〜六〜
――もうだめだ――
シエナは覚悟した。
自分の秘密は、レミアに知られてしまった。
露わになった胸の形を見て、気付いただろう。
誰にも知られてはならない、秘密。
それを、リオドールを祖国に持つ皇女に知られてしまった。
シエナは顔を背けたまま、これからせねばならない事に思いを馳せていた。
大切にすると誓った皇女だった。だが秘密を知られては、このままにはしておけない。
全ては国の安寧のため。
――死を――
その生命をとられることが無いようにと願ったのに、自ら手を下す事になるとは。
剣は腰から外し、脚衣と共に噴水の向こう側に重ねて置いてある。それを自分が手に取る様を思い描き、シエナは眉根を寄せた。
この手を振りほどき、身を翻して剣を抜く。そして皇女の身体は、赤に染まるのだ。
あと数瞬のうちに起こり得る
現。
シエナは意を決し、ゆっくりと瞼を上げた。
伏せられていた瞳が、ためらいがちにこちらに向けられる。長い睫毛が、その
帳を大きく開いた。
険しい光を秘めた瞳。玻璃細工の剣のように、剣呑だが強く触れれば壊れてしまいそうな
脆さが見えた。
「名は、なんと言うのですか」
レミアは問うた。
何故、訊ねたのか。
正殿の宮への道を聞き、すぐにこの場を離れればよいものを。
他国から輿入れした正妃や妾妃は、後宮から出てはならないという掟を、レミアは先刻思いだした。知れればお咎めがあるかも知れない。
だが、レミアはそれを訊ねた。
相手の瞳が、一層見開かれる。寄越された視線は、真っ直ぐにレミアを貫いた。
研ぎ澄まされた、黒曜石の瞳。
その相手が、こちらを見つめたまま、ゆっくりと
頭を振った。
――気付いていないのだろうか――
シエナはレミアを真っ直ぐに見据えた。
そのはしばみ色の瞳には、なんの曇りも映っていない。ただ静かに、自分を見つめている。
にわかには信じられない。
シエナはレミアを見つめたまま、ゆっくりと頭を振った。
「お願いです、あなたの名を……」
それを拒絶ととったのか。
懇願するように言い募る様子に、ここにいるのがシエナ自身だと気付かれていない事を確信した。
濡れているこの髪のせいなのか。それとも有り得ない姿を晒しているせいなのか。
しばしの逡巡。
「……名は」
意識して、高い声を聞かせた。
「私の名は……」
いつもは低く声色を偽っている。今、喉を開いて聞かせる声は、本来のものである筈なのに……透き通るようなそれは、他人のもののように聞こえた。
喉が痙攣し、緊張に唇も震えている。
女性として他人の前に立つのは、物心ついてより、これが初めてのことだった。
玻璃細工を打ち合わせるような声だった。
天女のささやきを聞く心地だった。
レミアは自分の耳朶が、その声が始まり終わる、どんな微かな響きも逃すまいとしているのを感じた。
『大切にします』
不意に、シエナの言葉がレミアの胸を
過ぎった。
全く違う声であるのに、何故か皇子の言葉が思い出された。
黒曜石の瞳も、漆黒の髪も……かの皇子を想わせる。
力強く、『大切にします』と言ってくれた、シエナ。
失いたくないと思ってしまった人に、目の前で震えるこの人は、どことなく似ているように思えた。
――皇子の姿を重ねて見ているのだ――
長く背におろした髪のせいだったのか。
濡れて身体にまとわり付く、衣装のせいだったのか。
目の前の人がシエナその人であるとは、微塵も疑いはしなかった。
シエナに情を寄せるばかりに、この人の中にシエナの面影を探してしまう……レミアはそう思い込んでいた。
両の手首を掴んだままであったのに、レミアは気付いた。片方の手をそっと放し、壊れ物に手を伸ばすように、ためらいがちに持ち上げる。陶器のような白い頬に触れ、濡れて張り付いた漆黒の髪を、そっと指で絡め取ってやった。
目の前の人は、唇を半ば開いたまま、こちらを見つめ返している。噴水の水粒が細かいしぶきとなって頬の上に溶けていく。妖しく艶めいて見える赤い唇の下に続く、白い喉。胴衣の下に透けて息づく、紛れも無く女性であることの証。
