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玻璃の橋板


〜十五〜


 シエナは深く息を吸った。
「将軍」
 前の席で、やはり食い入るように見ていたエルガ将軍の肩を軽く叩く。将軍は半身を巡らせて、シエナに向き直った。
「この湾刀、どの国にもあるものですか?」
 シエナは剣舞を披露する演者を見据えたまま、問うた。
「どの国にも有ることは有りますが、数は少ないですな。シエナ様もあまりご覧になったことはないでしょう。湾刀とは、そもそもカーネリアが発祥の地。古武術で使われているのを見たことがありますが、長さは……」
 将軍は言葉を切り、演者を見る。
「そうですな、彼らが持っている物よりも、ひとまわり小さいものが祖です」
 将軍の答えに、シエナの中で合致しようとしていたものが、綺麗に重なった。
「……将軍、演者の小道具は、『全て』『中まで』調べましたか?」
 シエナの声は、まるで秘密を打ち明けるかのように重々しく響く。エルガ将軍はしばし、言葉を失った。
「将軍、見ての通りあの湾刀は張りぼてです。ですが中に一つだけ、本物が入ったものがあったのではないでしょうか。全ての重さを比べてみましたか?」
 演者の一部が舞台下に走り出て、そこでも剣舞が披露された。仮面は無表情で、一層、舞を引き立たせる。金粉を(まぶ)した華やかな衣装が、松明の灯りを受け、動きに合わせて煌いた。
「あれは張りぼてとは言え、正確な動きを得るために、金属が芯に使われておりました。全てのものは中を検めましたが……重さを比べたわけではありません。では、あの者達の中に……?」
 あの中に妃を狙う者がいるのかと、将軍は半身をこちらに巡らせたまま、今ひとたび、舞台を振り返った。一組を残し、他の演者は皆、舞いながら全ての階段を上に向かって来る。放射線状に綺麗に並んだ激しい剣舞の見事さに、通路の脇の観衆は圧倒されたようにそれを見送っていた。
 楽器の音が突然鳴り止む。
 一瞬の静寂。耳が痛いほどの静けさの中、同時に松明の灯りが黒い布で遮られた。
 演者の仮面が、微かな灯りの中にぼうっと浮き上がって見える。闇の中で光る、特殊な顔料が塗られているのだろう。妖しい表情のそれが宙に浮いて見え、とても幻想的な眺めだった。
 観衆の間から、どよめきと拍手が湧き上がる。
「そしてそれがカーネリアの者の仕業だと思わせるよう、仕組まれたのかも知れ……」
 全てを言い終わらぬ内に、シエナはレミアの手に触れた。呼応するようにレミアもそれを握り返す。二人同時に跳び、席と席のわずかな間に身を伏せた。鈍い音が響き、つい今しがたまでレミアが座っていた辺りに、黒々とした物が突き立っている。
 それはどこから投げられたものか……あの折、刺客が持っていたものと同じ湾刀であった。


 再び楽器が演奏を始めた。松明の灯りも元に戻され、演者の衣装が動きに合わせて妖しく煌く。
 楽器の音色と演者の煌くように華やかな衣装に隠されて、一番高い席で何が起こっているのか、観衆には分からなかった。隣の一画に座る、異母弟ルベル皇子やその近習でさえも、剣舞の見事さに夢中でこちらの様子には気付いていないようだ。
 後ろの幕の間から、ゴルシェが弓を構えたまま体を覗かせる。演者達にしか見えぬ位置でいっぱいまで(つる)を引いた。だが、どの演者に向かって矢を放ったらよいのか分からず、引き絞った弦もそのままに立ち尽くす。
 全ての演者の手には変わらず張りぼての湾刀が握られている。その中の誰かが本物の湾刀を持っていたという確証はないのだ。
 張りぼてのものは全て、中を開けて検めてもいる。おそらく芯に使った金属が空洞になっていて、その中に本物の湾刀が仕込まれていたのだろう。
