしたって、何もかもを一時(いちどき)にどうこうしようと考えているわけではあるまい。
 真樹はそう思い当たり、ふふ、と笑った。片野がそんな真樹に不思議そうな視線を寄越す。
「何も、異動と同時に結婚して欲しいなんて言われているわけじゃないんでしょう?」
「ええ……それは」
「それなら彼は、確かな約束が欲しいのよね。異動してしまえば、遠距離恋愛になる。二人の想いが強くなければ遠恋なんて続かないから、その前にあなたの気持ちを確かめたかったんじゃないかな」
 片野の迷いを断ち切るように、真樹は明るくはっきりした声で言った。おそらく福浦も突然のことに慌てているのかも知れないし、動揺した片野が彼の言うことをしっかりと把握していなかっただけなのかも知れない。
「さっきの条件はクリアしていて、福浦君を好きだっていう気持ちが本物で、それでもまだあなたに迷いがあるなら……あとは福浦君と、結婚の時期についてしっかりと話し合って決めてしまうことね」
 だらだらと続く遠距離恋愛は、悲しい結果になることも多い。二人が同じゴールを見据えて一緒にハードルを跳び越えて行く気持ちがあれば、きっと近い内に良い報せがあるだろう。
「それとも、福浦君と結婚するのはやめて、別れちゃう?」
 少し意地悪く訊いた真樹に、片野は驚いた表情でふるふると首を横に振って見せた。
「別れないで付き合っていけば、いずれ結婚って話になるわね。どう? 結婚するの、嫌?」
 畳み掛けるように真樹は問い掛ける。
「結婚……したいです」
 そう言って、片野はようやく安堵したように表情をほころばせた。
「突然のことでびっくりしてしまって……先輩、有難うございました。一人で考えていても、同じところをグルグル回っているばっかりで」
 片野は固く組んでいた指をほどくと、ホッと息をついた。傍を通ったウェイターを呼びとめ、おかわりのカクテルを頼む。真樹も氷が溶けて薄くなったソフトドリンクのおかわりを頼んだ。
 注文し終え、真樹と目が合うと、片野は照れくさそうに肩をすくめてうなずいて見せる。
 真樹はそんな彼女を可愛らしいと思うと同時に、心の奥で何かが(うごめ)いたのを感じた。すぐさまそんな感情は押し込めてしまったが、その残滓(ざんし)は真樹の心の奥底に見えない染みを作った。染みは徐々に広がって、真樹の瞳に(かげ)りを作る。
 それまでに片野に掛けた自分の言葉が、やけに薄っぺらく感じられた。
――何やってるんだろ、私――
 自分のこともままならないくせに、良い先輩を演じている自分に反吐が出た。


 片野を最寄の駅まで送り届けると、真樹は家路についた。そんなに長く店に居たつもりは無かったのだけれど、気がつけばもうすぐ日付が変わろうとしている。
 車のウインドウ越しに見える夜景は、キラキラと瞬いては後に流れて行った。
 先輩風を吹かせて、片野には偉そうなことを言ってしまった。彼女のことを可愛く思っているし、仕事上では頼りにもしている。そんな後輩の幸せを、願わないわけはない。
 けれども人として――女性として着実に人生の階段を昇って行く片野に比べて、自分はどうなのだろうと、ふと思う。目の前のハードルも満足に跳び越えられない自分が、人の後押しをするなんて……滑稽だ。
――そんな資格、無いのにね――
 不意に、視界が波立った。幸い道路は空いていたから、ハザードランプをつけて脇に車を寄せる。サイドブレーキを踏んだ振動で、暖かい雫がポタリと膝に零れた。
「やだ……私」
 何を泣いているのだろう。自分は何が悲しいんだろう。
 助手席に置いたバッグのサイドポケットから、携帯が覗いているのが見えた。縋るようにそれを手に取り、そっと開く。桜の待ち受け画面が、暗い車内では目に痛いほど光って見えた。
 毎年春が来れば綺麗に咲き誇り、一斉に散って行く。あれこれウジウジ悩んで立ち止まっている真樹など置いて、潔いほど全てを断ち切って散ることを選ぶ。その散り際さえ綺麗だと言ってもらえる桜。
 自分もこうありたいと、真樹はこの花を待ち受けに選んだ。清楚な淡いピンク色が画面一杯に咲いている。
 やがてバックライトが切れて、待ち受けの画面は暗くなった。もう一度ライトを付けようと電源ボタンを押し、その指がスルリと画面の上を滑って着信履歴を呼び出した。ピ、と短い音が聞こえ、画面が変わる。そこには何日か前に貰った稜からの通話が記録されていた。
 ハザードの規則正しい音を聞きながら、真樹は稜の名前を指先でなぞった。やがてその名も、バックライトの消灯と共に見辛くなる。
 分別あるいい大人って、何だろう。世の中の常識に従って、間違いの無い判断を下すことのできる人のことだろうか。ならば間違いとは何だろう。稜が真樹を好きなこと。真樹が彼に必要だと言ってもらえることに喜びを感じていること。それらは全て、間違いなのだろうか。
 真樹は目を瞑り、手の中に開いたままの携帯を握りこんだ。
『トゥル……』
