> 銀の剣士 INDEX  > 銀の剣士
 

銀の剣士


〜十九〜


『キンッ』
 翳した手の先で、金属音が響いた。続いて扉の向こう側で、何かが落ちる音。
 木製の扉に身体の重みを預けると、小さな隙間が生まれた。
 『力』を使って、小部屋の鍵を壊した。
 この時間、王は自室にはいない筈。政務の為、正殿宮に降りている筈だ。
 この小部屋の扉は、王の自室に続いている。そこを抜け、階下に降りる。以前ケトが教えてくれた壁のからくりを通って、外に出るつもりだ。


 二人で逃げる。
 もう、ここへは戻らない。
 王宮の外に出れば、王はまた、カイの行方を見失うだろう。
 カイの生家、クレイオス家も、もう関係ない。
 二人だけで、どこかで暮らすのだ。
 父に認められたいと、男として生きるために、剣の修練を積んだ。
 ――だがそれももう、捨てていい。
 あの夜の術師が、王だと知った。
 産まれた子供は、クシーの子ではなく王の子だった。
 ――だがそれももう、どうでも良い。
 自分こそが、産まれ直すのだ。
 魂の片割れとしてでなく、一人の人間として。


「タウ、行けるぞ」
 王の自室に誰の気配も無いことを確かめ、カイは扉の隙間から身を滑らせた。
 タウもそれに続く。
 王の自室は、昼の日差しに満ちていた。机の上に投げ出されているのは、読みかけの書物だろう。穏やかな光の中に、王の日常がそこにあった。まるで、何事も無かったように……。
「あれを見ろ」
 カイの隣で、タウが顎をしゃくる。
 壁際の卓の上に、カイの剣とタウの剣が揃えて置かれていた。それを手に取り、各々が腰につける。慣れ親しんだ腰の重みに、己の体の部品が全て揃ったような気がした。
 階段を降りた。壁に背を寄せ、気配を窺いながら踊り場を過ぎる。
 政務が行われる日中だからなのか。王の自室のあるこの宮には、人の気配はほとんど感じられなかった。
「確か、こっちから外に出られる筈だ」
 タウが記憶を頼りに、指で方向を指し示す。カイは小さく頷いた。
 来る時は二人だった。そして出る時も二人。
 だが、その相手は違ってしまった。本来なら、三人で帰る筈だったのに。
 潰えてしまった生命を思い出し、タウは唇を強く引き結んだ。


「行けるか?」
 王の自室のある宮からあの壁のからくりに行き着くためには、正殿宮の脇を通らねばならなかった。
 迂回して行くこともできたが、それでは大回りになってしまう。ケトと共に王宮に忍び込んだのは、夕暮れ時の交替の時間だった。だが今は日中である。長く王宮内に留まれば、誰かの目に触れないとも限らない。
 二人は庭を通って、正殿宮の外壁を撫でるようにして歩いた。
 所々に装飾を兼ねた補強の出っ張りがあり、そこに身を隠しながら進む。庭からの目と、宮の中からの目の両方を意識して進んだ。
 正殿宮。
 今この刹那、王が政務を執っているところ。
 カイの歯が、ぎりりと鳴った。
 そんな様子を見てとり、タウが後から、そっと彼女の肩に手を掛ける。それを目の端に見留め、カイは『ほうっ』と小さく息を吐いた。
「王は本当に私達を見失うと思うか?」
 カイが正殿宮の窓を見やり、小声で訊く。カイの『力』は、以前の比ではない。強大になったその気を辿って、また探し当てられるのではないかと、ふと思ったのだ。
「強い力を持っているなら、強い力でそれを隠す術もある筈だ。おまえならやれる。自分を信じろ」
 肩に置かれたタウの手が、一層暖かな温もりをカイに与えた。
 そこから新たな『気』が流れ込んで来るようで、カイはそれと判らぬように安堵の息を吐く。『力』は強大になったが、それに伴って心はもろくなったような気がする。
 だがそれは、他人に心を許さなかったカイが、タウに心を預け始めた変化の現れであった。


