〜二十三〜
シエナとレミアが眠る岩屋から少しばかり離れたところに、アーベルは立っていた。近衛の長である彼がそこにいることは必然であったし、誰も不審には思わなかった。
何代か前の王の御代、戦の折に寝所とした洞穴の入り口に扉を建てたことがあった。敵の襲撃に遭ったが、酸欠を危惧して洞穴内で蝋燭を使えず、王が命にかかわる大怪我を負った。それ以来、カーネリアでは決して貴人の寝所とした場所に扉を建ててはならぬと伝えられている。
アーベルは岩屋の入り口に向かって歩を進めた。
寝所への入り口には、扉の代わりにカーネリアの色である赤で染め上げられた別珍の布が、風除けとして掛けられている。それを背にして立つと、アーベルは自身の背で中の様子を窺った。
そこに動く者の気配はなく、何も聞こえない。二人とも眠ってしまったのだろうか。
この戦、どちらに軍配が上がるのか、今の時点では分からない。五分五分よりも少し有利といったところか。そんな戦に自らの命を掛けてラウナ皇子はついて来た。戦況次第では、その命、取られることも覚悟の上なのだろう。
「彼さえいなければ……」
ラウナ皇子さえいなければ、シエナの心はまだ自分のところに在ったのだろうか。縋りつく細い指を、この身を裂く思いで解いた。秘密を護るために、自分を律し続けて来た日々。それがシエナとの距離をますます遠いものにしてしまったのだと気付いたあの日……。
『閨に渡ることを許して欲しい。いずれ戦となろう。そうすれば彼の命の保証はない。短い間でも良いから……』
シエナの言葉が、アーベルの胸の内で蘇る。あたかも今、耳元で囁かれているかのように。それを振り払おうと、アーベルは大きく頭を振った。結い上げた黒髪が、乱れて頬を打つ。漆黒の瞳に微かな狂気が浮かんだ。
――戦に……なりました、シエナ様。ラウナ皇子の命の保証はありません――
風が吹いて、風除けの裾がまくれ上がる。視界の端でふいに動いた赤色に、アーベルは自然と足を踏み出し、半身をかわした。
『カチャ……』
腰に
佩いた剣が、岩肌に当たって澄んだ音を立てた。
アーベルの肩が、びくりと動く。
「わたしは……」
その瞳の中に、先ほどの狂気はもう無い。憑き物が堕ちたような顔で、自身の考えに驚愕する。長い指を額に当て、固く眼を瞑って息を吐いた。
「何を考えているのだ、わたしは……」
唇を噛み締め、アーベルは足早にそこを離れた。
空は高く、風は凪いでいた。遥か頭上に、渡りの鳥が楔形に群れをなして飛んでいるのが見える。穏やかな一日の始まりであった。
これがただの遠乗りであったなら、どれだけ楽しいものになっただろう。だが大地に目を転じれば、戦装束の武人が、あたかも黒々とした蟻の大群のように
一所に群がっていた。
「これから騎馬の三分の一と歩兵が先発隊として打って出る。その混乱に乗じて残りの三分のニの騎馬の者は、小隊に分かれて脇を進め。よいか、決して戦闘に加わってはならぬ。例え戦いの中、見知った顔が不利な状況に陥っているところを目にしても、だ」
シエナは言葉を切り、武人達の顔を見渡した。その瞳はいつものシエナのものではなく、戦いの場独特の色を
纏っている。代々カーネリアの王は、その冷徹さで知られて来た。今は神となって国を護るその王達の魂が、シエナの上に舞い降りて来たのではないかと思われるほどの、仄暗い瞳の色だ。
見渡しながら、『できるか?』とその瞳は問うている。
「できるだけ速く走るのだ。そして敵の後ろに出て退路を絶て」
シエナは地図に視線を落とした。一点をその白く細い指先で、軽く
弾く。再び顔を上げたシエナの瞳には、確固たる自信が満ち溢れていた。
「そして向かって右側の窪地……」
居並ぶ武人達の頭上をかすめ、遥か右手の丘に視線を転じる。シエナの視線を追って、武人達も後ろを振り返った。
