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あなたが、好き。


〜28〜


 日は随分傾いている。二次会もお開きになり、真樹は電車に乗ろうと歩いて駅に向かった。華やかなスーツ姿は一目で結婚式の帰りと判るらしく、チラチラとこちらに向けられる視線に気付いた。
――もう逃げる必要もないんだわ――
 人目を気にしてばかりいた、少し前の自分を思った。稜と一緒にいる時は、なるべく目立たないようにしていた。見られていると気付くと道を変え、行き先を変えた。今はもう、そんな必要はなくなってしまったけれど。
 顔を上げて、真樹は歩いた。
『先輩に憧れて、でも先輩と一緒に仕事をしていると苦しくて、自分が情けなくて』
 片野の言葉が、真樹の中ではっきりとした形を取ろうとしていた。後輩が自分を目標にしてくれていた。真樹にとって、それは嬉しいことだった。自分は何もできないと塞いでいた心も、少しだけ晴れたような気がする。
――頑張ってみようか――
 まずは、片野が認めてくれた仕事を。そしてその次には、人とちゃんと向き合う事を。稜がくれた『人を愛する気持ち』は、多分真樹にとっては初めての想いだった。ずっと人から逃げ、真正面から向き合うことを恐れていた。意地を張って人前で泣けずに、どんどん(よど)んでいった心。
 そう言えば、ここしばらく耕治と連絡をとっていない。彼の所に戻ると決めてから、まだ一度も二人だけで逢ったことはなかった。
「今なら向き合えるかも知れない……」
 すぐに焦がれるほど好きになれるとは思えない。でも二人の時間を積み重ねて行けば、いつか今日の福浦と片野のようにお互いを最良の伴侶と認められる日が来るかも知れなかった。
 真樹は携帯を取り出そうと、いつもより小さめのバッグを探った。オープンポケットではないから、探すのに時間がかかった。歩道橋が目の前に迫る。階段を上りながら携帯を触るのは危ないだろうと思い直し、真樹は一旦その手を止めた。
 ここを渡れば、駅はすぐそこだ。真樹はいつもより高くて細いパンプスのヒールを傷つけないように、注意して階段を上った。
 歩道橋の上は、人通りも少なかった。夕暮れが迫る中、人の姿は少しだけ色づいたシルエットのように暗く沈んで見える。車を運転していれば、一番物が見にくく、事故の多い時間だった。
 橋の真ん中で、車の通りを眺めている人影があった。欄干に両腕を預け、その上に頬を乗せている。黒っぽいスーツ姿の男の人だった。
 真樹はその傍を通り過ぎた。
――飛び込むつもりじゃないわよね――
 一心に車道を見つめていたから少し心配になったけれど、ただ気分が悪くなって休んでいるだけかも知れない、と勝手に自分を納得させる。
 真樹は手の中でズレてきた、ホテルのロゴ入りの袋を持ち直した。中の引き出物の箱同士がぶつかって、ガシャガシャと音を立てる。それは思いの外、辺りに大きく響いた。
「あれぇ?」
 通り過ぎた場所から声が上がった。
「キメちゃってどうしたの?」
 それは自分に向けられたものだろうか。真樹は聞き覚えのあるその声に、心臓が縮み上がりそうな気がした。
「いい匂いがしたから、ひょっとして、と思った」
 特徴のある懐かしい声に振り返れば、そこには稜が立っていた。なんとなく緩慢な動きで、気だるそうに見える。
「いつものコロンつけてるでしょ」
 そう言ってこちらを見る彼は、少し大人びたようだ。スーツ姿の彼を見るのは、これが初めてだった。
 気まずかったけれど逃げる場面ではないと思うから、真樹は彼の視線を受けてもそこに留まっていた。
「……そっちこそ。今日はいい格好してるじゃない」
