〜21〜
心が通じ合った。俺は真樹さんが好きで、真樹さんも俺と居たいと言ってくれた。やっと二人、好き合っているって判った。それなのに……。
さっきから話をしてくれない。こんな子供っぽいところがあるなんて、知らなかった。
「ねえ……」
何度目かの試み。なのに稜は丸めた制服の背中をこちらに向けたまま、返事をしようともしなかった。
真樹の実家は車で一時間半くらいのところにある。「たまには帰って来なさい」と母親から電話があったのが、昨日のこと。たまたますぐ後に姉からも電話があって、同じような事を言われた。
そう言われてみれば、前に実家に帰ったのは、半年以上前のことだ。耕治との別れや稜との出逢い、会社のことなどたくさんの事がありすぎて、実家に帰るという休日の選択肢をすっかり忘れてしまっていた。離れていても家族なんだから、たまには顔を見せなさいなどと言われれば、
無下にすることもできない。
「じゃあ今度の週末に……って、もう明後日、土曜日か。明日の夜か明後日の朝、帰るから」
真樹はそう言って電話を切った。
稜は背中を向けたまま、真樹が何を言っても返事をしなかった。彼が怒っている理由は承知している。
真樹はため息をついた。
土曜日の朝に……とも考えたが、そうなると慌しい。金曜日の夜――今日のことだが、それなら余裕をもって帰ることができるだろう。お風呂に入ってあとは寝るだけにしてから帰れば、体も楽だ。
仕度を始めたところに、稜が訪ねて来た。晴れて恋人同士となった週末に遅くまで二人で過ごしたくて、今日はバイトがあると嘘をついて家を出てきたのだと言う。
「だからってさ……何も今日帰んなくたっていいじゃん」
相手のため息に引き出されたように、稜の口からもため息が零れた。
彼の言いたいことは判る。気持ちが通じ合ってから初めての週末なのに、真樹はこれから実家に帰らなければならないのだ。置いていかれる方としては、文句の一つも言いたくなるだろう。
「だけど車で一時間以上かかるのよ。行けば泊まりになるし……あなたと一緒になんて、行けるわけないでしょ?」
真樹がそう言うと、稜はむっとした顔になった。
「俺、近くにホテルとってもいいんだけど?」
挑戦的な瞳が、ちらりとこちらを睨んだ。
今の稜なら、それぐらいの事はやってのけそうだ。真樹は背中を向けたままの彼の体を回り込んだ。
「だーめ。近くにホテルとってくれても、逢いに行けるわけないじゃないの。多分家族や親戚とか集まるから、抜け出すことなんてできないし。逢えなければ、きっと哀しくなるから……」
膝立ちのまま、少しだけ腰を屈めて稜の瞳を覗き込む。真樹の視線から逃げるように彷徨った彼の瞳は、それでも最後には諦めたように真樹のそれを見返した。
「……お見合いとか薦められたらどうすんのさ?」
拗ねたような瞳の下で、稜の唇が不機嫌そうに引き結ばれる。
「馬鹿ね、ちゃんと断るわよ」
そう笑いながら、真樹は心の片隅でふと、それもいいかも知れないと思った。
このまま二人でいても、未来は見えて来ない。始まったばかりの恋だけれど、すぐそこに終わりが見えているような気がした。
いつの間にか、稜の顔が間近にあった。頬に彼の手を感じる。
「え……?」
真樹の瞳が大きく見開かれ、稜の瞳を捉えた。透き通るような彼の瞳は、真樹のすぐ目の前にあった。
――何?――
思う間もなく、すぐにそれは焦点も合わないほど近付いて、唇に暖かいものが触れた。
「ん……っ!」
真樹の手が、稜の体を押し返そうとする。だが彼の力は強く、真樹がどんなに力をいれても、びくともしなかった。
頬に添えられていた手は、いつの間にか真樹の頭の後ろに回っていた。二、三度優しくついばむように唇を触れると、息継ぎさえ許されない、深いものへと変わる。逸らした真樹の喉が、ヒク、と痙攣した。
