〜24〜
誰にも言えない秘密の恋人。そんな関係は、不自然だ。耐え切れなくなって、いつか壊れてしまう。
自分のもとを去ってゆく稜の背中を見るのは辛いから……だから……。
「……さん。真樹さん、聞いてる?」
呼ばれて、ふと顔を上げた。向かい側の座椅子から身を乗り出して、稜が覗きこんでいる。
「人の話、ちゃんと聞いてよ。今度の連休、旅行でも行かない?」
屈託なく笑っているが、彼が言っている内容は真樹の想像を超えていた。いつそんな話になったのだろう。
「え……、旅行? 二人で?」
「当たり前じゃん」
真樹の問い掛けに、稜が「何言ってんの」とでも言いたげな表情で返した。
「卒業旅行も兼ねてさ。バイト頑張ったから、結構溜まったんだよ」
デイパックを開けて、中から通帳を取り出す。最後のページを開いて、こちらに見せて寄越した。そこには結構な額が記載されている。その中には、モデル時代のギャラも入っているのかも知れない。
「真樹さんの分も出せるよ。だから行こう?」
通帳を元に戻すと、稜はまた身を乗り出した。
「そんな……旅行なんて……」
断ろうと思った。二人で旅行になんて、行けるわけない。おまけに未成年の彼に旅費を出してもらうなんて、社会人のすることじゃない。
「この辺じゃ、知ってる人に会うかも知れなくて、いつもビクビクしてるだろ。俺は無理としても、少なくとも真樹さんの知り合いのいない所に行けば、もっと伸び伸びできるんじゃないかと思って」
稜の言葉に、真樹の心が少し動いた。
いつも人目を気にしている自分達。この家で逢う時も、こそこそと隠れるようにして入らなければならない。
誰の目も気にしなくて良いところで、普通の恋人同士のように過ごす時間は、真樹にとっても魅力的だった。
――それに――
これは一つのきっかけにできるかも知れない。
何も良いことの無かった二人だけれど、何か一つぐらい……。
「そうね、考えとく。でももし行くとしても、自分の旅費は自分で出すから」
稜の母親に、必ず別れると約束をした。
「気にしなくていいのに……じゃ、行き先適当に決めていい?」
真樹の気持ちになど気付かない風で、稜は心底嬉しそうな顔をする。
「任せるわ」
真樹の心が、チリリと痛んだ。
――最後に思い出くらい貰ってもいいかも知れない――
そう自分に言い訳をして。
結局真樹は、彼の誘いに乗ってしまった。言い訳をどれだけ重ねても、いけない事をしているのだという思いは常に付きまとう。けれどもそんな思いよりも、稜と二人きりで過ごせる時間が、真樹には嬉しかった。
「真樹さん、目線こっち!」
携帯を構えた稜が、真樹の周りを回りながら、パシャパシャとシャッターを切る。フラッシュが目に痛くて、それでも真樹は言われた通りに目線を送った。
「いいよー、その表情。あ、もうちょっと右……そうそう、その感じ。今度はもっと上向いて、遠くを見るように……そう」
これではまるでモデルの撮影だ。そういう場を経験してきた彼だから自然とそうなってしまうのかも知れない、と真樹は思った。
「私ばっかり撮ってないで、あなたのも撮らせてよ。ほら、携帯しまって」
恥ずかしさに照れ笑いしながら駆け寄ると、稜の手から彼の携帯を奪う。
「綺麗に撮ってねー。はい、チーズ」
そう言って、稜はピースをして見せた。まるで子供のように抑揚を付けた言い方に、真樹は思わず破顔する。
シャッターを切る度に、稜は色々な表情を見せた。自然と身についているものなのか。少しずつ体の角度を変え、こちらに視線を寄越したと思えば、遠くに馳せたりする。
「……」
何故だか真樹は、泣きたいような気持ちになった。
