〜十五〜
促され、入った部屋の中は、カイのいた所と同じように品のよい調度品が置かれ、大きな明かり取りの窓が壁面を四角く切り取っている。今は差し込む日の光に彩られてはいなかったが、代わりに夜の闇が窓の外側を漆黒に染め上げていた。壁面に据え付けられた燭台には暖かな光が灯され、辺りをまろやかに照らしている。時折揺らめく炎に翻弄され、調度品の影が怯える生き物のように細かく震えた。
カイはぐるりと中を見回してみる。その穏やかな部屋の様子とは似つかわしくなく、壁際の椅子の辺りで小さなうめき声を漏らしてうずくまっている人影があった。
「……」
ゆっくりと足を運び、人影に向かって歩を進める。相手が誰なのか……敵なのか味方なのか判らない状況では、用心深く事に当たるに越した事は無い。途中、ほんの少しだけ目を伏せ、背後にいる筈の王の様子を探った。扉にもたれたまま、こちらを眺めている気配がする。刺すような視線を背中に感じた。
カイはゆっくりと剣の柄に手を掛けた。僅かに鞘から刀身を覗かせ、人影を見据える。白い胴衣に黒の脚衣。長身であろうと思われるその体は、苦しさからか、手足を折り曲げうずくまっている。傍らにもう一人。この華奢な少年の体つきは……。
「!」
見覚えのあるその風貌を認め、急ぎ剣の柄に添えていた手を離し、カイは二つの人影に駆け寄った。
「タウ! タウっ! ……ケトも!」
大丈夫か、と問うても、答えは無い。キッと後を振り返り、カイは扉にもたれたままのファイを睨みつけた。
「タウに何をした!? ケトも……苦しがっている。やめろ! すぐに二人を自由にするんだ!」
カイは叫ぶと同時に、スラリと剣を抜き、ファイに向かってその切っ先を真っ直ぐに伸ばす。その瞳には蒼が宿り、銀髪が風も無いのにふわりと持ち上がる。
だが……それだけだった。王宮の『力』に阻まれ、カイの唇は言霊を紡ぐことはできない。ならばと、王を睨む瞳に力を込める。剣を握った手が白くなり、小刻みに震えていた。
「カイ、忘れたか? あの夜のことを」
金を帯びた瞳のまま、王が静かに言った。靴の
踵を鳴らし、カイに近づく。広い室内に渇いた音が響いた。
「わたしの力の前ではそなたの抗いなど無意味だ。忘れてはいまい? そなたの紡いだ言霊が、何をしたかを……」
言葉を切り、うずくまる二人にちらりと視線をくれる。
「わたしの魂の片割れが、同じ
轍を踏むほど愚かではないと信じたい」
カイの顔色が変わった。あの夜への一瞬の回顧が胸を過ぎる。カイは柄を握る手の力がすうっと抜けるのを感じた。
ファイは自分に向けて力なく突き出されたままの剣の切っ先を、その長い指で優雅につまむ。そしてゆっくりとつまんだ指を下ろし、呆気なく切っ先を下げさせた。
カイは半身を引いて後手に二人を庇った。王の瞳が金を帯びているのは、その力で彼らを押さえ込んでいるからに違いない。カイ自身は王の力を跳ね返すことができるようになった。なるほど、術師としての魂を分け与えられたからだろう。だが、徒人である二人には、そんな事ができよう筈もない。
「この有様を私に見せて、どうしようと言うのだ」
降ろされた剣を鞘に戻し、カイは一層低い声で問うた。
「気が変わったのでな。この者達も戦場に連れて行く」
「なに!」
タウやケトまでも戦いの駒に使おうというのか。それとも……。
「そなたがわたしから逃げぬように、枷となってもらう。枷は目に見える所に置いておいた方が、縛る力も増すというもの。そなた、手負いの者を見捨てて逃げるほど、薄情ではあるまい?」
ファイの瞳の金色が濃くなる。カイの耳の奥で、ヴォンと何かが共鳴した。突然、ケトの体が狂ったように痙攣を始めた。カイは慌ててケトに向き直り、その少年らしい細い肩を掴む。
「ケト……ケトっ! く……王っ、ケトに何をした!」
なおも暴れる華奢な体を抱きしめ、カイは王を睨み上げた。ギリギリと歯噛みしながら、それでもカイには何もできない。その間にも、少年の体はしばらく痙攣を続け……唐突にその動きを止めた。糸の切れた
傀儡のように、力を無くした体はぐったりとカイの腕の中に納まった。幼さの残る青白い頬に、柔らかく跳ねた髪が一筋掛かって張り付いている。
ファイがケトの顔を覗き込むように、足を踏み出した。