驚いて開いたままの真樹の目に、稜の伏せた睫毛がぼやけて映る。前に一度だけ触れたことのある彼の前髪が、自分の頬を撫でているのを感じた。
――柔らかい……――
頬をくすぐる髪が変わらず柔らかいことに何故か安心し、いつの間にか真樹は、自分が抵抗をやめ、全てを受け入れるように目を瞑っているのに気付いた。
それは短い間だったのかも知れない。けれど真樹には、とても長い時間に感じられた。唇が離れ、徐々に遠ざかっていく稜の瞳の中に、自分の姿が映っているのが見えた。
稜は何も言わなかった。潤んだように揺れる眼差しが、とても艶めいて見える。真樹も何も言わなかった。
嫌だとは思わなかった。それどころか、ずっとこうしたかったのだとさえ思えてくる。
お互いの気持ちを知った後も抱き締められはしたが、唇を触れることは許さなかった。これは真樹の、大人としての分別。
それが今、こっぱ微塵になる。
「私……」
無理にでも何かを言おうとした瞬間、肩を引き寄せられ、再び彼の体が近付く。頬に、ワイシャツの布地が触れた。無造作にゆるく結んだエンジ色のネクタイが、間近に見えた。
――制服――
そうだった。稜はまだ高校生。子供だ。分別ある大人であるはずの自分が、流されていいわけがない。
真樹は眉根を寄せた。
「どうして、こんなことするの」
稜の体を両手で押し返す。彼はそんなに力を入れていなかったらしく、真樹の頬はワイシャツの胸から離れた。
「……変なこと、考えないでよね」
離れて行く真樹の頬に、稜の言葉が突き刺さった。
「俺から離れようなんて、考えないでよね」
見上げれば、真剣な瞳が静かにこちらを見下ろしている。真樹の心の中などお見通しだとでも言いたげに、稜の眼差しが妖しい艶を帯びた。
「俺は真樹さんから離れない。あなたが俺を要らないって言っても、俺は真樹さんの傍にいるから」
そう言った稜の顔は、とても大人びて見えた。
久しぶりの実家は、真樹に安らぎをくれた。土曜日の夜には姉の家族も来て、義兄が庭先でバーベキューの仕度を始めた。姪がそれを甲斐甲斐しく手伝う様を見て、真樹は心の中に温かいものが広がるのを感じた。
「家族欠乏症」
隣に座った弟の
征人が、串に刺した肉にかぶりつきながら、真樹に向かってぼそっと低い声を漏らした。
「……何よ」
焼けた野菜をタレに絡めながら、真樹は隣の長身を睨む。征人はそんな彼女の様子など意に介せず、相変わらず肉を串から引きちぎりながらニヤリと笑った。
「真樹さ、なんか羨ましー! ……って顔してた」
「うるさいな、ほっとけ」
紙皿の中で野菜を必要以上に引っ掻き回しながら、真樹は悪態をつく。
「姉ちゃん一家見て、羨ましいとか思ってんじゃないの? 家族っていいなー、なんてさ」
征人は悪気があるのか無いのか、人の一番痛いところを突いて来る。昔からヤツはそうだった。洞察力はあるのだが、どうもデリカシーに欠けるきらいがある。
「あんたねぇ、そんな風じゃ彼女できないよ。もっと気遣いしなさいよ」
真樹はそう言いながら、タレがたっぷり絡んだピーマンを彼の紙皿の中に投げ込んでやる。
「あー、汚ったねぇ。俺の一番嫌いなの寄越しやがったな」
「ふん、自業自得! ちゃんと食べなさいよ。お残し厳禁だからね」
「うえー」
嫌そうな声を上げながら何処かに隠すところはないかと物色している征人を、長姉が睨んでいる。一度皿にとった物は、絶対に返してはならないというのが水谷家のバーベキューのルールだった。征人はしぶしぶ皿の中でまた違う味のタレにまみれてしまったそれを口に運ぶ。数回申し訳程度に
咀嚼すると、ウーロン茶と一緒に飲み込んだ。
恨みがましそうな目が、真樹を睨めつける。そんな視線などそ知らぬ風で、真樹は自分の皿に新しい野菜をとった。
「その様子じゃ、彼氏いないだろ。こないだ姉ちゃんから聞いたよ、別れたって」
