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玻璃の橋板


〜十三〜


「皇女様……?」
 鏡越しに女官アイラが覗き込んだ。シエナ皇子の先触れがあってから、レミアは伏目勝ちに黙りこくったままである。近頃では、アイラに髪を梳らせている間、張り詰めた中にも少しばかりの笑みすら浮かべている日もあるというのに。
 今日は形の良い唇を引き結んだまま、ずっと膝の上で組み合わせた自分の手元を眺めている。
「お体の具合がすぐれませんか? それでしたら今宵の閨をご辞退できるよう、お伺いしてみますが……」
 昨晩の騒ぎは、まだ生々しく脳裏に刻まれている。
 閨の脇にある控えの間で、他の女官と共にアイラは横になっていた。風を入れるために少しばかり開けた蔀戸の向こうで、時折小動物が動き回る気配がする。それがにわかに騒がしくなった。
 おそるおそる扉の隙間から覗き見ると、閨の向こう側、こちらからは死角になって見えぬ辺りがざわめいているように思う。声が聞こえる距離ではなかったけれど、それでもいつもと違う、ただならぬ気配が漂っていた。
 侍官らしき黒い影が庭を駆けていくのが見えた。
 しばらくして、月も隠れた暗闇の中、庭の方からレミアがふらふらと歩いて来るのを見て取ると、思わずアイラは駆け寄っていた。燭台をかざすと、レミアの夜着は、真っ赤に濡れていた。
 すぐさま自分の羽織っていた上衣でその身体を包み、他の女官に見咎められないようにする。背に手を添えてそっと促すと、レミアは傀儡(くぐつ)のように歩き出した。
 閨へと引き返すその道すがら、他の女官や侍官がわらわらと駆けて行くのに出くわすと、「シエナ皇子が事の真相をお伝えするから」と言って、それきりレミアは口をつぐんでしまった。
 時を経ずして、皇子のもとより後宮に使者が寄越された。賊が入ったのだと、その使者の携えていた書面には記されていた。妃を盾にとって事を成そうとしたその賊も、シエナ皇子に仕留められ、全ては片付いたのだという。シエナ皇子は少々のかすり傷を負い、手当てを受けるためそのまま自分の宮に戻った……というのだった。
 だがその報告を共に聞くレミアの顔は蒼白で、その表情は張り詰めていた。
 そんなレミアが、今宵、閨に招かれた。
 昨日の今日なのにという思いもあったが、怯えているであろうレミア皇女を、シエナ皇子が見舞うつもりなのだと、アイラは理解していた。
「いや、いい。わたしは大丈夫だ」
 あの時と同じく紙のように白い顔色のまま、レミアは小さく頷いた。そして自分の手元から視線を外し、ゆっくりと上へと辿る。鏡越しに、アイラの視線とぶつかった。
「アイラ……」
 何かを決めかねているような、迷いを含んだ声で呼びかける。
「はい」
 アイラは眉を少しだけ持ち上げ、唇の端を引き上げてみせた。
「もしも……わたしが罪を背負うことになったなら、おまえだけはお逃げ。わたしの(とが)はおまえの咎ではないのだから。わたしと同じ道を辿ることはない」
 女官の応えを確かめることもなく、それきり、レミアは自分の手元に視線を戻してしまった。
 昼のものより控えめな飾り布にはめ込まれた石が、揺れる心を表すかのように蝋燭の光を映して瞬いた。