 平静を装って、そう返す。あんな酷い別れ方をしたのに、表面上だけでも普通に話ができていることが嘘のようだ。
 そこにいるのは紛れも無く稜なのに、スーツなんて着ているせいか、なんだか違う人のように見える。だからなのか、彼と逢っても思ったほど取り乱さずに済んだ。
「俺は従兄の結婚式。そっちは?」
 稜もどこか夢みるような顔をしている。ひょっとしたら、結婚式でさんざん飲まされたのかも知れない。近くで見れば目の下あたりが赤いような気がする。
「私も後輩の結婚式。今日は日柄がいいものね」
 そう言って、真樹は彼の隣に欄干を背にして並んだ。
「へえ、そうだっけ?」
 稜の視線が、何かを考えるようにふわふわと漂った。
「そっちの式はどこでやったの? 近く?」
 訊いた後、稜はまた落ちてゆく太陽に顔を向けた。こうやって歩道橋の上、二人並んでいるなんて、まるでテレビドラマに出て来そうなシチュエーションだ。
「駅前のホテルよ。いいお式だった。その後二次会に出て戻って来たところ。お開きになるまでいたら、こんな時間になっちゃった」
 くるりと体を反転し、真樹も夕陽に顔を向けた。心なし暖かいように思うのは気のせいだろうか。
「ふうーん。俺は退屈だった。従兄は昔会ったきりであんま顔覚えてないし、親戚中ごっそり集まっちゃっててさ、顔知らない人がいっぱいいた」
 稜はつまらなそうに小さく息を吐いた。
「……あと、俺はサイン責めに遭った」
 付け足しのように言うと、思い出したように苦く笑う。
「テレビの力は偉大だもんね」
 真樹も笑った。
「美味い料理食べて、引き出物いっぱいもらって、みんな喜んでたけど……俺は苦手だな、ああいう場は」
 しきたりと作法が決められて、ある程度の格式も必要とされる晴れの儀式。ついこの間まで高校生だった彼には、どう対処したら良いのか判らないのかも知れない。真樹はもう何度も結婚式に出席したことがあったから、今ではそんなに気にしてもいなかったのだけれど。
「それで、どうしてあなた一人なの? 他の人は?」
 従兄の結婚式なら、家族も一緒に出席したのだろう。なのに彼が一人でいることを真樹は不思議に思った。
「俺、車酔いするから少し休むって言って……そしたら見事に置いてかれた」
 憮然とした声が返って来る。萎れた様子が何とも痛々しい。
「母さんはこれから仕事入ってるらしくて、待ってる時間無かったんだ」
 あまりにも子供っぽい言い方だと思ったのか、稜は決まり悪そうに続けた。
「そう言えば、あんまり車、得意じゃなかったものね」
 旅行の日を思い出し、真樹は少しだけ胸が締め付けられた。稜も同じ事を思い出したのか、二人の間に沈黙が落ちる。
 名前も知らない鳥が、二人のすぐ目の前を切り取るように横切った。ふと我に返る。催眠術から覚醒する時に目の前で手を叩かれれば、こんな気分なのだろうか。
「で、そっちは? 後輩の花嫁姿見て、ジーンなんて感動なんかしちゃったわけ?」
 稜が体を反転させた。背中を欄干に預け、意味ありげにこちらに顔を向けて見せる。
「うん、幸せそうだったよ。真っ白なドレス着て、ブーケ持って笑ってて。綺麗だった……」
 語尾が消え入りそうになってしまったのは、自分には無理だと思ったから。あんな風には笑えない。この先、耕治を最良の伴侶と認める日が来ても、きっと今日の片野のようには笑えないと思った。
「……どうして?」
 稜が訊く。
「何が?」
 彼の言葉の意味が判らず、真樹は訊き返した。
「どうして真樹さんは、そんな泣きそうな顔してるの?」
 稜の瞳が真剣に真樹を見つめていた。心の奥まで見透かされそうな瞳。真樹は数回瞬きをして、睫毛を伏せた。
