〜二十八〜
青年は水を汲んでいた。青年と呼ぶのは、まだ早いかも知れない。少年から今まさに青年に移り変わろうとする、そんな年頃であった。
ここはリオドール国の中でも辺境にある小さな街である。行き交う人々はいろいろな国の装束で、大抵が大きな荷を積んだ荷車を押して、土ぼこりのたつ道をのろのろと歩いて行く。大きな河が蛇行して流れるこの地は、旅人にとっては隣国トルメインとの国境に繋がる最後の休憩地となっていた。
「若様!」
大通りに面したこの屋敷の庭で、井戸から水を汲んでいる青年を見つけ、壮年の男が駆け寄って来た。
「そんなことをなさらなくても、下働きの者にさせれば良いのです。まだ傷に障りますから、若様はじっとしていて下さい。さあ、桶を置いて……ルマ! ルマはいないのか!」
男は屋敷の奥に向かって下働きの者の名を呼んだ。
――若様。
そう呼ばれた青年はちらりと男を見やって唇に笑みを刻むと、その声が聞こえなかったかのように水汲みの続きを始めた。
「……わたしは若様ではないのに」
ザーッと流れる水の音に混じって、青年の微かな声が響く。それは低く、耳に心地良かった。
披露目をしたわけでも無いのに、口さがない人々の噂は、とかく流行り病よりも速く伝わってしまう。特に貴人の噂は、
徒人の好むところだ。自分達には思いも寄らない暮らしぶりに思いを馳せるのも一興らしい。
シエナとアーベルのことも、どこからどう漏れたものか、いつの間にか国中の人々の知るところとなっていた。
それは正式な手順を踏まず、近隣諸国にまであくまでも『噂』として広まって行く。
「聞いたかい? カーネリアの、あの皇子だった女王様が、今度は宰相殿の息子と婚儀に臨むらしいよ」
「それがまた、女王様になった途端、綺麗になられたそうなんだってね。まるで魔性の者のような美しさなんだって」
「いいねえ。でもあんた、その女王様と言えば、この国の皇女様とご結婚なさってたんだろ? その皇女様が亡くなって、自分も皇女様に戻って、女王様になって、それで結婚かい? 忙しいねえ」
「あたしら下々の者には、高貴なお人のなさる事はわからないもんだよ」
「まったくだ」
あはは、と笑う声が、路地を曲がって消えて行く。どこかの下働きの女達であろう。袖をたくし上げた衣装の裾が、土埃で汚れていた。
この屋敷の前の通りは街人が頻繁に行き来する。低い土塀に身を寄せれば、往来の話し声は筒抜けであった。
女たちの会話を聞くともなしに聞いて、青年はまた思い出したように絞った布で肌を押さえる。胴衣を脱いで庭先の木の枝にかけ、井戸から汲んだ水で身体を清めているのだ。
「傷跡はまだ痛みますか?」
背を拭いて少しばかり顔をしかめた青年に、屋敷の主が声を掛けた。
「いえ、大丈夫です」
主に向かって心配ないと微笑むと、青年は今度は腕を拭いた。
庭の木立の間から漏れる木漏れ日が、青年の身体の上に影を作る。その背には、いくつかの新しい傷が見て取れた。
主が屋敷の奥に入ってしまうと、青年は身体を拭くのをやめ、日の光を追うように眼を
眇めた。木立の間から垣間見える太陽は、以前と変わらずキラキラと眩しく輝いている。青年の蜂蜜色の髪は頭の上できつく結い上げられ、日の光を受けては豊かな実りを湛えた耕地のように
揺蕩うていた。
「シエナはアーベル殿と婚儀に臨まれるか……」
そう呟いた青年は、何かを想い切るように苦く笑った。
カーネリアの女王をシエナと呼ぶ青年――それは、彼女がずっと忘れられずにいるラウナ皇子、その人だった。
あの日、背にリオドールの矢を受けて、流れに沈んだ。激流の中を水底に引き込まれ、意識が遠のいた。あと少しで自分も死ぬのだと覚悟したその時、随分
下の流れの
面に突如浮き上がったのだ。
霞む眼で周りを見渡せば、共に流されて行く、壊れかけた荷車がすぐ傍にあった。無我夢中で手を伸ばして荷を掴み、這い登る。それが木でできた何かであると見留めたのも束の間、再び意識が遠のいた。
次に眼を開けた時は、この屋敷の寝台の上に寝かされていた。
「気がつかれましたか」
壮年の男がラウナを覗き込んでいた。ほっとしたのだろう。人の良さそうな笑みがその顔に浮かぶ。
「ルマ、水を」
