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玻璃の橋板


〜外伝 一〜


 子供とは、無邪気なものである。
 身分の違いや、己の立場。そんなものには、大抵の子供は無頓着であろう。
「シエナ、見てごらんよ。舟を作ったんだ」
 アーベルは出来上がったばかりの笹舟を手に、シエナの自室を訪ねた。
「綺麗な舟だな。私にも一つ、作ってくれないか」
 読みかけの本から視線を上げ、勢いこんで走って来たと思われる従兄の手から笹舟をつまみあげる。
「そう言うと思って、もう一つ」
 悪戯っぽく笑ってアーベルが後手に隠したもう片方の手を差し出せば、そこにはもう一つの笹舟が乗っていた。


 いつもならばシエナは今、自室で歴史を学んでいる時間である。今日は朝からつまらない儀式があって、師が来るのが遅れていた。周りの大人達もばたばたと忙しくしていて、シエナが抜け出したことなど、気付かれていないようだ。それでも二人の子供は慎重に辺りを窺うと、まるで罪人であるかのようにコソコソとシエナの宮から中庭に向けて走り出した。
 アーベルが先に立ち、ひらりと垣根を飛び越える。ここが一番人目につかずに中庭まで行ける近道なのだ。シエナも続いて、垣根を飛び越えようとした。
「痛っ……」
 シエナの足が垣根に引っ掛かる。無事に地面に降り立つことができたものの、その足には枝に引っ掛かけた際の傷ができていた。
「……」
 シエナは少しばかりの苛立ちを見せた。この頃、アーベルとこうして宮を抜け出す時、彼にはできて自分にはできない事が多くなってきた。身の丈も、何故だかアーベルの方がぐんぐんと伸びて、自分はいつも見下ろされてばかりだ。歳なんて一つしか違わないのに。
 同じように剣術も習い、体術だって手を抜かずに努力している。
 それなのに……。
「シエナ! ほら、早く!」
 アーベルが、早く、と呼ぶ。シエナの少しばかりの苛立ちは、これから訪れるであろう楽しい時間への期待に、どこかに吹き飛んでしまった。


 カーネリアは豊かな水に恵まれた国である。中庭に造られた池を流れる水は、常に新しいものへと変わっていた。
 池の中では魚がのんびりと泳いでいる。その影を追うようにして、アーベルは笹舟を水面に浮かべた。
「綺麗に走る! シエナもやってごらん」
 促されて、シエナは自分の持っていた舟を浮かべた。それは水の流れに乗って、すいすいと走った。
「本当だ、よく走る!」
 無邪気に声をあげ、笑った。
 楽しいと思えば、自分達が決め事を破ってここに来ているのだということも忘れてしまう。シエナとアーベルは、池の脇から眺めているだけでは飽き足らず、とうとう自分達までもがその中に入って遊び出した。
 中庭に、元気な子供達の声が響く。
 のどかな春の日であった。


