〜35〜
一時は鳴りっ放しだった電話やメールも、数日も経つと随分収まって来た。顔がよく判らないあれだけの写真とワイドショーで紹介された簡単なプロフィールでも、判る人には判るものだ。
まず、瑠実に怒られた。自分に何の相談も無かったのは酷いと、彼女はすねていた。
それから弟の
征人。先に事情を知っていた事もあり、家族を代表してこちらの様子を訊いて来た。
元恋人の耕治からも連絡があった。大変だろうけど頑張れと、励ましてくれた。
転勤して行った福浦と、彼と結婚した片野からも連絡があった。福浦は社内の噂で知り、心配してくれた。
その他にも詳しく取材をさせてくれというメディアからのアプローチもあったし、今までそんなに話をした事の無い人からもどうやって探り当てたのか、連絡があった。
会社は数日休んでいる。仕事に行ける状態ではなかったから、朝一番で吉田に必要と思われる指示だけをすると、真樹自身はずっと家に篭っていた。
そろそろ冷蔵庫の食料が尽きる。都会の真ん中で餓死するわけにはいかないから、慎重に外の様子を窺って、誰もいなくなってから買い物に出た。
久しぶりにたくさん買い込んで、外の空気を吸った。街はなんて綺麗なんだろうと、真樹は改めて思った。咲き初めだった桜も、もう散り始めている。あと数日もすれば、すっかり緑の若葉にとって変わられてしまうのだろう。
玄関で荷物を持ったまま四苦八苦していると、白い小さな車がすぐ脇の来客用駐車場に停まった。稜の車だけど……と見ていると、中から変装した彼が降りて来る。
「……大変そうだね」
数日分の大きな荷物を見下ろして、稜は呆れたように言った。
「ちょうど良かった。お願い、開けて」
荷物を持ったまま肩に掛けたバッグを視線で示してやると、彼はやれやれといった感じでそこから鍵を取り出し、開錠した。
中に入ると、いつものようにリビングの座椅子に座る。すっかりくつろいだ様子の稜に、真樹は心の中が温かくなるのを感じた。
「もうバレるの心配しなくてもいいもんね」
座椅子の向こうから声がする。
「そうね」
真樹は冷蔵庫の前で奮闘していた。たくさん買いすぎて、一人暮らし用の小さな冷蔵庫には入りきらない。食材を形が崩れるのも気にせずにギュウギュウと押し込みながら、報道も随分落ち着いたから、こんなに買わなくても良かったかも、と思い直した。
「事務所には、近々籍を入れるって言っといた」
見るに見かねて、稜が座椅子からこちらに移動して来た。大きな手で、冷蔵庫に入れるのを手伝ってくれる。
「何か言われた?」
冷気の降りる場所で座っていると、足の方から冷えてくる。真樹は彼に後を任せ、自分は飲み物の仕度をはじめた。
「かえってその方がいいかも知れないって。今は女の子のファンばっかじゃないから、入籍もそんなにマイナスイメージにはならないだろうって言われた」
「ふうん」
マグカップと鍋を出しながら、相槌を打つ。
「それに俺、今まで品行方正だったし?」
冗談めかして稜が言った。
「何、それ」
「今まで浮いた噂もなかったしね。これが初ゴシップ」
軽いノリで言うけれど、彼にはまだやらなければならない事がたくさんある。こういった記事を出した後の後始末如何で、タレント生命が左右される事も多々あるのだ。
「そんで、最後のゴシップ」
稜が後ろから真樹を抱き締めた。
「やだ、零れる」
スプーンの上のココアが少しだけ、狙いを外れてガステーブルの上に飛び散った。
「……お母さんには?」
これだけで通じたはずだ。真樹の問いに、稜の頭がふるふると横に振られる。
「なかなか許してくれない。もう、いいや」
彼は二人の事を認めてもらうため、時間を作っては母親を説得しようとしている。けれども彼女が
容易く首を縦に振らないだろうことは、真樹にもよく判っていた。
「家を出るつもりだって……言ってないんでしょ?」
「うん」
コポコポとお湯を注げば、良い香りが漂ってくる。
「あ、ココア。それ、あの店の?」
「そうよ」
