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あなたが、好き。


〜19〜


 学校では誰もその事について触れない。少なくとも同じ学年の者の間では。稜がモデルをやっていた事も、その事で騒ぎになって周りに多少なりとも迷惑がかかった事も、今ではみんな忘れてしまったかのように振舞っている。
 だがそれを快く思っていない者がいることも確かだった。


「しまった、やっちゃったよ……やっべ」
 次の時間は数学だ。稜は予習をしたまま机の上に教科書を置き忘れてしまった事に気付いた。
「あいつのとこも確か今日あったよな」
 稜は他のクラスの友達に借りようと思い立った。この学校では学年ごとに棟が分かれているので、同じ学年でもクラスが違えば階も違ってくる。友達のクラスは、稜の教室の一階上にあった。
「神鳥」
 無事に教科書を借りて階段を降りてくると、踊り場で声をかけられた。誰かと思って声のした方に目を向けると、美緒がらみでいざこざのあった原田が、防火用の非常扉に背を預けて立っていた。
「おまえか。何か用か?」
 あまり良い印象を持っているわけではない相手に呼び止められて、嬉しいはずもない。稜の声は尖ったものになった。
「美緒に会っただろ」
 この間、街で会った時のことか。もうこいつに話したのかと思えば、少々うんざりした気分になる。
「それが?」
 わざわざ自分を呼び止めて、何を言おうというのだろう。あまり良いことでないことだけは確かだ。
「おまえ、援交してんの?」
 こちらを見る原田の口元が、いびつに歪んだ。それが(わら)っているのだと分かるまでに、しばらく時間が必要だった。
 嘲笑。蔑み――そんな負の感情が、剥き出しにされた顔。
「ちょっとばかし顔がいいからって周り巻き込んで騒ぎ起こした奴が、また何か問題起こそうってのか?」
「な……!」
 途端に、全身の血が逆流しそうになった。
『なんか、援交みたい』
 美緒が吐き捨てるように言った言葉が、あたかも今ここで聞いているかのように耳によみがえる。否定しても素直に信じてはくれないだろうと思ってはいたけれど、案の定、そう思い込んでいるらしかった。
 真樹にも関わりのあることだけに、何をどういう風に吹聴したのかと勘繰れば、美緒に対しても原田に対しても、怒りの感情がこみ上げてくる。
 真樹と二人で出掛けた――たったそれだけの事実を、どう捻じ曲げて解釈すれば援交だと思えるのだろう。
「昼間っから堂々と、年上の女と仲良く並んで歩いちゃってさ。恥ずかしくねーの」
 原田の言葉が終わる前に、稜の左手は思わず相手の胸倉を掴んでいた。間近から蔑むような視線を浴び、稜の瞳も一層険しくなる。もう一方の拳が固く握られた。
 けれどもここで相手を殴ってしまえば、きっと真樹にも迷惑がかかる。原因は何かと訊かれれば、真樹のことも言わなければならなくなるだろう。
 稜は体中の全神経を自分の右手に集中させるような思いで、握った拳を無理やり解いた。
「言い返せないわけ? やっぱ本当のことだから?」
 そんな稜に、原田はまたも言い募る。もう一度きつく睨み付けて、稜は相手の胸倉を掴んでいた左手を勢いよく突き飛ばすように離した。
「何も知らないくせに、援交なんて言葉で俺達を(けが)すな」
 はずみでよろけた原田の背が非常扉に当たって、大きな音が辺りに響いた。
「俺達は、おまえが思ってるような汚い関係じゃない」
 顎先を上げ、目を細めて相手を見た。カメラの前に立つ時のように自分の心を強く作り、別な人格を装う。
「たまたま好きになった人が年上だっただけだ」
 静かだが、威圧感のある声で稜は言った。原田は気圧されたように押し黙る。
「俺はもう、美緒とやり直そうとは思わない」
 真樹が好きだから。真樹以外は、要らないと決めたから。
 残酷なことをしていると、自分でも判っている。けれども曖昧にしておけば、更に傷は深くなるだけだと学んだ。もう同じ轍は二度と踏まない。曖昧にした結果が、結局自分を身動きできない状況に追い込んだのだから。
「おまえも俺に突っかかってくる暇があったら、全力出してあいつをしっかり繋ぎとめておけばいいだろ」
 二人で居たいと願えば、これからこんな場面は多々あるのだろう。真樹を護るために、強くなりたいと稜は思った。


