〜31〜
前よりも、自分の気持ちに素直になることができた。真樹はせめて稜にだけは、自分の心を偽りたくないと思った。愛しいと想うこの気持ちを、全て彼に伝えたい。
「好き、よりも最強の言葉……?」
もうずっと考えているけれど、一向に思い浮かばない。
「あーもう、いい。考えるの
止そう」
真樹は両手で軽く頬を叩くと、目の前の仕事に集中した。
今クールの仕事も順調に進んでいるようだ。稜は相変わらず忙しくて、なかなか二人で逢う時間を作れなかった。けれど、それでも我慢できると真樹は思っていた。逢えない時は携帯に電話をくれたし、何より彼がやりたい仕事をして、生き生きと輝いている事が嬉しかった。
以前のように悩んでいる様子はなくて、ほんの少し寂しい気もした。だが彼は、そうやって『稜』として顔を上げていられるのも、自分が傍にいるからだと言ってくれる。彼に必要とされている事を感じれば、益々愛しいと想う気持ちも募った。
相変わらず事務所からは、プライベートをきちんとするように、と言われているらしい。だから真樹とやり直した事は、絶対に内緒だった。真樹が仕事場に行くことはもちろん、事務所の人間が居る所では、お互いに電話をすることもできなかった。
マネージャーの長野に呼ばれて、稜は事務所に出向いた。この間また新しい仕事が入るかも知れないと聞かされていたから、その事かも知れない。次々と仕事が舞い込むのは嬉しかったが、自由になる時間が減るのは正直辛かった。
最近、真樹に逢っていない。声を聴ける時間も短くなった。
彼女を思い切り、この腕に抱き締めたい。声を聴いて笑い合って……そんな些細な触れ合いにも飢えている自分を感じれば、そろそろへし折れてしまいそうだと思う。
「俺、限界近いかも」
長野を待つ間、ソファに座って稜は目を閉じた。
どれぐらいそうしていたのだろう。少しウトウトしてしまったようだ。
「おっ、稜、おまたせ。悪かったね、遅れちゃって」
男のような物言いに目を開ければ、小柄な体があちこちから資料を引っ張り出しているところだった。今日も長野は薄い色のパンツスーツを綺麗に着こなしている。膨張色である薄い色目をここまで上手に着こなせるのは、彼女の元のスタイルが良いからなのだと稜は思った。
「今度の仕事なんだけど……稜、タッパいくつ?」
そう言うと、長野は稜の頭からつま先までをザッと眺め回す。
「プロフに載ってますよ」
忙しそうに動き回る長野に顔を向け、稜はソファにきちんと座り直した。
「あれから変わってない?」
「この間測ったばっかじゃないですか」
稜の所属するバーンズ・アクトでは、月に一度身体測定がある。そうしてサイズに変化があれば、プロフィールを書き換えることになっていた。
「……だよね。じゃあやっぱり、向こうがサバ読んでるのか」
長野がぶつぶつと独り言を言うが、稜にはさっぱり話が見えて来ない。
「あの、俺の身長がどうかしたんですか?」
控え目に訊いてみる。長野が応える前に突然事務所のドアが開き、社長が入って来た。
「ごめんなさいね、遅くなっちゃった。あら、長野さんも今来たところ?」
車のキーをバッグにしまいながら、社長は先にいた二人の顔を交互に眺めた。
「はい、前のが長引いちゃって……この条件、大丈夫ですよね」
そう言って、長野が立ったまま資料の一枚を社長に見せる。ざっと目を通すと、社長は大きく二回頷いた。
「ああこれ。多分……行けるでしょう。あちらがそう指定して来たんだから」
「じゃあ、進めますね」
安心したように言うと、長野は資料をテーブルに並べ始める。稜の前にも一部置いた。長野が稜の隣に、そしてその向かいに社長が座る。
「あなたのドラマ出演が決まったの。一月クールのゴールデンに抜擢よ」
社長が唐突に、挑むような視線を寄越した。
「……え」
突然のことに、稜は頭の中が真っ白になってしまった。そんな様子には構わず、社長は続ける。
「女の子が主人公の恋愛物で、全十一回の放送。残念ながら正式な相手役ではないけど、準相手役みたいなものなの。だから相手役を
演る俳優の身長と釣り合えば……って条件だったんだけど」
長野に目を向けて、意味深に眉根を上げた。
「向こうが出してきたプロフがこれだけだから」
社長の後を引き取って、長野は相手役に決まった俳優のプロフィールを開く。身長が記されている部分をパチンと指で弾くと、白い歯を見せて笑った。
