〜九〜
夜の闇を切り裂いて、馬が走る。
馬上にあるのは、金の長い髪を翻し、肩から真紅の絹の布地を
纏った若い男。
腰には細かな象嵌も美しい一振りの剣をつけ、艶やかな色彩の肩布を水平になびかせてひた走る。
白馬の蹄が地を蹴るのに合わせて、男の身体はしなやかな鞭のように揺れた。
――王宮の外は心地良い――
馬上の男、国王ファイは、久し振りに感じる開放感に酔っていた。王宮内では拘束されるものが多すぎる。しきたり、立ち居振舞い、そして……。
ファイの根本ともいえる物をも、王宮は封じ込める。
――今はまだ――
王だとて、できない事は山ほどもある。
――だが今に――
求める術師を手中にすれば、それさえも叶うのだ。
ファイは一層深い蒼の瞳で闇の向こうを見据えていた。
「何故だ……」
街外れの商家の土壁にもたれ、カイは溜息と共に、小さく舌打ちをした。
タウと別れてから随分歩き回った。その間にも、どんどん体が重くなって行く。漫然と意識を解放して一度にたくさんの気を窺っているからといって、こんなに疲弊する筈は無かった。
「私が弱音を吐くなどと」
額に手をやり、髪をくしゃっと掻きむしって目を伏せる。己の不甲斐なさがいまいましく思えてならないのだ。伏せられた長い濃灰色の睫毛が、白い肌に影を落とした。
息が熱い。どうやら、その体の内に熱を持ってしまったらしい。薄物を通して辺りを感じているような漫然とした感覚に、カイは不快感を覚えた。
「こんな時に、どうして……」
ガクリと膝を付きそうになるのを、かろうじて耐える。肩で一つ大きく息をついて、カイは己を奮い立たせるようにきつい眼差しで前方を見据えた。
「……!」
不意に何かの気配がする。それは小さな一条の光の筋のようにカイの意識を小さく突いた。気配は次第に確実な存在感となり、一条の光の筋は除々に太くなってカイの意識を切り開く。
「近づいてくる」
気配が確実な存在感になるのと同時に、カイの中で重い音が鳴りはじめた。
『ドッドッドッ……』
微かに腹の底に響いてくる、規則正しい音。耳に聞こえるわけでもないその音は、カイの解放した意識にひたひたと押し寄せてくる。それは心地よさと、反面、嫌悪感とをもってカイの胸に迫った。
何故だか判らない。不意に頭の中で、警鐘が鳴った。重い足を叱咤し、商家の脇の小道へと体を滑り込ませる。よろけて思わず
縋った建物の壁の
凹凸が、カイの薄い手の皮膚を破った。どんなに剣を持って鍛えても厚くなることのなかったしなやかな手の甲に、細長い小さな掻き傷が無数に走る。傷ついた肌からは鮮やかな赤が滲みはじめた。だが研ぎ澄ましている意識のおかげで、カイは痛みを感じることはなかった。
音はだんだん近づき、次第に
徒人の耳にも聞こえるところとなった。
規則正しく繰り返される音の正体が、馬の蹄の音であるとはっきり判るようになると、通りを歩いている人々が慌てて脇に退く気配がする。
「王だっ」
「王のお出ましだ!」
遠くの方から口々に叫ぶ声がする。その声を聞いて、行き交う人々の動きがにわかに慌しくなった。
ある者は一目その姿を見ようと建物の窓から乗り出し、ある者はあまりの畏れ多さに顔も上げられず、道端にひれ伏している。
――王――
カイの瞳は吸い寄せられるように声のする方へと向けられた。
剣士として王宮に出仕したいと願っていたのはいつの事だったか。あれからそんなに時は経っていない筈なのに、遠い昔のような気がする。弟が生まれ、家を出た今となっては叶う筈の無い望み。
女として生きる事を拒否し続けていたカイは、華やかな社交界に顔を見せることも無かった。だから王の顔を見たことはない。同じ年頃の貴族の娘が髪を高々と結い上げ、腰を細く絞った正装に身を包んで次々と社交界にお披露目されていく頃、カイは剣を手に、命を削って稽古を重ねていたのだ。