 退社時刻を少し過ぎると、定時で帰る人達がビルから吐き出されて来る。遅れて出て来るのは、入り口から遠い部署の人か、ロッカーで手間取った人なのだろう。
 稜は道路の反対側のガードレールに腰をかけて、そんな人達を眺めていた。
「遅いな」
 ビルの屋上の、『データ・クリエイト』と描かれた青地に白い文字の看板を見上げる。斜陽の空にいつもより少し黒ずんで見えるそれは、真樹の会社の看板だ。
 人通りが途切れがちになっても、真樹はまだ出て来ない。今日は残業なのだろうか。
 電話をしてから来れば良かったのかも知れない。けれども稜は、携帯を通したものではなく、直接彼女の声を聞きたかった。原田にあんな事を言われた今日、次に真樹の声を聞くのは、目を見て直接伝えられる言葉が良いと思った。
 制服のままで来てしまったが、誰も自分に注意を向けている様子はなかった。すぐ目の前の自動販売機で缶コーヒーを買って、それを飲むふりをしているからなのかも知れない。とっくに飲み終わってしまった缶は、やけに薄っぺらくて冷たかった。
「あ……れ? 『稜』さん?」
 俯いて、手にした缶を捨てるべきかどうか迷っていると、声を掛けられた。いつの間に人が近づいて来ていたのか、全く判らなかった。
 驚いて顔を上げると、そこには前に真樹と一緒に店に来た女の人が立っていた。
「あ、どうも」
 首を伸ばすようにして、軽く会釈をする。揺られた前髪が頬に張り付いたのを、缶を持ったままの指先で退けた。
 名前を知っているということは、真樹が彼女に話したのだろう。どの程度まで聞いているのか判らなかったから、稜は当たり障りのない対応をしようと決めた。
「私、水谷先輩と同じ部署の片野っていいます。先輩、仕事のきりがつかなくて残ってますけど、もう少ししたら帰ると思いますよ」
 片野が会社のビルを見上げて言った。視線の先が、真樹のいる部屋なのだろう。その横顔を見つめながら、この人には、前に真樹を呼び出す時に『姉を呼んで下さい』と言ったのだったと思い出した。
「えっと……姉は……」
 そう言った途端、片野が目を細めて首を横に振る。
「弟さんじゃないことは判ってますから」
 柔らかく笑うその人は、何故だか味方のような気がした。
「真樹さん、元気ですか?」
 そう訊いてみる。この間は具合が悪そうだった。あれから体調を崩していなければ良いのだが……と、気にはなっていたのだ。
「元気かどうかは分かりませんけど、普通にお仕事されてますよ。風邪をひいている感じでもなかったし」
 片野の言葉に安心し、思わず笑みがこぼれる。そんな稜に、片野の眩しそうな視線が絡んだ。
「やっぱり……稜さんなんですね、モデルの。……あ、大丈夫です。先輩から言われてますから。『ただの高校生なんだから』って」
「真樹さんがそんな事を?」
 驚いて、稜は訊き返した。
「ええ。今はただの高校生なんだから、そっとしておいてあげて欲しいって」
 稜は返す言葉を見つけられなくて、手元の缶を見るふりをして顔を伏せた。
 真樹の前で、『稜』の居場所はあるけれど、『神鳥稜』の居場所は無いと弱音を吐いた。その時のことを覚えていたのだろう。少なくとも真樹は、自分が『神鳥稜』でいる場所を護ろうとしてくれているのだと思った。
「先輩」
 片野が呼ぶ声で、稜は我に返った。すぐ傍で、片野が通りの向こうに手を振っている。顔を上げると、そこに驚いた顔の真樹がいた。
「先輩!」
 そう言って、稜もふざけて手を振る。通りを挟んだこちらからも、真樹がため息をついた様子が見えた。
「まったく……何やってるのよ、こんな所で」
 近づいて来ながら、真樹がぶつぶつ言うのが聞こえる。
「怒った?」
 稜はガードレールに腰をかけたまま、真樹を見上げた。
「怒った」
 バッグを肩にかけ直しながら、真樹が低い声で言う。
「仲が良いですね、お二人」
 二人のやり取りを見ていた片野が笑った。


