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銀の剣士


〜十四〜


 開け放った窓辺にもたれ、カイは眼下に広がる景色を眺めていた。
 塔の上部にあるこの部屋からは、王宮の全景が見渡せる。滑らかに削った石を組み合わせて造られた建物は、微妙な色が混ざり合って重厚な織物のようだ。その向こうに広がる庭の、丸く綺麗に刈り込まれた低木の緑と季節の花の色が、鮮やかな絵画のように視界を彩る。贅を尽くした、王の住まう宮殿だった。
「いい子だ。ほら、お食べ」
 朝食の残りを出窓の縁に乗せてやると、どこからともなく小鳥が飛んで来てついばんで行く。カイが見ているのにも構わず、お互いに同じ欠片を取り合ったりして、なかなか可愛らしいものだ。
 鳥は良い。自らの意思と自らの翼で、どこにでも飛んで行ける。たった今、この背中に翼を持つことができたなら、カイはこの窓を蹴って翔び立ちたいと願っていた。
 ――タウは心配しているだろうか――
 彼もまた、王の手によって捕われているなどと思いも寄らないカイは、今頃彼女を懸命に探しているだろうタウを思って胸を痛めた。
 ふと、指を伸ばして唇に触れる。濡れたように柔らかい唇は、吸い付くようにしっとりと指先に馴染んだ。
 タウを思った刹那、最後に彼に触れたのはこの唇だったと思い当たった。
 艶やかな漆黒の髪にこの指を漉き入れ、この唇で彼の男らしい唇をふっくりとついばんだ。何の感情も無く、ただ触れ合っただけ。男と女の、激情に駆られたそれでは無かった筈だ。
 あれから、王に何度も唇を重ねられた。だが、薄く紅を引いたように艶やかな唇の上に蘇るのは、タウとの一度きりの口付けだった。
「タウ……」
 吐き出す息と共に、その名を呼んだ。決して恋では無い。けれど、珍しく長く傍らにいることを許した男に心配を掛けているであろう事が、とても心苦しく思えてならなかった。
 朝餉に満足したのか、群れていた小鳥の一羽が、羽音を響かせて飛び立つ。カイはその姿が点となって見えなくなるまで見送った。
 後を追うように、窓枠に置いた手に力が掛かり、ついには出窓に膝を乗せた。その足にそろそろと身体の重みを預け、もう一方の足を引き上げる。餌をついばんでいた鳥達が、驚いて一斉に飛び立って行った。
 両手をつき、中腰になって窓から下を覗き込んでみる。下から吹き上げる風がカイの柔らかな銀の糸を持ち上げ、たおやかに上へと吹き流す。衣装の袖がハタハタとはためいて、小さな音をたてた。眼下に広がる小さな世界。その高さに足がすくむような心地がした。
 ――強い力に目覚めれば、ここから逃れる事もできるのか――
 王は『強くなれ』と言った。強くなれば、王の為にその力を使わせられるのだろう。だがその気にさえなれば、自分の為に使うこともできる筈だ。
 印を結んで言霊を紡ごうとする。だが途端に唇が重くなり、動かなくなった。
「だめか……」
 組んだ指を解いた途端、滑らかに動く唇に落胆の溜息を漏らしながら、カイは再び両手をついて小さく頭を振った。


 不意に扉が開く気配がした。
「出陣だ」
 続いて凜と響く王の声が、穏やかな朝の空気を破る。
 驚く訳でもなく、中腰のままカイは声のする方を振り返った。小部屋の入口が開かれ、木製の扉に背をもたせ掛けたファイが、気だるそうに首を傾げて頬に掛かる髪を掻きあげていた。
「そこから飛び降りるつもりか」
 ファイは衣装の前をくつろげたまま、とても出陣の前とは思えない緩慢な仕草でカイを見ている。だがその瞳の光はきつく、カイの動きを縛るには充分だった。
「……飛び降りようとしたのではない」
 王の強い瞳の色が、真っ直ぐに心を突き刺す。ここから逃れたいという願いを見透かされたようで、カイは絡んだ視線を外し、そっと顔を俯けた。
