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あなたが、好き。


〜26〜


 稜の母親は忙しい。モデル事務所を経営しているから、家に帰って来るのは随分と遅くなる。稜と顔を合わさない日も多かった。
「またこんな所で寝てるよ」
 稜はため息をつきながら、カーテン越しの朝日の中、リビングのソファで横になる母親を見下ろした。まだスーツを着たままで、多分下側は皺になってしまっただろう。空調もつきっ放しだから、喉を痛めたかも知れない。
「人一倍気をつけなくちゃいけない立場なのに」
 そう言ってクスリと笑う。元モデルの経営する事務所だけに、いまだに母親は半分モデルのように見られているのだ。常に見られているからか彼女は中年太りとも縁が無く、いつまでも綺麗なままだった。
 そのせいだろうか。真樹が言った言葉がピンと来ない。今の真樹は綺麗だと思う。この先歳を重ねても、綺麗な人は綺麗なままだと思っていた。けれども彼女はそんな事はないと言う。そしてそんな姿を自分に見られたくないのだとも。
 どんな姿になっても、真樹は真樹だ。皺ができたって、白髪になったって、彼女にもらった優しい気持ちは、消えることはないと思う。
「どうして信じてくれないのかな……」
 信頼に足る人間ではないと言われたようで、稜はまた気が滅入りそうになった。
 テーブルの上に、スケジュール帳が置かれていた。ペンや所属モデルの写真が無造作に散らかる中、クレンジングシートの容器もあった。肌に悪いからと、化粧だけは落として寝たらしい。
 少しくたびれてパンパンに膨らんだ手帳の中には、所属モデル達のスケジュールがびっしり書き込まれているのだろう。ホックが外れて表紙が浮き上がり、中のリフィルが見えてしまっている。何かを書きかけて、途中で寝てしまったようだ。
 幼い頃はよく母親の事務所にも出入りしていたけれど、自分が同じ世界に属するようになってからは行かなくなってしまった。知っているモデルも居なくなってしまったかも知れない。今はこんな人達が所属しているのかと、モデルの写真を一渡り眺めて見る。その中の一枚に、稜の目は吸い寄せられた。
「これ……」
 持ち上げて間近で見てみると、それは真樹の写真だった。隠し撮りしたものなのだろう。写真の中の彼女は、仕事のある日によく着ているスーツ姿だった。いけない事だとは思ったが、スケジュール帳を開き、中のページを捲ってみる。後ろのフリースペースに、彼女の素性に関する事柄がびっしりと書き込まれていた。
「だからか」
 真樹が執拗に別れを持ち出したのは、母親に何か言われたからなのか。モデル復帰を睨んで、母親が彼女に何か働きかけたのかも知れない。稜が所属する事務所は母親のところではなかった。だが全く関連がないわけではないから、情報ぐらい入るだろう。
 真樹自身が望んで別れようとしているのではないという可能性が残されていることに、稜は少し安心した。


 何度別れを持ち出しても、稜の瞳を見ればその決心は萎えてしまう。心の中に彼を愛しく想う気持ちがある限り、真樹にとってそれは難しいことだった。彼に別れないと明言されれば、残念に思う気持ちと共に、嬉しいと思う気持ちが生まれるのも正直なところだった。
――もう時間が無いのに――
 おそらく卒業と同時に何らかの決断をしなければならないのだろう。そんな時に、いつまでも自分のような年上の女が、周りをうろうろしていては困るのだ。
 好きだと想う気持ち。それはきっと素晴らしいことなのだと思う。これまで今ひとつ相手と真剣に向き合えなかった自分が、こんなにも稜にのめり込んでいる。
――だからこそ――
 大切に想う彼だからこそ、潰してはならない。彼の未来を、自分のために曲げてしまってはいけないのだ。
 携帯が鳴った。発信者を確認する。画面には、『杉村耕治』と表示されていた。
「……はい」
 彼と電話で話すのは久しぶりだ。この間は随分迷惑をかけてしまったから、きちんと電話に出て謝らなければと思った。
