〜十〜
昼下がりの後宮は、のどかな静けさに包まれている。女官も侍官も、その姿を見掛けることは稀であった。それぞれの私用や主の用を済ませるため、宮の外に出ている者も多いのであろう。
「レミア」
その人は、扉を開けるなり、妃の名を呼んだ。
カーネリア国第一皇子、シエナ。
頭上高く結い上げた黒髪が、滝のように真っ直ぐに流れ落ちる。颯爽と歩くのに合わせて、上質の絹糸のようにさらさらと風に遊んでいた。
「……はい」
顔を上げ、レミアは応えた。卓の上には平石の上に盛り上げられた練り香が並んでおり、レミアの指はその中の一つに伸ばされていた。手元がおろそかになって、豊かに襞をとった袖口が手前の練り香を払いそうになる。お付きの女官アイラが、それを見て軽く皇女の手をとり、押し留めた。
レミアの手が膝の上に揃えられる。すっと一振りの剣が差し出されるように立ち上がると、片膝をついて頭を垂れた。
つい今しがたまで、アイラと二人で皇女らしく練り香合わせに興じていたのだ。いや、表向きはそのように見せかけながら、本当は皇女として振舞うために、アイラから手ほどきを受けていたのである。
あれから……。
あの細い月の晩、悲壮な覚悟でカルサに自分の想いと共に素性を告げた。
『告げますか? シエナ皇子に』
問うた言葉に、カルサは何も言わず、ただ小さく首を横に振った。
想いは告げたが、カルサの心が何処にあるのか、それは知らない。少なくとも、こちらと同じ想いを抱いてくれてはいないだろう。
シエナの『影』であると思われるカルサ。相手国を欺いて偽りの輿入れをしたこの身の素性を、いつまでもその胸だけに秘めていてくれるとは思えない。
国を謀った秘密は、もはやいつシエナに露見してもおかしくないと思われた。
それなのに、自分はここでまだこのような茶番を演じている。皇女らしく振舞うために、こうやって香を合わせ……。
レミアの眉根が僅かに寄せられ、穏やかにも見えるその眼差しに微かな影が差した。
卓の上にはさまざまな練り香が、小皿に見立てた平石の上に盛られている。いろいろな薫りの香を合わせて、自分らしい薫りを作る。王族や貴族の女達のたしなみとされていた。
長年伝えられて来た薫りも趣深かったが、こうして皇女達の手によって新しく作られる薫りも、良いものであれば更に後世に伝えられるものとなるのだ。
アイラが香を卓の真中に集めようとした拍子に、平石が傾いて上に乗せた練り香が転げて落ちた。「あ……」と小さな声を上げて、アイラは首まで真赤になる。
「ああ、そのままでよい。先触れもなく訪れた私がいけないのだから」
シエナは軽く笑むと、主に忠実な女官に向かって小さく頷く。アイラは卓の上を片付けるのを諦め、片膝をついて深々と頭を垂れると、皇女の自室を退出した。
遠ざかる衣擦れの音が、扉の向こうに消える。荘厳な装飾を施された扉が閉まるのを、シエナは己の肩越しに認めた。木製の扉の、重く乾いた音が壁にしみ込んでしまうと、傾けていた頭を起こしてレミアに瞳を向ける。
「これがあなたの合わせたものですか」
シエナは卓に近づくと、平石から練り香を少し、つまみ上げる。
レミアは黙って頷くと、シエナを見上げた。
「良い薫りだ。あなたはまこと、全てにおいて秀でている。私の妃には勿体無い程ですね」
練り香を持つ指を少しばかり鼻先から外し、シエナは我が妃を見つめた。
カルサならば、レミアがリオドール国第二皇子、ラウナであると知っている。だが今の自分はシエナ皇子。
カルサは約束をした。シエナ皇子には告げぬと。
今ここにいる自分は、レミアの素性については知らないことにしておかねばならない。
だが……。
目の前の妃は皇子であった。この身と同じく、性を偽ってここにいる。国を挙げて、偽りの輿入れをしたのだ。自分がそうであったように、そこに国の思惑が絡んでいることは明白である。
今ならばわかる。何故、閨において触れ合うことを拒んだのか。
二人とも国の事情に踊らされているのだと、シエナの胸に苦いものが広がった。
カルサを愛しむ一人の男として此処にいると、レミアは言った。遠くないいつか、その命が潰える時に、偽りの姿を見せたままで逝きたくはないと。
女人の
