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あなたが、好き。


〜30〜


 仕事は順調だった。
「吉田さん、これあとお願い」
 真樹は斜め前の席に座る女性社員に指示を出した。
「何時までに仕上げればいいですか?」
「そうね……課長が先方に出掛けるまでには揃えておきたいから、二時までにはお願い」
「判りました。じゃあ、すぐに掛かります」
 真樹が差し出した原稿を受け取ると、吉田は今までの仕事を片付けてそれを広げた。
 片野の代わりにこの部署に配属されたのは、吉田という二十四歳の女性社員だった。今までは他の部署にいたのだが、仕事の関連で何度か話をしたこともある。片野とは違ってあまり大人しくないタイプだが、仕事に関してはきっちりこなす子だった。
 吉田がふと、思い出したように顔を上げた。
「先輩、本当に今日、駄目ですか?」
 今日は週末だから定時退社の日だ。事前に許可を貰った者以外の全ての社員が定時に仕事を終えて帰らなければならない。そんな日だから、部署内の親睦を兼ねた飲み会をしようと、昨日から誘われていたのだった。吉田は飲み会も先頭に立って仕切る方で、その度に真樹も誘われた。けれども片野の時にそうしたように、やはり何かと理由を付けては断っていた。
 自分の歳が気になるから……という思いは依然としてあったのだが、それよりも少しでも自由になる時間は、稜のために空けておきたかった。
 大学に仕事にと忙しくしている彼は、いつ自由な時間ができるか判らなかった。次クールの仕事も本決まりになり、打ち合わせなどもしなければならないらしい。他にも仕事は入っていて、撮影が長引けば約束は反故(ほご)にされたし、思いの外早く上がれば人目を忍んで真樹の家にやって来た。連絡をもらったらすぐに逢えるよう、真樹は自分の予定を空けておきたかったのだ。稜は「そんなことしなくていい」と言ったけれど、自分の都合で二人の時間を減らすのは辛かった。
 もう少しで定時という頃、チェック室から帰って来た吉田が、真っ直ぐ真樹のところにやって来た。
「本当に駄目ですか? 今からでも予約、増やせますよ?」
 周りを見回して少し腰を屈めると、声をひそめて言った。
「石川補佐も行かれるそうです。水谷先輩に是非来て欲しいっておっしゃってましたけど……」
 どうやら石川に頼まれたらしい。
「そう、補佐も来るの」
 室長補佐という立場上、今は真樹よりも上の地位にいる石川だが、真樹が仕事を教えた後輩だ。役職を得て本社に戻って来た今も、真樹のことを頼りにしているふしがある。昔はよく一緒に飲みに行ったりもしたが、彼が本社に戻って来てからは、それも無かった。
「やっぱり()すわ。今日は弟が来るかも知れないし」
 真樹がそう言うと、吉田は諦めて自分の席に戻った。
 征人とはあれから連絡を取っていなかった。だから今日来るなんて約束もしていない。真樹は石川と会社外で会いたくなかったのだ。
 彼には負い目があった。石川がまだ真樹の後輩だった頃、彼の受けた仕事の関係で、耕治と出逢ったのだ。石川の代わりに数回応対した真樹を気に入って、耕治が告白した……という経緯がある。仕事での関係が終わった後も、耕治と石川は交遊があるようだった。
 耕治の事は、あれから何も進展がないままだった。こちらから連絡をとろうと何度か携帯に電話してみるものの、彼はいつも出なかった。こんな状態を早く何とかしたいと思っていたのだが、メッセージを残しておいても彼から掛かって来ることはなかった。
「そうだ……」
 どうせ今日は定時で終わるのだから、耕治の家に行ってみようと真樹は思った。彼があれから家に帰っていない、などという事はないだろう。家の前で待っていれば、その内に帰って来るに違いない。
「これじゃ、ストーカーみたいだけど」
 稜の家に行った時に言われた言葉を思い出し、真樹は苦く笑った。


 耕治も一人暮らしだった。彼のアパートは比較的駅に近い所にあって、駐車場も広い。それなりに家賃も(かさ)むだろうとは思ったが、彼の給料なら充分やっていけるみたいだった。
「やっぱり帰ってない、か」
