> あなたが、好き。 INDEX  > あなたが、好き。
 

あなたが、好き。


〜18〜


 うっすらと開けた目に、自分の部屋の天井が映った。真樹は額に手をかざし、カーテン越しに入る日差しを避けた。
――今、何時だろう――
 ずいぶん日は高くなってしまっている。視界が白っぽくぼやけていた。ここ何日か神経を使わなければならない難しい案件が続いたから、自分でも意識しない内に疲れていたのだろう。何か夢を見たような気もした。だが手から零れ落ちた砂粒を砂浜で見失ってしまうように、あくびを一つし終える頃にはその残滓(ざんし)さえも見つけることはできなかった。
 ふと床の方から音が聞こえる。マナーモードのままバッグに入れっ放しだった携帯が振動し、床に当たってくぐもった音を立てている事に真樹は気づいた。
「……もしもし?」
 眩しさと眠たさからまた閉じてしまいそうになる目を無理やりこじ開けて、携帯を耳に押し付けた。発信者の名前を確かめるのがいつもの癖だが、そうしなかった事に返事をしてから気づく。けれどもこんな休日に、会社がらみの人間がかけて寄越すはずがない。
『もしもし、真樹さん?』
 聞こえて来た声に、(もや)のかかった頭の中がいっぺんに覚醒した。この小さな機械の向こう側、頼りない電波で繋がっているのは稜だった。彼の存在に寄りかかるようにして泣いてしまったのは、ほんの数日前の事。なんとなく自分の方から電話をするのも気がひけて、あれきりになってしまっていたのだ。
「あ……何だった?」
 何も無かったかのように装って、努めて明るい調子で訊き返す。稜の声を聞くのは久しぶりのような気がした。
『真樹さん今日休み? ……だよね。こんな時間に家にいるんだもんね』
 携帯越しに伝わってくる稜の様子は今までと変わらない。彼の気遣いなのかどうかは分からなかったが、少し鼻にかかった声がくったくなく響いてくる。真樹もこの間のことには触れないでおこうと決めた。
「そうよ、お休み。久しぶりに寝坊しちゃった」
 クスリと笑ってみれば、少しだけ気持ちも軽くなる。
『あのさ、今から出られない? 買い物に付き合って欲しいんだけど』
「……え?」
 訊き返してから、自分が誘われたのだと気付いた。
――まるでデートじゃない――
 そう思ってしまってから、何を馬鹿なことを、と頭の中で打ち消した。稜は稜で、自分に気を遣ってくれたのだろう。今から思えば『あなたの想いに応えることはできないけど』なんて、随分ひどい事を言ったものだ。それなのに、彼の方から連絡をくれた。 一緒に出掛けることで、二人の間にできた微妙な溝を無くそうと思ったのかも知れない。
 でもよりによって買い物なんて。店には人が集まる。もし稜と一緒にいるところを知人に見られでもしたら、後々の言い訳に苦しむことになるだろう。
『大丈夫。俺、制服着て行くわけじゃないから。私服だと結構年上に見られんだよ?』
 真樹の戸惑いなどお見透しだとでも言いたげに、電話の向こうで稜が笑う気配がした。そう言われてみれば、以前彼が会社に来た時、背の高さやスタイルの良さもあって高校生には見えなかった。自分も少し若めの格好をして行けば、少しは歩み寄れるかも知れない。
 この間の電話ではあんな事を言ったけれど、全く接点を絶ってしまうことはできそうにない。声を聞けば、自分にも彼が必要なのだという想いが湧いてくる。ただ自分のそれは、稜が向けてくる感情とは違うものなのだと思い込もうとしていた。
 結局稜に言われるまま待ち合わせの場所を決め、真樹は携帯の終話ボタンを押した。


「真樹さん、こっちー」
 電話で決めた時間よりも十五分も早く着いたのに、既に稜はそこで待っていた。改札口から出た真樹を目ざとく見つけ、手を振って見せる。真樹もつられて胸の辺りで控えめに手を振った。
