〜番外編 漆黒の剣士 三〜
体が熱い。
生死の渕を彷徨っているのだろうか。
まっ白なのかまっ暗なのか、それさえも判らない混沌の中で、まだそうやって考えていられる自分が何故だか可笑しい。
笑おうとしたのに、唇の端をほんの少し持ち上げることすらできなかった。
目を開けようと瞼に力を込めても、上下に薄く開いた帳の向こうは、
靄がかかったように霞んで、物の影がぼんやりと映るのみである。
時々浮上する意識は、タウに耐えがたい体の傷の痛みを運んでくる。痛みに耐えかねて闇に落ちれば、また夢の中でカイが微笑んでいた。
――早く……連れていってくれ――
どんなに強く願っても、カイは微笑むだけで何も応えてはくれない。
――俺はもう、充分待っただろう?――
夢の中のカイは一層鮮やかに微笑むと、銀の髪をさらりとなびかせて、何も言わずに消えてしまった。
何日経ったのだろう。
すぐ側に、気配を感じる。
暖かな、人の温もりを感じる。
タウはゆっくり目を開いた。
「気が付いた?」
無理やりこじあけた瞼の前で、こちらを覗き込む妙齢の女の赤い唇が、艶の有る声を聞かせた。
同時に、枕元からバタバタと、何者かが走り去る足音がする。
「こら! おまえも病み上がりじゃないの。大人しくしてなきゃだめじゃない。あ、そうだ。走る元気があるなら、女将さん呼んどいで」
タウの上に覆いかぶさるようにして覗き込んでいた女が顔を上げ、足音の主に向かって言った。纏った衣装がふわりと風を呼び、焚き染められた香の匂いが鼻腔をくすぐった。
「はい」
歯切れの良い答えと共に、部屋の開け放った扉の向こうで、線の細い影がこちらを振り向いた。声の調子からすると、少女だろうか。扉から続く廊下は薄暗がりになっていて、その容貌はよく見えない。だが高く澄んだ声は、タウの耳に心地よく響いた。
衣擦れの音をさせて、ほどなく女将がやってきた。入れ替わるようにして、赤い唇の女がタウの側を離れる。
女将は先ほどの女よりも年上で、タウと同じ位の齢に見えた。髪をゆるく結い上げ、そんなに派手ではない色使いの衣装を品良く着こなしている。彼女からも焚き染めた香の匂いがした。頭の芯が痺れるような甘い匂いに、タウは自分が妓楼にいることを感じた。
「気が付いて良かったわ。先日はごめんなさいね。大事なお客様のところのお連れの方なのに、うちの若い者がこんな大怪我をさせてしまって……目が覚めなかったらどうしようかと心配でしたの」
そう言ってしなを作るのは、妓楼という商売柄、身に付いた癖なのだろうか。
「前にお見かけした事がありますもの。うちの店の前で、ずっと立って待っていらした……」
雇い主の店の主人と共に、ここに来た時のことを言っているのだ、とタウは思い当った。だが何も答えず、ただ寝台に横たわったまま女将の顔を眺めている。
「あちらのお店には、使いを出してあります。しばらくこちらでお預かりすることになりました」
何気ない事柄を普通に話しているだけなのに、女将の話は艶めいた秘め事のように聞こえる。妓楼という場所がそうさせるのだろうか。
「そう言えばまだあなたのお名前を伺っていませんでした。あちらのお店のご主人に聞くのを忘れてしまいましたの」
女将が小首をかしげてタウを覗き込んだ。カイと出会う前の自分だったら、そんな女将の仕草も愛しいと感じていただろう……タウはそんな事を考えながら、彼女の首筋に乱れ掛かる薄い色の後れ毛を眺めていた。
「……好きに……呼べばいい」
無愛想に言い放ち、タウはまた瞼を閉じた。また体が熱くなってきたようだ。瞳に力が入らない。
「では、黒のお方と呼ばせて頂きますね」
沈み行く意識の中、女将の声を夢うつつに聞いた。
額にひんやりとしたものが当てられている。程よい柔らかさを持ったそれは、とても心地よかった。
咲初めの花のような薫りがした。