 玄関先でインターフォンを押し、しばらく待ってみたが応答は無い。きっと残業なのだろう。彼が帰って来るまで、真樹は自分の車の中で待つことにした。
 日が暮れて、街灯が灯った。吉田たちはちょうど、盛り上がっている頃だろう。真樹はバッグから携帯を取り出すと、中に保存してある稜の写真を表示させた。
 これを撮ったのは彼が高校生の頃だった。こちらに向けたピースサインが、まるで子供のようだ。あれから一年も経っていないのに、最近の彼は随分大人びたように思える。仕事に夢を持てるようになったからだろうか。
 バックライトが消える度、何度も表示し直した。彼の笑顔を眺めれば、真樹の中にこれから立ち向かわなければならない事への勇気が湧いてくるような気がする。しばらくそうして眺めていたが、駐車場に入って来る車のライトで現実に引き戻された。
 顔を上げて見てみると、それは耕治の車だった。ドアが開き、彼が降りて来る。真樹は携帯をバッグに戻し、自分も車のドアを開けた。
「真樹……」
 驚いた顔で、耕治が言った。
「久しぶりね」
 余裕なんて無いはずなのに、真樹は自分が笑っているのに気がついた。
「まあ……何だ、上がってくか」
 少しばつが悪そうにしながら、耕治が促す。真樹は彼の後について、部屋に上がった。
「久しぶり」
 部屋の中に入ると、改めて耕治が言った。真樹は「ええ」と言って頷いた。
 それきりお互いに沈黙してしまった。いざ面と向かってしまうと、何から切り出したら良いのか判らなくなってしまう。真樹は昔よく来たこの部屋を、一渡り眺めてみた。
 昔と変わらない、家具の配置。几帳面な彼らしく、掃除の行き届いた部屋。この部屋から朝帰りした事も、何回かあった。
 あの頃と、何一つ変わらない部屋。それでも確実に時間は経ってしまった。真樹の心も、もうここには無い。いつまでも曖昧なままにしていれば、二人とも前には進めないのだ。
 真樹は覚悟を決めた。
「耕治、あのね……」
「忙しくて、連絡できなかったんだ」
 真樹の言葉に被せるようにして、耕治が切り出した。
「ごめん、ほんと、ごめん。何回も連絡くれたのに、悪かったな」
 そう言って、取り繕ったように笑って見せる。
「後から連絡しようと思っててもさ、こう……なんていうか、疲れて寝ちゃったりしてさ」
 見え透いた嘘。それはまるで、最後通告を先延ばしにするために言葉を探し、少しでも回り道をしようとしているかのように見えた。
――あの時――
 真樹は哀しくなった。自分さえ耕治を利用するような事をしなければ、彼が今こんな惨めな思いをしなくても済んだのだ。自分が自分の事だけしか考えていなかったから、こんな事に彼を巻き込んでしまった。
「ごめんなさい」
 真樹は深々と頭を下げた。
「……やめてくれよ」
 耕治の声の調子が変わった。苛立っているような、それでいて何もかも承知しているかのような声。
「それじゃ、まるで……」
 彼が長い息と共に、言葉を吐き出した。頭を下げ続ける真樹には、彼の表情は見えない。耕治も次に続ける言葉を躊躇っているようだった。
 沈黙が、部屋を支配した。
 真樹はなおも顔を上げられずにいた。こうやって頭を下げるだけで、彼に許してもらえるとは思わない。それほど酷い事を、自分はしたのだから。
「やめろって……」
 哀しみの色を(まと)った耕治の声が響く。
 と、突然、真樹の携帯が着メロを奏で始めた。真樹はゆっくりと頭を上げた。それは稜専用に設定したものだ。気にはなったものの、耕治の前で出るわけにはいかない。真樹はあえてそれを無視した。
「出ないのか?」
 耕治が携帯を顎で示す。
「だって、今は」
 真樹もバッグに視線をやった。一度行き違いになるとなかなか連絡が取れなかったから、稜からの電話は長く鳴るように設定してある。まだまだ着メロは続きそうだった。
「いいから出ろよ」
 きりをつけるように耕治は立ち上がり、キッチンに向かった。換気扇のスイッチを入れる。そうして胸ポケットからシガレットケースを取り出すと煙草を一本咥え、火を点けた。真樹が煙草の煙が嫌いなのを知っていて、昔から一緒にいる時は必ずそうやって気を遣ってくれていた。
 真樹はバッグを引き寄せると、携帯を取り出した。確かめるまでもなかったが、発信者名には、稜の名前が表示されていた。
「……はい」
