〜三〜
「う……っく」
屋敷の中から走り出たカイは、中庭にあるひときわ大きな木の幹に取り縋り、嗚咽を漏らした。先程父であるクレイオス伯に呼ばれ、話をしたばかりだった。
男物の衣装に身を包んだカイは、それでもれっきとした女である。背に垂らした銀の髪が少し乱れて、深碧の瞳が濡れていた。
「カイ、またクレイオス伯とやり合ったのか?」
頭上から耳に心地良い声が降って来た。濡れた睫毛を持ち上げ、取り縋っていた木の梢を見上げる。カイより五つ年上、今年十九になったばかりの従兄殿であるクシーが長い手足を枝に絡ませたまま、優しげな顔で見下ろしていた。
「いいんだ。あの方は私など必要としていない。私が女だから家の為にならないと思っているんだ。それよりねえ、クシー。また私と剣の手合わせをしてくれないか」
「剣の手合わせは良いが、それ以上男っぽくなってしまったら、嫁のもらい手がなくなるぞ」
ザッと葉を鳴らしながら、クシーが飛び降りる。しなやかに着地して衣装についた葉を払えば、先程までの行儀の悪さはどこへやらだ。立派な貴公子が一人、そこに立っていた。
「私は嫁には行かない。一生ドレスも着ない。男として生き、剣士として王宮に出仕する。そうすれば父上も私を必要としてくれるかも知れないだろう?」
金髪蒼眼の剣士である従兄殿を見上げ、十四歳のカイは唇を噛んだ。
「まだだっ」
『カン!』
「そこじゃないっ」
『カッ……!』
生来の身のこなしのしなやかさと、女の身である身軽さとで、カイはクシーの教える剣の技をどんどん吸収していった。
厳しい稽古も弱音を吐くこと無くこなす。それは男として、剣士として生きていきたいという彼女の願いの強さでもあった。
「今日、父上が新しい女の人を連れて来たんだ。母上が亡くなったばかりだというのに」
激しい稽古の汗を拭きながら、カイが芝草の上に腰を下ろす。それで父上とやり合ったのかと納得して、クシーは傍らの従妹の銀髪を優しく撫でた。
「ティアって人で、母上とは似ても似つかない人。私とそんなに歳も違わない。父上はやっぱり男の子が欲しいんだ。だから後添えなんか迎えて……」
悔しさに、ギリッと唇を噛む。白く色の変わった唇からは、微かに血の味がした。
「女として生きるわけにはいかないのか?」
やんわりと言ったつもりのクシーだった。だがそれを聞いたカイの双眸が険しさを増す。隣に座るクシーの顔を見上げる、その碧眼の水面が揺れた。
「クシーまでそんな事を言う! 私がどうして女を捨てたいのか知ってるくせに!」
銀髪が絡まるのも構わずに頭を大きく横に振り、ドン、と従兄殿の胸を両の拳で叩く。うつむいた顔からはその表情を読み取る事はできなかったが、胸に置かれたままの拳が震えていた。
「すまない……カイ」
再び伸ばされたクシーの手をカイの手が激しく振り払った。弧を描いて振り下ろされた指先に、剣の冷たさが触れる。迷いを断ち切るようにその剣を乱暴に取り上げると、カイは振り返りもせずに駆け出した。
季節は巡る。花々が咲き乱れ、葉が色を増し、木の実がたわわに実り、そして冷たい風が吹く。
今日は屋敷の中が騒がしい。どうやら、身重だったティアが産気づいたらしい。
「カイ様はこちらにいらして下さいまし。旦那様から、今日はどこにも出掛けないように、とのお言伝でして……」
恰幅のよい乳母が、せわしなく用意を整えながらカイに精一杯の笑顔を向けた。
『バタンッ』
少々乱暴に扉が開けられ、クレイオス伯が部屋に入って来た。
「まだ生まれんか」
椅子に腰掛けるカイには目もくれず、乳母をつかまえて問う。初産だから時間がかかりますよ、とたしなめられて、伯は苛立たしげに部屋を出て行った。
「カイ様の折も、旦那様はあのようでしたのに」
生まれた子が女である事が判った途端、すっかり気落ちしてしまって、掌を返したように冷淡になったのだ、と乳母は溜息をついた。
女でなかったなら、もっと自分の誕生を喜んでくれたのだろうか。ならば今度生まれて来る子も女であれば良い、とカイは思った。
一人では耐えられない。だが二人ならば耐えられるかも知れない。男としてではなく、女として生きていく決心がつくかも知れない。
これは賭けだ、とカイは自分に言い聞かせた。
「ンギャー」
産室の次の部屋で膝を抱えてカイは待っていた。待ち疲れてウトウトとまどろんだところに、新しい命の声が響き渡る。
産声を聞きつけてわらわらと集まって来た人の中に、父であるクレイオス伯の姿もあった。