「この五センチ以内なら稜で決定。だけど、どう見てもアレはこんなに無いなー」
ひとつ大きく頷くと、長野は背もたれに背を預け、腕組みをする。稜は膝を乗り出して相手役のプロフを覗き込むと、少し考えてから彼女を振り返った。
「じゃあ駄目じゃないじゃないですか。俺、この数字でギリギリですよ」
「いいのよ、プロフ誤魔化した向こうが悪いんだから。それに決まっちゃえば、後は小道具やカメラワークでどうにかなるものよ」
長野の代わりに社長が応えた。
「ディレクターもできれば稜を使ってみたい、っておっしゃってくれたの。だからよっぽど大丈夫だと思う」
そう言うと、社長は背筋を伸ばした。
「おめでとう。これであなたもドラマデビューね」
「忙しくなるよ」
長野までが居住まいを正す。大変な節目なのだという実感が、ようやく稜にも伝わって来た。
「ところで……」
先ほどまでとは一転して、社長が重々しい声で切り出す。
「あなたは今が一番大切な時期なの。あなた今、特別な人は居ないわね?」
特別な人とは、付き合っている人の事を言っているのだろう。咄嗟に真樹の顔が頭に浮かんだ。
「いません」
悟られませんように、と願いながら、表情も変えずに稜は応えた。
「そう。なら良いわ。前にも言ったけど、そういったスキャンダルは一切禁止。これから撮影が終わるまで、あなたには長野か、彼女が無理な時は他の人間が付くから、そのつもりでいて」
社長の様子では、何も知られてはいないようだ。でもこれから先、真樹の存在を知られてしまったなら……。
「あなたのスキャンダルは、あなた一人だけではなくて、ドラマ全体のイメージをも左右するのよ。当然、視聴率にも影響する。プロならそこをしっかりわきまえてね。もしスキャンダルの火種があるのなら、事務所としては全力で排除せざるを得ない」
社長の言葉がずっしりと重みを伴って稜の心に落ちてくる。急に怖くなった。覗きこまれたままの顔を、どうしても上げることができない。今自分は、どんな顔をしているのだろうか。
「……わかりました」
稜はそれでも何とか視線を上げ、そう応えた。
さっきから稜の携帯を呼び出しているのに、電波が届かないようだ。何度目かの無機質な応答メッセージを聴いたあと、真樹はため息をついて終話ボタンを押した。
「おかしいな」
今日は事務所で打ち合わせだと言っていた。それが終わったら電話する、と彼は言っていたのに、夜になっても掛かって来ない。もうすぐ日付が変わる。さすがにこの時間まで打ち合わせという事はないだろう。何かあったのかと心配になって電話をしてみたけれど、さっきからこの調子だ。
「電源入れるの、忘れてるのかな」
仕事で電源を切って、そのまま忘れてしまったのかも知れない。真樹は無理やり、そう自分を納得させることにした。
携帯をバッグにしまうと、階段を上がる。真樹の部屋はメゾネット・タイプになっていて、二階に寝室があった。寝ている間に何かあるといけないから、いつもバッグは寝室まで持って上がる。ベッドに入って、本を開いた。いつもなら話が盛り上がる所まで行かずにすぐ眠ってしまうのに、今日はなかなか眠気が訪れてくれなかった。
「そろそろ寝なくちゃね」
いい加減にしないと、明日の仕事に差し支える。真樹は本をしまうと、枕元のライトを消した。灯りに慣れた目は、闇の中に色々な模様を描き出す。それでも次第に目が慣れてくると、壁に掛けたカレンダーや、カーテンの模様がうっすらと見えた。
突然、携帯の着メロが鳴り始めた。しんと静まり返った部屋の中で、それはやけに大きく響く。真樹は慌てて飛び起きると、通話状態にした。
「……はい」
押さえた声で応じた。
『真樹さん』
そう自分の名を呼ぶのは、聴きたくて仕方がなかった稜の声。真樹は何故だか泣きたいような気持ちになる。
『遅くなってごめん』
暗くて視界が利かないせいか、耳に神経が集中するようだ。稜の声は、とても苦しそうに聞こえた。
「何かあったの?」
はっきりとは判らなかったが、何か嫌な予感がした。
『俺、ドラマに出るんだって。準相手役みたいな感じで、結構重要な役どころみたい』
稜の言い方は、どこか他人事のようだ。
「良かったわね。凄いじゃないの」
大きな仕事を前にして、プレッシャーを感じているのだろうか。彼の気持ちを引き立てようと、真樹は努めて明るく言った。
『それで……特別な人がいるなら別れろって言われた』
それは今までにもさんざん言われていた事だった。けれど、それでも二人一緒にいようと誓ったはずだ。
