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銀の剣士


〜二十〜


 蒼と碧。
 二つの色が睨み合っている。
 漆黒の剣士がそれを見守るように、だが凄まじい気を秘めて蒼を見据えている。
 カイの足が、探るように床の上を滑った。視線を逸らすことなく、玉座の右へと回りこむ。
 タウもまた、音も無く左へと回りこんだ。
 王を挟んで向かい合う形となる。
 しばらくは、誰も動かなかった。
 大気でさえ、その動きを止めたかのようだった。
 人の声も、鳥のさえずりも、花の薫りも、何もなかった。
 耳が痛くなる程の静寂が、三人に重く圧し掛かった。


 カイの手首が、小さく巻き込むように動いた。同時に大きく一歩踏み出す。
 タウも腰を低く落とし、横ざまに剣を突き出した。
 刹那、王の足が強く床を蹴った。
 今まで王の足があったところを、タウの剣が鋭く薙ぐ。切先は宙を切り裂き、ヒュッと高い音を聞かせた。
 突き出したカイの剣は、つい今しがたまで王の剣があった所の空気を巻き込んで、シュンと小さく唸った。
 瞬間、王の身体は大きく跳んで、タウの横に並んだ。
 素早く身体を起こしたタウは、降ってくる王の切先を自らの剣の柄で防ぐ。


 剣においては並ぶ者がないと言われるほどのカイだった。
 タウの剣筋も、なかなかのものだった。
 重ねた稽古の中で、お互いの呼吸を知り尽くしている。
 何も言わなくとも、相手が次にどう動くかは手に取るように判った。
 双方から王を追い詰める。
 カイが前に出れば、タウは王が後ずされないように間合いを詰める。
 カイの剣がヒュッと音を立てた。
 それをかわして、王の身体が跳ぶ。
 何度目かのタウへの一撃。
 だがタウは、またも柄でそれを(しの)いだ。
 自分を叱咤としようと、タウは息を吸い込んだ。そうして、ハッと唇を噛む。
――口を開くなっ! 真剣になれば、言葉なぞ出ん筈だっ!――
 以前、稽古の際にカイに言われた言葉が耳元に響いた。全ての感覚を剣に集中させ、タウは巻き上げながら王の剣を跳ね返した。
 タウの力に圧され、跳ね返された王の剣を持つ手が僅かに上向いた。常人では読み取れない程の隙ができる。
 カイが半身になりながら、更に大きく一歩踏み出した。同時にその剣が、王の懐に潜り込む。渾身の力を込め、鋭く光る切先を真一文字に薙いだ。


――肩が焼けるように熱かった。
――暖かいものが頬に飛ぶのを、カイは感じた。



 アスティリアの街。
 新しく与えられた家の中で、ミリィが座っていた。
 ミリィの夫は、今日も主人の屋敷に泊まり込んでいる。
 以前のものよりも広い家。その暖炉の近くの椅子に、彼女は座っていた。
 手の中には小瓶が包まれている。中に入れられた金の糸を透かし見るように、くるりと回した。
 金の糸は柔らかく形を変え、小瓶の縁に沿って回った。
「カイ様はお元気かしら。あの黒の御方も……何故だか胸騒ぎがしてならないわ」
 あなたの母上をお守りしてね、と、ミリィが再び小瓶を握り締めた時だった。
 金の糸がキラリと光った。
 日の光を受けたにしては、その輝きは見る角度を変えても変わらない。いや、除々に強くなるようでもある。
 驚いたミリィは、小瓶を卓の上に置いた。おそるおそる手を離す。
 唐突に、パアッと辺りが明るくなった。
 彼女は椅子から立ち上がった。
 水の中に砂金が溶け出すように、小瓶の中の金の糸が光の粒に変わる。
 光の粒は次第に淡く薄れ……そして消えた。


 床には血溜まりができていた。
――王は……!――
 カイはたった今薙いだ筈の王の身体が、微動だにせず間近に立っているのを見留めた。
――し損じたか――
 もう一太刀。
 そう思ったが、腕が思うように動かない。
 見れば、王の剣が肩に突き刺さっていた。
――床の血は、私のものだったのか――
「カイっ!」
 駆け寄るタウの声が遠くに感じられる。
 カイの眉がひそめられる。
 これだけの血を失って、まだ立っていられる自分は、やはり人ではないのかと思った。
 不意に、身体に自分のものではない重みを感じた。
 前から寄越されたその重みに、均衡を失って床に倒れこむ。
 傷ついた肩が、床に激しく打ち付けられた。
 美しい象嵌の施された王の剣が、持ち主の手を離れ、高い音をたてながら床を滑って行くのが見えた。


