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あなたが、好き。


〜22〜


 この間の真樹は、どこかおかしかった。いつもなら隠し事なんてせずにある程度は付き合ってる相手の事を話すのに、こちらが訊いても妙にはしゃいで誤魔化したように思う。
 征人(ゆきと)は車を走らせながら、あの日の姉を思った。
――でも、いつものピリピリした感じはしなかったよな――
 実家を離れてから……いや、大学を卒業して就職してから、真樹はだんだん『大人』になっていった。それは成長や経験によるものなんかではなく、無理して背伸びしているように征人には感じられた。
 たまに実家に帰って来ても、妙に『大人』であることに拘っているみたいだった。ファミレスに誘っても「スーツ着て行くところじゃない」と乗って来なかったし、好きだった漫画の本も、何度目かの帰省の時に処分してしまった。
――不器用だから、あいつ――
 『あいつ』なんて次姉を呼ぶ時点で色々と間違っているような気もするが、昔から優等生だった真樹は、とても不器用に生きていた。弟の自分から見てもそれは痛々しくて、姉というよりも友達のような感覚で接していたように思う。だから長姉を『姉ちゃん』と呼ぶのに対して、真樹のことは名前で呼んでいた。
 最初の頃こそ抵抗をしたものの、真樹も次第にそれに慣れ、何も言い返して来なくなった。並んで買い物に行けば、事情を知らない友達は真樹のことを彼女だと勘違いすることもあった。
 そんな真樹が、この間は子供の頃のようにはしゃいでいた。それはもちろん、こちらの問い掛けにきちんと答える気が無かったからだったのだろう。けれどもそれだけではなくて、肩に入っていた力が少し抜けたから、あんな風にはしゃいでいたようにも見えた。
――付き合ってる相手の影響かな、なんて思ったんだけど――
 今日はたまたまこちらに出てくる用事があった。「ついでに」と姉から真樹への預かり物を託されて、今アパートに向かっている。
 真樹のアパートには何度か行ったことがある。メゾネットタイプで二階が寝室になっている、洒落た造りのアパートだ。
――彼氏がいたりして――
 今日は水曜日だ。
「……はは、なんちって」
 ウィークデーにデートなんて、仕事に追われる社会人はあまりしないんじゃないかな、と征人は思い直した。
 アパートはもうすぐだ。軽快に飛ばしていた車のスピードを控えめにする。この辺りは住宅が多いから、事故でも起こしたら大変だ。
 あそこの、道が大きく曲がった後に見えてくるはずだ。小洒落た二階建てのアパートの、角の……。
「……あれ?」
 車の中で、征人は素っ頓狂な声を上げた。
 たった今、真樹の部屋から出てきた影。その背後で、確かに一番端の部屋のドアが閉じた。
 征人は少し離れたところに車を止める。幸い相手は気付いていないようだ。
 よく見えるように車の窓を開け、まじまじと観察してみる。
――おいおい、嘘だろ――
 整った顔立ちは多少大人びて見えるものの、制服を今風に着崩した姿は、どう見ても高校生だ。
 見間違えるはずはない。自分だってちょっと色合いは違うけれど、去年まではあんな感じの制服を着ていたんだから。
 もうとっくに十時を過ぎている。お子様の時間は終わったはずだ。
 こんな時間に、一人暮らしの女の部屋にいるのは……。
 征人はしばらくあっけに取られて、真樹の家から出てきた男子生徒を見つめた。
――あれ? アイツ……――
 そうやって見ているうちに、その顔に見覚えがあるような気がしてくる。征人は記憶の底を探った。
「あ!」
 思いがけず大きな声で叫んでしまったことに気付き、征人は辺りを窺った。幸い誰も――当の相手でさえ、こちらに気付く様子はない。征人はホッと安堵の息を吐いた。
 エンジンを止め、車の外に出た。気付かれないように、なるべく音をさせないようにしてドアを閉める。そうして征人は、足音を忍ばせて真樹のアパートの方へ歩いて行った。