稜が喜色をあらわにした。買い物の途中でふと目についたこれを、無意識の内に真樹は手にしていた。外で色々な物と戦っている稜が、少しでも安らげるようにと、願っていたのかも知れない。
「許してもらえるまで、待った方がいいんじゃないかな」
鍋をスプーンでかき混ぜながら、真樹はポツリと言った。
稜の父親が亡くなっていることは、付き合うようになってしばらくしてから聞いた。兄弟もいないというから、母一人子一人、二人だけの家族だ。認めてもらえず、仲違いするようにして出て行かなければならないなんて、そんな哀しい事はない。
自分があの母親から、稜を奪ってしまうような気がした。
「二十歳になったら大人だよ。親の許可は要らない」
強い意志を秘めた声が寄越される。何があっても誕生日には家を出るつもりらしい。
「それでも……親なんだから」
沸騰直前の鍋を火からおろし、カップに注ぐ。
「構わないって。母さんはどうしても俺らの事、認めてくれない。説得したかったけど、もう時間がないんだ」
あと数日で、稜は二十歳になる。
「雑誌にも出たし、ワイドショーでもそこそこ取り上げられてる。このタイミングを逃したら、今度は俺ら、潰されちゃうよ。ここまで辛い思いをしたんだ。今更計画を変える気はない」
真樹を抱き締めたまま、稜はカップに手を伸ばした。
お洒落で格好は良いけれど、ちょっと見難い名刺だ。真樹はあれこれひっくり返して、ようやく住所を読み取った。
『イルバース・エンターテイメント』
そこに書かれた社名は、稜の母親の経営するモデル事務所のものだった。この名刺は、前に彼女が真樹の会社を訪ねて来た折に貰ったもの。哀しい思い出しかないこの名刺だったが、稜に繋がる物かと思えば、どうしても捨てる気になれなかった。
やっと探しあてた事務所は、落ち着いた色調の、会社にしてはこじんまりしたものだった。社屋のすぐ近くには川が流れていて、桜の並木があった。
案内を請うと、社長である弓美は先ほどちょうど帰社したところだった。少し待たされて、事務所の奥の応接室に通される。社員のデスクの脇を通る時、真樹は自分が注目を浴びているのを感じた。
応接室の中には誰もいなかった。革張りのソファに座って待っていると、しばらくして弓美が入って来た。真樹は立ち上がって一礼し、それを迎える。
「真樹さん……どうしてここへ?」
顔を上げると、弓美の咎めるような視線にぶつかった。
「お話があります」
彼女との約束を守れなかった事を思い出し、心が塞ぐ。だがすぐに、真樹は毅然と顔を上げた。
「稜との事かしら。なら、何もお話しする事はありません。私は認めていませんから」
こうやって正面から見ると、稜は弓美に似たのだな、と思える。そんな彼女に拒絶されることは、稜に拒絶されるのと同じぐらい、真樹には痛かった。
会ったら言おうと思って来た言葉が、全部零れ落ちてしまう。弓美の心を動かせるかも知れない言葉を、何度も練習して来たというのに。
稜とよく似た面差しに、この母子が行き違いになったまま離れてしまうのはいけない事なのだと、それだけを強く思った。
「……彼は、家を出るつもりです」
どうしてもこれだけは伝えておかなければ。
だが真樹の言葉に、弓美が驚いた様子はなかった。罵倒されるかと思ったのに、弓美はただ静かに真樹を見つめ、曖昧な笑みを寄越しただけだった。真樹はそんな彼女を不思議な物でも見るように眺めていたのかも知れない。ふいに弓美が、窓の外に視線を移した。
「もうすぐ桜も終わりね」
窓の外を窺えば、川べりに咲く桜は、花弁をはらはらと風に散らしている。まるで自らが散って行くのを哀しむかのように――それは桜の涙のようにも見えた。
弓美が視線を戻した。真樹を見つめ、そして諦めの混ざった息を吐いた。まるで何もかも知っていたかのようなその仕草に、真樹は胸を突かれる思いがした。
「稜が産まれた年は桜の開花が遅くて……あの子と桜と、どちらが先かなんて主人と笑い合っていたの。でも予定日を過ぎてもあの子は産まれなくて、桜の方が先に咲いてしまったわ」
