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あなたが、好き。


〜25〜


 今日は稜と予定が合わなかった。久しぶりの一人の休日は、やっぱり哀しいほどお天気だった。
――ここんとこ、ずっと家にばかり(こも)ってたわね――
 稜との時間を過ごすために、最近はあまり外出をしなかった。真樹は洗濯物を干してしまうと、気晴らしでもしようと外に出た。
 電車に乗れば、休日だからなのか、綺麗な色合いの服を着た人が目立つ。いつもより色々な年齢層の人がいるように思えた。
「服でも買おうかな」
 気持ちが華やぐ服を。
 滅入ってしまいそうな気持ちを、明るい色の服を買って無理やり引き上げてしまおうかと思った。
 賑わった街を歩くのは、久しぶりだ。行き交う人を眺めていると、人混みに酔ってしまいそうになる。こんなこと、前は無かったのに……と思えば、やっぱり自分はもう若くないんだな、と感じる。
 それでも真樹は歩いた。顔を上げて、背筋をしゃんと伸ばして歩いた。堕ちて行く自分の気持ちに負けないように。少しでも自分に可能性が残っているなら、最後の瞬間まで綺麗でありたい。
 何軒か回って、服ではなくバッグを買った。横にオープンポケットが付いているのはいつもと同じ。携帯の出し入れに都合が良いから、いつもこれだけは譲れなかった。
 会計を済ませて店を出ると、真樹は腕時計を袖から振り出した。ちょうど遅い昼食の時間だ。どうりで小腹がすいたとは思ったけれど、一人で飲食店に入るのは苦手だった。
「仕方ないから……帰ろうかな」
 そうひとりごち、真樹は駅に向かって歩き出した。
 華やかな街。華やかな人達。いつまで自分は、ここに居ることを許されるのだろう。流行の小物も、大きく肩の開いた服も、その内に似合わなくなる。今日買ったバッグだって、あと何年かすれば、持つのを躊躇う日が来るかも知れない。それを見越して、長く使える色目を選んだのだけれど……。
 良い匂いが漂ってきた。すきっ腹に酷じゃない、と思いながらふと見れば、ここは耕治と入ったことのある店だ。無国籍料理を出す店で、辛目の味付けが評判を呼んでいるようだった。
――何回かご馳走してもらったよね――
 思い出しても恋しいなんて思わないのに、その時に食べた料理は覚えている。我ながら現金なものだ、と真樹は思った。
――やだ、耕治のことなんか考えてるから……――
 店の向こうから、似たような背格好の人が歩いて来るのが見えた。あの頃の耕治よりも少し髪が長い。
 真樹はふっと息を吐いて、その横を通り過ぎようとした。
「真樹……?」
 風が起こる。彼の前髪が、その風にさらわれた。
「……耕治」
 立ち止まり、こちらを驚いたように見つめるのは、別れた恋人だった。一生のうち、そんな偶然が何度もあるわけじゃないのに、別れてから会うのはこれで二回目だ。
 耕治が辺りを見回す。
「一人? ……彼氏は? 今日は一緒じゃないの?」
 質問攻めだ。
「そうね、今日は……」
 真樹は苦く笑って言葉を濁す。あまり外で逢うことのできない恋人――稜を想った。胸がギュッと掴まれたように感じる。愛しい。愛してる。けれどもこの先、一緒に生きてはいけない人。
「あ、ごめん。あんまり訊いちゃいけなかった?」
 真樹の様子を見て、何か不都合があったのかと思ったのだろう。耕治は声のトーンを落とした。
――耕治って、こんなに優しかったっけ?――
 こんな風に気遣いながら話し掛けてくる様子は、付き合い始めた頃の彼を思わせる。
 もう自分のものではなくなってしまったから――自分のテリトリーの中にいる人間ではないから、こんなに優しくしてくれるのかも知れないと思った。出逢った頃の、照れ屋でちょっと強引で、真樹のことをいつも一番に考えてくれた彼がそこに居る。
「そんな事ないんだけど……今日は都合悪くて」
 別れた彼氏に、今の恋人のことを話すのもどうかと思うが、こんな当たり障りのない事ぐらいは言ってもいいだろう。
