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銀の剣士


〜十六〜


 サミア国の軍は山側から、敵であるドリス国の軍を追い立てる。傍目にはサミア国の方が有利と見えた。オルセイヌ国に援軍を求めずとも、時間を掛ければサミアの勝ちは確実であろう。
 だが、サミア国には戦いに時間を掛けられない理由が有ったし、オルセイヌ国と共に戦いたい理由も有った。そこで甘い条件を付けて援軍を要請したのだが……。ドリス国を滅ぼした暁にはオルセイヌ国に奪った領地の三分の一を譲るとの申し出も、オルセイヌ国王ファイ・ユピテル・オルセイヌは蹴ったのだ。
 援軍は送る。だが領地の件は聞かなかった事にしよう、と。
「領地など要らぬ」
 丘の斜面を逃げ下ってくる敵の雑兵の黒い影を視界に置きながら、ファイは剣を持ったまま唇に添えた親指の爪をギリッと噛んだ。
「わたしの求めるものは、ただ一つ」
 魂の片割れを。
 生まれ出づる前より渇望していた魂の片割れを、ようやく見つけた。そのカイが完全に『力』に目覚め、自分の持つ魂と共鳴した時、全てを終わらせることができる。
 そのために……。
 この戦いがきっかけとなる事を頼みに、こうして戦場まで連れて来たのだった。
 目覚める為には極限まで精神が高揚した状態で憎しみを受ければ良い。敵を追い詰め、また自らも追い詰められて、本能のままに自分を守ろうとした時、必ずや目覚めは訪れる。
 騎馬は進み、敵の顔かたちさえ判るようになった。ファイは馬を止めた。馬首を反転し、皆に向き直る。手にした剣を顔の前に掲げ、唇の端を微かに引き上げた。
 不思議な静寂。
 長い一瞬だった。
「存分に戦え!」
 鋭い声を発すると、王が動いた。自らの剣を高々と掲げ、馬を繰る。続く家臣達も思い思いに剣を構え、敵の中に突っ込んでいく。
 辺りは新たな怒号と赤く滴る鉄錆びの臭いとに包まれた。


 栗毛と漆黒の一対の馬は、皆と一緒には駆け出さず、しばらくそこに留まっていた。
 カイはタウに目を向けた。漆黒の剣士も、こちらを見つめている。緩やかに束ね、黒々と背に流れる髪が、闇の中でも艶やかに煌いた。
 黒衣の腕に包まれたケトの青白い顔を気遣わしげに見やるとカイは、ついっ、と馬の鼻面を寄せた。
 カイの手が手綱から離れ、馬上の剣士の黒髪に向かって伸ばされた。彷徨う白い指の先に、タウの髪が触れる。カイはそのまま、す、と顔を寄せた。
 もう一度確かめたくて。
 この戦いで命を落とすかも知れない。その前にもう一度だけ、自らの唇が覚えているものを確かめたかった。
 タウの手が伸ばされる。お互いの髪にお互いの指を漉き入れた。除々に二人の顔が近づき、唇が触れる。小鳥がついばむように軽く、口付けを交わした。
 カイが閉じていた瞳をゆっくりと開ける。
「行くぞ」
 甘やかな吐息と共に、万感の想いを込めてカイは言った。タウから目を離さぬまま、クシーより譲り受けた剣を掲げ、その柄にまだタウの薫りの残る唇を押し当てる。
「はっ!」
 馬の腹を踵で軽く蹴って視線を彼方へ転ずると、カイは怒号の中へと突っ込んでいった。


