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銀の剣士


〜番外編 漆黒の剣士 四〜


 治りきっていない傷が、ひどく痛んだ。だがタウは、そんな事に気を取られはしなかった。
 目の前の寝台に伏したまま、ヴィータがこちらを見つめている。
『カイ・クレイオス』
 その名を忘れたことは、一日だって無い。忘れられるものか。
 その名の呪縛に囚われたまま、この十二年の間、生きて来たのだ。
 だが今、少女の姿でその名を名乗られても、タウにはにわかに信じられるものでは無かった。
「嘘……だろう?」
 無精ひげに隠された唇が、擦れた声を絞り出す。
 ヴィータはただ静かに微笑んだまま、否定も肯定もしなかった。
「嘘、じゃないのか?」
 頬が緩み、唇が震えるのをタウは感じた。
 カイは生きているのだと自分に言い聞かせ、自らの生きる希望とした。時が経ち、それが自分の造り出した願いであると自覚した。だが今も、カイ自身がひょっこり目の前に姿を現すこともあるかも知れないと、諦めの中にも一縷の望みを繋いできた。
 だが……。
 目の前にいるのは、別人である。ヴィータという名を別に持つ、別の人生を歩いてきた別人の筈なのだ。面立ちも違う。髪の色も違う。
「カイ、なのか?」
 タウの問いに、ヴィータはゆっくりとうなずいた。
「私でもあり、私でもない。おまえがこの妓楼に来てから……私は呼び覚まされたんだ」
「本当に、カイか? なら、ヴィータはどこにいる?」
 タウは、自分を看病してくれたヴィータを思った。今ここにいるのがカイならば、あのヴィータは何者だったのだろう。
「私はヴィータとしてこの世にまた生を受けた。彼女の積み重ねて来た時間は、彼女のもの。私は彼女の記憶の片鱗に過ぎない」
「記憶……?」
 タウは彼女の言葉をすぐには飲み込めなかった。眉根を寄せ、伏したまま語るヴィータの姿を見下ろす。
「待っていろと、私は言った。おまえはきっと律儀に私を待っているだろう。破滅の瞬間、おまえを強く心に想った。待たなくてもいいんだと、言いたかった」
「そんな……」
「私はヴィータの記憶の奥底にいる。彼女が意識を手放している間だけ、こうして浮上することができる。タウ、おまえには残酷なことをした。今もそうなのかも知れない。こんな姿でおまえの元に帰って来ても、おまえには迷惑なだけだったかも知れない……」
 ヴィータの瞳が……カイと同じ色の瞳が、とまどいに揺れた。
 タウは苦しげな顔のまま、それでも真っ直ぐにこちらに寄越される視線を、静かに受け止めていた。
「……王は……オルセイヌの王は、どうなった」
 魂の片割れとしてカイを欲しがっていた王。カイと共に滅んだ筈の彼は、またカイを失ってしまったというのか。カイを失ってからこちら、タウ自身も喪失感に苛まれ続けて来た。今では少しではあるけれど、あの時の王の気持ちがわかるのだ。
「王は、ここにいる」
 ヴィータの瞳が、ふっと和らいだ。
「私の中に、一緒にいる。前世で全てを背負ってしまった王は、今生では何も知らずに私の中に溶けている。今度はすべて、私が背負う番だから……」
 歳には似合わない、柔らかな母親のような表情で、ヴィータは言った。
 やはり、カイなのだ。カイの魂が、蘇ってここにいる。
「カイ、俺はずっとお前を待っていた。今更お前を忘れて生きていくことなどできない。俺と一緒に生きてくれないか? 頼む。今更、俺を放り出さないでくれ」
 タウは寝台を降りた。ヴィータの体に取りすがって、その肩を掴んだ。
 ヴィータが悲しそうに、唇の端を弓形に引き上げた。
 そして……静かに目を閉じた。
「……どうかしましたか、黒のお方?」
 眠たそうに目をこすりながら、ヴィータが言った。
 タウはハッとして、自分の腕の中のヴィータを見下ろした。
 そこにはいつものあどけない表情の少女が、眠そうな目でこちらを見上げていた。
 タウは、カイの言った事を思い出した。ヴィータが意識を手放している間だけ浮上することができる、と。
「何でも……ないんだ。起こしてすまなかった」
 思い出したように痛む傷口を押さえながら、タウは少しだけ微笑むと、自分の寝台の上に横になった。