 動かない身体。
 金の髪が、その背を彩っている。
 倒れたカイの隣に、それはあった。


「カイ!」
 再びタウの声が聞こえた。
 今度は間近に、息遣いさえ感じる。
「タウか……。王は? 倒したのか?」
「おまえと相討ちだ。王は……動かない」
 タウは自分の袖を引きちぎった。甲高い音と共に、王によって用意された上質の布地が引き裂かれる。それを丸め、カイの肩の傷を押さえてやった。
 袖はすぐに赤に染まった。
「やったぞ。俺達は、王に勝ったんだ」
 傷の上を強く押さえながら、タウは口元をほころばせた。
 カイは動かぬ王の身体をチラリと見やる。
 おかしい。
 何かが違う。
 王は言った。自分が死んだなら、その魂の記憶はカイが受け継ぐのだと。
 だがこの身の内に、そのような兆しはない。
 だとすれば?
「……逃げろ」
 カイは低く唸った。


 血溜まりの中に王が倒れている。その王の指先が、ピクリと動いた。
 こうやって見ている内にも、床の赤は次第に広がっていく。
 王の最期が近いのは、見て取れた。
 だがカイは、このままでは済まないであろうことを肌で感じていた。
 王の腕がほんの少し動いて、ズ、と床を擦った。
「タウ、逃げろ。王は私の力を頼まずとも、この国を滅ぼすつもりだ」
 傷を押さえていたタウの手を、カイは払いのけた。
 はずみで、カイの血を吸った布が床に投げ出された。湿った音が響く。カイもまた、かなりの深手を負っていた。
「よし、俺の肩に腕を回せ。痛むだろうが、少しの我慢だ」
「……私は行かない」
 差し出されたタウの肩に向かって、カイは首を横に振った。
「冗談はよせ。おまえを置いて俺だけ先に逃げるわけにはいかない。逃げるなら、二人一緒にだ」
 布を拾い上げようと、タウが身体をずらす。伸ばしたその腕を、カイの手がしっかりと掴んだ。
「聞け、タウ。今から私は言霊を紡ぐ。王の力は私にしか止められない。だが私の言霊は周りの者をも傷つけてしまう。あの夜と同じ轍を踏むわけにはいかないんだ。だからタウ、お前は先に行け」
 タウの腕に、カイの指が食い込む。
「私はおまえを傷つけるのが怖い。クシーのように巻き添えにするのが怖い。おまえがいると、存分に力を使えないんだ」
 王の腕は、胸の前で止まった。血に染まった白い指が、除々に印を形作る。
「俺は足手まといなのか?」
 タウが腕に食い込んだカイの指を振り払った。
「そうではない。おまえを失いたくないんだ」
「俺を失いたくない……?」
「おまえを失って、この先どうやって生きていける? 私に、自分自身として生まれ直す決意をくれたのはおまえだ。私一人でそれができると思うか? 王を倒したなら、必ずおまえの後を追う。そしておまえのものになる。約束する。待っていろ、私は死なない」
 振り払われた指を、再度タウの腕に絡ませ、カイは言った。
 呪を唱える王の苦しげな言葉が、ゆっくりと切れ切れに二人の耳に届いた。
「必ず……だな?」
 タウは、カイのすがるような瞳を覗きこんだ。
 答える代わりに、カイは漆黒の髪に自分の指を漉き入れた。
 ぐっと引き寄せ、その唇に自分の唇を優しく触れる。
 一旦伏せられた睫毛がその(とばり)を開いた。
 お互いの吐息を感じる程近くで、黒の双眸に映る自分の姿を見留める。
「時間が無い!」
 刹那、カイは鋭く叫んだ。


 天空では、月の後を日が追いかけていた。
 二つの珠が重なって、昼中であるというのに、辺りが次第に薄暗くなっていく。
 夕闇のような頼りなげな明るさに、人々は怖れを隠せず家の外に飛び出した。
 皆、一様に空を見上げる。
 普段であれば眩しくて見ることのかなわない日の丸みが、弱々しい光を放ちながら黒く腐って欠けていく。
 王宮に仕える人々も、皆不安げな面持ちで、中庭に集まって来た。


 薄暗がりに、王の身体が淡く光って見えた。
 カイの言葉に背を押され、タウは駆け出した。


 タウが出て行ったのを見届け、カイはファイに向き直った。
 カイが与えた傷がどれほど深かったのか。
 あの王が伏したまま、なかなか言霊が紡げないでいる。
 だが確実に、ファイの身体は赤い光に包まれていった。
 床に広がった金の髪が、暗がりの中でも場違いな程輝いて見える。
 カイも印を結んだ。
 言霊を紡ごうと、深く息を吸い込む。
 胸の上下に、傷を負った肩がひどく痛んだ。
「カイ……」
 弱い声がカイを呼ぶ。
 王の声だった。
「そなたの力は強くなった……わたしは……ようやく悪夢から開放されるのだ」
 言霊が途切れ、赤の光が弱まる。
 カイはファイの傍らに膝をつき、その顔を見下ろした。
「苦しかった……寂しかったのだ……そなたと分かたれ、人の世に降ろされ……何故わたしだったのだ……何故わたしは……徒人(ただびと)として生まれることを許されなかったのか……」
 大きく息をつくと、ファイの口から新しい血が流れ出た。
「そなたは……わたしを討つのであろ……う? わたしは……それでも……人の世を滅ぼしたいのだ……」
 王が瞳を閉じた。
 再び力無い声で、言霊が紡がれる。
 カイも再び印を結び、言霊を紡ぐ。
 ファイの身体からは赤の光が、カイの身体からは蒼の光が、次第に膨れて回り出す。
 赤の光は外へ。
 蒼の光は内へ。
 再びファイが瞳を開けた。
 除々に膨らむ光の中で、ふとファイが寂しげに微笑んだ。今まで見た事もない微笑み。
 妖艶でもなく、凄烈でもなく、それはまるで幼子の笑みのようだった。
 カイの言霊は全て紡がれた。
 精霊達は、主の命を受け、なお一層輝く。
 蒼の光が、赤の光を凌駕した。
――早く離れなければ――
 カイは立ち上がろうと、片膝を立てた。