 レミアが閨に入ると、程なくシエナのお渡りがあった。
 いつもであれば、レミアは妃の礼をとる。片膝をついてシエナを迎え、その剣を袖に包んで受け取って、寝台の枕元に置くのだ。
 だが……この日のレミアは、寝台の端に座ってシエナの顔を見上げたまま、動こうとしなかった。
 シエナも閨に一歩入ったところで立ち止まった。後ろで女官が重い扉を閉める。
 扉の向こうで女官がそれぞれの詰め所へと下がって行く気配を、シエナは背で探っていた。
 二人だけの室内。
 お互いがお互いの瞳を見据えたまま、微動だにしなかった。
 どれ位そうしていただろうか。シエナが小さく息をついた。ゆっくりと睫毛を伏せて視線を逸らし、コツコツと靴底を鳴らしながら、寝台に近づく。レミアの前に立つと、再び静かにはしばみ色の瞳を見下ろした。
「これから……どうするつもりですか?」
 声色を使わず、シエナは言った。もう隠す必要はない。秘密は全て、知られてしまったのだから。
 レミアの祖国リオドールの使者が到着するのは明日。その内の誰かに、『カーネリア国第一皇子シエナは、実は皇女であった』と告げるつもりであろうか。それも仕方がないであろう。レミアはリオドールの皇子なのだから。だが返答次第では、失いたくない人を、この手にかけることになるかも知れない。
 そんなことは、したくなかったけれど……。
 レミアがスッと立ち上がった。その物腰は柔らかく、どんなに虐げられて育ったと言っても、生まれながらにして王族の気品にあふれている。互いに一時も眼を逸らすことなく、向かい合った。
 先日禁断の宮で逢った際には、互いの瞳はちょうど同じ高さにあった。それが今はもう、はしばみ色が黒曜石を僅かに見下ろす程になっている。この違いは、これから先、もっと広がるのだろう。
 こんなにも近くにいて、気付かなかった。
 皇子が皇女であることに。そして、皇女が皇子であることに。
「シエナ様」
 声色も使わず、レミアは相手の名を呼んだ。
 シエナの肩が、それと判らぬ程ではあったが、一瞬ピクリと跳ね上がる。そんな声を聞いたのは、初めてだった。あの禁断の宮で真名を明かした時でさえ、レミアは辺りをはばかって女人の声色を使っていた。
 まだ低くなりきっていない声。だがそれは、明らかに男のものである。少年から青年に変わる刹那の、透明さと危うさを持っていた。
「レミア……いや、ラウナ殿」
 シエナも相手の名を返す。それを聞き、レミアは苦く笑んだ。
「レミアと呼んで構わない。真名を捨て、わたしの……死んだ異母姉の名をもらって、この国に入ったのだから」
 皇女ではなく、皇子の口調でそう言うと、レミアの瞳が逸らされた。
「父上の命により、この名を背負って生きていくことを余儀なくされた。この名は、わたしがカーネリア国に入るための査証のようなもの」
 レミアが一歩、歩み寄る。
「この名を背負って、わたしはあなたと出逢った。祖国においても居場所のなかったわたしに……望んでも決して与えられることの無かったものを、例え短い間であったとしても、あなたが与えてくれたのだから」
 その瞳の奥に見え隠れするものが何なのか。シエナには、レミアが特別な決意を秘めているように感じられた。
「あなたは、何をするつもりですか?」
 シエナは思わず、レミアの腕に自らの手を掛けた。そしてその感触が、薄手の夜着の上からは、はっきりと女人のものではないと感じた。
 婚儀の間において互いの手を重ね合った時には疑いすらしなかった。たった半年前のことなのに、その間にレミアはその衣装の下で、こんなにも皇子らしくなっていったのだ。
 そしてそれ程、自分達は触れ合うことが無かったのだと、シエナは偽りの婚姻生活を思った。
「何も……」
 そんなシエナの様子を見て、レミアが苦く笑う。
「わたしにはもはや、帰る祖国もない。父上がわたしに向けて刺客を寄越したということは、既にわたしは要らない駒になってしまったということ」
 はしばみ色を、濃い睫毛が隠した。
「この偽りの婚姻が、いつまでも続くわけはないと思っていた。どんな思惑で父上がわたしをこの国に寄越したのか、それすらわたしには判らない。今はただ、この国でわたしの命が潰えることを、父上が願っていたとしか……」
 そこまで言って、レミアの眉根が寄せられる。伏せていた睫毛を開くと、ゆっくりとシエナから視線を外した。
 シエナは思わず、目の前の体に己の腕を回していた。薬師によって強い薬を処方されていたにもかかわらず、背中の傷が疼く。だが、何故だかそれも苦にならなかった。
「……シ……!」
 シエナ、と呼ぼうとしたのか。レミアの声は途中で途切れた。
「死ぬつもりですか」
 腕を回したまま、シエナは問うた。あまりに近すぎて表情までは判らなかったが、相手が息を呑むのが感じられる。
 ややあって、腕の中の体が、深い息を吐いた。
「わたしには、もはや生きる道はない。カーネリア国第一皇子として生きているあなたに、わたしの秘密は露見してしまった。そして帰るべき祖国も失った今、どこにその道が残されていると言うのだろうか?」
「私の秘密を、あなたは知っている」
 絶望と共に吐き出された言葉に、シエナの言葉が重なった。
「カーネリアの皇子が実は皇女であったと、祖国の使者に告げれば良い。リオドールからの使者が来るのは明日。国家を揺るがす秘密をもたらした功績で、あなたは晴れて祖国に帰れるかも知れない」
 抱き締めた相手の肩越しに真っ直ぐ前を見据えたまま、試すかのように、シエナは言った。
「そんなこと……」
 耳の横で、レミアがふっと笑んだのが感じられた。
「わたしの生きる拠り所とも言えるあなたを、わたしがこの手で陥れることができると思っているのか? それこそ、死ぬよりも辛い。あなたの心を失って、わたしが生きていられるわけがない」
 レミアの手が肩に添えられ、身体を引き離される。
 こんなことが、前にもあった。縋る身体を引き剥がされ、宙を彷徨う指先。相手はアーベルであったけれど……。
 だが今日は、肩先に添えられた手の温もりは、いつまでもそこに在った。彷徨った指先は、レミアの腕を捉えた。
 シエナは真っ直ぐにレミアを見た。寄越される真摯(しんし)な眼差しに、嘘を言っているのではないと確信できた。同時に、背負った罪の重さにおののく。自分が言った言葉は、愛などではなかったのに……。
「私があなたを大切にすると言ったのは、贖罪の気持ちからです。偽りの皇子の身でありながらあなたを妃に迎え……生涯添い遂げることのできぬあなたを、それと知りながら国を護るためだけに受け入れてしまった。そんなあなたを、妃として愛しむことはできないけれど、ここにいる間だけでも大切にすると……それで罪を償うのだと、己のやましさから逃れる為に言っただけなのですよ?」
 吐息がかかる程間近に、レミアの顔がある。辛そうに眉根を寄せた顔に浮かんでいるのは、哀しい程美しい笑みだった。
「それでも……」
 その顔が徐々に近づく。
「それでもわたしにとって、あなたの言葉だけが生きる全てだった。そんな約束をくれたのは、あなたが最初で最後だったから……。あなたが女人と知らぬ内にも、あなたに惹かれる自分を抑えることができなくて、だから……あなたへの想いを、カルサへの想いににすり替えていた。女人のカルサであれば、ほんの少しの間でもいい、想う事を許してくれるかも知れないと思ったから」
 今度はレミアの腕がシエナを包んだ。傷を気遣ってか、背中には触れずにいる。両方の肩を抱えるようにして手を添え、その片方に自分の額を乗せた。
「カルサがあなたで良かった……」
 吐息のような声でささやかれ、優しい腕にゆったりと抱き留められて、シエナの心にほのかな灯火がともる。
 たったひとつの言葉を拠り所に、こんなにも求められることがあるとは思わなかった。『皇子』としての自分を求める者は、数多くいる。だがシエナ自身の――例えそれが、カルサと偽っていたとしても、女である自分をそこまで求めてくれた人はいなかった。
 あのアーベルでさえ……。
 彼の心は、もう自分から離れてしまっている。幼い頃のように、この身の全てを受け入れてくれなくなってから、どの位の月日が経つだろう。彼に必要なのもまた、『皇子』として国を護る自分なのだ。