ややあって、上質の絹の産着にくるまれ、乳母の腕に抱かれた小さな赤子が皆の前に披露された。
「旦那様、ようございました。男の子です」
喜びにわっと沸き返る部屋の中で、カイの心だけが重く石のように沈んでいた。
「よくやった、ティア」
クレイオス伯が勢い良く扉を開け、ティアの元に駆け寄る。カイの母にも、そしてカイ自身に対しても冷淡な父しか見たことの無かったカイの目には、その光景は異様なものに映った。
「見て下さいましたか。とても可愛らしくて……」
「これでクレイオス家も安泰だ。末は剣士として王宮に出仕させる。今日は良い日だ」
開け放たれたままの扉から聞こえる二人の声に、カイは思わず耳を覆った。
「弟君だったそうだな」
クシーの剣が風を切る。
「ああ」
短く答えたカイの剣が、ひた、と止まった。
『ザッ』
「……つっ!」
カイの体ぎりぎりに突き出された筈のクシーの剣は、カイの脇腹をかすめた。衣装が破れ、出血もあった。
「今のは避けられただろうに。どうしたんだ」
驚いたクシーが駆け寄る。身を屈めて顔をしかめながら、それでもカイは気丈に微笑んで見せた。
「大丈夫だ。いかんな、剣の立合いの最中に考え事など……」
そこまで言うと、彼女の両の瞳からハタ……と雫が零れた。
「痛いか? すまなかった。……ああ、これは傷が残るかも知れん」
大事なクレイオス家の娘に傷を付けた、と謝るクシーに向かって、カイは大きく首を横に振った。
「違う……違うんだ。傷が痛いからじゃない。心が……痛いんだ」
差し出されたクシーの腕に縋り、カイは碧眼から大粒の涙を零し続ける。
「これで王宮への出仕もできなくなってしまった。クレイオス家を引き継いで行くのは弟だ。ならば、この私は? 私はどうすれば良い? 幼い頃から男として生きると決めていたんだ。今さら女として生きることなど……できないっ」
見事な銀髪を振り乱し、感情もあらわに泣きじゃくる従妹の背をそっと抱え、クシーは静かに目を瞑った。
「俺ではだめか? イティオス伯の子として正式に認められてはいないけれど、俺と一緒に生きてみる気はないか?」
秘め続けた想いを口にする。今ならばこの銀髪の従妹は、自分に全てを委ねてくれるかも知れない。卑怯だと判っていても、もう想いを閉じ込めることはできなかった。静かに目を開く。その先に、自分を見つめる深碧の瞳があった。
カイの見開かれた瞳がクシーの瞳に捉えられた。
見下ろす蒼の瞳が優しくて……金の髪がさやさやと風になびいて……。
――このままこの腕に我が人生を委ねてしまおうか――
蒼の世界に取り込まれそうになったその時、カイの足元で、取り落とされた剣の柄が小さく鳴った。
「……今言った事は忘れよう。お互いにな」
深く息を吐いて目を伏せると、カイは剣を拾い上げ、力なく立ち上がった。
次代クレイオス家の当主はよく乳を食み、すくすくと育っていった。痩せぎすの赤子だったのが、日を追うごとに薔薇色の頬も可愛らしい男の子になっていった。
いつの間にか冷たかった風も柔らか味を帯び、新しい花の薫りを運んで来る。
「入りなさい」
父クレイオス伯が執務室で待っている、と乳母に言われ、カイは何事かと扉を叩いた。促す声に導かれて部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。
「私に用だと聞きましたが」
父と顔を合わせるのは気詰まりだ。ことに弟ラウが生まれてからは、少なかった対話が一層疎遠なものになっていた。
そんな中での呼び出しである。訝しく思うのも道理だ。
「まだそのような男のなりをしているのか」
書きかけの書類から、チラ、と目を上げ、クレイオス伯は我が娘の格好を見咎めた。
「もうその必要もないだろうに。いいかげん普通の女のようにドレスでも纏ってみたら……」
「ご用件をおっしゃって下さい。まだ剣の稽古の途中ですので」
凛とした声で父の言葉を遮り、カイが胸を張る。いつの間にか伸びた背丈は、男の中にあっても見劣りがしない程になっていた。
クレイオス伯は羽根筆を置き、顔の前で指を組む。正面からカイを見据え、小さく息を吐いた。
「おまえはいくつになった」
「十五です、父上。ご自分の娘の歳もお忘れですか」
皮肉混じりに口の端を上げて見せるカイ。その目はもう、父の信頼を求める幼子のそれでは無かった。