『撮影が終わるまで、事務所の人間が、ずっと付く事になったんだ。今日も……マンションまで一緒に来て、今帰ってった』
電話の向こうで、稜が苦しそうに息を吐いた。
『俺の問題が、ドラマ全体のイメージにも影響するって……。それってさ、他の出演者にも迷惑が掛かるって事だよね。もう二人だけの問題じゃない。もし俺にスキャンダルの火種があるなら、事務所は全力で排除するって……そう言われた』
何かを叩くような大きな音がして、彼が短く呻いた。
『真樹さんの事、知られてしまったらきっと、もう二度と逢えなくなるから……だから……』
彼の言葉が、体中を突き刺す。次の言葉が容易に想像できて、真樹は自分の喉がカラカラになっているのに気付いた。
『しばらく逢わない方がいいかも知れない。連絡も……撮影が夜中になる事も多いし、電話してる所を誰かに聞かれるかも知れないから……あなたからは電話して来ないで』
いつかは、こんな日が来るのだろうと思っていた。彼への想いを意識しない内にも、漠然と感じていたはずだ。メディアの向こう側に帰ってしまえばもう、彼は自分だけのものではなくなってしまうのだと。
真樹は自分の頬が濡れているのに気付いた。
拒絶の言葉が痛いものだとは知っていたけれど、体中が引き裂かれるようだ。痛くて辛くて、息の仕方さえ忘れてしまいそうになる。
真樹は暗闇の中で目を瞑った。瞼の裏に、愛しい人の面影がよみがえる。真樹の中の稜は笑っていた。
「ねえ……」
カラカラになった喉で、無理やり声を絞り出した。
「あなたが、好きよ」
『俺も……。俺も、あなたが好き』
魔法の呪文を。二人が強くなれる言葉を。
今はまだ見つけられないけれど、二人一緒に居られるための方法は必ずあるはずだ。
『俺、負けないから』
稜の言葉に、真樹は嗚咽を堪えながら頷いた。
よく晴れた休日だというのに、真樹の心は塞いでいた。朝から何杯目かのコーヒーを飲みながら、付きっ放しのテレビの画面を観るともなしに眺めていた。どこからか子供の遊ぶ声が聞こえて来る。ここに越して来た頃は時々赤ちゃんの泣き声が聞こえていたから、声の主はその子かも知れなかった。
稜とはずっと逢えないままだ。あれからしばらくして撮影に入ったらしい。シーンに合わせて撮影時間も不規則らしく、彼からの連絡は二、三度あったきりだった。たまたま観たワイドショーで撮影の様子がレポートされていて、出演者は忙しいなりに充実していると語っていた。先週ようやくその第一回目が放送され、主役の女優と相手役の俳優の人気もあって結構な視聴率を稼いだらしい。
見ればきっと、彼への想いが溢れてしまう。逢いたいと、願ってしまう。真樹は、どうしてもその番組を観ることはできなかった。
テレビの番組が一段落し、静かな曲をテーマに使ったコマーシャルが流れる。
『ゴン、ゴン、ゴン……』
その時、玄関の方から変な音がするのに気付いた。テレビのボリュームを絞ってみると、それはドアを叩く音のように聞こえる。コーヒーのカップをテーブルの上に置くと、真樹はリビングを出て玄関に向かった。
ドアに顔を寄せる。
「……どなた?」
控え目に訊ねてみた。と同時に、ドアの下の方を蹴る音が、ゴンッ、と一回鳴った。
「遅っせーよ。早く開けて」
情けない感じが混ざっているが、これは
征人の声だ。真樹は不審に思いながら、鍵を二つ、開錠する。
「何よ、インターフォン押せばいいじゃない」
そう言いながらドアを開けると、荷物を両手いっぱいに抱えた、多分弟だと思われる人が立っていた。
「遅せぇ」
恨みがましい声は、荷物の向こう側から聞こえて来た。
「何、これ」
真樹は呆れながらも、そのうち上の方のいくつかを引き取った。自分に似ているとよく言われる、弟の顔が現れる。
「土産」
ぶっきらぼうに言うと、案内も請わずに征人は奥へ入って行った。
「あー、疲れた」
リビングに、持参して来た土産の数々をドサリと置く。こちらが何も言わないのに、征人は座椅子に座り込んだ。
「まだ座っていいなんて言ってない」
遅れてリビングに入った真樹は、すっかりくつろいだ様子の弟に抗議した。
「よ、久しぶり」
姉の顔を見ると、征人はまるで自分がこの部屋の主であるかのような顔をして、片手を挙げて見せた。
「コーヒーは? 出ないの?」
テーブルの上のカップを覗き込み、催促する。真樹は諦めのため息をつくと、キッチンからヤツ用のコーヒーを持って来てやった。テーブルの上にカップを置く。
