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玻璃の橋板


〜二十七〜


 後宮の、誰もいなくなってしまった一室にシエナは立っていた。
 ここはラウナ皇子がレミア皇女と偽って、一年余り暮らした部屋である。彼の身の回りの品や衣装、壁飾りなど全てが片付けられた今、こうして立って見渡してみても、そこにはもはや誰の香りも感じられない。凝った造りのカーネリアの調度品が、新たな妃が迎えられるのを静かに待っているだけであった。
 シエナはため息をついた。何の為のため息なのか、自分でも分からなかったけれど。
 戦から還ってよりこちら、こんなことを、もう何度も繰り返している。
 かつて、折を見ては『禁断の宮』に通っていたように、今は、気付けばここに足が向いてしまっていた。
 後宮付きの女官も最初は驚いたような素振りを見せたものの、今ではすっかり承知している。シエナがここに来るのは、失ってしまった『友』を懐かしむためなのだと、皆そう思っていた。
 ラウナが皇子だと知っているのは、このカーネリアでは限られた者だけである。シエナが女人であると知れた今、女官も侍官もあの婚姻の全てが手の込んだ芝居だったのだと承知していた。
 シエナは窓際に歩み寄った。
 蔀戸(しとみど)を細く開け、回廊に囲まれた(ねや)を望む。そこではかつて、レミア――ラウナ皇子が自分を待っていた。
 お互いの存在に縋るようにして愛し合い、そして失った。死してなお、想いは深まる。
『あなたをひとり置いて、逝くわけにはいかない』
 彼の幻が、確かな約束を口にする。
 あれしか――戦場(いくさば)に赴き、落ち延びる手立てを探すしか、彼がこの後宮に囚われたまま朽ちて行くのを止める手は無かった。ああでもしなければ、ラウナはいずれ、彼が生きる場所と決め愛したカーネリア、その国に滅ぼされることとなったであろう。
――それが彼の本意でなかったとしても――
 どうすることも、できなかったのだ。戦いの最中(さなか)、全ては一瞬の間に起きたことだった。
 ラウナの剣が刺さったまま、事切れていた敵兵。せめてその剣だけでも持ち帰ろうとシエナが柄に手をかければ、それは武具に引っ掛かって固い振動を寄越したのみ。骸に足を掛けて無理やりに引き抜けば、黒く変色した滲みのついた刃が鉄錆びの臭いを放った。
 おそらくは、ラウナはその剣を使うことを諦めたのだろう。そして自身の身体をアーベルの楯としたのだ。
――ラウナが剣を持ち、舞うように敵を薙ぐ。キラキラと光る粒は、日の光か。戻らぬ剣を諦め、馬を操ってアーベルの前に進み出る。敵の矢を防いで飛ばされた兜から、結いの解けた蜂蜜色の髪が零れて風に舞う。
 シエナは強く眼を瞑った。この眼で見たわけでもない光景が、まざまざと脳裏に描き出される。シエナは眼を瞑って眉根を寄せたまま、薄く笑った。それは傍目から見れば、酷薄な笑みと映るだろう。だがそうではなかった。
 こんな時にも、泣けない自分がいる。あれからもう半年が経つ。それなのに、未だに自分は、ラウナのために涙を流すことができないでいた。
 哀しみが大きすぎて、心がついていかない。失ったものが大きすぎて、それをどう受け止めて良いのか分からないでいるのだ。
 背に流した漆黒の髪が、蔀戸のすきまから吹き込んでくる風に舞う。頬にうるさく絡むそれを片手で押さえ、シエナは蔀戸を閉じた。
 振り向きざま、シエナは軽い眩暈を感じた。傍の卓に手をつき、身体を支える。
 それも致し方ない。シエナはあれからずっと、眠ることもままならないでいるのだ。
 こんなことではいけないと無理に眠ろうとしても、見た筈もないラウナの最期が夢に出て来てシエナを悩ませる。最期の瞬間に微笑んだという彼の顔は、背後の暗闇に沈んで見えないまま。夢の中でシエナは泣きながら、その暗闇に向かって何度も何度も手を伸ばす。だがそれは何かを掴むことなく、宙を漂うばかりだ。