 発信音が聞こえて、真樹はハッと我に返った。そんなつもりは無かったのに、指はいつの間にか発信を押してしまっていたらしい。
――切らなくちゃ――
 もう遅い時刻だ。バイトが入っていたとしても、既に彼は家に帰って寝ている頃だろう。真樹は終話ボタンに指を伸ばした。けれどもそれを押す前に、突然発信音が途切れた。
 恐る恐る携帯を耳にあてがう。スピーカーから、少し抑えた稜の声が聞こえた。
『……さん……真樹さん?』
 鼻にかかった、少し機械的に処理された声。着信画面に真樹の名前が表示されているのを見たのだろう。稜の声が真樹の名を呼ぶ。
「あの……、私」
『どうしたの? こんな時間に』
 スピーカーから聞こえる稜の声が、優しく身体を包み込んで行くように思える。それを意識した途端、真樹の視界が新たに波立った。
「……っ」
 思わず眉根を寄せれば、ポタリと暖かい雫がまた、膝に落ちた。
『……泣いてるの?』
 戸惑ったような声が聞こえる。
「違うのよ。ちょっと……風邪ひいたのかな」
 真樹は咄嗟にその場を取り繕おうとした。だがわざと明るく笑ってみせようとした途端、思わず息が乱れてしゃくり上げてしまった。
『嘘だ、泣いてる』
 稜の声が心配げに響く。
「うん……そうかも」
 相手の顔が見えなかったからかも知れない。真樹は素直にそう言うと、携帯を耳から離し、零れる涙を手の甲で拭った。息が乱れている内は話をすることなんてできない。自分がどうして泣いているのかもよく判らなくて、真樹は戸惑っていた。
 けれども携帯の向こうには、稜が居る。真樹が落ち着くのを、黙って待ってくれているようだ。
 それだけの事なのに、真樹は救われたような気がした。自分は一人ではないのだと感じることができた。
 照れや見栄が、実家の家族にこの言いようの無い寂しさを打ち明けるのを躊躇わせる。会社の人間にも、弱味を見せるわけにはいかない。友人には友人の生活がある。今ここで、自分のために黙って待っていてくれるのは、自分を必要だと言ってくれた稜しか居ない。
 心の中で彼の存在が確実に根を下ろした事を、真樹は認めざるを得なかった。


『何してたの?』
 少し落ち着いたらしく、しばらくするとまた真樹の声が戻って来た。
「ん? 携帯眺めてた」
 稜はいつでも話せる状態で、彼女を待っていた。少し湿った声だったけれど、普通に話をしていることに安堵する。ベッドから立ち上がると窓際に歩み寄り、カーテンの隙間から外を窺った。
『何よ、それ』
 電話の向こうで、ぐずっ、と真樹の鼻が鳴った。
「今日一日、真樹さんに電話したくて仕方なかった。でもしつこくして嫌われるのイヤだから、ずっと我慢してたんだ。こいつだけが真樹さんとの接点みたいな気がして、ずっと携帯眺めてた」
 学校でもバイト先でも、ずっと携帯を気にしていた。それは決して鳴ることは無かったけれど、時折手の中でその小さな機械を転がしては、彼女とちゃんと繋がっているのだと思い込もうとしていた。だからこの電話が掛かって来た時も、稜はベッドの上で携帯を眺めていたのだった。
『……馬鹿ねぇ。気にしなくても良かったのに』
 真樹が笑う気配がする。けれどもそれは嘘だ。押せば押した分だけ、彼女は引いてしまう。現に今までの自分がそうだったのだから。
 失敗するわけにはいかない。初めて欲しいと思えた相手を失ないたくはない。
「そんなわけにはいかないよ。慎重にもなるさ。俺はこの恋、失くしたくないんだから」
 好きだという気持ちは伝えてある。昨夜は驚いていたようだけれど、彼女は彼女なりにその事について考えてくれていたのだろう。あからさまに『恋』なんて言ってみたけれど、電話の向こうの真樹に昨夜ほどの動揺はなかった。
『……ありがと』
 しばらくして寄越された言葉を、稜は聞き間違いかと思った。
『ねえ、昨夜……』
「うん?」
 鼓動が少し、速くなったみたいだ。真樹の声がかき消されてしまいそうに感じたから、もっとよく聞こえるように携帯を強く耳に押し付ける。
『だから……ほんとは言ってくれて嬉しかった。私を必要としてくれて、嬉しかったの』
「真樹さん……」
 稜は続ける言葉を見失って、ただ彼女の名を呼んだ。
 こんな風に言ってくれるとは思わなかった。嬉しいと思ってくれたということは、彼女の中に少しは自分の入り込む余地が有るということなのだろうか。稜の気持ちがにわかに湧き立つ。
『ありがと、いろいろと。あなたは私を支えてくれてる。あなたの想いに応えることはできないけど、あなたのお陰で私は随分救われてるわ』
 まだ少し湿った真樹の声が、気持ちには応えられないと念を押す。
――『私を知って欲しいの』の次は『私を見て欲しいの』になって、『私があなたを好きな分だけ、あなたも想いを返して』になるんだ。参るよ。もうほんと、勘弁。
 いつか付き合ってくれと言ってきた後輩に、自分が投げた言葉だ。
――望むモノが手に入らないって、結構キツイね――
 カーテン越しの夜景が微かに瞬くのを見つめながら、稜は眉根を寄せて唇の端を引き上げた。