〜33〜
この頃疲れているみたいだ、と社長に言われた。
当然だ。寝る暇を削って仕事をこなしているのだから。今は大学は春休みだけれど、忙しくて遅れ気味だったからその分勉強しなければいけないし、レッスンもしなくてはいけない。家に帰れば台詞を覚えなければならなかったし、自分の自由になる時間なんて、ほとんど無かった。
長野の声がしていた。いつもの事務所のソファに座って、話をしている。どこか呆けた頭で、今打ち合わせ中なのだと思い出した。
「……稜、疲れてるね」
長野が話を切り、こちらを窺う。覗き込まれて、自分がほんの一瞬眠ってしまったようだと理解した。
「あ、いえ。大丈夫です」
稜は手元の資料から顔を上げた。焦点も合わない状態で眺めていたそれには、びっしりと文字が並んでいる。説明を受けている途中だった。
本当は今すぐに眠ってしまいたかったけれど、自分のために時間を割いてくれているスタッフに迷惑は掛けられないと思った。
「ほんとに? じゃあ進めるよ。今後の活動方針についてだけど……」
長野がまた話し出す。稜は大きく息を吸って、肺の中の空気を入れ替えた。
「今までは『カッコいい稜』を前面に押し出して行ったけど、それが通じるのは若い間だけだ。長い目で見たら、もう少し違った方面からのアプローチも必要だと思う」
そのための準備をそろそろ始めておいても損は無い……と長野は言った。
「どう思う? できそう?」
社長が稜に水を向けた。
「一発屋で終わっても良いようなタレントだったら、注目されている内にどんどんそっち方面で売って行くんだけど、あなたの場合はね」
母親との関係もあって、軽率には扱えないらしい。そのために、まだそんなに仕事のない内から色々な習い事にも通わせてもらっていた。テレビの仕事に必要だからと、復帰してからはまた、特別なレッスンもこなしている。
長野が資料のページを一枚はねた。
「次のページに今後のスケジュールを載せといた。まだ本決まりじゃないやつも込みだけどね。綺麗なだけの『商品』は、いつか飽きられるから、もっと違う部分も出さなくちゃいけない。もしくは、綺麗なだけっていう評判を上回る実力や話題性を身につけるとかね。それで、ここの辺りのスケジュールを調整すると……」
少し仕事をセーブして、本格的に違った方面のレッスンに通う事も検討しようかという話になった。
水を含んだように、体が重い。稜は家に帰るとすぐ自分の部屋へ直行し、ベッドに倒れこんだ。廊下の電気が点いていなかったから、母親はまだ仕事先なのだろう。ベッドに横になったものの、なかなか寝付けない。体は疲れ切っているのに、やけに頭の一点が冴えてしまったみたいだった。
――話題……か――
新たな展開に持っていくという作戦も話題なら、ゴシップも話題だ。
この頃、時々後をつけられているのに気付く。危険を感じていないからまだ事務所には言っていないが、あれはおそらく写真週刊誌に写真を売り込もうというフリーのカメラマンだ。最近話題になっている稜のプライベートを撮れば、結構な額を手にすることができるのだろう。パパラッチとも呼ばれていて、撮られるタレント側はあまり彼らの事を快く思っていない。
そうやって提供された物も『話題』だ。一時的ではあっても、注目を集めることができる。
自分のプライベートが話題になるということは、今までならば疎ましいばかりだった。いつも見られているような感覚に、うんざりしていたのも事実だ。できればそういった輩とも、係わり合いになりたくないと思っていた。
――だけど――
わざと話題になるネタをこちらから提供したら、どうなるだろうか。
事務所が認めてくれない以上、世間に真樹との仲を公表することはできない。公表できなければこっそりと逢わなければならないのだが、そうやって内緒で逢う事すら、今は自分の仕事が忙しくてままならない。
もう限界も近かった。何としてでも彼女に逢いたい。
だがスキャンダルの火種は全力で排除すると明言された。万が一真樹の事が事務所にバレたなら、世間に知られる前に潰しにかかるだろう。
だったら先手を打って、二人が付き合っているという証拠をわざとパパラッチに撮らせたなら? 先に世間に公表して既成事実を突きつけたなら、事務所だって認めざるを得ないのではないだろうか。