「ごめんね、待たせて」
 階段を駆け上がって来たために少し弾んでしまった息の間から謝ってみる。
「全然大丈夫。俺が早く着き過ぎただけだし」
 そう言って微笑んで見せる稜は、白い無地のシャツに地味な色合いのジャケットを羽織っていた。それは彼よりもう少し大人の男の人が着る、上品な仕立てのものだった。そのせいか、いつもより稜が大人びて見える。この間と同じ黒っぽいフレームの眼鏡をかけていて、色白の彼にはよく似合っていた。
「へえ。仕事ある日の感じと違うんだね」
 稜が真樹の頭からつま先までを一通り眺め回した。仕事の時には抑えた色合いのスーツを着ていることが多いのだが、今日は違う。稜との距離を縮めようと、真樹は明るい色目の服を着ていた。そんな華やいだものを身に着けるのは、耕治と別れて以来だ。少しばかりの気恥ずかしさから、真樹は渋い顔になる。
「じろじろ見るな」
 小声で茶化すように言うと、真樹は彼の頬をつねる真似をした。
「ちょ……待ってってば。別に変な意味じゃなくてさ、えっと……似合ってる」
 仰け反るようにして真樹の指をかわすと、稜は少しだけ眩しそうに真樹を見た。
「……ありがと」
 茶化されるのかと思ったら唐突に誉められた。どんな顔をしていいか分からなかったから、真樹は渋い顔を少しだけ笑みに崩して素直に礼を言った。


 稜に連れられて入った店は、小物を専門に扱う店だった。客の年齢層は少し若めかも知れない。真樹は少しだけ居心地の悪さを感じていた。見るともなしに手近にあった革のライターケースを手に取ってみる。デフォルメした十字架のカービングが施されたそれは、若者が持つシルバーのオイルライターに似合いそうだった。
 ふいにバッグを持った方の腕が引かれる。バッグを取られないようにわきを締めたので、体までが引かれる格好になった。
「大丈夫だよ。真樹さん浮いてないから」
 腕を引いたのは稜だった。倒れこむようにして振り向いた真樹を、彼の胸が受け止めた。咄嗟に化粧が付かないように顔を背けたので、髪に隠れた耳がシャツの胸に押し付けられてしまった。稜の声が直に響いて来る。
 彼の言葉に改めて周りを見回して見ると、真樹が気にする程、他の客は二人を見てはいなかった。こんな所に持って来るには少しだけ格の高い彼女のバッグも、あまり目立ちはしなかった。
「これ買って来る」
 稜が真樹の顔の前に定期入れを差し出した。
「レジ混んでるから、俺一人で行ってくるわ。ここで待ってて?」
 黒い薄っぺらなそれをヒラヒラさせ、稜が言う。真樹は黙って頷いてみせた。
 稜はどうしてこんな所に自分を連れて来たのだろう。真樹が気にする年の差が、制服を脱いで周りに溶け込んでしまえばあまり意味を持たない事を教えたかったのだろうか。
 そんな事をぼんやり考えながら、彼の後姿を眺める。スラリとした体躯は、やはりモデルさんならではのものだ。何気ない立ち姿も絵になっている。
 さすがにカップルで来ている客はそうでもなかったが、女同士で来ている客はレジに立つ稜が気になるらしい。チラチラと視線を送っては、何やら小声で話をしている。彼女達はどこかの高校の制服を着ていた。
 今日の稜は少し大人びて見えるから、彼女達には手の届かない人に見える。真樹はそんな事に安心している自分が惨めになった。
「は……」
 小さく息をついて、自嘲の笑みを浮かべた。
 課長に『お(しとね)辞退の年齢』と言われてから、自分の歳を気にしてばかりだ。年下の稜といれば尚更それを感じる。こんな所で立ち止まっていて良いのかと、自分の中の冷静な部分が自身を急き立てる。
 昔はこんなことは無かったのに……と思えば、一層今の自分が惨めになった。
「何ボーッとしてんの。それ、買うの?」
