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玻璃の橋板


〜十一〜


 人混みに紛れたその男は、すれ違う者に何の違和感も感じさせなかった。濃い蜂蜜色の髪を、粗末な紐で無造作に括っている。目立たない色目の衣の下に、ほころびの目立つ袋を肩から斜めにかけていた。
 もとよりいろいろな国の血が混じっているカーネリア国民は、髪の色も瞳の色も着る衣装も雑多で、ひとたび街に出れば何種類もの顔料をぶちまけたように色鮮やかである。
 男は、商人の店先で袋に入った木の実を買った。
「お妃さんの真似かい?」
 金を払って木の実を受け取ると、店のおかみさんとおぼしき年配の女性に向かって自分の首を指さして見せる。女性の首には、妃の物とは比べ物にならないほど貧相ではあったが、薄手の洒落た飾り布が巻かれていた。
「はははっ、嫌だねぇ、この人は。こんなの今じゃ、誰だってやってるさ。綺麗なレミア様にあやかりたいって、街の女達はこぞって巻いてるよ。これはあたしの一張羅さ。なけなしの金はたいて買ったんだ」
 年配の女性は、そのふくよかな首に巻かれた飾り布を一旦外し、嬉しそうに目を細めて眺めると、丁寧に折りたたんでからまた巻き直した。
「お妃さんの評判はどうだい」
 男は受け取った木の実を袋にしまいこむと、口の端を引き上げて訊いた。
「あんなに綺麗な人は見たことがないって評判さ。あたしら庶民は見ることなんかできないけどね、城に仕えている者達は、みんなそう言ってるさ」
 年配の女性が知っているような身分の者は、城に仕えるとは言っても直接レミアの顔を見ることができるわけではないのだろう。それでも、そんな下々の者の口の端に上るほど、かの妃の評判は上々なのだと……男は引き上げた唇のままその場を離れた。
 男の去った方向の反対側、店三軒分の距離をおいて、地味な色目の胴衣と裾の擦り切れた脚衣の男が立っていた。店先の商品を見るともなしに見ている風ではあったが、何も買わずにその場を離れた。


 ***


 カーネリア城内は、数日後に到着するリオドール国からの使者を迎える準備で、人の出入りが多くなった。城内には華やいだ『気』が支配している。城の裏口に近い、身分の低い者が出入りする区域は、品物の受け入れが多く、いつにも増して雑多に人が入り乱れていた。
 固い警護に護られた、女官が行き交うような区域も準備で忙しそうである。だが、貴族の娘たちが働いているだけあって、その物腰は優雅であった。
 忙しく立ち働けば、気分も華やぐ。その陽の『気』は王族の住まう宮へも届き、奥まった後宮へも届けられた。
 

 今夜はシエナのお渡りがあると先触れがあった。
 レミアはアイラに髪を梳られながら、鏡の中の己の顔を見るともなしに見ていた。
 あと何回、同じ天蓋の下で眠ることができるのであろうか。偽りの婚姻関係であるとは言え、カーネリアの神に許されて、今、ひとつ床の上で(やす)むことができる。いつの夜もお互いに背を向けたままではあるが、それでもその微かに寄越される温もりの中に、優しい約束を感じることができた。
 いまだに閨において、深く眠ることはできない。だがその辛さよりも、流れてゆく時間(とき)が、その時だけそっと歩みを緩めてくれるのが嬉しかった。
 夜の(とばり)が降り、背にシエナの息遣いを感じると、知らず、それにカルサのものを重ね合わせていた。
 シエナの言葉から発したカルサへの想いは、どんどん膨らんで行く。時折、そのまま寝返りを打てば、カルサが微笑んでそこにいるのかも知れないと思うことがあった。見つめ合い、漆黒の髪をこの手で漉き……。
 彼女であれば、いつかこの想いを受け入れてくれるかも知れない。
 何度も何度も胸の内で打ち消してきた願い。馬鹿げた願いと判っていても、他に生きる望みの無い今、命が潰える日が来るまで、決してその願いだけは手放すまいと心に決めていた。
 『あなたを大切にします』
 たった一つの言葉を拠り所に、こんなにも人を愛しむことができるとは思わなかった。それ程、祖国にいた頃も、そして今も、自分のいる場所は無かったのだと……レミアは一人、胸の中で自分を(わら)った。


