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銀の剣士


〜番外編 漆黒の剣士 一〜


「名は、何という……?」
 男は、少女に訊ねた。
「ヴィータ」
 まだその(おとがい)に幼さの残る少女は、男を見上げて不思議そうな顔で言った。


***


 もとは正殿の宮であった瓦礫が片付けられ、その跡に新しい宮が建てられた。
 玉座が綺麗に拭き清められて新しい宮に据えられた。
 遠い血筋を辿って新しい王が迎えられ、オルセイヌの国はまた元通りに動き出した。
 新王は、穏やかな人柄だと聞いた。
 全てを見届け、タウはかの国に背を向けた。


 風に誘われて、また旅に出た。
 失って初めて、それがどれだけ自分にとって大きな存在だったのか、思い知らされた。
「カイ……」
 オルセイヌ国が遠くなるにつれ、ますます想いが募って行く。どうしようもない焦燥感に、幾度も眠れぬ夜を過ごした。
 酒の量が増えた。
 眼を閉じれば最後に見たのカイの顔が、瞼の裏に浮かんだ。『時間がない!』夢の中でカイが叫ぶ。その度に浅い眠りは弾かれたように消え、安息の夜が訪れることはなかった。
 深酒と寝不足が祟り、もつれる足が絡まって大通りの真中で転げた。そのまま這いずって脇に退き、水を吸ったぼろ布のように重い背を、商家の壁に預ける。足を投げ出し、一日中盗賊のように剣呑な瞳で、行き交う人々を眺めて過ごした。
 闇色の衣は、すぐに砂にまみれ、白く汚れた。
 些細な事で言いがかりをつけられ、派手な立ち回りを演じた。相手をさんざんに痛めつけ、もう少しでその息の根を止めてしまうところだった。タウの剣は少しも衰えず、迷いの無い軌跡を描いて相手の命を脅かす。その腕を見込まれ、警護を頼まれる事が多くなった。
「金が要る」
 商家の用心棒の真似事をしながら、日銭を稼ぐようになった。そうやって得た金は、ほとんどが酒に消えていった。
 それでも、抜け殻のようになってしまった自分を支えてくれたのは、剣であった。
 剣の柄を握っている時だけは、全てを忘れられた。
 街を外れれば、物騒な連中も大勢いる。寡黙で不気味な男だが腕は確かだというので、仕事にあぶれる事はなかった。
 立ち合いの最中、このまま相手の刃にかかって命を散らしても良いと思った。
 だが、修練を積んだ体は言うことをきかない。相手の切先が寄越されれば、勝手に跳んで勝手に薙ぐ。
 そうして、十二年の歳月が過ぎた。


 人々が通りを過ぎる。個々に話す声はざわめきとなって、耳に響いてきた。
 タウは、ただ静かに立っていた。
 通りを挟んだ向こう側に、依頼主の店があった。近ごろ羽振りがよくなった店で、裏ではかなりあくどいこともしていると聞く。おかげで嫌がらせを受けることも多く、ほとほと困り果てた店の主人が、タウの腕を見込んで雇い入れたのだ。以前の雇い主だった店に多額の金を払い、半ば奪い取るようにしてタウを譲り受けたのだった。
 そんな経緯も、タウにとってはどうでも良いことであった。
 酒を買う金さえあれば、あとは何も望まなかった。
 本当に望むものは消えた。あの日、あの場所で。
 店の外で何気ない風を装って、タウは辺りに気を巡らせていた。
 嫌がらせは店先の品物に火をかけられたり、暗闇で主人に襲い掛かったりという大きなものから、店の入り口から石を投げ込まれるという小さなものまで、多種多様であった。
 手口から見て、同じ者の仕業とは思えない。この店を悪く思っている者は、一人や二人ではないという事だ。
 事実、今までに五人、そういった輩を斬った。その内の三人は、その場で絶命した。残る二人には瀕死の重傷を負わせ、二度とこんな真似はしないと誓わせた。