形をしているときの自分をそこまで愛しんでくれた人。
女人であることを殺し、偽りの姿で生きてきた。皇子の形をしている時が本来の姿であると、自分に言い聞かせて来た。
従兄であり、近衛の長でもあり、そして何よりシエナの事情を知っている筈のアーベルの前ですら、女人でいることを許されない。物心ついてよりこちら、それは仕方のないことだと諦めてもいた。
だが、禁断の宮でレミアに逢ってから……。
――レミアを手放したくない、と思った。
禁断の宮での逢瀬を……自分が女人であることを、疑いなく受け入れてくれる人を。
だが……。
レミアがシエナの言葉の真意を計りかね、はしばみ色の瞳でただ見つめ返す。
二人の間に沈黙が落ちた。
昼下がりの穏やかな風が通う庭から、小鳥達の遊ぶ声だけが響いてきた。
***
これよりしばらく前、シエナは朝の会議を終え、束の間の休息をとるために自室に向かおうとしていた。
「シエナ様」
背後から、聴き慣れた低い声がシエナを呼び止めた。
石造りの廊下のすぐ先は、シエナの自室となっている。振り返れば、近衛の長アーベルが歩み寄って来るところであった。
端整な面差しには翳りの色が浮かんでいる。
シエナはこのところ、アーベルと言葉を交わしていないことに気づいた。本来ならば近衛の長が、守るべき主の側を長く離れることは有り得ない。だが内密に重大な使命を帯びているアーベルは、ここ数日の間シエナの側につき従うことはなかった。
シエナ自身も、日頃からあまり城の外に出ることをしない。秘密を抱える身では、いつ誰にそれを暴かれるか知れないのだ。城外に出かけないのであれば、自然と命を狙われる機会も減る。
その上ここしばらくの間は、公式な行事も無かった。アーベルが側に従っていなくても、さしあたり不都合なことはなかったのである。
『コツ、コツ……』
皮製の靴底が、小気味良い音をたてる。
彼と向き合って言葉を交わすのは、妾妃キシナの生家について報告を受けた時以来か。
「久しぶりだな、アーベル」
わざと歪めた笑みを浮かべ、シエナは自分よりも高い身の丈の男を見据えた。
アーベルがほんの一瞬、困ったような顔をして、視線だけを辺りにめぐらす。
その様子から、シエナは次に用意した言葉を飲みこみ、ただ
顎先のみで、自分の部屋に入るよう、促した。
「で? おまえにそんな顔をさせたのは、誰?」
本来の皇女らしからぬ、剣と武具が無造作に置かれた部屋の真中で、シエナは優美な曲線で飾られた椅子に背を預けた。
「わたしをご心配下さっての言葉でもありますまい?」
先ほどの礼のつもりか。アーベルもまた、歪めた笑みの下、シエナの前に片膝をついて頭を垂れた。溢れる感情を無理に押し込め、わざと素っ気無い素振りで牽制し合う。
窓の外から訪れた軽やかな風が、二人の頬をふわりと撫でて通り過ぎて行った。
饒舌な眼差しとは裏腹に、静かに口をつぐむ二人。その脇の卓に、シエナ付きの女官ルチエラが薫りの良い茶を満たした茶器を置いた。
『コトリ……』
小さなはずの音が、やけに部屋に響く。ルチエラは衣装の裾を上手くさばいて礼をすると、何も言わずに部屋を辞した。
「わたしの
間諜からの報告です」
短く言うと、アーベルは口の端をきりりと引き結び、頭を上げた。シエナの瞳を真っ直ぐに射るその視線は、二人の思惑など及びもしない重大な事柄を告げるのだと語っていた。
「間諜、か」
シエナもまた、眉根を寄せて探るように小首をかしげた。
国政に関わる者は、それぞれ間諜を召抱えていることが多い。見張らねばならない国の内部に潜ませて、何か動きが有ったならばすぐに応じられるようにするためである。重臣が国政に貢献できるか否かは、召抱えた間諜の能力にかかっていると言っても過言ではない。やり手のアーベルのことだ。あちこちに優秀な間諜を置いているのであろう、とシエナは合点した。
「はい……」
応じたものの、アーベルの口は重い。
「どうした。もったいぶらずに、言えばいい」
少しばかり苛ついた様子で言うと、シエナはルチエラが置いて行った茶器を持ち上げる。中の茶を一口含むと、香草の爽やかな薫りが鼻に突き抜けた。さすがは長年王族に仕える女官である。今からの話が主人の心を乱すものになりそうだからと、沈静効果のある香草を茶にして供したのであろう。