 どの位、そうしていたのだろう。
「何をしているのです?」
 背後から、鋭い声が飛んだ。二人の子供は、びくりと身を硬くして、そろそろと振り返った。
 そこには唇を引き結んだ女官が、腰に手を当てて怖い顔をして立っていた。
「まったく、ご自分の宮を抜け出されて、何をしておいでなのですか」
 言葉遣いは丁寧でも、その語気の強さには、この女官が怒っていることがありありと見て取れる。
 その女官の後ろから、心配げな顔でシエナ付きの女官、ルチエラがこちらを窺っていた。
「ルチエラがシエナ様の身を案じて……どれだけ探し回ったと思われますか」
 いつも世話をしてくれて、何かと優しくしてくれるルチエラを心配させたのだと思うと、シエナの胸が痛んだ。
「ごめんなさい」
 シエナが素直に謝ると、女官の顔が優しいものに変わった。そうして、片膝をついて頭を垂れる。ルチエラもそれに(なら)った。
 アーベルとシエナは、唖然とした顔でそれを眺めていた。
 国王に向けて、このような礼をしているのを見たことがある。それを今、この女官達がする意味が、分からなかった。
 国王はここには居ない。ならば、誰に向けて拝跪(はいき)しているのだろう。
「失礼を」
 お小言をくれた女官が、シエナに向かって短く断ると、眼を見開いたまま立っているアーベルに歩み寄る。
「アーベル様。さ、私達と同じように、頭を垂れるのです」
「え? 誰に向かって?」
「シエナ様にですよ」
 女官の声は、優しいものであったが、有無を言わさぬ響きを含んでいた。
 けれどもアーベルは、そんな女官を睨みつける。
「どうしてわたしがシエナに頭を垂れなくちゃいけないんだ」
 憤懣(ふんまん)やるかたない表情で、アーベルは言った。
 女官はそれを気にする様子もなく、優しく諭すように声を掛ける。
「今朝ほど、シエナ様の『拝跪の儀』が行われました。臣の礼を受ける、王族と認められたのですよ」
 そう言えば、宰相である父がそのような事を言っていた。自分はまだ子供で儀式には参加できなかったから、関係ないと思っていたのだった。
 だからと言って、今の今までコロコロと転げ回って一緒に遊んでいた相手に向かって、急にそんなことをしろと言われても……。シエナは従妹だ。兄妹同然に育って来た。そんな環境も、彼の態度を(かたく)なにさせている。
 アーベルの心の中を見透かしたように、女官がたしなめた。
「シエナ様は第一皇子であらせられます。アーベル様はそれをお護りするのですよ」
 ゆくゆくは、近衛の者として。
 そう言って、女官は再び片膝をついて頭を垂れた。
 アーベルはそんな女官の様子を苛立った様子で眺めていたが、やがて諦めたように膝をつく。そんな様子を、シエナは黙って……だが寂しそうに見つめていた。


 『戴位(たいい)の儀』を明日に控え、それでもシエナはいつもと変わらず剣術の稽古に明け暮れていた。アーベルに劣っていることが、とても悔しい。彼にできて、自分にできないことがあるのが我慢ならなかった。
「そこっ!」
 カーネリア国随一と称されるエルガ将軍の容赦ない剣が、シエナの稽古着の袖に突き刺さった。王族を相手にしていても、この将軍は全く手加減というものをしない。おかげでシエナの剣術は、アーベルと肩を並べるまでに上達した。
 将軍の教えを受けることができたのは、何もシエナが王族だったからではない。どんなに高位の臣であっても、気に入らない相手であれば、この将軍は剣を交えることすらしないのだ。
 膝に手をついて肩で息をしているシエナに、将軍は破顔して見せた。
「その眼。……いいですな。その、負けるものかと喰らい付いてくるような眼……大切になさって下され」
 シエナの肩に手を置き、ついでのように、その頭を軽く撫でる。
「や……失礼致しました。明日は『戴位の儀』を迎える方に、このような子供じみたことを」
 そう言って、将軍はシエナの頭に載せた手を引いた。


