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あなたが、好き。


〜23〜


 相変わらず二人は、真樹の部屋で逢う事が多かった。外では他の人の視線が気になるというのもあるのだが、素性がバレることを、稜が嫌ったからだ。
 稜にしてみれば、それは世間の目から真樹を護るための対策だったのだが……。


 稜が通う私立城星高校は、エスカレーター式に大学に進学できるようになっている。もちろん試験を受けて外部の大学に進むことも可能だし、外部からの受験も受け入れている。そんな中で、高等部に通う生徒の内、九割の生徒が持ち上がりを希望するという。敷地は別だが、比較的近い場所に大学は在った。
 稜は早い内から持ち上がりを希望していた。しばらく前の放課後に先生に呼び出され、希望が通った事を知った。
 進路の決まった者は、教習所に通うことを許される。稜はバイトを減らして教習所に通い、無事免許を取得した。
「やったね、免許!」
 稜が財布から免許証を出し、真樹に向かってこれ見よがしにその手を伸ばして見せる。
「オートマ限定?」
「違う!」
 真樹の突っ込みに、稜はムッとした表情を返した。
「どんな仕事が来るか判らないだろ? 限定だと困るじゃん」
 そう言ってしばらく免許証を眺めた後、大事そうに元に戻す。
「嘘よ。ごめんね」
 真樹は後ろから、座椅子に座る稜の体を抱きしめた。
「真樹さん……」
 その腕に手を添えられる。まるで逃げるな、とでも言うように。
 『どんな仕事が来るか』――それは、メディアの向こう側に帰るということなのだろう。オファーがあれば、色々な仕事をこなさなければならない。その中には車を使う仕事もあるだろうから……という意図なのだろう。
 仕事に就く、と言わなかったことで、彼が元いた場所に戻る可能性もある人間なのだと、改めて意識した。
 瑠実の部屋で見た写真に写った、綺麗に飾り立てられた彼を思う。
 自分がとんでも無い事をしているような気持ちにさせられた、あの写真。彼を『こちら側』に引き止めるものは、『神鳥稜』の居場所である自分だ。
 いずれ彼は、メディアの向こう側に帰って行く。御伽噺に出てくる、何かの精のように。
 彼の足かせにはなりたくない。彼がこの手を離す時が来たら、笑って見送れる自分でありたい。
――できもしないくせに――
 もう一人の自分が、哂いながらこちらを見ているような気がした。
 気分を変えようと、真樹は話題を探した。
「この間、瑠実がね」
 彼女の家に行くと言った時に、どういう関係なのかはざっと話してある。瑠実の名は二人の共通項の一つになっていた。
 けれども彼女の名前を出した途端、何を言えば良いのか判らなくなってしまう。真樹はあの日起こった出来事を思い返した。
「……あなたのファンだって」
 何をどうすっ飛ばしたら、この言葉になるのか。真樹は自分の口はつくづく災いのもとだと思った。
 真樹の言葉に、稜が驚いたように振り返った。柔らかい髪が、真樹の頬を打つ。
「えー、俺のこと、話題にしたの?」
 (とが)めるような視線が痛い。
「もののはずみで……ごめん」
 彼の背中に隠れるようにして、真樹は謝った。
「でも、二人の間柄は知られてないから」
 縮こまったまま、付け足す。恐る恐る顔を上げると、稜の視線とぶつかった。
「付き合ってるってこと?」
 探るような瞳に、素直に首を縦に振る。稜が諦めたように小さくため息をついた。
「隠さなくてもいいよ、あなたの友達になら。恋人だって……愛し合ってるんだって言っちゃえば?」
 大胆な言葉に、真樹は自分の頬が熱くなるのを感じる。
「何、それ」
 言い返した言葉は弱くて、今にも消え入りそうだ。
「事実じゃん」
 そう言って、稜は体を反転させる。真樹の肩を掴んで、自分の方に引き寄せた。
「俺は大好きだよ。愛してるもん」
 扇情的な瞳で見つめられれば、真樹の中の何かがまた融けて行く。私服でいる今は、やっぱり彼は高校生には見えなかった。
 そのせいだろうか。引きずられそうな自分を感じた。真樹の頭の中で、警鐘が鳴る。
 ――……一線を越えてはならない。
 そう自分を律した。
「あ……あなたの写真、見たよ。すごく綺麗で、カッコ良かった。カラコンや何かで、あんなに変わるなんてね」
 もう少しで触れ合いそうなほど近くなった瞳に笑いかけてみる。
「あの写真だったら、私も見たことあるような気がする。コマーシャルか何かで」
 斜めになった体を懸命に堪えていたが、そろそろ限界だ。腹筋が細かく震えそうになって、後ろに手をついた。稜が白けたように小さく息を吐いた。
「事務所のサイトのやつ?」
 そう言いながらも、肩を掴んだ手は離してくれない。
「うん、そう。瑠実が見せてくれたの。彼女、あなたの事色々知ってた」
「ふうん」
 気の無い返事を寄越す。
「凄いよ。あんな素敵な人に好きになってもらいたいからって、女の子達が躍起になるの、分かるわ」
 真樹の言葉に、稜が一瞬苦い顔をした。肩を掴んでいた手が急に離れて、真樹は慌てて自分の体を立て直す。
「それは『稜』だからだろ。『神鳥稜』が欲しいわけじゃない」
 いつか見た、あの瞳。泣きそうな、それでいて求めても得られない物を貪欲に求めているような……。
 真樹は長く息を吸った。
「……でもね、それって凄いことだと思うんだけど」
 掴まれていた肩が熱を持っている。もうそこに稜の手は無いというのに、まだ触れられているような気がした。
 稜が不思議そうな瞳で真樹を見た。
「あなたは自分のこと……『神鳥稜』のこと、何もできないとか色々言ってるけど」
 一旦強く目を瞑る。言ってしまえば、彼が遠くに行ってしまうような気がした。息を吐いて、瞼を開ける。変わらずそこに、稜の顔があった。
「でもね……ホントは何もできないとしても、全然カッコいい所なんかなかったとしても、カメラの前に立てば、あなたは人に夢を与えることができる。『稜』になって、みんなの心に灯りを点してあげることができる。そしてあなたも……『神鳥稜』も、そんな『稜』でいる時の自分自身に背中を押されながら生きていけばいいんだよ」
 真樹は静かに稜を見つめた。彼の瞳が戸惑うように揺れ、次第に睫毛がそれを覆って行く。下を向いてしまった彼の頭を、真樹はそっと抱いた。
「……でも、やっぱり私は、くよくよ悩んでるあなたの方が好きかな。ふふ」
 優しく胸に抱えた頭が、プッと噴き出す。
「くよくよって、ひどいな。俺、そんなに女々しかったっけ?」
 腕の中に潜っていた頭が、勢い良く突き出された。そのまま見つめ合い、今度は二人で噴き出した。
「あはは……」
 稜が思い切り笑う。笑いすぎて、座椅子の上に背中を丸めたまま転がった。
――仔犬はいつか、飼い主のもとに帰さなくちゃ……ね――
 稜の笑う声を聞きながら、いつか来る別れの日を、真樹は思った。


