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玻璃の橋板


〜十六〜


 この国では、いまだ国の隅々まで道が整備されてはいなかった。だがそれは、焔の国、カーネリアと比べるからの話である。近隣諸国のどこを見ても、そのようなことが行われているのは、かつては一大国として豊かな国力を誇り、今なおその力を揺るぎないものとしているカーネリアのみであった。
 国境警備の軍も、全ての道を掌握できるとは言い難い。荷馬車や貴人が行き来するのには困難な、あまり使われていない道ならば、わざわざ兵力を割いてそこに人を配置するわけにはいかない。
 そんなわずかな警備のほころびを突いて、アーベルは今、リオドールの地を馬に乗って駆けていた。
 駿馬として名高いこの馬を(うまや)から引き出して以来、足は(あぶみ)の上に置いたままである。薬に長けた亡国ジェイドの秘薬を自分と馬とに使って疲れを癒し、アーベルは休みも取らずに駆け続けて来た。鞍と自分の身体との境目など、とうに判らなくなっている。
 このまま神話に語られる半人半馬になってしまうのかと思われた頃、王都はすぐそこに在った。


 アーベルが宰相の間諜(かんちょう)と落ち合うことになったのは、王都の中でも比較的身分の低い者が暮らす地域にある料理屋であった。宰相のもとで働く彼は、名をダリュという。顔も知らぬその男を見つけるには、その名だけが頼りだった。
 アーベルは砂埃にまみれた上衣を脱いで、店の前につないだ馬の鞍につけた。漆黒の衣装の埃を手で払い、開け放たれた店の中へと入っていく。中はそれ相応に賑わっており、リオドールもまた、富める国なのだとの思いを強くさせられた。席に着いて間もなく、主人とおぼしき男が注文を取りに来る。
(あつもの)を」
 品書きも見ずに頼むと、店の主人は短く返事を返して厨房に引っ込んだ。
 程なく砂色の目立たぬ衣装に身をつつんだ男が、すぐ横の卓に肘を預けてこちらを見ているのに気が付いた。
「ダリュか?」
 アーベルは男の方に顔も向けずに問うた。
「……いかにも」
 ややあって、特徴のない声が返ってくる。何度聞いても、聞いたことすら忘れてしまいそうな声。それは間諜としての資質があることを意味する。
「わたしが判るか?」
 変わらず前を向いたままでアーベルは問う。
「はい。宰相殿……」
 皆まで言わず、ダリュが席を移した。アーベルの目の前に自分の食べかけの皿を置き、その向こう側に座る。
「……の、ご子息のアーベル様では」
 初めてアーベルは、男の顔を見た。彼が覚えているというならば、以前にも会ったことはあるのだろう。無精髭が生えているわけでもなく、小綺麗にはしている。だがこれと言った特徴もなく、やはりどことなく印象の薄い顔立ちだ。アーベルの記憶の中にも、彼の顔は無かった。
「おまえに用があるのだと、よく判ったな」
 口の端を引き上げて見せるが、男は何の表情も返して来なかった。
「この店で黒の衣装を着て羹を頼む客には、それとなく近づいて様子を窺うようにと言われております」
「なるほど、それが合図というわけか」
 出掛けに宰相が用意して寄越したこの漆黒の衣装と、理由も告げられず、ただ店で注文するように指定された料理には、そのような意味があったのかと、アーベルは納得した。
「さて、ある程度の調べは進んでいると聞いたのだが」
 主人が羹の器を持って来た。卓の上に置いて、また厨房に引っ込む。愛想もない対応ではあるが、このような店ではそれが普通なのだとアーベルは納得した。
「レミア様の輿入れ前に、城勤めを辞めた者がおります」
 遅い昼餉を楽しむような顔で皿の上の料理を少量口に運び、傍目には話をしているようには見えぬよう、ダリュは告げた。
「それはどのような者なのだ」
「レミア様の衣装係をしていた者です」
「衣装係か……近いな」