そのどれもが『稜』だった。携帯の画面越しに見る彼は紛れもなく『稜』で、いつか手放さなければならない人なのだという思いがひしひしと押し寄せて来る。
この瞬間を切り取った写真は、永遠に今を写して残るのだろう。消去してしまわない限りは……。
――耐えられるかな、私――
彼の笑った顔に焦点を合わせながら、真樹は視界がぼやけてくるのを感じていた。
今晩の宿は、少し交通の便の悪い所にある
鄙びた旅館だった。一時間に一本しかバスがない所だったが、真樹の車で来たおかげで時刻表は気にしなくても済んだ。
部屋で食べた食事は美味しかった。山の幸をふんだんに使った料理で、素朴な中にも女将の心遣いが感じられた。
「風呂、広いんだってさ。露天……岩風呂? へえ……」
テレビの横に置かれたパンフレットを見て、稜が感心したような声を上げる。
「岩風呂、入ったことない?」
「ないない。大体ホテルばっかで旅館なんて泊まんないもん」
真樹が訊くと、稜は首をぶんぶんと横に振った。つんつんの前髪が、ゆらゆらと揺れる。
「さて、出掛けますか」
タオルと着替えを用意して、二人は部屋を出る。赤い絨毯敷きの廊下に、スリッパの音が響いた。
「あんま長風呂しないでよ。俺、熱いの苦手だから」
「倒れたりして」
「カッコ悪りぃー」
真樹が茶々を入れると、稜があはは、と笑った。
風呂は露天になっていて、ぐるりと岩で囲まれている。お湯は熱めだが、山の空気が冷たくて、肌に気持ちよかった。
真樹は乳白色のお湯を手のひらですくった。湯畑を通して送られてくるお湯はそれでも熱くて、源泉はどのくらい熱いのだろうかと思わせる。ぐるりと見回すと、岩には白い湯の華がこびりついていた。
一度温泉地に行ってみたいという稜のたっての願いで、行き先を決めた。あまり賑やかなところではまた変な気を遣わなければならないので、一番源泉に近くて不便な場所にあるこの旅館を選び、ネットで予約を入れたのだ。
稜は未成年だったから、全て真樹が手配した。
――最初で最後だから――
何度も何度も繰り返した、言い訳と共に。
それでもたっぷりとお湯を堪能してから風呂から上がる。案の定入り口では、湯あたり寸前の稜が待っていた。
「遅い」
抗議の声も弱々しい。本当にのぼせてしまったのかと真樹が心配し始めた頃、彼はくすりと笑った。
「なーんてね」
「もう!」
心配したんだからと喰って掛かれば、稜はますます笑顔になる。
「嬉しいな、真樹さんがそんなに俺のこと心配してくれるなんて。いっそのこと、本当にぶっ倒れてたら、もっと……」
「知るか」
調子づいた稜を残して、真樹は部屋に向かおうとする。
「待って、冗談だって」
後から稜が追いかける。不揃いだったスリッパの音が、いつしか一つに重なった。
部屋に戻ると、膳は綺麗に片付けられ、座卓も脇に退けられていた。代わりに床が延べられている。きちんと二つならんだ布団に気まずくなって、真樹は自分の旅行バッグの所へと小走りに近づいた。さっき脱いだ着替えをその中にしまって、濡れたタオルをタオル掛けに干す。
稜も無言で自分のバッグの方へ歩いて行くと、その前にストンと胡坐をかいた。ごそごそと中を引っ掻き回して荷物の整理を始める。
二人の間に、沈黙が落ちた。
いたたまれなくなって、真樹は窓に歩み寄った。少しだけカーテンを開けて、外を見る。すっかり暗くなった景色は、人工的な灯りの少ないここでは漆黒の闇に見えた。
――まるで私の未来みたい――
何も見えない。何も見つけられない。唯一愛し愛された恋人は、いつかこの手から解放してあげなければならない。
カサリ、と音がした。背中越しに窺えば、いつの間にか稜がすぐ後ろに立っていた。