「じゃあ一人なんだ。そうだ、昼飯でも一緒にどう?」
 そう言って、耕治が無国籍料理の店の看板を振り仰ぐ。赤地に黒の文字が、金色の縁取りをされて光っている。とても目立つ看板だ。
「ここで」
 真樹の顔を覗きこむと、親指を立てて店を指して見せる。別れてからもここの味が忘れられなくて、時々一人で食べに来ていたのだと言う。今日もたまたまそのつもりで来たら、真樹と会ったのだとも。
「この間はごめん、変なこと言って。真樹さえ良ければ、ご馳走するよ」
 他意は無いから……と続けて、耕治は笑った。


 店の中は、あの頃のままだった。なんとなく暗く薄汚れた感じがして、初めて来た時にはそのまま帰ろうかと思ったぐらいだ。出てきた料理の美味しさに、そんな事をしなくて良かったと思ったのだけれど。
 相変わらず店番の女の子は無愛想で、でも結構賑わっている。空いている席は、入り口に一番近い所にちょうど二人掛けのテーブルがあるだけだった。
 この間、真樹は彼のことを(なじ)ってしまった。それなのにこうやって二人、今は同じテーブルについている。自分の優柔不断さに情けない思いをしながらも、今は誰かに傍にいてもらえることが救いだった。耕治からも、あの時の真樹の態度を気にしている様子は感じられなかった。
「最初はびっくりしたわよね」
 真樹は当時を思い出して、店を一渡り眺めてみる。
「ああ。入り口で回れ右しようとしたら、奥からおじさんに睨まれてさ」
 厨房のおじさんは今も元気だろうかと覗いてみれば、ガチャガチャと派手な音をさせてフライパンを揺すっているところだった。
「元気みたいね」
 他の客が頼んだ料理が出来上がった事を告げる声を聞きながら、真樹は小さく笑った。
 昔よく食べた料理を注文したが、なかなか来ない。
「これも変わらないな」
 苦笑しながら、耕治がすぐ横にあるマガジンラックからスポーツ紙を引き抜いた。真樹も席を立ち、女性週刊誌を手にして戻る。今週発売された、一番最新のものだ。
 普段はあまり女性週刊誌を読まない。タレントの恋の噂がどうとか彼との相性がどうとかいう特集記事は、真樹にとってあまり興味の引かれるものではなかったからだ。衝撃的な言葉を使ったタイトルに惹かれてその記事を読んでみれば、最後にクエスチョンマークのついた不確定なものだったりしたこともある。
 真樹は何気なくパラパラとページを捲っていった。
『モデル復帰か?』
 黒地に白抜きの文字で書かれたタイトル。どちらかと言えば小さな記事だったが、モデルという単語が真樹の心にさざ波を立てた。そのページを開いてみる。
『長らく休業中だった稜が帰って来る?』
 サブタイトルに、真樹の目は釘付けになってしまった。


『高等部卒業を目前にして、稜の周辺の動きが活発になっている。稜といえばオーディションで合格した後、雑誌はもとよりテレビの特番やコマーシャルでも活躍していた美形モデル。端正な顔立ちとスタイルの良さで人気を博した。
学業を優先させたいからと現在休業中だが、復帰を望む声もいまだ多くある。休業に至った経緯としては、彼の通う学校側とトラブルがあった事などが噂されていたが、真相はわかっていない。
大学進学も決まり、その学校を今春卒業予定ということで、近々何らかの動きがあるようだ。まだ公式発表はされていないが、憶測が憶測を呼び、インターネットの掲示板やSNSでは彼に関する書き込みが増えている』
 記事の最後には、彼の簡単なプロフィールと略歴、それに画像の粗い写真が載せられていた。プロフィールは事務所から発表されているものと同じ簡単なものだったが、略歴には出ていた番組や載った雑誌、彼をコマーシャルに起用した企業の名前がずらりと並んでいた。


 顔色を無くしていたのかも知れない。耕治が(いぶか)しげにこちらを窺っている。
「どうした?」
 大丈夫かと訊かれる。真樹はどうにか首を縦に振った。ギシギシと音が聞こえそうなほどそれはぎこちなくて、自分の体なのに自分の思うように動かない。