額に当てられているものが、掌であると感じられる。
ゆっくりと瞼を開けると、自分を見下ろす少女がいた。
碧の瞳。
白い肌。
その顔の輪郭を縁取る、柔らかな金の髪。
儚い薫りは、この少女のものであったのだと……タウは何故だか安堵の息を吐いた。
「気分はどう?」
少女の高い声が、タウを気遣った。
「ああ……随分楽になった」
「良かった。ずっと寝たままだから、心配したのよ」
碧の瞳が優しい色を帯び、ふっくりと桃の花びらを乗せたような唇が、柔和な笑みの形になる。
「おまえが看病してくれたのか」
珍しくこちらから声を掛けた。カイを失ってから、人と話すのが億劫になり、無愛想が染み付いていた筈なのに。
「女将さんからそう言い付けられたの。他のお姉さん達だとあなたが嫌がるからって」
「嫌がる?」
「湯を飲ませようにも、払いのけてしまうの。私があげたら、あなたは大人しく飲んでくれたから」
そう言って、少女は寝台の脇に椅子を引き寄せた。両の肘を寝台の上について、頬杖をつく。横たわったままのタウを、彼女は唇に笑みを刷いたままで見下ろした。
タウは寝台の上に体を起こした。彼の体を苛んでいた熱は、ある程度引いたようだ。まだ少し気だるいものの、腕も思うままに動き、やっと傷の痛みも含めた体中の全てが、自分のものであると自覚することができた。
少女は頬杖をつくのをやめ、タウを見上げた。タウは寝台の上に座り、部屋を見渡した。傷が痛みはするものの、耐えられない程ではない。
粗末な調度に囲まれたここは、娼妓達が休むための場所か。寝台脇の花瓶に挿された花は萎れかかり、窓を覆って風に揺れる布には、古い小さなかぎ裂きがあった。
タウは少女の両の瞳を、ひた、と見据えた。
少女も臆することなく、タウを見返す。その瞳は碧く澄んで、懐かしい人を思い起こさせた。
「名は、何という……?」
タウは、少女に訊ねた。
「ヴィータ」
まだその
頤に幼さの残る少女は、タウを見上げて不思議そうな顔で言った。
「ヴィータ……」
タウは口の中で、その名を
反芻した。
背を覆う長い金の髪を片方の耳にかけている。耳飾りにはめ込まれた石が、控えめに赤く輝いた。
まだ成長しきっていない体は女性特有の柔らかさを持たず、細く直線的である。
それは男の衣装を纏い、女であることを拒否し続けたカイの姿と重なった。
「あなたは教えてくれないのに、私には名を聞くのね」
不思議そうな顔のまま、ヴィータは微笑んだ。
「名には精霊が降りる。無闇に名乗りをあげるものではないと……昔、言った人があった」
目の前の少女と、同じ碧の瞳で。
目の前の少女とは、違う髪の色で。
声色を使い、男の
形で、出会いの日にカイは言った。
『コン、コン』
扉を叩く音がして、静かに開けられた。
「まあ、起きても大丈夫ですか?」
奥から聞こえた女将の声に、ヴィータは嬉しそうに振り向いた。
「女将さん、黒のお方がこんなに元気になりました。熱も前より下がったみたいです」
「それは良かったわ。でもまだ無理はいけません。この子をこのまま看病につかせますから、あまり動いたりなさらないで下さいね」
女将はタウの額に手をあてて満足そうに頷くと、ヴィータに向き直った。
「おまえはここで手当てしておあげ。今までおまえがやっていた用は、他の子がするから。いいね?」
「はい」
女将の言葉を受け、ヴィータは少女らしい快活な声で応えた。
「ではおまえの夜具を、ここに運ばせようね」
「女将さん、そのくらい自分でできます。今から持って来ますから、少しの間ここをお願いします」
そう言い置いて、ヴィータは女将の返事も聞かずに部屋を飛び出して行った。
「あの子と、ここで寝るのか?」
ヴィータの、瞬く間に小さくなってしまった背中を見送ったタウは、驚いて女将を見上げた。