「何ですって? この子を譲り受けたいと、そうおっしゃるんですか?」
 タウの申し出に驚いて、女将はつい大きな声を出した。
「何かまずいことでもあるのか?」
 タウの傷は、もうすっかり良くなった。いつまでもここに厄介になっているわけにはいかない。出立の朝、タウは女将にある提案をしたのだった。
「ヴィータにはこの店に借りが有るわけでは無い。でもこのままここにいたら、行く末は娼妓だ。ならば俺がこの子を譲り受け、養育する」
 無精ひげの口元に不機嫌そうな声色を滲ませ、タウは女将の脇に控えるヴィータを見やった。遠巻きにして、娼妓達が何事かと眺めている。
 娼妓を悪しき生業と決め付けているわけではなかった。その道でしか生きていけない者がいることも承知している。  だがカイの魂の宿ったヴィータを、このままここで娼妓にさせることは、タウには耐えがたいことだったのだ。
「頼む、女将。俺にこの子を譲ってくれ。立派な女性に育ててみせる。俺の剣の腕を見込んで、雇ってくれるという貴族もいるんだ。ヴィータのためなら、俺はまっとうな仕事に就くつもりでいる」
 タウは真っ直ぐに女将を見た。真剣な眼差しは、女将の心に染みた。
 女将は、ふ、と口元を緩めた。ヴィータを引き寄せ、その両肩に手を掛ける。
「一緒にお行き」
 トン、と背中を押した。
 少女の体は、はずみでタウの腕の中に納まった。
「こんな商売やってるとね、黒のお方。本当はまっとうに生きてみたかったと……そんな思いに涙が止まらないこともあるんですよ」
 女将の声は、少しだけ湿って聞こえた。
「ヴィータ」
 優しい声に、タウの腕の中の少女が振り向く。
「私達の夢を、おまえが叶えておくれ」
 ヴィータは何も言わずに、静かにうなずいた。


 今までの雇い主である店の主人に辞める旨を告げ、タウはヴィータを伴って街を離れた。別れの朝も、アルパはいつもと変わらず向かいの店の中からにやけた笑いを送ってくるだけだった。
 ヴィータの荷物は悲しくなる程少なくて、だがそれは却って旅をするのには好都合だった。
 いくつもの街を越え、タウとヴィータはオルセイヌの都に入った。宿屋を探し、部屋をとる。湯を使って旅の垢を流してから、タウはおもむろに鏡に向かった。
「何をするの?」
 ヴィータが寝台に座ったまま、不思議そうに声を掛けた。
「大したことじゃない」
 タウは小刀を取り出し、頬にあてる。みるみる内に無精ひげが剃り落とされ、十二年ぶりにその顎が外気にさらされた。
「髭、剃っちゃったのね、黒のお方」
 ヴィータは寝台に座って足をぶらぶらさせる。
 剃り落とした髭を片付け、タウはヴィータの前に立った。
「カイ、俺はやっと元の俺に戻ることができる」
 感慨深げにヴィータを見下ろし、タウは言った。
「カイって、誰?」
 碧の瞳が、タウを見上げる。タウの漆黒の瞳に、諦めと哀しみの色が宿った。
「『カイ・クレイオス』――おまえにとっては大切な名だ。忘れないでくれ」
「カイ・クレイオス……」
 ヴィータはその名を何度も呟いた。
 あれからカイはタウの前に現れなかった。深く眠ったり、熱にうなされるなどして意識を手放すことがない限り、ヴィータの中に眠るカイは現れないのだろう。
 無邪気にカイの名を口にするヴィータを眺めながら、タウの心の中にはまた、新たな喪失感が広がっていった。
 だがこれから先ずっと一緒に暮らしていれば、いつかはまた会えるかも知れない。少なくともヴィータは、カイの……いや、カイと王の生まれ変わりなのだから。
「俺の名は、タウ。タウ・テュポンだ」
 万感の想いを込めて、タウは自らの名を名乗った。
「タウ、ね」
「そうだ、タウだ」
 タウは彼女の唇が自分の名の形に動くのを、ずっと見ていたいと想った。
 ヴィータがいたずらっぽく唇に笑みを刷いた。
『無闇に名乗りをあげると呪いを掛けられるぞ』
「……!」
 タウは驚いて、目をみはった。
「今……何て……」
 震える声で訊ねる。ヴィータはいたずらっぽい表情のまま微笑んでいた。
「頭の中にね、この言葉が浮かんできて、言わなくちゃと思ったの」
 ヴィータの言葉が終わらない内に、タウはその細い体を抱き締めていた。
「俺と共に、ずっと生きてくれ。俺はお前に誓う。この先俺は、主人と呼ぶ人に仕える。だが俺の心が仕えるのは、おまえ一人だ」
 抱擁を解き、腰の剣を鞘ごと抜いて、ヴィータの前に捧げ持った。
 主に一生の忠誠を誓う、剣士の礼である。
 ヴィータの指が、ゆっくりと剣の柄に伸ばされる。鞘から剣を引き抜き、タウの額にそっと、その刀身をあてがった。
「以前、亡くなった父がこうしているのを見たことがあるの」
 ヴィータの瞳は、剣の刀身越しに真っ直ぐタウを見つめている。
 タウの頬に暖かいものが伝った。
 それは哀しみのためか、それとも喜びのためか。
 自らの進むこれからの道もまた、茨の道であると……タウは心に刻んだ。