無言で抱き締められる。
抗うことなく、真樹はその腕に自分の手を添えた。
一緒に居るのに、泣きたくなる。繋がっているはずなのに、不安になる。こんなにも近くに居るのに、とても遠くに思えて……。いつか別れが来る。傍にいられないなら……ずっと抱き締め合っていられないなら、いっそ忘れてしまいたい。
でもそんなこと、できない。
稜を知る前の自分になんて、もう戻れるわけがないと真樹は思った。
翌朝も、とても良い天気だった。空は綺麗に澄み渡って、蒼色が目に痛いほどだ。
真樹は窓を開けた。冷たい空気が流れ込み、身が引き締まるように感じた。ブルッと震えて両の腕を自分の手で抱くと、真樹はまた窓を閉めた。
振り向けば、稜はまだ布団の中で丸まっている。
「ん……」
眉間に皺を寄せて、寝返りを打った。今の寒さで、少し覚醒に近づいたようだ。
「おはよう」
すぐ脇にしゃがみ込むと、真樹は彼の頬を突っついた。うるさそうに二、三度首を振ると、稜は薄目を開ける。そこに真樹をいるのを確認したのか、唇の端が引き上げられた。
「おはよ……」
満ち足りた笑顔。真樹はまた、心の奥がチリリと痛むのを感じた。
帰りの車の中で、稜は饒舌だった。通り沿いの土産物屋を見つけては、あれを買おう、これも買いたいと言った。その度に真樹は車を停め、車外に出て腰を伸ばす。山の空気は美味しいなんて言うけれど、随分長いこと忘れていた感覚だった。
「そろそろ運転交代してくれてもいいんじゃない?」
土産の袋を提げた稜が、運転席に乗り込もうとする真樹を押し留めた。
「まだ山道が続くから、もう少し下におりたらね」
真樹は下り方面に目をやり、まだまだカーブが続くのを確認する。免許を取ってから日も浅い彼にこんな山道を運転させるなんて、随分と勇気のいることだった。
「えー、まだだめ? 俺……」
何か変だ。真樹は小首を傾げて彼の様子を窺った。
「気持ち悪い……」
稜がその場にしゃがみ込む。さっきからあれこれ寄り道していたのは、酔ったからなのか。そう言われてみれば、少し顔が蒼いような気がする。
「ちょっと休憩しようか」
彼の背中をさすりながら、真樹はごめん、と謝った。
そこは幸いにも少し開けた場所になっていて、眼下に
麓の街が見える。下から風が上がってきて、稜の気分も少しは良くなったようだ。土産物屋でお茶系のペットボトルを買い、二人並んで石造りのベンチに腰掛けた。
「こんな風に、ずっと二人だけの時間が続けばいいのに……」
お茶を一口含み、稜がポツリと言った。
「……そうね」
そう返しながら、真樹は苦い思いを噛み締める。
――多分、『ずっと』はないのだ、と。
満ち足りているはずなのに、何故だか物凄く不安になる。何か話し掛けていないと、取り返しのつかない事になってしまうような気がした。
こんな時間が、ずっと続けばいい。人目を気にせずに二人、あるがままの自分でいられる時間。
稜は隣に座る真樹を、目の端で窺った。
何を考えているのだろう。ペットボトルを持ったまま、はるか遠くを見つめている。その先に、自分の姿は映っているのだろうか。彼女の見る未来に、自分は居るのだろうか。
――離れないで――
稜は腕を回し、真樹の肩を強く抱いた。
その日の夕方に、二人は真樹のアパートに帰って来た。隠れるようにして家に上がる。土産物の袋を両手にいっぱい提げた稜が、顎先で電灯のスイッチを弾いた。
「やだ、何かの芸みたい」
滑稽な姿に真樹が大笑いする。そうした後で、今はもう人目を気にしなければならない『日常』の中にいるのだと思い直した。
リビングのテーブルの上に土産物をどっさり積み上げる。それぞれが座椅子に座ると、煎餅や民芸品に阻まれてお互いの顔が見えなくなった。