 アーベルも羹を一口、(さじ)ですくって飲む。羹というだけあって、できたてのそれは舌を焼くように熱い。『影』である時に城で口にする、毒見の手から手へと渡った冷め切ったものとは違っていた。シエナはこのような料理を一度も口にしたことがないのだろうと、今頃は使者を迎えているであろう従妹を想った。
「レミア様の輿入れ前に突然辞めたいと申し出て、実家(さと)に下がったそうです。輿入れまで日がなかったので周りの者は引き留めたのですが、どうしてもと言いまして。王の許可が思いのほかあっさりと出たこともあり、その者の願いは聞き届けられましたが、婚礼衣装の方はやむなく後任の者が仕立てました」
 料理をあらかたたいらげ、ダリュは皿を横に押しやった。全てを綺麗に食べ切ってしまうわけでもなく、たくさんの残菜を出すわけでもない。全てが常人並みで、特に印象には残るまいと思われた。
「その者には会えるのか?」
 アーベルは食べ掛けの匙を置いた。器からダリュの顔へと視線を移す。
「昨夜遅くにようやく居所がわかりました。行ってみますか?」
「無論」
 立ち上がって主人を呼び、金を払った。料理の対価は高くもなく安くもなく、妥当だと思われる。礼を言って、二人は店の外へと出た。


 衣装係の屋敷は、そこからあまり遠くない、貴族の中では中流程度の家柄の者達が住む辺りにあった。屋敷というには小さめではあったが、よく手入れが行き届いていた。
 道すがら、衣装係についてダリュが知り得た事柄を話して聞かせる。
 レミア皇女が、昔で言えば拝謁の儀を迎える十歳になる頃、その衣装係は針の腕を見込まれて城に上がったのだと言う。名はラーラといった。
 レミア皇女付きの衣装係として召し上げられたが、その他にも皇女に関する仕事を任されていたようだったという。
「こちらです」
 ダリュは屋敷の表門で足を止めた。門の脇に何気ない風をよそおって立つ。待つこと半刻あまり。門の中から、この家の娘とおぼしき女が、供も連れずに一人で出てきた。
「歳格好から見て、あの者がラーラではないかと」
 ダリュが促す。アーベルは黙ってそれに頷き、一人その後をつけて歩き出した。
 周りは大層な人通りである。供に守られているわけでもないラーラは、それでも誰とも袖を触れ合うこともなく、泳ぐように人込みの中をすり抜けて行く。
 彼女はすぐ近くの化粧道具を売る店に入って行った。注文してあった品を取りに来たものか、すぐに小さな包みを抱えて出て来る。
 アーベルは、警戒心を持たれぬよう、その前に優雅な所作で進み出た。
「ラーラ殿?」
 柔らかい声色で、滅多に見せない微笑すら浮かべて訊ねる。自分の感情のままに微笑むとこはできなくても、務めを果たすためにならばこんな笑みも作れるのかと、アーベルは腹の中で自分を(わら)った。
「はい……」
 歳の頃は自分と同じか、少し上くらいだろうか。大人しそうな顔立ちの娘である。全く警戒していないわけではなさそうだが、そこは王族の傍近くで仕えていた者。こちらがそれ相応の態度で応じれば、貴人であると認めたようだ。
「立ち話も失礼ですから、お上がり下さい」
 ラーラはそう言うと、彼を屋敷に案内した。門の脇に、ダリュが立ってこちらに視線をくれる。アーベルはそっと眼で応じると、案内されるまま中に入って行った。
 中は豪華な造りではないが、主の趣味の良さを窺わせる。ラーラは迎えた侍女に茶の仕度をするように言い付けると、アーベルを中庭の見える(ひさし)へと案内した。
 緑豊かな中庭を望む廂は、午後の茶を(きっ)するのにはちょうど良い。この屋敷で一番眺めの良いところに通されたのだと、アーベルは察した。
「訳あって名は明かせませんが、わたしは王室に縁の有る者。レミア様の思い出語りをしたくて、あなたを訪ねて参りました」
