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銀の剣士


〜八〜


「お前、祭りには休みがもらえたのかい?」
「ああ、もらえたさ。それで祭りに行ったには行ったが、すぐに内密に馬を入用だってんで、休み半分で引き上げて来ちまった」
「なんだって内密に馬が入用だったんだ?」
「さあな。ただ、何かを……いや、誰かを探していると、そのお方は言っていた」
「ふうん。祭りを放っぽっといても探さなきゃならん人ってぇのは、何なんだろうな」
「えらい方々の都合は知らねぇ。だが、子供は俺のことなんざ、もうあてにしねえ、と言いやがった」
「ははは。そりゃ難儀なことだな」
 干草と獣の匂いが満ちた厩舎。その片隅に設けられた小屋の中で、馬番二人が先日の祭りの日の事を語りながら椀に汲んだ茶に口をつけるところだった。
 辺りには闇が降りて物音はなりを潜め、入り口に掛けられた灯台の火がちらちらと瞬く。馬達もすっかり静かになり、時折聞こえるのは、短い鼻息のみ。
 普段と同じ、のどかな宵になる筈だった。
「馬を!」
 まるで降って湧いたように鋭く響く、声。決して大きくはなかったが、聞く者の魂の奥底から眠っている何かを呼び起こすような、凄烈な声だった。
 小屋の入り口から首を出した馬番は、見事な金の髪を翻し、供も連れずに大股で歩いてくる国王ファイの姿に肝を潰した。いつもなら側近の者が馬を引き出しに来る。国王自らこんな厩舎に来ることなど、滅多に無かった。
 遠くからしかその姿を見たことは無い。だが、見事な金の髪の下で冷たく燃え、薄闇の中でもそれと判る蒼の瞳は、間違いなく王のものだった。
 慌てて立ち上がった拍子に、手から転げ落ちた椀から汲んだばかりの茶が粗末な衣装の裾に零れかかる。熱さを感じるいとまもなく、馬番は馬を引く綱をとりに走った。
『蛇王』
 王宮内のそこかしこで小さくささやかれるその名は、気性の激しい国王を揶揄してのものだ。
 いつ機嫌を損ねるか判らない。そして一旦機嫌を損ねたなら、それを鎮めるために誰かの血が流されることになる、と言われている。
 戦場にあっても王自らが率先して第一線に立ち、剣を振るう。側近がいくら止めても王はその美貌を僅かに歪ませるだけで、時には止め立てした者すらその手にかけて戦いに赴く。そして敵の只中にあっても相手の刃は決して王に届くことなく、挑んだ者は必ず骸となって地面に転がるという。
 かしずく者達にとって、オルセイヌ国王は毒を持つ蛇よりも恐ろしい存在であった。
 その王が、今厩舎の入り口で、馬を、と言う。
 馬番達は、粗相をせぬよう、そして王の目を見ぬように顔を俯かせたまま、俊足で名の通った極上の白馬を引き出し、その綱を王のしなやかな冷たい手に渡した。
「ご苦労」
 手から手へ、引綱が渡る刹那。王の美貌に凄艶な笑みが浮かぶ。それはぞっとするほど美しく、残酷な笑みであった。


