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あなたが、好き。


〜32〜


 ドラマは大当たりだった。主要キャラを演じたのがもともと人気のある女優や俳優だった事もあったが、その準相手役として抜擢された稜の演技も評価されたのだ。本格的なドラマに出演するのは初めてだったのに、とてもそうは思えない演技力だと、どのメディアも彼を持ち上げた。母親がそういう世界にいた人だからと、もっともらしい理由をつけるメディアもあったし、今までのコマーシャル出演などの経歴を元に、彼が自分でその感性を磨いたのだと反論するメディアもあった。
 最終回の放送もまだなのに、早くも続編は無いのかという問い合わせが殺到した。それを受けて、製作サイドも検討を始めたらしい。
 ドラマの放送が終わる前に、水面下ではクランクアップを迎えた。事務所の目があるからまだ逢うわけには行かなかったが、不規則で継続的なドラマの撮影がない分、連絡だけはとり易くなった。


 携帯が鳴る。稜の着メロだ。もう何ヶ月も話をしていない。真樹は車で外注を回っていたが、すぐさま道路わきに停車した。
『真樹さん、ひさしぶり』
 着メロで判ってはいたけれど、稜の声を聞けばホッとする。スタジオではないらしい。車の音がしているから外なのだとは思うけれど、真樹にはそれが何処なのか、見当もつかなかった。
「今、大丈夫なの? 移動中?」
 前にも一度、ロケに向かう途中で電話をくれた事があった。高速道路のパーキングからで、話の内容が周りに聞こえない代わりに、電話の声も聞き取りづらかった。
『仕事じゃないけどね』
 稜が応えた。
『ドラマ、観てくれた?』
 彼の声に、真樹はドキリとした。逢いたくて、苦しくて、どうしても彼の出演するドラマを観ることができなかった。
「ごめんなさい。時間が合わなくて、ずっと……」
 当たり障りの無い理由をつけ、何でも無い事のようにサラリと流すふりをした。
『なんだ、真樹さんが観てくれてると思って頑張ったのに』
 そう言われて初めて、ドラマが放送されるようになってから一度も彼と話をしていない事に気付いた。
――遠いのね――
 今頃こんな話をしているなんて。もうすぐ最終回を迎えるドラマが放送されている期間中ずっと、話をする事さえできなかった。
 彼がどんなに自分の事を想って演じていたのだとしても、今更真樹には届かない。そんな些細な話をする事さえ、自分達には許されていなかったのだ。
 真樹は泣きたい気持ちになった。過ぎて行った時間を取り戻せないのと同じように、零れ落ちた気持ちはもう取り戻せない。
『相手の女優さんを真樹さんだと思って()ったんだ。台詞にも凄く共感できるものがあって』
 ――女優。
「そう……なの」
 真樹は自分の気持ちが益々落ち込んで行くのを感じた。
 今更、気付いた。あれは恋愛をテーマにしたドラマなのだと、いつも買うテレビ雑誌に掲載されているのを見た。稜には相手になる女優がいて、台詞の中には愛を語るものもあったのだろう。
 コマーシャルやバラエティと違って、ドラマでは演技をする。相手がいて、日常を演じる。その中には真樹が聞きたくない台詞も含まれているかも知れない。ただでさえ逢う事を禁じられた二人だ。自分の傍に居ないのに何故この人と……と思えば、余計に苦しくなる。
「嫌……」
 仕事だからと割り切って観られるほど、今の自分達の距離は近くなかった。
『何? 聞こえない。もう一度言って?』
 稜が携帯を強く耳に押し付けたようだ。寄越される彼の声も、少し大きくなる。
「観なくてよかった。あなたが出てるドラマなんて、観たくない」
 涙声にならないうちに。真樹はそれだけを言うと、終話ボタンを押した。
 想いが溢れてしまった。もう元には戻せない。真樹は車を停めたまま、思い切り泣いた。