「来るなら来るって言ってくれれば良かったじゃない。そうしたらもう少し早く出てきたのに」
 駐車場に向かって歩きながら、真樹は隣を歩く稜を見た。今はもう退社時刻を随分過ぎている。今日は定時退社の日だったから、会社の人間はほとんど帰ってしまった。稜と二人で歩いていても、誰にも見咎められる心配はない。
「電話じゃなくて、直接声を聞きたかったんだ」
 さらりと寄越された恥ずかしい言葉に、真樹は自分の頬が熱くなるのを感じた。
「何言ってるのよ」
 それだけを言うと、俯いてしまう。
「それに早く出てきたら、こんな風に一緒に歩いてなんてくれなかったでしょ? 真樹さん、『気にしい』だから」
 稜がまだ手に持っていたコーヒーの空き缶を、自動販売機の横に設置してある分別ボックスに投げ入れた。カコン、と薄っぺらな音をたて、それは見事投入口から派手な色のボックスの中に消えていった。
「……何かあったの?」
 缶の行方を見つめたまま、真樹は言った。
 稜が鞄を抱えなおす。沈黙が、二人の間に落ちた。
「さ、乗って」
 真樹はシルバーの軽自動車のロックをボタンで解除する。自分もドアを開けながら、稜に乗るよう促した。
「足は……分かってるわよね?」
「はいはい、ちゃんとしまっておきます」
 さんざん邪魔だと言われていたので、稜は大人しく足を揃えた上に腕で抱え込む。
「……そこまですると嫌味だわね」
 その様子を横目で確認すると、真樹はぼそっと呟いた。
 エンジンがかかると、車はゆっくりと駐車場を出る。オフィスビルが並ぶ通りを抜けると、次第に周りの景色には飲食店が目立つようになってきた。
「今日はバイト無かったの?」
 当たり障りのないところで、真樹は訊ねた。
「急にシフトの変更があって」
 バイトの予定だったから今日はバスで来たんだけど、と稜は続けた。
「丁度良かったわね。私も今朝は車で来ようか迷ったのよ」
 車で来ていなかったら今頃一緒に電車に乗っていたのかと思うと、真樹は少し気が滅入った。
 一緒に居たくないわけじゃない。けれど、二人に向けられる不躾な視線に耐える自信も無い。元カノの美緒に会ったことで、一層萎縮している自分を感じれば、歯がゆい思いに自身の体をかきむしりたくなる。
 そんな態度が稜を傷つけることも分かっているから、尚更自分の気持ちをコントロールできないことが悔しかった。
「……傍に居たいだけなんだ」
 ポツリと稜が呟いた。
「傍に居たい。ただそれだけの事なのに。俺が高校生だって理由だけで許されないのかな」
 そう言って、稜は一層深く膝を抱え込んだ。シートベルトが微かな音を立てて伸びる。運転席の真樹からは、伏せた顔のその下の表情は読み取れなかった。
 すぐ先の信号が、黄色から赤に変わる。真樹はゆっくりとブレーキを踏んだ。
 何かあったのだろうか。誰かに何か言われたのだろうか。
「周りから見たら、そんなに変かな。誰かを好きになるって、自然なことだと思うのに。それがたまたま、年上の人だっただけなのに」
 真樹の胸が、ズキリと痛んだ。自分と出逢ったことが、稜に辛い思いをさせている。
 心配になって、真樹は信号で停車している間、ずっと稜から目が離せなかった。けれども彼は俯いたままで、とうとう信号が青になってしまう。真樹は諦めて視線を戻すと、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
 一つ、大きく息を吸い込む。今なら引き返せるかも知れない。
「そう……でもそれが、世間の見方なのよ。今のまま一緒に居たら、あなたはもっと傷つく。そうなる前に」
 嘘だ。こんな事を言っている自分は、大嘘つきだ。
 美緒に会ったあの日、彼が自分から離れていくことを思っただけで、あんなにも動揺してしまったではないか。
 でも今なら……。
 自分が何も告げていない今なら、離れることができるかも知れない。二人が出逢う前にまで、時間を巻き戻せるかも知れない。
「だから……」
「言わないで、それ以上」
 言おうとした言葉は、稜にさえぎられた。
「お願いだよ、あなたの口からそれ以上ひどい言葉、聞きたくない。真樹さんまで、俺の気持ちを無かったことにしないで」
 殻に閉じこもるように、稜が自身の体を抱いた。真樹は前を向いたまま、その言葉の意味を考える。
 ほうっとため息をついた。
「ごめん、真樹さんの方が辛いよね、きっと。俺なんかの何倍も悪く言われるだろうし」
 稜が唐突に自分の膝を開放した。前を向いたまま、フロントガラスの一点をじっと見つめている。その先に、今沈み行く紅い太陽があった。
「俺、強くなりたい。真樹さんを護れるように強くなるよ」
 不意に稜がこちらに視線を向ける。運転中でそちらに目を向けることはできなかったが、真樹は頬に痛いほどの熱を感じた。
 鼓動が跳ね上がる。
 真っ直ぐに向けられる好意。曇りなく、純粋な瞳で想われる至福。大人のずるさを持っていない稜の瞳に見つめられていると、自分までもが純粋だったあの頃の気持ちを取り戻せるのではないかと思えてくる。
 誰かに想われることをこんなに嬉しいと感じたのは、初めてだった。