 男子生徒は置いてあった自転車のスタンドを外し、サドルに腰を下ろした。前を向いたままペダルを探りあて、足を掛ける。征人は大股で近寄り、その行く手を阻むようにして立ちふさがった。


 背の高い男が、自分のすぐ前で足を止めた。自転車に乗ったまま稜が怪訝そうに見上げると、その男は少しだけ腰を折った。
「あのさ、アンタ、真樹の知り合い?」
 アッシュカラーにカラーリングした髪が、目の前で揺れている。その男は、真っ直ぐに稜を覗き込んだ。稜は眉根を寄せる。
「真樹って……あんた、誰?」
 言いながら、負けじと男を見返す。年は……自分とそう変わらないぐらいだろうか。どこかで見たような気もするが、思い出せない。
「アイツの、弟。征人(ゆきと)っていうの」
 征人は稜を見据えたまま、少しだけ唇の端を持ち上げた。言葉を切れ切れに話すのは癖なのか、それとも言葉の意味をこちらの心に畳み込むためなのだろうか。稜には後者のように思えた。
「大学一年の?」
 前に聞いたことがある。自分よりも一つ年上の弟がいるのだと。どこかで見たような気がするのは、真樹に少し似ているからなのか。
「なーんだ。真樹、俺のことアンタに喋ってんのか。じゃ、話は早いわ」
 征人は、ニヤリと笑って見せた。
「アンタさ、真樹の、何?」
 笑ったと思ったのは、見間違いなのか。次の瞬間には、怖いくらい真剣な眼差しで稜を見据える。心の中まで見透かしてしまいそうな瞳だ。
 稜は、その眼差しから逃げることなく見返した。
 真樹が自分のことを彼にどういう風に話しているのか、判らない。征人の真剣な瞳の奥底を探るように見透かしながら、稜は何と応えたら良いのか逡巡した。
「何って……俺達は……」
 恋人と言い切ってしまって良いのだろうか。自分は真樹を護るために強くなろうと決めた。けれども彼女の心の中には、まだ少なからず葛藤が残っている。それは社会に出て、自分を盾にして働く者の『常識』だ。自分が不用意な言葉でそれを壊してしまって良いわけが無い。
 言葉に詰まった稜を、征人が奥底まで切り刻むように観察しているのが、その視線から痛いほど感じられた。
 突然、征人の表情が緩んだ。
「ふうん、『俺達』って? じゃ、やっぱアンタが真樹の付き合ってる相手?」
 唇の端だけでニヤリと笑って見せた後、心底意外そうな表情で驚いてみせる。稜は征人の言葉に、すぐには反応できなかった。
「……え?」
 意味に気付いて、慌てて訊き返す。征人がまた、ニヤリと笑って見せた。
「こないだ実家に帰って来た時、真樹が言ってたんだ。彼氏ができたって。どんなヤツか訊いたら、話はぐらかされちゃってさ。で、ついでも有ったから冷やかしがてら見に来たってワケ。まあ、本当に会えるとは思っちゃなかったけどさ」
 征人は挑発するように、自転車にまたがったままの稜の周りをゆっくりと一周歩いて見せる。
「ふーん、どうりで家族に言えないわけだ。まさか高校生だとはね」
 征人は値踏みするような目で、稜を見た。稜は眉根を寄せ、その視線を真正面から受け止める。
「そんなに警戒するなって。俺は敵じゃないからさ、オ義兄(ニイ)サン」
 年上の征人が、年下の稜を茶化したように義兄(あに)と呼ぶ。それがなんだか馬鹿にされているように感じられて、稜は気色ばんだ。
「だからー、警戒するなって言っただろ? 俺は敵じゃない。どっちかっつーと……味方?」
 征人にハンドルを取られ、稜は仕方なく自転車から降りる。征人と真正面から向き合えば、彼の方が自分よりも少し背が高かった。
「俺さ、真樹には幸せになって欲しいんだ。アイツはすごく不器用で、真っ直ぐで、優等生だったから。それがなんか危なっかしくって、姉ちゃんっていうより、友達みたいでさ。あ、だから真樹って呼んでるんだけど」
 遠くを見るように視線を彷徨わせた後、征人は何かを思い出すように笑った。