下働きの男に水を持って来させ、男はラウナの頭を支えてそれを飲ませた。
「わたしはこの屋敷の主人、コールと申します。あなたはカーネリアの方ですね?」
衣装を見ればその様式の違いに、属する国が判る。ラウナの纏っていた戦装束は、上質なカーネリアのもの。
自ずとその身が高貴なものであると知れる。コールはそれなりの礼を尽くしてラウナに接した。
ラウナは言葉もなく、ただ頷いた。
聞けば、自分は樽のようなものに胴衣の袖を引っ掛け、上体をその上に投げ出すようにして岸に流れ着いていたのだと言う。おかげで多量の水を呑むこともなく、身体が冷え切ることもなかった。ただその背には、武具の上から何本もの矢が突き刺さり、失った血の量は相当なものであると推測できた。
カーネリアの女物の戦装束を着て流れ着いた青年を、コールは多くを訊かずに介抱してくれた。
「戦が激しくなったと聞いてから、あの河岸に少しではありますが、いろいろな物が流れ着きました。ちょうど河が蛇行して流れが緩い場所があるのです。ほとんどが骸であったり、壊れた
荷車でした」
骸をそのままにしておくことはできない。それはそのままにしておけば、いずれ腐って疫病のもととなる。荷車の残骸も片付けておかなければ、街人が暮らしていくのに妨げとなろう。そういった事も、街を治める貴族の仕事なのである。
「そうしてあなたを見つけました。幸い、まだ息があった。屋敷にお連れしたのですが、失った血の量が多かったのか、なかなか目を覚まさずにこのまま逝ってしまわれるかと思いました」
そう言って、コールは人の良さそうな笑みを見せる。ラウナの中で、その笑みはエルガ将軍のそれと重なった。いつか、全てが許されることになるだろうと言ってくれた将軍は、あの戦から生きて還ることができたのだろうか。
「名は、なんとおっしゃいますか?」
目覚めたラウナに、コールは問うた。だがラウナは微かに笑んだだけで、何も応えない。名を訊くのを諦め、コールは話題を変えた。
「わたしもあの戦には参加する筈だったのです。けれど、このような怪我を負ってしまって……」
そう言って腕を上げて見せれば、それは薄汚れた布に包まれていた。
「落馬して骨を折ってしまったのです。治りかけてはいるものの、これでは弓も引けず……。こんな辺境の街の貴族には、戦で手柄を立てて褒美をもらうしか、臨時の収入を得る術がありません。他には農地の管理と商いで得る利益ぐらいですが……この辺りでは実入りの良い作物も採れませんし、目立った特産の品もありませんから、今回の戦に参加できなかったことは、街人に申し訳なく思っているのです」
王都に近い処に住んでいるほど、貴族の格も高いとされる。重臣は全て城門の近くに居を構えているのである。このような辺境の地を治める貴族もそれはそれで街の名士ではあるが、街人を護り、共に生活して行くだけで精一杯の身の上であった。
ラウナに対しても、街一番の薬師を呼び寄せて手厚い介抱をしてくれたのだが、薬の調合に
長けていたジェイドの流れを汲む王室の薬師には到底及ばない。なかなか目覚めが訪れなかったのも、道理であった。
「わたしは以前、カーネリアの民に恩を受けたことがあって……却って戦に参加できなくて、良かったとも思っているのですよ」
だからカーネリアの武人とおぼしき青年を、かくまうようにして屋敷に連れ帰って来たのだとコールは笑った。
「あなたが着ていらした衣装と武具は、こちらで処分させて頂きました。あれが手元に残っていると、カーネリアの方だということが知られてしまいますから」
カーネリアの戦装束は、いつの間にかリオドールの男物の衣装へと着替えさせられていた。これを纏っていたのは、随分昔のような気がする。それは偽りの輿入れをする前。今纏っているものは以前のものよりも格段に質が落ちるものではあったが、懐かしいそれはラウナの身体によく似合っていた。
「ところで……」
コールはラウナの顔に、ひた、と視線を据える。
「わたしは以前、ある御方にお会いしたことがあるのです。蜂蜜色の髪が見事な貴人でした」
どこの誰とは言わなかった。
ラウナは寝台に横たわったまま、コールの視線を受け、同じように見返した。記憶の底を探れば、リオドールにいた頃、第二皇子として辺境地域を視察したことがある。その時に会ったのかも知れない。
