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銀の剣士


〜十八〜


「ケト!」
 カイを追い越して、タウが飛び出した。漆黒の上衣がなびいて風をおこし、倒れたカイの髪がその風に煽られて持ち上がる。
 カイは地面に手をついたまま、前方に向かって目を見開いている。動かなくなってしまったケトの体から目を離す事ができなかった。
 薄闇は静かに明けていった。冴え冴えと空に掛かっていた月は、まだ薄く青みがかった色彩が次第に全ての色味を取り戻すのを、息を潜めて待っている。


 守りたかった。
 男になり切って生きるために修練を積んだ、その剣で。
 疎んじ恐れながらも、目覚めへの道を踏み出してしまった、その力で。
 カイの中で、後悔と自責の念が生まれる。同時に、嫌悪と怒りが生まれた。
「許……さん」
 その怒りは王に向けられた。ゆらりと体を起こし、真っ直ぐに王を見据えた。銀の髪が蒼を帯びて、風もないのにふわりと持ち上がる。碧眼にも蒼が宿り、硬く引き結んだ唇が白く震えた。
 唐突に、カイの周りで土ぼこりが舞った。大気が押し上げられ、小石までが持ち上がる。
 持ち上がった小石の一つがカイの頬を擦った。それにも気付かない程、カイは己の内でドロドロと膨れ上がる力に全ての意識を向けていた。
 ゆっくりと……除々に……。
 カイの中で膨れ上がった力は、出口を求めて体中を駆け巡る。この戦いで敵の兵士に向けたものよりも格段に強い力。いままでに経験したことのない程強いその衝動に、カイは我を忘れた。
――王だから……何をしても良いわけではないっ――
 その時、タウがケトに走り寄り、その体を抱えあげた。二人の傍らに、王がいる。王に向けて力を放てば、二人にも害が及ぶ。それは、我を忘れかけたカイにもはっきりと判った。
 蒼を帯びたままの碧眼が見開かれる。己の内に生まれた力を封じ込めようと、カイは自分で自分の体を抱いた。
 だが……。
『パシィッ!』
 強い、衝撃。一瞬、カイの体が蒼に包まれた。
「……っ!」
 カイの衣装が裂ける。その下から覗く白い肌に無数の傷が走り、風に裂かれたように血が滲んでいた。
 瞼が切れて、血が入ったのか。
 視界が赤に染まった。


「カイ!」
 タウがその場にケトの体を横たえ、カイのもとに走り寄った。彼女が地面に倒れ伏すのと同時に、その体を支える。カイの体から滴った赤が、タウの漆黒の衣装に染みた。
「……ケト……は?」
 消え入りそうな小さな声で、カイは尋ねた。タウは苦しげに眉根を寄せ、静かに首を横に振る。カイの瞳から、新たな涙が零れた。
 王がゆっくりと二人に歩み寄る。
「自分でその力を耐えたか。そんなにこの者達を守りたかったとは……美しい絆、とでも言っておこうか」
 膝を折り、指を伸ばして、銀の髪を一房すくった。
 カイを抱えたままのタウが、ファイを無言で睨み付ける。剣士らしい節くれだった手で王のしなやかな手を払いのけ、一層彼女を強く抱いた。
「いい顔をする。わたしに言いたい事が山ほどあるようだな。だがその前にカイの手当てをしなくて良いのか? このままでは、死ぬぞ」
 死ぬ、と。
 確かにカイの白い頬は、一層白く、血の気が失せている。ひどい出血で、衣装もみるみるうちに赤を吸って重く垂れ下がっていった。
 これだけの傷を受けてその傷口に触れられていても、カイは一言も苦痛を口にしない。それは却って事態が深刻であるからだと、タウは悟った。
「おとなしく王宮に帰れば、手当てをしてやる。それともここに残って、この者を見殺しにするか?」
 美しい顔を冷たく歪ませ、王は問うた。
「……ひとつ、聞きたい」
 タウが搾り出すような声で言った。
「何故、ケトにあんな事をした?」
 刺すような瞳で王を見上げる。
「あんな事とは? あの者がわたしに斬りかかってきたから、斬り捨てた事を言っているのか?」
 ()めつける視線をものともせずに、ファイは目を細めた。
「違うだろう! おまえが……王が『力』を使って、ケトに幻を見せたんだっ」
 タウの瞳から悔し涙が零れる。
「ふふ……面白い事を言う。いくら王だとて、人一人の命を奪うのに、何も理由が無ければまずいであろう?」
 それだけ判っていれば、もはや聞くことはないだろう、と言わんばかりに、ファイは眉尻を上げた。
 二人のやりとりを聞いていたカイの腕が、王に向かって伸ばされた。指先が触れ、上質な布地で作られた胴衣の胸元を、ぐっと握り締める。カイの唇が僅かに開かれた。
 だがその唇は言葉を発せず、代わりに苦しげな息が漏れた。握り締めた指が、力なく開いて落ちる。
「さあ、どうする?」
 カイの血で胸元を赤く染めたままの王が、判っている答えを確かめるように、タウに挑んだ。