「真樹さ、無理して頑張ってるのが見え見えで、憎めないっつーか。でもこないだ帰って来た時、なんだか少し力抜けたように見えたんだ。それって、彼氏のおかげなのかなー、って思って」
 真樹の話をする征人は、今まで稜に見せていた尖った印象など、どこにも残っていなかった。それほど仲の良い姉弟なのだろうか。くるくる変わる印象は、まるで彼が何かの役を演じているようにも見える。
「高校生相手じゃ、そりゃ『素』にも戻るわけだな。真樹がどんなにカッコつけて大人のフリしようとしたって、アンタの前じゃ余計に虚しくなるだけだろうし」
 そう言って、征人は稜の瞳を覗き込んだ。稜は突っ立ったまま、それを受ける。
「いい眼をしてる。さすが、だな」
 しばらく無言で見つめ合った後、征人がふっと目を瞑った。
 どこの家からのものか、遅い夕食の仕度をする匂いが漂って来た。征人がその匂いを追うように鼻をひくつかせ、小さく舌打ちをする。
「……あ、ヤベ。そろそろ行かないと、母ちゃんに怒られちゃう。ウチ結構門限厳しいんだ、男の俺にはさ。『水谷家を背負って立つ者の自覚が足りない』とか何とか。そのくせ、姉ちゃんや真樹には全然何も言わねぇんだよ。普通、逆だよな。女に甘い親なんて、聞いたことないっつーの」
 征人はニヤッと笑った。
「……真樹のこと、よろしくな。俺、離れててアイツのこと見ててやれないけど、アンタが代わりに見ててやってくれよ。頼んだからな」
 慌しく言いながら、車のドアを開ける。片足を突っ込んで助手席に向かって腕を伸ばしたかと思うと、すぐに出てきた。
「あ、忘れるとこだった。これ、真樹に渡しておいてくんない? 姉ちゃんが漬けた漬物。アイツ、これ好きだから」
 そう言って、タッパーを押し付けて寄越す。稜が受け取ったのを確認すると、征人は車のシートに体を沈めた。
 運転席の窓を全開にして、征人は手を振った。プッと短くクラクションを鳴らす。純正のものではなくて、後から自分で付け替えたのだろう。いくつもの高さの音が混ざったような、不思議な音色だった。
「じゃーな、稜!」
 もう一度ニヤリと笑うと、征人は心地よいエンジン音を響かせて去って行った。そのテールランプを見送って、稜はふと気が付いた。
「俺、あの人に名乗ったっけ……?」
 自分は滅多なことでは名乗らない。『モデルの稜』だと知られたくないからだ。だから今も、名乗った覚えは無かった。それでも名前を知っていたということは……。
「バレてんだな」
 そう呟くと、稜は苦く笑った。
 背後の玄関が開いて、ドアチェーンの向こうから真樹の顔が覗いた。
「あれ、まだいたの? 今のクラクション……」
 特徴のあるクラクションに、征人が来たと判ったのだろう。誰もいない暗い夜道を見透かして、真樹が怪訝そうな顔をする。
「これ、征人さんから預かった。お姉さんの漬物だって」
 稜はタッパーを手渡した。
「やっぱり征人? 来てたの?」
「うん、でも今帰った。門限があるって」
 それを聞くと真樹は、しまったというような顔をした。手で目の辺りを覆い、ため息をつく。
「……判っちゃったのよね、これ預かったってことは」
 この家から稜が出てきたことを。そして彼が、今の真樹の恋人なのだということも。
「うん、そうみたい」
 稜が返すと、真樹は諦めたような顔をした後で、ふふ、と笑った。
「そうなのよ、ウチは何故か征人にだけ門限があるのよ」
 そう言う真樹は、なんだか楽しそうだ。タッパーを大事そうにさすりながら、白い息を吐いている。
「じゃ俺、ホントに帰るわ」
 真樹に向かって手を上げて見せる。自転車のペダルを思い切り蹴って、稜は何故だか温かい気持ちで真樹の家を後にした。


 電話が鳴っている。携帯ではなくて、家の電話だ。この電話が鳴るのは珍しい。携帯の方が便利だからと、そちらに掛けてくる人の方が圧倒的に多いのだ。
「もしもし?」
