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あなたが、好き。


〜27〜


 何日も泣き続けて体中の水分が出てしまったように思った。だが抜け殻のようになってしまってもまだ、空腹を感じることもできたし横になれば眠ることもできた。稜を失って心はとっくに壊れてしまったと思ったのに、体はまだ生きている。真樹にはそんな自分が不思議だった。
 プライベートな出来事を仕事に持ち込むのは嫌だったから、真樹は今まで以上に仕事に打ち込んだ。前にもこんな事があったと思い返してみるが、そんな場面はたくさんあり過ぎて、いつ、どうしてそうしたのかさえ覚えていない。それだけ自分は不器用に生きてきたのだという事だけが、真樹に判ったことだった。


 もうすぐ退社時刻になるという頃、片野がこちらを向いて何か言いたそうにしているのに気付いた。
「なあに? 何かあった?」
 処理を始めるメニューを選んでエンターキーを押してから、真樹はパソコンの画面から目を離し、片野に水を向けてみる。
「あの、少しお話が……」
 少し言いにくそうにした後で、彼女は決心を固めたように切り出した。
「先輩、今日お時間あります?」
 今日は週末で定時退社の日だし、この後は何も予定が無いと告げると、片野はどこかで食事でもしながら、と言った。
「わかった。じゃあ今までに行ったことのないお店にしましょうか」
 そう応えたところで、ちょうど処理が終了した旨を告げるポップアップの画面が現れた。
 行った事のないお店と指定したのは、もちろん稜の店に行きたくないからだ。彼の匂いのする場所には、当分近づけそうにない。彼の思い出が染み付いているのを感じれば、思わず叫び出しそうになる自分がいた。
 だから自分の部屋に戻るのが辛かった。彼と一番長い時間を過ごしたのはあの部屋だ。そこに一人で居ることは、今の真樹にはとても辛かった。けれども他に行く所も無かったから、ぎりぎりまで残業をした後、閉店までショッピングモールを回り、暗くなってから家に帰るという毎日だった。
 耕治とはあれから会っていなかった。何かと誘ってくれるのだが、真樹はまだそんな気持ちになれなかった。ただ、稜と別れたことだけは伝えたから、彼も気遣ってくれている。真樹が躊躇(ちゅうちょ)すれば、それ以上強引に誘って来ることは無かった。