 急に声を掛けられて、真樹の肩が跳ねた。ライターケースをまだ手にしている事に改めて気付く。視線はいつの間にかレジに並んでいた稜の後姿から手元のケースに移り、考え事をしながらそれを眺めていたらしい。首を巡らせて声のした方を見ると、稜が店の紙袋をズボンのポケットに突っ込もうと体を(よじ)っているところだった。
「入れにくいでしょ。貸して。私が持っててあげる」
 真樹が手を出すと、稜は素直に皺くちゃになったそれを差し出した。真樹は丁寧に紙袋の皺を伸ばし、バッグを開けて内ポケットにしまう。マグネットの(はま)る音が小さく響いた。
「……俺、その定期入れになりたい」
 真樹のバッグに視線をやったまま、稜が言った。
「どうしてよ?」
 真樹は上目遣いに彼を見る。
「そんなに綺麗に皺伸ばしてもらってさ、大切に扱ってもらえるんだもん。俺本体にはそんなことしてくれないし」
 稜が心底うらやましそうな顔をした。
「なーに言ってんの。定期入れはモノ。あなたはヒトでしょ。同列に扱ってどうするのよ」
 あんまり稜の表情が自然で本当にうらやましそうだったので、真樹は口元が緩みそうになるのを懸命に堪える。
「モノの方が扱いが上って、違くない? 本体も大切に扱って欲しい」
 追い討ちをかけるような()ねたような口調に、真樹はたまらず破顔した。さっきまでウジウジと考えていた事も、せめて彼が制服を着ていない今日だけは、頭の中から追いやってしまえそうに思えた。
「分かった。じゃあ大切に扱うから」
「え、ほんと?」
 嬉しそうな声を上げる稜の肘を軽く引っ張って、真樹は店の外に出るよう促した。
 表は車の通りも多く、ガードレールで区切られた幅の広い歩道も人で賑わっていた。店に入る人や用事を終えて出てくる人、ただ通り過ぎるだけの人がいっぱいに広がっていて、始終動いている。色とりどりの服が思い思いの方向に動くのを見ているだけで、人ごみに酔ってしまいそうだった。
 真樹は伏し目がちに通りを歩いた。恋人のように並んで歩くことは気恥ずかしかったので、彼の少し前を速足で歩く。
「とりあえずは昼ごはんね。給料出たばっかりだから、『本体』におごってあげる」
 真樹は後ろをついてくる稜を振り返った。
「もう少し先に、ランチの美味しいお店があるの」
 今日の買い物先を決めたのは稜だったけれど、前に入ったことのある店が近くにあるのを真樹は思い出した。その時の料理がとても美味しかったから、いつかもう一度入ってみたいと思っていたのだ。
「女の子が好きそうな店だけど……」
 暗に大丈夫かと訊ねた。勝手に自分一人で決めてしまった感じがして、稜の意見も訊かなければと思い直したのだ。
「大丈夫。何でも食べられるから」
真樹と目が合うと、稜はうなずきながら笑った。彼の顎先が上下するのに従って、つんつんと垂らした前髪が小刻みに揺れた。


 店は混んでいたが、少し待てば座れそうだった。座席の予約表に名前を書いて、入り口近くの待合椅子に並んで座る。この間は随分待たされたから、今日は幸運だったのかも知れない。
「ここのパエリアが美味しいの」
 そう言ってから、真樹は思い出したように笑う。
「何?」
 稜が不思議そうに真樹の顔を覗き込んだ。
「パエリアだけは駄目なのよね。上手く作れない。お鍋焦がすのが嫌だから、どうしてもベタベタした感じになっちゃって」
 ベタベタしたそれを口に入れた時の何とも言えない情けない気分を思い出して、真樹は苦く笑った。
 しばらく待つと順番が来て、フロア係の女性が二人を席に案内してくれた。やや入り口に近いものの、窓際の禁煙席で眺めも良い。メニューを見て注文を決めると、案内の女性は一礼して下がって行った。
「大丈夫?」
 稜が心配そうに訊く。
「何が?」
 真樹は小首を傾げて彼を見た。