ピーマンの腹いせか、征人はまた痛いところを突いて来る。真樹は横目でヤツを見ると、ふん、と鼻を鳴らした。
「だったら、何よ」
「え? ホントにいないの?」
征人は不思議なものでも見るように、真樹を見た。実家に帰ってから、征人と真正面から向き合うのは、これが初めてかも知れない。真樹は訳も判らず、ただ眉根を上げて見せた。
「あ……いやさ、なんか新しい人、いるのかな……なんて思ったから話振ったんだけど……ごめん」
征人が殊勝にも謝ってみせた。新しい恋人ができたと思ったから前の彼氏との別れを持ち出したのか。ヤツはヤツなりに気を遣っているつもりなんだな、と真樹は思った。
『俺から離れようなんて、考えないでよね』
ふと耳元で、稜の声がした。
『俺は真樹さんから離れない。あなたが俺を要らないって言っても、俺は真樹さんの傍にいるから』
思い返せば、心の中が温かくなる。力強いその言葉に無条件に縋ってしまうことはできないけれど、ここで彼氏が居ないと言ってしまっては、稜に申し訳ないような気がした。
「んと……居るには居るのよ」
肉に箸を伸ばしながら、ボソッと呟く。
「え? なんだ、早く言えよ。……どんなヤツ?」
萎れかけていた征人の表情が、水を得たように輝く。
「んー……」
真樹は言い淀んだ。
ちらりと横目で征人を窺えば、真樹が次に何を言うのかと期待しているようだ。
「あ、この肉まだ生焼けだー。征人、あげる」
真樹は一度皿に取るふりをした肉を、征人の皿に投げ入れた。
「あっ! 要らねぇって! 生焼けの食わせる気かよ!」
「まだ私はお皿に入れてなかったもんね。征人、食べなさいよ」
真樹ははしゃいだ声を上げた。征人が長姉に情けない表情の顔を向ける。
「姉ちゃん、これ戻してもいいよな? だって生焼けだぜ! 真樹ってば酷いだろ」
そう言って、まだ裏が赤い肉を箸でつまんで見せた。
――言えないよね――
征人の抗議をそ知らぬ顔で受け流すと、真樹は小さなため息をついた。
稜のことは、口が裂けても言えない。今まで家族には彼氏ができるとその都度報告していた。詳しくは言わなかったものの、何歳でどこに勤めている人かぐらいは言ってあったのだけれど……高校生が相手では、言えるはずがない。
まして、稜は元モデル。今は休業中とはいえ、まだそこに戻る可能性は多分にあるのだ。九つも年上の、ただの冴えないOLが相手だと知れれば、何を言われるか判ったものではない。
――ごめんね――
久しぶりの家族の声を心地良いと思いながら、真樹の心は遠くにいる稜の元へと飛んでいた。
埋め合わせをするように、次の週末から毎週、稜と過ごした。今週は土曜日に彼の模試があったので逢えなかったが、日曜日には二人で出掛けた。
服を買いたいから、と言う稜に連れられて、真樹は人通りの多い通りを歩く。制服を脱いで私服を着込んだ彼は、傍目には高校生には見えなかった。
歩き方が綺麗だったからか、それとも伊達眼鏡越しにも判ってしまう瞳の力強さからなのか、時々すれ違う女の子達が喜色を浮かべて彼を振り返る。稜はそんな事には頓着せずに、真樹をエスコートして歩いた。
何軒か回って、その間に真樹も自分の服を買った。こうやって新しい服を買うのは久しぶりだ。耕治と別れて以来、そんな気持ちも何処かに行ってしまっていた。だが今は、稜の隣に居るのに少しでも相応しい服を、と選んでいる自分に気付く。
――滑稽だわ――
そうは思ったが、そんな滑稽な自分も真樹は好きになりかけていた。
立ち並ぶ店に飲食店が目立つようになってきた。ここが洋服店の並びが終わる辺りなのかも知れない。
最後の店から出て来ると、稜は少し考え込む仕草をした後で店を振り返った。
「俺、やっぱさっきの買ってくるわ。真樹さんここでちょっと待ってて。すぐ済ませるから」