はらはらと、桜が散る。
「昔から聞き分けが良くて手の掛からない子だった。主人が亡くなってからは特に、何でも自分でやろうとして……主人が遺してくれた
財産があるのに、アルバイトで貯めたお金であんな小さな中古車を買ってしまって」
弓美の向こう側で、桜が舞った。
「あなたとの事は、随分稜から懇願されたわ。頼むから認めてくれって……手をついて、頭まで下げて。でもあの子の将来を考えれば、親である私には認めることはできなかったの」
眉間に皺を寄せ、苦しそうに息を吐く。彼女自身、稜に懇願される度に辛い思いをしていたのではないだろうか。
「あの子がこんなに私に食い下がったのは、これが初めてなのよ。最初で最後のわがままが、こんな事だなんて」
弓美は寂しそうに笑った。泣きそうな笑顔――それはまるで、出逢った頃の稜の笑みのようだった。
――この人は、彼のお母さんなんだ――
そんな小さな事で、「ああ、やっぱり」と感じてしまう。真樹の心がチリリと痛んだ。
弓美が視線を脇に流す。しばらくして戻って来た瞳には、決意の色が見えた。
「二十歳になってしまえばもう、親は何も言えません。世間に認められた、立派な大人です。後はどうしようと、あの子の考え次第ですから」
そう言い切る。
「それは……」
真樹は弓美の真意が、よく判らなかった。二人の事を認めてくれるという事なのだろうか。
「勘違いしないで。私は認めていません……認めたくないんです。これだけは覚えておいて下さいね」
真樹の表情が変わったのを見て取ったのか、弓美は釘を刺した。認めたくはない、と。
「……はい」
真樹は落胆の色を隠せなかった。自分が来ても、無駄だったのだ。何も言えず、何も変えられなかった。
稜はあの家を出て、母親が残される。大切な人の後姿を見送って、あの広い家に一人残されるのは、どんな気持ちだろう。
これ以上自分がいると、弓美の気持ちが塞いでしまうかも知れない。真樹は立ち上がり、深々と一礼した。ゆっくりと顔をあげ、体の向きを変えると出口に向かう。心の中では、ごめんなさい、と叫んでいた。
「真樹さん」
後ろから呼び止められた。真樹は首を巡らせる。弓美が立ったままこちらを見ていた。
「近いうちに、私はあのマンションを出ます。他に家を買うつもりなの。事務所に泊まり込みになる事も多いし、少しでも近い方が楽だから……もう候補は有って、後は契約だけになっているの。今の所ほどセキュリティは整っていないけれど、私だけならそんなもの必要ないから」
少しの間があいた。言わなくてはならない事を迷っている。そんな感じだ。
「……だからあなたは、あのマンションで稜と一緒に暮らすといいわ」
弓美の言葉に、真樹は瞠目した。稜はあの家を出たら、真樹のところに来ると言っていたのだ。あの小さなアパートの部屋が、誰からも認められない二人にはお似合いだと思っていた。
「そんなこと……困ります。私は……」
それがいきなりあんな豪奢なマンションに住めと言われても、真樹にはどうしたら良いのか判らない。
「あなたには必要なくても、稜には必要なんです」
弓美はきっぱりと言った。
「セキュリティが万全でないと、変な人に狙われたりするでしょう? あの子は『商品』として世に出てしまったのよ」
きつい眼差しが真樹を捉える。
弓美の言うことも、もっともだった。稜はもう、多くの人に名を知られ、顔を知られた人間だ。その中にはどんな考えの人がいるか判らない。だからこそのセキュリティだったのに……自分はなんて考えが浅いのかと、真樹は申し訳なくなった。
弓美の表情が、ふと穏やかになる。
「それにあの家は、亡くなった主人が遺してくれた財産で買ったものなの。いずれ稜のものになる筈だったんだから……それが少し、早まっただけ」
そして小さく息を吐いた。
「子供の幸せを願わない親はいないわ。あの子が幸せだと思えないのなら……どんなに親が環境を整えてやっても、それは押し付けにしかならない。あの子が自分で選んだ道を進めば、苦労することは百も承知なのに……」