 椅子を勧められ、アーベルはそこに腰を掛ける。背もたれに背を預けると、無駄のない所作で足を組む。供された茶を完璧な作法で喫して見せると、ようやくラーラも、僅かに残っていた緊張を解いた。
「ラーラ殿は、レミア様の衣装係をなさっておいでだったのですね。ならばレミア様のことを、よくご存知でしょう」
 アーベルは、またも柔らかく微笑んで見せた。針の先ほども敵意のない、本当にレミアを懐かしんでいる者のように見える。
 ラーラも茶器を持ち上げたまま、微笑んだ。
「レミア様には、とても良くして頂きました。私達はそんなに歳も違わなかったので、レミア様はよく、私のいる衣装部屋にも忍んで遊びにいらっしゃいました」
 当時を思い出したのか、ラーラは微笑んだまま眼を瞑った。その瞼の裏には、この国に在った頃のレミア皇女の姿が映し出されているのだろう。その表情はとても幸せそうで、二人の仲が彼女の言う通りのものであったことを思わせる。
「レミア様は、とてもたおやかで美しい方でしたね。わたしはそんなレミア様に、ほのかな恋心を抱いたこともあったのですよ」
 カーネリアに輿入れしてからのレミアは、いつも控えめに微笑んでいる。アーベルはシエナの言葉を思い出した。


――美しい皇女だった。アーベルも見ただろう? だが閨で見る皇女は、その何倍も美しかった。そんな皇女だから、私の『影』としてでも抱きたいのだろう?


――この私でさえ、翻弄されたのだ。女の私でさえ! 事を成すのに、好いた女でなくても良い、とおまえは言った。それが美しい女なら、しめたもの。そう思ったんだろう?


 あの日、シエナにそのように思われたことが情けなくて、胸が痛んだ。この心の中にいるのは一人だけ。ただ一人を望み、けれども決してその人は自分のものになることはない。
 だがその想いも、今は笑みの下に覆い隠す。
「ふふふ……。レミア様は、あれでいて、なかなか活発なところもお有りでしたのよ。私に乗馬用の衣装を仕立ててくれないかとおっしゃって……。王にお叱りを受けるからと言って私共はお止めしたのですが、こっそりラウナ皇子の衣装をお借りして乗馬もなされたり」
 言ってしまってから、ラーラはふと、常人には判らぬ程の翳りをその表情の内に見せた。
 武芸に秀で、鋭い感性を磨いたアーベルが、それを見逃す筈はない。だが彼女が元通りの笑みを繕うと、彼もまた、昔の恋の話に興じる男を演じて見せた。
「おや。わたしの前ではそんな素振りは一度もお見せにならなかったのに。わたしも乗馬は得意なのですよ。そんなお姿を拝見したら、わたしはもっとレミア様に想いを募らせていたかも知れませんね」
 アーベルは更に柔和な笑みを見せた。それは心からのものではなかったが、ラーラはすっかり信じ込んでいるようだ。昔を懐かしむように眼を細め、皿に乗せた菓子を、彼に勧めた。
 今日も空はどこまでも蒼く、雲は日の光を浴びて真っ白に輝いている。この空はカーネリアにも続いているのだろう。
 だがそこにたなびく雲も、あとしばらくで茜色に染まる。そろそろ何かを掴まねばならない。
「さて……」
 ここからが本題である。この衣装係が、何故輿入れ前という大切な時期に、勤めを辞したのか。衣装係には、婚礼衣装を仕立てるという大切な仕事がある。それを目前に控え、城を辞すとは……そこに何かがあると思って間違いないであろう。
「ラーラ殿は、レミア様が輿入れなさる前に、城勤めを辞されたとか。何かあったのですか?」
 さりげなく、さして興味もないが、話のついでに訊いてみた――そんな口調でアーベルは問うた。口元に刷いた笑みはそのままに、茶器を持ち上げて少しばかり冷めてしまった茶を喫する。だがその瞳は決して彼女から離さず、そのどんな所作をも見逃すまいとしていた。
「それは……」
 蒼い香りを含んだ風が渡る。巻き上げられたラーラの髪が口元に掛かり、彼女はそれを指先で梳いて肩先に下ろす。
 たった、それだけの()が、二人の間に落ちた。