 写真に視線を移した。半身をわずかに引き、挑むようにこちらを見つめている。そこに写っているのは、紛れも無く『稜』だった。
 次第に視界が滲んで来る。真樹はそれを懸命に堪えた。けれども堪えきれずに、温かい雫が雑誌の上にポタリ、と落ちる。耕治が心配そうに肩に手をかけた。
「大丈夫じゃないだろ。どうした、そいつ……」
 堰を切ったようにポタポタと滴り落ちる涙に、耕治は尋常でないものを感じ取ったらしい。他の客から真樹を隠すように、スポーツ紙をずらす。その陰で真樹はただ、もう涙で見えなくなってしまった稜の写真を見つめて泣き続けた。


 料理が運ばれて来る頃には、真樹は泣き止んでいた。それでも鼻はグズグスとだらしない。お手洗いに行って鼻をかみ、ついでに化粧も少し直してから席に戻った。
 耕治は先に食べ始めていた。真樹が戻ると、彼は箸を持った方の反対の手を少しだけ挙げて見せる。
 真樹もただ小さくうなずいて、箸を取った。料理はまだ熱くて、これも以前と変わらない。時間をかけて食べる間中、二人は何も話さなかった。
 寒い季節なのに、ここでは冷たいお茶しか出されない。お茶の入ったグラスを袖を伸ばした両手で包み込むようにして持つと、真樹は少しずつそれを飲んだ。
「そいつと真樹、どういう関係?」
 耕治がテーブルの脇に閉じて置かれた女性週刊誌を視線で指す。真樹もちらりとその表紙に目をやった。
「そんな記事見て泣くぐらいだ、何か関係あるんだろう?」
 口調は穏やかだが、視線は鋭い。真樹のどんな小さな動きも見逃すまいとしているように思えた。
「ひょっとして、そうなのか?」
 耕治の声がとても優しく響く。別れた恋人にまで心配されるなんて、自分はなんて滑稽なんだろうと真樹は思った。
「そうよ。彼が今の……」
 その先は言えなかった。はっきりと言わなくても、耕治はその先に何と続くのか汲み取ったようだ。長い息を吐いて椅子の背もたれに背を預け、腕組みをする。
「それってマズイだろ」
 (とが)めるような調子ではなかったが、告げられた言葉は真樹の心を(えぐ)った。声も無くうなずけば、新たな涙が膨れそうになる。それを隠そうと、真樹は何度も瞬きをした。
「馬鹿なことしてるって……判ってて、だから……何度も別れようとしたの。でもどうしても……できなくて……」
 最後はやっぱり涙声になってしまう。真樹はそれ以上何も言えなくなってしまった。
 耕治と別れて家に帰り着いたのは、日も傾きかけた頃だった。次第に暗くなっていく窓の外を眺め、真樹の中にとんでもない事をしてしまったのではないかという思いがどんどん大きくなって行く。
 稜の記事を見て、泣いてしまった。誤魔化すこともできなくて、気付かれてはならない秘密の恋を耕治に知られてしまった。それはもしかしたら稜にとって、不利になるのではないかと思った。
――何やってんのよ、私――
 秘密にしなければならないからこそ、別れるのではないか。自分が彼から離れることは、彼を護ることに繋がるはず。そう思って、辛い決心をしたのではないか。
 他言はしないと、耕治は約束してくれたけれど……。
――だから女は――
 誰かが言いそうな台詞が、頭の中で木霊した。


 この間の休みは予定が合わなくて、結局真樹とは逢えないままだった。彼女に逢えないまま、一週間が過ぎようとしている。こんなに離れていたのは、お互いの気持ちを確かめ合ってから初めてのことかも知れない。
 彼女の顔を見ることなく、今日も終わるのだろうか。これからバイトの予定が入っているから、帰るのは遅くなってしまうだろう。それからでは、いくらなんでも真樹の家を訪ねるわけにはいかない。
 学校を出て、バイト先に向かう。こうしてあの店で働くのもあとどれくらいだろうか。卒業を目の前にして、決めなければならないことが山積していた。
――週刊誌にも出ちゃったし――
 何か記事が載るだろうという話は、久しぶりに連絡をくれた事務所の人に聞いていた。事務所側としては、当たり障りのない所からそろそろ地盤固めをしておきたいという事らしい。事務所に呼ばれて発売になる直前の物を見せてもらったが、あの書き方なら支障はないと思われた。