 笑ってくれればいいと思う。
 稜がありのままの彼でいられる数少ない場所。自分がその場所であり続ける限り、彼は笑うことができるのではないかと真樹は思った。
 曖昧な関係を、終わらせようとした。自分と出逢ったことで彼が傷つくのなら、離れた方が良いと思った。事実たった今も、本当にこれでいいのかともう一人の自分が問いかける。
 だけど……。
 彼の居場所でありたいと願う自分も居る。稜の綺麗な瞳を傷つけたくない。
 彼の熱情に流されないように、自分さえしっかりしていれば……。
 彼が他の誰にも弱さを見せられないのなら、せめて唯一それを知ることのできる自分が、その弱さごと彼を受け止めてあげなければいけないような気がしていた。


 バイトが無くなってしまったせいで、稜は夕食を食べ損ねてしまった。バイトがある日は(まかな)いの食事が出るので、家での夕食は用意されていない。稜の母親は今夜も仕事で遅くなるという。
「じゃあうちに寄って食べてく?」
「ありがと」
 突き放すこともできなくて訊ねたら、即答で返事が返って来た。真樹は苦笑しながら、自分の家へとハンドルを向けた。
 このごろは真樹も少し余分に食材を買うようにしていた。稜が食べて行くことを期待していなかったと言えば嘘になる。けれども稜ではない他の誰かが突然訪ねてきても一緒に食事ができるようにしておきたいと思った。
 こんな事は、以前の真樹なら考えられないことだった。恋人だった耕治とは外で食べることが多かったし、友人の瑠実にも手料理をふるまった事はない。
 だが稜と一緒にここで食事をしてから、一人で食べる味気なさを再確認してしまった。食材を多めに買うことで、自分は一人ではないのだと確認したかったのかも知れない。余ったら次の日の献立に回せばいいから……と自分に言い訳をして、近頃は余分に買うことが多くなっていた。
「さ、早く」
 ご近所の目から隠すようにして稜を家に上げ、真樹は玄関のドアを閉めた。後ろ手に施錠しながら、安堵のため息をつく。そんな彼女の様子を稜が寂しそうな瞳で見ていることに、この時の真樹は気付かなかった。
 自分が作った食事を誰かと一緒に食べるということは、真樹にとっても喜びだった。味気ない一人暮らしの部屋に、自分の他に誰かがいる。テーブルを挟んで向き合って、他愛もない話をしながら、いつもより多目に作った揚げ物に箸を伸ばす。
 ――その相手が稜であることこそが嬉しいのだという気持ちには、今はそっと蓋をして。