 痩せていく肩は儚く、だが身体の線を消すための布を巻かなくなった胸は、衣装の上からでも女人のまろやかさを帯びて見える。
 愁いのために陰影の深くなった面差しは、一層白い頬の滑らかさを引き立てて、凄烈な美しさをシエナに与えていた。


 コトリと音がした。続いて、コツコツと床を踏む靴底の音。
 シエナは顔を上げる。
 そこには、漆黒の衣装に身を包んだアーベルが立っていた。
 後宮に妃のいない今は、男であるアーベルもシエナを追って自由にここに来ることができる。かつて、共に断首になる覚悟はあるのかと『妃』に迫って以来初めて、この部屋に入った。
「おまえか……」
 ラウナがそこに居るのだとは思わなかったけれど。
 シエナは自分の声に、少しばかりの落胆の気持ちが混ざっているのを感じた。そしてそれを申し訳なく思う。
 アーベルが片膝をつき、(こうべ)を垂れる。
「あまりお身体の具合がよろしくないようですが」
 アーベルは片膝をついたまま、顔色のすぐれないシエナを気遣うように見上げた。
「ああ……眠れないんだ」
 曖昧に微笑んで、シエナは閉じてしまった蔀戸に眼を向ける。
「では薬師(くすし)に言って、薬湯を……」
「いや、いい」
 アーベルの言葉を、シエナは遮った。ゆっくりと振り向いて、静かに息を吐く。
「眠りたくないんだ」
 顔を仰向け、部屋の飾り天井をぐるりと見渡した後、落ちる木の葉を追うように床に視線を落とした。
 ラウナの夢を見るから。失ったものを、嫌というほど思い知らされるから。
「わたしに……できることはありませんか?」
 かつては自分の心を抑え、何の感情も窺わせなかったアーベルの声が、饒舌にその気持ちを語る。
――シエナを想っていると。
 想いながら、それでもまだ葛藤を繰り返しているのだと。
 晴れて女王となったシエナに、もう自分の気持ちを隠す必要はない。公に好意を見せたところで、それは微笑ましい二人の姿なのだと、周囲の眼には映るだろう。
 事実、シエナが女王の披露目を行なった頃から、その婿(むこ)がねの筆頭にアーベルの名も挙がっている。シエナはいずれ、この王室の血を次代に受け継いで行かねばならない身。彼女が共にカーネリアという国を背負って行ける婿をとり、世継ぎを産むのもそう遠い将来ではないだろう。
 だがアーベルは、そんな声も苦く笑って受け流すだけであった。
 ラウナ皇子が自分に託したもの。それはシエナ自身だったのだと気付いた。シエナと共に、カーネリアの国をも託されたのだと、後にシエナから聞いた岩屋での会話から察することができた。
 だが一瞬――ほんの一瞬、自分はあの時、何を思ったのか。
 背に矢を受けて流れに沈んで行こうとする身体を前に、ラウナがこのまま居なくなればいいと、そう思ったのではなかったか。
 伸ばす手が遅れた。握った筈の指先は、掌から零れて波間に消えた。胸の内に広がった苦さは、己のしたことが招いた結果だ。ラウナは二度と、シエナの眼の前に現れはしない。
 かつては、はっきりとそれを願ったこともあった。どす黒い感情は、自分でもどうすることもできなかった。嫉妬などという負の感情が身の内に巣食っている自分は、とても汚らしいもののように思えた。
――そのために、自分を庇った人の命を見捨ててしまうとは。
 この事実は、アーベルの心に重く圧し掛かっていた。
 シエナを変わらず愛しく想う気持ちは、この身体の中に溢れんばかりである。だがそれよりも、負い目の方が(まさ)ってしまって……アーベルはまた以前のように彼女との距離をおいてしまっている。
 溢れる気持ちを隠すことは、もうできない。だがそれをあからさまに行ないに表すことは、できなかった。
 だが、それでもまだ、こんな自分にできることはないかと、アーベルは訊ねずにはいられなかった。少しでもシエナのためにできることがあるならば、自分は喜んで何でもしよう。
 片膝をついたまま、アーベルは待った。
 どこからか風が香る。さやさやと葉ずれの音を乗せて、後宮の中庭を渡って行く。人の想いなど、そ知らぬ顔で。
