> 銀の剣士 INDEX  > 銀の剣士
 

銀の剣士


〜十七〜


 辺りは闇に包まれていた。
 カイとタウが馬を繰って丘に到着した時、すでにサミア国の軍はドリスの残党をオルセイヌに任せ、他の地に移動した後だった。サミアには、また別の思惑があるらしい。
 崖から下った、もう一つのオルセイヌの軍が、あとを引き取って戦っていた。既に敵の数は少なく、戦況はオルセイヌの有利に見える。広い丘の上で、戦いの場はバラバラに散っていた。
「王はどこにいるんだ」
 近くに敵の姿は無い。タウが、腕の中でいまだ目覚めないケトを気遣いながらも、首を巡らせて辺りを窺う。カイも見回してみたが、どこにも王の姿は見つけられなかった。
――気配を隠しているのか――
 力を封じ込める王宮の中にいるわけでもない。あれだけの気を持った王だ。今のカイにそれを見つけられない筈が無かった。それがこれだけ注意深く探しても見つからないという事は、おそらく自分の意志で、その気配を殺しているのだろう。
「……待て」
 不意に何かの気配を感じ、カイは先に進もうとするタウを制した。
『カッカッ……』
 程なく蹄の規則正しい音が聞こえ、闇の中からファイの乗っていた白馬が現れた。鞍の上にファイの姿はなく、ただ馬だけである。
「討ち取られたのか?」
 タウが少しばかり期待のこもった声をあげる。
「まさか。そんな筈はないだろう」
 カイはタウに向かって眉尻をあげて見せた。『力』を持つ王が、ただの兵に討ち取られるなどと、考えられることではなかった。
――何を画策している?――
 一層注意深く辺りを窺いながら、カイはゆっくり馬を進める。しばらく行くと、大木の木陰を借りるようにして、崩れかかった敵の陣があった。
「調べてみる」
 カイは馬を止め、ひらりと飛び降りた。体の重みを感じさせないほど軽やかに着地し、流れるような仕草で馬の引き綱をとって近くの木に括り付ける。
「俺も行く」
 タウもケトの体を抱えたまま、馬から降りた。
「お前は……」
 ここに残っていろ、と言いかけて、カイは視線を彷徨わせた。自分と一緒にいた方が安全かも知れない。今の自分なら、この漆黒の剣士に何があっても守ることができる筈だ。
 己の内に目覚めかけている禍々しい力を思って少しばかり気鬱になったカイだが、この者達を守るためならその力さえ利用してやろうと思い直した。
「ケトは置いていく。その方がお前も動き易いからな。そこの木陰に隠せば、意識を失っている今なら『気』を辿られることもないだろう」
 カイは馬を繋いだ木よりも更に奥の方に、根元が小さな洞になっている木を見つけた。タウに指示してケトをそこへ横向きに寝かせ、足を縮めてやる。華奢な少年の体はすっぽりと洞の中に納まった。下草を集めて体の上にかけると、ケトの姿は注意しなければそこにいる事すら判らないようになった。
「行くぞ」
 剣を抜いたまま、カイが先に陣の中に入った。タウも剣を構えて、その後に続く。
 ……だがカイは、後程この判断を悔やむことになるのだった。


 陣の中は、さながら小城のようだった。おそらく打ち捨てられて崩れかけた小城を、そのまま使ったのだろう。壁は石積みで所々に装飾を兼ねた出っ張りが有り、容易に身を隠すことができる。こちらにとっては好都合だったが、それはそのまま相手が潜んでいるかも知れないという不安に繋がる。
 二人は暗闇の中を、用心して進んだ。
 ドリスの兵がまだ中に残っているかも知れない。それに……。
 王がここにいるかも知れないのだ。ドリスの兵よりも、今は王の方が二人にとって危ない存在だった。
『カツ……』
 奥の方で、小さな金属音が聞こえた……ような気がした。カイとタウは顔を見合わせ、小さく頷きあう。お互いの瞳の中にお互いの意志を汲み取って、二人は二手に分かれた。
カイはそのまま真っ直ぐに。タウは脇に逸れて、細い通路を進んだ。この辺りの一般的な城の造りならば、どちらの道も奥に続いている筈だ。
 二人の気配は除々に離れ、暗闇の中に溶けて行った。