「はぁ……」
そこまで考えて、それはそれで問題がある事に気付き、稜は落胆のため息を吐いた。
パパラッチを逆に利用して話題を作り、事務所が認めざるを得ない状況を作ったとしても、その後で潰されるようではどうにもならない。恋人同士である事を公表した二人をつけ回し、何処へ行っただの何をしただのといちいち煩く書き立てるメディアも出てくるだろう。そうやって潰されていったカップルは、今までにもたくさんあった。
――どうすれば……――
稜は額に手を当てて、ゆっくりと瞬きをした。
『稜!』
真樹がくれた、最強の魔法の呪文。思い返せば、最善の道が見つけられるような気がする。
稜は視線を漂わせた。壁に掛けられたカレンダーに目が留まる。
――三月も、もうすぐ終わりだな――
桜が咲いたというニュースを、移動中の車内で聞いた。桜が咲けばすぐ四月になる。もうすぐ稜の、二十歳の誕生日だった。世間から大人と認められる日も近い。
――そういや、さんざん言われたよな――
思い出して、稜は笑った。真樹と出逢った頃、彼女は何かにつけて自分を子供扱いした。確かに高校生で親の庇護のもとにある子供だったけれど、男である事すら認めてもらえなかった。
――酒もタバコもダメって――
それから結婚も、親の同意が必要なのだと言われた。
「結婚、ね」
自分にはあまりピンと来ない言葉だ。従兄の結婚式に出席した時もなんとなく気恥ずかしくて、自分があの場に立つ事なんて想像もできなかった。
「二十歳で、大人か……」
二十歳になれば、親の同意がなくても結婚することができる。
「……結婚……?」
稜は弾かれたように、ベッドから起き上がった。
「二人が一緒にいることを、世間に認めてもらう方法……?」
話題を作って世間の注目を集め、事務所に認めさせたとしても、その後に何もしなければ、話題性だけは満載の歳の差カップルだ。二人に付きまとって興味本位に色々書きたてるメディアも出てくるだろうし、好意的でない記事を書かれてしまえば真樹を傷つけることになる。
けれど、話題になった後ですぐに結婚できれば……二人を悪く言う人はいないだろう。タレントとしてそれが認められるかどうかは別問題だが、法律的に認められた二人が一緒にいる事で、非難を受ける
謂れは無い。
もちろん、今よりももっと頑張る覚悟はできている。真樹さえ傍にいれば、どんなに辛いスケジュールだってこなせると思う。いつまでも『顔だけで売れた稜』で、いるつもりはない。前回のドラマで評価されたように、今まで身につけて来た事を最大限に生かして、できるだけの事はする。
それでももし、タレント生命を絶たれるような事になったなら、真樹と二人で生きていくまでだ。二人絶対に離れずに、後ろ向きでも何でも一緒に生きて行けばいい。今まで『稜』を育ててくれたスタッフには申し訳ないけれど、いつまでも今みたいに、真樹と離れて生きて行くことはできないと思った。
これまでの仕事で、真樹と二人、生活していけるだけの蓄えもある。いざとなったら大学は休学してもいい。
「は……」
稜は詰めていた息を吐いた。ここまで一気に考えて、一層頭の中が冴えてしまった。今から眠ることなんて、できそうにない。自分の部屋を出て、リビングに向かった。
今からやろうとしている事を、世間は『ちょっと売れていい気になっているタレントのわがまま』と見るかも知れない。けれどもう、このままでは自分はへし折れてしまいそうだ。踏ん張ろうと思っても、彼女とろくに逢えないままではそれもできない。
リビング近くの母親の部屋には、人の気配がなかった。まだ帰って来ていないのだろう。
「同意……か」
最近はあまり見ることのない、母親の顔が頭に浮かんだ。一時は自分と別れさせるため、真樹に働きかけたぐらいだ。そう、おいそれと同意してもらえるわけがない。
――でも――
やるだけの事はやってみよう。認めてもらうためなら、頭だって下げる。できればちゃんと話して、祝福してもらいたい。
それでももし、どうしても同意がもらえなかったらその時は……。
二十歳になれば、同意は要らない。この状況を利用できるのは、今しかないと思った。
