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銀の剣士


〜十〜


 ――カイ……カイ、どこだ――
 タウの足は長い間歩き回ったせいで、既に悲鳴をあげ始めていた。
 カイは、王が連れ去ったという。
 ――どうして? 何のために?――
 生きているのか、死んでしまったのかさえ判らない。骸のようになった白銀の男を王が連れ去ったのだと……。
 だがタウは、カイがまだ生きていると信じたかった。いや、信じているからこそ、一刻も早くカイを探し出さなければならないと、そればかりを考えていた。
 今向かう道は、オルセイヌ王宮に続いている。王が馬で連れ帰ったのだとすれば、既にカイは警護の堅い王宮の中だろう。辿り着いたところで、どのようにして助け出せばよいか見当がつかなかった。
 ――でも行かなければ――
 痛む足を引きずるようにして、タウはただ歩き続けた。


 ――暗い――
 ――ここは……?――
 カイは深い澱みの底から湧きあがるように、除々に五感が戻ってくるのを感じた。
あまりにも静かだ。耳をどうにかしてしまったのか。瞼も重く、目を開けることができない。
 いや、何も音がしないわけではない。遠くの方で重い扉の閉まるかすかな音がカイの耳にも届いた。
 自分は何故……。
 ――ああ、そうだった。王をひと目、この目で見ようと通りに出たところで……――
 頬に何かが触れている感覚が戻ってくる。柔らかい、上質の布地。と、同時に痛覚も戻って来た。
「……!」
 右腕をどうにかしたらしい。鈍い痛みが筋に沿って走った。思わず詰めた息を、わずかずつ吐き出す。胸から押し出された空気と一緒に、痛みも少し吐き出されたような気がした。
 除々に戻る感覚は、少しずつカイの身体を解き放っていく。
 うっすらと瞼を押し上げた。ぼんやりと滲む視界に、窓から差し込む柔らかな光が揺らめいている。品の良さそうな調度品が置かれ、余裕を持って造られた室内は、一見しただけで身分ある者の屋敷と見て取れた。


「気がついたとみえるな」
 不意に低い声がした。
 視線を巡らすと、視界の端に金の長い髪が見えた。
 いつの間にそこに来たのだろう。それともカイが目覚める前からそこにいたのか。全く気配は感じ取れなかった。身体の不調がカイの感覚を鈍らせていたためなのだろうか。
 「……」
 誰か、と尋ねようとしたが、枷をはめられたように唇が重い。息の漏れる音だけが、小さくヒュウ、と鳴った。
「誰か、と尋ねたいようだな」
 コツコツという乾いた靴音と共に近づいた男は、カイが寝かせられている寝台の端に優雅な仕草で腰を降ろす。男からは良い薫りがした。貴族の、それもほんの一握りの者たちにしか使われない高貴な薫り。カイの家もそこそこの家ではあったが、この香を使うことは許されていなかった。
「美しいな。以前にもこのような髪の者を見たことがあるが……。その者は女であったからそなたとは別人の筈だが……」
 声無き問いには答えず、男はカイを見下ろした。男の双眸は蒼く光り、金の髪がさらりと背から零れる。美しい男だった。
 だが……。
 女、と聞いて、カイの身体が強張った。
 目の前の男の知っている者というのは、多分自分のことだろう。どこで、どのようにして自分を知ったのか。男のように振舞っていた自分が本当は女であることを、何故知っているのか。
「熱で身体が思うように動かないのだ。無理をすることは無い。……珍しいな、わたしがこのように人を気遣うなど」
 苦々しそうに唇を歪めながら、男はカイの身体の脇に両手をついて、その碧眼を覗き込んだ。蒼の双眸が底なしの泉のように光って、じっと見つめていると引き込まれてしまいそうだ。
「そなたを馬の脚にかけぬよう、咄嗟に手綱を引いたら落馬してしまった。まったく、いつものわたしなら……」
 ――落馬? それではこの男は……――
 カイの碧眼が物問いたげに揺れる。
「わたしの素性を知りたいと、顔に書いてある」
 ふっ、と小さく唇の端を引き上げ、男はカイの身体の脇についていた手を押し戻してゆっくりと身を起こす。
「いいだろう。わたしの名はファイ・ユピテル・オルセイヌ。この国の王だ」