 全てのものがそうなのか、刺客のものだけが違うのかはわからない。たとえ一つだけ違うものが混ざっていたとしても、「何も仕込んではいない」としらを切られればそれまでである。(くだん)の湾刀は既に刺客の手を離れ、今となっては誰の手から投げられたものなのか調べようがなかった。
 確証が無いのならば、疑ったこちらに非があることになる。それは即ち、リオドール国の面子(めんつ)に泥を塗ったとされ、戦へと転げて行くこととなるだろう。
 先の戦いから半年あまりしか経っていない上、シエナ自身も深い傷を負っている。軍備の立て直しが遅れ気味である今、彼の国との戦いに臨むことは、カーネリアの軍事力をもってしても無謀と思われた。
 湾刀を投げた者は、弓兵の姿を見留めたのだろうか。次の手を打ってくることはなかった。
 そうしている間にも演者はもと来た道を引き返し、舞台の上に全員が並んだ。ひときわ激しい舞を披露した後で、皆がピタリと動きを止める。数拍の後に余韻を惜しむように楽器が掻き鳴らされ、演者達は皆、舞台の袖に下がった。会場からは、賞賛の拍手が湧き起こる。
「迂闊でした」
 エルガ将軍が、目の辺りを片手で覆った。
「あまりに厳しく警戒しては、相手に気取られると思いましたゆえ……小道具に至っては全ての中身の重さまで比較して調べることなど、致しませなんだ。まさか、上演中に堂々と演者が手を下すとは……」
 刺客はこちらが演技に気をとられている隙に演者ではない者が狙ってくるのだと思っていた。だから兵達には、なるべくそちらに注意を向けないように、とさえ申し渡してあったのだ。拍手と賞賛に沸いたあの一瞬でさえ、演者の仮面に惑わされぬよう、兵は他を警戒していたに違いない。
「うむ……」
 将軍の喉から、低いうなり声が漏れた。
 顔から手を外し、深々と突き刺さった湾刀に目を向ける。長さから見て、カーネリアの古い湾刀か、あるいはそれを模したものであろう。
 柄に手を掛け、将軍はそれを引き抜いた。目を瞑って重さを感じ、裏を返してその造りを確かめる。
「重さと造りから見て、正真正銘、カーネリアのものと思われます」
 どこで手に入れたものか。既に持ち主の手から放たれてしまったそれは、ただ、カーネリアの武器としてそこに在った。
「これがレミア殿に当たっていたならば……間違いなくお命は無かったでしょうな」
 湾刀を引き抜いた後の座面は、布地に幅の広い裂け目ができ、中の綿が零れている。これが生身の人の体に当たったならば、傷つく臓器は一つや二つではないだろう。
「皇子?」
 席と席の間に伏せたままのシエナを、将軍が気遣う。
 レミアもそれに気付いて、握ったままの手を、そっと解放した。
「シエナ……様?」
 覗き込んだレミアは、はっと息を呑む。シエナの額には、汗が滲んでいた。
「少し……無理をし過ぎたようです。まだ急激な動きはならないと、薬師に言われていたのに」
 傷が痛むのか、丸めた背を伸ばせないでいる。咄嗟に身を翻した際に、傷に障ったのだろう。
 無理もない。あれから丸二日、経つか経たぬかなのだから。
 レミアが肩を貸してその体を座面の上に引き上げると、懐から手布を出して、額を拭ってやった。
「使者には気付かれていませんか?」
 シエナは将軍に様子を探らせる。
「大丈夫。気付いてはおられません」
「良かった……」
 レミアが狙われたことも、シエナが傷を負っていることも。
 リオドールのあの誠実そうな外務大臣は、見聞きした全てのことを国王に報告するのだろう。同じ湾刀を使った上演中に、カーネリアの湾刀で、リオドールの皇女レミアが狙われたのだと。
 そしてその後は……。
 気遣うシエナの隣で、レミアが哀しく笑んだ。