 ふ……、と喉の奥で王が笑った気配がする。
「まあ、良い。飛び降りたところで、わたしからは逃れられないのだからな」
 顔を上げ、何を、と挑みかけて、カイはその言葉を飲み込んだ。
 王がこちらに向かって腕を突き出している。その手には、カイの剣が握られていた。
 王に捕われてより、取り上げられたままになっていたカイの剣。その昔は、優しかった従兄殿、クシーの物であった。
 美しく細工された装飾が、新しい光に触れて生命を持ったかのように息づく。鞘の房飾りが真紅に煌いた。
「それを返してくれるつもりか」
 まさかそれは無いだろうと、カイは鼻先で笑いながら窓辺から部屋の中へと飛び降りる。音も無くしなやかにその膝で衝撃を吸収すると、次の瞬間には背筋を伸ばし、凜とした眼差しで正面からファイを見据えていた。
「さてな」
 言葉とは裏腹に、ファイは突き出した腕を一層伸ばし、数歩近づいた。きつい光を宿した瞳はそのままに、無言で『受け取れ』と促す。カイは引き寄せられるように、ファイに向かって歩み寄って行った。
 あと一歩、というところでカイの足が止まる。進むことも、退くこともできる間合い。剣を取るために踏み出すことも、剣から逃れるために退くこともできるだけの間を開けて、カイは己の剣から王の顔へと視線を上げた。
「安心しろ。斬りはしない」
 ファイはなかなか寄ってこない獣を呼び寄せる時のように、カイの剣を上下に小さく振って見せた。
 す、とカイの足が滑る。流れるような所作で素早く剣を掴むと、自分の口許に引き寄せ、その柄越しにファイの様子を窺った。
「今ここで私が抜刀したらどうする」
 挑むようにカイは剣の柄に親指を掛け、持ち上げて見せる。鞘から浮き上がった刀身が冷酷な光を彼女の顔に反射させた。
「は! ……っはは……それもいいかも知れん」
 さも可笑しそうにファイは笑い出した。
「はは……わたしが死ねば、わたしの魂の記憶はそなたに受け継がれるだろう。そしてそなたは、わたしの苦しみを思い知ることになる。ふふふ……はは……!」
 どれだけのものを背負って来たのか。王は自らの生命などどうでも良いと言う。それ程までに苦しかったのか。カイ自身引き千切られた半分であるというのに、それを覚えていない。だがその痛みが、未だこの王を苛んでいるという。
 カイは剣を下ろし、なおも身を捩って狂ったように笑うファイを静かに眺めていた。
 膝に手を突き、腰を折って笑っていた王が、ふとその動きを止めた。長い髪が背から零れ落ち、顔を覆っている。急に押し黙ってしまった王の、その金糸の下の表情は読み取れない。
「だから、そなたはわたしを守れ」
 ややあって、小さく、だがはっきりとした声でファイが言った。身体に絡みつくような声。美しい声であるのに、カイは息苦しさを覚えた。
 ファイが除々にその身体を起こす。乱れた金の髪が一筋、頬に掛かったままである。素性を知らない者が見たら、一目で虜になってしまう程の悩まし気な美貌だ。膝から剥がされた手がカイの顎先を捉え、彼女の顔を仰向けた。
「今夜には出陣する。隣国の戦にどうしても手を貸さねばならなくなった。そなたはわたしを、その剣で守りたかったと言ったな。ならばその機会を与えてやろう」
 ファイの瞳が妖しく光る。
「そなたはわたしを守らねばならない。そなたの大事なものはわたしの手中にあるのだからな」
「何っ!」
 カイは、王の手をひったくるようにして握った。しなやかな指が彼女の顎先から外れ、握った掌の中からひんやりと冷たい感触が這い登って来る。
 真っ先に脳裏に浮かんだのは、先程まで考えていた男のこと。まさか……。
「黒ずくめの男はそなたの連れか。随分と威勢の良い男だったが、今はある場所に閉じ込めてある」
 勝者の余裕なのか。カイの手から静かに己の手を引き抜くと、ファイはゆっくりとその甲を撫でた。