 だがアーベルは、そこから何かを感じ取る。
「大したことはないのですが、私が婚礼衣装を仕立てている途中で根を詰め過ぎ、少しばかり体調を崩したのです。大切な衣装を仕立てるという大役を仰せつかりながら、それを果たせないのでは、衣装係としてお城に上がっている意味がありません。それで下がらせて頂いたのです」
 寂しそうにラーラは言った。それは最後まで仕立てられなかった衣装に対しての想いなのか、それとも輿入れによってこの国を去ったレミアに対してのものなのか。
「途中まで仕立てられた衣装はどうされたのですか?」
 アーベルの問いに、ラーラの伏せた睫毛がほんの一瞬だけ、瞬きの途中で止まる。
「私の身体の不調という穢れがついてしまったので、私が城を辞す時に一緒に持ち帰り、処分しました。輿入れの際には、後任の衣装係が新しく仕立て直してお持ちになったと聞いています」
 こちらに向けられたラーラの瞳は、もうすっかり元の柔らかい笑みを取り戻していた。
 レミアを初めて見たのは、婚儀の間から続く大広間。その際に纏っていた衣装は、この者の仕立てたものではなかったのかと、想いを馳せる。何故だかアーベルの耳に、あの折、レミアが足につけていた鈴の音が聞こえたような気がした。


 アーベルがいとまを告げると、ラーラは先に立って門口まで案内をした。周りにある花々は、盛りのものもあれば、散り行くものもある。門口に一番近いところの背の低い木は、既にほとんどの花が落ち、地面の上に薄紫色の花弁が散り敷いていた。
「それではお気をつけて」
 アーベルを送ろうと振り返ったラーラの衣装が風にひるがえり、薄い花弁に触れた。羽毛のように軽やかな花弁は、風にもてあそばれながら、くるくると踊って落ちて行こうとする。だが予測も付かない筈のその行く先には、ラーラの細い指先が待っていた。
「とうとうこんなに散ってしまって……。これはお城の中にも在る花で、レミア様がとても好きだとおっしゃっていましたのに」
 指先でつまむようにして受け取った花弁。それを開いたもう一方の手に受け、ラーラは透かし見るように目の高さまで掲げる。
「綺麗な花ですね。あの方によくお似合いだ」
 彼女の掌の上で震える花弁を見下ろしながら、アーベルはこの者のもうひとつの仕事を悟った。


 ダリュはずっと門の脇で待っていた。アーベルが出て行くと、すっと寄って傍らに添う。
「ラウナ皇子は落馬して亡くなったのだったな」
 前を向いたまま、アーベルは言った。
 応えはないが、それが肯定の意であることは承知している。
「王族の墓はどこにある?」
 アーベルの視線の先には、もうすぐ茜に染まろうとする雲があった。


 暗闇は全てを覆い隠す。
 漆黒の男と砂色の衣装の男もまた、暗闇の中にいた。
「ここに間違いないか?」
「はい。こちらが王族の墓……『死者の森』です」
 王宮の背後にある山は、そんなに険しいものではなかったが、『死者の森』と呼ばれるだけあって薄気味が悪い。闇が降りてしまえば人も近づかないという。
 その森の中、木立が切れた一画の斜面に、大きな石室が並んで造られている。これらがリオドールの王族の墓であった。
 死して後、王族は神となって国を護るのだと信じられているカーネリアとは違って、リオドール国では一般的に死は穢れとされている。穢れに触れるということは即ち、その者の死を意味する。
 王族の死もその例に漏れず、よって、カーネリア国とは違った意味で、人の生きる場所とは隔離されていた。
 副葬品として死者と共に埋葬される品々は、死者のものである。常世の国への旅立ちに使われた品には穢れが付き、例えそれがどれだけ高価なものであっても盗掘しようとする者など、この国にはいない。
 よって、王族の墓に通じる一本道の入口に小さな検閲所があるのみで、『死者の森』の中には墓守もいなかった。生きている者が誰もいない森は暗く沈んで、ねっとりと重い闇が横たわっているのみである。
