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銀の剣士


〜六〜


「うぅ……っ!」
「カイ様、もうすぐです。ほら、頭が見えますわ」
 森を背にした小さな家の中、ミリィの呼びかけに、カイが苦悶の表情の下から視線だけで応える。新たな痛みの波に乗って、新しい命が生まれ出ようとしているのだ。カイの額には汗の粒が浮かび、その手は、知らず枕元の寝台の桟を握り締める。耐えようと思っても、食いしばった歯列の間から獣のような唸り声が漏れた。自分の身が、女のそれであると思い知らされる。
 全身を貫く痛み。体の中に太い棒を突きこまれて無理やり裏返されるようなその痛みが……蒼い光の中で息絶えていった従兄殿の痛みと重なった。
 ――クシーの子であれば良い――
 願いはいつしか祈りへ。命を絶った剣士の忘れ形見であれば良いと、カイはそれだけを願った。
 いつか見た、異母弟ラウが生まれ出る瞬間。あの折に見た継母ティアの姿が霞む視界の内に浮かぶ。今、自分もそのようであるか、と。
 ひときわ大きな痛み。耐え切れず、喉を突き破って叫びが漏れた。
「う……あぁ……っっ!」
 骨を砕くかと思われる痛みと共に、足の間から何かが滑り出る感触。途端に今までカイを苛んでいた痛みが、潮が引くように静かになった。
「んぎゃー!」
 この世に産み落とされ、最初の大気をその肺に吸い込んだ赤子は大きな産声を上げた。
「男の子ですわ、カイ様」
 臍の緒を切り、湯で清められた子は本当に赤く、まだ痩せぎすの小さな塊だった。片腕にも乗るその体はとても軽く、儚い。
 カイは赤子を腕に抱き、その顔を見下ろす。まだ目も開いておらず、髪の色も定まっていない赤子。
「私の子か……?」
 小さな顔を見下ろしたまま、傍らにいる筈のミリィに問い掛けた。
「ええ」
 短く答えが返る。
 父親の判らぬ子だった。クシーの子か、術師の子か。カイが肌を許したのは、後にも先にもあの一夜限り。いくら子の顔を眺めていても、父親を知る手がかりは何もなかった。
 固く握り締められた小さな手に触れる。はずみで粗末な産着の裾がめくれ、赤子の足が露になった。ミリィの茶色の瞳にさっと影がよぎった。
「これは……?」
 カイの視線の先。赤子の右足には、ある筈の無い指がもう一本ついていた。


「お屋敷ではカイ様をお探しでしょう。父親の判らない子を連れ帰っても、カイ様が肩身の狭い思いをなさるだけ。私には夫もいますし、自分の子もありません。私達の子としてお育てします」
 かねてからのミリィの申し出に、カイはそれ以外に策は無いと従った。貴族の娘が相手となる男も判らぬまま子を成せば、手打ちにされても何も言えない。家の外聞に泥を塗り、その名を貶める。
 父との事は諦めた。今更彼の名を惜しむことはしない。だが母の名までも貶めるわけにはいかなかった。
「私は我が身の保身の為に……人としての道を誤るのだな」
 この期に及んでも、まだどうしようもなく家を思ってしまう我が心と、どうにもならない貴族の家の重さに、カイの胸は塞がれるのだった。
 屋敷に戻ったカイは、何事も無かったように迎え入れられた。もともとクレイオス家当主である父にとって、さほど重きを置かれていなかったカイだ。醜聞さえ持ち込まなければ、それで良いらしい。
「どこに行っていた?」
「所用で南の別邸へ」
「おまえの留守中に、ミリィが屋敷を下がったぞ」
「……そうですか」
 短い問いに短い答え。全てはそれでよしとされた。
 最初の内こそ乳が張り、腕を挙げるのも辛かったが、与える子もいない乳房は次第に張りを失っていった。カイの中に芽生えた儚い母性も、それと共に消えて行くように感じられた。
 時折カイはミリィの家を訪ね、生活に困らないだけの金を置いていく。クレイオス家の資産の内、微々たるものではあったが、カイの自由になる財は有った。
 ミリィに預けた子はよく乳を食み、次第にふっくらとした頬を持つ可愛らしい子になって行った。髪の色も美しい金色に定まり、時折笑いかける瞳には深い蒼が宿っていた。名はセラと付けられた。
 だがそのセラも、生れ落ちて半年になるかならぬかで病を得、あっけなくこの世を去った。あとに残されたのは、小瓶にいれられた、柔らかく無垢な金の髪が一房。