 ふいに風が吹いた。
 生暖かい風だった。
「誰が勝手に部屋を出ても良いと言った?」
 頭上から吹き下ろしたようなその風に乗って、聞き覚えのある声が降りてくる。
 二人は、ハッと上を見上げた。
「その傷、自分で治したか」
 冷たい声の主は、逆光ではっきりとは見えない。だが二人は、それが誰であるのかを知っていた。
 二階の窓から身を乗り出すようにしてこちらを見下ろしているのは、王だ。長い髪が風に弄ばれて時折逆光の影に入る。その度にまばゆいばかりの金色が輝くのだ。
「くっ」
 カイは腰の剣に手をかけた。
 タウも遅れることなく、いつでも抜けるように剣の柄を握る。
「馬鹿者が。そのような所から剣でわたしを倒せると思っているのか。上がって参れ。正殿宮の『玉座の間』に、わたしはいる」
 そう言い置いて、王の姿は、もやがかすむように見えなくなった。
「消えた……のか?」
「馬鹿な。逆光のせいで、そう見えただけだ」
 少しばかり気圧された様子のタウに、カイは苦笑いを返した。
「行くぞ」
 カイは先にたって、早足で歩き出す。今度は堂々と正殿宮を回りこんだ。
 正面の入り口を通っても、警護の者は何も言わなかった。まるでそこに誰もいないかのように、黙って宙をにらんでいる。すぐ近くを過ぎたのに瞳が微動だにしないという事は、二人の姿が見えていないに違いない。
「これも王の術なのか」
「さあな」
 今更何を驚くでもなく、カイは警護の者をチラリと一瞥しただけでその前を通り過ぎた。
――やはり王から逃げることはできなかったな――
 魂の片割れからは、逃れられない。
 どんなに気配を殺しても、同じ魂は響き合うらしい――良くも悪くも。
 カイは覚悟を決めた。


 正殿の宮に仕える者達は、皆一様に二人の事が見えていないかの様に振舞っていた。
 いや、事実見えていないのである。
 カイは足音を忍ばせることもせずに、風を切って大股で歩いていく。その後を、タウが剣の柄に手をかけ、いつでも鞘を払えるように身構えながらついて行った。
 正殿宮の最上階に『玉座の間』はあった。そこに近づくにつれ、女官や臣下の者、従者といった人々の影は希薄になっていった。おそらく王が部外の者を遠ざけているのであろう。
 緻密な彫刻の施された、だからと言って決して華美ではない木製の扉。その向こうにその部屋はあった。
 扉の手前で二人は立ち止まった。中の気配を窺う。
 本当に王がいるのか、それとも罠か。
 この王宮のどこにいても自分の所在が知れてしまうなら、却って気が晴れた。びくびくと隠れて歩く必要もない。扉の取手に手をかけ、勢いよく手前にひいた。