「ここ、ランチにしては高いよね? おごってもらうの悪いよ」
 稜はそう言ってから、閉じてテーブルの脇に立てかけてあるメニューをちらりと見る。
「大丈夫、私がここに連れて来たんだから。あなたはそんな事心配しなくてもいいのよ。大体ね……」
 そこで言葉を切り、真樹はふっと息を吐いて苦笑する。
「あなたお坊ちゃん育ちのはずなのに、そういう事言うの?」
 真樹の言葉に、稜が唇を尖らす。
「俺がおごるならともかく、真樹さんにおごってもらうんだから心配してるの!」
 小声ながら、はっきりした口調で言う。
「言ったでしょ、給料出たばかりなの。今月は残業もそこそこあったから、たくさん貰えたのよ。だから心配しない!」
 真樹も少しだけ顔を近づけて、小さな声ではっきりと言った。しばらく顔をつき合わせていたが、稜の口元が緩む。
「じゃ、遠慮なく」
 背を伸ばし、芝居がかった仕草で稜がそう言うと、どちらからともなく笑い合った。


 食後のコーヒーを飲み終えると、真樹は伝票を持って先に席を立った。稜も続いて席を立つ。会計を済ませると、二人は店を後にした。
「ごちそうさまでした。大変美味しゅうございました」
 わざと丁寧に礼を言い、かくんと顎を引くようにして稜が会釈をする。真樹もそれを受け、唇の端を引き上げて見せた。そのままあても無く歩き始める。
 小物の店ではあれこれ考え過ぎてしまっていたが、こうやって並んで街を歩いていても、違和感はないように思える。二人の間柄を詮索するような、不躾な視線も感じなかった。
 制服にとらわれなければ、彼の気持ちを受け止めることができるのだろうか。一人の男の人として見られるようになるのだろうか。
 二人の間には九年の差がある。それはどうやっても縮めることのできない永遠の溝だ。だがその溝も、こうやって並んで歩いていけば、いつか気にならなくなって行くものなのだろうか。
 真樹は隣を歩く稜の横顔を、気付かれないようにそっと見上げた。
「あれ? 稜」
 唐突に、背後から声をかけられた。
「あ……」
 振り返った稜が、そう言ったきり口をつぐむ。つられて振り向いた真樹の視線の先に、稜と同い年くらいの女の子がいた。流行りの服を上手に着こなしている。
「お姉さん? ……じゃないよね?」
 物怖じする様子もなく近づくと、女の子は値踏みするような視線を真樹に向けた。
「そんなようなものです」
 そう言いながら、またか、と真樹は苦く笑った。これぐらいの年頃の子から見たら、自分はどう足掻いても同じ土俵には上がれない部類の人間だ。さっきまで考えていた稜と共に歩む未来は、傍目には滑稽に映るのだと思い知らされる。
「中原美緒です。よろしく」
 美緒と名乗ったその女の子は、人懐こい笑顔を作るとすっと手を出した。少しだけ伸ばした爪が綺麗に整えられている。キーボードを操作しなければならない真樹には、できない爪の形だった。
「水谷……真樹です」
 綺麗な形の爪に見入ってしまっていたので、少し間があいてしまった。真樹は慌てて彼女の手を握り返した。
「どうも」
 そう言われてもう一度美緒を見ると、ついさっきの人懐こい笑顔はどこにもなく、挑戦的な瞳が射るようにこちらを見つめている。ぞくり、とした。こちらの戸惑いを見透かしたかのように、美緒が冷酷な笑みをかすかにその唇に刻む。真樹は自分の心が萎縮してしまったように感じて、握った手をぎこちなく離した。
「俺たちまだ用事あるから。じゃあな」
 稜が強引に話を断ち切るように、真樹の腕を引いた。さっきまでと違い、早足で先に立って行こうとする。
「稜……! この間の話……」
 その背に、美緒の声が追いすがった。
「しつこいよ」
 稜は首だけで振り向くと、冷たく言い放った。すぐに前を向き、真樹の腕を引いたまま歩き出す。真樹は訳も分からず、小走りについて行くしかなかった。