 雑兵と言っても、ドリスの兵はなかなか動きが良かった。それぞれの得物を手に、騎馬に向かって斬りかかって来る。カイが入り乱れる兵の真っ只中に巻き込まれた時には、事切れて地面に倒れ伏している馬の姿も有った。
 何人かの敵を薙ぎ払い、常世の国に送った。カイの剣に付いた鉄錆び色の滴りが、彼女の戦いの証。さすがに形の良い唇から漏れる息もはずんでいた。体中の血が鼓動に合わせて駆け巡っている。
「いあぁぁぁぁっ」
 突然、間近で気合とも悲鳴ともとれる声が聞こえた。カイは首だけを巡らせ、声のした方を睨む。今まさに、槍を手にした兵が、カイに向かってその光る刃を突き出したところだった。
 上体だけをひねり、一瞬の間でそれをかわす。振り上げた剣の柄で、槍の先を叩き落した。前のめりになった兵の顔が間近に迫る。手首を返し、それを斜めに薙ぎ上げた。敵味方であっても、共に戦いの道を極めんとする者。無用の苦しみは与えないよう、確実に急所を狙う。
 一呼吸前までは確実に生きていた兵の顔が、死人のそれに変わる。緩やかに全ての循環を止めた兵の体は、道でつまづいて転ぶように、槍を握ったままあっけなく土の上に転がった。自らの肉体が死んだことすら、この兵士は気が付いていないのかも知れない。
――タウはどこか――
 この戦いの中で探し出すことは困難に思えた。気を削がれれば、次に新たな骸となって地面に転がるのは、自分の方だ。
 命を落としても構わないといくら心で思っても、剣士として修練を積んだ体は勝手に動いて敵を薙ぐ。
 唐突に、前方に白馬が飛び込んできた。その鞍の上で剣を振るうのは、ファイだ。『力』を使わず、手にした剣で敵を屠っている。その表情はどこか恍惚として、禍々しい程に美しい。陶器のような頬に、返り血が飛んでいた。
 カイに新たな敵が斬りかかって来た。手甲に重い衝撃を感じる。王に目を奪われ、気が散じていたらしい。体が傷つくことは無かったが、手首が痺れたように重い。見ればまだ手甲の上に相手の剣が置かれたままだった。
 馬に乗った敵の顔がすぐそこに有った。こちらを睨めつける瞳には憎悪の光が宿っている。醒めた瞳でそれを真正面から受け止めた刹那、カイの体の中で、パン! と何かが弾ける音が響いた。
 修練ではない。ここは戦場だ。気を研ぎ澄ませば、たった今肉体から離れたばかりの魂が、そこかしこに漂ってる気配すら感じられる。
 命のやりとり。
 カイの心の均衡が崩れる。
 瞳に、蒼が……宿った。
 背でゆるく編まれた銀の髪が、次第に蒼を帯びる。後れ毛がふわりと舞った。
 言霊を紡がずとも、辺りがほのかに蒼に包まれ、精霊が姿を現す。カイを主と認め、力を与えられるのを待っている気配が伝わってきた。意識を手甲の重みに向けると、その上を精霊の放つ蒼の光がすっと走った。
『パア……ン!』
 カイにとっては軽い衝撃だった。だが、敵の剣は根元から真っ二つに折り取られ、その切っ先が持ち主の胸に深々と刺さっていた。
 生気を失った敵の瞳には、先程までの力はもう宿っていない。灯火が消えるように憎悪はかき消え、焦点の合わない瞳が見開かれたまま虚空を睨んでいる。
 常世の国へと旅立った魂の抜け殻が、折り取られた剣の柄を握ったまま、ゆっくりと傾いていった。
「はあっ……、はっ……」
 荒い息を吐き、カイはそれを見ていた。幾時もが過ぎたような気がした。
 蒼の光は、まだカイの体を包んでいる。もっと力を与えて欲しがっている。
 カイは、自分の体の中にも、外に向けて放ってしまいたい程の力が渦巻いているのを感じた。
 力を放った刹那、体中を快感が駆け巡った。自分がこんな風に感じた事が、カイには信じられなかった。
――これでは、あの狂った王と同じではないか――
 やはり自分は、あの王の魂の片割れなのだ……。
 返り血に塗れた手で、己の胸元をぐっと押さえる。なおも体の中で暴れまわる力を封じ込めるように。
 見開いたままのカイの目に、たった今屠ったばかりの敵の兵士の体が地面に落ちるのが映った。
『チリリ……』
 敵の乗っていた馬が主を見捨てて走り去って行った刹那、何かがカイの頬を焦がした。
――カイ
 鮮明に頭の中に響く、声。
 カイは胸元を押さえたまま、顔を上げた。声に向かって、真っ直ぐに。
 視線の先には王がいた。白馬に乗り、静かにこちらを見ている。ずっと遠くにいるのに、その瞳がうっすらと金を帯びているのさえ見て取れた。敵味方入り乱れて戦っているというのに、そこだけがぽっかりと違う世界に入り込んでいるように静寂に包まれている。誰も王に気が付いていないようだ。
――タウを連れてついて参れ
 唇を動かすことなく、王は言った。声の届く距離ではない。王の声は、カイの頭の中に直接響いた。それは、耳で聞くのと何ら変わりない。ただ、王の唇だけが動いていなかった。
 そのまま白馬は馬首を丘の方向に向け、走り去る。翻った王の金の髪だけが鮮明な印象を与えた。