「真樹か。あれから大丈夫だったか?」
「この間はごめんなさい。あの……変なこと聞かせちゃって」
 別れた元恋人には、もう関係のないことだ。自分のことでゴタゴタさせるのは、申し訳ないような気がした。
「別にいいよ、気にしてない」
 そう言って笑う気配がする。こんな風に話したのは、本当に久しぶりだ。恋しいと思っていたわけではないのに、胸のあたりが切なくなった。
「おまえさ、俺んとこに忘れ物してったの、覚えてる? ほら、おまえが大事にしていたブランドの」
「ポーチ?」
 言われてみれば、耕治と別れた後で、お気に入りのポーチが無くなっているのに気付いた。心当たりを探したが何処に忘れて来たのか判らず、結局見つけられなかったものだ。
「あれ、あなたの所にあったの?」
「そうだよ。今から会えないかな。返したいんだけど」
 無くしたと思ってから、何ヶ月も経っている。既に代わりの物を買って、使ってもいる。何も今更、耕治に会って返してもらわなくても良いのだけれど……。
「わかった。何処に何時?」
 思わず真樹は、そう応えていた。


 前はよく家の前まで迎えに来てもらったものだ。でもそれは、恋人だから許されること。何の接点もない、名称さえつけられない関係に戻ってしまった自分には、そんなことをされる資格はないと思った。
 家まで来るという耕治を無理やり押し留めて、真樹は待ち合わせ場所を少し離れた駅に決めた。改札口を出ると、ロータリーの向こう側に耕治の車が停まっている。少し急ぎ足で近寄ると、ロックの外れる音が響いた。
「わざわざ悪かったな」
 助手席に滑り込むようにして座った真樹に、耕治が声を掛ける。
「こちらこそ、ごめんなさい」
 そう言うと、はいこれ、と紙袋を手渡された。
「わざわざ袋に入れてくれたのね」
 そういった気遣いはできる人だったと、真樹は当時を思い返して小さく笑った。
「……やっぱり笑顔の方がいいな」
 ポツリと耕治がつぶやく。何よ、と運転席に目を向けると、耕治が真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「おまえ今、辛いことばっかだろ。俺、おまえがあんな風に泣いたの、見たことないし。辛いんなら、やめちまえよ」
 それは稜との事を言っているのか。彼と一緒にいる時間が増えて、真樹は辛い時に泣くことを覚えた。だから泣けるようになったのは稜のおかげだと言ってもいい。だけど……。
 泣いても泣いても、こんなに辛いのは何故なのだろう。
「前にも言ったけどさ、俺まだおまえのこと諦められない。おまえが幸せだって言うなら、潔く身を引こうとも思ってたけど……そうじゃないなら」
 そうじゃないなら――幸せでないのなら?
 真樹は自分が今幸せではないのだと、耕治の言葉で他人事のように認識した。
「おまえが誰を想っていてもいいから……おまえが笑うために俺を利用してもいいから、もう一度、俺の所に戻って来ないか?」
 何故だろう。拒否することもできたのに。
 真樹には今、稜という人がいる。彼を愛している。けれども彼とはいずれ、別れなくてはならない。
 耕治の所に戻ると言えば、彼を諦めさせることができるかも知れない。そうすればもう、彼の未来を潰してしまう不安に怯えなくても良くなるかも知れない。
 ――好きだからこそ。
 真樹の頬は、いつの間にか濡れていた。耕治がそれを指先で拭う。その手が伸ばされ、次の瞬間、真樹は彼に抱きすくめられていた。
 ポーチの入った紙袋が、二人の間に落ちて転がった。


「待ってよ、話が見えない。真樹さん、それ本気?」
 携帯の向こう側で、稜が大きな声を出した。
「本当よ。だからもう、あなたとは……」
「ちょっと待って。俺、今からそっち行くから。携帯通してケリつけようなんて、ふざけんなよ。顔見て話さなけりゃ、信じられない!」
 一段と大きな声を最後に、電話は切れた。
 稜に別れを切り出した。顔を見て言う勇気が無かったから、彼の携帯に電話を掛けた。
 案の定、稜は納得しなかった。今からここに来ると言う。
――逢ってしまったら――