――シエナは知らない。
 アーベルがシエナの為に自分を律し続けていたことを。
 許されない状況の中にあって、シエナを皇女として見ることのないよう、自分に鉄の枷を課していたことを。
 だが……。
 漆黒の従兄が自分から離れて行こうとするのに耐えられず、シエナは今、彼への思慕を断ち切った。


 ゆっくりと……シエナは自身の身体の重みを、受け留める胸に預けた。
「カルサは私の幼名。双子の兄皇子が亡くなって、やむを得ない事情によって私が皇子となり……わたしが女人として暮らすことのできた、短い間の名なのです」
 シエナの腕もまた、レミアの体に回された。
「……死ぬことは許さない」
 呟くように、シエナは言った。肩を抱き留める腕が、ほんの少し、その強さを増した。
「私は、偽らなくてもいいですか? あなたの前でだけは、女として在ることを許してくれますか?」
 シエナの問いに、レミアは(うなず)いた。それは微かなものであったが、確かな振動となってシエナの肩に伝えられた。
「あなたが、女人で良かった。女人であるあなたを、心から望んでいた」
 望まれる言葉は、吐息のように。
「私も、あなたを失いたくない……」
 初めて請われた喜びに、ともすれば掠れてしまいそうになる声を、シエナは絞り出した。心の底から湧き出た願いは、言葉となって喉を震わす。
「この国にいる限り、私はあなたを護ります。あなたを大切に想います。あなたを……」
 死なせはしません、と。
 長きにわたって居場所を求め続けていた二人。お互いの中にそれを見出した今、それを手放すことは、もはや考えられなかった。