 気持ちの中ではどんなに頑張ろうと思っていても、寂しさは感じる。稜を信じていても、気持ちが動く事は止められない。弾けた感情は、鮮やかな飛沫となって真樹の心に染みを作った。
 帰社してから、時間いっぱいまで残業をした。退社後は途中のショッピングモールで閉店まで時間を潰して、何処にも行く所が無くなってからようやく家路についた。車の中で聴く流行の曲も、どこか空々しかった。ノリの良いリズムだけが、真樹の心を切り刻んで行く。
 アパートが見えた。裏手に回って駐車場に車を停め、玄関まで歩いて行った。鍵を二つ。考えなくても体が動く。ドアを開けると、中は真っ暗だった。
 玄関先に立ち、ドアを開けたまま暗い家の中を眺めてみる。
「真っ暗。なーんにも、無い」
 可笑しくなって、真樹は、ははは、と笑った。まるで先の見えない、自分達のようだと思った。
「何がおかしいの?」
 すぐ後ろで声がした。心臓が縮み上がる思いで振り向けば、真樹の背中にぴったり張り付くようにして稜が立っていた。
「……入ろう」
 彼に背中を押されるまま、真樹はあやつり人形のように家に入った。
 ドアが閉まると、強い力で抱き締められる。そのままもつれ込むようにして、リビングに連れて来られた。
「何があったの? 真樹さんがあんな事言うなんて……」
 抱き締める彼の腕は冷たい。ずっと外で待っていたのだろうか。
「……本物?」
 真樹は両手で彼の頬を挟んだ。今ここにいるのが稜本人だと、確信できなかった。
「忙しいって……逢っちゃ駄目だって……だから……」
 続く言葉は、稜の唇で遮られた。腕や体は冷たいのに、彼の唇だけは温かい。何度も何度もついばまれて、真樹はやっと今自分が何をしているのか理解できた。
「……本物。俺の他に、誰があなたにこんな事しても良いと思ってるの?」
 抱き締めた腕の力はそのままで、稜が真樹の瞳を覗き込んだ。
「真樹さんちっとも帰って来ないから、ガスボンベのとこに隠れてた」
 だからこんなに冷たい体をしているのかと、言葉も無いままに考える。
「俺の出るドラマ観たくないって、どういう事? 俺、何かした?」
 寄越される視線が、険しくなる。真樹は自分の中の醜い感情を見透かされたような気がした。
「……何も。私が悪いだけなの」
 そう言って、顔を背けた。彼の目を見ていると、どんどん自分が惨めになって行くような気がする。
 稜がため息をついた。
「今すれ違いになったら絶対後悔するって思って、時間作ってここまで来た。まだ打ち合わせが残ってて、もう行かなきゃいけないから……だから、意地張るの()そう? 大切な事がちゃんと伝わらないと、限られた時間の中で、俺達は駄目になる」
 真剣な声で言われるから、真樹はまた彼に視線を戻した。感情が解けて行く。
 目頭が熱くなった。
「寂しかった。逢いたかった。だけど逢えなくて……あなたが傍にいれば、何でも受け入れることができる。でも、あなたは居ないんだもの。私の傍にいないのに、どうして他の人と一緒にいるのって思ったら……」
 声が詰まる。
「ドラマでも嫌。仕事でも、嫌なの。こんな風に思う自分も、嫌っ……!」
 涙が溢れた。我慢した分だけ、言えなかった言葉の分だけ、それは涙になって零れ落ちて行く。
 稜が涙を(すく)い取るように、唇を寄せた。押し込めていた感情を、全て彼が受け取ってくれたような気がした。
「ドラマを()ったのは、『稜』。女優さんに愛してるって言ったのも、『稜』だよ」
 涙に濡れた唇のまま、稜が真樹のそれに触れる。少しだけしょっぱい味は、彼を信じ切れなかった罪の味だ。
「揺れないで……惑わないで。俺を疑わないで、信じ続けて。俺は……『神鳥稜』は、あなただけのものだから」
 一層強く抱き締められる。彼の腕の中にいるという実感が、ようやく真樹に訪れた。


 ドラマは最終回を迎えた。右肩上がりに増えていった視聴率は、最終回で最高値に達した。一月から始まって、約三ヶ月。世間では卒業シーズンを迎えていた。ニュースでは桜前線の情報が聞かれるようになり、南から徐々に上がって来た前線がこの辺りを通過したと聞いたのは、ほんの数日前の事だった。
 もう少しで三月も終わる。ちらほらと咲き始めた桜が、今はちょうど三分咲きぐらいになっていた。
「桜、咲いちゃった……」
 今日も隣に稜はいない。桜の下に立ち、真樹はバッグから携帯を取り出した。開くとそこに、去年撮った桜の待ち受け画面が表示された。
 この頃――この写真を撮った頃は、本当に稜を失ってしまっていた。真樹の方から酷い言葉で別れを切り出し、もう二度と彼と逢うことはできないと思っていた。
 片野の結婚を見て、自分もいつか稜以外の人と共に生きていくのだと覚悟した。
「今は、違うよね」
 去年の桜に問い掛ける。まだ八分咲きの頃に撮った桜。一番綺麗に咲き誇った一枝を選び、撮ったものだった。
「逢えないのは心が離れたからじゃない」
 また彼からの連絡は無くなってしまった。慎重にしなければいけないと思うから、自分から彼に連絡をとることは躊躇われる。二人が二人でいるために。今は辛いけれど、乗り越えればきっと道は開ける。
「この桜は、去年の桜とは違うんだもの」
 カメラの機能を呼び出し、写真を撮った。今年もやはり、一番綺麗な一枝を選んで。
 ボタンを押して操作し、今年の桜を待ち受けに設定した。それはまだ少しの花弁も散らない、これから咲き行く華。これからの二人の未来を、真樹はこの写真に託した。