「あ!」
突然征人が素っ頓狂な声を上げた。
「こっち、イイ? それともこれ、誰かさん専用?」
今更気付いたのか、自分の座っている座椅子の背を軽く叩いた。
真樹はまたため息をついた。ヤツの無頓着ぶりには、もう慣れっこだ。それでも久しぶりに見る征人は、すっかり男らしくなったようだ。あとはこれに細やかな気遣いというものが備われば、そこそこイケるのではないかと思った。
「いいよ、気にしなくても」
そう言うと、真樹は自分も向かいの座椅子に座った。征人がおもむろに自分の持って来た土産の山を探り始める。
「姉ちゃんチが旅行に行ってさ、その土産。はい、これが煎餅で、こっちが饅頭、クッキーもあるな。菓子博覧会かよ。それから……何だこれ、漬物? ……っんだよ、確か自分が漬けたやつも寄越したぞ……あ、これ。こっちの袋のヤツ。それから母さんの佃煮と、糠漬けと……うえぇ、漬物ばっかだな。どうりで重かったはずだ」
食べ終わらない内に酸っぱくなるぞ、と笑う。一通り説明し終えると、征人は土産の山を脇に片付けた。
「そういや、アイツ最近、よく出てんのな」
そう言って、コーヒーを一口
啜った。
「あれからどうよ? 上手く行ってんのか?」
熱いのか、ズズ……と音を立てて啜る。そう言えば昔からコイツは猫舌だったな……と、どうでも良い事を真樹は思い出した。
「うん……最近は、逢ってない」
カップを持ち上げると、自分も一口含んだ。征人に出したものとは違い、こちらはもうすっかり冷めてしまっていた。
「ふうん、そうなんだ」
また征人が一口啜る。黙り込んで、何かを考えているようだった。
「アイツ、人気あるもんな。仕事、大変そうだろ」
そう言って、カップをテーブルに戻した。
テレビは大して興味もない内容の番組をやっている。真樹はリモコンのボタンを押した。声が消えて、画面が暗くなる。窓の外から響く子供の声が、急に大きくなったように感じた。
「連絡もとってないから、よく判かんない」
真樹は冷めたカップを両手で包んだ。こうやって温めていれば、冷めたコーヒーもいつか温かくなるのだろうか。連絡さえも満足にとれない彼が、本当にまた自分のところに戻って来てくれる日が来るのだろうか。
「事務所から何か言われたみたい。それに仕事、忙しいし……」
手に包んだままのカップを見つめ、真樹は言った。いつも稜がそうしてくれていたように、体を少し揺らしてみる。だが自分一人で揺れていても、ちっとも護られているような気持ちにはなれなかった。かえって足元がぐらつき、
心許なくなる。
「好きってだけじゃ……この気持ちだけじゃ、一緒にいられないのかな。私達、そんなにいけない事してるのかな。自分の気持ち、正直に認めて、やっと彼のこと好きだって言えたのに。一緒にいるって……それだけの事も、許してもらえないのかな」
自分の動きに翻弄されてゆらゆら揺れるコーヒーを見つめていると、真樹の口からポツリと弱気が漏れた。
征人がこちらを見ているのを感じる。けれども真樹は、顔を上げられなかった。今誰かの顔を見れば、泣いてしまいそうだった。
「『商品』は、綺麗じゃないと売れないからな」
視線を上げない真樹を気にする様子もなく、征人が言った。
「プライベートがゴタゴタしてると、それだけで商品価値が下がる世界だから。そんな世界にいるやつだって知ってて、それでも好きになったんだろ?」
征人の言葉に、真樹は顔を上げた。じっとこちらを見る瞳は、いつの間にか小さかった弟のものではなくなっている。
「頑張れよ。多分、真樹だけじゃない。アイツも今、おまえと同じ想いをしてるはずだからさ」
そう言って、征人は眉根を上げて見せた。
真樹はカップをテーブルの上に置いた。
――彼も同じ想いを……――
中のコーヒーがくるりと回って波紋を呼ぶ。
『俺、負けないから』
稜の言葉が胸によみがえる。
「……そうだね」
自分も負けないように。彼を信じていれば、できるはずだ。
『だけどそれでも傍にいて。決して離れないで。俺の気持ちを疑わないで。あなたが俺を信じていてくれれば、きっと俺はあなたを護れるから』
心の底まで射抜くような瞳で、彼はこの言葉をくれたのだった。
「コーヒー、おかわりは?」
勢いをつけて立ち上がると、征人に向けて手を差し出す。ヤツが寄越したカップを受け取り、真樹は信じる事の大切さをもう一度思い出した。