「おまえは……」
 シエナの唇が、言葉を捜す。
「……おまえは死なないでくれ」
 床を見つめたまま、シエナが言った。視界の端でアーベルが、一瞬、呼吸を止めたように見えた。
「決して死なずに、私の(そば)にいてくれ」
 シエナがゆっくりと濃い睫毛の(とばり)を開く。黒曜石の瞳が、同じ色のアーベルの瞳を射抜いた。
 それは愛と呼べるものではなかっただろうけれど。
「はい……いつまでも、お傍に」
 アーベルが全てを悟った面持ちで頭を垂れる。それを見下ろすシエナの顔もまた、苦い笑みに彩られていた。


 リオドール国は、先王一代で武力を頼みに大国にのし上がった国である。長期的な国内の改革もまだ済んではいなかった。その上、先王自身まだ自分の御代は続くと思っていたため、重要な国の決定事項など、国政のほとんどを自分ひとりで抱え込んでしまっていた。先王は人を信用していなかったのである。
 先王が崩御し、戦で散った者の代わりに新たに重臣を登用しても、なかなか(まつりごと)はうまく運ばなかった。
 新王ルバトのもと、新しい国造りを試みたリオドール国であったが、その国力は、大きな柱が倒れた屋敷のように衰退していった。
 傭兵は見切りをつけてカーネリアへと流れ、軍事力も弱体化して行く。かつてはカーネリアと並ぶ強国として近隣諸国を抑えていたリオドールであったが、今や、二つの国の力の差は歴然としていた。
 新王ルバトは自身の身体の具合が思わしくないこともあって、すっかり気弱になっていた。せめて第二皇子ラウナが生きていてくれればと思うこともあったが、レミアと名を変えさせてカーネリア国に送り、その命を散らしてしまった今となっては、それも詮無きことであった。


 偽りの婚儀より二年。リオドールとの戦から十月(とつき)が経とうとする頃、シエナは(よわい)十九となった。
 女王としての政務も見事にこなし、シエナを見る重臣の眼も、より一層信頼に裏打ちされたものとなっていた。
 かつて皇子の姿であった頃も見事に采配を振ってはいたが、今では一国の長として、より一層の威厳も備わっている。他国の者を圧するに余りある面差しや纏う色は、公の行事の折には随分と眼を引く。シエナがそこにいるだけでカーネリアは一目置かれることに繋がるのだ。どれだけ人がいようとも、決してその中に埋もれることはない。シエナの周りだけが、静寂と清涼に満ち、誰もが眼を向けずにはいられない。
 政務を執るために椅子に腰掛けているだけで、その美貌に圧倒される程。
 それは光を纏うような『陽』のものではなく、冷たい氷が砕け散る煌きのような、そんな危うい美しさだった。
 見る者を虜にし、だがフラフラと近付けば薄氷の刃にかけられてしまいそうである。
 そうやって女人の美しい衣装を着て髪を背に下ろし、首飾りに()め込んだ大粒の石に彩られて華やかに装ってはいるものの、その身のこなしは以前と何ら変わることはない。稽古着に着替えて剣を取れば、カーネリア軍の将たるエルガ将軍でさえ、三本に一本は取られるようにまでなっていた。


 シエナは午前の公務を終えた後、動き易い男物の衣装に着替え、開け放った窓辺に置かれた椅子に座って書物を読んでいた。
「シエナ様」
 女官ルチエラに案内されて昼下がりのシエナの自室を訪ねたのは、カーネリアの色である赤を控え目に纏った宰相である。この色を身に付けるということは、それなりの用向きで訪ねたということだ。
 声に導かれて、書物から眼を上げる。
「以前は嫌だと思っていたこの男物の衣装も、女人のものと比べればなかなかに動き易くて良いものですね」
 読みかけの書物を膝の上で閉じ、足を組み替えて話をし易いように向き直りながら、シエナは笑った。
 宰相に対しては、既にかつてのようなわだかまりは無い。むしろ今では、彼の、国を思う心と打ち立てる策の鋭さには畏敬の念を抱いてすらいる。
「長きに渡って慣れ親しんだものは、おいそれとは手放せないものです」