――あとは俺の考え次第か――
 どっちに転ぶのか。戻るのか、戻らないのか。
 戻るとなれば、真樹に迷惑が掛かるだろう。それまでに彼女を護れるようになりたいと思ったが、なかなか上手くいかない。時間だけが無駄に過ぎて行くような気がした。
 デイパックを掛けた肩が、少し痛い。それを反対の肩に掛け直し、稜は急ぎ足で歩いた。
 もう少しでバイト先につくという頃、自分の後を誰かがつけているのに気付いた。今までにも時々、こんな事は経験していた。稜は過激なファンの子かと思い、うんざりした気分になる。駐車場のフェンスが続く歩道で立ち止まり、稜はゆっくりと振り向いた。
「あんたは……」
 そこには男が立っていた。
「おまえが『稜』か?」
 睨み付けるような目でこちらを見ている。
「俺は杉村。真樹の元恋人だ」
 それはあの日見た、真樹の元彼だった。真樹と同じくらいの年に見える。彼女にちょうど釣り合う男。あの時、大人ではない自分を痛感させられて、とてつもない嫉妬の念にかられてしまったのだ。
「……知ってる」
 稜も挑むような瞳で見返した。
「それなら話は早い」
 杉村は少し意外そうな顔をしたが、すぐにまた鋭い視線を寄越した。
「真樹と別れてやってくれ」
 意外な人物からの意外な言葉に、稜はしばし言葉を失った。
「なんでそんなこと、あんたに言われなくちゃいけない?」
 それでもすぐさま気を取り直して言い返す。
「真樹は苦しんでるんだ。おまえもそんな事ぐらいわからない歳じゃないだろ?」
 威圧感のある声だ。これが大人の男の本気なのだろうか。
「あんたには関係ない。これは俺達二人の問題だ」
 負けじと稜も言い返した。しばし、二人はにらみ合う。車道は車が行き交っているが、歩道を歩いている人がいないのが幸いだった。
「俺達は愛し合ってる。他人にとやかく言われる筋合いはない」
 ことさら『他人』に力を込めた。杉村は真樹の元の彼氏だろうけど、あくまでも『元』だ。今彼女の隣に居ても良いのは、この自分しかいないはず。稜はありったけの力を込めて、杉村を睨みつける。
「……高校生なのに?」
 杉村の口調が穏やかになる。そのちょっとの()に、稜は馬鹿にされたのだと感じた。
「高校生で悪いか」
 稜は剣呑に目を細めた。一番突付かれたくないところを土足で踏みにじられたような気がした。体の中から、どうしようもない衝動が湧いて来る。
「九つも年下だ」
『ガシャン!』
 杉村の言葉に耐え切れなくなって、駐車場のフェンスを手の平で思い切り叩いた。
「大人だっていうのは、そんなに威張れることかよ? ただ俺より少しだけ長く生きてるってだけじゃん。そんなんで俺らのこと、見下したりできるの?」
 ジンジンと痺れる手が熱い。多分どこか傷を作ったに違いなかったが、それでも構わないと稜は思った。
「俺が高校生なのが問題なら、もうすぐ卒業だ。それなら何も問題は無いだろ? 俺達は愛し合ってる。ようやく見つけたんだ。この気持ち、他人に何か言われたぐらいで手放せるかよ!」
 半分は自分自身に言い聞かせるように。稜は自分で自分の気持ちを奮い立たせるように言葉を選んだ。
「それでもお前は未成年で、しかも俺達とは違う世界に居る」
 それは稜がモデルに復帰するかも知れない人間だ、と言いたいのだろう。メディアに載って名を知られ、顔を知られた人間は、二度と普通の生活に戻るなと言うことなのか。稜は痛めた手で拳を握った。
「そんなもの、二人で克服していけば……」
 言った言葉は思いのほか弱々しくて、稜はドキリとした。二人の時間を護るために戦うと、ついさっきも決めたばかりなのに。
「蒼いな、おまえ。当事者の気持ちだけでどうにかなるなら、世の中の人間みんなとっくに幸せになってるさ。周りのこととか、考えたことあるのか? おまえと一緒にいて、真樹がどんな目で見られるのか、考えたことあるのか? 傷つけんなよ、あいつを。おまえといれば、あいつはどんどん傷ついていくんだぞ」