 石室自体はいくつもあって、その中にはまだ主のないものもあるようだ。石室の前に石版が埋め込まれていて、それが手前のものから奥に向かって、順に古びている。おそらく一番新しい石版の埋め込まれたものが、ラウナ皇子のものなのだろう。石版に刻まれた文字はリオドールの古代文字である。今では王族と、特別にその文字を学ぶことが許された学者のみが読めるだけとなってしまったと聞いている。
「盗賊ではないのだが……」
 そう言い置くと、アーベルは確かめるように石室の扉を拳で軽く叩いた。鉄製のそれは、厚みがあるのか、重い音を返した。
「何をなさるつもりです?」
「知れたこと。墓の中を見せてもらう」
「大丈夫ですか、そんなことをして」
 ダリュが心配そうに訊ねる。
「それは、国王を畏れてのことか、それとも、死者の穢れを畏れてのことか?」
「どちらもです!」
 まさか、宰相の子息であるアーベルが、そのようなことまでするとは思っていなかったのだろう。いつもは目立たぬ風情である筈のダリュが、珍しく慌てた様子で言い募る。
 アーベルは、ふっと笑った。
「わたしは死の穢れなど畏れていない。死とは必然だ。生きているものには必ず訪れる。それを無闇に恐れて何になるというのだ。逆にこの国の者が死の穢れを畏れているのであれば、魔に魅入られ易い夜には滅多にここには来ないだろう。明日の朝になれば、わたしたちは既にここにはいない」
 冷ややかな笑みを唇に刷いたまま、石室の扉に手をかける。
「おまえは脇に退いていろ」
 短く言うと、アーベルは扉の窪みに指をかけ、勢いよく横に払った。重い音を響かせながらも、扉はあっけなく開く。
『ヒュ! ヒュ、ヒュッ!』
 闇の中を、たくさんの何かが突き抜けていった。ダリュはその音を聞き、何なのか確かめようと、首を伸ばして中を覗きこもうとする。
「まだだ!」
 鋭いアーベルの声に、ダリュは慌てて伸ばしかけた首を引っ込めた。ややあって、第二の音の群れが、暗闇の中を突き抜けた。
 少しの間、二人は動かずにじっとしていた。しばらくの後、アーベルは手近なところに転がっていた木の枝を拾い、墓の前にかざした。そうして何事もないのを確認する。
「……これで(しま)いのようだな」
 慎重に辺りに気を配りながら、アーベルは言った。
「何です、今のは」
 すんでの所をアーベルに助けられた形となったダリュは、誰に問うということもなく思ったままを口にした。
「この国の信仰が及ばない他国の盗賊に副葬品を盗られぬよう、仕掛けがしてあったのだ。王族の墓とは、大体がそのようなもの。開きやすい扉には、何か次の手が隠されていると思わねばな」
 アーベルの言葉を聞きながら、ダリュは自分の口の中がすっかり乾いてしまっているのに気付いた。
 宰相の息子は、戦場にあってもなかなかの働きをすると聞く。戦いの術は、どんな些細なことであっても見逃さぬよう、身体に染み付いているのだろう。
 燭台に火を灯して中を窺い見ると、しばらくの間閉ざされていたにも拘らず、墓特有のかび臭さは漂って来なかった。まだ新しい墓なので、そのようなこともないのだろう。
 アーベルは墓の中を見渡し、ダリュを振り返る。
「床を見ろ。少し角の丸くなっている敷石があるだろう? あれは踏むな」
「……!」
 ダリュが息を呑む。アーベルは頷きながら、燭台をかざしてよく見えるようにダリュに指し示してやった。
「そうだ。あれも仕掛けだ。踏めば床が抜けて、奈落に落ちる。落ちたが最後、人の身体など、共に落ちてきた敷石に押し潰されてしまうだろうな」
 それぞれの王室にしか伝えられない王族の墓の細工は、様式は違えど発祥は同じである。王室の血こそ流れていないものの、アーベルとて王族の傍に侍る者。学ぼうと思えば、ある程度の知識を得ることはできる。