 ***


 男は荷物を運び入れた後も、再び城門をくぐることはなかった。食料庫の片隅で息を殺し、闇が降りてくるのを待っていた。
 ざわざわと人の行き交う気配がする。誰もがみな忙殺されていて、食料庫に入った男が一人出て来ないことなど、気付きもしなかった。
 濃い蜂蜜色の髪を粗末な紐で括り、目立たない衣の下にほころびの目立つ袋を肩から斜めに提げている。袋の中で木の実が触れ合い、微かに硬い音を立てた。
「ふ……」
 男は口の端で小さく嗤ってそれを取り出した。手のひらの上でカラリと転がすと足元に置く。
「あばよ、『皇女(ひめ)』さん」
 男の手には、いつの間に取り出したものか、短めの湾刀が握られていた。


 ***


『馬を貸して下さい。それから、あなたの衣装も』
『また遠乗りですか、姉上。婚儀が決まったばかりだというのに、落馬して顔に傷でも作ったらどうなさるおつもりです』
『ふふ……』
 ラウナ皇子が用意してやった乗馬用の衣装を着て、頭上高く髪を結い上げ、レミア皇女はラウナの馬で城を後にした。
 たった一人、供も連れず。
 微笑んだ異母姉の顔を美しいと思ったのは、婚儀を控えた女人の心が(おもて)に現れたためか。自分と並べば双子のようだと称される異母姉の顔が、今日はとても綺麗に見えた――。


 ラウナはもっとよく心に刻んでおけば良かったと、あの日を悔やんだ。
 何故なら……レミアは二度と、微笑むことはなかったのである。
 カーネリアが我がリオドールの国境警備軍を相手に戦いを挑んだとの報告を、父王は満足気に聞いていた。その後で、兵が一名、行方知れずになった。
 間髪を入れずに父王はカーネリアに書状を送り、カーネリア国第一皇子と皇女レミアとの婚儀を迫ったのだ。
 父王からその話を聞かされた時、異母姉は笑っていた。凍りついたように、笑っていた。
 ある朝早く部屋を訪ねて来た異母姉は、馬に乗りたいと言った。胴衣と脚衣を貸してやり、馬を引き出してやると、嬉しそうに出かけて行った。
 ……それが異母姉を見た、最後だった。
 異母姉は落馬して亡くなっているのを発見された。すぐにそれは伏せられ、亡くなったのはラウナ皇子であるとされた。
 父王はどうしてもこの婚儀を望んでいたのだった。
 何故、自分が身代わりにされたのか。他に皇女がいないのなら、婚儀の他に何かカーネリア国と国交を深めるための手立てはなかったのか。
 皇子である自分が身代わりに偽りの輿入れをしても、いつかは露見する。
 自分の命はもう諦めた。父王に無理強いされたとは言え、国を謀った罪は全てこの身で背負う覚悟ができている。だが……。
 祖国リオドールにとって、それは(かせ)とはならないのであろうか。リオドール国だとて、事が露見しては困るであろうに。


 アイラが髪を梳り終え、艶やかに煌くそれを丁寧にレミアの背に流した。
 その手が夜着の背に軽く当たり、レミアは鏡を眺めながら、いつしか深い想いに沈んでいたのを知った。
「綺麗なお(ぐし)です。姉上様も、このように美しいお髪をお持ちでした」
 もとはレミア皇女付きの女官だったアイラは、ラウナ皇子がレミアと入れ替わって以来、ずっと偽りのレミアに仕えている。異母姉が健在だった頃も、本当の双子のようにいつも一緒だったため、ラウナ皇子のことはよく知っていた。
「あと何回こうやってアイラに髪を梳ってもらえるのだろうね。おまえには本当にすまないことをしたと思っている。わたしの秘密は遠くないいつか、露見するだろう。その時はおまえもわたしと同じ道を辿ることになるかも知れない」
 自室に女官と二人きりでいるという安堵感からか、レミアは皇子である時の口調で言う。
 目を伏せてしまった女官の顔を鏡越しに見やり、それと判らぬよう、ふっと短い息をついた。
 一日が過ぎる毎に確実に短くなる命の灯火を、レミアは痛いほど感じていた。


 シエナが閨に入り、先に待っていたレミアが腰から外された剣を受け取る。袖に包んで枕元に置いた時、それが熱を持っているように感じた。
「どうかしましたか?」
 枕元に置いた後、手放すのが数瞬遅れただけであるのに、シエナは妃の様子がいつもと違うのを見て取った。
「いえ……剣の肌当りがいつもと違うように感じたので……」
 言ってから、レミアはハッと息を呑んだ。
 今、自分はただの妃なのだ。剣を持ったことがあるとしても、それは戯れ程度のものである筈である。ましてその剣から何かを読み取るなど、その道の達人でもない限り、有り得よう筈がない。
 だが確実に、研ぎ澄まされた感覚は何かがいつもと違うと感じていた。
「それはこの国の王族に代々伝わる宝剣ですから、そのようなこともあるでしょうね。私が現国王からこれを下賜されたのは、初陣に勝利した時でした。神となった歴代の王が、私を護ってくれているのかも知れません」
 この偽りの妃は、もとは武術の修練を積んだ皇子であったのだからと、シエナは得心した。
「今宵はいつもより傍近くに、これを置くとしましょう」
 そう言ってシエナは宝剣を引き寄せた。そのまま何事もなかったかのように寝台の上に横になる。
 シエナが大して気にもしていない様子なのを見て取り、レミアは心の中でほっと安堵の息をついた。