「この家にはラウが生まれた。これで剣士の家の名目が立つ。そこでだ。これを見なさい」
放るように渡されたのは、一枚の絵。
「これは?」
薄紙をめくると、そこには正装した男の絵姿があった。
「おまえにとっても良い話だと思う。こんな男のなりをした娘をもらってくれると言うのだ。有難く嫁に行ってはどうか」
父の声が遠いものに感じる。頭の中で何かがガンガン鳴り響き、喉は貼り付いたようになって声が出ない。
カイは軽い眩暈を覚えながら、それでも何とか倒れるのだけは堪えた。
「そ……んなに……」
袖の内で握った拳がブルブルと震える。
「そんなに邪魔ですか……私が……」
目を瞑り、父の机の上に絵姿を放り投げる。
「この家にとって、私はそんなに目障りなのですか!」
銀の髪が風も無いのにふわりと舞い上がる。蒼を帯びて光り出そうとするのをカイは耐えた。握った拳に爪が食い込んで血が滲んだ。
「剣士として王宮に上がるのは男の仕事。弟が生まれた今、女のおまえがこの家のためにできる事と言えば、そうやって他家に嫁ぎ、我がクレイオス家の血を広めること位だ」
クレイオス伯は組んだ指をほどき、もう用は無いとばかりにカイから視線を外す。書きかけの書類に目をやり、羽根筆をとった。
「失礼……しますっ!」
怒りを含んだ震える声で言い捨てると、カイは荒々しく扉を開け、執務室を後にした。
――剣の稽古の途中だった。戻らなくては……。クシーが待っている――
この家に私は要らない。父に認めてもらいたくて男のなりをした。女であることを捨てれば、そして王宮への出仕が叶えば父は自分を認めてくれる。そう思った。
自分と同じ銀髪碧眼の母を護りたいとも思った。家名を上げ、冷淡な父に認められれば、女しか産めなかったと虐げられていた母を救えると思った。
母亡き後は、自分自身のために。女である自分をかえりみなかった父を、見返したいと思った。
だが……。
家のために他家に嫁げと言う。女のように嫁げ、と。
「……できるかっ!」
もう、滅茶苦茶だった。技も何もあったものでは無い。やみくもに剣を突き出し、筋が千切れるほど高く跳ぶ。銀の髪がおぼろに蒼く光って見えた。
「カイ……カイっ! もうやめろ!」
クシーの剣がカイの剣を弾き飛ばす。道理にのっとっていない技は、崩されるのも道理。あれほど激しく繰り出されたカイの剣は、正当な剣筋のクシーの前にあっけなく破れた。
『チャッ……』
高く澄んだ音を立て、宙を舞った剣が地面に落ちる。それと同時にカイの体も地面に崩れ落ちた。
「うう……っ……うっ……」
長く細い嗚咽がカイの喉から絞り出された。声色を使うことも忘れ、女の声でカイは泣いた。
「どうした、カイ?」
クシーは辺りを見回し、飛ばされた剣を拾い上げると鞘に収めてカイに渡す。指先が触れ合い、クシーの指もまた、カイの涙に濡れた。
いつも暖かく見守っていてくれた、五つ年上の従兄殿。妾腹で正式に認められていないとはいえ、イティオス伯の屋敷近くに居を構える、自立した大人である。
そのクシーの屋敷に通され、まずは落ち着きなさい、と差し出された飲み物に口をつける。その暖かさに触れ、カイの瞳からまた、新たな涙が零れた。
「私に……っ、嫁に行けと……っ」
嗚咽の下から、カイは先程のクレイオス伯との話をクシーに語った。
黙って聞いていたクシーは、カイの話が終わるまでずっと銀の髪を撫でていた。ゆっくりと、優しく。
「私は……私はどうしたらいい? 私の行き場は、もう無いんだ」
足元が崩れる感覚に、カイは震えていた。その体を抱き留め、クシーは彼女の背に回した腕に力を込める。
五つ年下の従妹として、そして剣の師弟としてずっとカイを見てきた。女であることを拒否し、男のようにありたいと願うその碧眼は、いつも凛として隙が無かった。
だがそのカイが無防備に女の声で泣いている。
「他所の男のもとに嫁ぐくらいなら、俺のものになれ」
蒼い瞳がカイの深碧の瞳を捉えた。
――この瞳に飲み込まれてしまったなら――
自分の居場所は見つかるだろうかと、ふとカイの胸の内に湧き上がる問い。
――答えはあるのだろうか……?――
どちらからともなく手を伸ばし、指先を固く握る。クシーの唇がカイの頬を伝う涙をすくい取った。
衣装を剥がされた脇腹に、過日の傷跡が痛々しい。白い肌に残った一筋の引き攣れが、それでも一層カイの美しさを際立たせていた。
それは愛ゆえか、それとも心の隙間を埋めるためであったのか……。
――月が蒼かった。