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あなたが、好き。


〜20〜


 朝礼で、次の異動が正式に発表された。片野の恋人である福浦も、もちろんその中の一人だ。本社から地方の支社に異動になる者もあったが、その逆に役職をもらい、本社に移って来る者もいる。
「今度の異動で、本社(うち)に配属になる人がいるって話」
「ああ、聞いた。若いんだってな」
 真樹の後ろにいた同じ課の男性社員が、隣の同僚に耳打ちするのが聞こえた。
 地方で経験を積んでこの本社に戻って来るのは、将来を嘱望された者が多い。誰が来るのだろうかと、真樹も興味を持った。


「先輩、分かりましたよ」
 福浦と一緒に昼の休憩をとっていた片野が、帰るなり真樹の机の際まで駆け寄って来る。
「どうしたの?」
 真樹は次の仕事のための原稿を用意しながら応えた。
「福浦さんに聞いたんです、今度来る人の事……。彼が出て行った後に配属されるんだそうです」
 福浦の所属はチェック室だ。室長は異動対象者になっていなかったから、役職をもらうなら室長補佐あたりか。補佐のポストは、ここ何年か空席だった。
「石川さんっていう方、ご存知ですか?」
 何気なく出された名前に、真樹の手が原稿の上で止まる。
 石川は真樹の一年後輩だ。最初に本社に配属になって、真樹が仕事を教えた。
――石川くんが……――
 その彼が、本社に戻って来る。
 仕事はできる方だった。覚えも良くて機転もきく。二年間本社にいた後、慣例を破って彼は地方に異動になった。地方と言っても、本社に一番近いところ。仕事上の関連から、電話で何度かやり取りした事だってある。早すぎる異動の時期とその受け入れ先に、何かあるな、とは思っていたけれど。
 あれはこうやって本社に戻すための異動だったのだ。短い期間で地位を与え、また本社(ここ)に戻すための。
――どうして――
 真樹だって仕事にはプライドを持っていた。同じように仕事をこなし、時には彼の間違いを正した。決してひけらかしはしなかったが、真樹の仕事への周囲の評価も高い。
 劣ってはいなかったはずだ。一年先輩ということを差し引いて考えても、データの正確さでも管理能力でも、決して彼にひけをとってはいなかったはずだ。
「ふっ……」
 真樹の口から、乾いた哂いが漏れた。
 女であるが故に。
 平等だなんて体裁の良いことを言っていても、結局女は上には行けない。仕事に全てをかけられるわけではないと、企業の側も判っているから。結婚や出産を機にどう変わって行くのか予測できないから、女は敬遠される。
 真樹自身は、女である自分に決して甘えたことはない。確かに、上を目指していたのかと問われれば、即座に首を縦に振ることはできないと思う。けれどもやる事はきちんとやって来た。男性社員と同じように残業もこなし、責任ある仕事をやって来た。
 だが世間の評価なんてそんなものだ。
 仕事からも見放されたような気がして、真樹は視界が滲んでくるのを懸命に堪えた。