 白馬が駆ける。真っ直ぐに王宮を目指し、力強く地を蹴って駆ける。馬上では、オルセイヌ国王、ファイが手綱を握っている。
 漆黒の馬がそれに続く。手綱を握るのは、全ての光を拒絶したような黒の剣士である。腕の中にぐったりと目を閉じる銀の剣士を抱えたまま、王に遅れまいと駆けていった。


 ――暗かった
 ――全てが暗く、淀んでいた
 ――これは闇
 ――私は、まだ生まれる前なのか
 ――母の声を聞いた
 ――悲しくなるほど優しい、母の声
 ――何故、ここにいる?
 ――何故、生を受ける?
 ――何も無いのに
 ――行く先には、何も無いのに……


 うすぼんやりと、光が差し込んでいる。
 瞼の裏に、赤い血潮の色が見えた。
――ああ、私はまだ……生きているのか――
「気が付いたか」
 心配そうに見下ろす顔が最初に見えた。
――この男も、生きていたのだ――
 柔らかな寝具がカイの背中を優しく受け止めている。ふと、全ては夢だったのではないかと思う。
 タウの漆黒の髪が背から零れて、カイの頬に掛かった。それほど間近に顔を寄せていることに気付き、タウは慌てて身を引いた。
 ……と、その袖をカイの指が掴んだ。はずみでカイの上半身が寝台の上に起き上がった。
「悪い夢を見ていた。ケトは……?」
 儚く零れ落ちてしまいそうな笑みを浮かべ、懇願するようにカイは問うた。
 夢であって欲しいと。
 自分の為に、また一つの生命が消えたのではないと。
 タウはその白い指を剣士の節くれだった指で絡め取り、優しく袖から引き剥がす。カイの碧眼に映る自分の姿を見つめながら、苦し気な声を漏らした。
「ケトは……」
 語尾はため息に消えた。
 カイの脳裏に、全ての光景が蘇る。見開いたままの瞳から、銀の雫が珠となって零れ落ちた。
「私はまた……守れなかったのか」
 顔を覆い、カイは嗚咽を漏らし始めた。
 いつもは気丈なカイが泣いている。男の声色を使うことも忘れ、女の声で泣いている。
 タウはそっとその震える肩を己の胸に包み込んだ。
 剣の腕が自分より優れていても……並外れた『気』の力を持っていても……タウにはそんなカイが、片羽をもがれ、それでも懸命に飛ぼうとする蝶のように見えた。
 愛しい人。
 たった一人、側近くにありたいと願う人だった。
「全てをおまえに押し付けて、俺こそ何も守れなかった。ケトの生命(いのち)も、おまえの心も」
 カイの肩を抱いたまま、タウは口惜しそうに歯噛みする。
 カイがふと、頭を上げた。
「王はどこだ?」
 そのまま、タウの慈愛に満ちた檻から抜け出そうと身を捩った。
 タウは逃すまいと、一層腕に力を込めた。
「王はここにはいない。安心しろ、ここにはいないんだ」
 低い声で、繰り返しささやく。カイが怯えていると思ったのだ。
「許……さん。王だからといって、人の命を弄ぶような真似……」
 カイの瞳に憎悪の炎が宿った。
「待て」
 タウが鋭い声でそれを制す。
「王がいなければ、おまえは完治しないと奴が言っていた。おまえは瀕死の怪我を負って七日の間、目が覚めなかったんだぞ。ここまで治癒したのも、王が力を使ったからだ。悔しいが……今しばらくは王の力が必要だ」
 それが不本意であることは、タウの声色で判った。だがカイは、そんなタウの腕を力ずくで振りほどいてしまった。つい今しがたまで泣き伏していた者の力とは思えぬ程の激しさで、両の腕を大きく広げる。
「瀕死の怪我だった? ならば今は瀕死では無いということだ。ここまで動ければ、王の力など借りずとも、自分で治してみせる」
 そう言うと、カイは静かに目を瞑った。
 王宮の『力』が、カイを拒んでいる。薄い膜を通して水の中の泡粒を捕まえるような感覚。
 意識を集中する。ぐっと押されるような感触の後、プツッと膜が破れた。
 カイの全身がうっすらと蒼い光に包まれた。いや、身体の内から光を発していると言った方が正しいのかも知れない。光が一層強まり、カイの姿が完全に見えなくなる。そうして再び彼女が姿を現したとき、頬にあった裂け傷も、手の甲にあった、まだ血の滲む傷口も、全て何もなかったように滑らかな肌が覗いているだけだった。