――王に会うのは王宮付の剣士として、の筈だったな――
剣士としてお護りする筈だった王の姿を、一目なりとも見ておきたいと思った。
――体が熱い――
いつの間にかカイの頭の中は、すっかりもやがかかったようになり、嫌悪感がすうっと引いて行く。熱に浮かされた心地よさのみがカイの体を支配して、周りの騒々しさも何も感じられなくなっていた。
商家の壁を支えに、ふらふらと足だけが千鳥に進む。脇道が唐突に終わったのも知らず歩を進めるカイの手が、ふわりと空を彷徨った。重心がぐらりと傾く。
馬の蹄の音はすぐ近くに迫っている。疾走するそれは、恐ろしい勢いで近づいてきた。
刹那、支えを失ったカイの体が大通りに転がるようにして投げ出される。
『ブルルルルッッ!』
荒い鼻息と人々の悲鳴が聞こえたような気がした。除々に暗くなるカイの視界の中に、金の華が舞った。
――クシー……か?――
『ドウッッッ!』
鈍い音をさせて馬が倒れる。馬上のファイは咄嗟に手綱を離し、身をかがめて転がりながら馬から遠のいた。馬の体の下敷きにならないためだ。
転がって道端に積み上げられた商家の荷物に行く手を阻まれ、ひらりと身を翻す。瞬きをする程の間に、ファイは地面を足で蹴りつけ、立ち上がっていた。
見守る人々が何が起こったのか把握する前に、ファイはすっかり何も無かったように涼しい顔で己の衣装についた土埃を叩き落している。
さすがは百戦錬磨の王のこと、軽いかすり傷と打撲を負っただけで、大事なかった。
馬もそんな王に付き従って来ただけのことはある。足を折ることもなく、転げただけですぐに立ち上がった。馬の首につけた布飾りの房が、一房取れて蹄に踏みつけられていた。
「あの……これを」
若い娘が、震える両手でファイに手巾を差し出した。畏れ多さから国王の顔を見ることができずに、俯いたままである。
ファイはちらりと娘を一瞥し、わざとゆっくりと手を伸ばす。震える掌から手巾を取り上げる際、娘の指に意図して触れた。
「……!」
驚いた娘が顔を上げ、指を折って手を引っ込めた。その反応が可笑しかったのか、ファイはクスリと口の端で笑う。
「よい。行け」
王の美貌を凝視したまま動けないでいる娘に向かって、ファイは威厳に満ちた冷たい声で言い放った。
娘は顔を真っ赤に染めて、王の手中に己の手巾を残したまま、バタバタと駆けて行く。その後姿を見送りながら、ファイは無造作に手巾で唇を拭った。布に押し返されて緩く歪む唇の線は、滲んだ血の色もなまめかしい。だがその上に光る蒼の双眸は、冷たい意志を宿している。
いきなり脇道から転がり出てきた男を、すんでのところで馬が蹴り上げてしまうところだった。手綱を強く引き絞って馬の鼻面を脇に逸らしたつもりだったが反対にこちらが倒れてしまった。
――おのれ! こんな奴など、足蹴にしてやれば良かったものを――
口の中を切ったのか。錆びた鉄の味が心地悪い。
憎々しげに血の混じった唾を吐き捨てると、ファイは倒れている男を振り返った。
いつものファイならば、脇から出てくる者など蹴り飛ばしても何も感じない。馬がいると判っていて、出て来る方が悪いのだ。
だがもう少しでぶつかるという刹那、男の銀の髪が美しく光った。近隣諸国にあっては珍しい銀色。蛇王と
揶揄される自分が少しばかりの気紛れを起こしたのは、この髪のせいだ。
ファイは立ち上がると、倒れている男に歩み寄り、美しい象嵌の剣をするりと抜いた。商家の灯りを返して、剣は鈍く光った。
「立て」
短い言葉。聞く者を絶対的に従わせる力を持つ、王の言葉。