 とても疲れていた。
 将軍の稽古は半端なものではなく、稽古用に刃を潰した剣であるとはいっても身体に触れれば怪我もする。加えて子供相手でも容赦はせぬ将軍のことだ。一瞬たりとも気は抜けない。
 気疲れと身体の疲れで、自分の宮に向かうシエナの足取りは重かった。
 今日は新しい靴を履いて来た。稽古の時には稽古用の靴を履いていたから良かったのだが、新しいこの靴は、シエナの足には少しばかり大きかった。
 かぱ、と踵が外れて、靴が脱げる。疲れた身体はすぐには止まれず、そのまま数歩先まで歩いてしまった。
 首だけをぐるりと巡らせ、置いてきてしまった靴を振り返る。その場所まで戻ることさえ、今は面倒に思えた。
 シエナは回廊にいた。傍の柱に背を預け、天窓を見上げれば、透かして彫られた天の馬が今まさに空を駆け出さんとしている様子が眼に映った。
 見上げたまま、ほうっと息を吐く。
 シエナはもう、自分が女であることを知っていた。
 アーベルとは違う、女であることを。
 そうして、自分の置かれている立場をもしっかりと把握していた。
 カーネリア国第一皇子。それは、シエナに課せられた茨の鎖だ。本当は皇女であるのに、皇子と偽って生きている。男であるアーベルが何なくこなせることも、女である自分は、その何倍も努力しなければできない。
 将軍に無理を言って稽古をつけてもらっているが、それだって付いて行くのがやっとである。いつか、この身の秘密が露見してしまうのではないかと、シエナは幼いながらも怯えていた。
 天窓に透かして彫られた天の馬は、動くことはないのだろうか。もし動いたなら、こんな自分を何処へなりとも連れ去って欲しい。
 国に縛られ、偽りの立場に縛られ、そして明日は『戴位の儀』に望む。肩まで伸びたこの髪を頭上高く結い上げ、位を得て政に参加する。
 シエナは、カクンと顎を下げた。脱げたままになっている靴が、眼に入った。
「どうしました?」
 回廊の向こうから、近付いてくる人影。柱の影から姿を現したのは、自分が超えようとしても越えられない、従兄のアーベルだった。
「靴が脱げてしまったんだ」
 大儀そうに、シエナは言った。今は口を開くのも億劫だ。
 アーベルが唇に笑みを刷く。この従兄は、シエナと一つしか違わない十四歳でありながら、その位は既に近衛の長に手が届こうとしている。次官として務めを果たす彼は、シエナが見ても凛々しく、彼が回廊を通れば、すれ違う女官達が騒いだ。
「シエナ様は肩につかまって。わたしが履かせてあげる」
 そう言うが早いか、アーベルはシエナの靴を拾い、傍らにしゃがみ込んだ。言われるままシエナがその肩につかまると、アーベルは大切なものを扱うようにシエナの踵を靴の中に入れた。
 大切にされていると、感じた。それが近衛の者が主に見せる情なのだと分かってはいても、このままいつまでも一緒に居たいと思った。


 アーベルの手は、なかなかシエナの足から離れなかった。肩に置かれた手が、何故だかとても頼りなく思えて、いつまでもそうしていたいと思った。
 自分のものとは、あきらかに違う手。剣を持って勇ましく稽古に励んでいても、決して節くれ立つことのない、滑らかな指先。
 シエナが武術に励んでいるのを、アーベルは知っていた。それは皇子であることに疑いを持たれることのないよう、自分自身をもっと強くするためのものであることも。
 幼い頃は好きだった砂糖菓子も、物心ついた頃から口にすることはなくなった。それもおそらく、皇女の好むであろうことはできるだけ避けようとしているのだと、アーベルは感じていた。
 疲れているのだろう。きっと今も、エルガ将軍の稽古の帰りに違いない。
 何故だか、触れられている肩が、熱くなったのを感じた。
 明日は『戴位の儀』を迎える。皇子は添い伏役(そいぶしやく)の女性と一つの床にやすむことになっているのだ。例え偽りであっても、シエナが他の者と一つ床にやすむなどと考えるだけで、胸の内に熱い塊が湧いてくるのを感じる。
「シエナ様……」
 意味もなく、呼びかけてみる。
「何だ?」
 いつもと変わりなく寄越される応えに、何故だか安堵した。
「……いえ、何でもありません」
 名残惜しくはあったが、肩に置かれた手を自らの手で外した。けれどもその手を離してしまうのがどうしても躊躇われる。
 子供でいられるのも、今日が最後。明日からはシエナは王族の『男』として、この国を背負うために、今までよりもっと辛い茨の道を歩いて行かねばならない。
 そんな彼女を支える立場にある自分は、その秘密が露見することのないよう、外からの敵から彼女を護り、また、自分の内にある敵とも戦っていかねばならないのだと感じた。
――シエナを想う気持ちという、敵と。
 少しでも彼女と触れ合う時が短くなるようにしなければ、と思った。近衛の次官として在る彼が、それを望むのは難しいことであったのだけれど。
 それまでシエナに容姿が似ているからと、便宜的に『影』の役目を負っていたアーベルだが、その役目も辞退させてもらおうとさえ思った。単に姿形が似ている者ならば、探せば幾人かは見つけられるであろう。
 明日の『戴位の儀』が滞りなく済んで、シエナの身の回りが落ち着いたなら、近衛の長官にその旨を申し出てみようと思った。
 ずっと握ったままだったシエナの手を、そっと離す。こうしてその白い手に触れるのも、今日が最後なのだと、アーベルは心に刻んだ。
 その日から、アーベルの漆黒の瞳は、シエナに対する一切の想いを封じ込めた。
 シエナの正式な『影』として仕えるよう申し渡されたのは、その翌日のことである。