 携帯の検索で調べて、ちょっと遠くの店を選んだ。ロッカー室で靴を履き替えながら片野に訊くと、偶然にも彼女の家から割と近い所だけれど、まだ一度も行ったことが無いと言う。今日は真樹も車ではなかったから、二人で駅に向かった。
 店は純和風だったけれど、テーブル席と座敷の席を選ぶことができた。二人ともスカートだったから、迷わずテーブル席を選ぶ。奥の禁煙席が空いていた。
 注文を受けた案内の女性がメニューを持って下がると、片野が口を開いた。
「先輩には色々相談に乗って頂いて、感謝しています。有難うございました」
 丁寧な口調に、真樹も思わず背筋を伸ばす。
「いいのよ。大したアドバイスもできなかったけど、少しは役に立ったかしら」
 こんな自分が先輩風を吹かせて片野に助言をしただなんて、今考えても可笑しな話だ。それなのに彼女はちゃんと聞いてくれて、そこから何か答えを見つけてくれたようだ。そんな彼女の真摯な態度に、真樹の方こそ救われていた。
「はい、とても助かりました。おかげで……」
 そこに頼んであった冷酒が運ばれて来た。あまり量を作らないものだそうで、名の知れた昔からの料亭と、あとはこの店だけに卸されているものだと検索サイトの説明に載っていた。
 盆を持って一礼し、店員が下がる。また二人だけの時間が戻ってきた。
「何? また何かあった?」
 片野が言いにくそうにしているのを見て、真樹はまた水を向けた。
「はい……あの、会社(うち)って辞める時にはどのくらい前に言ったら良いんでしょうか」
 片野の言葉に、真樹の手が止まった。思わず彼女を見ると、手に持った冷酒の猪口(ちょこ)が、口もつけずそのままになっている。
「どのくらいって……そうね、最低でも一ヶ月前ぐらいには言っておかないと」
 人事の方も困るからと、真樹は続けた。
「一ヶ月ですか。そう……それなら良かった」
 片野がほっとしたような顔をした。
「どうしたの?」
 そう訊いたけれど、真樹には何となく予感はあった。女性社員がこう言う時は、大抵決まっている。
「福浦さんと、結婚することになったんです。それで……」
 やっぱり、と真樹は思った。こうやって何人の同僚や後輩を見送って来たことだろう。その度に笑顔で送り出すけれど、真樹は言いようの無い疎外感を感じていた。幸せという言葉から、見放されているような気がした。
「そう……それはおめでとう」
 そう言って、笑って見せた。薄っぺらな言葉に聞こえなかっただろうか。片野は可愛い後輩だ。彼女が幸せになる事は、とても嬉しい。けれど……。
「良かったわね。それで、いつ?」
 自分の状況が状況だけに。
『あなたは、片羽で飛ぼうとしてる蝶みたいだ』
 稜の言葉を思い出した。今、自分はちゃんと笑えているだろうか。ちゃんとした大人の対応ができているだろうか。ひがんでいるわけではないけれど、心からおめでとうと言えていないことは、真樹自身が一番良く判っていた。
 それでも何とか片羽で飛ぼうと――無様にもがいて立派な大人を演じようとしてみる。
 心の中で、片野に詫びた。
「まだ具体的に日取りははっきりと決まっていないんですけど、近いうちに式場を見に行こうと……」
 そう言ってはにかむ片野はとても可愛らしい。真樹が一番頼りにしている後輩だ。先輩先輩と、何かと自分の事を立ててくれて、気遣いもできる……。
 真樹は自分の汚さに、反吐が出る思いだった。
――どうしてもっとちゃんと喜んであげられないの――
 こんなだから……と、自分で自分が嫌になる。なんて心の狭い人間なんだろうと、情けない気持ちに押し潰されそうになる。
「そう。じゃあ結婚する前に会社(こっち)辞めるのね」
 堕ちていく気持ちを切り換えようと、片野の猪口に酒を注いだ。ちょうど料理が運ばれて来て、二人とも飛びつくようにそれに箸をつけた。
「ええ、そうなると思います。あんまり早くに言うと居辛くなるかも知れないって福浦さんが……それで、水谷先輩に訊いてみろって言われて」
 女性社員が結婚で辞める時の事は、男性社員には判り辛いかも知れない。女性特有の確執が水面下であるかも知れないと、福浦が危惧するのも頷ける。
 けれども今までの事例の大半が、結婚が決まると同時に退職する旨を上司に報告していた。今にして思えば、それは女性ならではの見栄もあったのかも知れなかった。高らかに結婚を宣言して退職の準備に入る。それは女性社員の花道のように思われていた。
――結婚退職……ね――
 そのどの場面でも、おそらく自分も将来辿るであろうその道が、真樹には実感として感じられなかったのは事実だ。そして現に今も、他人事なのだと線引きして考えている自分がいる。
「じゃあ今日は、前祝い!」
 真樹は朗らかに言うと、今の自分にできる精一杯の笑顔を作った。
 それからは、二人で何度も乾杯をした。真樹はお祝いの気分を否が応でも盛り上げたくて、片野に冷酒を勧めた。片野も先輩にはお世話になったからと、返杯をする。料理が粗方無くなってお開きになる頃には、二人ともすっかり出来上がっていた。
「じゃあ先輩、また月曜日に」
「はい、月曜日に」
 店を出て、反対方向に帰る片野の後姿を見送る。彼女の家は、徒歩で行ける距離にあるという。次第に小さくなる彼女の背中が一つ目の信号を渡るまで見送ると、真樹はくるりと体の向きを変えた。
「おめでとう、片野さん」
 そう口に出して言ってみる。空々しい響きに、真樹は自分を哂った。心から祝いたいのに、自分が言うと何かの台詞じみて聞こえた。意味もなく可笑しくなって来る。アルコールのせいだろうか。色々な事が妙に可笑しかった。
 片野が結婚すること。一人取り残された自分が、稜と別れたこと……。
「あは……ははは」
 声を出して、哂った。その拍子に足がもつれ、転びそうになる。真樹は危ういところでガードレールに手をつき、体を支えた。どうやら飲み過ぎたらしいと頭では判っているが、どのくらい飲んだのか自分ではもう覚えていない。
「酔っ払いだ……」
 ははは、と哂う。周りの景色がぐるぐると回って見えた。
「おめでとー」
 ろれつの回らない舌でそう言うと、真樹はペタンと縁石に座り込んだ。頭の位置が低くなったせいか、ガンガンと鳴っているのが判る。頭に心臓がもう一つ増えてしまったような感覚に、真樹はこめかみを押さえて膝の間に顔を埋めた。
 歩いている人はあまり無かったけれど、歩道も車道も街灯が整備されていて明るかった。車はそこそこ通っているし、夜中に女性が一人で歩いていてもそんなに身の危険は感じない。真樹は膝の上にバッグを抱え直してそこに頬を付けると、目を瞑って長い息を吐いた。
 寒い季節だというのに、体が熱い。やっぱりアルコールが効いているようだ。
 規則正しいリズムが、耳に響いて来る。それが誰かの足音だと気付くまでに、随分時間がかかった。
――前にもこんなこと……――
 こうやって通り過ぎる人の足音を聞いていたのはいつだったか。
 息を詰めて、真樹は待った。稜であるはずが無いと判っていても、心のどこかで期待をしている自分がいた。
 小さかったそれは次第に大きくなる。足音の主は迫り、そして追い抜いて行った。ちらりと上目遣いに見上げれば、自分より少し年上の、サラリーマン風の男性だった。
――彼は、いつも――
 後ろからの足音を感じれば、それはいつも稜だった。追い抜いて行けと心の中で念じても、彼は立ち止まって自分を一緒に連れて行ってくれた。「一緒に行こう」と背中を押してくれた。
「ふ……」
 そんな偶然、何度もあるわけがない。まして自分達はもう別れてしまったのだ。真樹の方から、酷い言葉で切り捨てるようにして、彼を深く傷つけたまま。
 去っていく男性の後姿を見ながら、真樹は唇の端を引き上げた。
 涙が出た。稜に似合わなかった自分を悔いるように、真樹は泣いた。