 フラフラと通りを歩いた。会社を定時過ぎに出れば、辺りはもう薄暗くなっていた。
 途中のコンビニで、ペットボトル入りのお茶を買った。指先に引っ掛けた袋を揺らしながら歩く。
 片野はじきに結婚するだろう。女性としての幸せを掴み、新たな人生をスタートさせる。石川は仕事で認められ、地位を得る。それはどちらとも『自分の居場所』だ。
 真樹だけが変わらずに――変われずに、ここに居る。
 女であることの幸せからも、仕事人としてやっていく事からも、逸脱した自分。
 後輩の結婚や出世が羨ましいわけではない。けれども真樹は、自分がどんどん追い詰められて行くような気がした。
 ――もう後は無いのだと。
 一人暮らしの部屋に戻るのが気鬱で、真樹はただあても無く歩いた。鍵をあけ、暗い部屋に灯りを点す。待っている人は誰もいない。待っていても、帰って来る人もいない――そんな部屋。
 ふと、稜の顔を思い出した。
 今頃はバイトだろう。賑やかな店の厨房で、店長を手伝っているに違いない。
 行く先にどんな未来が待っているのか――どんな未来を切り開いて行けるのか。その選択肢をたくさん持っている稜。
『あなたが、好き』
 彼のくれた言葉はキラキラと輝いて、けれどもその鋭い切っ先で真樹の体を切り刻む。
 自分の汚さを思い知らされる。
『わたしも、好きよ』
 そう言ってしまえない自分がいる。傷つきたくないから。世間の目に晒される勇気が持てないから。
 自分の気持ちは隠したまま、ただ彼の居場所となることだけに自分の価値を見出そうとしている。
 稜はあんなにも真っ直ぐに自分にぶつかって来てくれたのに。彼を護りたいなんて体裁の良い理由をつけて、本当は自分が傷つくことを恐れているだけなのではないか。
 彼を、利用するのだ。
――これじゃ、会社と同じだわ――
 稜のことを考えていたからだろうか。あても無く歩いていたはずなのに、いつの間にか真樹の足は彼がバイトする店に向かっていた。
 その事に気付き、ため息をつく。
――今逢ってもきっと辛いだけなのに――
 好きだと自覚した後で、彼に逢うのは辛い。想いを隠して、今まで通り普通に接することができるだろうか。向けられる笑顔に、耐える自信があるのだろうか。
 逢わなければ……遠くから見るだけなら、良いような気がした。厨房を手伝っているのなら、ゴミ出しや雑用で店の外に出ることもあるだろう。裏口が見えるところで待っていれば、その姿を見ることができるかも知れない。
――恋する女子高生みたい――
 そんな自分を、腹の中で哂った。


 店に着くと、真樹は裏口に回った。駐車場が取り囲んだ奥に、それはあった。
 ドアの模様ガラス越しに、中で人が動き回っているのが見えた。それが誰なのかまでは判らなかったが、おそらくそのモノトーンの影の中に、稜も入っているのだろう。
 店は今日も忙しいようだった。
 駐車場の端に、アスファルトに埋め込まれたブロックがあった。街灯から遠く、暗くて目立たないその場所は、ちょっと腰を下ろすのにちょうど良い。
 隣の店との境に設けられた柵に背を預け、真樹はそのままズルズルと座り込んだ。
 夕方の風は、次第に夜のそれへと変わる。すっかり日が落ちた景色は、暗くて重い影絵の世界だ。
 模様ガラス越しに見える厨房の中が、やけに眩しく思えた。
 少し冷えて来た。寒いかも知れない。ずっと外にいたせいで、真樹の体は夜気に慣れてしまっていた。おそらく体は冷え切ってしまっているのだろう。
 稜は出て来そうにない。こんな所で待っていること自体が、間違いであるような気がしてきた。
――何やってるんだろうね、まったく――
 真樹は、ふっと笑った。
 寂しいのは……一人ぼっちなのは、実家を離れる時に覚悟したはずなのに。
 今度の休みには、ホームセンターに行って観葉植物でも買って来よう。あのアパートではペットは禁止だけれど、例え植物でも自分の他に命あるものが部屋にあれば、その世話で少しは気も紛れるに違いない。
 立ち上がって、スカートの後ろを丁寧に手で払った。暗くてよく見えないが、土がついてしまっているかも知れない。これから電車で帰るのに、みっともない格好だけはしたくないと思った。
 パンプスの中に小さな石が入ったようだ。真樹は片足だけ脱いで、逆さに振った。
 ガチャ、と厨房のドアが開く。パンプスを手に持ったまま、はっとして真樹はそちらに目をやった。
 ゴミのバケツを抱えた男の人が、背中でドアを押さえながら出てきた。真樹は一瞬身構えたものの、良く見れば、彼は稜ではなかった。
――ああ……――
 何故だかほっとした。今逢ってしまえば、崩れてしまう。仕事も上手くいかない自分を嫌というほど思い知らさせた今日だから、彼の顔を見るのは()そうと思った。
 腰を屈め、パンプスを地面に下ろす。ヒールの細いそれは上手く立たずに倒れ、カラ、と音をたてた。
 足を入れ、歩き出す。真樹は駅に向かった。