「使者が見知った事柄は、全て国王に伝えられるでしょう。そしてその後、この外務大臣は消える。そういう策を、父上は弄するのです」
 カーネリアを陥れた時のように。
 カーネリアが我がリオドールの国境警備軍を相手に戦いを挑んだとの報告を、父王は満足気に聞いていた。その後で、兵が一名、行方知れずになった。
 今なら判る。それが父王の策略だったのだと。
 国を護るため、多少の策は仕方がない。だが、あまりにも人の道を外れていると思えるそのやり口に、レミアは嫌悪の情を感じ始めていた。自分が見捨てられたのだという思いも、その後押しをした。今、父王がこのような策を弄して亡き者にしようとしているのは、他ならぬ、この自分なのだから。
 (うと)んじられていると、子供心に察したのはいつの頃だったろう。少しでも父王に認められたくて、武芸に励んだ。せめて兄皇子と並んでも恥ずかしくないよう、軍学にも精進した。いずれ兄皇子は次代の国王となる。それを助けて国の(いしずえ)となれるよう、王族であるための誇りも学んだというのに……。
 その長たる父王が、このような非情な人であったとは。どのような目的があるのかは知らぬ。だがその為に、手の内の駒さえも、その手にかけるのだ。
 それでは民はついては行くまい。事情を知れば、臣下も疑心暗鬼となり、その心は傍を離れてしまう。そうして遅かれ早かれ、いつか王室は皆に見限られてしまうだろう。
 兄皇子も、父王の気質をそのまま受け継いでいる。違うところは、少々の決断力のなさであろうか。それさえも、父王と比べるからの話である。兄皇子ただ一人を見れば、その激しい気性から遠くない未来、父王と同じ施政となるであろうことは容易に察せられる。
「リオドールは……もうお終いなのかも知れません」
 レミアの瞳が哀しい笑みを湛えたまま、遠くを見透かすように細められた。
 外に出て初めて、自分の囚われていた鳥籠の形が判るように。
 カーネリア国に偽りの輿入れをして、初めてリオドールという国が見えたような気がした。
「レミア……」
 シエナは手布を持ったままのレミアの手に、そっと自らの手を重ねる。祖国を思い切るかのようなレミアの言葉に、シエナは自分の胸までもが痛むのを感じた。


 舞台が終わり、人々はそれぞれの寝所へと引き上げる。『清蓮の宮』の中庭にも元の闇が戻った。
 使者の寝む部屋は『清蓮の宮』に用意され、楽師や演者なども、使者よりも劣るものの、同じ宮に部屋を用意されていた。
 賓客を迎えるために建てられたこの宮の中程に、湯殿が造られている。水と石の国と称されるカーネリアは、豊かな水量を誇る地下水脈が、そこかしこにあった。
 リオドール本国でもあまり頻繁に湯を使える身分にない者達は、子供のように夜遅くまで、色とりどりの見たことも無い花々が散らされた湯を堪能した。
 そして……。
 夜鳴き鳥がいつもと同じように寂しげな歌声を聴かせる中、その内の一人が城を抜けて闇に消えたことになど……気付いた者はいなかった。


 同じ頃、漆黒の闇に溶けるようにして、漆黒の男が馬を()っていた。
 向かう先は、焔の国。
 男の眉根はきつく寄せられ、表情は固い。
 だがそれは、決して巻き上げられる砂埃の為だけではなかった。


 シエナの宮は『清蓮の宮』に近い。疑いまだ晴れぬリオドールの使者団が泊る場所から近いその宮に、傷まだ癒えぬ皇子を寝ませるわけにはいかなかった。
 アーベルが所用で不在の今、他の者がシエナの『影』を務める。皇子の自室では、『影』がシエナを演じていた。
 当のシエナは、今宵は『清蓮の宮』から遠い後宮で寝むこととなった。閨に渡ればその物々しさからそこに皇子がいると知れる。そこで、レミアの自室を仮の閨に仕立てた。