 しばらく歩いたところで稜は歩を緩めた。美緒が追って来る気配はない。深く息を吐くと、稜は真樹の腕を掴んでいた指を緩めた。
「ごめん……痛かった?」
 すまなさそうに真樹の腕を見る。
「ううん。大丈夫」
 何も気にしていないのだと自分自身に確認するように、真樹は明るい声でそう言うとバッグを肩にかけ直すふりをした。
「あいつが元カノ。向こうから付き合って、って言って来たから付き合っただけ。断ったら逆ギレされるって、その前にさんざん学習したからさ、自分守りたくて曖昧にしてるうちに付き合うことになってた」
 訊ねたわけでもないのに、稜は淡々と口にする。
「……いい加減だよね、俺」
 稜がこちらを見た気配がした。真樹は何と言ったら良いか分からなくて、視線を合わせられないまま、ただ首を横に振る。
「でもさ、気付いたんだよ美緒も。俺の方から誘ったりしないから。それで疲れちゃって……別れ話を切り出したのは、向こうの方からだった」
 それは随分前に聞いた話だった。怪我の手当てをする為に、最初に稜を家に入れたあの時。
「だけどこの間から、またやり直そうって言ってきてる」
「え……」
 思わず真樹は、稜を見上げた。静かな瞳がこちらを見下ろしている。その瞳がふっと笑んだ。
「俺は真樹さん一筋だけどね」
 そんな言葉をかけられて、真樹はまた下を向くしかなくなってしまった。
「な……何、生意気な事言ってるのよ」
 そう言いながら、真樹は胸がズキリと痛むのを感じた。
 一瞬――。
 あの美緒という子と稜がよりを戻すことになったら……という思いが()ぎった。途端に息が苦しくなる。真樹は大きく息を吸い込むと、胸の辺りを掴んだ。
「大丈夫?」
 稜の心配そうな瞳が、真樹の伏せたままの顔を覗き込もうとする。
「え……うん、大丈夫よ。少し疲れちゃったかな。ほんのちょっと歩いただけなのに、これって運動不足よね」
 取り繕った軽快な言葉とは裏腹に、体はその場にしゃがみ込んでしまいそうになる。誰が見ても稜に釣り合う年齢の美緒。話には聞いていても、実際に目の前で生きて動いている彼女を見たことで、真樹は動揺していた。
 彼女とよりを戻すことになれば、自分はもう稜に必要とされなくなる。体の中にぽっかりと穴が開いてしまったように感じた。
「ちょっと座らせて」
 真樹は歩道の脇に設置されたベンチに倒れこむように体を預けた。
「ほんとに大丈夫? 俺、何か飲むもの買って来ようか?」
 横に座ると、稜はまた真樹の顔を覗き込んだ。
「ありがとう。じゃあ甘えちゃおうかな。お茶系の飲み物をお願い」
「わかった、行って来る」
 今、自分はどんな顔をしているのだろう。稜に見られたくなくて、真樹は彼の好意に甘えることにした。これで少し時間が稼げる。彼が戻って来るまでには、自分は何もなかったような顔を作れるに違いない。
 真樹は両手で顔を覆い、長い息を吐いた。


 確か少し戻ったところに自動販売機が有ったはずだ。稜は辺りを見回しながら、今来た道を戻って行った。
「さっきの人、誰?」
 突然声をかけられた。稜がそちらを見ると、さっきの場所からそう離れていない所に美緒が立っている。険しい表情でこちらを見ていた。
「関係ないだろ」
 なるべく感情を見せないようにそう言って、通り過ぎようとする。
「年上だよね」
 言い募る彼女の言葉は、稜の心に突き刺さった。
 ――年上。
 二人の年が九つも違うこと。多分真樹が、一番気にしていること。気にしているから明確な答えをくれないのだろう、その原因。
「だから、おまえには関係ないって!」
 つい大きな声が出た。道行く人の何人かが、何事かと振り返る。気まずくなって、稜は視線を歩道に落としながら、小さく舌打ちをした。
