〜番外編 漆黒の剣士 二〜
――タウ、待たせたな。
ああ。約束通り、待っていたぞ――
――行くか、わたしと。
連れて行ってくれるのか?――
――無論。何をとまどう?
夢のようだ――
――ああ、夢のようだ……
頭から足に、雷が走ったかのように感じた。
体が酷く痙攣し、背がのけぞった。
正気が戻るにつれ、見開いた眼に物の影が像を結ぶ。
見慣れた天井が視界に入り、ここは自分の部屋であったと気付いた。
「また夢を見た」
誰に言うでもなく独りごちて、タウは額の汗を手の甲で拭った。
ここ数日、時折こんな夢を見る。果てたはずのカイが、自分を迎えに来るというものだ。
ずっと見ていたい夢だった。
行く先が常世の国でも良い。カイと共にいられるなら、この命さえ失くしても良いと思った。
だが差し出されたカイの手を取ってついて行こうとすると、必ずそこで夢から引き戻される。夢の中では幸せだったのに……。
夢から覚めた後は、前より惨めさが募った。心の渇望が、いっそう熱さを増して、タウの心の中を嵐のように駆け回った。
「王の心も、こうだったのだな」
自らも失って、得たい物を手にすることのできない者の痛みを知った。
カイと共に滅びた王。オルセイヌ王室最後の神の血を引くファイ・ユピテル・オルセイヌは、産まれ落ちてより長の歳月を、この渇望と共に生きていたのだ。
今の自分なら判る。
――何故彼が、カイを望んだのか。
――何故彼が、破滅を招いたのか。
そろそろ店が開く時刻だ。
煤けた闇色の剣士は、腰に命の剣を結びつけて、寝台を降りた。
変わらない毎日。
店を見張り、不届きな輩をこらしめる。店に恨みを持つ人々も、タウの腕に怖れをなしたのか。最後に人を斬ったのは、一月あまり前。それからタウの剣が、人の血に濡れることはなかった。
「タウよ。今日もどうせ暇なんだろう? こっちで一休みしないか?」
夕餉の時刻が過ぎ、人通りもまばらになってきた。アルパがまた、店の奥から手招きをする。
「ああ」
タウの答えは相変わらず短い。アルパの店の主人が、二人の耳に入らぬよう、小さなため息をついた。
タウは立ち止まり、首だけを巡らせる。
「悪いな」
瞳は主人を見据えたまま、剣呑な光もそのままに、無精ひげの下の唇が小さく動く。店の主人は驚いたように眼を見開くと、水から上げられた魚のように口を開いたり閉じたりしながら背中を丸めて厨房へと駆け込んだ。
「珍しいな。お前の口からあんな言葉が出るなんて」
アルパが可笑しそうに唇を歪めた。
「だがあれは逆効果だ。奴はあれを、謝罪や遠慮とは取らないぞ」
「では何だ」
「脅しと思ったのだろうな。お前も人が悪い。少しはその仏頂面をなんとかしろよ」
別段咎める風でもなく、アルパはむしろ面白そうに上目遣いでタウを見た。
「元からこの顔だ」
不機嫌な音を響かせ、タウは椅子をひいた。アルパの真向かいに座り、ニヤけた顔と対峙する。しばらく無言でその顔を眺めていたが、店の奥で皿のぶつかる音がしたのと同時に、面倒臭そうに視線を逸らした。そのまま店の表を眺められる位置に椅子をずらすと、タウはまた通りを眺めはじめた。
碧眼も銀髪も、ここにはない。女でありながら、男のように振舞う者も、ここにはいない。
子供連れで歩く女。
友と連れ立って、大声で話しながら店の前を過ぎる男達。
何気ない人々の幸せそうな日常が、今のタウにはとても遠いものに感じられた。
「どうぞ」
短く言って、店の主人が酒を運んで来た。ゴトリと重い音がして、木の卓の上にそれが置かれる。添えられた小皿には、魚の干したものが、小さく千切って乗せられていた。
「これは?」
タウは小皿に視線を落としたまま、店の主人に訊ねた。答えは無い。ふと顔を上げると、店の主人のおどおどした視線とぶつかった。
「あの……どうぞ……差し上げます」
かすれた声でそれだけ言うと、主人は丸めた背をこちらに向けて行ってしまった。
向かいの席で、アルパが一層顔を緩ませて、そのやりとりを見ている。
「やはり脅しと取ったようだな。どれ、俺もおこぼれに預かるとするか」
言葉が終わらない内に、アルパは小皿から魚の欠片をつまみあげると、自分の口へ放り込んだ。
タウは小さく息をついてもう一度店の奥を窺う。奥で主人がサッと視線を逸らしたのに気付き、口の端を歪めると、すぐに視線を戻して自分も魚の欠片を口に運んだ。
――タウ――
夢の中で自分を呼ぶ声が、まだ耳に残っている。
あの声を夢で聞くようになったのは、いつからだろうか。
そうだ、あの時。数日前、自分の雇い主である店の主人と一緒に妓楼に行った時からだ。
「妓楼か……」
何がそうさせたのだろう。
自分は店の主人について、妓楼の前に立っていただけだった。結局密談の間は何事も起こらず、帰りもまた、主人の数十歩後を従って帰って来ただけであった。