 一度注目されれば、しばらくは何をやっても取り上げられる。休業中にも感じていた事が、今度はその何十倍にもなって押し寄せていた。
 ドラマが当たった事で、稜の仕事も今までとは桁違いに忙しくなっていた。テレビに出る仕事だけでなく、相変わらずコマーシャルやポスター、雑誌など、それまでの仕事も舞い込んで来る。そしてその量も確実に増えていた。
 事務所の中でも、モデル部門からタレント部門に移籍した。相変わらず長野がマネージャーを務めてくれていたが、仕事の内容によってはもう一人、サブのマネージャーが付くこともあった。事務所の中でも稜は、確実に稼ぐことのできる大切な人材になっていた。
 益々真樹に逢えない日々が続いていた。仕事が成功することは嬉しかったが、このままでは本当に自分達は二度と逢えないのではないかと錯覚することも一度や二度ではなかった。
 スケジュールは詰まっているし、自分の持っている時間も無限ではない。だんだんと睡眠時間が削られて行く。寝不足のよく働かない頭で考えていると、真樹との事は夢の中の出来事だったのではないかとも思えた。
 それほど稜は、真樹に逢えていなかったのだ。
 もう戦わなくてもいいと、誰かに言ってもらいたかった。強くなって戦わなくても、真樹と二人、弱いまま生きて行きたいと思った。彼女が傍にいないのに、どうして戦えるのだろうかと思った。
 信じて欲しいと言っておきながら、自分自身はもうへし折れる寸前だと稜は感じていた。


 また彼は、新しい仕事に入ったようだ。単発ものだが長時間で、女の子が主役のドラマだという。その相手役で出演することが決まったのだと、やっと繋がった電話で聞かされた。番組改編の時期に特番として放送するものなのだという。今度はほとんどがスタジオ収録だから、ロケに行かなくても良い分、少しは楽ができるとも話していた。
 真樹は溜まった家事を終え、空気を入れ替えるために窓を開けた。平日だから、子供の遊ぶ声は聞こえない。
 今日は仕事を休んでしまった。朝起きた時にどうにも体が重くて、ベッドから抜け出すことができなかった。有給休暇も余っていて、毎年何日かは捨てている状態だったので、今日はのんびりしようと休みをとったのだった。
 昼になる頃には少し体調も戻って来て、動いても苦にならなくなった。家事を終えてしまうと、これといってすることもなくなってしまった。
 たまたま観たワイドショーで、スタジオ見学について特集を組んでいた。カメラが中の様子を映し出し、出番を終えた出演者を呼んではインタビューしている。一つの建物の中で、数本の番組が撮られていた。
「……スタジオから中継でした」
 レポーターが口にしたスタジオ名が、真樹の耳に残った。それは稜から聞いていた名前だ。今ちょうど撮っているんだな、と思えば、背中がムズムズするような感覚を覚えた。
 あそこに行けば……。
 電車に乗って行けば、行けない所ではない。交通の便の良いところに、そのスタジオは有った。
 ついこの間、桜を見て決意を新たにしたはずだった。逢えなくても信じて待っている――と。
 けれども彼にはどんどん仕事が入って来ている。その分、彼の生きる限られた時間の中で、自分の占める割合がどんどん削られて行くような気がしていた。
 気が付くと真樹は着替えをし、バッグを持って家を飛び出していた。