「なんか、援交みたい」
 美緒が吐き捨てるように言った。
「はあ?」
 稜もわざと(とげ)のある言い方をした。
――世間はそう見るのかよ――
 険しい表情のままの美緒を見返した。おそらく自分も、美緒と同じような顔をしているに違いない。
 真樹を好きな気持ちは変わらない。でもその事で自分よりも真樹の方が辛い思いをするのではないかと、この時稜は初めて思い当たった。何かあればきっと、大人である真樹が責められる。援交だなんて汚い言葉で罵られて辛いのは、多分自分よりも彼女の方だ。
 稜は体の力が抜けていくような感覚にとらわれた。
「関係ないよ、おまえには。それに別に俺達付き合ってるわけじゃないし」
 真樹はまだ明確な応えをくれない。それどころか、自分の気持ちには応えられないと言った。だからいくら彼女が自分に笑顔を向けてくれても、一緒に買い物や食事をしても、ただの友人に過ぎない。もしかしたら、一緒にいたいと思っているのは自分だけなのかも知れない。
 美緒に向けて放った言葉が、稜の心を(えぐ)った。
「……別にいいだろ。俺が誰を好きになったって。もうおまえには関係ないことだ。もう一度はっきり言っとくけど、二度目は無いんだ」
 欲しいものが有る。でもそれは、決して手の届かないもののように思えた。


 お茶系飲料のペットボトルを抱えた稜が戻って来たのは、それからしばらく経ってからだった。ただ行って帰ってきたにしては時間がかかったように思う。けれどもその間に充分気持ちを落ち着けることができたので、かえって真樹には有り難かった。
「ごめん、遅くなって。自販機、すぐ近くにあると思ったんだけど探せなくて。これで良かった?」
 稜がウーロン茶のボトルを持ち上げて見せる。同じものを自分用にも買って来たらしい。ジャスミンの香りがほんのり入った、真樹も好きな銘柄だ。
「それ好きよ。ありがと」
 真樹はボトルを受け取ると、稜の瞳を見つめて微笑んで見せた。
 稜は一旦ボトルに目をやると、真樹の隣に腰をかける。キャップをひねると、一気に半分ほど飲み干した。
「俺も喉がかわいてたみたい。さっきのパエリア、美味しかったけどちょっと味濃かったかも」
 そう言って、またボトルを傾ける。真樹はそんな彼の様子をただ曖昧に微笑んで見ていた。
 こうやって稜の隣に並んでいることにも慣れてきた自分がいる。肩の力を抜いてよく見てみれば、彼はその年齢の割に大人びているようだ。メディアに露出した経験が、大人の対応を身につけさせたのだろうか。
 けれども彼にはその年齢に相応しい相手がいる。今は何かの気の迷いで自分のことを好きだと勘違いしているけれど、時が経てば冷静になって離れて行くのだろう。
 自分までが一時の熱情に翻弄されてどうするというのだ。熱が引いた後に、きっと後悔するに違いない。
 真樹はようやくペットボトルのキャップをひねった。
「……綺麗な子ね。元カノの……美緒ちゃん、だったっけ?」
 ボトルを傾けて一口流し込むと、なるべく明るい声を作る。
「いい子じゃない。どうして邪険にするの。私に構わず、話すれば良かったのに」
 冗談めかして真樹は言った。
「真樹さん……それ、本気で言ってる?」
 低い静かな声だった。真樹は思わず、そちらに目を向ける。険しい表情の稜が、真剣な瞳でこちらを見ていた。
「俺の気持ち知ってて……美緒の『話』が何なのか知ってて、そんな事言うの?」
 傷ついた瞳だった。
「……試さなくていいよ。俺はここにいる。離れないから。真樹さんが俺のこと要らないって言うまで、俺はいつも真樹さんの傍にいるから。俺が好きなのは、真樹さんだけなんだから、そんな悲しい事言わないで」
 寄越される真摯な眼差しに、真樹はそれ以上何も言うことができなくなってしまった。