 先ほどから宿屋の一室で腕組みをしたまま、カイは窓辺から眺められる景色を睨みつけていた。
 既に日は落ち、通りに面したこの部屋の窓からは、昼間とは違った人々からなる雑踏が紡ぎ出す様々な音が這い登ってくる。商家の灯りは一層毒々しく瞬き、人の欲と野望が悠久の時を経た闇さえも追い払って街を支配していた。
 カイは聞くともなしに人々の作り出す雑多な音に身を任せ、ほうっ、と深く息をついた。
 賊の頭である刺青の大男は、術師など見たこともないと言った。これだけ探し回っても、その影すら見つけることが出来ないのは、過日の術師が力を隠して徒人(ただびと)に紛れているからなのか。いや、そんな筈は無い。盗賊たるもの、少しでも仲間内で良い地位を得ようと己の力を見せ付けたがるものだ。それが誰の覚えるところでもないと言うのは……。
 あの術師はどこに行ったのだ。
『いつかまた……(まみ)えようぞ』
 去り際に術師が残した言葉がよみがえる。ぬぐってもぬぐっても肌を這う指の感触が消えなかった。それは今でも時折思い出したように肌の上に蘇る。まるで(くさび)を打ち込まれたように、あの晩に受けた屈辱が今もなお、胸の奥で疼いている。
 なのに、術師の顔も判らず、確かに聞いた筈の声すらも、記憶の断片にさえ残っていない。
「これも術だったのか……?」
 他の者のいいように自分が操られるのも我慢ならなかった。
 この都に来てから、確かに感じる異質な『気』。それさえも自分の思い違いではないかと、ふと不安になる。この気配すらも、術師の言霊が紡ぐ罠なのではないだろうか。術師は今もすぐ側にいて、自分の心が苦しみにのたうちまわっているのを、万人には聞こえぬ哄笑に身を捩りながら眺めているのではないだろうか。
 通りから聞こえる音が見えない手となって、背筋を這い登って来るような気がした。
 ぞくり、と肌が粟立つ。
 大体、自分は何故術師を追う?
 産み落とした子の父親が誰であるか、などという事は、もうどうでも良いではないか。
 この手で育てることなく、子は死んだ。手元には何も残っていない。唯一残された小瓶に詰められた金の糸は、ミリィに託して来たのだ。
 今更父親が誰かなどと、知ってどうなるものでもあるまい?
 自分は一人。最初から一人。誰も愛さなかった。誰からも愛されなかった。誰とも触れ合うことはなかった。それで良いではないか。
 誰にも必要とされず、誰も必要としない。冷たく凍え、丸く丸く完全な珠となって、そこにいれば良い。
 自身で始まり、自身で終わる透明な珠。光さえもその中を通り抜け、己の中には何も残らない。
 何もかもを拒絶して。自分自身さえも。
 窓から這い登る賑やかな音の中にあって、カイの意識は深く、深く、己の内へと沈んでいった。


『コンコン』
 木製の扉が軽やかに叩かれ、澄んだ音をたてる。
 カイの他に動くもののない部屋に、それはことの他、大きく聞こえた。
「入ってもいいか?」
 許しを乞う、タウの声。低く響くその声は、奈落の底へと落ちていくカイの意識を絡め取る。パン、と珠が割れるように、カイの意識が弾かれた。
 途端にカイは、つい今しがたまでの自分の考えが馬鹿げたものだと頭を振った。捕まってしまったのか。この都に漂う妙な『気』に。
「ああ」
 短く答える。ギイッと軋んで扉が開いた。耳障りなその音に隠すようにして、カイは細く深い息を吐いた。途端に腕が痛み出す。何事かと視線を落とせば、腕組みしたまま二の腕に深々と爪を立ててしまっていた。袖のない下衣のおかげで露になった皮膚が弓形に破れ、滲んだ血の赤色が鮮烈に視界を彩る。
「出掛けるか?」
 闇色の衣装に身を包み、すっかり身支度を終えたタウが入り口から半身だけを乗り出して問う。まだくつろげたままのカイの衣装に、少しばかり驚いた表情を見せた。
「まだ仕度をしていなかったのか。なっ……それは?」
 薄闇の中でも鮮やかに視界を彩る赤に、タウは思わず駆け寄っていた。
「爪で刺したのか?」
「ああ。だが大したことはない」
「見せてみろ」
 タウの固く節の触れる剣士の手が、カイの腕をとる。きめの細かい白い腕は、すっぽりとタウの掌に納まった。
 カイは、何故だか弱い心を見られたような気がして、黙って顔を背けた。抗おうと思えば抗えた。だがカイは、そうしなかった。
 へたに抗えば、この男はますます感情を昂ぶらせて言い募るだろう。今はこの妙な『気』に捕らわれてしまった己の心を、少しでも早く奮い立たせるために、つまらないいさかいなどしたくない。
 ……いや。
 本当にそれだけなのか?
 不意に暖かいものが二の腕に触れる。ふと首を巡らせば、タウが腕の傷に唇を寄せ、血をすくい取っていた。驚くカイの気配を感じたのか、顔を上げずにタウが呟く。
「誤解するな。毒が入らないようにしているだけだ。浅い傷ならこれで治る」
 言った後で、無心に己の腕に唇を寄せるタウを、カイは黙って眺めていた。すぐ目の前にタウの黒髪がある。固い意志を持って自分について来ると誓った剣士の、その心根と同じように真っ直ぐな漆黒の髪。並の女だったなら、そこまでされれば惚れるだろう。だが自分はそうはならない。長い間に染み付いた、男として生きたいという願いが、二人の間に深い隔たりを作っていた。
 タウは一通り血を舐め取ると、衣装に血が滲まぬよう、上から布切れを巻いて縛った。節くれだった剣士の手が、細い布切れの端を器用に結ぶ様に、カイは瞳の色を和らげる。
「すまない」
 結び目が出来上がると、カイは静かに言った。
 タウがハッと息を呑んでカイに目を向ける。視線の先の白い美貌は、苦しげに眉根を寄せ、静かにタウを見つめ返していた。
「すまない、タウ」
 再び紡がれる言葉。
 聞き間違いではない。タウは心臓が早鐘のように鼓動するのを感じた。
 いつもなら邪険に払い除けられる手が、今日は触れることを許された。その上出過ぎた真似をした自分に、『すまない』と言ってくれた。
 苦しげに寄せられるカイの眉根は、単に腕の手当てをしたことだけに『すまない』と言ったのではないことを物語っている。だが、それでも良い。
 想いを返してくれなくても良い。今ここに、共にあることを許してくれるならば。
「行くか?」
「ああ」
 短い問いと短い答え。
 不可思議な『気』に捕らわれた都に、凜とした意志が響いた。