 カイはその後、イティオス伯の勧めによってクレイオス家を出た。そして正式に養女という形式は取らなかったが、子の無かった伯のもとに身を寄せることとなった。
 もともと兄であるクレイオス伯とは折り合いの悪かったイティオス伯。彼は常々、兄クレイオス伯に省みられないカイの事を不憫に思っていたのだ。旅に出たいというカイを、理由を問うこともなく送り出してくれたのも、イティオス伯だった。
 カイは噂を頼りに術師を探した。忍び込む手立ては賊のそれに近い。あれほどの力があれば、腕が立つ者として賊の中でも重きを置かれているのだろう。
 術師がいるらしいと聞けば、遠くの街にでも出掛けていって、怪しげな店にも出入りする。だがその多くは、徒労に終わった。少しばかり念ずる力の強い者が、自らを術師と称して王宮への出仕を目論んでいるだけであった。過日の術師のように、大気の精霊を操り、闇の精霊をも同時に操ったその上で新たな赤い光を生み出せる程、力の強い者ではなかったのだ。
 カイは術師を求めた。再び彼に会って、答えを見つけなければならなかった。
 クシーの命を絶ったのは自分の言霊。だが、その引き金となった術師が何者であるのか、自分が魂の片割れと呼ばれる由縁は何なのか。
 そして……。
 子の父親は、本当にクシーだったのか。
 金の髪に蒼い瞳。クシーの色だ。人の手に委ね、そして儚く消えた子。セラは共に生きようと言ってくれた従兄殿の忘れ形見であると、何度も己に言い聞かせた。
 だが……。
 術師の顔かたちは精霊によって隠されていた。その者の顔を見れば、引き千切られた絵の最後の一片が見つかるかも知れない。術師の子では無いという証が手に入れられるかも知れない……。
 カイは自分が産み落とした子がクシーの子であると確信したかった。確固たる証をその目で確かめたかった。
『いつかまた……(まみ)えようぞ』
 去り際に術師が残した言葉がよみがえる。
「望み通り、見つけ出してやる」
 街を巡り、赤い砂地を渡り、国境を超え、そしてまた国に戻り……。
 終わりの見えない旅だった。


「どうだ、愛想がつきただろう? 自分を救おうと手を差し伸べた男の命を奪い、父親の判らぬ子を産んだ挙句、その子さえ自分の保身の為に手放した。私はそういう人間だ」
 タウの漆黒の瞳を見据えたまま、カイはそう結んで唇を閉ざした。あとには耳の痛くなるような静寂のみ。
 いつの間に戻ったものやら、傍らにはミリィが控えていた。何も言わず、ただ黙ってカイの背後から金の糸が入った小瓶を見下ろしている。
「だからおまえは……男の愛情の押し付けなどたくさんだ、と言ったのか」
 小瓶に目をやり、タウは低くつぶやいた。
 その視線の行方を追い、カイは薄く儚い笑みをその口の端だけに浮かべた。
「そうだ。私は女でありたいとは思わない。力ずくで奪われるのもごめんだ。判ったなら、もう二度とあんな真似はするな。もっとも……ここで私とは道を分かつ、という手もあるぞ。この家を出たなら、私は西に向かう。そしておまえは東へ。我らの道は二度と交わる事もあるまい?」
 儚い笑みは、肌の上に落ちた雪が溶けるように消え、代わりに挑戦的ともとれる眼差しがタウの瞳を射止める。
 タウの手が膝の上で握られ、拳を形作った。
「いや」
 男らしい、低く、凛とした声。
「その術師とやらを一緒に探してやる。それが俺のおまえへの想いだ」