「……なんか、そうやってると、あなたがちょっと大人に見えるわ。馬子にも衣装って、この事ね」
 それ以上触れられたくなくて、話を逸らした。
「あ、ひどっ。俺は何着ても似合うの」
 稜も気付かなかったようにそれに合わせる。二人の距離は、近づいては離れる笹舟のようだった。
「モデルさんだもんね。……観たわよ、あなたの出演してるコマーシャル」
「ふうん、どっちも観た?」
 仕事の話を振れば、気持ちも納まりがつくような気がした。彼はもう自分のものではないのだと、心に刻み込める気がした。
「ええ、両方観たわ。私はコミカルな方が好きかな」
 シリアスなものとコミカルなものの二つのパターンがある、あのコマーシャルだ。コミカルな方が『素』の稜に近いようで、真樹は好きだった。
「ああ、アレね。絵コンテ有ったけど気にせず俺の思った通りに動いていいからって言われて、ああなった」
「あのコケるところも?」
 コミカルバージョンには、彼が思い切り転ぶシーンがある。
「あれ大マジ、マジごけ。『いいリアクションだねー』なんて言われた。カラコン飛びそうになるし青あざできるしで散々だったけど、いい画になったと思う」
 仕事の話をする稜は、以前の彼と比べてひとまわり大きくなったように感じた。肩の力が抜けたのか、それとも腹を括ったのか。この道で生きていく決心がついたのだと真樹は思った。
 彼と普通に話をしている自分を、真樹は心の中で滑稽だと哂った。やっぱり自分はずるい。何があったとしても、次の日には何も無かったような顔をしていられる、ずるい大人なのだと再認識する。でもこれは、真樹が今まで身につけて来た処世術だ。全てに白黒つけて白日の下に晒すような生き方、今更できるわけがない。
 彼の傍で、純粋だった自分を取り戻すなんて、最初からできっこなかったのだ。
 真樹は駅ビルを振り仰いだ。高い建物で、綺麗に磨かれたガラスには落ちる夕陽と街の風景が映っていた。
「そろそろ行くわね。もうこんな時間だし、遅くなるとあの道怖いから」
 偶然の再会は、もうおしまい。これ以上彼と話をしていたら、今度こそ離れられなくなってしまいそうだった。
「送ろうか?」
 稜が欄干から背中を浮かす。
「そんなこと、できるわけないでしょ」
 そう言って、最後にとっておきの大人の笑顔を作った。モデルの彼には及ばないだろうけれど、それが今の真樹にできる精一杯の虚勢だった。


 翌日は日曜日だった。遅くまで寝ていたから、真樹が家事をこなし仕度を終える頃には、すっかり日が高くなっていた。
 ジーパンの後ろポケットに入れた携帯が、細かく振動している。昨日の結婚式でマナーモードにしたまま、戻すのをすっかり忘れていたのだ。
 くすぐったさに身を捩りながら携帯を取り出し、通話状態にした。
「はい、もしもし?」
『真樹? 俺』
 電話は耕治からだった。あれから真樹は彼に電話をするきっかけを失ってしまっていたから、向こうから掛けてくれたのは都合が良かった。
「おはよう、……じゃないか」
 耕治は寝坊はしない。きっと今日も、いつも通りに起きたのだろう。言ってしまってから、真樹は肩をすくめた。
『って事は、おまえ今起きたばっかだろ』
「あら、わかった?」
 そう言いながら、窓際に置いた観葉植物に水をやる。買った時よりも随分葉が大きくなり、幹も立派になってきた。
『今日、逢えないか?』
 これまで真樹が何度も断っていたからだろうか。耕治の声が躊躇いがちに響いた。
 彼と二人きりで逢えば、本当にまた恋人としてやり直すことになる。稜と別れてから今までそうなることを避けていたから、そろそろけじめをつけないといけない。