 ぐちゃぐちゃになったままのカールコードを直しながら、真樹は六回目が鳴る前に受話器を上げた。
「真樹? ご無沙汰! ……ってほどご無沙汰じゃないけどー。柴山です」
「あ、瑠実。久しぶり」
 大学時代の友人の、瑠実だ。前に飲むとか何とか言っておきながら、あれから機会がなくて会えないままになっていた。
「ここんとこ、随分会ってないよね。どう? 今度の休み、うちに来ない?」
 瑠実からの突然の誘いに、真樹はどうしたものかと考え込んでしまった。
 以前は休みと言えば耕治と会うことを知っていたので、瑠実も遠慮してこんな風に誘って来ることは無かった。けれども二人が別れた事は、彼女にも伝えてある。一人身ならと、前よりも頻繁に連絡をくれるようになっていた。
 もちろん真樹は、瑠実に会いたかった。大学時代のように四六時中一緒にいて話をすることも無くなってしまったが、瑠実は大切な友達の一人だ。頻繁に会えない分、休日ぐらい、彼女と一緒に過ごしたいと思う。
 けれども今、真樹には稜がいた。誰にも話せない秘密の恋人だけれど、彼との時間を少しでも長く取りたいというのも正直な気持ちだった。
 ――いつ突然に終わりが来るかも知れない関係だったから、余計に。
 この間実家に帰った時にも、一人で勝手に決めて彼の機嫌を損ねてしまった。できるなら、彼の気持ちも聞いてからにしたい。
「スケジュール見てみるわね。多分行けると思うけど」
 そう言って、真樹は電話を切った。


 真樹の心配は杞憂に終わった。稜は快く「行っておいでよ」と言ってくれた。
 この間征人と会ってから、稜はまた少し大人びたようだ。征人が彼に何を言ったのか、訊いても絶対に教えてくれなかったけれど。
「よく来たねえ、待ってたよー」
 まるで親戚のおばちゃんみたいな挨拶を寄越して、瑠実が迎えてくれた。真樹は苦笑しながらも、そんな彼女に手土産を渡す。
「クッキー? 真樹が焼いたの?」
 中身を覗いて、瑠実が目を丸くした。
「そうよ、最近料理に目覚めたの」
「それ、遅すぎだって」
 そう言って、二人は笑い合った。
 前はどこかのブランドの焼き菓子や有名な店のケーキなど、体裁ばかり気にした物を手土産にしたものだった。けれども稜と一緒にいる時間が増えたことで、真樹の中で確実に何かが変わっていた。
 肩肘張る必要はないのだと。
 自然に、自分の気持ちのままにあれば良いのだと。
 征人が言った通り、真樹の中のピリピリした部分が少しずつ融け出していた。当の真樹は、そんな事には気付きもしなかったけれど。
 瑠実の部屋にも、ソファは置いていない。真樹が狭い部屋を少しでも広く見せたいと言ってソファを実家に送り返した後、瑠実も真似して片付けてしまったのだ。
 四角いカーペットを敷いた上に直に座って、瑠実が淹れてくれた紅茶を飲み、持参したクッキーをつまむ。取り立てて珍しくもないお互いのニュースに声を立てて笑い、茶々を入れながらまた笑う。
 楽しい時間だった。
「ごはん、食べてく? 何か作ろうか」
 ティーカップを片付けるためにキッチンに立った瑠実が、真樹を振り返った。
「えー? 瑠実がご馳走してくれるの?」
「何? 何かおかしい?」
「いや……変われば変わるもんだな、と思って」
 以前の瑠実も、真樹と同じように自宅で料理を振舞ってくれることはなかった。二人で会えば、必ずどこか洒落た店を探してそこで食事を摂った。
「男の影響かな。……まだ続いてるんだ、この間の人と」
「出口が見えないって言ってた、あの人?」
 真樹が訊き返すと、瑠実は「ははは」と大口を開けて笑った。
「出口ねぇ。見えない、見えない。いまだ真っ暗闇の中よ」
 それにしてはやけに明るい。何かがふっ切れたのだろうか。
「なるようにしか、ならないからね。ジタバタするの、疲れちゃったからさ」
 冷蔵庫を覗いて、中を物色する。悪戯っぽい顔で真樹を振り返ると、手にした人参を高々と掲げて見せた。
「やるだけやったら、後は運を天に任せる。悪いことさえやってなきゃ、なんとかなるでしょ」