そう言うと、稜は店の中へと入って行った。肩でリズムを取るようなその歩き方は、休業中とはいえ、さすがにモデルだ。並んでいるとそんなには感じないが、遠目に見ればそれがよく判る。私服でいることもあって、いつもの稜ではないように思えた。
稜は自動ドアを入ったところでこちらを振り返る。ガラス越しに真樹がそこにいるのを確認すると、小さく笑った。
真樹も笑って、それに応える。それを見て安心したのか、稜は店の奥へと消えて行った。
一人取り残された真樹は、歩道に置かれたベンチに座って、道行く人を眺めていた。そこから見える風景は、とてもお洒落な一枚の写真のようだ。流行りの洋服に身を包んだ人々が、靴音も高らかに歩いて行く。座って人の流れを眺めていると、自分が風景の一部になったような気がした。
こうやって自分の横を歩き過ぎて行く人を見送って、寂しい気持ちになっていたのはいつのことだっただろう。稜が傍に居てくれるおかげで、そんな気持ちもいつの間にか薄らいでいることに、真樹は今気が付いた。
「ふ……」
真樹の口元が緩んだ。九つも年下の、まだ制服に縛られている稜に救われている。そんな自分を、世間はどう見るのだろう。好意的に見てくれる人なんて、ほんの一握りにも満たないだろう。大方の人は、眉をひそめて真樹を非難するに違いない。
それでも良いと、言い切る自信は無かった。稜と心を通わせ、彼を失いたくないという想いを伝えた今も、本当にそれで良いのかと問う自分が居る。
真樹はため息をついて、すぐ近くの街路樹に目をやった。
枝はよく整えられていて、剪定をしたばかりのように見える。濃い緑色の葉が風に吹かれて、細かく震えていた。
その木影によく見知ったシルエットがあるのを見て、真樹は驚いた。向こうもこちらに視線を向け、同じように驚いた顔をする。
「……耕治」
そこにはかつての恋人が居た。彼に突然別れを切り出され、真樹は惨めな気持ちで行き当たりばったりの店に入り、そこで稜と出逢ったのだった。
「真樹……」
耕治もかつての恋人の名を呼んだ。二人はお互いの名前を呼んだきり、その場に立ち尽くしてしまった。周りでは人の波が、どんどん流れてはどこかに消えてゆく。そんな中で、耕治と真樹の二人だけが、その場所で動けずにいた。
真樹よりも、耕治の方が先に我に返ったようだ。真樹の座るベンチに近付いて来る。
「買物?」
真樹の目の前まで来ると、ショップの名前がデザインされた紙袋を視線で指して、話の糸口を探すように訊ねた。
「ええ。ちょっと疲れちゃって」
真樹は視界の端でちらりと店の中を窺って、稜がまだ出てくる気配がないのを確かめた。
別れたとはいえ、耕治とは数ヶ月前まで付き合っていた仲だ。弟の
征人の写真を見せたことがあったから、彼には稜のことを弟だと偽ることができない。こんな時間に身内でもない男と二人で居れば、社交辞令として、誰なのかと訊ねられるだろう。真樹には二人の関係を他人に説明する自信が無かった。
「耕治も、買物?」
以前と同じように、普段通りの声で真樹も訊ねた。確かに二人は付き合っていたのだけれど、身を焦がすほどの恋だったわけではない。今改めてここで逢っても、ただ懐かしさを感じるだけだった。
「ああ」
耕治も短く応えた。
今日はいつもより人通りが多いようだ。真樹は安堵の息をつく。
――大丈夫、普通に話せているわ――
一対一ではなく雑踏に紛れていると、こうして別れた恋人と話をしていてもさほど苦にならない。ただ流れていくだけの日常。そのほんの数コマに過ぎないのだと思うことができた。
耕治が真樹を見つめる。その瞳は、付き合っていた頃と少しも変わらなかった。
「真樹、俺さ……」
言いにくそうに、耕治が切り出す。
「やっぱりお前のこと、諦められないみたいだ。一人になってよく考えてみたんだ。週末になる度に、お前に電話したくてたまらなかった」
唐突に聞かされた言葉に、真樹は驚いた。気持ちを落ち着かせるように、意味もなく自分のバッグの持ち手を捻る。