「タウか? あいつが来たのか?」
「タウというのか。そなたを好いているようだったが……恋に眼が眩んで、盗賊の真似事までしてこの王宮に忍び込んだわ」
 色を失ったカイの頬に、ファイがその唇を寄せて囁いた。
「他の誰も知らない所に閉じ込めてある。そなたのようにな。わたしが無事に戻らなければ、あの者の生命は尽きるだろうよ」
 くっくっく、とファイは笑う。
「今夜だ。良いな」
 低く、重い声で短く言い置くと、ファイは唇の端を弓形に引き上げ、そのまま更に顔を寄せた。
 カイは王から逃れるように背筋を反らし、唇を硬く引き結ぶ。それを己の片頬で感じ、ファイは彼女の耳元で短く喉の奥を鳴らして笑むと、ふわりと離れた。
「待て……!」
 カイは金の華の残像を追った。だが意識ははっきりしているのに身体がうまく動かない。心と身体がばらばらになってしまったようだ。伸ばした手は空を切り、その間にも王の背は視界の中を遠ざかって行く。
「待って……くれ」
 カイの声が懇願するように響く。小部屋の入口に立った王は、今一度振り向いて艶然と笑むと、何も言わずに扉の向こうに消えた。続いて重い音がして、外側から錠が掛けられる。
「タウ……」
 渡されたばかりの自分の剣を胸に抱き、カイは祈るように眼を閉じた。


 小綺麗に片付けられた部屋。明るい日差しが差し込む窓からは、この部屋が高い場所にある事が窺える。
「兄貴、おいら達、どうなっちゃうんだろ……」
 椅子に力なく体を預けていたケトが、タウの背に向かって情けない声で呟いた。
「しっかりしろ。王は俺達を殺すつもりは無いらしい」
 弱気になる少年を強い眼差しで振り返って、そうは言ってはみたものの、あまり自分の言葉に自信の無いタウである。
 捕えられてから幾日かが過ぎた。その間、何度も逃げようと試みたが、全て徒労に終わった。剣や、およそ武器になりそうな物は取り上げられてしまっている。
 食事や身の回りの物は、王が運んでくる。その都度、逃げられないように、あの妙な力で押さえ込まれるのだった。情けないとは思うが、今では二人とも、すっかり逃げられないと悟ってしまっている。
 以前のタウだったら、王に身の回りの世話をされるなどという事は考えた事も無かったし、とんでもない事だっただろう。だがあの王は、ただの王では無い。
 ――まさか奴が、カイの言っていた術師なのか――
 ハッと目を見開き、タウはゆっくりと首をめぐらせた。
 カイを力で捻じ伏せ、意のままにした術師。彼女が産んだ子の父親かも知れない術師。それがあの王かも知れないと思い当たった瞬間、タウの胸の中に、焦燥感とも違う掻きむしられるような痛みが走った。
 唇を噛んで床を見つめる。拳が形作られ、そのやり場に困って、思わず壁に打ちつけた。痛みが腕を伝って背筋にまで達したが、心の痛みに比べれば、何のことは無かった。
 ケトがそんなタウを黙って見上げた。
「おいら達の王様があんな人だったなんて……さ。女みたいに綺麗な人だけど、なんだか怖いよ」
 椅子の上に細い足を引き上げ、両腕で抱え込む。
「前にここに出入りしていた時に、女官達が噂していたのを聞いたことがある。どんなに優秀な家来だって、王様の機嫌を損ねたら、殺されちまうんだって」
「その頃は王だって子供だっただろう。先代の王の事じゃないのか?」
 タウはやや乱暴に、壁に背を預けて息を整えると、椅子の上で膝を抱えて丸くなるケトを見下ろした。
「前の王様が早くに亡くなったから、今の王様のことだよ。『おまえみたいな子が普通の子供なんだよねぇ』って女官達が言ってたもの。王様は小さな子供の頃からどこか大人びて、周りの人間を見下しているような感じだったって」
「それは王として当然の態度じゃないのか? あんまり人にへつらう王様なんて、聞いたことがないが」