「そのように案ずるな。殺してはいない。ただ体の自由を奪ったまでのこと。この戦いが終わる頃には元のように動けるようになる。ただ……」
ケトの体を抱きしめたまま、自分を睨め付けるカイの美貌を冷ややかに見下ろし、ファイは瞳の色を和らげた。金を帯びた瞳は蒼のそれに変わる。
「そなたが少しでもわたしに逆らうならば、その小さき者の命は無いと思え」
絶対の服従を誓わせ、ファイはくるりと背を向けた。胴衣の裾がふわりと舞い、絹糸のような髪が、一本ずつ煌いてそれに従う。カイはその髪に、遠い日のクシーを想った。だが、そんな想いをすぐさま打ち消す。
――似ているのは髪と瞳の色だけだ。この王は……――
くっ、と息を殺して、屈辱をこらえる。
――この王は、人ではないっ――
「う……」
タウが小さく身じろぎして
呻いた。除々に力が戻ったのか、腕を突いて半身を起こす。ほうっと長く息を吐いて、ようやく正気を取り戻した。
「俺は……」
傍らに思いがけないものを見つけ、次の言葉が途切れる。
「カイ……! お前、無事で……」
その腕に抱かれているケトに目が行く。その体が微かに息をしているだけと知り、再びカイに目を移した。瞳の色だけで問いかけたタウに、カイがやはり瞳の色だけで答える。一瞬の間であったが、タウはそれが王の仕業であると理解した。
「王っ!」
低く、よく通るタウの声が、今まさに扉を出んとする王を呼び止めた。
ファイはほんの気まぐれのような所作で振り返る。
「タウといったな? そなたがその小さき者を連れて参れ。馬には乗れるのであろう?」
「当たり前だ」
「ならば来い。行く先は……戦場だ」
有無を言わさぬ声で、ファイは短く言った。
腹に響く、何千という蹄の音。
耳元を過ぎる風が、射掛けられた矢のように、ひゅうひゅうと鋭い音を立てる。
上衣の裾が風を孕んで後にたなびき、太腿で締めた鞍の下に、馬の背が踊る。
漆黒の闇の中であるというのに、先頭に立って馬を繰る王の動きは、まるで敵の姿が見えているかのようだ。続くカイとタウも、行く末を見据えたまま、手綱を短く持って馬の揺れを緩衝していた。
戦い好きなこの王は、自ら陣の先頭に立って敵を屠るという。それを実際にこの目で見る日が来ようとは、カイもタウも思ってはいなかった。
「ケト……大丈夫か」
タウが意識を失ったケトの体を後から抱くようにして手綱をさばく。いかに軽いとはいえ、自らの意思で座っているわけでもない者を乗せての騎乗は並大抵では無い筈だ。だがタウは、それを難なくこなす。漆黒の上衣は彼の体を闇に同化させ、険しい表情を湛えた顔が見えなければ、ケト一人で騎乗しているようにも見える。タウの選んだ馬は、やはり漆黒の艶やかな毛並みの馬だった。
カイも栗毛の馬上で、険しい表情のまま王に続いていた。自分の為に、この二人にとんでもない重荷を背負わせてしまった。戦いが済むまでケトはこのまま意識が戻らないという。タウもそんなケトを連れて戦地に赴かなければならない。
――もし何か有ったなら……――
守れるだろうか、自分に。敵から、そして王から、自分を慕ってくれるこの愛しき者達を守れるのだろうか。
天に伸びる枝から舞い落ちて来た葉が、刃のように頬に当たった。ぴりりと痺れて、だが程なくその感覚も消えた。カイの体の中に、一本の芯が生まれる。
――今は何も考えまい――
考えても詮無きこと。ならば考えまい。そして天が見方をすれば、王から逃れる手立ても見つかるかも知れない。
ただ、今は。
――剣士として、王を守る――
それが約定なのだから。
王宮の外でならば、この身に宿った力も使えるはず。カイは口の中で短く言霊を紡ぐと、己の意識の隣を行く漆黒の騎馬に向かってそれを送った。
死なぬように、と。
カイの胸より生まれた淡い蒼の光は、すっと漂い、この速さの中にあっても違わず、タウの胸元に溶けていった。
蹄の音に水音が混じるようになった。それは次第に大きくなり、そこが川であると知れる。水面を撫でた清涼な気が、カイの全身を包んだ。
ファイが突然馬を止める。後に従う者達も、一斉に手綱を引いた。
タウは、ケトの体が落馬せぬよう、手綱を引く手でそっと華奢な体を支えた。はずみでケトの頭がカクンと傾き、跳ね髪がフサリと揺れた。