 耕治と向き合うと決めたのだ。稜に向けたのと同じような、焦がれるほどの想いは無かったとしても――穏やかな時間を積み重ねて行けば、いつか片野のようになれるかも知れないと思ったはずだった。
――だけど――
「ええ、いいわよ」
 真樹は心の奥底に響く声に気付かなかったふりをして、そう応えた。


 もう昼に近い。ご飯時に掛かるから、真樹は近所のスーパーで材料を買い込んだ。
 一人で食べる食事は味気ない。稜と過ごした時間を思えば、その落差に心が塞ぐ日もあった。けれども今日は耕治が来る。稜との想い出を耕治との新たな時間で塗り潰すため、真樹はあえて彼を自分の家に招いた。
 下ごしらえをしていると、インターフォンが鳴った。
「はい、今開けるわ」
 エプロンで手を拭きながら、真樹は玄関に向かった。
「お邪魔しま……どうしたんだ、その格好」
 玄関で迎えた真樹を見て、耕治が驚いたように目を見開く。
「え? 何かおかしい?」
「いや……エプロンなんてしてるから」
 言われてみれば、今まで彼にエプロンをしたところなんて見せた事がなかった。大体この家で料理を振舞おうなんて、以前付き合っていた頃には、考えたこともなかったのだから。
「やーね。料理ぐらいするわよ、私だって」
 肩をすくめて笑って見せると、真樹は彼のためにスリッパを揃えて出した。
 ――いつも。
 湧き上がって来そうになる想い出を、無理やり封じ込める。
「さ、上がって」
 先に立ってリビングに入ると、そのまま真樹はキッチンに直行した。
「この家に入るの……これで何回目かな」
 耕治が珍しいものでも見るように、部屋を見回す。
「え……っと、そんなに何回も来なかったわよね。三回ぐらい?」
「そうかもな」
 記憶の底を探ってみたが、彼がここに来たのは、そう何度も無かったはずだ。玄関前まで迎えに来てもらったことは数え切れないぐらいあったが、大抵は彼の家か、外で逢っていた。
「ご飯、食べるでしょ」
 簡単なものだけど、と念を押して、真樹はまた仕度の続きを始めた。


 食事が終わると、真樹は食器をキッチンに持って行った。流しに水を張り、食器をつけておく。それから手を洗って、コーヒーメーカーをセットした。
「いつも飲んでるんだ?」
 耕治がコーヒーメーカーを視線で指す。
「そうよ」
 食後には必ずね、と付け加えて真樹は座椅子に座った。
 ちょうど向かい合うように置かれたチェックの座椅子。真樹の向かいには、耕治が座っていた。
 ――いつも……。
 また湧き上がりそうになる想い出を、真樹は無理やり心の奥底に押し込めた。
 水滴が何回か爆ぜて、コーヒーメーカーは静かになった。また席を立ち、真樹はマグカップにそれを注ぐ。両方の手に一つずつ持って戻ると、膝をついてテーブルに置いた。
「熱っ……」
 淹れたてのコーヒーはとても熱い。マグカップにもすぐに熱が伝わって、真樹の指は痺れたように痛くなった。
「大丈夫か? 見せてみろよ」
 耕治が真樹の手をとった。指先が赤い。
「馬鹿だな。無理して持って来ずに、お盆使えば良かったのに」
 そう言って指先に息を吹きかけられる。真樹が見るともなしに彼の仕草を見ていると、ふと耕治が顔を上げた。
 お互いが、お互いの瞳を見つめていた。
 手を引かれる。そのまま真樹は、カーペットの上にストンと座ってしまった。それでも尚も手は引かれ、とうとう真樹は彼の腕の中に倒れこんでしまう。
「真樹……」
 何度も聞いた、耕治の声。こうやって名前を呼ばれて、見つめ合い、そして……。
 彼の顔が徐々に近づく。男らしい鼻の下に、男の人にしては色の良い唇。艶っぽく光るこの唇と、何度キスしたことだろう。
 ――あの日。