 弾みをつけて二回、それを放り投げては受け……を繰り返す。三回目にキャッチし損ねて、床の上を人参がゴロゴロと転がった。瑠実は慌ててそれを拾い、流しの中に突っ込む。床下収納庫を開けてその他に玉ねぎとジャガイモを取り出し、今日はカレーにする、と言った。
「真樹はお客様だからね、そこで雑誌でも見て待ってて。最近あんまり買ってないから、古いのしか無いけど」
 圧力鍋を用意しながら、瑠実が言った。


 瑠実に言われた通り、真樹はマガジンラックに突っ込んである雑誌を広げた。それは彼女が言った通り本当に古くて、一年以上前の物もあった。
 瑠実と真樹は服の好みも小物の好みも違う。だから二人が買う雑誌は、大学時代から全然系統が違っていた。
 真樹がカッチリしたオーソドックスな物を好むのに対して、瑠実はセクシー系で今時の流行の物を好む。彼女の雑誌は、大半がそういった類のものだった。
 どうせだからと、古いものから順番に見て行くことにした。綺麗な女の人が綺麗にメイクをして、普通の人が着るにはちょっと大胆さを要求されるような服を着込んでこちらに目線を送っている。横に小さく書かれた洋服の値段は、真樹が普段買うものよりも一桁多かった。
「高いねぇ。一人暮らしの身には、無理な金額だわ」
 ため息をつけば、瑠実の耳に届いたらしい。
「そうだね、無理無理。だいたいこんな感じってアタリをつけて、似たようなのをお店で探すしかないよね」
「だよねー」
 相槌を打ちながら、真樹は次の雑誌を手にした。ここにも高い服が目白押しだ。モデルさんをやっている人の中には、撮影で使った服が気に入ったからと言って、そのまま買い取る人もいると聞く。こんな高価な服をすぐに買えてしまう人は、一般人には想像もつかないような額のギャラをもらっているのかも知れない。そんな人ばかりでは無い事も知っているけれど、やっぱり真樹には無縁な世界のように思えた。
 ページをめくると、男性モデルと女性モデルの絡みの写真が載っていた。濃いメイクを施された挑戦的な瞳に、心の中をギュッと掴まれたような気がした。
 女性モデルの腰に、男性モデルの手が添えられている。綺麗な指が、稜を思わせた。
 またページをめくる。ここにも絡みの写真が載っていた。今にも唇が触れてしまうのではないかと思われるほど近づいた、二人の顔。半眼になった瞳が、お互いを扇情的に見つめている。
「あれ……?」
 メイクを施されてとても大人っぽく見えるけれど、その眼差しに見覚えがあった。
「ああ、それ? ……へへ、いいでしょ」
 いつの間にか仕度が終わったらしい。出来上がったカレーの鍋と鍋敷を持って、瑠実が後ろから覗き込んでいた。
「その子、『稜』っての。今はちょっと休業中らしいけどね」
 そう言うと、瑠実はテーブルの上に鍋敷を置いて、その上にカレーの鍋を乗せる。すぐさま取って返すと、今度は炊飯器と皿を持って来た。それから彼女は、おもむろに真樹の向かいに座った。
「真樹も彼に目をつけるとはね」
 皿にご飯をよそいながら、瑠実がニッと笑った。曖昧に笑い返して、真樹はまた雑誌に視線を落とす。
「う……ん、でも最初は判らなかったな。メイクしてるんだもん。なんか、いつもと感じが違う……」
 稜の写真に食い入るようにしながら、真樹は大して何も考えずにボソッと呟いた。
「え? アンタ、あの『稜』知ってるの?」
 そう瑠実に喰って掛かられて、初めて自分が言った事の意味を知った。
「うん……ちょっと、ね」
 今更知らないなどとは言えなくなって、真樹は言葉を濁した。
「へえ、意外だなぁ」
 瑠実は感心したような声を上げた。
「なんで? そんな有名人なの、彼?」
 興味はないけれど、という感じで、とぼけた風に訊いてみる。