稜は携帯に手を伸ばした。いつもなら疲れ切って帰って来た後、この時間は泥のように眠っている頃合だ。だが今日は違う。この考えを現実のものとするために、絶対に今日真樹に逢わなければ、と思った。
呼び出し音が鳴る。日付は随分前に変わってしまった。真樹は今頃、すっかり夢の中なのだろう。
長く呼び出し音が続いた後、唐突にそれが止んだ。
『……はい?』
「真樹さん? 俺」
夜中だというのに、真樹は電話に出てくれた。それだけでも稜は、この考えの成功を約束されたように思った。
「今からそっち行くから。ごめん、訳は逢ってから話す」
そう言うと、稜は返事も聞かずに家を飛び出した。
稜専用の着メロが鳴った。手探りで携帯を取り出す。稜本人からだというのは特徴的なあの声で判ったが、何を言われたのか、すぐには判らなかった。電話が切れ、
靄のかかったような頭で考えてみると、とにかく今からこっちに来る、と言っていたようだった。
真樹は枕元の時計を見た。日付が変わって、随分経っている。
「なんだろ……」
まだ半分しか覚醒していないように思ったが、真樹はとりあえずベッドから起き上がり、階段を下りた。
キッチンに立って、コップに水を汲んだ。それを全部飲み干す頃に、ようやく頭が回るようになった。
稜が来る。彼に逢える。それはとても嬉しいことだった。あのスタジオで車で去ってゆく彼を見送ってから、真樹にはまた、彼のいない日々が続いていた。
でもどうして、今日こんな時間に、なのだろう。
空になったコップを持ったまま、真樹はしばらく考えていた。
インターフォンが鳴った。この時間に来るのは稜しか考えられなかったから、真樹はすぐに玄関に向かった。ドアスコープで確認し、開錠する。闇と同化してしまいそうな黒っぽい服を着た稜が、滑るように入って来た。
「ごめんね、起こしちゃって」
そう言って笑う。その顔には疲れの色が見えた。
「大丈夫なの? 今まで仕事?」
真樹の問いに、稜はただ頷いてみせた。顎を突き出すような、あの頷き方だった。ツンツンの前髪が揺れて、それもいつもの彼だった。
「こんな時間にしか逢えなくて、ごめん」
少し辛そうな顔になる。真樹は首を横に振った。
「いいの。顔が見られただけで嬉しいから」
こんな時間にしか逢えなくても、逢えないよりはマシだ。
「さすがにこの時間なら、誰も俺のこと見張ってないから」
「……何かあったの?」
夜気に当たって冷たい頬に、指先で触れた。その指が、彼の手の中に握りこまれる。
「俺、この仕事好きだよ。俺の方から、しばらく逢わないなんて言ったっきり、ろくに連絡もできなくてさ、真樹さんをいっぱい傷つけたけど……」
傷と言われて、真樹は自分の膝に新しくできた傷を思った。スタジオから出る稜を追いかけて、転んだ時のものだ。
「ごめんね。逢えなくて、寂しかった?」
優しく訊かれる。真樹は素直に首を縦に振った。あの時逢いに行った自分を見ていたから、こうして来てくれたのかと思った。
「こんな風にボロボロに傷つかなきゃ叶えられないような俺の夢、認めなくていいから。あなたを傷つけてばかりいる俺のこと、ずっと憎んでていいから。だから……傍にいて」
稜の瞳は怖いくらいに真剣だった。
「仕事は好きだけど、真樹さんを失ってまで続けたいわけじゃない。あなたと仕事を秤にかけたら、迷うことなく俺は真樹さんをとる」
寄越される眼差しに、言葉に、深い愛情を感じた。離れていれば、不安になる。けれどこうやって見つめあい、変わらない言葉を聞けば、自分にもまた彼が必要なのだと感じる。
真樹は唇の端を引き上げて見せた。
「憎むわけなんて、ないじゃない」
握りこまれたままの指先を、彼の指に絡めた。そのまま自分の頬に当て、首を傾げる。
稜がもう片方の腕で、真樹を抱いた。
「ねえ……もう一度、『稜』って呼んで」
どこか切なげな瞳がこちらを見つめている。真樹は彼の顔を見上げたまま、眉根を上げた。
「私、そんな……名前なんて呼んでないわよ?」
何を言っているのだろう、と真樹は思った。改めて考えてみれば、面と向かって彼の名前を呼んだ事など無い。気恥ずかしくて、今までどうしても呼べなかった。
「呼んでくれたよ。車追いかけて来た時に」
車……?
