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玻璃の橋板


〜外伝 三〜


 シエナは寝台の上で眠っている。隣に臥していたラウナは、起こした半身を肘で支え、満ち足りた気持ちでそれを見下ろしていた。愛しい人の頬に乱れかかる髪を一筋、指ですくって払ってやる。
――随分と無理をさせたかも知れない――
 婚儀、披露目の宴と慣れないことが続いて、今日は疲れていたであろうに。
 リオドールとの戦で生き別れになってより、一年余り。再びこの腕にシエナを抱くことができるなどとは、思いもしなかった。喜びのあまり、何度も証を求めた。肩先に散った紅の花びらは、自分がつけた印である。
 離れていた間に募った想い。それを全て形にして、彼女に見せたかった。
 失って(のち)、二度と手にすることはできないだろうと諦めた。リオドールの城で再び逢えた時、この手に掛かって逝くのだと思った。それしか道はなく、また自分もそれが一番幸せなのだと思い込んでいた。それなのに……。
 シエナは諦めず、こんな自分を求めてくれた。
――愛しいと想う。
 顔を上げて、前を向いて、国のため、そして愛しい者達のために進んで行こうとするその心根が。
 傷つかないわけはないのに。矢面に立って前に進むたび、その身に降りかかる火の粉に、火傷を負わないわけはないのに。


「う……ん……」
 シエナの瞼がぴく、と動いて、唇から小さな声が漏れた。寝返りをうってラウナの夜着の胸に顔を寄せる。シエナの夜着に焚き染められた香が、かすかな風にのって鼻腔をくすぐった。
「シエナ」
 ラウナは確かめるように、愛しい人の名を呼んでみる。漆黒の睫毛がふるっと震えた。
 同じく漆黒の前髪を指で梳き、覗き込む。シエナは規則正しい寝息をたて、どうやらまた眠りの渕へと沈んで行くようだ。
 白粉で塗りつぶさなくなったシエナの唇は、紅い。白い肌によく映えて、艶めいて見える。
 そっと顔を寄せ、ラウナはその紅い唇に自分の唇をそっと触れた。優しく触れるだけの口付け。そうしてラウナは、シエナの寝顔を飽かず、眺めた。
「……ん」
 寝息が乱れ、間近でシエナの瞼が開かれた。
「……ラウナ?」
 まだ少し正気になってはいないのか、どこか焦点の合わない瞳がこちらを見上げている。
「起こしてしまったか?」
 ラウナは柔らかく微笑んで見せた。
「もう、朝?」
 シエナは臥したまま、首だけを巡らせて蔀戸(しとみど)の向こうを窺おうとする。
「いや、まだ日は昇らない」
 漆黒の髪が寝台の上に散り敷く中、ラウナは自分の胸にシエナの頭を抱え直した。それに応えるように、シエナの指がラウナの夜着の胸を掴む。
 艶やかな髪を指でそっと梳いてやると、シエナは安心したように、また眠りの渕へと沈んで行った。


 夜が明けるまで、ラウナは飽かず、愛しい人の寝顔を見ていた。蔀戸の向こうでは、小鳥が可愛らしい声で朝の訪れを告げている。女官達が起き出して、それぞれの持ち場へと移動する、(きぬ)のざわめきが聞こえて来た。
――そろそろ仕度をしなくては――
 シエナはこの国の女王であるから、婚儀の次の朝に行なわれる『検めの儀』はしない。だがじきに、二人の仕度を手伝うため、女官ルチエラがこの部屋にやってくる。
 それまでに自分達は夜着の乱れを直し、忠実な女官を迎えねばならない。
 ずっと見ていたかった。無防備に眠る、シエナの顔を。
 こんな風に安堵した顔でシエナが眠っているのを、ラウナは見たことがなかった。
 偽りの婚姻生活の間、いつも苦しげな面差しで眠っていた、シエナ……。


 扉が控え目に叩かれた。女官ルチエラが、同じく女官アイラを伴って部屋に入って来ようとする。その二人の眼の前で、寝台の天蓋(てんがい)が細めに開けられた。
 寝台の上に無造作に座したラウナが、自らの唇に人差し指をあてる。そうしてそのはしばみ色の瞳が、柔らかく笑んだ。
「女王はまだ、眠っている。もう少し、このままにしてやってくれないか」
 天蓋の隙間から垣間見えるのは、美しい王婿(おうせい)ラウナと、その向こうに横たわるシエナの身体。まだ乱れたままの夜着に、二人の女官は頬を染めて扉の向こうに消えた。


「これから、大変な仕事が山ほど待っている。あなたは女王として国をまとめ、また王室の血を次に繋いで行かねばならない。今日だけでも、ゆっくり寝むといい」
 ラウナの言葉に、シエナの紅い花びらがほんのりと息づいたように見えた。