それがとても美しくて……。
そのまま引き寄せてしまいそうになるのを、かろうじて耐えた。
レミアは、切なげに熱い息を吐く。背筋をざわりと這い登る甘い痺れに、自分が本物の皇女ではないことを改めて強く感じた。
初めてのこと。
女であることを、何の疑いもなく受け入れてくれる人。
心地よかった。本来の自分の姿を偽ることなく他人に認められていることが、心地よかった。
「……カルサ」
小さな声で、シエナは言った。
カルサ、と。
それは自分の幼名だった。
カーネリアでは、『戴名の儀』によって自分の名を持つまで、古代から続く神の名を与えられる。なかなか生命を繋ぐことのできないこの国の王室に伝わる、哀しい習わしだった。
神の名において、幼い生命を守る。
だがそれでも、生まれにくい生命は、やはり育ちにくいのだった。
シエナという名を持つ前は、カルサと呼ばれていたと聞く。記憶には無かったが、それは女であった自分そのものだとシエナは思っていた。
今この姿で名を名乗るとき、女として生きることを許されていた頃の自分に戻りたいと、シエナは切に願った。
だからカルサ、と。
レミアの瞳を見つめながら、シエナはそう名乗った。
「カルサ……」
レミアは胸の中で、その名を何度も呼び返した。
「この城で暮らす、女官なのですか?」
優しく問いかけると、カルサは黙って頷いた。
「どなたにお仕えなのです?」
その問いには、唇に微かな笑みを刷いただけで、言葉無く首を横に振る。
それは言えないと、やんわりと拒絶の意を示された。
女官といえど、いつも裾の長い衣装を引き摺って仕えている者ばかりではない。仕える主の命により、様々な仕事着を纏ってその任をこなす。
胴衣を羽織っているからには、その辺りに脚衣もあるのだろう。
レミアは辺りを見回した。
「何をお探しです?」
カルサが問うた。
「あなたの脚衣を。そんな
形では、病を得てしまう。今、悪い病が流行っているようですから」
レミアはそう言って、カルサの手首を開放した。
女官アイラの顔が、ちらりと脳裏をかすめた。たった今も、病の床に伏している。
噴水の向こう側に布地が散り敷いているのを見つけ、そちらに向かって足を踏み出した。
高揚した想いが身体の中を熱となって駆け巡っている。見てはいけないと思っても、自然と露わになった肌に目がいってしまう。
これ以上近くにいては、己の中で何かが弾け飛んでしまうかも知れない。だが側を離れたくない。
カルサがこのような形をしているから、心が騒ぐのだ。それならば、水から上がらせ、脚衣をつけさせれば良いと、レミアは思った。
「それは!」
シエナは縛めを解かれた手首で、レミアの衣装の袖を引いた。
脚衣を探られてはいけない。その中に隠した剣を見れば、自分がシエナであることが判ってしまう。
美しい象嵌で飾られたその剣は、王族のみが持つことを許されるものだ。一介の女官ふぜいが持っていて良い物ではない。
「待って下さい」
ひらりと跳んで、レミアの前に立ちはだかった。大きな水音と共に水飛沫が飛ぶ。
「私はもう行かなければ。主に咎められてしまいます。あなた様も、早くお帰り下さい」
衣装の置いてある側を背にして、シエナは凜とした声で言った。
「ここは誰も来ぬ宮ゆえ、何か有っても助けは参りません。見れば高貴なお方。事が起きては大事になります。王宮内であっても、何が起こるかわからないのですよ」
それはシエナの本心でもあった。自ら剣を取ってこの皇女の身体を赤に染めることは避けられた。だが、この国を狙う者は大勢いる。レミアとの婚儀以来、華やいだ陽の気に誘われてか、交易が盛んになった。物が行き交えば、人も動く。それと共に警護の厳しいこの王都でさえ、怪しげな輩が見られることが多くなったとの報告が上がっている。例え王宮内であっても、視界の利かない夜は危ないのだった。
言いながらレミアとの距離を測り、剣を使う時のように間合いをとる。突かれれば退き、相手の気が萎えれば突き出せる、紙一重の間合い。