 寝台の端に、シエナは座っていた。薬の力が切れたのか、それともレミアと二人だけでいるという安心感からなのか。先ほどから、傷が痛みを増している。身体を動かすのが辛い。
 会場での経緯を聞き、薬師は更に強い薬を調合して寄越した。それはルチエラの手からレミアに渡った。痛みを取り去る代わりに意識を薄れさせはするが、体には害が残らない薬である。亡国ジェイドの秘薬は、国が滅びてもなお脈々と、継承する薬師達の知識の中に生きていた。
 レミアから煎じた薬の満たされた茶器を手渡され、シエナは大人しく、それを飲んだ。
「苦い……」
 少しばかり顔をしかめ、シエナは茶器を返す。それを受け取って、レミアは卓の上に置いた。
「エルガ将軍が言っていた。あなたは戦において、戦いの神が降りたかのように先陣を切るのだと。そのあなたが、このような薬ごときで何を言う」
 小さく笑ってシエナの横に座り、レミアは傷に障らぬよう、そっとその肩を抱いた。
「今まで飲んでいたものよりも、これは苦い」
 シエナは無防備にポツリとそう言うと、寄り添う身体にコツンと頭を預ける。
「苦いものなら、今まで何度も口にしてきたけれど……私は、皇女が口にすることのできる砂糖菓子がどのような味なのかすら知らないのです」
 幼い日には食べたことがあったかも知れない。けれども長じた男子がそれを好むのは、いけないことのように思っていた。少しでも秘密が漏れぬよう、皇子らしく振舞うことを強いられていたシエナは、物心つく頃には自然とそれを口にしなくなっていた。
 戦いにおいて先陣を切るのも、猛々しい皇子であればそうするであろうと悟ったからである。命など惜しくもないと思ってはいた。だが生きる者の(さが)なのか。剣を向けられれば恐ろしいと思うし、矢が飛んでくれば、その風切る音に思わず身体がすくんでしまったこともある。
 だが、シエナはそれを、本当の皇子がするであろう以上の修練を積んで克服してきた。少しでも皇女であるかも知れないとの念を持たれぬよう、自分を律し続けて来たのである。
 レミアの手が、優しくシエナの髪を撫でる。
「私は戦に出たことがない。それを許される齢になる前に、わたしはリオドールを出てしまったから……。あなたは女の身でありながら、鎧を着け、その手に剣を持ち、命をかけて国を護ってきた。そうやって何年も、何年も……ずっとその身の秘密を隠し続けなければならなかったのだね」
 レミアが立ち上がり、卓の横の小引き出しから、白い紙包みを取り出した。大事そうに手の中に包んでこちらに戻ると、シエナの手の上にそれを乗せる。
 紙包みを開くと、中には花の形を模した砂糖菓子が入っていた。
「これは今日の昼餉(ひるげ)の後に出されたもの。わたしはどうにも口にする気になれなくて、とっておいた。いつもは後でアイラにやるのだけれど、今日は忙しくしていたから」
 シエナが小さなそれを、指先でつまんで口に入れる。
「甘い……。砂糖菓子とは、このように甘いものだったのか」
 舌の上で蕩ける上品な甘さに、シエナの顔が無邪気な子供のように輝いた。何も隠すことなく笑うシエナは、(まなじり)にきつく墨を入れている今でさえ、柔らかな皇女らしさを感じさせる。彼女がいつも思うように笑顔を見せることができないのは、それを隠すためでもあった。けれどもそんな心配も、この皇子の前では不要である。
「砂糖菓子なら、これからあなたの為にいくらでもとっておいてあげよう。アイラには悪いけれど」
 レミアがそれを愛おしそうに見つめた。
「わたしがここで過したのはたった半年。それでも、そうでない我が身を皇女と偽ることは、思いの外、辛かった。薄い玻璃の橋板を踏むような暮らしがどのくらい続くのか……踏み下ろす足の位置を間違え、薄い玻璃は途端に割れて、深い奈落へと落ちて行く。そんな夢に何度(さいな)まれたことか。だがそれよりもずっと長い間、あなたは皇子でいることを強いられてきたのだから……」