 何処かで飲めれば良いのだが、女一人で飲んでいれば、きっと余計に寂しさが募るだろう。先に買ったペットボトルのお茶を袋ごとバッグの中にしまい、真樹はまたコンビニに入った。ガラスのドア越しに物色し、好みのチューハイに目星をつけると、素早くそれを二本取り出した。
 つまみになる物は要らない。体のことなんて知ったことか。今日は熱めのお湯を張ったお風呂に入り、それからこのチューハイだけを飲んで寝よう。
 カシスの……と思い至れば、稜の店で飲んだ時のことが思い出される。唇の端を歪ませて、真樹はコンビニを後にした。
 カサカサと鳴るコンビニの袋は、真樹の歩くリズムに呼応している。それを無意識に数えながら、真樹は駅に向かった。
 歩道に落ちた街灯の灯りは、真樹の行く道を照らしている。こんな風に自分の道も見えたなら、と真樹は思った。
 電車は何本もある。家で待っている人もいない。ゆっくり歩いて帰っても、別に構いはしない。
 そう思い当たり、ことさらゆっくりと歩いてみれば、後ろから来た人の足音がずんずんと近づいて来る。それを背中に感じ、自分はいつもこうやって追い抜いて行かれるのだな、と思った。後輩達はみな、自分の道を歩いている。その先は、今の真樹には眩しいもの達でいっぱいだ。自分には無いもの。手にしたと思っても、するりと指の間から零れ落ちてしまうもの。
 コンビニの袋を持つ手が震えた。
「真ー樹ーさん」
 突然起こった風と共に、その袋がさらわれた。聞き慣れた、鼻にかかった甘い声に振り向くと、そこには稜がいた。
「なんで寄ってってくれなかったんだよ」
 コンビニの袋を目の高さまで持ち上げ、中身を確認する。
「こんな物買っちゃってさ、うちの店では飲んでくれないの」
 そう言って眉根を上げ、小首を傾げて見せる仕草は見慣れたものだ。
「どうしてあなたが此処に居るのよ」
 見ることを諦めたはずなのに、目の前にいる稜。
「バイト、抜けて来ちゃった」
 悪びれもせずに細かくうなずきながら、稜は言った。
「店の奴が、真樹さんを見掛けたって言うもんだから……」
 つんつんの前髪がそれに合わせて揺れる。これも見慣れた仕草。
「前にもそんな事したわよね」
 真樹はほうっとため息をついた。
「駄目じゃない。バイトだってお金を貰っている以上、仕事なんだから。プライド持たなきゃ」
 そう言って諦めたように笑いながら、自分はどうなのだと自問する。
 プライド……ははっ。
 持っていても、どうにもなるものでもない。女が仕事にプライドを持ったって、所詮そんなものはすぐに潰されてしまう。
 熱い塊がこみ上げて来て、くっと喉が鳴った。
「……真樹さん?」
 稜が気遣う素振りを見せる。それが今は厭わしくて、真樹は顔を背けた。
「帰る」
 鳴った喉が、嗚咽に変わらない内に。
 彼の前から消えてしまいたいと思った。
「送るよ」
「いい、一人で帰る」
 こんな物言いしかできない自分は、まるで駄々っ子のようだと思った。
 望むものが手に入らないから、駄々をこねている子供と同じ。足掻いても足掻いても、ますます深みにはまっていく恐怖感。
「一緒に飲もう」
 稜がコンビニの袋を揺らした。
「馬鹿っ、未成年でしょ」
 真樹はいつの間にか自分の隣を歩いている長身を睨む。
「うん、だからさ、俺はジュースでも買うから」
 前に真樹に怒られてから、酒は飲んでいないのだと稜は言った。
 殊勝な言葉に真樹は、まあいいか、とため息をつく。一人は嫌だ。例え彼を利用することになっても、今は……今日だけは、一人でいたくないと思った。


 途中の自動販売機で、稜は自分のジュースを買った。炭酸系があまり得意ではないというのを、この時初めて真樹は知った。彼が買ったのは、少しだけ果汁の入った果実入り飲料。歯に当たる感触が好きなのだと、取り出し口からアルミのボトルを引き抜きながら彼は言った。
 そんな後姿を、真樹は切ない想いで見ていた。
 こうやって話していても、並んで歩いていても、二人の道は交わることはない。稜が九つも年下で、まだ親の庇護のもとにある未成年である以上、決して交わることのない道だ。
 彼の行く先には、未来がある。潰してはならない未来が。
 身動きもできずに縮こまり、変なプライドだけは一人前になってしまった自分は、彼には似合わないと思った。