「有名も何も、綺麗な子で、一時すごい話題になったんだから。最初は新人オーディションかな。雑誌での活動が主だったんだけど、結構人気でそのうちにテレビのコマーシャルとかにも出るようになったんだよ。でも突然休業宣言しちゃって、残念がってるファンの子、多いんじゃないかな」
 瑠実の説明は、稜本人から聞いていたものと同じだった。そこに至るまでの過程は省略されていたが、起こった事は傍目から見れば大体そんなようなものだ。
「ふーん、そうなんだ」
 真樹は自分がいかにそういう方面に疎かったのかを改めて知った。
「あっ、そうだ」
 皿のご飯にカレーを掛けていた瑠実が、突然その皿を置いた。何事かと真樹が見ていると、席を立ってノートパソコンが置いてあるサイドボードへと向かう。
「確か、お宝画像があったはず……」
「お宝?」
「携帯の小っちゃい画面じゃなくて、大きいので是非見て欲しい」
 瑠実が何をしようとしているのか判らずに、真樹は彼女の言葉をそのまま返した。
「事務所のサイトにね、載ってるんだよ。タレントの画像がさ。あんまり綺麗な画像だったから、ちょっとブクマしてみたりして」
 瑠実の手がマウスを操作すると、次々に画面が変わる。目的のページにたどり着いたのか、彼女がこちらを振り返った。
「あ、有った有った。これ」
 瑠実に手招きされて、真樹も席を立った。小さな唸りをあげる画面には、稜の写真が貼り付いていた。
「あ……」
 それきり、声も出ない。
「どう? ホントに綺麗な子でしょ? ……って、真樹は本物見た事あるんだったよね」
 すぐ隣で、瑠実が笑った。
 口元には微笑。目にはカラコン。表情は柔らかいのに、意思を秘めた眼差しがまるで別人のように見える。このページを初めて見た人は、彼が高校生なのだと言われてもすぐには信用できないだろう。ツンツンの前髪だけが、いつもの彼だった。
「……びっくりした?」
 言葉も無い真樹を、瑠実が覗き込む。真樹はコクコクと首だけを縦に振った。
――この子――
 稜の写真があまりにも綺麗で、真樹は驚いていた。けれどもパソコンの画面に映し出された彼の顔を見ている内に、こんな子をテレビのコマーシャルか何かで見たような気もしていた。
「う……うん」
 ようやく真樹は返事を返した。
「で、どんな知り合い? 稜とは」
 探りを入れるように、瑠実が視線を寄越す。どうやって誤魔化そうかと頭の中は高速でグルグル回っているのに、言葉が出て来ない。真樹は自分の軽率さを呪った。
「どうって……」
 言葉にしかけたが、そこで言い淀んでしまった。興味しんしんといった表情が、すぐ近くにある。
「友達? ……っていう程、歳近くなかったわね。ね、ホントにどういう知り合いなの?」
 こんな写真を見た後では、例え瑠実にでも、絶対に本当のことを言うわけにはいかないと思った。
「強いて言えば……懐かれてる?」
 ため息と共に、真樹は言った。
「はあ? 何、それ」
 訊き返しながら、瑠実はパソコンの電源を落とした。終了画面が次々に移り変わっていき、やがて冷却ファンの音が静かになる。
 真樹はさっき見た稜の写真を思い返していた。
 稜が仕事をしていた頃をリアルタイムでは知らなかったけれど、あのメイクをして出ていたコマーシャルを何度か見たことがあるような気がした。
――凄かった――
 あの容貌なら、それはファンもたくさん付くだろう。今時の女の子達が夢に描く、理想の彼氏そのものだ。存在感もあって、彼に不可能な事は無いように思えた。
 あんなに存在感のある綺麗な子が、自分のことを好きだと言ってくれている。それは多分、嬉しいことなのだろう。
「……真樹?」
 黙ってしまった真樹を、瑠実が気遣う。
「何でもない。あー、お腹すいちゃった。さっきから良い匂いがしてるんだもん。ね、食べよ?」
 わざと明るく言うと、真樹はテーブルに戻った。
 今は休業中だが、あれだけの子だ。本人さえ望めば、どんな仕事もこなせるのではないだろうか。そしてその時、自分は彼の足かせになる……?
 真樹は、自分がとんでも無い事をしているような気がした。