 なるべく小さな声で、真樹は応えた。
『あ、真樹さん? 出るの遅かったね。どうしたの?』
 まだ仕事先なのだろうか。後ろがザワザワと騒がしい。
「あの、今……」
『ひょっとして、まずかった?』
 電話に出るのが遅かったからか、稜は気を遣ってくれる。彼の言葉に、真樹はちらりと耕治を見やった。真樹と視線が合うと、耕治は気にするなとでも言うように小さく首を振った。
「ううん、大丈夫。何だった?」
 真樹はまた視線を元に戻した。
『俺さ、また次の仕事決まったよ。今度もコマーシャルだけど、一年の契約が取れた。季節に合わせて二パターンずつ、合計八本撮るの』
 電話の向こうの稜は嬉しそうだ。この間オーディションを受けると言っていた、あの仕事なのだろうか。
「そう、良かったじゃない。じゃあこれから、もっと忙しくなるわね」
 彼が頑張っていたのを知っていたから、真樹の顔も思わずほころぶ。
『……寂しい?』
 稜が声のトーンを落として訊,ねた。まるで「そう思ってくれ」とでも言うように。
「馬鹿ね、大丈夫よ」
 そう言って、真樹は笑った。
『とりあえず、真っ先に真樹さんに報告したかっただけだから。じゃあ、また連絡する』
「うん判った、待ってる」
 携帯を耳から離すと、真樹は終話ボタンを押した。ふと顔を上げる。耕治が換気扇の下で壁にもたれ、こちらを見つめていた。
 煙草を吸い終わると、彼は換気扇のスイッチを切って戻って来た。真樹の前に座って、ため息を一つつく。
「……曖昧なままにしておけば、またおまえが戻って来るかも知れないって希望が持てた」
 耕治は真樹の目を見なかった。
「だから俺、連絡もらってもわざと出なかったんだ」
 自嘲するように薄く笑うと、その視線を漂わせる。
「情けないよな」
 ようやく彼は、真樹の顔の上に視線を留めた。真樹はただ首を横に振る。彼の気持ちは、痛いほど判った。
「ごめん。ちゃんとケリつけなきゃ、おまえも俺も、次の一歩が踏み出せなかったんだよな」
 そう言って、耕治は眉を少し上げて見せた。
「……今、幸せか?」
 瞳の奥に揺れる感情を少しも見逃すまいとするかのように、真っ直ぐに真樹を見る。
「ええ」
 少しだけ笑って頷くと、真樹はそう応えた。
「そうか。なら、良かった」
 耕治も頷いて、そして寂しそうに笑った。
「今度あいつと何かあっても、もう戻って来るなよ」
 茶化すように言うと、耕治は立ち上がった。
「わかった」
 そう言って、真樹も立ち上がる。
「俺がどんなにみっともなく頼んでも、だぞ」
「二度とあなたの前では泣かないわ」
 泣くのは稜の前でだけ。
 耕治は耕治なりに、自分を愛してくれたのだと思う。もう二度と彼を惑わすことがないよう……そして、彼もまた幸せになれるようにと、真樹は願った。


 今日の真樹は、珍しく弁当を持って来ていた。昨夜稜と久しぶりに逢って一緒に食事をしたのだが、分量を間違えてしまったらしく、思ったよりも余ってしまったのだ。弁当箱に詰めてみると、それは割と彩りも良く、バランスの良い弁当になった。
 休憩室でお昼を食べ、その流れで付きっ放しになったテレビを観ていると、外でお昼を済ませた吉田が他の女性社員と一緒に入って来た。顔は見たことがあるが、名前までは思い出せない。確か、吉田がそれまで所属していた部署の子だ。どさくさに紛れて名札をちらりと覗いてみると、『高木』と書いてあった。
「先輩、ご一緒してもいいですか?」
 吉田が先に居た真樹に断りを入れる。真樹はどうぞ、と席を詰めた。
 テレビでは今日から始まった新しい情報番組が流れていた。バラエティ形式で出演者もコメディアンやタレントなど多彩な顔ぶれを揃えている。これだけの人を使うとなると、結構な製作費なのではないかと真樹は思った。
『それでは新コーナー!』
『新コーナーって、この番組自体が新番組でしょうが』
 コメディアンの司会がボケとツッコミを交えながら進行して行く。スタジオからどっと笑いが起こった。
『はい、すみません。では気をとり直して次のコーナー、稜くんお願いしまーす』
 突然聞こえて来た名前に、真樹は飛び上がるほど驚いた。今クールから新しい仕事が入るとは聞いていたけれど、それがお昼の、しかも生放送だなんて知らなかった。大学の授業に差し支えないように組まれていると彼は言っていたが、毎週ここで彼の顔を見ることになろうとは、予想すらしていなかった。