こんな無頼の輩同然の自分と、まだ咲初めの年頃とはいえ、れっきとした女人がひとつ部屋でやすんでいいものか。
「ここは妓楼ですよ。それがどうしたというんです?」
タウの言葉に、女将は口元に手の甲を押しあて、鈴を鳴らすような声で笑った。
「今は見習いとして雑用をさせていますが、いずれは店に出る子です。親も無く、後立ても無い……哀れな子です」
「哀れな、と?」
「あの子の親は落ちぶれた貧乏貴族。商人に騙され、全ての財産を失った揚句、あの子を残して逝ってしまった。他に頼れる親類もいないのです。後立てがなければ、あの年頃の子供を雇う店などありません。庇護する大人もなく、こうやってここに流れ着きました。日々の糧を得るためには、ここで働く他、あの子の生きる道はないのですよ」
女将の目は、遠い所を見ているようだった。女将自身も似たような道を歩いて来たのかも知れない。赤い唇の女も、格子の向こうから夜毎だらしなく着飾って客に手招きする女達も、おそらくみな同じ道に立っているのだろう。
「女将さん、扉をちょっとの間、開けていてもらえませんか?」
ヴィータが自分の夜具に埋もれるようにして扉の隙間から顔を覗かせた。両手がふさがっていて、いっぱいまで開き切ることができないのだ。
彼女のために、ともすれば閉まりそうになる扉を支えに行ったきり、女将がタウの側に戻ることは無かった。
花の薫り。
初々しい、蕾が開く、そのほんの少し前の薫りが部屋を満たしていた。
寝台脇の花瓶には、白い花が生けられていた。夜目にぼんやりと浮かび上がるその輪郭は、まだ蕾のようである。
隣の寝台からは、規則正しい寝息が聞こえてくる。タウの世話をするために、ヴィータが一緒にやすんでいるのだ。窓から射し込む頼りない月明かりの中で、夜具の胸がゆっくり上下するのが見てとれた。
タウはひとつ息を吐き、再び花に目をやった。
月明かりしかない闇の中に、それは青白く静かに息を詰めているように見えた。
在りし日に並んで眠った、カイの銀糸のようだ、と思った。
ひとつ部屋の中で眠る息苦しさに隣の寝台を窺えば、いつもこちらに背中を向けて眠るカイの銀の髪が、闇の中でぼうっと浮き上がって見えたものだった。
「また俺は置いていかれたのか」
体の傷は、日を追うごとに癒えてゆく。だが本当に血を流し続けている心の傷は、癒えることがなかった。
「今度こそ、お前の側に逝けると思ったのに……」
花に向かって恨みごとを聞かせてみる。白い花が闇の中で、ふるっと小さく震えたように見えた。
「ん……」
隣の寝台の上で、ヴィータが寝返りを打った。闇に隠されてよくは見えないが、あまり良くない夢を見ているようだ。しきりに何かを振り払うように、寝台の上で首を振っている。
声をかけて悪い夢を終わらせてやるべきかと、タウが考えた時だった。
「……う」
微かに、ヴィータの唇が動いた。
「た……う」
闇が遠のいた気がした。
敢えて告げなかった自分の名を、今、この少女は口にしたのか?
いや、そんな事がある筈は無い。聞き違いだ。
タウは寝台に伏したまま、ヴィータから目を放せなくなってしまった。
ふわりと、花の薫りがした。
再び彼女の唇が動くのを、息を詰めて待った。
「たう」
はっきりと、ヴィータの唇がその名を呼んだ。夢ではない。確かに呼ばれた。
刹那。
タウの目の前でやすむ少女が、しっかりとその瞳を開けた。
「待たせたな」
桃の唇が、今度ははっきりとそう動き、碧の瞳が懐かしげに細められた。
「何……っ?」
傷が痛むのにも構わず、タウは寝台の上に勢い良く体を起こした。
「目覚めるのに時が要った。タウ、私が判るか?」
この妓楼で自分の名を知る者はいない。目覚めるとは……いや、それは己の『願い』だ。『彼女』だという確証は無い。
言葉を発せずにいるタウを眺め、ヴィータは薄く笑った。
「カイ・クレイオス。この名を忘れたか」