シエナが小さく息をつくのを見ると、アーベルが口を開いた。
「間諜からの報告では、リオドールに不穏な動きが見えるようです」
「なに?」
茶器を卓に戻そうとするシエナの指が止まった。
「リオドールと言えば、使者が寄越されるとの報告を受けたばかりだが」
妃レミアの祖国リオドールが、何故公式な行事のないこの時期に使者を立てるのか、とは思っていた。だが、祖国を離れたレミアを慰めるという大義のためだと言われれば、そうであるかと納得もしたのだった。
「使者は十日の後に、カーネリアに到着する予定だと聞いた」
本日の重臣会議の議題は、まさしくこの使者のもてなしをどうするかについてであった。
「正式な使者は十日後。ですが……」
アーベルが苦々しく口を開いた。
「既に数名、秘密裏にリオドールを出立した者どもがいるということです」
秀麗な眉目を剣呑な色で彩って、アーベルは一層声を潜めた。
シエナは視線を宙に彷徨わせる。それはまるで大気の流れを目で追っているかのようであった。ゆっくりと彷徨う瞳は、しばらくの後にアーベルの漆黒の瞳を捉える。
「刺客、か?」
「おそらく」
ひた、と視線を合わせて短く問うシエナに、アーベルもすぐさま応えを返した。
国王を狙ったものか、はたまたシエナを狙ったものか。どちらにせよ、あまり喜べた状況ではないことは確かである。
「では、レミアを妃に寄越したは、何の為だ?」
胸の内に湧いた問いは、小さく零れて呟きとなった。
それぞれの思惑から、閨において一度も肌を合わせたことのない『妃』を想い、シエナはすっと眼を細めた。
姻戚関係を結び、両国の間にこごっていたわだかまりは、表面上、溶けた筈であった。リオドールの国境警備の兵を盗賊と間違えて壊滅させてしまったことは、シエナが皇子としてリオドール国のレミア皇女を妃に迎えたことで、全て片が付いたとされていた。
「何故……最初から刺客を放つつもりであったなら、姻戚関係など結ばずともよかったのに。刺客の手管から、いずれは
彼の国の仕業であると知れる。知れれば戦になろう。それではわざわざレミアを戦時の人質に寄越したようなものではないか」
父である国王が、敵と考えている国に対して自ら進んで『皇女』を差し出すということは考えられない。
シエナは唇を噛んだ。
――『皇女』。それが『皇子』であったなら。
シエナは己の内に湧きかけた不穏な考えを、小さく舌打ちして打ち消した。
皇子である時の自分を真っ直ぐに見つめる、レミアの瞳が思い出される。
あの瞳には、哀しみの色は浮かんでいるけれど、策などないように見受けられた。
『あなたを大切にしますと……言っては下さいませんか』
縋るように見つめる瞳の奥に、底知れぬ孤独を感じた、あの夜。贖罪の気持ちで口にし続けた言葉を、あたかもただ一つの拠り所であるかのように暖め続けているレミアは、何も策など持っていないのであろう。
そう思い当たり、安堵の息をついた。
「何故、『今』なのかも解せません。レミア様との婚儀も滞りなく終わり、既に半年。両国の間に表面上何も問題は有りませんし、我が国が彼の国に攻め入る理由も、またそのような策も具体的にはありません。リオドール国から先に我が国に刺客を放たねばならぬほどの脅威は、何も無いはず……」
ここで、アーベルは声を落とす。
「……シエナ様の抱えておられるものについても、何も問題はないはずです」
アーベルも、何故彼の国の王がこの時期にこのような態度に出たのか、その心中を量りかねていた。
何も答えが出せないまま、二人は同時に窓の外へと眼を向ける。
半年の間に庭の木々は彩りを変え、今を盛りと咲く花の色も変わった。寒くはならぬ焔の国、カーネリア。それでも、穏やかながら四季の移ろいはあるのだ。
「ところで国王にはお会いになられましたか」
唐突に、アーベルはシエナに問うた。
病弱な国王は昨夜床についたものの咳のために夜通し眠れず、明け方になってようやく落ち着いたと聞く。アーベルは直接国王に会うことはできないので、人づてにその様子を聞いていた。
「ああ……随分と落ち着かれたようだが」
シエナは今朝の国王の様子を思い出し、深いため息とともに言葉を吐き出した。