 畳み込むように言われ、稜は次に言うべき言葉を捜せなかった。言われる事は、一つ一つがもっともな事だ。常識ある大人なら、誰もがそう考えるのだろう。
 真樹を傷つける――それは、稜が一番望んでいないこと。彼女の重荷になるくらいなら……。
 目の前に、真樹の顔が浮かぶ。
――いやだ――
 離したくない。絶対に離さないと誓った。
「バイト遅れるから、俺」
 本質に触れる部分には何も反論できずに、稜は逃げるようにしてその場を後にした。


 何も解決できないまま、ずるずると時間だけが経っていく。真樹の中にも稜の中にも、消せない(おり)のような物が生じた。それは捉えどころのない薄いものだったが、溶かそうとすれば余計に(こご)って小さなしこりになった。


 久しぶりに街に出ようと言い出したのは、稜の方だった。自分の素性さえ判らなければ、真樹に迷惑がかかることはないと思ったのだ。わざと大人向けの服を着て、いつもの伊達眼鏡をかけた。
「ほら、行くよ」
 渋る真樹の腕を引き、強引に外に連れ出した。外は今日も良い天気で、家の中で過ごすよりもずっと有意義に過ごせそうな気がした。
――それに――
 二人で出掛けることで、証明できそうな気がした。自分さえ慎重にしていれば、真樹を傷つけることなんて無いという事を。二人一緒にいても、何も言わずに放っておいてくれる事もあるのだと。
 ――世間の目という敵と、稜は戦うつもりだった。
 真樹は最近、華やかな色合いの服を着るようになった。それはそれで嬉しいのだけれど、やっぱり無理をさせているのではないかと思う。彼女がそのままの彼女で居られるように、稜は早く大人になりたいと思った。
 街を二人並んで歩いても、そんなに見られているようには感じなかった。眼鏡の奥から道行く人を観察してみる。時折こちらに視線を向ける人もいたが、数瞬後には何もなかったように連れとの話の続きに興じていた。
 女子高生の集団と擦れ違った。体の動きが少しぎこちなくなってしまったのは、多分バレないように意識していたから。同い年くらいの女の子が一番自分に敏感だということを、稜は知っている。大はしゃぎしながら笑い合う彼女達が、何事もなく自分の横を通り過ぎるのを目の端で確認すると、稜は長い息を吐いた。
「……いいわよね」
 隣を歩く真樹が、ポツリと漏らした。彼女が何を見てそう思ったのか判らなかったから、何? と訊き返す。
「いいよね、若いよね、みんな。肌なんかピチピチしちゃって、何もしなくても内側から若さが溢れてるって感じ」
 さっきの女子高生のことか、と稜は思った。
「真樹さんだって充分若いじゃん」
 そう言ってみたけれど、真樹は苦い笑いを返しただけだった。
「ねえ、シンデレラのその後って知ってる?」
 唐突に、真樹が訊いた。稜は一瞬何の話か判らなかったが、しばらくして御伽噺の、と思い出した。
「二人はめでたく結婚し、幸せに暮らしました……の次? 知らない」
 記憶の底を探ってみたけれど、稜の書棚にはそんな話は並んでいない。隣を窺えば、真樹がこちらを見上げていた。
「その後も、顔だけで選ばれたシンデレラは、その美貌を保つためにとても努力しなければなりませんでした。王子様に嫌われたらお城を追い出されてしまうと思いつめたシンデレラは、生涯苦労し続けました」
 前を向き、真樹は小さい子に聞かせるように抑揚をつけて言った。
「何、それ。そんなの真樹さんの作り話じゃん」
 稜は拍子抜けしてしまって、思わず噴き出した。
「でも、現実はそうなのよ。めでたく結ばれた後も、生活していかなくちゃいけない。すれ違いもあるし、だんだん噛みあわなくなっていくこともある」
 それは暗に二人の未来の事を言っているのだろうか。
「そんなの、二人でちゃんと向き合っていれば大丈夫だって」
 稜は自分自身にも聞かせるように、きっぱりと言った。


 稜の言葉は力強い。彼がそう言えば、そうなのかも知れないと思う。
――でも――
 本当にそんな日が来ても、ちゃんと向き合っていられるのだろうか。真樹はふっ、と笑った。