「コーヒー、要る?」
 使い終わった食器をキッチンに片付けに行ったついでに、食器棚からマグカップを二つ取り出す。稜に向かってその片方を持ち上げて見せ、真樹は訊ねた。
「ありがと。もらうわー」
 稜が座椅子に座ったまま、こちらに向かって手を上げて見せた。
 真樹は食後にコーヒーを飲むのが習慣になっていた。そのためのコーヒーメーカーもあるし、豆も気に入ったものをいつも用意している。
 コーヒーメーカーをセットした。食器を洗っていると、良い香りが漂ってくる。水滴の弾ける音が何度か続いて静かになった。
 二つのマグカップにコーヒーを注ぎ、テーブルへと戻る。座椅子に背を預けた稜が、細めた目で真樹を見た。
「眠い……」
 真樹の手からカップを受け取りながら、大きなあくびをした。
「寝ちゃだめよ。もうすぐ送って行くから……コーヒー飲んで、シャキッとする!」
「え、もうそんな時間?」
 稜が慌てて腕時計を確認する。
「なんだ、まだ八時じゃん。お子様の時間が終わっただけでしょ……あちっ」
 カップに口をつけた稜が、その熱さに驚いて思わず口を離す。コーヒーが零れてテーブルの上に飛び散った。
「お子様の時間、ね……。こんな風にコーヒー零す人は、お子様じゃないとでも?」
 真樹は少し笑いながら嫌味っぽく言うと、雑巾を取りにキッチンに戻った。
「ねえ、俺ここで宿題やって行っていい?」
 その背に向かって、稜が声を掛けた。
「家に帰っても一人だしさ、ここでなら分からなけりゃ真樹さんに教えてもらえるでしょ」
 稜の言葉に、真樹は飛び上がった。
「無理無理、絶対無理! 卒業してから何年も経ってるのよ、解るわけないじゃない」
 くるりと振り向き、顔の前で大仰に両腕を振って見せる。それを見た稜が噴き出した。
「……冗談。教えてくれなくてもいいよ、自分で何とかするから。熱っ」
 さんざん笑って喉が渇いたのか、稜はマグカップを口に持っていく。まだ熱いそれに触れ、またコーヒーを零してしまった。
「天罰よ」
 真樹は低くつぶやいて、雑巾を手にテーブルに戻った。
 この部屋にいる間は、誰かの目を気にしなくても良い。普通に話をして、こんな風に普通に笑い合うことができる。稜と向き合って少し苦めのコーヒーを飲みながら、真樹は自分の心がほどけて行くのを感じた。
 ――無防備に、なっていたのかも知れない。


「できた……っと」
 結局ここで宿題を広げた稜が、最後の一文字を書き終えた。放り出すようにしてシャーペンをテーブルの上に置く。シャーペンはカラカラと音をたててノートの上を滑り、教科書にぶつかって動きを止めた。
 そんな彼の様子を、真樹はずっと反対側の座椅子に座って眺めていた。手の中のマグカップは、もうすっかり冷めてしまっている。くるりと回せば、濃い色の液体がその中でゆらりと揺れた。
 ボリュームを絞って付けっ放しにしたテレビの画面には、いつものバラエティ番組が映っている。時折聞こえる笑い声にそちらを向く以外は、ずっと稜の伏せた顔を見ていた。
 綺麗だと思った。
 真剣に問題を読む姿も、時折クルクルと指の上でシャーペンを回しながら考え込む姿も、何もかも。自分が遠い昔、今まで歩いて来た人生のどこかに置いて来てしまった、学生の日常がそこに在った。
 望めば何にでもなれると思っていた。どんな未来も、自分さえ努力すればこの手にできると思っていた。
 決して思い上がっていたわけではないけれど、少なくとも今みたいに、色々な事に縛られ、がんじがらめになってはいなかったはずだ。
 ――眩しいと思った。
 テーブルの上のノートや教科書を一通り鞄に詰め込んだ稜が、ふと顔を上げた。
 目が合う。
 咄嗟に逸らすことができなくて、真樹はそのまま彼の瞳を見つめていた。


 ――真樹さんが見ている――
 ずっと知っていた。問題を考えるふりをして視線を上げると、不自然な動きでテレビの画面に目をやる真樹がいた。
 彼女に見られることは苦ではなかった。むしろ、嬉しいと思った。
 こちらが見ている時には、こんな風にあからさまに自分を見てくれることなんてなかったから。
 決して嫌われているわけではないと思う。こちらの気持ちに応えられないと言うのは、世間の目を気にしての事なのだろう。
 それなら、真樹の気持ちは? 彼女自身の本当の気持ちは、どうなのだろう。
 この瞳は――見つめあったこの瞳は、何よりも彼女の気持ちを表しているのではないか。こちらが想うのと同じように、彼女も自分の事を想ってくれているのではないだろうか。
 二人なら……。
 二人一緒なら、自分は強くなれると思う。二人で居る場所を、護っていけるだけの強さを手に入れることができると思う。
「真樹さん……」
 稜はテーブルの上の鞄を、つい、と脇に押しやった。