 空気が微かに震えている。それは、生きているモノがそこにいる証。
 カイは何者かが陣の中に潜んでいるのを確信した。奥に進むにつれ、その震えは次第に不規則な波動となって届く。
「こちらか」
 おそらく陣の一番深い所であろうと思われる場所に、古い扉が見えた。歩み寄り、手を伸ばす。取手まわりの木は朽ちて金具ごと反り返り、かろうじて扉にぶら下がっていた。おそらく掛け金も、その役目は果たしていないだろう。ザラザラした木肌に手を掛け、ほんの少し力を入れただけで、扉は向こう側に音も無く開いた。
 その扉が、開ききらないうちに途中で止まった。およそ人一人がやっと通れるくらいの隙間しかない。強く押してみたが、何かに引っ掛かってそれ以上動かない。
 更に強く押す。ほんの少し動くけれど、それは弾力を持って静かに弾き返されてしまう。
 暗闇の中、足元に目を転じれば、扉の向こうに人の手があった。それは不自然な形で空を掴み、指先には黒い染みがついている。
――骸か――
 ドリスの兵か、サミアの兵か。
 どのみち、探す王のものではない。
 カイは体を斜めにして、肩口から中に滑り込んだ。ぐるりと見渡したが、中は酷い有様だった。
 むっとする鉄錆びの臭い。所々に不規則に盛り上がる黒い影は、おそらく倒れた兵士の体なのだろう。時々ゆっくりと動いている影もある。深傷を負ったものの、どうやら命だけは繋ぎとめた者がいるらしい。
――気配はこの者達のものだったのか――
 カイは、ほうっ、と落胆の息をついた。と同時に、その中に少しばかり安堵の息が混じっているのを感じ、カイは口の端を皮肉に歪める。
――思ったより小心者だな、私は――
 自分ひとりの命なら良い。欲しいという者にくれてやる覚悟もある。
 だが、守らねばならない者達がいる以上、むざむざその手にかかるわけにはいかない。
 少々疲弊している自分にも気づく。気配を窺って張り詰めていたのが緩んだためか。
 カイはひと渡り部屋の中を見回し、入って来たのとは違う扉があるのに気づいた。中の淀んだものとは違う、清涼な気が流れてくる。おそらく、外に繋がっているのだろう。
「王はいない、か」
 そろそろタウもここに着く頃合だ。そんなに広くはない陣の中。もともと王がいるという確信があったわけでもない。
「他を探すしかないようだ」
 こちらの扉の取手は朽ちてはいない。手を掛けて、力を入れようと体の重みを預ける。
「ぐっ」
 目の前を黒い影がよぎり、不意に後ろから口を塞がれた。屈強な男の手。剣を持った右手を後ろ手に捻り上げられた。
「うう……ぐ」
 離せ、と。そう言ったつもりのカイだったが、塞がれた口元からはくぐもった唸り声が漏れるばかりだ。
『ガツッ』
 相手に蹴り上げられたのだろう。(すね)に衝撃を受ける。遅れて鋭い痛みが足元から背中に走り抜けた。
――こいつ――
 カイの髪が、蒼を帯びた。と、その刹那。
『ザッ』
 鈍い音だった。
「ぐは……っ」
 耳障りな男の声と共に、口を塞いでいた手が緩んだ。同時に捻りあげられていた手が自由になる。
 カイはふわりと身を翻し、今しがたまで自分を拘束していた者に向き直る。
 目を見開いてくずおれる兵士の向こう側に、剣を斜めに振り切ったタウの姿があった。
「大丈夫かっ?」
「ああ、油断した」
 タウが兵士の体を乗り越え、カイのもとに歩み寄る。しばしの間心配げにカイを見つめ、その体を自分の腕の中に抱き寄せる。その腕に除々に力がこもり、カイは息がつまりそうになった。
「何をする」
 顔を背け、カイはその手をふりほどく。
「おまえが……心配だ」
 ふりほどかれた手を宙に彷徨わせたまま、タウは背を向けてしまった彼女に向かって呟いた。
「私の心配はいい。自分のことだけ心配していろ。私はどうやら疲れているらしい。今のままでは、おまえを守ってやることはできん」
 わざと冷たく言い放ち、カイは、ひょこ、と足を踏み出す。
「その足はどうした?」
 タウが彼女の肩を支えようと腕を伸ばす。
「足を強く蹴られた。大丈夫、今は痺れているが、じきによくなる」
 軽く手を上げて差し伸べられた手を断り、カイは闇に紛れてしまいそうな黒の剣士を仰ぎ見る。
「他にも生き残った者が潜んでいるかも知れん」
 外へと繋がる扉に用心深く手を掛け、カイは視線をタウから扉の向こうへと転じた。
 ――なぜだか、胸騒ぎがした。
 それは除々に高まり、大きく膨れてカイの胸の中で弾ける。
『パンッ』
 カイの意識の中に、唐突に王の気配が飛び込んできた。
「!」
 王だけではない。冷たく抜き身の剣のような王の気配の他にも、何人かの徒人(ただびと)の気配がする。そしてその中に、まだ若い気配もあった。
「……ケトか?」
 木の洞に隠してきたケトが、目覚めたというのか。ならば、こんな所でぐずぐずしてはいられない。彼の中で刻まれる時は、王宮のあの部屋の中で止まっている。戦場に連れて来られた事も知らないケトは、混乱している筈だ。迂闊に出て行って、兵士に命を狙われないとも限らない。
「ケトが目覚めた。行くぞ」
 短く告げると、カイは痛む足をひきずりながら走り出した。