ケトを気遣い、柔らかく止まったタウの馬は、他の者より少しばかり制動に時間が掛かった。ファイはそれを鋭い視線で射る。自らの馬を制していた家臣の間に、緊張の気が高まった。
『蛇王』
オルセイヌ王宮において、家臣の誰もがそう揶揄する王の機嫌を損ねては命が危うい。従う者達の間に漂うピリピリとした緊張が、カイにも痛いほど伝わってきた。
――するな――
カイは、王に向かってそっと念じてみる。
――枷ならばその手に掛けるのはまだ早い――
念を送ったと同時に、王がこちらに鋭い視線をくれた。足踏みする馬の手綱をさばきながら、それを正面から受け止め、静かに見返す。両者の間に氷のような静寂が渡った。刹那、王の頬が、ふ、と
僅かに緩む。微かに瞼を閉じ、開いた次の瞬間には、王は違う方角に目を向けていた。
「ふ……」
カイは、それと知られぬように安堵の息を漏らす。気がつけば、掌にじっとりと嫌な汗を握っていた。
――強くならなければ――
カイはタウの横顔を見やりながら、『力』を願った。
――王を凌ぐほどに――
王宮の内にあっても、簡単な言霊ぐらいは紡げる王のように。そしてそれに劣らぬ力を、カイは願った。
「敵はこの先の丘に陣を取っている。隣国サミアの軍は山側から攻め入る。我が軍はこちらの川沿いに上る者と、もう少し行った先の崖側から降りる者に分ける。三方から挟み撃ちにするのだ。よいな? 討ち取られるでないぞ。討ち取られた者の骸は拾わぬ。そのまま晒し者にしてくれるわ」
橋の手前で、はやる白馬をなだめながら、ファイが朗々と響き渡る声で告げた。伝令が兵の間を駆け抜け、従う者達の間から次々に声が上がる。それは低く、重い響きとなって大地を駆けていった。
「そなた達はこっちだ」
静かにたたずむ白銀の剣士と漆黒の男に向かって、王が顎をしゃくる。一緒に川から上れというのだ。
「はっ!」
短い気合とともに駆け出した王の馬を、二人は無言で追った。
丘が見えて来ると、人々の怒号が風に乗って皆の元へと運ばれて来た。戦いは既に始まっているらしい。山側から追い込まれて行き場を無くした兵が、わらわらと斜面を下って来るのが影絵のように見える。騎馬の一行はみな、各々腰の剣を抜いた。
「サミアの王め、待ちきれなかったとみえる」
楽しげなファイの声。その中に、人を屠る喜びが窺い知れる。
『家来を殺す時、王様は笑うんだって。ゾッとする程、すごく綺麗に笑うんだって』
タウは腕の中に守られているケトを見下ろした。王宮の中で、怯えながらケトが言った言葉。今ならそれが真実であると信じられる。
返された自分の剣は、腰につけてある。旅の間、いつも共にあった剣だ。これで刺客のような仕事もしたし、あちこちの貴族に召抱えられて戦った事もある。カイに出会うまでは自分の剣に絶対の自信を持っていた。
今、そのカイと共に戦う。こんな形でなければ、無上の喜びだっただろう。例えカイに及ばずとも、彼女を守る。この身を呈してでも、守ってやる。
「惚れた弱みだな」
柄に手を掛け、剣を抜く。巻き込んでしまったケトに対して詫びる気持ちの一方で、カイと共にある喜びに震えている自分をも感じていた。
カイはタウの顔に生気が戻ったのを見て取り、気遣わしげな瞳を僅かに緩めた。
――私がいなくても、この男は大丈夫だ――
そんな確信が生まれる。事実、そうなのかも知れない。剣の筋では格段の差が有ったとしても、雑多な事に
囚われて呼吸すらままならなくなっている自分に比べて、この漆黒の男の何と自由なことか。『力』を得て守ってやりたいなどと、それは自分の思い上がりのように感じられた。
――生まれる筈のない魂だからこその苦悩か――
半分に分かたれた魂の片割れとして、この世に生を受けた。ならば、元より無かったも同じ命。
――くれてやるか、王に――
約定通り、守ってやる。守って……そして命を落としたとしても、それで良い。全てを知った今、自分の存在は理に反しているように思えた。
――ただ、死ぬな、と。
濃灰色の睫毛に縁取られた瞳を伏せる。ゆっくりと柄に手を掛け、鞘を払う。栗毛の馬が荒い鼻息を立てた。
――タウと、その腕の中のケトだけは死なぬように、と願う。
再び開かれた碧の瞳は、静かに……戦いの場には場違いな程、ただ静かに前方を見据えていた。