何かを諦め、悟ったような母親の顔だった。彼女もまた、稜を心から大切に思っている。
「……あの子を、お願いします」
改めて真樹に向き直ると、弓美は深く頭を下げた。
数日休んでいただけなのに、随分と出勤していないような気がした。会社の周りに張り付いている人も数が減って、真樹は少し注意するだけでいつもと同じように出勤することができた。
「先輩、心配してたんですよ!」
自分の部署に着くなり、吉田が駆け寄って来た。今回の事では彼女には色々と世話になった。
「ごめんなさいね、迷惑かけちゃって」
携帯がマナーモードになっているのを確認してから、机の一番大きな引き出しにバッグをしまう。
「私はいいんです。大丈夫でしたか?」
吉田が心配そうな顔で訊いた。
「ええ、有難う。全然平気」
わざと明るく言って、力こぶを作るように腕を曲げて見せた。二人のやりとりに皆が注目していたものだから、あちこちから笑いが起こった。
ここの部署の人達は、みんな好意的に見てくれているようだ。真樹はほっと胸を撫で下ろした。
ざわざわと騒がしくしていると、入り口でこちらを見ている人がいる。データ管理部の部長だった。
「水谷くん、ちょっと」
真樹が出勤するのを待っていたのだろう。気さくなこの部長は、『お褥辞退事件』の課長より、もう一ランク上の役職にあたる。課長は苦手だったけれど、入社当初からこの部長には随分お世話になっていた。
真樹は席を立ち、部長の後について行った。
部長が真樹を連れて来たのは、従業員用の簡易応接室だった。今は仕事前だから、数人の社員が座っていた。「すまないね」と部長が言うと、彼らはみな応接室から自分の部署へと散って行った。
「さて……今回の件では、色々と大変だったみたいだね」
真樹の真向かいに座り、部長は膝の上で指を組んだ。
「この度は、大変ご迷惑をお掛けしました。」
一旦座ったものの、真樹は立ち上がって頭を下げた。会社の周りに記者が来るなど、他の社員にも迷惑をかけたし、何より会社のイメージを損なってしまった。
「いや、こちらはそんなに大した騒ぎじゃなかったよ。君の自宅の方が凄かったんじゃないか? テレビで観たよ、しっかり映ってたね」
真樹のアパートは、場所や建物が特定できないようにモザイクが掛けられていたものの、何度かテレビに映し出されてしまった。近くに住む人なら、周りの風景から場所を特定できてしまうかも知れなかった。
「会社には、多大なご迷惑をお掛けしました。社名もすぐ判ってしまうような報道でしたし、私一個人の事で会社のイメージが……」
辛くなって、真樹は眉根を寄せた。
「もし解雇という事でないのでしたら、退職願を書かせて頂こうと思っています」
これまで自分にできる事は頑張ってやって来た。あまり報われることもなかったが、仕事も好きだし会社にもそれなりに愛着はある。だが稜との未来を選んだ自分は、これ以上皆に迷惑を掛ける前に、身の処し方を考えるべきだろう。
今朝はそう心を決めて、出勤して来たのだった。
「その事なんだがね」
部長は組んだ指を一本ずつ鳴らして行った。これは部長の昔からの癖だ。大切な話の前には、必ずこの音を聞いた。
「君が休んでいる間に、会議があったんだよ。それで君……試験を受けてみないか?」
言われている意味が、真樹には把握できなかった。
「あの……どういう事でしょうか?」
失礼にならないように訊き返す。
「君の仕事ぶりには、前から感心していたんだよ。よく頑張って働いてくれていたね。こんな事で君という人材を失うのは、実に勿体無いんでね。会議にかけてみた。その結果、女性が昇進試験を受けた前例はないが、性差で受験資格が変わるわけではないという結論が出たよ」
「それは……私に、昇進試験を受けてみろと?」
「そういう事だね。後でこの件について、社長から直々に話があるそうだから。じゃ、わたしは行くよ。また何かあったら相談においで」