 今日は天気も良い。久しぶりの休日がこんなに良い天気だったことに、真樹は苦く笑った。
――出掛けるわけじゃないし、天気なんて関係ないんだから――
 稜と逢うことになっている。彼のバイトが入っていたから、逢うのは午後からと決めた。免許を取るのにセーブしていた反動からか、今はバイトの予定がそれまで以上に入っている。
『店長が勝手に予定入れるんだ』
 どういう間柄なのか訊ねたことはなかったが、稜とは気の置けない仲らしい。そんなことも許されるんだな、と真樹は思った。
 新しく買った観葉植物に水をやっていると、突然携帯が鳴り出した。
「はい……水谷です。はい……え?」
 電話はチェック室の石川からだった。休日出勤をしていたが、真樹が仕上げて提出済みのデータを誤って消去してしまったと言う。
「それならバックアップとってありますから。……ええ、大丈夫です。まだ消去していません」
 真樹がそう言うと、それまで焦った様子だった石川の声が安堵に染まる。
「データは私のパソコンの中ですけど……パスかけてますから、他の人では……」
 パスワードは、例え同僚であっても漏らしてはならない。個人情報も扱う会社だけに、社内のルールは徹底していた。特に真樹の仕事に対する周りの評価は高く、極秘性の高い案件も多く手がけている。従って彼女のパソコンは、彼女にしか触れないようになっていた。直属の上司だけは部下のパスワードを全て把握していたが、それが必要になった経緯が経緯だけに、真樹自身が対処した方が良いように思われた。
「……ええ、じゃあ今からそちらに行きます」
 電話を切ると、真樹は仕度を始めた。