 薬が効いてきたのか。シエナは再びレミアの肩に頭を預けながら、徐々に彼の声が遠のいていくのを感じた。
 少しでも長く共に過したくて、眠気を追い払うようにゆっくりと瞬きをした。だが瞼が重く、半分程しか視界を開くことができなかった。
「せめてここでは、本来のあなたに戻るといい。わたしの前でなら、あなたは女人でいられる。そして、わたしも……」
 肩に押し付けた耳を通って、身体から直に響くその声は、声色を偽ることなく力強い。こんな風に寄り添って、本来の自分であることを請うてくれる人の傍にいられたら。真っ直ぐに差し出されたその手に、望まれるまま、全てをゆだねてしまえたらどんなにかいいのに……と、シエナは思った。
 だが明日の昼過ぎには、使者団を送り出す。
 それを見送る際には、また皇子に戻らねばならない。自分には、背負う国があるのだから。秘密を護り、王族の血筋を護り……。
 朝など来なければ良いのに。
「ゆっくり……眠るといい」
 瞼はもう開けていられない。闇に響く心地良い声。
 いつまでも、こうして寄り添っていたい。
 この人の、傍にいたい。
 薬のせいか、殺し続けていた感情が、枷を失って身体の中で妖しく(うごめ)く。
 誰かを欲し、その傍に在りたいと願う、その気持ち。
 しかしそれも、徐々に霧の彼方へと遠のいていくようだ。
「……私は……ずっと、あなたの……」
 パタリとシエナの手が膝に落ちる。
 優しい手が、それを絡め取ったような気がした。


 それは、恋と呼べたのだろうか。
 お互いの傷を舐め合うような想いを、二人は抱いていた。
 (おの)が心を殺し続けた『皇子』と。
 居場所を求め続けた『皇女』と。
 ただ……お互いがお互いを深く必要としていた。


 ***


 使者団を迎える日の朝、重臣達を集め、いつもよりも早くから朝議が行われた。
 その席でアーベルは、シエナの(まと)う色がいつもと違うことに気付いた。
 離れた所からシエナを窺い、些細な所作も見逃すまいとする。そのことに気を取られるあまり、すぐ傍に人が立っていることに、アーベルは気付かなかった。
「アーベル」
 馴染みのある声が、彼を呼ぶ。それと判らぬようにしたつもりだが、僅かに動いた肩先から、相手は彼に隙があったことを感じ取ったようだ。
 ふ……と、小さなため息とも笑いとも取れる声が耳に届いた。
「宰相殿……」
 アーベルよりも幾分身の丈の低いその人は、彼の父、宰相であった。
「近くに人はいない。父と呼んでも構わんぞ」
 重臣達の朝議する姿を見やりながら、宰相は腕を組み、壁に背を預ける。
「ここは思政の宮。公務中ですから、父上と呼ぶわけにはいきますまい」
 アーベルは感情を抑え、表情も変えずにそう言った。
「堅いことよ」
 口の端を引き上げて、宰相は笑みともつかぬ表情を見せた。
「アーベル」
 口調を改めて、宰相が呼びかけた。その声には、何者も逆らえぬ程の威圧感がある。今から彼が告げることは、それ相応の事柄なのだと、アーベルも認識した。前を向いたまま壁際に並んで立ちながらも、自然、その意識は朝議の席から宰相へと移る。
「刺客のことなのだが……わたしはどうも腑に落ちない。おまえは何か聞いていないか?」
「何がです?」
 問われてアーベルは、昨夜シエナから告げられた事柄を思い出す。だが素知らぬ風を装って、逆に問い返した。
「……やはりな」
 宰相は腕を組んだまま、目を瞑って小さく息を吐いた。
「おまえは知っているな。あの男が本当は誰を狙って忍び込んだのかを」