 いつもと同じように辺りを窺いながら、隠すようにして稜を家に上げる。後手に施錠すると、ほっと安堵のため息をついた。
 これもいつもと同じ。
 稜の体を回りこむようにしてスリッパを手に取ると、彼と自分の前にそれぞれ一足ずつ置いた。
 これも……。
「真樹さんさぁ」
 スリッパに足を入れながら、稜が廊下の電灯のスイッチを弾く。奥のリビングはまだ暗かったけれど、とりあえずの灯りは点いた。
「泣きたいの、我慢しなくてもいいじゃん」
 彼の言葉に、真樹はスリッパを履きかけていた足を止めた。
「電話の時もだったけど、すぐ我慢するよね?」
 そんな真樹の腰にさりげなく手を添え、稜が先を促す。真樹はその手に導かれるまま、リビングに入った。
「俺の前では、我慢しなくてもいいと思うけど」
 リビングの電灯のスイッチも、稜が点けた。彼の顔がよく見える。何も言い返せないまま、真樹はペタンと座椅子に座った。稜がコンビニの袋をテーブルの上に置く。ガサリと音がして、片方の缶が袋の中で倒れた。
「俺だってさんざん真樹さんに弱いとこ見せちゃってるしさ、お互い様だろ?」
 稜が向かいの座椅子に座った。自分で買った缶ジュースを、その前に置く。コン、と妙に澄んだ音がした。
「ねぇ?」
 同意を求めるように言うと、稜はテーブルに肘をついて長い指を綺麗に組み、その向こう側から真っ直ぐに見つめてくる。
 じっと覗き込まれると、心の奥底まで見透かされそうだ。ドロドロと汚いものがたくさん詰まって渦を巻き、腐臭を放っている自分を知られてしまう。
 真樹は視線を逸らそうとした。だが縫い留めらてしまったように、それはできなかった。
 何でもないことなのよ、と笑おうとした。いつものように、大人の余裕を見せて。
 だが唇は痙攣したように細かく震え、ちっとも笑みにならない。そうしている内にその震えはどんどん大きくなって、真樹は自分の頬が濡れているのに気付いた。
 長く息を吐き出すと、次の吸気は嗚咽に変わった。
 稜はまだ見つめている。瞳を逸らさず、包み込むように……。真樹はそんな彼の瞳を見つめたまま、声も無く泣いた。
「……後輩の女の子が結婚するの」
 そう言うと、肩が震える。
「それから……後輩の男の子が、室長補佐になって帰って来るって……」
 視界はもう涙で滲んで、稜が今どんな顔をしているのかさえ判らない。けれども真樹は、静かな表情でこちらを見ている彼を感じていた。