 片野はそれからすぐ、会社に退職願いを提出した。周囲からは惜しむ声も聞かれたが、彼女の幸せを思って皆が祝福した。退職と同時に挙式の予定だという。残り二ヶ月。その間に社内異動や引継ぎをしなければならない。片野も真樹も目の回るような忙しさだった。だがそのおかげで真樹は、気を紛らすことができた。
 決して忘れてしまったわけではない。心の片隅にはいつも、稜の面影があった。思い出せば鋭い痛みに(さいな)まれる、彼との想い出。けれども仕事に忙殺されていれば、そこに回す気持ちの余裕が無くなって、却って真樹には有り難かった。
 昼休みに食事から戻って来ると、先に戻っていた片野が真樹を手招きした。机の上にはコンビニの袋に入った弁当の殻と、女性週刊誌が乗っている。
「これ、ご覧になりました?」
 そう片野に示された部分には、派手な見出しが躍っていた。
『稜の復帰が決定!』


『一時休業中だった稜の復帰が正式に決定した。事務所の公式発表によると復帰予定は高等部卒業後の四月からとなっているが、その前から撮影に入るとの話もあり、学業に支障の出ない範囲で徐々に活動を再開してゆくらしい。
既にコマーシャルへの出演は決定しており、復帰第一弾は以前出演したものの続編の形式になる予定。バラエティ番組への出演依頼も受けているらしいとの情報もあるが、こちらは未確認である。
休業中もインターネットの掲示板やSNSなどに書き込みが絶えないなど、彼の復帰を待ち望む声が多かっただけに、今後の活躍に期待したい』
 記事は見開きで、彼の写真が載っていた。事務所のページに使われていたものがモノクロになっている。
 誌面の向こうから、彼に見つめられているような気がした。