 車を飛ばし、会社に着いた。今日は本来休日だから、出社している社員も少なかった。会社の入り口に近い場所に車を停め、真樹はドアを開ける。片足を降ろし、空を見上げた。
「哀しいほど、お天気」
 そんな曲が有ったような気がする。今日の晴天は真樹にとっては、そんな言葉がぴったりだった。
 バッグを手に持ってから、稜に電話しなければ、と思った。バイト中だとは思ったけれど、留守録にメッセージを残しておけばいい。案の定彼の電話は留守設定になっていた。
「急に呼ばれて、今会社にいるの。後でまた連絡する」
 手短に用件を残し、真樹は携帯をバッグにしまった。
 空はどこまでも青く、やっぱり少し哀しかった。
 社屋に入り、自分の所属するデータ管理部の部屋に灯りをつける。今日この部署で出勤している人はいない。パソコンの電源を入れ、パスワードを入力した。
「ごめんね、呼び出したりして」
 入り口に、よく見知った人影が現れた。
「あ、補佐。今送りますから」
 それは真樹の一年後輩で、先日異動して来たばかりの石川だった。異動から日が浅く、お互いに席を外していたこともあって、真樹はまだ彼と一度も直に会って話をしたことが無かった。
「やだな、水谷さん」
 昔は『水谷先輩』と呼んでいたが、自分の方が役職を得た今、それはどうもまずい。石川は真樹をさん付けで呼んだ。
「そんな言葉遣い……やめて欲しい。水谷さんは僕の先輩なんだから」
 昔と変わらない目をして、石川がこちらに歩いて来た。真樹は自分のパソコンのデータフォルダから該当データを引き出すと、石川のパソコンに転送した。
「でもあなたは今、室長補佐です。前みたいに『石川くん』なんて呼べません」
 真樹はなるべく綺麗に見えるように笑った。鏡の前で時々練習する、あの微笑だ。データの転送が終わり、ポップアップのメッセージ画面が出る。真樹はパソコンの電源を落とした。
「けじめは必要ですから」
 そう言って、真樹はまた綺麗に笑った。


 携帯が鳴る。今日はよく電話がかかってくる日だ。バッグから携帯を取り出しながら、稜にメッセージを残しておいた事を思い出した。
『仕事終わった?』
 稜の声が、今は有り難い。真樹は唇の端を引き上げた。
「そうよ。今終わったところ」
 そう言いながら、社屋を振り返る。あの中では、石川がまだ仕事をしているのだろう。彼の窮地を救ってやったという恩着せがましい気持ちは無かったが、彼に対するコンプレックスは少し薄らいでいた。
『俺早めにバイト終わったんだけど、今からこっち来れる? バスが少ない時間帯だから、ちょっと時間かかりそうなんだ』
「わかった、迎えに行く。待ってて」
 ここからならそんなに時間も掛からない。真樹は稜のバイト先に寄って、彼を拾って行くことにした。


 稜は店の裏口の辺りで待っていた。昼間だったからか、あまり客はいないようだ。それでもいつもの伊達眼鏡をしている。真樹の車を見つけると、嬉しそうに笑って小さく手を振った。
「心臓に悪い……」
 そんな笑顔を見せられれば、彼への想いが一層深くなるようだ。真樹は眉根を上げて、苦い笑みを口元に刻んだ。
 助手席側の窓を下げる。
「おまたせ。はい、乗って」
 開けた窓に向かってそう言うと、ロックを解除した。
 ところが稜は突っ立ったまま、ちっとも乗って来ようとしない。真樹は(いぶか)しげに彼を見上げた。
「俺が運転してもいい?」
 彼は腰を屈めて、車の中を覗き込んだ。そう言えば稜は免許を取ったのだった。真樹はしばらく考え込む。
「あ、やだな。俺がぶつけるとでも思ってるんでしょ? 信用ないのなー」
 棒読みのような台詞に、真樹はそうじゃないけど、と返す。
「絶対に安全運転よ、いい?」
 運転席のドアを開けながら、低い声で釘を刺した。
「なんだ、やっぱ信用してないんじゃん」
 真樹の代わりに運転席に滑り込みながら、稜は唇を尖らせた。
「シートベルト、いい? 行くよ」
 いちいち確認するところは、まるでいつもの真樹のようだ。稜は自分のシートベルトを着け、真樹の方も確認する。
「大丈夫だね、じゃ、発進!」
 まるで潜水艦か何かを操縦しているような言い方に、真樹が破顔した。
「あはは……何か、おかしい」
 体を捩って笑えば、シートベルトがぐいっと伸びる。自分の車の助手席に乗るのは、これが初めてだった。いつもと反対の向きからの締め付けに、真樹は少し感慨を深くした。
「こっちから見ると、こんな感じなんだ……」
 風景もいつもと違うように思える。
「ちなみに俺、今日が免許取ってから初運転」
「え? やだ、降りる」
 稜が飄々と言ってのけるので、真樹は慌ててしまった。
「死にたくない……」
「大丈夫、事故んないから!」
 真樹の弱気な発言に、稜が怒ったように返した。
 車は駐車場を後にして、道路へと滑り出す。その様子を窺っている車があることに、この時の二人は気付かなかった。