 泣くだけ泣いたら、少し落ち着いたようだ。後から後から溢れて来た涙は徐々に枯れ、呼吸も随分楽になった。
「社会に出て働こうと思ったら、生半可な根性じゃ続かないって判ってたけど……特に女はね」
 真樹はボックスティッシュを引き寄せ、一枚引き抜く。汚いけれど今更な気がして、グズグズいう鼻を押さえた。
「何言われてもニコニコして、なるべく波風立てないように自分殺して来たのに。上司に嫌味言われても、後輩の男の人が先に出世しても、何も言えない。同じ成果をあげても、女だっていうだけで認めてもらえない。どれだけ頑張っても、認めてもらえないなんて……悲しいよね」
 学生である稜に言っても、どこまで判ってもらえるのだろうか。
「私の代わりなんて、いくらでもいるわ。機械の歯車と同じなのよ。すり減ったり壊れたりしたら、新しいのと付け替えて、はいおしまい。古い歯車は、そのまま捨てられてしまうの。だから頑張って壊れないようにして来たのに……もう……」
 新しい涙が出そうになって、慌てて真樹は新しいティッシュを引き出した。
「……嫌になっちゃった……何もかも……もう、嫌」
 目に押し付けたティッシュが湿り気を帯びる。鼻がグズッと鳴った。
 稜は果たして、どこまで理解してくれているのだろうか。真樹の抱える痛みを全て判ってもらうことは、無理だろうと思った。自分自身でさえ、社会に出るまでは全くの平等だと信じて疑わなかったから。
「女の私に期待する人なんて、最初からいなかったんだって気付いた……」
 現実に転がっている格差も偏見も、学生の眼というフィルターを通していた頃は、全く見えて来なかった。だが一歩社会に出れば、そんなものは日常的に経験させられた。抗ってみても、社会の大きな流れは、真樹一個人の力ではどうにもならなかった。
 表面に浮上するニュースは氷山の一角だ。声を上げることもできずに無念の内に黙らされてしまう。そうしている内に諦めという言葉を覚え、やがて大きな流れに呑み込まれて沈んで行く。時折足掻いてみるものの、一度諦めて流され始めた体は、たやすくその流れから抜け出すことはできなかった。
 けれども稜に話して、そんな混沌とした気持ちを見つめなおすことができた。彼が泣けと言ってくれたおかげで、自分の心の中で何が起きているのかを理解できたように思う。
 真樹は自分の気持ちと向き合って、初めて自分を理解できたような気がした。
「……聞いてくれてありがと。あなたに話して、少し心が軽くなったみたい」
 認めて欲しかったのだと……誰かに『あなたでなければいけない』と言われたかったのだと。
「真樹さん……」
 稜が口を開いた。
 そう言えば、随分長い間自分ひとりでしゃべっていたような気がする。真樹はティッシュの隙間から彼を窺った。
 変わらない瞳が、真っ直ぐにこちらに向けられている。
「あなたは、片羽で飛ぼうとしてる蝶みたいだ」
 鼻にかかった甘い声が、真樹の心の襞に染み込むように響く。
「片っぽ羽むしられてもさ、蝶って飛ぼうとするのね。一生懸命に羽バタバタさせてさ。でも片っぽしかないから、地面の上で同じところグルグル回っちゃったりして……あなたに似てるよ」
 稜がふっと笑う。綺麗な笑みだ。
「……私に?」
 訊き返した声はまだ湿っている。真樹は丸めたティッシュをゴミ箱に放って、また新しいティッシュを引き出した。
「一生懸命もがいてるけど不器用で、みんなが上手く誤魔化したり気付かなくてスルーしちゃうような事でも真剣に受け止めて応えを見つけようとしてるでしょ。それで自分で抱え込んで……その度に重たくてさ、飛びたいのに地面でグルグル回ってる」
 彼の声は、さんざん涙を流しつくした真樹の心に容赦なく染み込んで来た。涙が呼び水になったように、真樹の心の中は今、稜の言葉でいっぱいになる。
「俺さ、あなたの羽になりたい。あなたが無くしちゃったもう片方の羽になりたい。俺といることであなたの重荷が少しでも軽くなるなら、俺、あなたの羽になるよ」