 別れのあの日に見た、彼の唇。それが現実の彼のものと重なった。口の中にカクテルの苦い味が広がったような気がする。スローな甘めの曲が悲しい旋律のバラードに変わり、星のない夜空を見上げ、瑠実に電話をして、それから……それから……。
『あ、ラッキー。稜くん、今日は店に出てるんだ』
『人、足んないから仕方なく。俺は嫌だって言ったんですけどね』
『ちょっと、何やってんのよ、あなた』
『ストレス溜まってるんじゃないの? 何なら、俺が相手してあげようか』


『……あなたが、好き』


「嫌っ」
 叫ぶと同時に、真樹は思い切り耕治の胸を突き返していた。それから無我夢中で身を捩ると、彼の腕から逃れ、傍にあった自分のバッグをひったくるようにして手に取った。車に乗り込み、どこをどう走ったのか覚えていない。気が付くと真樹は、稜のマンションの近くに来ていた。
――やだ、私――
 このまま引き返そうか。帰って耕治に謝らなければ。きっと彼は驚いているに違いない。
――でも――
 謝って許してもらえたなら、また自分は彼とやり直す努力をするのだろうか。何も無かった最初から、少しずつ気持ちを積み重ねてきたように。
「できっこない」
 真樹はブレーキを踏んだ。
 いつかまた、今日のようになる。耕治と何もなかったように触れ合うことなんて、もう自分にはできないと思った。
 きっと、稜を想い出してしまうから。彼からもらったたくさんの想い出と、彼を愛しいと想う気持ちを、完全に消してしまうことができないから。
「どうすればいいの……」
 真樹は道路わきに車を停めると、両腕でハンドルを抱えてもたれかかった。ここから稜のマンションは目と鼻の先だ。さすがにマンションの前まで行く事はできなかったから、少し離れたこの脇道に車を停めた。
――顔を見たら帰ろう――
 遠くから彼の姿を見るだけでいい。そうしたら、何も言わず黙って帰ろう。そう決めて、真樹は車を降りた。穏やかな昼下がりだった。真樹の心の中などそ知らぬ顔で、風が穂を揺らし、どこからか鳥の声が聞こえて来る。
 何時に彼が帰って来るのかなんて、知らなかった。泊りで何処かに出掛けていれば、帰って来ない可能性だってあったのに。真樹は自分でも馬鹿な事をしていると思った。
 携帯が鳴る。発信者を確認すると、耕治の名前が表示されていた。
「……もしもし」
 真樹は通話状態にして、それに応えた。
『真樹……ごめん。俺、どうかしてた。おまえがまだそんな気持ちになれないって判ってたはずなのに』
 こちらが何も言わないのに、耕治は一生懸命に謝ってくれた。
「私の方こそ、ごめんなさい。……でも」
 固い声だったのは仕方ないと思ってくれるだろうか。
『話は今度逢って、ゆっくりしよう。今何話しても、俺達だめになるだけだと思うから……そうだ、征人(ゆきと)君が来たから、彼に代わる』
 そう言うとしばらく雑音が聞こえ、電話の向こうで征人が何か話し始めた。
 お前何やってんだよ、から始まって、色々な事を言っていたけれど、最終的には自分が真樹の家の施錠をしておくから安心しろ、という内容だった。真樹はそれを、何処か呆けてしまったように聞いていた。相槌を打ったのかどうかさえ、覚えていない。向こうの方から通話が切られたから、話がついたと思われたか、怒らせてしまったかのどちらかだろう。心の中に重い石が入り込んで、何かを感じることを封じられてしまったように思えた。
 真樹はマンション横の植え込みの陰に身を寄せるようにして座り込み、稜の帰りを待った。植え込みの隙間に敷き詰められた芝生が、綺麗に手入れされているのに気付く。新芽が出揃い、手で触れれば柔らかかった。