 昼休みはまだ半分ほどしか過ぎていない。灯りを落とした部屋の中には、真樹の他、当番の社員が一人いるだけだった。
 昼食は外で食べたけれど、昼一番までに整理しておきたい原稿を思い出し、早く戻って来たのだ。
「水谷さん、お客さんだよ」
 自分の机につこうとした時、部屋の入り口に石川が現れた。
「さっきから待ってる」
 そう言って、名刺を差し出した。
「イルバース・エンターテイメント……?」
 社名を見て、真樹はそんなクライアントがいたっけか、と思い返してみる。
「うちのクライアントじゃなくて、モデル事務所だよ、そこ」
 真樹が怪訝そうな顔で名刺を見ているのに気付き、石川が小さな字で添え書きされた営業内容を指差した。
「神鳥……弓美」
 その姓には聞き覚えがあった。けれどもすぐ、まさか、とその考えを打ち消した。
「昼休み入ってすぐに来られたから、早く行った方がいいよ」
 石川に促され、真樹は従業員用の簡易応接室に向かった。
 ドアをノックして、中に入る。真樹の姿を見ると、その女性は立ち上がって笑みを寄越した。立ち姿も凜としていて、スタイルも良い。綺麗に結い上げた髪に日が当たり、輝いて見えた。
「はじめまして。水谷……真樹さん?」
「はい」
 寄越される笑みに、既視感を覚える。
「神鳥弓美と申します。稜の母親の……と言った方が、お判りになるかしら」
 ああやっぱり、と納得している自分がいた。
『ウチは母さんもモデルやってたから』
 そう言った稜の言葉を思い出せば、さもありなん、と思う。
「単刀直入でごめんなさいね。あなた、稜とお付き合いしていらっしゃる?」
「それは……」
 弓美の言葉に、真樹はすぐに言葉を返すことができなかった。どうして二人の関係を知っているのか。どうして自分の勤めるこの会社が判ったのか。考えなければならない事がたくさん有りすぎて、真樹の頭はパンクしてしまいそうだった。
「申し訳ないんだけど、調べさせて頂いたの。随分前から、お付き合いしてらしたようね」
 真樹がなかなか応えないのを見て、弓美は続けた。
「あの子はまだ、モデルの仕事に復帰しないと決めたわけじゃないんです。行く行くは、ドラマデビューもあるかも知れない。高等部の卒業を睨んで、そういった話も実際来てるんです。そういう人間に、スキャンダルがどれだけ痛いか、あなたもお判りになりますよね?」
 値踏みするような視線が痛い。
「普通の高校生のお嬢さんとなら、多少は仕方ないと思っていたんですが……」
 言わんとした語尾はぼかされていたが、真樹が九つも年上だから、ということか。高校生と三十路手前のOLの恋なんて、スキャンダラスにも程がある……と、そう言いたいのだろう。
「つまり、私といると、彼がダメになると……?」
 必死に搾り出した声は、情けないことに震えていた。
 真樹は目の前が真っ暗になりそうな感覚に襲われながら、心のどこかではこうなる日が来るのを予期していたじゃないの、と思った。
 昼休みの終わりを告げる予鈴が響く。弓美は顔を上げ、視線を宙に彷徨わせた。だがそれも一瞬のことで、すぐに真樹を真っ直ぐに捉える。
「こんな母親ですが、あの子の事はやっぱり可愛い。あの子の可能性を少しでも広げてやりたいと思っているんです」
 申し訳なさそうに、弓美は言った。無理やり力ずくで別れさせようというつもりではないらしい。真樹の出方を窺っているようだ。
「わかりました」
 テーブルの上の空の灰皿を見つめ、真樹は言った。
「今はまだ……でも気持ちの整理がついたら、必ず」
 真樹の応えを聞くと、弓美は安心したように微笑んだ。
「ごめんなさいね。私もこの世界でやって来た人間だから、その厳しさは充分身に染みてるの。あの子の将来を、こんな事で潰したくないんです」
 上品な仕草で立ち上がる。
「物分りの良い方で良かった」
 そう言って、弓美は深々と頭を下げた。


 応接室から出て行く弓美をおじぎで見送って、真樹は自分の部署に戻って来た。チェック室に向かう石川と、角を曲がったところでばったり出くわす。彼は資料を脇に抱えていた。
「モデル事務所の……社長さん、だよね? すごい、スカウト?」
 石川が冗談めかしてそう訊いた。
「そんなんじゃないですよ」
 そんな彼の顔をちらりと見て、真樹は苦く笑った。
「じゃあ何の話だったの?」
 自分が応対した相手だから気になるのか、それとも本気でスカウトなんて話があると思っているのか。石川は資料を抱え直しながら訊ねてくる。
「個人的に(つて)があって……スカウトとか、そんなんじゃないです。大体この歳でそんなの、あるわけないじゃないですか」
 そう言うと、真樹はとってつけたように一礼して、その場を後にした。