「タウ、こっちに来ないか。今日はもう誰も来やしねぇだろう」
 同じ頃に向かいの店に雇われた大柄な男が、その雇い先の店の奥からタウを手招きした。
 開け広げられた店の入り口は(ひさし)のようになっていて、ちょっとした雨くらいなら凌げるようになっている。奥には卓と椅子が何組か置かれていて、ここで料理と酒を客に出すのだ。
「ああ」
 短く答えると、タウは大股で卓に歩み寄り、椅子を足で乱暴に引いた。
 既に辺りには、夕闇が迫っていた。このところ嫌がらせは鎮まりつつある。昨日もおとといも、そしてその前も何日間か、何事も起こらなかった。
 大柄な男の前にドカッと腰を下ろして卓に肘をつくと、タウは無精ひげの伸びた自分の頬を指先で撫でた。
「酒」
 近寄ってきた店の主人に無愛想に告げると、頬杖をついてまた通りを眺めた。
 大柄な男は、自分の雇い主である店の主人に同じく何杯目かの酒を注文した。店の主人は少しばかり眉をしかめたが、何も言わずに店の厨房へと消えて行った。
 タウの雇われた店に嫌がらせが続くようになってからこちら、そのとばっちりが周辺の店にも飛び火するようになっていた。そのため、この辺りの店では、こうして腕の立つ者を雇い入れ、災いを防ごうとしているのだ。雇い主とはいっても、護ってもらう身。少々のことは目をつぶらなければ、いざという時にへそを曲げて働いてくれなくなっては困る。代金も払わず店の酒をあおるという目に余る行為にも、黙っている他ないのだ。
「おまえは本当に口数が少ないな。まぁ、用心棒なんかやってる奴でよく喋るのは俺くらいなものだが」
 男はそう言うと、タウに向かって唇の端を引き上げて見せた。
「アルパ」
 タウは頬杖もそのままに、通りに向けていた視線を巡らせ、卓を挟んで座る男に向けた。
「ん?」
 アルパと呼ばれた男は、眉尻を上げた。
「少しは黙ってろ」
 面倒臭そうに言い放ち、タウはまた、通りの向こうに眼を向けた。
「本当に食えない奴だな、お前は」
 あおった杯を乱暴に卓の上に置くと、アルパはニヤリと笑った口の端に流れる酒を、拳の甲で拭った。


 ずっと探している。
 あれから、ずっと。
 カイはもうこの世にいないのだと判っているはずなのに、それでも眼はいつの間にか、あの美しい銀髪を探している。
 通りを行き交う人々の間に、あの涼やかな碧眼を探してしまう。
 たった今でさえ、ぼんやりと通りを見やる視線の先に、カイが靴のかかとを鳴らしながら大股で歩き過ぎる様を思い描いていた。
――約束する。待っていろ、私は死なない。
 凄惨な場面であった。
 カイの体からも、王の体からも、おびただしい赤が流れ出して、あたりを染めていた。
 そんな場にいながら、恍惚とした表情さえ浮かべて、カイは言ったのだ。『待っていろ、私は死なない』と。
 鮮やかに微笑んで。
 (あで)やかに(きらめ)いて。
――約束通り、俺は待っているぞ――
 口には出せない言葉を胸の内で噛み締め、タウはまた無精ひげの頬を撫でた。
 鏡など、あれからろくに見てもいない。髭もあたらず、漆黒の髪も擦り切れた紐で無造作に(くく)っているだけである。随分面変わりをしたことだろう。
 傍目から見れば、瞳だけが剣呑にギラギラとした光を放ち、煤けた闇色の衣装に身を包んだ彼は、前よりも一層死の使いのように見えた。
 幼い子は彼を見ただけで、泣いて母親に取りすがる。若い娘は何かされやしないかと、通りの反対側を身を縮めるようにして足早に通り過ぎる。
 だがそんなことも、どうでも良かった。
 ただ、カイが傍にいないことだけが、どうにもならない渇望となって、タウの心の中に重く淀んでいた。


「カイ……」
 酒を過ごしたようだ。
 いつの間にか卓にうつぶせていたアルパは、タウの小さな呟きに、その浅い眠りを覚まされた。だが瞼を押し上げるのも大儀だったので、目を瞑ったままうつぶせていた。
「どうして……」
 絞り出すような苦しげな声と共に、カチンと澄んだ音がする。杯が歯に当ったのか。タウもまた、今日は深酒をしているようだ。こちらが眠っているので、心を許しているのだろう。いつもは押し黙って酒を飲むばかりのタウの心の破片が、口から零れて言葉になる。
 この漆黒の男は、誰にも心を開かない。その奥底に何かを抱えて苦しんでいる。
 用心棒の真似事をする者は、昔はそれなりに修練を積んだ剣士のなれの果てだ。それぞれの事情を抱え、どうしようもなくなってこの道に堕ちたのだ。
 自分にも言いたくない事情が山ほどある。だからタウにも聞かない。
「俺は待って……いるぞ」
 呂律(ろれつ)の回らなくなった舌をもどかしげに動かしたのを最後に、タウはドサリとのめって卓にうつぶせた。