あそこで、カイの声を聞いたような気がした。『タウ』と、懐かしい声で呼ばれたような気がした。
巻き上げられた砂埃と、道端を転げる枯草と……。
――何かあるのかも知れない――
ここ数日、何度もそこに思い至っては、すぐさまその考えを打ち消して来た。だが今日は、何故だかそれが確信めいてタウに迫って来たのだ。
生爪を剥がれるような想いはもうたくさんだ。こんな夢を頻繁に見ていては、正気を失ってしまう。
タウは決意を固めた。
夕闇が迫っていた。
妓楼の店先に灯りが点り、通りの様子は昼間とは一変する。死者が墓場から蘇るように、その一画だけが生気の無い活気に満ちていた。
タウは雇い主の店の主人から、法外な報酬をもらっていた。妓楼に上がって遊ぶだけの金は持ち合わせている。いざとなればこの金で、適当な女を買うふりをすればいい。
タウは一画のはずれの方から順に見て回った。店先に立って奥の様子を窺い、何かを感じとろうとする。格子になった扉からは、奥の様子が見てとれた。
こちらの店から、あちらの店へ。
かつてカイと術師を探し回った折にもこのようなことがあったと、苦く甘い想いが胸の内に広がった。
よくもこれだけの妓楼が集まったものだと感心するほど、この一画にはそういった類の店が並んでいた。端から順にそぞろ歩いてみても、薄闇が濃い闇となる頃にもまだ、妓楼の列は妖しい灯りを瞬かせて、客を誘っていた。
これだけの店が成り立っているのだ。この一画で一晩に吐き出される欲望は、どれほどになるのだろうか。
タウは、自分が今まで、どうして女に溺れなかったかを思った。酒には溺れた。酒は一時でも想いを忘れさせてくれる。
逝ってしまったカイに操を立てているわけではない。だがこの腕に女を抱けば、その者にカイの面影を重ねてしまうだろう。抱く前とその後とでは、きっと後の方が辛いに違いない。
先日の妓楼の前で、タウは足を止めた。店先に立って、奥を窺う。
格子になった扉の向こうで、だらしなく着飾った女達が眉をしかめてこちらを見ているのが判った。
無精ひげにうす汚れた衣装のタウは、招かれざる客であったようだ。中から用心棒らしき男が二人出てきて、タウの腕を取って両脇から抱えると、通りの真中に放り出した。
「何をする」
転げたままの格好で、タウは低く唸った。男達の顔が嘲笑に歪む。
「何をする、だと? いっぱしの口をきくな。ここはお前のような者の来る所じゃない。ちゃんと金を持った客が遊ぶ所だ。そんな小汚いなりで、いくら持ってるって言うんだ? 金を稼いでから出直して来るんだな」
「金なら、ある」
タウは通りの真中に胡坐をかいた。
「嘘をつくな」
男達が、ずいっと前に進み出た。
財布を出そうと、タウは自分の懐に手を伸ばした。金を見せれば相手も納得するだろう。
だが男達は、それを得物を出すのだと思ったようだ。一人がやおら腰の剣を抜き、タウに斬りかかった。
懐に伸ばしかけた手を、すかさず剣の柄にかけた。抜きざまに切先を高く振り上げ、斬りかかってくる相手に向かって腕を伸ばす。切先はピタリと相手の眉間に据えられた。
「う」
低く唸って、相手はたたらを踏んだ。眼は眉間にあてがわれた切先を見つめ、首を伸ばして後に仰け反る。
反対側から、別の男が斬りかかってきた。
タウは先の男の眉間を狙ったまま半身を僅かに引き、腰に下げた小さな剣を抜いた。迷いの無い軌跡を描いてそれはもう一人の男の喉元にあてがわれる。
三人とも、動かなくなった。
通りを歩いていた人々が凍りついたように立ち止まり、事の成り行きを見守っていた。
『タウ』
不意に、頭の中に声が響いたような気がした。
あの声だ。あの時聞いた、カイの声だ。
タウの切先が、僅かに
逸れた。
相手はそれを見逃さなかった。
男の足の親指に力が入り、地面を蹴りつける。体をかわしながらタウの切先を回りこみ、肘を伸ばして腕を突き出す。剣の先が、タウの体に触れた。重みを増し、その切先はタウの体の中に沈んだ。
実際はそんなに長い時間ではなかったのだろう。だが、タウの眼は、相手が斬り込んで来る様を、一部始終捉えていた。
――熱い――
胸が、焼け付くように熱かった。
タウはゴホッと咳き込んだ。
吐く息と共に赤がほとばしり、喉がヒュウ、と鳴った。
体の中に沈んだ剣先が引き戻される。タウの体も剣と共に前にのめった。
肩先に靴底があてがわれた。蹴りつけられるのと同時に、反動をつけて剣が抜かれた。
体を支えきれずに、重心を失う。斜めに崩れる視界の中、何事か叫びながら妓楼の主人らしき女が飛び出して来るのが見えた。
――カイ、連れて行ってくれるのか?――
もはや誰の声も聞こえなかった。
ただ、遠い日に失ったカイだけが、暗く霞んでゆく視界の中で、鮮やかに微笑んでいた。