 静かに言うと、宰相は片膝をついて頭を垂れた。
「今日は、折り入ってお話がございます」
 垂れていた頭をゆっくりと上げ、宰相は真っ直ぐにシエナを見つめた。
「シエナ様も十九歳になられました。偽りであったとはいえ、既に婚儀も済まされております」
 宰相の視線を静かに受け止め、シエナは何も言うこと無く頷く。
「我がカーネリア国の女王として新たに披露目なさったからには、是非とも今度は本当の婚儀を執り行ないたく……つきましては、近隣諸国、また国内から婿がねを探しておりますが、他国にはシエナ様と釣り合う年頃の方がおられません。国内と言いますと」
 そこで宰相は、少しばかり言い淀んだ。
「近衛の長であるアーベルが一番相応(ふさわ)しいのではないかと、重臣会議にて決せられました」
 何の表情も窺わせない宰相の面差しは、アーベルとはあまり似ていない。だがその実直で筋の通った行ないは、良く似ていると、シエナは常々思っていた。
 その宰相が、自分の息子を王婿(おうせい)に……と奏上(そうじょう)するのに、極力感情を廃しているのが判る。アーベルのシエナへの想いもよく承知しているだけに、それが叶うのは嬉しいことなのだろう。だがそれまでの経緯をも承知している宰相は、親としてそれを喜ぶよりも、シエナの気持ちに配慮してくれているのだと見て取れる。
 書物の間に挟んだ栞の端が、窓から入り込む風に震えた。
「……やはり、そうなるのですね」
 そう言ったシエナの顔は、変わらず笑っているのに泣いているように見えた。
 この身は、自分ひとりのものでは無い。カーネリア国王室の血という流れの中の、一粒の水滴のようなものだ。己の感情がどこにあろうと、繋げて行かねばならない王室の血は、ここで絶つわけにはいかない。
 そんなことは、とうの昔から承知していた筈だった。
 けれど……。
 そうやって伴侶を迎えてしまえば、ラウナ皇子の幻すら思い描くことを許されなくなるような気がして、シエナの心は鉛を流し込まれたように重くなる。ずっと愛し続けると言ったその誓いの(よろい)を、無理やり剥ぎ取られてしまいそうで怖くなる。
 アーベルなら……ラウナが護って逝ったアーベルならばと思う気持ちもあった。だがそれを現実に眼の前に突き付けられれば、シエナの心は『(いなや)』を唱えるのだ。
「少し……考えさせてください」
 唇には変わらず笑みを刻んだまま、シエナはそれだけの言葉をやっと口にしただけであった。


「何故……っ?」
 夕餉も過ぎ、ほのかに灯りの入った部屋の中、宰相を鋭い眼で睨み付けたまま、それきりアーベルは何も言おうとしなかった。宰相もそれを静かな眼で受け止める。
 二人の間に静寂が落ちた。
 どれだけの時が流れたのだろう。
「は……」
 聞こえよがしに宰相がため息をつく。それに苛立ったアーベルが眉根を寄せ、尚一層鋭い眼を父に向けた。
「シエナ様とわたしとの婚儀だなどと。まだ時期尚早だとは思いませんか、父上?」
 シエナの婿がねの筆頭に自分の名が挙がっていることは、随分前から知っていた。曖昧に笑ってそんな噂話も受け流して来たが、宰相はそれを現実のものにすると言う。
 シエナの心も、自分自身の心も、まだ整理がついていない。逝ってしまった人に対する想いがまだ胸の中にわだかまっていて、日々の暮らしすらままならないのだ。それなのに、晴れの儀式が二人を待っているという。
「わたしは、まだ……」
「『まだ』なんだ?」
 思わず零れた言葉に、宰相が有無を言わさぬ口調で応ずる。その声は固く威厳に満ち溢れ、それが親としての言葉でないことを窺わせた。
「……自分の気持ちに整理をつけることができません」
 アーベルの視線が、萎えてさまよいながら落ちて行く。
「それは……ラウナ皇子のことか?」
「……」
 宰相の問いに、アーベルは口をつぐんだ。少しばかりの矜持(きょうじ)がうずくのだ。だがそうやって黙ってしまったことで、それが答えなのだと知らせてしまっていた。