「これ、ちょっと買い過ぎなんじゃない?」
脇から顔を覗かせて、真樹は言った。
「いいんだって。楽しかったんだから。楽しい思い出は、土産にしてとっておくの」
稜も脇から首を伸ばし、悪戯っぽく笑った。
――この笑顔。
旅行中も何度か見た、稜の笑顔。真樹しか知ることのできない、『素』の稜の顔。
カラコンを着けて綺麗に笑う『稜』の顔よりも、ずっと好きだと思った。炭酸のジュースを上手く飲めなくて口の端からこぼしてしまう事や車に酔いやすい事、意外と写真を撮るのが上手い事や食べ物の好き嫌いがあまり無い事など、今まで知らなかった稜をたくさん知ることができた。そしてそのどれもが愛しいと想えてしまう。
想いに引きずられそうになる。もっともっと稜を好きになってしまう。
真樹は曖昧に笑って視線を外し、自分の部屋を見回した。フローリングの床、丸いカーペット、ショーケース付きのガラステーブル、そしてチェックの座椅子。何もかもが、日常だ。
旅行の間に近づき過ぎた二人の距離が、急速に遠のいて行くような気がした。
「コーヒーでも淹れよっか」
あんなに好きなのに、旅行中はあまりコーヒーを飲まなかった。自分の家に帰って来て、はじめて真樹はそれに気付いた。コーヒーメーカーをセットするために立ち上がる。
「待ってよ」
稜も立ち上がり、後ろから真樹を抱き締めた。
「やだ」
非日常は、もうおしまい。真樹の手が稜の腕をやんわりと振り解く。
「どうして……?」
試すように耳元で囁かれれば、稜の声が背中を這い降りて行くようだ。甘い痺れが生まれる。
「やっぱりよくないよ、こんなの。私達、今日で最後にしよ?」
振り返りざま、真樹は言った。
稜の目が大きく見開かれ、真樹を凝視する。視線で射抜かれるのではないかと思った。
「どうしてさ。俺達、これから始まるんじゃないの?」
稜の声は硬い。
「私達は、始まらない。これで終わり」
稜の顔を見ることができずに、真樹は俯いた。
「いろんなモノ、諦めたって言ってたじゃないか。そうやって諦めて来たモノ、俺の傍で取り戻すんじゃなかったのかよ」
稜がまた、真樹を捉えようする。その手を払って、真樹は逃げるように壁際に身を寄せた。
「……いつまでもあなたの傍にいられたら良かったのに」
壁を背に、真樹は訴えた。稜がそれを追い詰める。
「あなたと触れ合って、余計に感じたの。あなたは、若いな、って」
真樹は壁を手の平で探りながら、近づく稜の瞳を見上げる。静かに見える瞳は、よく見ればその奥に蒼い炎を燃やしているようだ。それがふと細められる。
「良くなかったってこと? それ、男にとって一番傷つく言葉なんだよ」
「そうやって茶化さないで。私だって今、あなたへの気持ち、抑えるのに必死なんだから」
追い詰められ、もう逃げ場は無い。
「抑えなくていいよ。素直にぶつけてよ。俺、ちゃんと受け止めるから」
真樹の体の脇に、稜が両手をついた。まるで真樹を閉じ込めて、誰からも見えなくしようとでもいうように。
「違うの」
言った途端、額に稜の唇が押し付けられた。柔らかいこの感触は、ずっと真樹が望んでいたもの。
「何が違うの? 違わないだろ。この気持ち、本物だって思ったんだろ? だから俺と……」
額の上にあった唇が、瞼に下りる。
「それ以上、言わないで。私を追い詰めないで」
いつしか真樹は、涙声になっていた。
「俺は認めない。絶対に真樹さんを離さないから」
強く、抱き締められた。抗わなければと思っても、体がいう事をきいてくれない。
「……!」
いつの間にか真樹の手は、稜の背中にあった。
――お互いを呑み尽くすかのように、二人は抱き締め合った。