 夜鳴き鳥の心細げな声が、少しだけ開けられた蔀戸の向こうから響いてくる。触れ合うこともないまま、今夜も上質な天蓋の中で二人は背を向け合って寝んでいた。
――コトリ
 それは小さな振動だった。音として聞き取れることも無いほどの、小さな違和感。
シエナは気配を殺して、寝台の上に身を起こした。枕元の剣を手探りで引き寄せ、天蓋の隙間から辺りを窺い見た。
 窓の外。
 雲に覆われた月が顔を出すことも無く、闇に沈む庭の先――幾重にも折り重なった黒い緑の向こうに、小動物が動く気配がした。
 だがそれとは違う何か――。
 レミアもまた、気配を察して上体を起こした。
「あなたは静かに寝台から降りて、あちらの衝立の陰に隠れていなさい」
 護り刀である短剣をその手に握らせ、シエナは宝剣の鞘を払った。
「でも……」
「早く!」
 言いかけたレミアを小声で制すると、シエナは這うようにして寝台から滑り降りる。
 レミアもそれ以上言い募ることなく、シエナが視線で指した衝立の陰へと回った。
――タッ!
 軽い踏み切りの音と共に、シエナの体が窓から躍り出た。まるで軽業師のような身のこなしで転げたかと思うと、次の瞬間には地面を踏みしめて立っていた。
「誰だ」
 緑生い茂る木の陰に、剣呑な『気』を纏った男が一人、立っていた。
「応えぬ……、か」
 鋭い誰何にも応えないその男を、シエナは静かに見据えた。
 男の背で、濃い蜂蜜色が風に舞った。
「リオドールの……」
 シエナの声と共に、男が動いた。湾刀が滑るように繰り出される。シエナは紙一重のところでそれをかわした。
「刺客かっ!」
 掛け声のように鋭く叫ぶと、シエナは姿勢を低くして宝剣を薙いだ。地面すれすれに繰り出された刃は、緑の葉を切り取って宙に舞わせる。男の湾刀が、あたかも玩具のように回りながら、シエナの喉めがけて襲い掛かった。


 『リオドール』と聞こえた。
 レミアは衝立の陰から身を滑らせると、壁に据え付けられている剣掛から美しい象嵌(ぞうがん)の剣を外した。
 鞘を払う。
 飾ることに重きを置いている剣とはいえ、なまくらではない。いざという時に身を護るため、閨の飾りとして置いてあるものだ。
 窓のふちに足をかけ、レミアは外に躍り出た。離れたところで、剣を打ち鳴らす音がする。木の陰になってはいるが、シエナの闘う姿が見て取れた。
 漆黒の髪が漆黒の闇に踊っている。頭上高く結い上げられたそれは、シエナの体が回転する度に、遅れて闇に溶けた。
 庭の端に行くにつれ、足場は悪くなる。男が石に足を取られ、上体が僅かに均衡を崩した。
 シエナの剣が間髪を入れず、それを薙ぐ。柄に当たり、男の湾刀がその手を離れて宙を舞った。
 シエナの剣先が相手の喉元に突きつけられた。半歩下がった男の背に、木の幹が触れた。それだけで男は動きを封じられる。
「もう一度問う。おまえはリオドールの刺客か?」
 レミアが歩み寄って来るのも構わずに、シエナは問うた。
 何も知らぬ妃が傷付いたとしても……次代の王位継承者である一国の皇子を狙った(とが)は許されるものではない。
 だがレミアの裸足のつま先が視界の端に入った時、シエナの心が揺れた。切っ先が僅かに喉元を逸れる。
 それを待っていたかのように。
 男が懐から別の短剣を取り出した。身を翻してシエナの背後に回りこむと、頭上から真一文字に振り下ろす。
 不意に雲が切れた。
 漆黒の髪が、刃に掛かって舞い上がる。月の光を受けて、それは金色に輝いて見えた。
――まるで金の糸のように。
――それは煌いていた。