カーネリアに輿入れしたレミア皇女がこの戦に加わっていたこと。それは、下々の者は知らなかったが、それを治める貴族には伝えられていた。万が一リオドールが堕ちた場合、恩ある妾妃の命を助けるためだったのだという。表向きは病死とされていたレミアだったが、戦で儚くなったことは、貴族の誰でもが知っていることだった。
「あなたは、その方に良く似ていらっしゃる」
コールの視線は何かを問うているようだった。
ラウナは曖昧に微笑む。
「世の中に似た人は何人か居るものです」
見透かされているとは思うものの、真名は明かさない。明かせばそれは、新たな争いの火種となるかも知れないのだから。
「そうですか」
それきりコールは、ラウナの素性を訊ねることは諦めた。言えないのには、何か事情があるのだろう。それに聞いたところで、今更亡くなったとされているラウナ皇子を王室に戻す
術など、辺境地域を治める一介の貴族であるコールには、考え出せる筈もなかった。
時は経つ。
シエナとアーベルとのことも、半ば公になってしまったようなものであった。だが正式に披露目をしていない今、それはまだ確定ではない。
ラウナはまだコールの屋敷にいた。このリオドールを出て何処か他の国に行こうとしたが、コールに引き留められた。彼の笑みは、『彼が父であれば良いのに』と思った懐かしい将軍を思い起こさせる。それ以来なかなか出て行く決心がつかずに、ずるずると居ついてしまっていた。コールも今では、ラウナのことを皇子であると密かに敬いながらも、自分の息子のようにも思っていた。
ラウナの身体も回復し、少しずつコールの仕事の手伝いもするようになった。人当たりの良いラウナは、皆に慕われた。コールが呼ぶように、街の皆も彼を『若様』と呼ぶようになった。外に出れば、彼の恵まれた容姿は人々の噂となる。街娘達は、こぞって蜂蜜色の髪に彩られた美貌を一目見ようと屋敷の周りに集い、辺りは一層の賑わいを見せた。
子のないコールは、ラウナにその気があるのなら、いずれこの屋敷を譲っても良いと思うようになっていた。ラウナ皇子としてもレミア皇女としても生きていけないならば、王室の目の届かないここで、平穏の内に暮らして行けば良い。それほどまでに、彼を気に入っていたのである。
ラウナ自身も、穏やかに過ぎてゆくここでの暮らしに、不満は無かった。
唯一あるとすればそれは、あれほど自分の全ての情熱をかけて愛した人が傍に居ないということだけであった。
『あなたをひとり置いて、逝くわけにはいかない』
かつて、最愛の人にそう約束した自分がいた。言い切ったその言葉通り、自分は生きて、今ここにいる。だがシエナはそれを知らずにいるのだ。そして既にこの身は死んだものと諦め、アーベルと添うことを決めた。
――これで良かったのだ――
そう思おうとした。
レミアとして輿入れしなければ、シエナと逢うことも無かった。だがレミアとして出逢ったからこそ、添い遂げられない自分がいる。その上、戦で死んだとされた身では、自分が生きているという希望すら与えてやることができなかった。
――生きる屍のようなものだな――
ラウナと名乗ることも、また偽りの名であったレミアと名乗ることさえもできない。
この世の誰でもなくなってしまった我が身を思い、ラウナは唇に自嘲の笑みを刻んだ。
それは突然だった。
何の前触れも無く、何人かの近衛の兵がコールの屋敷を取り囲んだ。主であるコールは、何事かと驚きながらも、遅れてやって来た美しい装飾の施された馬車を見留めると、すぐに予め知っていたかのように全てを理解した。
馬車の中から出てきたのは、一目で最高の貴人と知れる、新王ルバトだった。
「この屋敷に、わたしに縁の者がいると聞いた」
杖をついて足を引き摺りながらも、リオドールの王はコールが案内した部屋の椅子に座る。それは城にあるものとは雲泥の差であったけれど、この屋敷の中では一番
贅を尽くした賓客用のものであった。
『蜂蜜色の髪が綺麗なあの方の、はしばみ色の瞳に見つめられたい』