 馬に乗る者、自分の足で駆けて来る者。タウの周りには、敵意を持った者達が群れをなしていた。
 ケトを庇いながらの戦いは、ままならない。いつもなら剣の一振りでその命を奪う相手にも、傷を負わせるのが精一杯だ。だがそれでも充分、相手に戦意を喪失させる戦い振りだった。
 不利な状況であるのに、不思議と負ける気がしない。何かに暖かく守られているような、そんな気がした。
――生きて戻ってやる――
 必ずや、生きて還る。
 カイとケトと共に、あの王宮から出て、自由になるのだ。
 そのために、今、生きて還らなければならない。
『ガッ』
 突然、周りの兵が蹴散らされた。
 兵の背中越しに踊るように飛び出してきたのは、栗毛の馬。
「カイ!」
 馬上で手綱を操るのは、しばらく前に離れ離れになった愛しい顔だった。この喧騒の中でよく見つけられたものだと思いながら、ふとその白い美貌に宿る表情が尋常でないことに気づいた。
「どうした?」
 タウは、なおも挑みかかって来る敵に剣を突き込みながら、その反動で栗毛に自分の馬を寄せる。むっとするほど辺りに立ち込めた鉄錆びの臭いに混じって、戦場であるというのに、カイの心地よい薫りが鼻腔をくすぐった。
「王が、ついて来いと言った」
 カイが硬い声で、短く言った。
「どこへ?」
「おそらく、あの丘へ。王は先に行った」
 行かなければならない。王が何をするつもりだとしても。
 そんな気がした。
 タウは先に馬首を転じたカイの後に従って、自らも馬を繰った。


 あと少し。
 ほんの少しのきっかけが有れば、カイは完全に目覚める。
 ファイは白馬を丘に向かって走らせながら、唇の端に浮かぶ残忍な笑みを隠そうともしなかった。
 戦いに連れて来たのは正しかった。彼女は格段に強い力で敵を屠った。ファイ自身が、いつも戦場でしているように。
 並の人間では敵いはしないだろう。カイが剣士として積んだ修練が、彼女の力を除々に鋭いものにしていった。今の彼女には、どんな屈強な男でも敵いはしない。
「く……くくく」
 ファイは『終わり』にする時が近づいているのを感じた。
 この強大な力のお陰で、自分が何者なのかを生まれながらにして知った。体の中に流れる王室の血が、ずっと自分を縛ってきた。この血を絶やし、王室を終わりにする事で、ようやく自分は解き放たれるのだ。呪われた血を生み出したこの国ごと、全てを無に帰してやる。
「さて……」
 自分だけの力では足りぬ。カイの力が必要だ。
 今までに無く強大になった力を別々に背負わされた者。一人の体の内に留めておくには、あまりにも危険すぎる力。それを分けたのは、王宮の『理』だった。だからカイは王室には生まれなかったのだろう。
 完全に目覚めた二人の力が共鳴した時、更に強大な力が生まれる筈。
 憎しみは、力を増すきっかけになる。カイを完全に目覚めさせるためなら、手段は選ばない。
「早く来い、カイ」
 ファイの瞳の金色が禍々しいほどに深くなる。
「皆、わたしの掌の上で踊るがいい」
 不適な笑みを浮かべた美貌を己の行く先に向けたまま、ファイはひとりごちた。