 ――守りたかった人――
 ――守りたかった意地――
 ――ひと目なりとも見たいと思った王が、ここにいる――
 ――だが、王は女の私を知っている……?――


 カイの中に様々な感情が生まれては消え、思うようにならない身体は再び熱さを増し……その瞳は除々に力を失って再び暗闇を映すのみとなった。


 王宮の城門前に辿り着いたものの、どのようにしたら中に入れるのか、皆目見当が付かない。タウは高い城門とそれに続いて張り巡らされた塀を見上げた。
 自分とは縁の無い場所。ずっとそう思って来た。カイと巡り合わなければ、この中に入る動機など持たなかっただろう。
 だが今は、どうしても中に入らねばならない。入って、連れ去られたカイをこの手に取り戻さなければ……。
 門番の男が、チラリとこちらを見た。一瞬早く視線を外し、何気ない風を装って、城壁に沿って歩いてみる。まだこちらを窺っている『気』を感じたが、タウはそのまま歩きつづけた。
「よ、兄貴」
 丁度、門番からは死角になっている辺りで小さな声が誰かを呼び止めた。首を巡らせて辺りを窺うが、タウの他に歩いている者はない。ならば呼び止められたのは、この自分なのか。
「兄貴?」
 声に出して反芻する。『兄貴』などと呼ばれる覚えは無い。まるで盗賊の呼称だ。
 ――盗賊――
 城壁の反対側の茂みに身を隠すようにして、小さな影が動くのを見た。
「誰だ」
 聞く者をその場に凍りつかせるような、剣呑な空気を纏ったタウの声。腰の剣に手を掛け、いつでも抜けるように身構えた。
「おいらだよ。ケトだ。ほら、銀髪の兄ちゃんの財布をすった……」
「あーっ! おまえ、そんな所で何をしている? まさか今度は王宮の宝でも盗もうと思ってるんじゃないだろうな」
 今にも掴みかからん勢いで、タウは茂みの中の小さな影に歩み寄った。痩せた身体の少年が顔を引き攣らせてのけぞった。
 オルセイヌ城下の街でカイの財布を盗った少年、ケト。あの時盗賊どもをさんざんな目に遭わせ、この少年にも二度と盗みをさせないと誓わせたのだ。それがまだこんな所で盗人のように身を潜めて……。
 そこまで考えて、タウは、ハタと我が身を振り返る。
 ――俺も似たようなものか――
 門番の目を逃れ、この王宮に忍び込もうとしている。王が『正』ならば、その手からカイを取り戻そうと考える自分は『悪』という事になるのだろうか。
「むう」
 剣の柄に手を掛けてケトの顔を睨んだまま、タウの足はその場に止まってしまった。


「……」
 自分の銀髪が視界に一筋かかっている。カイが次に気づいたのも、同じ部屋の中だった。身じろぎはできるものの、体が重い。
 先ほどの男……国王の姿は無い。動きにくい首を、やっとの思いで巡らせたが、美しい金の髪はどこにも見つけられなかった。
 再び深く瞼を閉じる。
 ――王のもとにいるとは……――
 なんとも皮肉なことだ。剣士として出仕したいと願っていた頃は、その顔を見ることすら叶わなかった。家を捨て、寄る辺無い身となった今、自分はこうして王のもとにいる。
 だが……。
 王の見知った女というのが、何故自分なのか。こちらには王と(まみ)えた覚えなどない。男として暮らしていたカイの素性は、誰も知らない筈だ。
 口の中に、土の味が広がった。通りで倒れた時に入ったのだろう。ジャリッと歯の間でつぶれるその味は、カイを一層惨めな気持ちにさせた。


 ギィ……
 重い扉の音がして、フワリと良い薫りが辺りに漂う。それは王の纏っていた高貴な薫り。
 寝台に近づく靴音が聞こえる。続いて、低い声が。
「気がついたか。ならば丁度良い。そのうす汚れた衣装をどうにかせよ。わたしの小部屋が汚れる」
 替えの衣装を手にしたファイが、カイに向かってそれを差し出していた。
 ――着替えなど、ここでできるわけが……――
「……」
 カイは言ったつもりだった。だがその唇からは息だけが漏れ、ヒュウ、と掠れた音がする。それならばと、碧眼に力を込め、拒否の意を表した。
「できぬのか。ならばわたしが着替えさせるぞ」
 ファイの手がカイに向かって伸ばされる。僅かに身を引いて、カイはそれに抗った。
「どうした? うぶな町娘のようなことをする。それが更に相手を誘うことになると、知らない筈はなかろう。そなた、男色の趣味でもあるのか」
 言い募りながら、なおも手を伸ばすファイ。そのしなやかな指先が、カイの衣装の襟を掴んだ。
 カイは、なおも身を引こうと、動かぬ身体に力を入れる。身を堅くして自分の秘密が暴露されるのを拒んだ。
 そんなカイを冷たく見下ろし、ファイは『ふん』と鼻を鳴らした。
「脱げぬというなら、剥ぎ取るまで。馬鹿な男よの」
 襟に掛けた手を斜めに払う。衣装の布が、甲高い音を立てて引き裂かれた。
「これは……」
 肩から大きく斜めに破られた衣装の下に潜む白い肌。胸を覆うようにきっちり布を巻きつけているにも関わらずなだらかな曲線を描くそれは、男のものではなかった。
 ファイの双眸がユラリと揺れる。除々に細められて、剣呑な光が宿った。
「く……っくっく……」
 千切れた衣装の端を握り締めたまま、ファイはくぐもった笑いを漏らす。何が可笑しいのか。カイは嫌な気配を覚えた。
「探し物が向こうから転がり込んで来るとはな。こんな(なり)をして、見事にわたしの目を欺きおって」
「探し……もの……?」
 縛めを解かれたように、ようやく唇が動く。ゆっくりだが、流暢な言葉がカイの形の良い唇から漏れた。
「わたしはそなたを探していた」
 王が自分を探していた……と?
 それは一体どういう……。
「そなたは術師。そうだな? そなたこそ、わたしの求める者。随分と手間をとらせてくれたものだ」
 ファイは寝台の端に片膝を乗り上げ、カイの顎に指をかけて、ぐっと上向かせる。人の力を借りれば、カイの身体は容易く動いた。
「なるほど、そなたが未だに口を開き難い訳が判ったわ。この王宮はな、術師が容易に言霊を紡げぬよう、強大な力でそれを封じ込めるようにできておるのだ」
 ファイの顔が近づく。蒼い双眸がカイの碧眼を捉える。
 金の髪が銀の髪に絡んだ。
「もう逃さぬ。わたしはやっと手に入れた」
 冷たく光る蒼が、カイの視界を奪う。刹那、唇に柔らかいものが触れた。
「……!」
 カイは顎先を上げてその縛めから逃れようとする。その無防備に開かれた喉に、しなやかに巻きつけられる指。指先には除々に力がこもり、カイは息苦しさに口を開けた。
 目の前には、蒼。深い深い蒼がカイの瞳に映る世界を凌駕していた。