「私は、もう……」
捻った拍子に、横のオープンポケットから携帯が零れてベンチに転がった。真樹が手を伸ばすよりも早く、耕治がそれを拾って真樹に手渡す。
「分かってる。ひどい事言ったって、後悔してる。お前が謝れって言うなら、何百回でも謝るよ。だから……やり直さないか?」
掌に乗せた携帯を見つめたまま、真樹は耕治の言葉を聞いていた。
今更そんなことを言われても――別れた後、自分がどれほどの思いをしたのか、耕治は分かっているのだろうか。誰からも必要とされなくなってしまったんだと思うと寂しくて、切なくて、いたたまれなかった。いけないことだとは頭では判っていても、差し出された稜の手をとってしまった。
何度も振り払おうと思ったのに……まるで心の中に開いた穴が近付く物全てを吸い寄せて呑み込んでしまうかのように、稜の想いを受け入れてしまった。
決して許されない恋。けれど今の真樹には、それを手放すことはもう、考えられない。
「気まぐれで、そんなこと言わないで」
引きつる頬を無理やり笑みで誤魔化して、真樹は言った。
「気まぐれなんかじゃないよ。俺が馬鹿だったって、反省してるんだ」
耕治の声が、ますます真樹の心を追い込む。今更、どうしろと言うのだろう。やり直すことも想定して、あの時にはっきりと別れの言葉を口にしなかったのだろうか。
『少しの間、会わないでおこう。俺達』
そう切り出された時、別れる準備なのかと真樹は訊いた。そんなはっきりとしたものではないと、耕治は言った。けれどもその瞬間真樹は、自分が要らない人間になってしまったのだと感じた。あの時のやるせない気持ちは、いまだに真樹の中でくすぶっている。
それを今更、しかもこんなところでやり直そうと言う。随分と都合の良い話だ。
「じゃあこんな所で偶然会う前に、どうしてちゃんと連絡してくれなかったのよ」
珍しく、大きな声を出した。道行く人の幾人かが、何事かとこちらを見ている。それでも真樹は、何も取り繕うことはしなかった。
「もう、遅いのよ」
自分は気付いてしまったから。稜の傍で純粋だったあの頃の自分を取り戻したいという願いに、気付いてしまったから。
「……誰か、居るのか?」
それは心の中にもう他の誰かが居るのか、ということだ。真樹は声もなく、ただ小さく頷いた。
「そうか……」
耕治の声が、落胆の色に染まる。
「今、幸せなのか?」
そう問われて、真樹は即座に頷くことができなかった。このまま稜と共に行く道を選ぶなら、超えなくてはならない壁がいくつもある。ただ歳の差があるだけではない。彼がいずれメディアの向こう側に帰ってしまえば、そこに自分の居場所は無いのかも知れないのだ。
真樹は耕治から歩道のブロックに視線を移す。
「……そうよ」
やっとのことで声を絞り出した。綺麗に笑って見せたはずの頬が、何故だか少し、強張っていた。
買物を済ませて店から出た。今日もいい天気だ。稜はふと、自分が笑っているのに気付いた。
真樹を探す。すぐ先のベンチに見慣れた後姿があった。
「真樹さ……」
掛けようとした声は、凍ってその場に落ちた。真樹の向こうに、見たこともない男がいる。稜は自分でも知らない内に、物陰に身を隠していた。
「じゃあこんな所で偶然会う前に、どうしてちゃんと連絡してくれなかったのよ」
突然、真樹の大きな声が聞こえた。通りかかった人が、何事かと二人を振り返る。
稜は自分の体中の血が、逆流したのではないかと思った。
連絡をくれなかったことを、
詰っている。だったらあれは、真樹の別れた男なのではないだろうか。
稜は自分の体を掻きむしりたい衝動に襲われた。
真樹の元彼。自分には超えられない真樹との一線を、容易く超えることのできた男。
――大人だという、それだけの理由で。
「……っきしょう」
小さな声で、稜は悪態をついた。