 翌朝。
 シエナは閨の寝台の上で目覚めた。傍らにはレミア。ただいつもと違うのは、互いに向き合い、指を絡めあって眠ったことだった。
 この閨で、深く眠ることができたのは、これが初めてであろう。途中一度も目覚めることなく、朝を迎えた。
 絡めた指先に伝わる僅かな振動に、レミアもうっすらと瞼を開けた。覚めきらぬ(まなこ)で、そのまま互いに見詰め合う。
 カーネリアの神に許されて、二人は夫婦(めおと)の誓いを立てた。
 そして二人は、カーネリアの神に許されない夫婦となった。
 国を、人を、神を……全てを欺いて、二人はここにいた。
 閨のこの小さな部屋の中だけが、二人の本来の姿でいられる場所となった。
 傷を庇って、シエナは起き上がる。夜着は乱れることなく、二人の間に何もなかったことを物語っていた。
 身体を重ねることは無かったけれど……心寄り添う相手が傍にいるということが、こんなに満ち足りたことだったとは。
 国から、人から、神から拒絶され続けた本来の姿を、あるがままに受け入れてくれた相手を、シエナはじっと見つめた。
 レミアが横になったまま微笑み返す。蜂蜜色の髪がその頬に乱れかかっていた。皇子と知れた今も、その美しさは変わらない。婚儀の後の祝宴で隣り合って座ったあの日。彫りの深い異国の顔立ちと、中性的ななまめかしさは、今も変わらずシエナの隣に寄り添っている。
 違うのは、お互いの心までもが深く寄り添ったということ。見つめれば見つめるほど、心の糸がほぐれて互いを絡め取ろうとしているのがわかる。
 それほど、渇望していたのだ。
 ありのままを受け入れてくれる、その人を。
 絡めた指先が引き寄せられ、弓形に引き上げた唇が押し付けられる。
 初めての閨の折、薬を含んで口付けた赤い唇が思い出された。シエナの背に、ぞくりと甘い何かが走った。
「リオドールの使者との謁見は、午後からです。その中に手練(てだれ)とおぼしき者が紛れ込んでいると……」
 甘いざわめきを打ち消すように、シエナは言った。
「覚悟はできている」
 気遣うシエナの言葉に、指先に唇を押し付けたまま、レミアはすぐさま応えを返した。
「刺客に狙われてより、ずっと考えていた。何故この時期に使者を立て、刺客を寄越したのか……おそらく父上のこと。二重、三重の手を打ったのだろう」
 それはすなわち、レミアを確実に亡き者にするための策略ということ。刺客が失敗した後も、使者団の内の誰かが秘密裏に(めい)を受け、その任務を遂行するということを言っているのだろう。
「わたしがいなくなることで、父上に何の益があるのかは知らない。一度は諦めかけたこの命。けれど、あなたという拠り所を見つけた今、わたしもむざむざ逝くわけには……」
 レミアも身を起こす。二人は寝台の上に座したまま、向き合った。蔀戸から入る朝の光が強くなる。扉の向こうで、女官が動き出す気配がした。
「あなたをひとり置いて、逝くわけにはいかない」
 そう言い放ったレミアは、今までのように自分の運命を嘆き、流されているばかりの『皇女』ではなかった。理解し、受け入れてくれる人を見つけたことが、こんなにも力になるとは。
 傷に障らぬよう、そっとシエナの体を抱き寄せた。シエナも抗うことなく、その身を預けた。
 寝台の上で、どちらからともなく唇を重ね合う。
 それは……新たな茨の道の始まりだった。


 どことなく今日のシエナは、(まと)う色が違っていた。
 リオドールの使者を迎えるため、今朝の朝議は予定を繰り上げていつもより早い時間に行い、最終の打ち合わせをしている。その間にも、列席した重臣の内、何名かが『皇子』に向けてとまどったような視線を投げかけていた。それはみな、武芸に秀で、鋭い感覚を身に付けた者に限られてはいたのだが。
 シエナの艶やかな黒髪はいつものように頭上高く結い上げられ、きつい視線はその鋭い洞察力を窺わせている。どこから見ても、一国の皇子だ。
 だが、考えを巡らす時にふと宙を横切る視線や、後れ毛を()く白い指先……時折見せる僅かな所作に、今までとは違った色が滲んでいた。
――何かが違う――
 離れたところでそれを見ているアーベルは、何故だか胸騒ぎを感じた。
 いつもより遅い閨からの退出もまた、アーベルを苛立たせた。傷に障ったのではないかと、随分気を揉んでいたのだ。案の定、後宮から自室に戻ったばかりのシエナを訪ねると、傷のせいでゆっくり眠ることができず、寝過ごしたのだと言う。
 だがそれだけではない何かを、アーベルは感じ取っていた。ずっとシエナだけを見守り続けていたからこそなのかも知れない。
 手元で大切に育てた雛鳥が、ある朝気付いたら、籠の隙間から飛び立ってしまっていたような……そんな喪失感。
 色が匂う。
 そんな感覚をシエナに感じ取り、軽い眩暈を覚えた。
――閨で何があったのだ――
 妃レミアとどんな話をしたのか。
 よもやレミアが皇子であるなどと思いもしないアーベルは、胸の内に立ち込める得体の知れぬ不安に戸惑っていた。