「ここからは見えないが、あの丘の陰になっている窪地に敵を誘い込むのだ。背後には湖があるため、逃げ場は無い。最初に打って出た三分の一の騎馬は、後発隊が敵を誘導している間にあの丘に上れ。レミアの話によれば、あの上には丸岩がたくさんあるのだそうだ。その丸岩を上から転げ落とし、落馬させる。うまくすればその際、自分の得物を折る者もいよう。リオドールは弓が得意だ。だがその弓は重く大きい。一度射れば、次の矢を用意するまでに間があくだろう。そこを狙え。こちらの弓は、ゴルシェに考案させた新しいもので、誰にでも扱えるよう軽く造ってある。リオドール兵の半分の時間で射られる筈だ」
何度も新しい弓を使って修練を重ね、兵達も既にその造りの良さは心得ている。だがシエナは敢えてこの場で言うことによって、リオドールよりも有利に戦えることを皆の頭に叩き込んだ。
「五分五分の戦いを如何にして勝利に導くか。カーネリア軍の底力をリオドールに見せ付けてやるのだ! 行け!」
シエナの言葉の余韻は、兵達の上げる
鬨の声に呑み込まれる。騎馬や歩兵の上げる土煙が、戦いの火蓋を切った。
カーネリア軍は、傭兵も含めてよく戦った。シエナの立てた軍策が功を奏した上、レミアの助言も大いに役立った。リオドール軍はその数を激減させ、当初の四分の一が辛くも湖を渡って対岸へと逃れた。
「まずまずの結果と言えましょうな」
エルガ将軍が騎馬のままシエナに近付く。馬は少し興奮気味で、
轡を噛み、足を頻繁に踏みかえる。それを上手くさばいている彼の腕は見事だった。シエナの馬もまた、少々興奮気味であった。
「湖がこんなに干上がっているとは思いませんでした。兵が渡ることができたのは誤算です」
シエナの脇からレミアが現れた。馬を降り、手綱を引いている。眼前に広がる、干上がって水位の低くなった湖を苦い顔で見つめ、申し訳なさそうに将軍に視線を移した。
「それでもあの窪地は、カーネリアの地図には無いものでした。丸岩のたくさん落ちている丘の場所を知っていたのもレミア様です。あなた様に来て頂いたおかげで、我が軍の戦況は随分と有利に運びましたぞ」
将軍は
労わるようにレミアを見た。妃の面差しに疲労の色が濃いのは、戦いという不慣れな場に来たからなのか。
「この辺りには幼い頃、暖かい時季になるとよく来たものです。地形はよく覚えていたつもりなのですが……」
「このところ雨が少なかったのでしょう。湖が干上がっていたのは、自然の
理。レミア様の落ち度ではございません」
励ますように将軍は笑った。彼が笑うと本当になんでもないことのように思える。レミアは小さく笑って頷いた。
将軍のような人が父であったなら、自分の人生は変わっていただろう。正しいことを心から正しいと信じ、真っ直ぐに生きて来られたのかも知れない。前を行く背中を見つめながら、父のようになりたいと、素直に思うこともできたのだろう。
「そうですな……幼い頃この辺りにおいでになったとおっしゃるなら、少し馬で駆けてみては如何ですかな? 幸い敵は全て向こう側に逃げてしまったようですし、体勢を立て直して追うとしても、次の戦いは明日の昼頃になりそうですからな」
湖を眺めながら、そのぐらいの余裕はあるのだと、将軍はまたも笑った。
だが今度はレミアは笑うことはできなかった。シエナを見上げる。彼女は小さく頷いた。
――今がその時かも知れない。
戦場にあって、レミアが祖国の父王からも、そしてカーネリアの後宮からも逃れることができるのは、今しかないのかも知れない。戦いの混乱に乗じて落ち延びることもできたかも知れないが、カーネリアが勝利を納め、シエナの身が無事にあの城に還れると判るまではと思いなおした。だが一度目の合戦が終わった今、リオドールの兵は四分の一に減り、カーネリアの勝利は目前である。ならばもう、役目は果たしたのではないか……。
「では私が共に……」
レミアの胸の内の思いを汲み取り、シエナが切り出す。自分が一緒に行けば、残党に襲われたように見せかけて、逃してやることもできるかも知れない。
レミアが馬の背に手をかけ、馬上の人となろうとした時、将軍がつい、と進み出た。
「わたしがお供いたしますぞ。シエナ様は随分とお疲れのご様子」