 玉座の間。
 広い部屋の奥は一段高くなっていて、部屋の名に相応しい大きな玉座が据えられていた。そこから上等の敷物が一筋、扉に向かって敷かれている。王に謁見する者達は、その敷物の上を通って玉座の前に進み出るのだ。
 その玉座に、王は座っていた。
 カイは歩みを緩めることなく近づいていく。その半歩後を、タウが同じ速さで追って行った。
「来たな」
 王が足組みをしたまま小首をかしげて言う。その仕草は、美しい王を一層妖艶に見せる。
「おまえは何者だ。例え王であっても、人の命を弄ぶような真似をしていいと思っているのか」
 低い声で、カイは言った。腹の底から冷えるような、静かだが冷たい声。
 王が目を細めた。
「おまえは人ではない」
 再びカイが口を開いた。
 玉座の間に静けさが訪れた。
 王は何も言わずにカイを見据えている。ややあって、ふっと唇を緩めた。
「人の命を弄ぶ? わたしもそなたも、運命の神とやらに弄ばれた命なのではないか?」
 可笑しそうにくすくすと笑いを漏らしながら、王は言った。
「神ならば人の命をも自由にできる。そうではないのか?」
暫くの沈黙の後、ファイの唇が歪められる。
「くっくっくっ……」
 自らの額を長い指で押さえ、さも可笑しそうに、声を出して笑った。
「何が可笑しい!」
 カイはその指の下の蒼い双眸を睨みつけた。
 玉座に体を預けたファイの笑い声が次第にかすれ、そして静かになった。額に当てられた指を外し、その唇が静かに開かれる。
「面白い事を教えてやろう。『我が身は人に(あら)ず――神なり』。我がオルセイヌの玉座に刻まれた言葉だ」
「そんなものは、王族のたわごとだ」
 カイは吐き捨てるように言った。
「無論、何の力も持たぬ王族ならば、権力を後立てにした自惚れだと言えような。だがわたし達は『力』を持っている。これが神でなくて何なのだ」
 クックッと忍び笑いを漏らしながら、ファイは言った。
「何のために数十年に一度、王族の中にこのような力を持った者が生まれると思う? オルセイヌの神が王族の身体に降りるのだ。オルセイヌの王室は、その血の中に神を宿す資質を持っている 」
 ファイは、つ、と立ち上がって、玉座を撫でた。玉座の表面には、古代の文字がびっしりと彫り込まれている。
「他の者には読めぬ。『力』を宿した者のみが知ることのできる言葉だ。『神は一神紀ごと王の身体に宿りて、人の世を観る。適わば繁栄を。適わざるは破滅を』――玉座にはこう彫られている。これでも我等が神ではないと言い切るか」
 しなやかな指が、優雅な動きで玉座の文字をなぞる。
「王宮は、神から人の世を守るため、その力を封じるように造られている。神の力は、宿した王の憎しみによって強大になる。この王宮の力を超える憎しみを抱いた時、『存続するに(あたわ)ず』――人の世は滅ぼされるのだよ」
 余興か何かを見物しているような面持ちで、ファイは玉座からカイの双眸へと視線を移す。そしてしっかりとその碧眼を捉えた。
「そなたは充分目覚めた。わたしと来い、カイ。そして魂を一つにするのだ。元通り一つの珠となろう」
 金の髪が波打つ。蒼の瞳が、深い海の底のように揺らめく。赤い唇が、歌うように甘美な誘いを紡ぐ。
 王の術が、カイを捉えようとしていた。
 王の見えない手の中で、カイはフラリとよろけそうになる。
『カツ……』
 はずみで腰に付けられた剣の鞘が、脇の卓に当って小さく澄んだ音を響かせた。
 同時に、カイの碧眼に力が戻る。
「笑止!」
 王の甘い誘いを、カイは強く拒絶した。同時に腰の剣をすらりと抜く。
「わたしはおまえのもとには行かない。何故私達が分かたれたと思う? 何故私だけが、隠されるように王宮の外に生まれたのだと思う? 一緒にいてはいけないからだ。それも神の意思ならば、逆らって良いわけがない。もし私が本当に神の魂の片割れなのだとしたら……私は人の世の破滅を望んではいない!」


 黙って聞いていたタウも、腰の剣を抜いた。
 カイもそれを横目で見留める。
 お互いに何も言わなくても、今から戦いが始まるのだと、その抑えた呼吸が告げていた。
「ふ、おもしろい。戦うと言うか、このわたしと。ならばかかって来るが良い。人として、剣士として、その剣でわたしを倒すが良い」
 ファイが玉座を背に、腰の剣を抜く。
 見事な装飾を施されたそれは、見てくれだけのものではなかった。


 月の後を、日が追う。
 両者は今、天空で交わらんとしていた。
 だが今は……。
 戦いの場におよそ似つかわしくない、のどかな光が……部屋を満たしていた。