 目的のスタジオまでは電車を二本乗り継がなければならない。けれども降りた駅のすぐ近くにあるので、レポーターが示した順路通りに行けば迷うことはなかった。
 灰色の建物は、装飾性の少ない、実用に徹したものだった。正面玄関には守衛さんがいて、入る人をいちいちチェックしている。許可証か何かが無いと、入れないしくみになっているのかも知れなかった。
――そんな事にも気付かずに来てしまうなんて――
 真樹はそんな自分を哂った。
 逢いたい。一目だけでもいいから、稜に逢いたい。
 正面玄関を逸れて、建物の壁に沿って歩き出した。横側はまだ人の出入りもあって賑わっていたが、裏に回ると途端に寂しくなった。搬入とおぼしき車が一台停まっているだけで、あとはいくつかの小さな出入り口があるだけだった。
 けれどもその中のひとつの出入り口付近に、女の子達が大勢集まっている。誰もが若く、今風に着飾っていた。
――これが出待ちっていうやつなのかな――
 誰のファンかはわからないが、彼女達がタレント目当てでそこに居ることは、一目瞭然だった。
 真樹は、毎日稜が通うスタジオをこの目に焼き付けようと思った。一回りして全ての外観を見てから帰ろうと思った。そのためには女の子達の傍を通らなければならない。他を圧倒するような若いパワーに少し気後れしながら、真樹はそちらに近づいて行った。
「ねえー、まだぁ? 疲れたー」
「ダラダラしないで待ってなよ。ちゃんとしてないと嫌われるからさ」
「そうそう、稜って案外そういうとこ厳しいよね」
 彼女達の会話が、風に乗って聞こえて来た。その中に出てきた名前に、真樹の足が止まる。
――稜……?――
 それならこの子達は、稜を待っているのだろうか。通り過ぎるフリをして、離れた場所から真樹は様子を窺った。今風のお洒落をして、精一杯着飾っている。自分を少しでも可愛く見せようと、工夫を凝らしている。真樹には彼女達のその気持ちが、いじらしいと思えた。
――好きな人には、綺麗な自分を見てもらいたいものね――
 それが自分の逢えない恋人に対してでも……今の真樹には、彼女達の気持ちが痛いほどよく判った。
 三十分も待っただろうか。突然出入り口の辺りが騒がしくなった。模様ガラスの向こうに影が映ったかと思うと、ドアが前触れもなく開いた。途端に女の子達の間から黄色い歓声が沸き上がる。
「キャーッ!」
「稜ーっ! こっち向いてー!」
 彼女達の視線の向けられた先には、稜の姿があった。いつの間にそこに来ていたものか、停まっていた黒い車に向かって歩いて行く。傍についている小柄なスーツ姿の女の人は、彼のマネージャーなのだろうか。
「いやー、行かないでー!」
「サイン! サインちょうだい!」
 女の子達は、手に何かを持って、必死に彼を追いかけて行く。スーツの女の人と警備員服を着た男の人が、彼女達から護るように稜を取り囲んで移動していた。
 真樹はふらふらとその一団に近づいて行った。彼女達の声が耳に痛いはずなのに、何故だかとても静かに感じた。視線の先には稜がいる。彼の姿だけしか見えていなかった。
 ドン、と鈍い衝撃があった。思う間もなく、真樹は道路に手をついて転んでしまった。興奮した女の子の一人が、真樹にぶつかったらしい。
「どいてよ、おばさん」
 濃い化粧をしたきつい目に睨みつけられたけれど、真樹は道路に倒れたまま、何も言わずにただ彼を見ていた。
 稜の視線が漂うように移動し、こちらに向けられた。真樹に気付いたのか、そのままずっとこちらを見ている。真樹も彼を見つめていた。
 どのくらいそうしていたのだろう。時間にしたら、ほんの数秒だったのかも知れない。
 二人の間の見えない糸を断ち切るように、スーツ姿の女の人が稜を車の後部座席へと押し込んだ。すぐさまその人も彼に続く。警備員がドアを閉めた。光の反射の加減で、外からは車の中の様子が見えなくなった。
「キャーッ、稜ーっ!」
 車がゆっくりと走り出すと、女の子達はそれに従って移動した。車は徐々にスピードを上げる。数人が、それを追って走り出した。真樹はふらりと立ち上がった。
「下がって! 危ないですから!」
 警備員が注意をしたけれど、彼女達は止まろうとはしなかった。真樹もその後を追いかける。
「稜ー!」
 すぐ前を走る女の子が、ひときわ大きな声を上げた。
「……りょう」
 真樹の喉が、勝手にその名を呼んだ。
「稜……」
 車がスピードを上げた。
「稜、稜ーっ!」
 真樹は必死に名前を呼んだ。車はもう追いつけない程スピードを上げる。真樹のパンプスが脱げた。勢いでつんのめって、アスファルトの上に体が投げ出される。顔を上げた時にはもう、車は最初の角を曲がるところだった。


――真樹さんがいた――
 いつもの出待ちの女の子達の後ろに、彼女の顔が見えた。転んでしまったらしく、道路に座り込んでいた。
 愛しい人。逢いたくて堪らなかった人。
 ずっと見ていたかったけれど、長野が自分を車に押し込めた。車の中からも振り返り、リアウインドウ越しに彼女を見ていた。何か気になる事でも、と訊かれたけれど、何とか誤魔化した。
 走り出した車を、彼女は追いかけて来た。追いかけながら、叫んでいた。
 ――稜、と。
 彼女の唇が、自分の名前を呼んだ。
 彼女の唇が動く度、その声は聞こえないはずなのに、何度も何度も名前を呼ばれているのが判った。
 彼女の瞳は、『稜』を見ているのではない。彼女の唇は、『稜』を呼んでいるのではない。
 車は角を曲がり、真樹の姿は見えなくなった。
――真樹さんだけは、俺を……『神鳥稜』を呼んでくれた――
 稜は強く目を瞑った。
――最強の、魔法の呪文――
 瞼を開く。自分の行く先を見据え、稜は覚悟を決めなければならない時が来た事を知った。