「いえ……一人でも大丈夫ですが」
レミアはほんの一瞬、自分が言葉を詰まらせたのに気付いた。普段通りの声ではあったが、落胆の気持ちに将軍は気付いただろうか。逃れる手立てを探しているなどと将軍に知れたら、反逆の罪に問われることは必至。そっと将軍の様子を窺う。
「残党がまだ残っているかも知れません。それにもうすぐ日も沈みます。妃様一人では危のうございますからな」
変わらぬ表情で、応えも聞かずに将軍は先に馬を進めた。仕方なく、レミアもそれに続く。逃れる機会は、また別な時に探さねばならないだろう。振り返れば、シエナが心配気な顔でこちらを見ている。レミアは唇の端を笑みの形に引き上げ、小さく
頷いた。
馬を進めると、ところどころに新しい骸が転がっていた。馬はそれを避けて進む。実戦は初めてのレミアであったが、命のやりとりとはこういうものなのだという思いがひしひしと胸に迫る。
「驚かれましたかな」
労わりの言葉が前を行く将軍から投げかけられた。
「いえ、驚きはしませんが……戦とは、綺麗事ではないということですね」
自嘲気味に、クスリ……と笑う。
「いつか将軍に教えて頂きました。『作法にのっとるだけが剣の道ではない。実戦ではいかに相手を
陥れ、勝つか。綺麗事だけでは済まされない』のだと」
そして人が生きたいと願うならば、どんな事でもしなければならないのだとも。生き残り、生き続けるためには、自分が良しとしない手段を選ばねばならない時もある。だがそれは国という大きな流れの中にあってはほんの些細なこと。いずれ正しい道であったと、誰もが認めるところとなるであろうと。
あの時、自分の罪は許されるのではないかと思うことができた。進む道の先に、命の光を垣間見ることができた。
「そんな事も申しましたな」
少し照れたような声が、馬の歩みに合わせて寄越される。
「わたしのした事は、正しい道であったと評されるようになるのでしょうか」
例えこの身が朽ちてしまったとしても。応えを期待せず、レミアはひとりごとのように言った。
「おそらく」
短い言葉ではあったが、力強い声が返ってくる。それは何を指しているのか――祖国を討つこととなったことか、それともまた別な意味なのか――前を行く将軍の顔は見えず、その胸の内も推し量ることはできなかった。
馬の歩みに合わせて揺れるエルガ将軍の背を見つめながら、この背が自分の敬愛する人のものであったら良いと思える。見知った地形とそれに連なる幼き日の記憶が、レミアを感傷的にさせていた。
こうやって父王と兄皇子との三人で、この辺りまで遠乗りしたのはいつのことだったのか。確か、暖かい時季のことだった。遥か昔、父王のすぐ下の弟君が亡くなる少し前。兄よりも先に父王の馬に追いついた自分を、幼いのによく馬を扱うようになったと言葉少なに褒めてくれた。人々に恐れられ、滅多に笑わぬ父王であったが、その時に見た笑顔は確かに自分のものだった。父王から疎まれていると感じるようになってからも、あの時の笑みを思い出したくて、一人でここまで馬を飛ばした。眺める景色は何も変わっていないのに、そこにはかつて父王に褒めてもらえた自分はいなかった。
「幼い頃は父王も少しはわたしに慈しみの笑みを向けてくれたこともあったのに……いつの頃からだったのでしょう。何故、命を狙われる程に父王の怒りを買ってしまったのか」
懐かしさと共に、身を引き裂かれるように辛かったその後の仕打ちを思い、思わずレミアの口から搾り出すような声が漏れた。言ってしまってから、はっとして前を行く背を探る。
聞こえている筈なのに、エルガ将軍からの応えはない。聞かぬふりをしてくれたのだろうと、レミアは口の端を歪めた。
「あれは何ですかな」
しばらく早足で駆けた後、不意に馬をとめ、将軍が振り返る。続いて指差すその先には、小さな小屋があった。
「ああ、あれですか」
レミアも小屋に眼をやる。
「あれは遠乗りの際、急な天候の変化があった時に避難する小屋です。少しばかりの保存食がありますし、暖をとれるようにもなっています」