始業前だったのであまり時間がない。部長は用件だけを手短に伝えると、応接室を出て行った。
昼休み直前に、再度真樹に呼び出しが掛かった。今度の行き先は社長室だという話を聞き、吉田をはじめとする同僚がみな心配してくれた。
社長室は、社屋の一番上の階にあった。広い部屋に重厚な造りのサイドボードやソファ、机などが置かれている。その机の向こう側に、朝礼でしか顔を見たことのない社長が座っていた。
「データ管理部、管理課の水谷です」
名前を告げると、社長は大きく二回
頷いて、真樹にこちらに来るよう促した。
「この度は、大変ご迷惑をお掛けしました」
入り口を入った所で立ち止まり、深く頭を下げる。許してもらうための謝罪ではなく、これは大人としてのけじめだった。
「まあ……いい、こっちへ来なさい」
社長は真樹の謝罪に満足したように頷くと、腕を上げ、ひらひらと指を折るようにして手招きする。真樹は真っ直ぐに社長の机に向かった。
「部長がえらく心配していてね。今回の件で、君はおそらく退職するつもりだろうと言ってきた」
机の上で指を組み、じっと真樹を見る。こんな間近で社長と向かい合った事のない真樹は、少々居心地の悪さを感じていた。
「それで会議でも出たんだがね、君、昇進試験を受けてみないか? 上にあがって
会社でずっと働かんかね。うちは産休制度も育児休暇制度も整っている。今まで使った人はいないが、君がパイオニアになればいい」
上に立つ人間というのは、こんなにも威厳のあるものか、と真樹は思った。社長の目は全く逸らされる気配はない。それどころか、真樹の様子をじっと観察しているようにも思える。真樹は、自分が手のひらに汗を握っているのに気付いた。
「前例が無いのにどうして……と不審に思っているかも知れんから、腹のうちを明かしてしまうかな。うちもIT企業の端くれだ。いつまでも古い管理体制の下でやっていくわけにはいかない。今回の件はスキャンダラスな事だったが、却ってうちの知名度も上がった。注目を集めている今、ここで君の退職を簡単に受理しては、『臭いものに蓋』でうちのイメージダウンにも繋がりかねんというのが、まあ……今回の決定の半分の理由だ」
そこまで言うと、社長は少し愉しそうな顔になった。
「あとの半分は、君の仕事を見せてもらってのことだ。今までの君の実績を見たが、なかなかいい仕事をしている。社内の評判もいいみたいだね。他の女性社員を統括する上でも、仕事ができて一番年上である君は、何かと都合がいい。差別はいけないが、ある程度の区別は必要だと思うからね。女性社員の気持ちは、なかなか男性では判り辛いところもある、というのが正直なところだ。世間の注目を集めている今だからこそ、君を女性管理職に据えることで一層の社風の向上を図りたい……という理由なんだが」
組んでいた指を解き、そっくり返って椅子の背もたれに背を預ける。
「どうだろう、やってみる気になったかな?」
社長の言葉はあからさまだったが、そうやって本音を言ってもらえた事で、真樹の中にストンと落ちて来るものが在った。後輩である女性社員達が、少しでも良い環境で働くことができるように。
真樹は唇の端を持ち上げる。
「承知しました。昇進試験、受けさせて頂きます」
この数日で、真樹の環境はめまぐるしく変化した。つい数週間前までは、稜に逢うことはおろか、電話で話すことすら制限されていた。それが写真週刊誌に載って、テレビにも出て、今こうして稜と一緒にいる。もっとも、二人でいる事を本当に認めてもらうために、超えなければならないハードルはまだいくつもあったのだけれど。
「ハンコ押したよ。あとはどこ書けばいい?」
印鑑の汚れをティッシュで丁寧に拭きながら、稜が顔を上げた。真樹は脇から覗いてみる。
「あ、ここ。どっちの姓にするか……ってところ。レ点打たなきゃ」
「これか……んー、まだ迷ってんだよね、俺。真樹さんはどっちがイイと思う?」
「本気で迷ってたの? やーね。当然……」
真樹はボールペンを手にする。