自分は大人ではないから。ただそれだけの理由で、こんなにも苦しい想いをしなくてはならない。傍に居ても、真樹の心はどこか遠くにあるような気がする。九つの歳の差が、二人を鉄の壁で隔てているのだ。
どうしようもない嫉妬の念に、稜の心は波立った。
男が真樹から離れて行く。稜は、無理やりに息を整えた。何気ないふりをして、たった今店から出てきたような顔をする。
足音をわざと響かせて、真樹の座るベンチに向かって歩いて行った。
「お待たせ」
明るく言うと、稜は店の紙袋をちょっと持ち上げて見せた。真樹は彼の顔を見ても、いつものように笑い返して来なかった。
「どうしたの? 疲れちゃった?」
稜は心配げな顔で覗き込む。真樹はただ小さく首を横に振った。
そんな真樹の様子に、稜は心の奥が締め付けられるのを感じた。
――あいつが――
稜は自分でも知らない内に、白くなるほど拳を握っていた。
買物はそこで切り上げて、二人は真樹の家に帰った。相変わらず玄関ではこそこそと隠れるようにして辺りを窺い、近所の人に見られないように家の中に入る。
そうやって世間の目を気にしながら、稜の胸は、やるせない想いでいっぱいになっていた。
真樹が先に家の中に入り、買物袋をリビングの床に並べた。稜は後からついて行く。
「人を好きになるって……苦しいね」
リビングに入るなり、ポツリと漏らした。それを聞いて、座椅子に座り掛けていた真樹が弾かれたように顔を上げた。
「いつも一緒にいたい。
蔦が絡み合うみたいに、ずっと離れないでいたい。でも……そんなの無理だ」
真樹の隣に崩れるように座り込み、稜は片手で顔を覆った。さっき見た男の影が、今も目の奥にちらついて離れない。真樹がこちらに背を向けていたから余計に、彼女がどんな顔をしていたのか、気になって仕方がない。
醜い感情だ。嫉妬という気持ちがあることは知っていたが、これほど惨めなものだとは思わなかった。
「俺さ、レンアイって、人と人とが惹かれ合って、ただ楽しくて、二人で一緒にいることだと思ってた。違うんだね。二人で一緒にいるだけじゃ、だめなんだ。一瞬だって、あなたと離れていたくない。あなたが他の男と話すのを見るのは嫌。あなたの瞳が他の男を映すのも嫌だ。いっそ二人溶け合って、ひとつの人間になってしまえたら……って思うよ。あなたの目も口も耳も塞いで、あなたを俺の体の中に閉じ込めて、他の誰からも見えなくしてしまうの」
顔から手を外し、真樹を見る。その瞳は、どうにもならない葛藤に傷ついていた。
「こんなに傍にいるのに、変だよね。どれだけきつく抱き締めても、キスしても、心の中じゃずっと不安なんだ。手を離したらどこかにいっちゃうんじゃないか、瞬きしたら消えてしまうんじゃないかって、ずっと怯えてる」
周りの目を気にしないで居られる場所は、真樹の家の中だけだった。普通の恋人同士のように手を繋いだり、まして路上で睦ましくじゃれ合ったりすることなど、到底できなかった。
そうやって心に枷をはめているから、外ではいつの間にか有りもしない二人の関係を演じている自分に気付く。それは姉と弟だったり、ただの友達だったりした。その中に、恋人という選択肢は無い。
「こんなに苦しい恋なら、要らないと思った。でも捨てられない。あなたを好きだと思った気持ち、そう簡単には捨てられないよ」
誰からも見えない、この家の中のように……。こうやっていつまでも、二人を放っておいて欲しい。二人が愛し合っていると分かっても、何も言わずに知らないふりをしていて欲しいと、稜は思う。同時に、それが許されないことだという事実も、痛いほど分かっていた。
「俺のこんな気持ち、重い?」
それならば、ひとつの人間になってしまいたいと思うこの気持ちを、真樹はどう感じるのだろう。
応えを求めて見上げた先の彼女の瞳は、哀しい色をまとって、ただ揺れていた。