膝の傷が痛んだ。あの時、彼の乗った車を追いかけて、叫んで。
「あ……」
『稜、稜ーっ!』
切なさや痛さと共に、真樹はあの日自分が何と叫んだのか、ようやく思い出した。
「『好き』よりも、もっと強い呪文。くれたよね?」
問い掛ける彼の瞳はどこか扇情的だ。
「ね、もう一度、呼んで」
真樹はそのまま見つめているのが辛くなる。視線を脇にずらすと、彼が体ごとそれを追いかけて来た。何度かそれを繰り返す。とうとう逃げるのを諦めて、真樹は唇をすぼめた。
「りょ……」
声を出そうとするが、上手く言葉にならない。
「……りょ?」
また逸らそうとした視線を、なおも稜が追いかけて来る。
「りょ……う……」
言ってみたが、一つの名前とは思えないほど間があいた。
「聞こえない」
彼が小さく首を横に振る。
「……りょう」
「もっと」
言えたと思ったのに、今日の彼は意地悪だ。
「稜」
「まだまだ」
真樹は稜を思い切り睨んだ。唇をすぼめ、大きく息を吸い込む。
「稜……! 稜、稜!」
そう言って、勢いを付けて抱きついた。恥ずかしくて、彼に顔を見られたくなかった。
「愛してる」
稜の手が、背中に回された。
「ずっと俺の傍にいてくれる?」
ゆらり。体が揺らされた。
「今更、何言ってるのよ。あなたが居なくちゃ……」
心地良い揺れに、真樹は自分が彼の揺りかごの中で護られているように感じた。
「『稜が居なくちゃ』でしょ? で、続きは?」
稜が悪戯っぽい声色で訂正する。告白の続きはあったけれど、今更どんな顔をして言えば良いのか。
「……もう。恥ずかしいから言わない」
期待に満ちた顔で続きを促す彼を睨みつけると、真樹は彼の腕の中で、つい、と顔を背けた。
「じゃあさ、苗字はどっちのにする?」
「……えっ?」
さりげなく寄越された言葉に、真樹は何を言われたのか判らなかった。訊き返し、彼の顔を眺める。何か大切な事のような気がするのだけれど……。
稜はそんな真樹に頓着する様子もなく、その表情も変えなかった。
「神鳥か水谷、好きな方選んでいいよ。んー、真樹さんは本名で仕事してるから、やっぱ水谷の方がいいのかな。俺は『稜』だから関係ないし」
眉間にわざとらしく皺を寄せて、首を捻って見せる。真樹はそんな彼を、ただ唖然と見ていた。
「それ……って……」
ようやく搾り出した声も、意味のある言葉にならない。ちゃんと訊きたいのに、色々な感情が入り混じって、言葉をせき止めてしまったみたいだ。
天井を睨むようにして考えていた稜が、ふと真樹を見た。
「俺、二十歳になったら家を出る。そしたら、籍を入れよう。籍さえ入れれば、世間だって俺達を認めないわけにはいかないだろ?」
視線で真樹を繋ぎとめたまま、稜が言った。
「あ……私と?」
結婚? 稜と?
真樹の頭の中は、一気にスパークしたようだ。真っ白になって、もう自分が何を言っているのか……何を言いたいのか、判らない。
「他の誰と籍入れろって言うの」
稜が少し困ったような顔をした。
「ずっと離れないで傍にいるって……それって結婚するって事でしょ?」
呆れたように小さく息を吐く。
「俺、真樹さんと離れたくない。将来の可能性が削られて行っても、シワができて、靴下の跡が消えなくなっても、ずーっと一緒にいたい。だから、俺と結婚して?」
それから彼は、真剣な表情になった。
「それとも、他の誰かと結婚したいの?」
許さないよ、とその瞳は言っていた。
――仔犬は元の飼い主に――
けれど仔犬は、いつの間にか仔犬ではなくなっていた。自分の責任で自分の将来を決めることのできる、大人になっていた。
「あなたでなきゃ、嫌」
大きく何度も首を横に振り、真樹は稜にすがりついた。
稜はそのまま真樹の家で眠った。ただ指を絡めて眠っただけだったが、隣に愛しい人がいるだけで、いつもよりも深く眠ることができたようだ。質の良い眠りをとった後は、いつもよりもずっと体が軽かった。
まだ夜が明け切らない内に、稜は起き出した。最近変な人に見張られているから、早い内にここを出るのだという。真樹も彼と一緒に起きて、仕度を手伝う。
「パパラッチだと思うけどね」
そう言って、彼は意味深な笑みを浮かべた。
「近いうちに必ず連絡するから」
玄関のドアのこちら側で、靴を履きながら振り返る。
「うん、待ってる。もう、迷わないから」
真樹は稜の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「信じてるから。……稜を」
その名を呼ぶまでに、少しだけ間があいた。けれども彼はとても嬉しそうな顔をする。
「最強の呪文。俺、頑張るよ」
そう言って、まだ夜の明け切らない暗い街に溶けていった。