 先を行くカイの銀髪は緩く編まれ、背に垂らされている。上衣を(まと)っていない背に、それは美しく映えた。
 続くタウは上衣を肩から流し、隙のない瞳で辺りに目を配っている。緩く束ねて背に垂らした髪は、漆黒の艶を返して風になびく。
 長い髪は、剣士の印だった。
 戦いにあっても首を傷つけないよう、髪が守る。刃を防ぎ、無防備な背を守る。女が髪を伸ばすのとは、訳が違っていた。
 剣士でない男は、皆一様に髪が短い。術師であれば、短い髪なのであろう。カイと肌を重ねることができたのだから、男であることは間違いない。
 術師について、聞き回ることはやめた。この都に漂う『気』は、ここに何かがあることを教えてくれている。そんな中で無闇に聞き回ることは、相手に自分達の存在を知らしめているようなものだ。
 行き交う人々をそれとなく窺い見て、その『気』を探る。短い髪の男がいれば、ことの他意識を研ぎ澄まして探りを入れる。
 それは並大抵ではなく疲弊する作業だった。


「二人して同じ所を探っていても、効率が良くない。どうだ、二手に分かれないか?」
 カイが随分疲れた様子で傍らのタウに目を向けた。その美貌はまるで熱を帯びた病人のようで、痛々しく見える。気の消耗が激しいのだろう。
「大丈夫か? 随分疲れているようだが」
 タウは気遣わしげに声を掛ける。問い掛けたところでカイの気持ちが動くとは思っていなかった。カイがこう言い出すからには、もうそれと心を決めているのだろう。それならば自分は素直に従うまでだ。
「では気を付けて行けよ。二手に分かれては、何があってもすぐに駆けつけてやるわけにはいかないんだからな」
 まるで姫に仕える騎士のように芝居がかった表情を作って、タウは言った。
「何を言っている」
 言い返すカイの口調は咎めるようだが、その瞳は苦笑の色を帯びている。
「ミリィに頼まれたんだからな。おまえを守ってやってくれって」
 茶色の暖かな瞳を思い出して、タウはそう言い募った。
「ああ。おまえに守られるようになってはおしまいだが、その好意だけは心に留めておこう」
 あくまでも食えない口調を崩さず、カイは唇の端を美しく歪めた。
 ふと、その唇が艶を帯びる。カイの細く長い指が、タウの頭を支えて漆黒の髪に梳き入れられた。大した力でもないのに、タウの頭はカイに引き寄せられる。うっすらと紅を帯びた形の良い唇が、タウの男らしい唇をふっくりとついばんだ。
「先ほどの礼だ」
 近づいた距離がまた離れて行く刹那、カイの甘やかな吐息がそう語った。
 鮮やかにタウの脳裏に刻まれたカイの唇の感触。それは、今ひとたび離れ離れになる旅路の暗示でもあった。