「ラウナ皇子を救えなかったことを、まだ悔いているのだな?」
 アーベルは床に落とした視線をふい、と脇に流し、唇を噛んだ。軽く握っていた筈の拳が、いつの間にか白くなっている。そんな自分に気付き、アーベルは小さく息を吐いた。
「人として、それは欠いてはならない想いだと思っております。庇ってくれた相手を見殺しにして……それがシエナ様の想い人であるなら、なおのこと」
 何かに耐えるように、再び唇を噛む。
「……なおのこと、わたしはシエナ様と結ばれるわけには参りません」
 口に出してしまったことで、それが自分の出した答えなのだとアーベルは知った。胸の内で激しく渦巻きながら、決して成就しない想い。願いながら、決してこの手には入らないもの。
 宰相が、コツ、と歩を進めた。
 蝋燭の灯りが風に揺らめいて、二人の影が床に躍る。
「個人的な感情は、国の為に捨てろ。ラウナ皇子をお護りできなかったのも、致し方のない事。むしろおまえは、ラウナ皇子からこの国とシエナ様を託されたのだと思え。何の為に、ラウナ皇子がおまえを庇ったのだと思う?」
 そんなことは、既に百も承知している。シエナから聞いた、彼の想い。最後の夜にあの岩屋の中、彼がシエナに告げた言葉。
『カーネリアの国をますます栄えさせ、力をつけて、近隣諸国を束ねていって欲しい。そしてあなたの産む子にも、それを伝えて……わたしの子でないのが心残りだけれど』
 そうして、彼はこの自分を庇って逝った。
 知らなかった。あの時は。
 シエナから聞かされるまで、ラウナ皇子がシエナの(かたわ)らを離れるつもりでいたなどと、露ほども知らなかったのだ。
――そして自分は何をした?――
 想う心と自責の念との板ばさみに、アーベルは叫び出したい気持ちだった。
「国を思え、アーベル。今この国に差し迫った危機はない。だがリオドールの(なら)いもある。あのように短い間に力をつけてくる国もあるのだ。いつカーネリアを(おびや)かす国が出て来ないとも限らん。その時に、確実に次代に血を繋いで行ける御子をもうけておくこと。それがこの国にとって、何よりも大切なことなのだ」
 俯いてしまった息子に、宰相はなおも歩み寄った。
「王族が死した後、神となってこの国を護るというカーネリアの信仰は、古来より連綿と続いてきた(なら)わしだ。その上に、この国は成り立っている。それを壊せばどうなるか……この国は内側から荒れ、(つい)えてしまうだろう」
 諭すように、静かに。国を思えと言う宰相の言葉は、自身の想いばかりに囚われていたアーベルの熱に水をさす。
 アーベルは顔を上げた。いつの間にかすぐ近くに立っていた宰相と眼が合う。
「おまえは、ずっとシエナ様を想ってきたのだろう?」
 父として。
 どんな形であれ、宰相は、父として息子の想いの成就を願わないわけはなかった。
 そんな想いのこもった言葉に、アーベルの胸に熱い塊がこみ上げてくる。
「父上、わたしは……」
 全ての感情を自身の胸の中に留め置いたまま、それでもシエナと添うことが許されるのかと。
 言葉の無い問いに、宰相が深く、ゆっくりと頷いた。


 久し振りに訪ねるシエナの自室だった。
 アーベルは女官ルチエラが部屋を辞すのを見届けると、一旦シエナを見つめ、より深く頭を垂れた。
「どうした、アーベル」
 少しばかり眉を上げ、シエナは訊ねた。
 今日のシエナは女王の衣装を纏っている。大きく開けた肩が、背に流れる黒髪に白く映えていた。
 首飾りには(ほむら)の石。カーネリアの象徴であり、王、または女王が着けるに相応しい石である。
「宰相どのから、お聞きになられましたか?」
 頭を垂れたまま、アーベルは言った。伏せられた(おもて)からは、彼がどんな表情をしているのかを窺うことはできない。
「そのことか……」
 眼の前の垂れた頭の結いを見つめ、シエナは吐息まじりの声で呟いた。
「少し待って欲しいと、宰相には言った。今は父王の喪の最中。慶事を考えることは、父王をないがしろにしていると取られかねないからな」