だが銀髪の男はぴくりとも動かなかった。
「死んだか」
男からは何も感じられない。意識が深く沈み、死んでいるのか生きているのか判らない。
うつ伏せていた男の体を足で蹴って転がす。力の抜けた体はぐにゃりと上向いた。
「ほう……」
美しい顔だった。濃灰色の睫毛が長く瞼を彩り、透けるような白い肌はきめ細かい。苦し気によせられた眉根さえ彫りの深い顔立ちに彩りを添えている。頬についた土埃も、その美貌を損なってはいなかった。
――今夜の獲物はこやつに変更だ――
ファイは唇の端を歪め、冷たく微笑んだ。術師を探すのは、また後日だ。今日出会ったこの男には、妙に惹かれる。
――この髪の色――
この者の纏う美しい銀糸は、何かの巡り合わせか。
次第にわらわらと集まって来る人々を少しも気に掛ける風でもなく、ファイは銀髪の男の体を持ち上げると、軽々と肩に担ぎ上げる。思いの他軽いその体は、簡単に王の思うままになった。男の銀の髪が、風を孕んでふわりと舞った。
くるりと向きを変え、その場を動かず主を待っていた白馬の背に乗せる。自分も遅れて鞍にまたがり、手綱を握った。
「はっ!」
短い声とともに馬の尻に鞭をくれる。重い地響きを立てて、白馬はあっと言う間に遠巻きに見守っていた人垣から離れ、夜の闇に溶けていった。
――いない――
もう随分長い間、タウは同じところをぐるぐると回っていた。
カイと別れて術師を探し出してから、もう随分と経つ。そろそろ宿に戻らねば、身がもたない。明日も朝早くから気を伺いに街に出るつもりなのだ、とカイは言っていた。
先に戻ってもいいのだが、部屋の中で心配しているよりも、自分の眼でカイを見つけ出したい。
不意に唇を意識する。カイの美貌を胸に思い描いた途端、先ほど触れ合った唇が妙に熱くなった。梳き入れられた細い指の感触が、鮮かに髪の間に蘇る。
カイが自分に恋愛の情を感じてそうしたのでない事は判る。だが、男として認めてもらえたのだと、そうタウは思っていた。
「どこだ、カイ」
おかしい。いつもならそんなに探し回らなくても何故か引き寄せられるように見つけられる銀髪が、今はなかなか見当たらない。
歩き回っている内に、とうとう街外れまで来てしまった。
賑わいこそ少し寂し気ではあるが、やはり王都だけはある。街外れといっても、そこそこの人出はあった。
前から声高に話しながら歩いてくる二人連れの男。興奮しているのか、タウとぶつかりそうになったのに、全く気づかずに通り過ぎる。身をかわしてすれ違いざま聞こえたその話に、何故だかタウの足が止まった。
「なあ、見たか? 王様がお出ましになったんだそうだが」
「見たともさ。金の長い髪で白い馬に乗って現れたんだ。凄く綺麗な王様だったぞ」
「俺も見たかったなぁ」
「それでその綺麗な王様が、これまた綺麗な男を連れて行ったんだ。こう、髪の色が白銀みたいで、王様の馬の前に飛び出して来たんだけどな。ピクとも動かなかったから、ありゃ馬に蹴られて死んだんじゃないかね」
「そりゃ可哀相なこったな。白銀の髪か。珍しいな」
白銀と聞いて、タウの足が凍りつく。背筋に冷水を浴びせ掛けられたようになって、タウは顔の色を無くした。
――カイか……?――
銀の髪を持つ者など、この辺りでは珍しい。それがカイであることは容易に想像できた。男は馬に蹴られて死んだのだという。そしてその亡骸を王が連れ去ったのだと……。
――嘘だ!――
唇に受けた感触も、髪の間に感じた指の感触もまだ覚えている。つい先ほどまでは、自分の傍らを一緒に歩いていたではないか。
「一人になど……するんじゃなかった……!」
握り締めた拳の内で、爪が掌に食い込んで血が滲む。それにすら気づかないほど、タウの心は激しく波立っていた。