「こっち」
迷わず『夫の氏』に印を付けた。
「そんな簡単に決めちゃっていいわけ?」
稜が意外そうな顔をする。
「いいのよ。あなたとなら交換できるもの」
真樹は稜の目を見て、意味深な笑みを刻んだ。
――ずっと――
仕事や姓、ともすればそれまで培った人間関係まで……自分の現在の生活の大半と交換してもいいと思える人と恋をしたいと思っていた。そして結婚は、そんな恋愛の延長線上にあると、信じていたかった。
稜と出逢い、本気で相手と向き合う事を知ったけれど、同時に得られない物を望む痛さも知った。
今、隣には彼がいる。
自分が培って来た生活の大半と交換してもいいと思える、稜がいる。自分の望みは叶ったのだと、真樹は思った。
「会社に届けなくちゃ。姓が変わりますって。今度の昇進試験までに手続きしないと」
数日後に控えた試験を思い、真樹は身の引き締まる思いがした。
「……私、お局様になっちゃうのよ」
世間でそういう女性社員を何と呼ぶのか、知っている。真樹は、ふふ、と笑った。
「お局様かぁ。ははは。すげー強そう」
稜も笑った。テーブルの上に視線を落とす。
「みんな、いきなりでびっくりするだろうね。神鳥真樹……うん、いい名前じゃん」
書き上がった婚姻届を持ち上げ、稜が嬉しそうに目を細めた。
「あとは証人欄に書いてもらって、できあがり」
真樹の姉と、稜の事務所の社長が証人になってくれる事が決まっていた。これで事務所としてはノータッチだが、社長個人としては了承してくれた形となった。
真樹の方はといえば、母親はすぐに賛成してくれたが、父親は快諾とはいかなかったようだ。それでも母親に説得されて、しぶしぶ了承したという。姉からの電話で、その辺りのいきさつを教えてもらっていた。
「明日は絶対に時間作って、定時頃、会社に迎えに行くよ。それまでにこっちは社長の署名もらっておく。それから一緒にお姉さんとこ行って、その足で出して来よう?」
婚姻届を丁寧に畳んで、封筒に入れる。明日は稜の誕生日だった。
「先輩、下にお客さんが来ていらっしゃいます。あの……、『稜』さんが」
定時間際、用事で外に出ていた吉田が、随分慌てた様子で部屋に入って来た。
「『稜』さん、です。聞いてますか、先輩!」
声を出さずに息だけで叫ぶ。パソコンの画面とにらめっこしたままの真樹を追い立てるように、机の端っこをバンバンと平手で叩いた。
「あ……判った、すぐ終わるから……っと、はい、おしまい」
真樹のパソコンの電源が落ちると同時に、定時を告げるチャイムが鳴った。机の上を片付け、真樹は部屋を後にする。
「水谷先輩!」
後ろから呼び止められた。振り向くと、吉田が部屋の入り口から覗いていた。
「お幸せに!」
口の横に手を当て、彼女は息だけで叫んだ。
社屋の玄関を出ると、白い車が停まっていた。中を覗き込むと、稜が大して変装もせずに乗っていた。
「おかえり」
真樹の姿を見留め、稜が微笑む。
「ただいま」
真樹も笑みを返した。
車は真樹を乗せ、ゆっくりと滑り出す。周りの景色が、全て後ろに飛んで行った。
「覚悟はいい? もう引き返せないよ?」
稜がちらりとこちらを見た。
「もう社長の署名もらったし、あとはお姉さんのをもらって、出すだけ。今更嫌だなんて言っても、遅いからね」
そう言って、悪戯っぽく笑う。
「そんな事、言うわけないでしょ。だって……」
真樹は眉根を上げて見せた。
「あなたが……稜が、好き! 大好きなんだから!」
運転する稜に、勢いよく抱きつく。
「わっ、ヤバいって……真樹さん、危ない」
「あはは……」
この婚姻届を出した後、世間が二人をどう見るのか、今はまだ判らない。けれど、どんな結果が出たとしても、二人はもう離れないと決めた。
「俺も、好き。真樹さんが、好きだから」
ここから先は、用意された道ではない。自分達で選び、二人で切り拓いて行く道だ。
――それから二人は結婚し、お城の中で末永く幸せに暮らしました
どんな苦労だって、二人一緒なら乗り越えて行けると思った。