「……ねえ、どうして私なの? 私のどこがいいの? 私はあなたより九つも年上で、これから先、もっとおばさんになっていくわ。いつまで経っても、あなたとの歳の差は埋まらない。あなたが今の私の歳になった時、私はもう中年よ。そろそろ白髪なんかポツポツ出てきて、目の下に小じわなんかできて、夜になると脱いだ靴下の跡が消えなくなってる。きっと」
 母がよく嘆いていた。鏡台の前に長いこと座り、覗き込んではため息をついていた。自分はあと十年もすれば、あの頃の母のようになるのだろう。
「真樹さんは、いつまでも綺麗だよ」
 稜の言葉は嬉しかったけれど、きっとそれは何も知らないからだ。世間の目も怖い。だけど、稜自身の目にも怯えていることに、さっきの女子高生の集団を見て気付いてしまった。
「……見られたくない、そんな姿。きっとその頃も、あなたはまだ若いままなんだもの。あなたが別の誰かに心を移すことだってあるかも知れない。私はそんなのに耐えられない。これ以上、自分のもとから去っていく誰かの後姿を見送るのは、嫌」
 真樹は唇を噛んだ。
「きっと、あなたは私に飽きてしまう。どんなに綺麗に化粧しても、確実に私はあなたより先に老いていく。あなたには、綺麗なままの私を覚えていて欲しいの。このままあなたの傍で歳を重ねて、醜くなっていく私を見られたくない。だから……一緒にはいられない」
「そんな事ない。あなたが歳を取っても、俺の気持ちは変わらない」
 稜の言葉に、真樹は首を振った。
「あなたには、あなたに相応しい人がいる。私なんかじゃなくて、もっと若い子。同じ夢を見られて、今時コトバもちゃんと理解できて、一緒に歳を重ねて行ける人が」
 二人が別れなければならない理由なら、いくらでも見つけられる。自分の想いにさえ蓋ができれば、すぐにでも……。
「何、それ。勝手にそんな風に自分一人で決めんなよ」
 怒気を含んだ稜の声。真樹は嬉しくて、そして少し哀しくなった。
「あなただって……私に合わせて、無理して背伸びして、それで辛くならないはずが無いじゃない。このままじゃ、二人ともダメになる。いつか疲れて、お互いを疎ましく思う日が来る。そんなの、イヤ……。もっと肩の力抜いて、ありのままの自分でいられる人を見つけて……」
 今日の彼の服は、自分に合わせたものだろう。高校生なのに……今風に着飾りたいだろうに、それを抑えて自分に合わせてくれている。真樹にはそれが哀しかった。
「だから、そんなことないって。俺の気持ちは変わらないって言ってるだろ? 大体、歳の差が何だよ! たった九つだろ? 今は俺が十八で、あなたが二十七。だけど二十年経ってみろよ。俺が三十八で、あなたが四十七。そんな、変わんないよ。おんなじオジサン、オバサンだって」
 嬉しい。嬉しい、嬉しい、嬉しい――真樹の心が叫ぶ。
 でもきっと、二人はそこまでたどり着けない。
「私が嫌なのよ。あなたが今、どんなに言葉を尽くしてくれても、現実はそんなに甘くないわ。時が経てば、あなたにも判る。その時になって捨てられるのは嫌だから。まだ今なら、戻れそうな気がするから。あなたを……もっと好きになる前に、サヨナラって言わせて」
 稜の母と約束してから随分経った。そろそろ潮時だろう。
――仔犬は、元の飼い主に……――
 喉元までせり上がってきた熱い塊をどうにか呑み込む。空は晴れているのに、真樹の周りは真っ暗で、隣にいる稜さえ見えなくなってしまいそうだ。
「捨てないでよ」
 消え入りそうな声。ふと振り向けば、いつの間にか足を止めた稜が、真樹の背中を見つめている。
「……飽きたおもちゃ捨てるみたいに、俺を捨てないで……俺、強くなるから。あなたを護れるように、強くなってみせるから」
 彼の瞳が揺れる。出逢った頃の、あの瞳の色だ。
「いつか……あなたに頼ってもらえるような、ちゃんとした男になるから。将来の見えないあやふやな若さを、あなたを支えて行ける強さに変えてみせるから。だからそれまで、あなたに見守っていて欲しい。お願いだよ、傍にいて」
 泣き出しそうな顔で、稜が笑って見せた。