 だらりと垂らした腕は、傷を負った肩に続くものだ。
 その腕を不意に引かれた。
 見下ろすと、ファイがこちらに向かって手を伸ばしている。
 親を求める子のようだった。
 血に濡れた白い頬。
 乱れた金の髪。
 弱々しい蒼の瞳。
 血の気を失った唇が、何か言いたげに開かれた。だが、言葉の代わりにまた、赤があふれ出る。
「セラ……」
 カイはその場に動けなくなった。


 自分で産み落としたものの、この腕に抱いてあやすことも、病の世話をすることも叶わなかった子、セラ。
 王の顔に、セラの面影が重なった。
 一瞬の逡巡。
 時にはそれが永遠にも思える時がある。
 蒼の光は膨れ、部屋を禍々しいまでに照らし出している。
 カイは、王に向かって手を伸ばした。
 その身体を抱き上げ、胸に抱える。
 傷を負った肩が、軋んで悲鳴を上げた。
 カイの胸もまた、王の血に濡れた。
「もういい。全ては終わる。王室の血は、私達の中で(つい)える。王は幼子のようだ。誰からも愛を与えられることなく膝を抱える、幼子の……」
 カイの瞳から暖かい雫が零れた。
 ハタハタと零れ落ちるそれは、王の頬を濡らした。
 小さな光の粒が漂ってくる。
 金色に光る粒は、カイとファイの周りを回り始めた。
「セラか」
 カイが言うと、光の粒は一層輝き、やがて消えた。
「タウ、すまない……私は約束を守れなかった」
 王の身体を抱き締めたまま、天を仰ぐ。
 カイが、苦く笑んだ。
 王の手が、パタリと床に零れ落ちる。
 蒼の光が膨れるのをやめた。
 光は色を濃くしながら、二人に向かって収縮し始める。
 ファイの身体を抱いたままのカイは、影となってその中に消えた。


――……一瞬の閃光。
――全てが収まった後には、瓦礫と化した正殿の宮。
――その石の骸の中に、玉座だけが残った。


 王宮に仕える人々は、皆無事だった。
 中には怪我を負った者もいたが、皆一様に外に出ていたので、命を落とした者はいなかった。
 既に日は、元の姿を取り戻していた。
 何事も無かったかのように天空にあって、まばゆいばかりに輝いている。
 タウは混乱の王宮内を、カイの姿を求めて走った。
――約束をした。
――必ず生きて戻ると、約束をした。
――どこかにいる筈だ。
――どこかにいて、俺を待っている筈だ。
――傷が痛んで、動けないのかも知れない。
――俺が支えてやらなければ。
 人々の顔を確かめながら、タウは走った。
 金色の髪、黒色の髪、褐色の髪……およそカイとはかけ離れた髪色の者の顔をも、覗きこんで確かめた。
 だが、どこにも……カイの姿は無かった。


 正殿の宮は、瓦礫と化していた。
 かつては壁であり、床であった石が転がる中を掻き分け、タウは玉座の間があったであろう辺りにたどり着いた。
「何も無いじゃないか……」
 崩され、そして降り積もった石。まだ煙のように細かい塵となって漂っているものもある。
 その中に、玉座があった。
 傾き、床の上を転げたであろうと思われる玉座は、それでも欠けることなく無事に残っていた。
 その背もたれが、人の血に染まっている。王が読んで聞かせた文字の窪みにも、どす黒く色の変わった染みが入り込んでいた。
「カイっ!」
 玉座の傾いた背を、拳で殴る。皮膚が破れ、血が滲んだ。
「死なないと……言ったじゃないか!」
 タウは、崩れるようにその場に膝をついた。
「俺のものになってくれると、約束してくれたじゃないか……?」
 渡る風に巻き上げられる砂塵。
 甘やかなカイの髪の薫りがしたような気がする。
 タウは、ハッと顔を上げた。
 辺りを見回す。
 だが、どこにもカイの姿は無かった。
「俺が諦めてどうする」
 よろよろと立ち上がる。
 身体が、随分重く感じられた。
「神の『力』を持っているおまえが、どこかに逃げ延びているかも知れないと……そう思ってもいいか、カイ?」
 自分に言い聞かせるように呟いた。


 タウの視線の先。
 見据える玉座は何も語らず、ただ静かにそこにあった。