「宿題、終わったのね」
 真樹はすぐに視線を外せなかったことに心の中で舌打ちしながら、話をはぐらかそうと笑って見せた。
「コーヒーのおかわりは?」
 稜のカップを覗き込む。
「あ、無いじゃない。言ってくれれば淹れたのに。ちょっと待ってて……」
 二人分のカップを持って、立ち上がろうとした。
 その手が強く引かれた。中腰のまま驚いて見下ろすと、稜の真剣な瞳がこちらを見上げていた。


――誤魔化すつもりなのか――
 そう思った途端、体の中を冷たい風が吹き抜けた。見つめ合った時、確かに真樹の瞳の中には自分だけが映っていた。それなのに。
 知りたい。
 彼女の気持ちを知りたい。
 稜は握った細い手首を、離すまいと一層強く握った。
「……痛いよ」
 弱々しい声で言って、真樹は手を振りほどこうとする。稜はその手を更に引き寄せた。
「感想文、得意だったんでしょ」
 稜の問いが唐突に思えたのだろう。中腰のまま、真樹は不思議そうな瞳でこちらを見た。
「え? ……ええ、そうね」
 ややあって、取り繕うように応える。
 得意なら。
――自分の気持ちに気付かないふりなんて、しないで――
「相手の求める答えが判るんだよね?」
 自分でも何て冷たい声なんだ、と稜は思った。多分彼女のことを睨み付けているのだろうと思えば、感情をコントロールできない自分をもどかしく感じる。
「零れちゃう……」
 カップの中に残ったコーヒーを気遣って、真樹がキッチンの方へ行こうとする。
「そんなの、どうでもいい」
 稜は思わず立ち上がった。
「……!」
 稜の強い調子に、真樹が肩をビクリと震わせる。それさえもが、自分の気持ちを逆撫でされているかのように感じられて、稜はますます語気を荒くした。
「俺の求めてる答えは……今聞きたい言葉は、そんなんじゃない。誤魔化さないで。あなただって、ホントは判ってるんだろ? 判ってて、わざと自分の気持ちに気がつかないフリしてるだけなんだろ?」
 つ……と一歩踏み出せば、真樹の体が一歩後退った。
「ねえ……俺の何をあげたら、あなたはその心をくれるの? 教えてよ」
 思わず両手で思い切り、真樹の華奢な肩を掴んでいた。カップが手から零れて、カーペットの上に落ちる。はずみで転げて、残っていたコーヒーが黒い染みを作った。
 目の前の真樹が痛そうに顔をしかめるのを見て、稜はますます自分を拒絶されたように感じた。
 稜は急に体中の熱が一気に背中を駆け上がるような熱さを感じた。じりっと間合いを詰める。
「真樹さん」
 名前を呼べば、真樹が怯えたような瞳をこちらに向けた。そんな眼で見ないで、と心の中で否定すれば、体の中で生まれた熱が急速に萎えていくのを感じた。少しだけ目を細めて息を整えると、力を込めていた指を無理やり真樹の肩から引き剥がした。
「ごめん、俺……いっぱいいっぱいでさ……こんなこと言って……真樹さん困らせるつもりは無かったんだ、ごめん」
 こんな風に真樹を追い詰めるつもりは無かった。けれど、いくら待っても真樹は自分の気持ちに応えてはくれない。
 少し前の稜なら、応えて欲しいと願う方が傲慢だと思ったのだろう。けれども自分がそれを請う立場になると、周りが見えなくなってしまう。
 嫌われているわけではないと思うから、余計に。
 好きな相手に、自分を好きになってもらいたい。真樹のあの唇で、好きという言葉を聞かせて欲しい。
「俺が見たいのは、困ってる顔じゃない。笑ってくれたらさ……笑って俺の話聞いてくれたらさ、それだけで満足だったはずなのに」
 無理に笑おうとした頬が痙攣していた。


 稜が今にも泣き出しそうな顔で笑うと、視線を外した。真樹は木偶人形(でくにんぎょう)のように突っ立って、それを見ているしかなかった。
 応えられたら……。
 何も考えずに応えられたら、どんなに良いだろう。
 世間の目も、周りからの中傷も、何も気にしないでいられたなら、きっと今すぐにでも稜の胸に飛び込んで行くに違いない。
 自分も稜を愛しく想っていることを、真樹はこの時はっきりと感じた。
――わたしも、好きよ――
 心の中で、思い切り叫ぶ。けれどもそれは、目の前の彼には決して伝えてはならない想いだった。