「どうした? 私が怖くなったか?」
 閉じていた瞼がそっと開かれ、長い睫毛に縁取られた瞳がタウを捉えた。
 恐ろしいまでの空虚が、その瞳に穿たれているように見える。
「私は、見ての通りの化け物だ。王と同じ、モノなんだよ」
 形の良い唇に笑みを()く。
 それは全ての哀しみ、全ての諦めを含んだ、凄烈で美しい笑みだった。
「化け物なんかじゃない」
 振りほどかれた腕を開いたまま、タウは言った。
「おまえは、ケトの死を悲しんでいるじゃないか。人の生命を利用して人を操ろうとする王と、同じである筈がないんだ」
 タウは大きく首を振った。漆黒の髪が、ふるふると風を起こした。
「私は……何のために生まれたのだろうな。力を二分するため、と王は言った。私はその為だけに生まれたのか? 私が感じたこと……喜びも悲しみも挫折も、全ては本来なら存在しなかった物なのか?」
 カイの笑みが微かに震え、歪んだ。
「私は誰も愛することはできない。私は生まれる筈ではなかった者だから。クシーのものになったのも、彼を愛していたからじゃない。あの優しさに(すが)りたかっただけなんだ。それに……自分が産み落とした子にさえ、愛情を注いでやれなかった」
 ふい、と顔を背ける。銀の髪が、肩に零れた。
「それは違う!」
 指を伸ばし、タウがその肩に触れる。
「おまえはおまえとして生まれて来た。だから一人の人間として誰かを愛することができる筈だ。子供のことだって、そうだ。自分で育てられる状況じゃなかったんだろう? 愛情なんて、子供と一緒に育つものだ。おまえがそうやって忘れずにいる事だけでも、充分なんじゃないか?」
 タウは触れた肩を抱き寄せた。腕の中にカイを優しく抱き留め、髪を撫でた。
「自分で自分の心を制するな」
「……」
「おまえが誰を愛するか……それは俺には判らない。俺であって欲しいと思う。だが、誰であっても、おまえがちゃんと人を愛しいと想えたなら……そんな哀しい顔をしないで、ちゃんと人を愛せたなら、俺はそれでいい」
 抱き留められたカイからは、タウの表情は読み取れない。
 だがその低い声からは、凛とした意志と溢れる程の愛情、そして、耐えがたい程の痛みが感じられた。


 ――心が、ふと、軽くなる
 ――このままで良いのだと
 ――このままの自分でも、受け入れてくれる腕があるのだと
 ――愛せるだろうか、誰かを
 ――愛せるだろうか、タウを


「ありがとう……」
 タウの胸に顔を埋めたまま、カイは小さく呟いた。