 突然、真樹は気がついた。
――いつも――
 後ろからの足音を感じれば、それはいつも稜だった。卑屈になった心で追い抜いて行けと念じても、彼は立ち止まって自分をすくい上げてくれた。「一緒に行こう」と背中を押してくれた。
 目の前で綺麗に笑う稜の顔は、それでもどことなく泣きそうに見える。『あなたが、好き』と言ってくれたあの時に、真樹が拒絶してしまったままだから。
 きっと今、稜まで失ってしまったら、この先自分は生きていけない気がした。いつの間にか隣にいてくれることが当たり前になって、それを『いつものこと』と感じている自分がいた。
 大切な人だと想った。大切な稜をこれ以上傷つけたくないから――彼を利用している自分が嫌だから、本当の気持ちを告げようと想った。
「……カッコいいこと言っちゃって……私、重いわよ。あなたがどれだけ頑張っても、一ミリも浮き上がれないかも」
 笑おうとしたのに、顔がこわばってしまったようだ。
「大丈夫。体力には自信あり」
 そんな事にはお構いなしに、稜は冗談めかして言った。
「言ったわね」
 ティッシュを手の中に握りこんだまま、真樹は立ち上がった。座っている稜の背後に回り、勢いをつけて飛び乗った。彼の首に腕をまわし、ずり落ちないように体を支える。
「ちょ……ちょっとタンマ、ギブ。っていうか、首締めてる。苦しいよ、離して」
 稜が本当に苦しそうな声を出したので、真樹は膝をついて腕を緩めた。けれども離れ難くて、そのまま彼の背中に頬を押し付ける。
「ありがとね。……嬉しかった」
 小さな声で、つぶやいた。
「本当はあなたを飛ばせたいんじゃなくて、俺があなたの背中で休みたいだけなのかも知れない」
 背中の真樹を窺うように、稜が首を傾けた。その視線から逃れるように、真樹は一層強く彼の背中に頬を押し付ける。
「……本音で話して、どんなダメな所や汚い所見せてもさ、あなたは受け止めてくれる。カッコいい俺じゃなくても、それでも笑って……時には突っ込まれたりもするけどさ。……っていうか、突っ込まれることの方が多いけどさ」
 押し付けた耳を通して、彼の声が直に響いた。
「何よ、それ」
 温かい体温を感じながら、真樹は笑って目を瞑った。
「……でもそれがちっともイヤじゃなくて。むしろ楽しいんだ。だからあなたの背中で、あなたを綺麗に見せるように精一杯鱗粉を輝かせながら、ただ安心していたいだけなのかも知れない」
 制服の背中はそれでも広くて、真樹を安心させた。まだこんなものに縛られているけれど、自分にとっては大切な人だ。この温もりを失ってしまったら……請うてくれる人を失ってしまったら、今度こそ自分は何を支えにして歩いていけば良いのか判らなくなってしまう。
 真樹は彼の匂いのする息を吸った。
「飛べるかも知れないね、一緒なら」
 そう、小さな声で言った。


「……!」
 聞き間違いかと思った。
 稜は思わず体を反転し、真樹を正面に捉える。
「真樹さん……?」
 支えなければ倒れてしまいそうなほど、真樹の体は頼りなかった。肩を両手で支え、黙ってしまった彼女の口元を見つめる。
「なんて……言ったの?」
 もう一度言って欲しい。何と言ったのか、その口から聞かせて欲しい。
 しばらくして、真樹の唇がためらいがちにまた、小さく開かれた。
「……あなたと私の、二人なら」
 言い終わると、真樹の唇の端が少しだけ引き上げられた。それは笑みにはほど遠いものだったけれど、稜にはこの上なく綺麗に真樹が微笑んだように見えた。
「真樹さん、それって……」


 稜が真っ直ぐにこちらを見つめる。真樹はもう、嘘はつけないと思った。
「一緒に、居ようか」
 目の前の稜が息を呑むのが判った。
「あなたと居ると、私も楽に呼吸ができる。疲れて動けなくなってしまっても、隣を見ればあなたが居る……そう思うとまた、自分を楯にして頑張れそうな気がする。あなたの中に、とうの昔に置いてきてしまった純粋さを見ることができるから……あなたを失くしたくない」


 突然、抱き締められた。
 強い力に背骨が折れるかとも思ったが、真樹は嬉しかった。
「真樹さん……」
 耳のすぐ近くで、稜の声が聞こえた。彼の息遣いに合わせて、自分の体も上下する。お互いの呼吸が一つに溶け合ってしまったように感じた。
「顔、見せて」
 そう言うと稜は、上半身だけを引いた。片手は腰を抱いたまま、もう一方の手を頬に添える。焦点も合わないほど近くで見つめられた。間近に稜の瞳がある。不揃いな前髪の向こうに、綺麗な瞳があった。
「私が今まで身に付けてきた、ズルさとか、諦めとか……あなたの傍で洗い流せるかも知れないって思った。諦めたもの、取り戻せるような気がしたの」
 綺麗な彼の瞳に、嘘はつけない。自分の手の内を、真樹は明かした。
「変われるかな、私。あなたと一緒なら、変わることができるかな」
 真樹の言葉に稜がまた、更に強い抱擁を返した。