 今日は雇い主の主人が私用で出かけるという。タウもそれに従ってついて来るように請われていた。
「そのなりでは困るのだが」
 店の主人は、タウの頭からつま先までに舐め回すような視線を這わせると、その小汚い風貌を咎めた。
「嫌なら俺は行かないまでだ」
 素っ気無く、タウは応える。本当に行かないという意思の表れか、タウは裾の擦り切れた上衣を翻して背を向けた。
「や、や、それはもっと困る。出先でも何があるか判らんからな」
 しぶしぶといった顔で、主人はそのままの格好での同行を許した。
「ただし、わたしから数十歩離れて歩いてくれ」
 まるで汚い虫でも追い払うかのように手の甲で追い立てる真似をすると、主人はしかめっ面のままタウの前を歩き出した。
「出かけるのか」
 向かいの店先から、声が掛けられた。タウはちらりとそちらを一瞥する。ニヤニヤと薄笑いを浮かべたアルパが、店の柱に寄りかかってこちらを見ていた。
 タウは笑い掛けるでもなく、また前を見据えて歩き出す。遅れて上衣が風に舞った。
「ほんと、食えない奴」
 アルパの敵意の無い呟きが、タウの耳に届いた。


 主人の私用は長くかかった。妓楼の二階に昼間から上りこみ、なかなか降りて来ない。女と遊ぶために来たのではないだろう。ここならば無粋な邪魔は入らないからと、密談の場所に選んだらしい。後から目つきの悪い男が三人、時刻をずらして入って行った。頬に傷のある男が入ったのを最後に、妓楼の扉は中から固く錠がかけられた。
 タウは妓楼の向かいの店の壁に背を預けて立っていた。この店も妓楼らしい。この辺りは、こういった店が多く集まる場所なのだ。
 タウ自身、カイと知り合ってからこちら、女など抱いていない。そしてカイを失ってからも、酒には溺れたが、女に溺れることはなかった。
「待っているぞ……」
 雲行きが怪しい。灰色の雲が、厚く空を覆っている。その雲を見上げて、タウはひとりごちた。
 風があるのか、雲は形を変えながら右から左へと動いて行く。通りには人の気配は無い。妓楼の集まる場所ならば、賑わうのは夕暮れ時からであろう。
 通りの砂埃が巻き上げられ、枯れた草の塊が、目の前を風に押されて転がって行った。
 雨が近いのかも知れない。
 タウはそっと瞳を閉じた。


『タウ』
 呼ばれたような気がした。
 はっと顔を上げて、声の主を探す。
 首をめぐらせても、何も見えない。通りに動くものと言えば、相変わらず砂埃と枯草が風に弄ばれて舞っているだけだった。
 タウは空耳だったのかと、苦く笑んだ。
――タウ
 懐かしい声だった。
 ずっと待っていた。
 十二年前に失った声。
 艶やかなカイの唇から零れる、声。
「馬鹿な」
 心のどこかに一縷(いちる)の望みを抱きながらも、とうにそれを諦めてしまっている自分も、この体の中に生まれていた。声など聞こえる筈は無い。とうに潰えた命なのだから、と。
――歩き出すべきか――
 未来に向かって一歩、踏み出す。それはタウの全てでカイを諦めるということだ。繋ぎとめている一縷の望みさえも断ち切って、新しい明日を生きていくということなのだ。
――できるわけがない――
 並みの女ではなかった。『神』の魂の片割れとして産まれ、男として生き、剣士として果てた。
 剣士として名を馳せた男の自分が憧れる程の剣筋を持ち、それでもなお、大きな運命を背負って王と共に滅びたのだ。
 こんなに鮮やかに心に刻まれたカイを、忘れてしまうことなど……できるわけがなかった。