修練を積んだ身体が覚えている、絶妙な間合いだった。
水飛沫がかかった。
だが、そんなことはどうでも良い。
鮮やかに跳んだ、その身のこなしが気になったのだ。
「カルサ、あなたは……」
この距離。
自分との距離を測る、その眼差しの強さに、レミアは思わず上擦った声を漏らした。
並みの者ではない。
これは……。
「あなたは『影』、なのですか」
カルサがそれとは判らぬように、呼吸を乱すのが感じられた。
これも、リオドールにおいて修練を積んだおかげである。相手の何気ない立ち姿を見ただけで、力量がどれ程のものか、レミアには手に取るように判った。
ただの女官ではない。
主の命を受け、その影となって主を守る。そんな者が、どこの王室にもいるものだ。
リオドールにいた頃には、自分にも何人かの『影』がいた。それは臨機応変に、男であったり女であったりした。男の王族にも、容貌さえよく似ていれば、女の『影』がつくことも稀ではなかった。美しい皇子であれば、なおのこと少女めいた美しさが『影』に求められるのだ。
カルサは『影』であったのか。
だからこのような形をしていたのかと、レミアは納得した。
「王族は何人も『影』を使うと聞いています。特にこのカーネリアは……。あなたの主は、王族なのですね」
この面差しならば、思い当たるのはただ一人。
彼女はシエナの『影』なのであろう。
カルサの答えは無い。だがレミアは、そうであると確信した。
――……!――
シエナは心の中で舌打ちをした。
それと判らぬようにしたつもりであったが、レミアはこちらの力量を見抜いている。並みの皇女ではないと思っていたが、おそらく故国にあっては武芸に手を染めたこともあるのかも知れない。
先ほど掴まれた手首が熱い。宮中でただ花のように愛でられて暮らしているだけの皇女の力ではなかった。
同じく武芸に手を染めた皇女同士であるのに、この身の上の違いはどうだろう。片や立派な仕度をして輿入れをする皇女。そして片や皇女である事さえも隠して、皇子として生きている。
シエナの瞳が、すっと細められた。
「私の素性は詮索なさらない方が、御身の為と存じます」
唇の端を弓形に引き上げ、シエナは片膝をついて頭を垂れた。それは主を持って仕える者のそれで、王族である素性など、どこにも感じさせない所作だった。
すぐさま、ひらりと身を翻し、高く跳んで衣装の散り敷いている傍に降り立った。
脚衣と胸に巻く布を纏めて片腕に抱え、その中に包むようにして美しい象嵌細工の剣を隠し持つ。そのまま、タタッと塀の破れに向かって駆け出した。
声がやっと届く頃合まで来ると、木の葉が風に踊るように、クルリと身体の向きを変えた。
「正殿の宮への道はあちら。あの高い塔を目指して行かれると良いでしょう」
今一度、膝を折って優雅に頭を垂れる。それは裾の長い衣装を身に付ける女性の仕草だった。
「またお会いできますか」
カルサと名乗った『影』に向かって、レミアは声を掛けた。
だが次第に小さくなるその背はただの一度も振り返る事無く、暗闇の中に溶けていった。
彼女の姿が視界から消えると、レミアは「ほうっ」と小さく息を吐いた。
今しがた起こった事は、夢だったのだろうかとさえ思える。それほど月明かりの中の噴水は、静けさを取り戻していた。
「薬を……」
レミアは自分が正殿の宮へ行く途中であった事を思い出した。
薬の入れ物を拾い上げようと、腰をかがめる。ふと、そのすぐ脇に飾り紐が落ちているのを見つけた。
「これは、カルサの?」
色糸を細い束にして細かくきっちりと編みこんだそれは、いつも閨においてシエナが身に付けている物と同じ造りだった。
『影』であるカルサならば、シエナと同じ物を身に付けていても不思議はない。
レミアは何の疑いも持たなかった。
「これを返すという名目で、また会えるかも知れない」
す、と手を伸ばし、飾り紐を拾い上げる。カルサの髪からはずされてより、しばらく経ったであろうそれに、まだ彼女の温もりが残っているような気がして……レミアは掌の中に優しく包み込むと、そっと口付けた。