『ホントは何もできないとしても、全然カッコいい所なんかなかったとしても、カメラの前に立てば、あなたは人に夢を与えることができる。『稜』になって、みんなの心に灯りを点してあげることができる。そしてあなたも……『神鳥稜』も、そんな『稜』でいる時の自分自身に背中を押されながら生きていけばいいんだよ』
 示された道。
 ――失ってもなお、共に在るために。
「稜、久しぶり」
 事務所のドアを開けると、懐かしい声に呼び止められた。狭い部屋だが、入り口から奥は見えないようになっている。首をひょいと伸ばすと、そこにはかつてお世話になったマネージャーの長野が、社長と向き合うようにしてソファに掛けていた。白っぽいパンツスーツを着ていて小柄だが、なかなか男勝りの女性だ。
「長野さん……どうして俺だって判ったんですか」
 笑いながら近寄れば、横に座るように促される。稜は長野の隣、社長の真向かいに腰を下ろした。
「稜の歩き方、特徴あるからすぐ判るよ。カツッ、カツッって(かかと)鳴らす感じで。だから足音聞けば、一発」
 長野は指でピストルのような形を作って稜に向け、片目を瞑って撃つ真似をした。
「私が聞いても判らないんだけどね、長野さんには判るみたい。さすが、マネージャーだわ」
 社長がそう言って笑った。
 稜が所属するこの事務所には、女性スタッフが多い。社長が女性だからなのか、それともこういった仕事には女性の方が向いているのか、稜には判らない。他の事務所といえば母親の経営するイルバース・エンターテイメントしか覗いた事がないが、あそこのスタッフもやはり女性が多かった。
「ところで雑誌、見た?」
 社長が笑っていた口元を引き締めた。途端に仕事の顔になる。
「はい、今朝」
 稜も久しぶりに仕事の顔に戻った。
「いよいよ活動再開よ。復帰後初の仕事は、コマーシャル撮り。これは……申し訳ないけど三月終わりからのオンエアになるから、その前に撮ることになるわ。学校の方はその頃にはもう卒業してるわよね?」
 スケジュール帳に視線を落としていた社長が、上目遣いに稜の顔を見る。
「はい」
 稜は短く応えて頷いた。
「こっちは余裕を持って、撮影に二日とってあるから。天気次第なんだよ。厄介だな、外の撮りは」
 長野も自分のスケジュール帳とにらめっこしながら言った。
「まだ今のところタイトなスケジュールじゃないけど、これからガンガン入って来る予定だから。覚悟しとけー」
 そう言うと、稜を見てニッと笑った。
「その後でそこの別バージョンのコマーシャル撮りが一本と新規のが一本、他にバラエティ番組のちょっとしたコーナーにゲスト出演の依頼が来てる。最初は顔を思い出してもらうのが目的だから、これぐらいで充分だと思う」
 社長がまたスケジュールを読み上げた。
「それと七月クールの新番組で自分のコーナーを持つ話が来てるんだけど、こっちはもう少し詰めるわね。それから……」
 そこで社長は一旦言葉を切る。稜は彼女の瞳が険しくなったように感じた。
「お母様から聞いたわ。あなた、随分年上の女性とお付き合いしてるそうね」
 寄越された言葉に、稜は自分の周りの空気がスッと冷えたような気がした。
「本格始動までに、ケリをつけて頂戴。あなたは『商品』なんだから、自分勝手な行動は謹んでね。特にそういったスキャンダラスな色恋沙汰はご法度だと、肝に銘じなさい」
 社長が母親からどの程度聞いているのかは知らなかったが、真樹の事はとうに知っていたようだ。母親と社長はモデル時代からの付き合いだそうだから、後の禍根となりそうな事は、隠さずに知らせておいたのだろう。
「その事なら……」
 稜の心が、ズキリと痛んだ。
「もうフラれちゃいました」
 心の痛みに蓋をするように、わざと明るく言った。
「だから大丈夫です」
 ――それは『稜』としてメディアに露出する人間の言葉。
 本当は大丈夫なんかじゃない。今こうして真樹のことを話題にするだけでも、体も心も粉々に砕け、バラバラと散ってしまいそうになる。『神鳥稜』の心は、もうとっくに死んでしまったようなものだった。
――俺の全部で、愛してたのに――
 飄々とした風に笑って見せながら、もう二度と、心から笑えないような気がした。


 年度変わりの時期をまたいで、片野は退職した。桜が咲き、そして散っていった。真樹は携帯の待ち受け画面を新しい物に変えた。それは相変わらず、綺麗に咲き誇る桜の写真だったけれど。
 稜の出演するコマーシャルを何度か観た。コミカルなものとシリアスなものの二つのパターンが有って、どちらの彼もカラコンをつけ、流行りの服を着ていた。
「よく似合うじゃない」
 無理して自分に合わせていた、あの頃の彼ではない。自分の年齢に合った、派手な服も上手に着こなしている。長い手足はあの頃のままで、けれどもよく見れば少し背が伸びたように思えた。
――何度もあの足をひっぱたいたっけ――
 助手席に乗せる時、運転席にはみ出してくる足をひっぱたいた。その度に文句を言われたけれど、言いたい事を言い合って、稜がまだ普通の高校生で……。
 思い返せば、涙が頬を伝った。
 真樹は携帯を取り出した。画像のフォルダを開く。スクロールし、一枚の写真を選んで表示させた。
 それは稜の写真だった。旅行の時に撮った、彼が一人で写っているもの。別れた後も削除できずに残しておいたものだ。ピースをした手をこちらに向けて突き出している。あの時、一番最初に撮ったものだ。普段の『素』のままの彼がそこに居た。
 彼を身近に感じた二日間。自分は彼のもので、彼は自分のものだった。非日常が、二人をより近づけてくれた。なのに……。
『いっそ二人溶け合って、ひとつの人間になってしまえたら』
 離さずにすむものなら、離したくなかった。彼が言った、ひとつの人間になってしまいたいという想いが、今の真樹の想いの全てだった。