 タウの言葉に、ケトは膝を抱えていた腕をほどき、縋るようにタウを見上げた。
「家来を殺す時、王様は笑うんだって。ゾッとする程、すごく綺麗に笑うんだって。子供だよ? 子供なのに、人を殺すのが至上の喜びみたいに……それっておかしくないか?」
 遠い記憶の糸を手繰り寄せ、思い出した事実に怯えるように、ケトは再び椅子の上で膝を抱えた。
「おいら達も、王様の機嫌次第で殺されちまうんだ」
 たかだか十五歳の少年に、『死』という言葉の重みはあまり現実感の無いものだっただろう。だが現に今、こうして捕われの身となっている限り、それはいつも二人の傍らに有った。
「大丈夫だ。俺がおまえをここまで巻き込んでしまったんだからな。責任は取るつもりだ。俺の命を削ってでも、おまえを守ってやるよ」
 言ってはみたものの……やはりあの王相手に、爪の先程の勝算も見出せないタウだった。


 辺りは夜の帳に覆い隠され、全ての物がその色彩を失う。オルセイヌ王宮には夜の静けさとは相容れないざわめきが有った。
 王宮のひときわ高い塔に造られた小部屋にも、そのざわめきは壁を伝って這い登って来る。カイはそれを寝台に浅く腰掛けたまま、聞くともなしに聞いていた。
 王の持って来た胴衣は、いつもの刺繍飾りの施された物ではなく、厚手の生地でありながら動き易いものだった。また、脚衣は幅に余裕が有り、どんなに高く跳躍しようとも、その動きを妨げるものでは無かった。
 それらの衣装を身につけ、最後に剣を腰につけた。そうやって用意は全て整っても、カイの心は戦いに行く前とは思えない程、凪いでいた。
「支度はできたか」
 重い鍵を開く音に続いて、ファイの声がカイを誘う。首だけをめぐらせ、カイは声のする方を見やった。
 カイと同じく、控えめな装飾の胴衣と動き易そうな脚衣を身につけた王が、開かれた扉の前に立っている。腰には立派な装飾を施された剣がつけられ、そこだけが異質な輝きを放っていた。
 ――戦いに行くのだな――
 美しく輝く王の剣に目を留め、カイは初めてそう思った。
 戦場に行くのならば、この命、落とすこともあるだろう。それならばそれで、仕方ないように思えた。クレイオス家ではもう、カイの帰りを待っている者はいない。探していた術師の素性も、子の父親も判った。子供の頃からの夢であった『己の剣で王をお守りする』ことが、皮肉にも叶うのだ。
 カイの胸の内に、諦めにも似た、小さな決意が生まれた。
「そなたに見せたいものがある」
 ファイは、カイの言葉も待たずに彼女の手を強引に引くと、小部屋を出た。思えば、カイがこの小部屋から出るのは、捕えられてから初めての事である。小部屋の扉の向こうは、贅を尽くした王の居室となっていた。そこは随分広く、淡い色の壁紙、革張りの椅子、品良く置かれた卓……。全ての調度品が、ここが王の居室である事を物語る。
「見せたいものとは……?」
 なおも手を引かれたまま、カイは先を行くファイに問うた。
「さあ、この中だ」
 カイの問いには答えず、ファイはカイのいた小部屋とは違う側の壁に穿たれた扉の前に立った。鍵を開け、扉を向こう側に押す。刹那、ファイの瞳が仄かに金色を帯びた。
「……!」
 ほんの一瞬だった。カイは頭の芯に鈍い痛みを覚えた。瞼を閉じ、大きく息を吸って、長く細く吐く。頭の中に生まれた鈍い痛みの塊は、氷が溶けるように小さくなり……そして消えた。
「ほう。わたしの力をも撥ね付けられるようになったか」
 カイがゆっくり瞼を開くと、目を細めた王が、真っ直ぐに彼女を見つめていた。その口の端には、酷薄な笑みが刻まれている。
「いいぞ。そのままもっと強くなるのだ、カイ」
 ファイはそう言いながら、視線で中に入るように促す。王の瞳をきつく見据えたまま、カイは後手で探るように扉に背を寄せると、ゆっくりと扉の中に消えて行った。