「父う……!」
 思いの外、自分があげた声が大きかったのと、思わず『父上』と呼び掛けてしまったのとで、アーベルは皆まで言わず、言葉を切った。
 朝議はまだ続いている。シエナは結い上げた髪を揺らして重臣を見回しながら、彼らに意見を求めていた。
「自分を嘆くな。おまえに聞いたのは、最後の一手。その前にわたしには、およその事は見当がついていたのだ」
 アーベルは隣に立つ宰相に視線を移した。宰相はと言えば、腕組みをしたまま前方を睨んでいる。だがその眼は朝議の様子など見てはいない。どこかもっと遠くの物を見透かしているようだった。
「おまえの間諜が刺客の亡骸を始末した時、わたしの間諜もそこに来合わせたのだよ。使者絡みで刺客の件も浮かび上がって来たのだ。その亡骸を調べてみて、わかったのだ」
 宰相は声を潜めた。
「ヤツがリオドールから出国したことは確認済みだ。だがリオドールの者である筈なのに、我が国古来の湾刀を持っていた。それだけならわからなくもない。リオドールにも我が国の武術をたしなむ者はいる。だがヤツは、我が国の衣装を身に着けていたのだ。ご丁寧にも、頭の先から爪先まで。……これが何を意味するか、わかるか?」
 ちらりとアーベルを見やる。だがすぐに、その視線は朝議の向こう側に向けられた。
「あの亡骸は、死した後にも、自分がカーネリアの者だと主張している。だがヤツは主張し過ぎた。完璧に作り上げられたものほど、嘘であるということだ」
 唇を歪ませて、挑むように宰相は笑った。
「この国に敵意を持つならば、どの国の者であると装っても良いのに、カーネリアの者として、閨を襲う。だが今、我が国に反乱の芽はない。よって、シエナ様が我が国の者に命を狙われる云われはない」
 宰相の声が、一層低くなった。
「ならば、狙われたはリオドールの皇女……ということになるだろう。違うか?」
 アーベルは何も言えなかった。父の洞察力は素晴らしい。あれだけの事柄を手掛かりに、このような推察をして見せるとは。
 国政を助ける者として、ゆくゆくは自分もそのような力を磨きたいと、改めて思った。
「リオドールの皇女が自国の刺客に命を狙われる。これはどういう事なのだろうな」
 考えなければならない事であったのに、アーベルはシエナ自身の様子に気を取られるあまり、いまだその事に思い当たるふしは無かった。
 何故、レミアが祖国の刺客に命を狙われたのか。少しばかり考えただけでは、その答えは見つけられそうにない。
「ところでアーベル。おまえ、閨の身代わりは、まだ務めてはおらんのか」
 低くひそめた声のまま、宰相が問う。
「はい……一度も」
 突然の言葉に、アーベルは驚いた表情で応えを返した。すぐさま、シエナの為には、言ってはいけなかったのではないかと自問する。だが父の洞察力の前では、どんな隠し事もできないように思えた。
 宰相はその応えを聞くと、組んだ腕をほどいてその片方を顎に当て、黙り込んでしまった。
「妃となった皇女が、輿入れより半年の間、一度も床を共にしないというのは……刺客の件といい、何かあるとは思わんか?」
 ややあって、宰相の眼がこちらに向けられた。相手から答えを引き出そうとしているようでいて、その実、相手の前に獲物を差し出し、喰らいつくのを待っているような……。その眼差しは、有無を言わせぬ何かを含んでいた。
 アーベルの背が、すっと伸びる。
「この国一番の駿馬(しゅんめ)でリオドールに走れ。そして、レミア皇女に何があるのか、調べて来い」
 宰相の眼が細められた。
「城内随一の乗り手と称される腕を、存分に発揮して来るがいい」


 そしてまもなくのこと。
 漆黒の衣装を身に(まと)った近衛の長は、()の国へと出立したのである。