 片野と福浦の結婚式当日の空は、突き抜けるようによく晴れていた。こちらの方が知り合いが多いからと、実家の方ではなくて比較的会社に近い大きな駅前の老舗ホテルで行われた。
 新郎と新婦が会社で知り合ったということで上司が仲人に立った。色々相談にも乗って二人の後押しをしてくれたからと、数人の同僚と共に真樹も招待されていた。
 真樹は華やかなスーツを着てロビーにいた。ロビーには毛足の長い絨毯が敷き詰められていて、歩く度に少し沈み込むような感じがする。赤色を基調とした上品な模様が印象的だった。
 明るい色目のいつもより少し派手なデザインのスーツを身に着ければ、心なし気持ちも華やいで来る。背筋を伸ばしてモデルのように立ってみれば、招待客の男性がこちらに視線を送ってくるのに気付いた。
 結婚式は滞りなく済み、若い人達は二次会にも出席した。真樹も出席したが、みんな真樹よりも若い人ばかりだった。
「昌也くん、篤子ちゃん、結婚おめでとう」
 ここでも乾杯がされる。その後は飲んで騒いで喋って……お決まりのパターンだ。
 主役の二人は姓が同じになっため、下の名前で呼ばれていた。慣れないことで、二人とも照れまくる。そんな様子も初々しかった。
 宴もたけなわになった頃、片野が真樹のところにようやく挨拶に来ることができた。それまでは友人達に取り囲まれて、身動きもままならない状態だったのだ。遠目から見ても、さんざん冷やかされているのが判った。
 彼女の頬にほんのり赤みがさしているのは、飲んだアルコールのせいばかりではないらしい。
「先輩、今日は有難うございました」
 ビールのグラスを持ったまま、彼女は真樹の前に投げ出されるようにしてたどり着いた。
「おめでとう。……大丈夫?」
 心配する真樹に片野は「平気です」と笑って見せる。
「ならいいけど……みんな凄いパワーね」
 そう言って、真樹は苦笑した。自分にもこんな頃があったのかも知れないが、今ではとうに忘れてしまった。こうやって集まって騒ぐことにも疲れてしまう自分を感じれば、少しだけ泣きたくなった。
「先輩……」
 片野がじっと真樹をみつめた。真樹は眉根を上げ、唇の端を持ち上げて見せる。
「私、先輩に嫉妬していたんです」
 ビールのグラスに視線を落とし、片野はポツリと呟いた。思いがけない言葉に何と返したら良いのか判らなくて、真樹は彼女の次の言葉を待った。
「先輩は仕事もできて、皆さんからの信頼も厚くて、重要な案件も一手に任されて……私なんて、どんなに頑張っても到底敵いっこないって思っていました」
 ちびり、とグラスに口をつける。
「先輩に憧れて、でも先輩と一緒に仕事をしていると苦しくて、自分が情けなくて……だから結婚が決まった時、先輩よりも先に行けることに、心のどこかに優越感を持っていたんだと思います」
 そう言うと、苦しそうな顔でもう一度真樹を見つめた。
「でも、そんな自分が嫌で仕方なくて……私、本当は先輩が好きです。嫉妬もしたけど、大好きでした。ずっと大事にしてもらってたし、先輩は私の支えだったんです」
 そこまで言うと、片野は大粒の涙を零した。
「先輩……今まで有難うございました」
 耐え切れなくなったのか、下を向いて肩を震わせる。真樹はそんな彼女の肩を優しく抱いてやった。
「いいのよ。醜い部分を持ってるのは、あなただけじゃない。私だって同じなんだから……」
 幼い子をあやすように、真樹は片野の肩を優しく叩いた。性格も良く女性特有の気配りもできる子だと思っていた彼女にも、自分と似たようなドロドロした感情があった。今初めてそれを聞かされ、真樹は胸の奥につかえていた何かが融けて行くような気がしていた。
 誰かと比べて落ち込むことも、優越感に浸ることも、時には必要なのかも知れない。自分という基準がある以上、それよりも相手の方が恵まれていれば羨ましいと思うのは当然だし、比べて落ち込むこともあるだろう。それでも次の日には顔を上げてもっと努力すればいい。泣いても嫉妬しても、そんな醜い感情を抱えた体ごと、頑張って超えて行けばいい。なりたい自分があるからこそ、皆苦しんでいるのだと。
「これからも連絡してね、篤子ちゃん」
 初めて名前で呼んでみる。片野は相変わらず涙を零しながら、それでもこちらに向けた顔は照れたように笑っていた。