『はじめまして、稜です。これからこのコーナーを担当させてもらえる事になりました。よろしくお願いします。さて皆さん、ここが何処だか判りますか?』
 マイクを持って快活に喋る彼は、カラコンを着けてポーズを決めた今までのイメージとはちょっと違っていた。だからと言って、普段の彼とも少し違う。これもまた『演じる』という事なのだろうか。
「あ、この人知ってる。最近よく出てるよね。えっと、名前なんだったっけ」
 吉田を挟んで向こう側に座った高木が、画面を指差した。
「司会の人が今、言ったじゃない。えー……あれ?」
 吉田が答えようとするが、どうやら彼の名前を失念したようだ。真樹はほっと息を吐いた。
 みんながみんな、彼を知っているわけではないのだ。中には知らない人もいる。そんな事が、真樹には少し嬉しかった。別に彼の人気が無い方が良いというのではない。けれども今まで、周りにあまりにも彼の事を知っている人が多すぎて、息苦しさを感じていたのも事実だった。
 稜のコーナーは短くて、すぐに終わってしまった。吉田も高木も、もう彼の事など忘れ、次のコーナーで出てきた店の話題に興じていた。
 外を歩けば、みんなが自分達を見ているような気がしていた。仕事が増えて露出する事が多くなると、稜は前よりももっと入念に変装して出歩くようになった。そんな彼を見ていると、自分が傍にいる事で彼に窮屈な思いをさせているのではないかという罪悪感が生まれて来る。
 この二人が彼の名前を知らなかったという事だけで、真樹は少し救われたような気がしていた。


「見たわよ」
 部屋に入って来た稜を、真樹は意味深な笑いで迎えた。
「今日のお昼、会社で」
 それだけで真樹が何を言おうとしているのか、彼は判ったようだ。ああ、と納得したような顔をする。
「あの時間、見れたの?」
 少し疲れたような顔で、いつもの座椅子に座る。
「会社でお昼休みに。今までとちょっとイメージ違うよね。なんか、新鮮だった」
 そう言ってコーヒーのカップを差し出すと、稜は顎を突き出すようにして頷いた。ツンツンの前髪が、それに合わせて揺れる。
「今度のは、『生きてる稜』っていうのがコンセプトなんだって」
「生きてる……?」
 意味が判らなかったから、真樹は彼の言葉をそのまま返した。
「今までがケースに入った綺麗なビスクドールだとしたら、今度のが人形遊びに使う人形って感じかな。要は高い所に飾っておくだけじゃなくて、触ってもいいよって思わせるような……」
 稜はコーヒーを一口含んだ。
「あ、なんとなく判った」
 真樹もマグカップを口に運んだ。
「俺が感じてる事とか考えてる事なんかを、少しずつ表に出していく期間なんだって」
 今日は仕事が終わった後も、打ち合わせで事務所に行ったらしい。今までずっと缶詰になっていたんだ、と言って、稜は首を左右に傾けて鳴らした。
「それでもイメージを全部崩すわけじゃないから、あんまり突拍子も無い事はするなって、事務所から釘刺されてるんだけどね」
 もう一口コーヒーを啜ると、稜は疲れなどなかったように笑って見せる。それは『神鳥稜』の顔だったから、真樹は切なさに胸が痛くなった。
 この人が好き。稜が好き。
「あなたが、好きよ」
 そう言って、真樹は稜の首に縋りついた。
 それを稜が受け止める。首に回した腕に自分の腕を巻きつけて、離れるなとでも言うようにしっかり両の指を組んだ。
「魔法の呪文だね」
 そうやって固く巻きついたまま、稜がゆらゆらと体を揺らす。こうやって彼に揺らされるのが、真樹は好きだった。
「真樹さんの『好き』は、魔法の呪文。色んな事、乗り越える力になる」
 ゆうら、ゆうら。体が揺れる。
 胸の痛みは、募る愛しさの重みだった。
「ホントはもう一つ、最強の呪文があるんだけどな」
 稜が首を巡らせて、真樹を振り返る。間近に彼の、澄んだ瞳が在った。
「なに?」
 彼の瞳を見つめ、真樹は訊いた。自分がまだ、伝えられていない言葉なのだろうか。彼の目が、ふと細められる。
「……言わない。自分で見つけて、いつか俺にちょうだい」
 悪戯っぽく笑うと、稜はまた体を揺らした。