国王を見舞ったものの寝顔しか見ることができなかった。シエナと同じ黒曜石の瞳は閉じられたまま。生気に満ちていたはずの瞳は、今は瞼の向こうに隠されている。その安らかな表情にほっと胸を撫で下ろしはしたものの、実際の年齢よりも多く深い皴が刻まれた寝顔に、いささかの衝撃を覚えもしたのである。
――父王は、老いた――
いたたまれなくなって国王の部屋を辞そうとする彼女のもとに、国王付きの薬師が近寄った。
「次第に弱っていかれるのです」
沈痛な面持ちでシエナの耳元にそっと告げる。薬師の見立てでは、今すぐに何かが起こるという訳ではないが、国王の命の灯は、それでも確実に小さくなっているとのことだった。
国王の様子をアーベルに話して聞かせながら、シエナは胸の内に湧き上がる焦燥感を抑え切れずにいた。
――国が不安定だ――
狙い、狙われるこの動乱の世にあって、国の盛衰は当たり前のこと。だがここカーネリアは、近来稀に見る危機に瀕していると言えよう。
王族の血筋を守るためについた、ひとつの嘘を守るために。
今、国王に逝かれては困る。自分が皇子として立太子の儀に望むわけにはいかない。迎えた妃も、『妃』であるが故に、シエナの生涯の伴侶とはなれないのだ。例えそれが『偽りの妃』であったとしても。
天下晴れて、『
王婿』として自分と並び立つことのできる者でなければ。
皇女でありながら皇子と偽る、この身の伴侶となれるのは……。
***
レミアは身じろぎもせず、シエナを見上げていた。先ほどからシエナは、指先でつまんだ練り香を見つめたまま、心ここにあらずといった面持ちである。
けぶるように濃い睫毛が、黒曜石の瞳を隠していた。
練り香のはかない薫りが、ふわりと辺りに漂った。
「シエナ様?」
レミアは、そっと呼びかけた。本当はもっと長くシエナの白い頬を見ていたかった。だが、先ほどのシエナの言葉が心の隅で小さな棘となり、突き刺さったところから不安が生まれる。
――私の妃には勿体無い程ですね
何も答えぬシエナを見上げ、レミアは黒曜石がこちらを見てくれるのを待った。
優しい声で。
少し寂しげな笑みで。
ことあるごとにシエナがくれる、あの言葉を待った。
『あなたを、大切にします』
だが、シエナは一向にこちらを見ようともしなかった。
レミアの心の中に生まれた不安が、黒い
靄となってたちこめた。
――いつもの皇子とは違う――
拒絶するようにもの静かな頬を見つめたまま、レミアは一抹の不安をおぼえた。
ややあって、シエナは物思いから覚めたように練り香から視線を外した。胸元に挙げた手を下ろし、指先でつまんだままのそれを平石の上に戻す。
小さな息をついた。
その息の向こうで、レミアが微かに身じろぐのを感じた。
「あなたは、知っているのですか」
祖国より、ここカーネリアに向けて刺客が放たれたことを。
この婚姻関係が、何のために仕組まれたものかを。
視線を合わさぬまま、シエナは問うた。
しばしの沈黙が、部屋を支配する。目の端で窺えば、レミアは困惑した様子でこちらを見上げている。
「あなたは、知らないのですか」
言葉遊びのように、シエナは再び問うた。
「何を……です?」
問い返したレミアの声は、語尾が微かに震えていた。
知っているのか、と問われても、レミアには何を問われたのか判らなかった。ただ、皇子の心に影が差しているのだけは判る。
――何を?
皇子の頬は、光を柔らかく跳ね返すだけで、何も語らない。目の前にいる筈なのに、二人の距離は、何故だか遠く思えた。
失いたくなかった。唯一、こんな自分に心安らげる場所をくれたシエナ皇子の約束を、何も知らないまま失ってしまうのは耐えがたかった。
カルサを愛しいと想う。だがそれは、シエナ皇子の約束があってのもの。
差し伸べられる暖かい手を、失いたくなかった。
失うくらいなら、死を。失って後、己のいる場所は、もう何処にもない。
何処にもないのならば……せめて約束の潰えるその日に、約束をくれたシエナ皇子のその手にかかって逝きたい。
――あの夜から……。
カルサと最後に逢ったあの夜から、レミアの心には生きることへの望みよりも、間近に迫っているであろう逝くことへの覚悟が固まりつつあった。