 次第に日は傾き、空気に冷たいものを感じるようになった。昼間は随分と暖かくなったけれど、やはり日の光が無いと肌寒く感じられる。もう諦めようかと、何度も思った。こんな事をしていること自体、とても愚かなことに思えた。
――でも――
 耕治に触れられた腕が、指が、鉛のように重い。座り込んでしまったまま、このままでは一歩も動けないような気がした。
『ガサ……』
 芝生を踏む音がする。
「こんな所にいた」
 と同時に、鼻にかかった甘い声が降って来た。顔を上げて見れば、稜が怒ったような顔で真樹を見下ろしていた。
「どうして……」
 何故自分がここにいると判ったのだろう。彼には何も知らせていないのに。
 稜がふと険しい表情を緩めた。
「帰ってくる途中で真樹さんの車を見つけたんだよ。中覗いても真樹さんいないし、今日は母さん事務所に泊まり込みの日だから、家に上がってるわけないし……で、車見つけてから散々あちこち探し回ってた」
 彼の手が、真樹の手を取る。鉛のように重かったそれが、彼に支えられれば軽々と動いた。彼に導かれるまま、真樹は立ち上がる。
「俺を待ってた?」
 優しく問われ、真樹は素直に首を縦に振った。
「ずっとここで?」
 その問いにも頷く。稜が呆れたように笑った。
「それじゃ、ストーカーだよ」
「ごめんなさい……」
 真樹の頬を涙が転げ落ちた。後から後から湧き出るそれは、まるで秘めた想いのようだ。彼の姿を見るだけでもいいと思っていたはずなのに、自分で自分を支え切れなくなって、真樹は稜に縋りついた。
「耕治に抱き締められた瞬間、あなたの顔が頭に浮かんで……そしたらあの人突き飛ばして、逃げて来ちゃった」
 真樹を受け止めた稜の胸は、少し広くなったように思えた。
「真樹さん……」
 稜の腕が真樹を抱き締め返す。
「だめなの……あなたでないと、だめなの……他の人じゃ、嫌。こうやって私を抱き留めてくれる腕は、あなたのものでなきゃ、嫌」
 稜の手が、幼い子をあやすように真樹の頭を撫でた。温かい手が優しく動く度、真樹の気持ちが一層解けて彼に絡みつく。このまま二人、本当にひとつの人間になってしまえそうな気がした。
「歳の差なんて、無意味だよ」
 真樹を抱き締めたまま、稜が言った。
「あなたが抱えてるコンプレックスは、そのまんま俺にも当てはまると思わない?」
 彼がゆらゆらと体を揺らすようにするから、真樹の体も一緒に揺れる。そうやって一緒に揺られていると、優しい揺りかごに護られているような気がした。
「俺だって怖いんだよ。いつかあなたが俺に飽きて、離れて行ってしまうんじゃないかって。あなたは言ったよね? 俺がいろんな可能性を持っているから、そんな俺の傍にいると自分が諦めて来たモノを取り戻せるような気がする、って。だったら俺が大人になって、可能性が一つずつ削られていった時、あなたはまだ俺のこと、好きでいてくれるのかなって……そう考えたらさ、大人になるのがすごく怖くなった。このまま時間が止まっちゃえばいいのに、って思った」
 ゆうら、ゆうら。体が揺れる。彼の言葉は優しい子守唄のように真樹の体の中に染み込んで行く。
「あなたと、おんなじ。俺だって変わって行くのが怖い。でもさ、あなたは脱いだ靴下の跡が消えなくなって、俺は可能性を一つずつ削られていって……それでも二人でずっと一緒にいればさ、そんな変化は目に見えて起こるものじゃないから。少しずつお互いに諦めて、少しずつ慣れていったら、そのうち何とも思わなくなるんじゃないの? その積み重ねた時間の中に、新しく育って行く物だってあるはずだろ?」
 稜の瞳が真樹のそれを捉える。彼の瞳の中に、真樹がいた。
「これがあなたと別れてから、俺がずっと考えてたこと」
 そう言って、彼は『神鳥稜』の顔で笑った。