 苦しい言い訳だと、自分でも判っていた。アーベルにしても、こちらの気持ちにはとうに気付いている筈であろうに。
「シエナ様」
 アーベルが顔を上げる。その瞳には、やり切れない哀しみと決意が宿っているように見えた。
「わたし自身、本当はどうしたら良いのか判らないのです」
 自嘲するように、苦い笑みを刻む。
「わたしはずっとあなたを愛しいと想って来た……それは本当です。こうしている今も、あなたを狂おしい程に想っています。でも……」
 アーベルの顔が辛そうに歪む。
「わたしはラウナ皇子を見殺しにしてしまった。あなたは許すと言って下さったけれど、その事実は消えることはありません。そうしてわたしはこの先も、心の中に鉛の塊を抱えたままあなたを愛し続けることとなるでしょう」
 シエナはアーベルの視線をかわすことなく受け止めた。
 ラウナ皇子がアーベルを庇って逝き、その結果彼が今ここに居る。ならば、自分はそれでいいと思っていると、彼に告げた。その言葉に嘘は無い。
「そう……か」
 シエナは少しばかりの笑みを唇に刷く。
「今更、わたしを愛して欲しいなどとは申しません。ですが……どうか、わたしがあなたのお傍に居ることをお許し下さい」
 眼の前の影が動く。気付けばシエナは、アーベルの腕の中にいた。
 こうやってアーベルの腕に(いだ)かれるのは、『妃』がラウナ皇子であったと知れた時以来か。あの時は心に想う人がいた。生きて、笑い、共に支えあった人を想ってシエナは彼を拒んだ。
 だが今はどうだ。アーベルを拒み振り返っても、自分をあれ程想ってくれていた人はもういない。
 空っぽの自分が、ここに居るだけだ。
「ふ……」
 シエナの唇が歪んだ。
 魂が抜けてしまった抜け殻のように、シエナは彼の胸に頬を寄せた。
 かつてはその腕が離されることのないようにと願ったのに、今はその背に自分の腕を回すことも忘れてしまっている。微かな痛みに眼を転じれば、アーベルの衣装の胸紐の結び目がシエナの頬に当たっていた。
 まるで傀儡(くぐつ)のような自分の身体に、シエナは眉根を寄せて眼を瞑る。
「こうやってあなたを抱き締めても……どんなに強く抱き締めても、その心を手に入れることはできない。……わかっています。あなたの心の中にはラウナ皇子がいる。ならばわたしはその彼ごと、あなたをお護りします」
 アーベルの瞳に強い光が宿った。抱き締めたシエナの頭越しに窓の外を見つめる。部屋の中で動く影に驚いたのか、鳥が数羽、鋭い声で鳴きながら飛び立った。
 シエナは微かに眼を開けた。アーベルの使う(こう)が鼻腔をくすぐる。顎を上げ、今起きたばかりの幼子のように、アーベルを見上げた。
 それはラウナを愛し続けていても良いということなのか。誓いの鎧を着けたままでも良いということなのか。
 扉の向こうから、ルチエラが宰相の訪れを告げる。
 抱擁を解き、アーベルはまた、片膝をついて頭を垂れた。
「シエナ様……アーベルもここに居たのか」
 今日の宰相も、カーネリアの赤を纏っている。これは正式な訪れであることのしるし。
「それならば丁度良い」
 宰相はちらりとアーベルを見やると、シエナの前に進み出て片膝をついた。
「シエナ様とアーベルの婚儀についてのご相談で伺いました」
 威厳をもって頭を垂れる。
「宰相殿……」
 静かな声で、シエナは言った。
「アーベルとのこと、良いように取り計らって下さい」
 いずれ誰かと添わねばならないのなら。
 心の奥底では、未だに『否』を唱える自分がいた。だがその想いとは裏腹に、口は承知したと告げる。
――国のために。
「父王の喪が明けてから、正式に婚約の披露目としましょう」
 カーネリア前国王の喪が明けるのはあと半年足らず。
『愛していると……言葉だけでは足りない。証が欲しい……シエナ』
 ラウナ皇子がこの身体に刻んだ証は、アーベルによって塗り替えられるのだろう。いつまでも留め置くことのできない思い出との別れを、シエナは身を切られるような思いで承知した。