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あなたが、好き。


〜24.5(PG12)〜


 カサリ、と音がした。背中越しに窺えば、いつの間にか稜がすぐ後ろに立っていた。
 無言で抱き締められる。
 抗うことなく、真樹はその腕に自分の手を添えた。


 浴衣の薄い布越しに、稜の体温が伝わって来る。痩せているけれど、筋肉のついた体。まだ若い、自分よりも九つも年下の彼。
――ずっと変わらない――
 この差は、この先ずっと続いていくものだ。決して縮まらない。
「真樹さん……」
 少し上ずった声で、名前を呼ばれた。自分は知っている。この先、どうなるのか。決して彼が初めてなわけじゃない。
 名前を呼ばれて、それから……。
 彼の手が肩に掛かる。温かい手。優しく体の向きを変えられる。彼と向き合い、真樹はその顔を上げた。
 彼の瞳が、自分を見つめている。扇情的な瞳。今日だけは、この瞳に呑み込まれてしまってもいいと思った。
「真樹さん?」
 確認するように、稜がまた名前を呼んだ。真樹は唇の端を少し引き上げて、それに応える。彼も安心したように、笑みを返した。
 徐々にその唇が降りてきて、真樹のそれに押し付けられる。温かく、柔らかいその優しさに何故か安心し、真樹は瞼を閉じた。
――今日だけは――
 もうこれ以上は望まないから。今日が終わったら、ちゃんと諦めるから。
 今までずっと見ないふりをして来た自分の中の本当の気持ちを、今日だけは素直に認めようと思った。
 稜の唇が、首筋に降りる。そこから甘い痺れが湧き上がり、体中に広がった。肩をすぼめるようにしてそれに耐えていると、稜の指が真樹の浴衣の合わせを開いた。
 彼のくれる痺れのひとつひとつが、真樹の心の中に刻まれて行く。体に刻まれたものなのに、心の中にまで染み込んで来るようだ。
 鎖骨に、口付けが降る。
――今日だけ……――
 真樹は彼の髪に指を差し入れ、縋るように抱き締めた。
「ねえ……」
 扇情的な瞳のまま、彼が顔を上げた。
「何か、考えてる?」
 じっと覗き込むようにするから、真樹は自分の心の中を見透かされてしまいそうに思った。
「……こんな時に……変なこと訊かないで」
 自分の声も、どこかおかしい。切なくて、哀しくて、喉に何かが詰まっているみたいだ。泣きたいのに泣けない、稜と出逢う前の自分に戻ってしまったようで、真樹は気付かれないように視線を外した。
「あっち、行こう」
 稜が部屋を振り返った。真樹もそちらを見る。きちんと並べられた枕が、何故だか気まずかった。否とも是とも応えないでいると、稜が真樹を抱き締めた。強い力に思わず反らせた首筋に、また唇が押し付けられる。よろめくようにして足が動くと、数歩の後に布団の端を踏んだ。
「……!」
 足を取られ、膝が崩れる。それを稜が支えた。
「危ないよ」
 真樹の腋の下に腕を差し入れ、膝をひどく打たないように宙吊りにする。その腕を徐々に下ろされるから、真樹はいつの間にか布団の上に座り込んでいた。
「あなたが、好き」
 鼻にかかった甘い声で囁かれた。真樹の目の前に、稜の顔が下りてくる。彼もまた、膝をついていた。
「だから、あなたが欲しい」
 大切な壊れ物でも扱うように、稜の手で横たえられる。ふわりと視線を漂わせれば、自分へと伸びてくる彼の真っ直ぐな前髪の向こうに、部屋の天井が見えた。
 乱れた浴衣の襟元に手が差し入れられる。更に横に引かれ、真樹の肩が顕わになった。そこにも口付けが降る。もう一方の手が下りてきて、浴衣の紐を探った。結び目を探り当てると、強く引く。風呂を上がる時に真樹がきつく結んだせいで、それはなかなか解けなかった。
「なんかこれ、真樹さんみたい」
 結び目に指を掛け、輪を手繰り寄せている。
「ガード固すぎだって……」
 文句を言いながら少しだけ頭を持ち上げ、稜は紐を引っ張ろうとする。だが蝶結びの変なところを引いたせいで、かた結びになってしまった。
「だめだ、解けないや」
 諦めたような声の後、稜の頭が真樹の胸にコテン、と乗った。はだけた肩に直接触れる髪の毛が、くすぐったくて哀しい。
「昔、遊郭ではね」
 その頭を、真樹の腕が抱いた。
「本当に好きになった人の前でだけ、帯を解いたんだって」
 梳くようにして、柔らかい髪に指を絡ませる。稜が真樹の体の両側に腕をつき、頭を上げた。
「ほんと?」
 間近から覗き込まれる。
「……さあ?」
 肩をすくめて小首を傾げて見せた。問い掛けられても真樹にだって本当のところは判らない。
「じゃあ、何としてでも解く」
 稜は体を起こし、紐を解き始めた。
 真っ直ぐな前髪が揺れるのを、真樹はずっと見ていた。全てが愛しい。
――これが最初で最後だから――
 何度も重ねた言い訳を、彼が知る由も無い。今から愛しい人と初めての夜を迎えるというのに、真樹の心の中には言い訳ばかりが(こご)って行く。遊郭に囚われた遊女のように帯が解けないまま結ばれたなら、少しは自分の心を守れるのだろうか。
 ――本当は違ったんだよ、と。
「……やった」
 しばらくして彼は本当に解いてしまった。急に腰の辺りが自由になって、真樹は心細くなる。襟先を掴むと、自分を守るようにしっかりと浴衣の前を合わせた。
「手、どけて」
 稜が怒ったように言った。でもその顔をよく見れば、困ったような表情で真樹の手元を見つめている。本当は怒っているのではなくて、余裕がないだけなのだと判った。
 九つも年下なのだから、当たり前だ。
 真樹は掴んでいた指の力を抜いた。
 真樹の手の中から浴衣の布を奪い取ると、稜はもう一度真樹の瞳を覗き込んだ。その瞳がだんだんと熱を帯びる。彼の熱に、灼かれるような気がした。
 彼の唇が印を刻む。真樹は目を瞑り、それに応えた。


 一緒に居るのに、泣きたくなる。繋がっているはずなのに、不安になる。こんなにも近くに居るのに、とても遠くに思えて……。いつか別れが来る。傍にいられないなら……ずっと抱き締め合っていられないなら、いっそ忘れてしまいたい。


 でもそんなこと、できない。
 稜を知る前の自分になんて、もう戻れるわけがないと真樹は思った。