 アーベルは、薄く眼を開いた。中庭に造られた東屋(あずまや)の柱に背を預けている。暖かい日差しに誘われて、ついまどろんでしまったようだ。
「よく眠っていたな」
 すぐ傍で、声がした。
 まだぼうっと霞のかかった頭で、その声の方角を見た。
 シエナが自分を見つめている。まだ、夢の続きを見ているのだと思った。
「シエナ様……」
 笑いかけようとして、風に舞った自分の髪に、頬を叩かれた。はっとして、今度こそしっかりと眼を覚ます。
 東屋の外で、シエナが微笑みながら、自分を見つめていた。
「あ……申し訳ございません」
 がば、と身を起こそうとする。何かが自分の肩から外れて、東屋の石造りの床に落ちた。
 拾い上げて見ればそれは、シエナが外を歩く時に着ける短い胴衣だった。女人の美しい衣装の上から、開いた肩を隠すようにしてそれを掛けるのである。
「ああ、それか? あまり気持ち良さそうに眠っていたから、風邪をひいてはならないと思って掛けておいた」
 アーベルの手からふわりとそれを取り上げ、シエナはまたも笑んだ。
「そんな……わたしの身体を案ずるよりも……」
 そう言い掛けたアーベルの眼の前で、結び紐の代わりの繻子織の帯が、風になびいて美しく舞った。
「ラウナがおまえを見つけたのだがな、私が行った方がおまえが喜ぶだろうと言って教えてくれたのだ」
 そう言って、夫であるラウナが居るであろう宮を見やる。
「おかげで、久し振りにおまえの寝顔を見ることができた。……まるで子供のような寝顔だったぞ」
 嬉しそうに、シエナは言った。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
 畏まって、アーベルは応える。そうして彼は、片膝をついて頭を垂れた。


 アーベルは知らない。
 この時のシエナの顔が、少しばかり曇ったのを。
 子供の頃の遠い日を懐かしく思うのは、自分ばかりではないことを。


「それではわたしは、まだ務めがありますので……」
 日の傾き具合から見て、そろそろ昼の休みは終わりを告げる頃だ。
 アーベルは再び深く頭を垂れると、正殿の宮に向かって踵を返す。
「あ……」
 その背を、シエナの声が追いかけた。
 アーベルが振り向く。その視線の先で、シエナが困ったように地面を見下ろしていた。
 見れば、靴が片方、脱げてしまっている。アーベルは小さく息をついて弓形に唇の端を引き上げると、その傍に引き返した。
「シエナ様はわたしの肩につかまって下さい」
「すまないな、アーベル」
 アーベルの手が靴を拾い上げ、もう片方の手がシエナの踵をそっととった。
 遠い日のやりとりが、二人の胸の内に蘇る。
「夕方になると靴がきつくなるのだ。大きめに作らせたが……やはり大きすぎたか」
 そう言って微笑むシエナのもう片方の手は、もうすぐ生まれて来る我が子を愛しむように、その腹に添えられていた。