 空は白々と明けはじめ、影絵のようだった景色におぼろげながら色の息吹を呼び覚ます。
 敵の兵士がいた。剣を手にした者が二名と、槍を手にした者。
 王がいた。金色の髪を美しくなびかせ、兵士の中にいる。
 ケトがいた。被せてやった下草の名残を脚衣につけたまま、恐怖に顔を引き攣らせている。
 カイとタウは、入って来たのとは違う扉から出てきた。それは随分と遠回りで、だが、そこから馬を繋いで来た場所はよく見渡せる。
 その視界が開けた場所で、五つの人影がゆらゆらと動いていた。
 敵の兵士がケトに向かって斬り込んでいく。明らかに王の姿が見えていると思われるのに、兵士達はそれに気付いていないようだ。
「力を使っているのか」
 カイは小さく舌打ちした。
 王が見えていないならば、標的はケト一人だ。王は、ケトの事など守ってやる気もないようだ。
 カイは走った。だが足にうまく力が入らない。先程傷つけられたのが、まだ響いている。
「ケトっ!」
 言霊を紡いで、兵士に向けて放った。蒼の光がカイの掌から生まれ、長の距離を走って真っ直ぐに兵士を貫く。背を仰け反らせて硬直した兵士は、次の瞬間には手にした剣を取り落とし、その場に膝をついた。
 兵士が倒れると同時に、ケトがその剣を掴んだ。両手で握り、体の前に構える。余計なところに力が入り、及び腰になっているのが遠くからでも見て取れた。
「くそっ、この足め!」
 美しい造作の顔に似合わない悪態をついて、カイは自分を叱咤した。
 早く、早く。
 手遅れにならぬうちに。
 別の兵士が、剣を抜いてケトに斬りかかった。奪った剣を頭上に掲げて、ケトはそれをかわす。弾かれた兵士はよろよろとよろけ、ケトがその胸元に向かって剣を突き出した。はずみをつけて剣を引き抜くと、兵士の体はゆっくりと後ろに倒れていく。
 だがそこで、カイは違和感を覚えた。
 兵士の動きが緩慢だ。足枷をはめられてでもいるように、その動きに切れが無い。さてはこれも王の力か、と勘ぐった刹那、王がふとこちらに首を巡らせた。
――やっと来たな――
 ゆっくりと、唇の形がそう告げていた。
 ぞく、とカイの背中に冷たいものが這い登る。走って呼吸が速くなり、額には汗も滲んでいるというのに、冷気が体中を駆け巡った。
 槍を持った最後の兵士が、ケトに向かってそれを突き出した。ケトは転げてそれを避け、自分の手にある剣を無闇に振り回す。何回目かに振った剣が、相手の喉笛を薙いだ。
 カイを見ていたファイが、ケトへと視線を移した。見ているうちに、金色の髪が少し色あせ、『気』の色が変わる。
――何をする気だ――
 カイが訝っていると、ファイはおもむろにケトへと歩み寄って行った。
 ケトの顔は恐怖に引き攣ったままだ。相手が王であると知っているのか、いないのか。剣を突き出したまま、後ずさって行く。
 王がケトに向かって、手を差し伸べた。その手には何も握られていない。だがその構えは、剣を持っている時と同じものだった。
「な……!」
 カイが唇を噛む。
 ケトが動いた。
 闇雲に剣を突き出し、王に斬りかかって行く。
「やめろ! ケトっ!」
 カイが叫ぶのと、後ろから走ってきたタウが叫ぶのが同時だった。
 だが……。
 ケトの剣が王の脇腹に届くのと同時に、王がスルリと剣を抜いた。そのまま迷いの無い軌跡を描いて、す、と横に払う。
 時が……止まった。


 ――奔放に跳ねる、柔らかな髪だった。
 ――幼さの残る、頬だった。


「っ!」
 カイが伸ばした手のはるか先で、少年の体が舞う。
 王の髪が、ゆるやかに孕んだ風を吐き出し、その背に沿う。
 カイの頬に、暖かな珠が伝った。視界が曇り、草の根につまづく。そのまま地面に倒れた。


 伸ばした指先の届かぬ先で、少年の体が地面に落ち、その全ての動きを止めた。