 顔を見れば、また引き摺られてしまうかも知れない。彼のあの瞳を見れば、手を伸ばし縋り付いてしまうかも知れない。
 だけど……。
 もう後戻りできないのだと、真樹は自分に言い聞かせた。


 長引けばいい。彼が来るのが遅ければ、別れまでの時間が延びる。携帯を開いたまま呆けたようにテーブルに頬杖をつき、真樹は稜がここに来るのが一秒でも遅ければ良いと願った。
 インターフォンが鳴る。真樹はのろのろと立ち上がり、少し時間をおいてそれに応えた。
「……俺」
 聞こえた声は突き放すような言い方で、それだけ彼が怒っているのだと知れる。
「今、開ける」
 真樹も短く言って玄関に向かった。
 チェーンを外し、ロックを二つ、外す。ゆっくりと、刻み込むように。二人が恋人でいられる最後の瞬間を、少しでも引き延ばすように。
 勢い良くドアが開いた。押し入るようにして姿を現した稜が、何も言わずに真樹を抱き締める。その後ろでドアがゆっくりと閉じ、二人の姿を隠した。
「……嘘だろ?」
 搾り出すような声が、耳元で聞こえる。
「別れるって……あの男の所に戻るって、嘘だよね?」
 震えているのは、声か、体か。稜の体全体が、震えているように思えた。
「嘘じゃない……私ね、耕治とやり直すことにしたの。だからもう、あなたとは会えない。お互いにどうかしてたのよ。こんなに歳の差があるのに、うまくいく筈なかったのよ、私達」
 稜に抱き締められたまま、真樹は静かに言った。彼の背にしがみ付きたいのを必死に堪え、両手にかかる重力をことさら意識した。仰向いた目に、分電盤のボックスが映る。天井に近い壁に、入居した頃からの染みがあるのに気が付いた。
「どうして? うまく行ってたじゃない、俺達」
 なだめるような、稜の声。目の前の相手だけを見つめて愛し愛されるだけなら、確かに二人はうまく行っていたと真樹も思う。だけど……。
「だめ。私は自分のコンプレックスに勝てない。あなたといると、自分の嫌なところ、全部自分で背負わなくちゃいけないんだもの。それに……」
 わざと自分の負の感情を強調した。
「それに?」
 彼の問いに答えてしまえば、本当の終わりが来るような気がした。
「あなたはまだ、復帰するかも知れないんでしょ? 私みたいなのが傍にいちゃいけないのよ。あなたのためにも……私達は一緒にいちゃいけない」
 仔犬は元の飼い主に。自分はただ、ちょっとの間迷い犬を預かっただけなのだと。
 稜はいまだ真樹を強く抱き締めたまま解放してくれない。
「母さんに、何か言われたの?」
「えっ……」
 思ってもみない事を言われ、真樹は動揺した。
『物分りの良い方で良かった』
 そう言って深々と自分に向かって頭を下げた弓美の、綺麗に結い上げられた髪を思った。
 稜が不満をぶつけるように、乱暴にため息をつく。抱き締める力が、一層強くなった。
「そんなのおかしいよ。俺の為って、何? 俺の事想って言ってるなら逆だよ。俺には真樹さんが必要だ。真樹さん無しじゃ、もうどうしたらいいか分かんない」
 縋るような声に、真樹の心が揺らぐ。けれどもここで折れてしまっては、きっと後悔するに決まっている。
「そんなことない。あなたはちゃんと自分で生きていける」
 誰も見ていないのに、天井に向かって唇の端を引き上げてみる。痙攣したように震える唇は、ちっとも笑みにならなかった。
「無理だよ。真樹さんと知り合う前の俺になんて、もう戻れない。そうやって綺麗な言葉で別れを飾らないでよ。俺のこと嫌いになったなら、ちゃんとそう言って。でないと俺……一人で前になんか、進めない!」
 稜は、泣いているのかも知れなかった。
「そう……じゃあ言う。私はもう、あなたの事……」
 彼のためを思うなら、愛しいと想う自分の気持ちを殺してしまえばいい。そうして短い言葉を。もろい、ガラス細工のように透明な彼の瞳が、もう二度と自分を見ないように。
 ――『嫌いになっちゃった』。
 たった一言、言ってしまえば終わる。けれども続く言葉は、どうしても真樹の口から出てはこなかった。そんなひどい事を言ってしまえば、稜自身、本当に壊れてしまうように思えた。