濃い緑の草地が向こう側に落ち込むように傾斜する中、石造りの、まるで牧草を保管するために建てられたような小屋が、背後の茜の空を切り取っていた。
「管理の者はいるのですか?」
「いえ、建物だけです。このような辺境の地に、わざわざ住み込みで管理させておくような無駄なことを、父王はしませんから」
「……無駄、ですか」
「あれは王族だけが使うものなのです。鍵も王族しか持っていません。中にある食糧は日持ちのするものですし、薪などは乾いたものを用意しておけば事足ります。ですが、管理の者を置くとなれば、あそこまで頻繁に新鮮な食糧を運ぶ必要があります。一年中干物ばかりを食べているわけにはいかないでしょう?」
「ほう……では、あの煙が意味するところは、何なのでしょうな」
探るように将軍がレミアを見る。驚いて小屋をよく見れば、煙突から今まさに薄い煙がたなびき始めようとしているのが見えた。
「小屋の鍵は王族しか持っていない筈……」
かつては父王と兄皇子、そしてこの自分が持っていた。鍵を祖国に置いてカーネリアに輿入れした自分を除けば、答えは
自ずと出る。中にいるのは父王か兄皇子のどちらかだということであろう。
「ふむ……まさかとは思いましたが、思わぬ収穫がありましたな」
確信を得たような将軍の言葉に、レミアは思わず彼を見た。
「ただの護衛でついて来た訳ではないのですよ」
口の端を不敵に歪め、小屋を見据えたまま、エルガ将軍は顎に手をやった。
自分に供をすると言ったのは、この為だったのか。この身を護ろうと言ってくれたことは真意であろう。だがその奥に、不審な物を見つけたら探索するという、別な意味もあったのだ。この国で育ったレミアなら、その内情にも詳しい。その場で話を聞けば、戦いを有利に進めるにあたって必要なもの、不必要なものの判断も容易にできよう。疲れているところに無駄な時間を使わなくても済む。
戦の
最中であっても飄々と笑って、その実、一番に勝ち戦にもっていくことを考えている。将軍の思慮の深さに、レミアは感嘆の息を吐いた。
「ひとつ、お聞きしたいことがございます」
将軍は口調を改め、レミアに馬首を向けて正面から見据えた。
「父王、または兄皇子様と対面されることになっても、あなたはカーネリアを護ると言い切れますかな? 懐かしい顔を見れば、情も湧くでしょう。少しばかりの良い思い出に縋りたいと思う心が頭をもたげないとも限りません」
やはり先ほどレミアが思わずもらした言葉は、将軍の耳に届いていたのである。
将軍の眼が、すっと細められた。
「そうであるなら、即刻馬首を反転させ、シエナ様のもとにお帰り下さい。そして……」
ふと表情が和らぎ、口元にいつもの人の良さそうな笑みが浮かぶ。
「そして
一縷たりともそのようなお心が無いとおっしゃるならば、是非わたしと共にいらして頂きたい」
――それは、信頼の証なのか。
必ずついて来ると信ずるように、鮮やかに将軍が馬首を小屋に向け、その腹に軽く蹴りを入れる。レミアも迷わず、それに従った。
馬は小屋にいる者に気取られぬよう、随分手前の木陰に隠した。そこからは歩いて行く。エルガ将軍が先に行っていたものが、いつの間にかレミアが先にたって歩いていた。次第に気持ちが高揚してくる。
腰をかがめ、姿勢を低くして小屋に近付く。
蔀戸が僅かに開けられ、中で人の影が動くのが見えた。足音を忍ばせ、そろそろと入り口に回る。レミアが腰に
佩いた剣を抜いた。
右手に剣を持ったまま、取手に左手を掛け、ゆっくりと下に押下げる。何の抵抗もなく下がり始めたところを見ると、鍵はかかっていないようだ。半分ほど取手が下がったところで、レミアは将軍を振り向いた。
「わたし一人で中に入らせて下さいませんか?」
中に聞こえぬよう、小声で囁く。
将軍が、黙って頷いた。
レミアも頷き返す。
――刹那。
勢い良く扉を開け、レミアは剣を身構えた。
そこには――。
レミアが偽りの輿入れをしてから何度も求め、諦め、そして憎んでいた、リオドール国王の姿があった。