ラウナに魅了された街娘達の噂話は、いつしかこの街のみに留まらず、近隣の街や村にも聞こえるようになっていった。それはこの辺りの出である側近の知るところとなり、その容姿に心当たりを思い出したその者によって、王に奏上された。亡骸の上がらなかったラウナであったが、万が一生きていたのならば、随分と下流のこの街に流れ着いた可能性も無くはない。あの戦の直後には、まさかここまで流れ着くとは誰も思わず、この地にまでは捜索の手を伸ばさなかったのである。
王直々にこの地に赴いたのは、彼の
急く気持ちからであった。ラウナ皇子であったなら、一刻も早く有無を言わさずに連れ帰りたいという気持ちが、新王の足をここに向けさせたのであった。
ラウナが呼ばれる。
頭を垂れたまま部屋に入り、そのまま王の前に膝をつく。
畏まって一層深く頭を垂れれた彼の、その面差しを見ることはできなかった。
「よい。頭を上げよ」
許しを得て顔を上げれば、それはやはり
異母弟であった。
「生きていたのか、ラウナ」
王の頬を涙が伝った。以前のような、ラウナをないがしろにするような素振りは全く感じさせず、すっかり気弱になってしまっているように見える。
それもそうだろう。カーネリアが見越した通り、あの戦以来、国政も思うように行かず、人心も離れてしまっていた。先王のような采配を振ることもできず、王室にあって、王は皆に
傅かれながらも孤独だった。零れる涙を拭おうともせず、ラウナにもっと近付くように言う。
「
異母兄上もお元気そうで、何よりです」
儀礼的な言葉を述べるラウナは、もはや自分の素性を偽ることもなかった。王となった異母兄を真っ直ぐに見つめ、凜とした面差しでそこに居る。高貴な血がそうさせるのか。二人の対面を見ていたコールでさえ、今まで一緒に暮らし、息子のように思っていたあの『若様』が、もうどこにも居ないのだと感じる程だった。
「わたしを助けて欲しい。わたし一人でこの国を背負っていくのは、荷が重過ぎる」
王は周りの視線など目に入らぬかのようにラウナに取り縋った。それを見るラウナの瞳は、何も映していないかのように静かである。
コールは、その様子にいくばくかの違和感を感じた。ラウナの面差しからは一切の表情が消え、まるで傀儡のようだ。まるで全てを諦め、死地に赴く前であるかのような……。
そんなラウナの様子も、無理もないことではあったのだけれど。彼の胸の中に
過ぎる思いを、コールが知ることは無かった。
その日の内に、ラウナは城へと召された。
先にカーネリア国から戻されていたアイラが、ラウナ付きの女官としてつけられた。
「ラ……ウナ様」
青年の姿で現れたラウナにとまどいながらも、アイラは懐かしさと安堵に泣き出してしまった。
「心配をかけてすまなかった」
言葉少なに言ったラウナの声は、もう以前のような、わざと聞かせる高い声ではない。彼本来のそれは低く、耳に心地よい響きを持っていた。
衣装を着替えさせられ、懐かしい自分の部屋に通される。贅を尽くされた、調度品の数々。それらは彼が出て行って以来、何も変わることなくそこに在った。
窓を開け、外を眺める。カーネリアはあちらの方角か。
『わたしがもし、無事に落ち延びることができたなら、国政とは無縁の場所で、ずっとあなたを見護っている。あなたを脅かすものには、決してならない。政の道具として使われ、あなたの行く手を阻むようなことは、もうしないだろう』
最後に共に過した夜、シエナに言った言葉。今となっては、守ることのできなくなってしまった約束。
リオドールの城に戻されたということは、今後、異母兄のもとで国政にも加わるということだ。リオドールの国益を優先させれば、それはいずれ、シエナの治めるカーネリアに仇なすことになるかも知れない。
窓の外を行く鳥の群れは、カーネリアに向かっている。自分が城に戻ったことは、間もなくシエナにも伝えられるのだろう。
「シエナ……」
愛しい人の名を呼ぶ。逃れることのできなかった王室の呪縛を思い、苦しげに眉根を深く寄せたまま、ラウナは強く眼を瞑った。
亡くなったとされていたラウナ皇子が生きて還って来た。
その事実は、すぐにリオドール国中にふれとして出された。落馬事故で亡くなったのは別人とされ、王族の墓である『死者の森』にあるラウナの墓も開けられた。中に安置されていたレミア皇女の棺は、その脇に作られた墓に入れられた。これはあの戦で亡くなった『レミア』の墓である。亡骸のないまま、墓だけが造られていたのだった。こうしてレミア皇女は、本来の自分の墓に入ることができたのである。