 オルセイヌ王宮の王の間では、現国王ファイ・ユピテル・オルセイヌが過日の祭りの際の報告書に目を通し、苦々しく息を吐いていた。
「……では、探し物は見つからなかったというのだな?」
 傍らに控える宰相に向けて、ちら、と視線を送り、ファイはまた深く息を吐いて椅子に身を沈める。獣の皮を張った椅子は、ファイの体をゆうるりと包み込んだ。
「申し訳ございません、王。目指す術師は……どこにもおりませんでした」
 深々と頭を垂れて床の敷石を見つめたまま、宰相は王の言葉を待った。開け放たれた窓から風が渡る。ファイの背に垂らした長い金の髪が、さらりと吹き上げられた。
「もうよい。下がれ」
 低く静かな声色が、却って王の苛立ちを窺わせる。宰相は一層深く頭を垂れると、突き返された報告書を手に、王の間を辞した。
 一人残されたファイは、肘掛に肘をつき、片足を行儀悪く椅子の上に乗せる。靴の下に踏みしだかれた椅子の革が、細くうねって波を形作った。
 肘を肘掛に置いたまま、長くしなやかな指を口元に触れる。薄く整った唇が指先に押されて濡れたようになまめかしく光った。
「必ず探し出してやる」
 整ったきつい双眸が、強い意志を持って光る。長い睫毛に縁取られたその瞳は、虚空に輝く月のように蒼かった。


 ミリィの夫はしばらく帰って来ないと言う。長の屋敷勤めで随分間に合う者であったため、屋敷の主人があれこれと用を言いつけ、泊り込みになる事も多いというのだ。
「居を移すことになるかも知れません」
 夫が仕える主人の屋敷の敷地近くに、もっと広い家を持たせてくれるという話も出ているのだ、とミリィは笑った。
「もともとはカイ様のお世話をするために間に合わせで移り住んだ家。遠縁の者が残してくれた古い家です。あちこち痛んでおりますゆえ、そろそろ潮時なのかも知れません」
 カイ達を泊めることができるのも、これが最後かも知れない、とミリィは少し寂しげにうつむいた。
「私こそ、ミリィの優しさに甘えてばかりだった。礼を言う。そして……辛い思いをさせてすまなかった」
 ミリィの小さな肩に手を置き、カイは頭を垂れた。
「カイ様……」
 ミリィの小さな手が小瓶に伸ばされる。手に取ると、金の糸は音も無く揺れた。
「これはカイ様が」
 取り上げた小瓶をカイの胸に押し付ける。
 その手を優しく押し返し、カイは寂しげに微笑んだ。
「この子はミリィの子だ。私は産み落としただけ。短い生ではあったが、最後の瞬間まで慈しんでくれたのはミリィだろう?」
 養い親の手に戻った小瓶は冷たく静かに、ただそこにあった。ミリィはそれを両の手で包み込み、愛おしそうに頬を寄せる。金の糸から暖かな光の珠が生まれ、そして静かに消えていったような……そんな幻影がカイの心眼に映った。


「世話になったな」
「カイ様、なにとぞお元気で。そちらの方も」
 カイが膝を折り、ミリィの肩を抱き寄せた。粗末な上衣を纏った肩越しに、ミリィの茶色の瞳がタウにも笑みを送る。心が温かくなるような、そんな笑みだった。
「やっぱりそうしていると、男にしか見えんな」
 玄関の扉に体を預けて腕を組んだまま、タウは苦く口の端を引き上げた。
「どうか……カイ様をお守り下さいね」
 抱擁を解かれると、ミリィはタウの漆黒の瞳を食い入るように見つめた。懇願の瞳。
「自分の身くらい、自分で守れる」
 苦笑いの顔でカイはタウを振り返った。その深碧の瞳の中には少しばかりの信頼の色が見え隠れする。
 それを見て取り、タウは破顔した。
「何が可笑しい?」
 不機嫌そうな顔をするカイ。
「おまえは何があっても、おまえだ」
 冷たい深碧の瞳も、信頼の色も。優れた剣の使い手であることも、そして過去に何を背負っていたとしても。
「そしてやっぱり……俺はそんなおまえに惚れてる」
 強い意志。確固たる想い。
「足手まといになったら、置いていくぞ」
 上衣を頭の上まで引き上げ、カイはくるりと踵を返す。上衣の擦り切れた裾が、風を孕んでふわりと舞った。その布端から隠し切れずに銀髪が零れる。白銀のようなそれは、今日新たに生まれた日の光にキラキラと輝いていた。