「耕治は優しいわ。別れてから分かった。いろいろあったけど、やっぱり彼の傍の方が穏やかにしていられる。私はずるいのよ……」
 嫌いという言葉は、口が裂けても言えそうになかった。
「……あの男の所、戻るんだ。そんで、俺のこと、捨てるんだ。そんな簡単に捨てられるほど、あなたにとっての俺はちっぽけなモノだったんだ。俺にとってのあなたは、何にも代えられない程大切なモノだったのに……っ!」
 唐突に稜の腕から解放される。真樹は自分が立っていられるのが、不思議なくらいだった。離れていく彼を窺えば、顔を背け、眉根を寄せたまま唇を噛んで耐えている。真樹は彼の肩に手を伸ばしそうになるのを必死に堪え、床に視線を落とした。
「なのにあなたは、そうやって俺とのこと……切るんだね」
 鼻をすする音が聞こえる。稜は泣いているのだろうか。でも今顔を見てしまえば、これ以上彼を拒否することはできないように思えた。
「もう逢えないの? あなたの中に、俺のいる場所はもうないの? そんなの……嫌だ。俺……真樹さんともう逢えないの、やだよ。俺のこと、要らないなら……もう、要らないのなら……『死ね』って言って。『もう要らないから、死んで』って言ってよ。そうしたら、俺は真樹さんの言う通りにするから」
 抜け殻のようにフラフラと体の向きを変えると、稜は倒れこむように壁に背を預ける。絶対に彼を見ないつもりだったのに、背中がぶつかる大きな音に、大丈夫かとそちらに目を向けてしまった。虚ろな瞳が、真樹を映している。
「馬鹿ね、そんなこと言えるわけ、ないじゃない」
 彼の言葉は青臭い感傷だと判っている。『死』などという言葉を持ち出して、自分の心を必死で繋ぎとめようとしているだけだ。そう判っているのに見ていられなくなって、真樹は顔を背けた。
「どうしてさ。要らないのなら、言えるでしょ? もう必要ないなら、俺が死んだって構わないじゃない」
 自嘲するように、稜が笑う。このまま本当に、彼は壊れてしまうかも知れなかった。
「俺のわがままだって言っていいから……頼むよ、俺をあなたの傍にいさせてよ。俺のこと、好きじゃなくなってもいいから、傍にいていいって言ってよ。それすらダメなんて、言わないでよ」
 心が千切れそうになる。彼の言葉が、真樹の心を切り刻んでいく。
 それはできない。でもそうしたい。心の中で葛藤が生まれ、体ごと引き裂かれそうになる。
 真樹は口をつぐんだまま、ただ、彼から顔を背けているしかできなかった。
「一度好きになって、相手から切られるのがこんなに辛いなんて思わなかった。俺、真樹さんがいないとダメなんだよ」
 壁に背を預けたまま、ズルズルと力なく堕ちていく稜の体。懇願するように見上げられても、真樹は何も応えることができない。
「ねえ……っ!」
 耐え切れなくなったように、稜が叫んだ。彼の声に撃たれたように、真樹の体の中で何かが砕ける音が響いた。
「……お願い」
 そう言うと、真樹もその場に崩れ落ちた。心がもう、粉々になってしまったのを感じる。
「私を解放して……これ以上、辛くさせないで。もう……もう耐えられない。あなたと二人でも、私はもう飛べないの。だから……」
 膝を抱え、うずくまる。このまま石になってしまいたいと、真樹は思った。
 それでも泣けない。今、稜の前では絶対に泣けない。彼が行く先に、一点の染みも残してはならないと思うから。
 傍らの稜が、のろのろと体を起こす。
「羽は……」
 鼻に掛かった稜の声が、一層湿って真樹の耳に届く。
「羽はもう……要らないんだね」
 立ち上がった彼が、自分を見下ろしているのが判った。真樹はぎゅっと目を瞑って、それでも確かにうなずいた。
 ドアが開く。蝶番が微かに(きし)んで、嫌な音をたてた。足音が外へと向かい、再びドアはゆっくりと閉まる。
『バタン』
 鉄格子が降りたかのような無情な音。真樹が顔を上げると、そこにはもう稜の姿はなかった。
「うっ……」
 喉の奥から熱い塊がこみ上げてくる。稜の姿が見えなくなってからはじめて、真樹は泣いた。