カーネリア国では、レミアの墓は造られていなかった。シエナが女人であると披露目してしまった時点で、『妃』の存在は無くなってしまったからである。
――レミア皇女は自らの名の刻まれた墓へ。そしてラウナ皇子は、生きてリオドールの城へ。
ここに、全てのものがあるべき処に戻ったのであった。
父王の喪が明けるまで、あとひと月。その報せは、シエナのもとにももたらされた。
「ラウナ皇子が生きていた……!」
公式にもたらされたその報せが何を意味するのか、シエナにはすぐに判った。
レミアと名を変えてこの国に輿入れして来たラウナ皇子。あの戦で命を散らしたとされた彼が、生きていたのだ。
今までどこでどうしていたのかは知らぬ。大怪我を負って、身動きもままならない状態だったのかも知れない。
だが彼は生きていた。そして今は、本来のラウナ皇子としてリオドールの城にいると言う。
――逢いたい……!――
その気持ちは、もう抑えられない。この身体とこの魂の全てで、愛した人。
今すぐにでも
彼の国に飛んで行き、ラウナにひと目、逢いたい。
だがそんな想いとは別に、女王としてこの国に君臨する今、新たな危惧の念がシエナの中に頭をもたげる。
ラウナを憎んでいた先王亡き今、新王ルバトは彼を排斥するつもりは無いらしい。王位継承権こそ無いものの、変わらず第二皇子として在るということは、国政にも関与するということだ。
それなりの立場を与えられ、彼はこれからリオドールの国を建て直して行くに違いない。
――彼が望むと望まないとに拘らず――
『第二皇子、ラウナ。はしばみ色の瞳は理知的な光を湛え、非情な父王やそれに似ている第一皇子とは対照的に、この者が王になったなら彼の国との国交も穏やかに進むであろうと思われた……』
いつぞやのペリエル国との戦の折、リオドール国に通行許可を願い出た。その際、あの上辺ばかり取り繕った非情な先王と共に、皇子が二人、列席していた――。
あの時に覚えた感情が、シエナの身体の中に蘇る。
ラウナの素質を見抜き、この者を王にと願ったあの気持ち。あれは彼が王となったならば、という仮定のもとであった。
だが今は違う。リオドールの王は、彼の異母兄である。臣として仕える身では、己の意のままに
政の流れを動かすなどということは、無理な相談であろう。
シエナの治めるカーネリアに仇なすことも、あるやも知れぬ。
ラウナが傍にいることで政が軌道に乗ったなら、今は気弱になっている新王ルバトも、以前のような傲慢さを取り戻すかも知れない。そして理知的で機知に富み、勤勉なラウナの助言を得て、リオドールが以前のような力をつけたなら。
シエナは、身体の芯をズシン、と叩かれたように思った。
カーネリア国の女王である自分が、この国を思い、この国のためにできること。
二度も、彼を失うのは嫌だった。だが……。
――潰さねばならないのか?――
まだ芽を出していない臣としてのラウナの才――それを最も良く知っているのはシエナ自身だ。この城で共に過した一年余り。彼が苦しみ、もがきながらも自らを磨き、成長していったその過程を、シエナはつぶさに見て来たのだ。そしてそんなラウナだからこそ、自分は惹かれた。
その才が、彼の国で開花するのだとしたら――。
気付かなければ、そのままでいられたのかも知れない。でも気付いてしまった。一番傍近くにいた自分には、ラウナの優れたところを容易くいくつも挙げることができた。
生きていて欲しいと願った。人知れず逃げ延びて、カーネリアに続く空の下、どこかで無事に生きていて欲しいと願った。
だが今は……。
大切な人を、一度、失った。
生きて還った彼を、今度は、自らの手にかけねばならないのか。
「くっ……」
握った拳が震える。白くなったそれを、シエナは横ざまに壁に打ち付けた。皮膚が破れて血が滲む。肩で大きくついた息が、嗚咽に変わった。
約束通り、生きていてくれたのだという喜びと、それをこの手で摘み取らねばならないという絶望と。
ラウナが
戦場で河に呑まれて以来、シエナはこの夜、初めて泣いたのである。