 ダリュがためらっている内に、アーベルは先に立って墓の中へと入って行った。身の丈の高いアーベルは少しばかり屈まねばならなかったが、常人並みのダリュが普通に立っていられるほどの空間が穿たれていた。
 床には平石が並べられており、真ん中に大きな石、そしてその上に棺が安置されている。石室の壁に沿うようにして、壷や宝飾品などの副葬品が所狭しと並べられていた。
「ダリュ、手伝ってくれ」
 棺の向こう側に回り、アーベルが手招きする。密命により生きている者を殺めることには何の感情も持たないダリュにとっても、死者の眠りを妨げるという行為は、あまり気持ちの良いものではなかった。
 床に燭台を置き、棺の蓋に手を掛けた。
 リオドールの棺は、二人して持ち上げてやっとその蓋を開くことができる程重厚な造りのものだった。掌を返して、渾身の力を込めてそれを持ち上げる。蝶番が(きし)んで、石室内に不気味な音が響いた。
「これがラウナ皇子か」
 棺の中に眠るラウナは、萎れることなく瑞々しく咲き誇る花々に囲まれて、まるで生きているようだ。頬も唇もふっくらとして、何も知らなければ、ただそこに眠っているだけのようにも見える。そっと揺り起こせば、その瞼を開けてこちらを見返しそうな錯覚に襲われた。
「おそらく、防腐の術が施されているのだな」
 ジェイドの秘薬の内にはそのようなものがある。それは香を焚くものであったり人体切開であったりと、その薬師によって施す術に違いはありこそすれ、永遠の時間を生き永らえる者のように仕上げることができるという。
 実際この目で見たことはないが、カーネリアの王族もまた、死した後はそのような秘術を施されて神山に昇るのだと聞かされていた。
 シエナも死した後は神となる。
 目の前に横たわるラウナ皇子のように防腐の術を施され、変わらずその姿を留めたままで、未来永劫カーネリアを護ってゆくのだろう。
 それに引き換え、いずれは土に還る我が身。
 目の前に手をかざしてみる。今はシエナを護るために働くこの手も、剣をとることもできない程粉々になって自然に還ってゆく。
 自分とは背負うものの大きさが全く違うのだというその事実が、重くアーベルに圧し掛かった。
 それを振り払うように、燭台の灯りをかざして、棺の中の顔をよく見てみる。
「これは……」
 眼を閉じてはいるが、この石室に眠る主の面差しは、レミアにそっくりであった。髪の色も、細く整った眉も、花弁のような赤い唇も……輿入れよりこちら、公式な儀式の際にシエナの隣に立つレミアの、あの儚げでありながら凜とした顔立ちにそっくりだったのである。
 胸の上で組まれた指の白さに眼がいく。花々の海から浮かび上がるように組まれた華奢な指先は女人のように滑らかで、これが剣を取って修練にあけくれた皇子のものかと疑いたくなるほどだ。それは一旦、死に装束であろう衣装の、たっぷりと襞をとった袖に隠され、肩先を通って胸元へと続く。まるで皇女のように胸元を開けたその衣装に、アーベルはふと引っ掛かるものを感じた。
 ラウナ皇子が抱えるようにしている胸元の花を、そっと退けてみる。
「……!」
 息を呑み、続く言葉を失った。
 この者が死者であるという証拠に、その胸が上下することはない。だが微動だにしないその胸には、皇子にはあるはずのないふくらみが見てとれた。
 ダリュも脇から覗き込み、さすがに顔色を失った。
 アーベルはゆっくりと石室の中を見回した。灯りをかざしてよく見れば、一緒に埋葬されている宝飾品は、皇子のつける肩の垂れ飾りや剣につける房飾りなどに混じって、皇女の胸を彩る首飾りや腕輪、それにリオドールの皇女のみがつける石のはめ込まれた錦の布などが目立たぬように置かれていた。
「リオドールに皇女は一人きりだと聞いている。ならばおそらく、この墓の主はレミア様。では、シエナ様のもとに輿入れしたは、何者なのだ……」
 ラウナ皇子とレミア皇女は、面差しがよく似ているとの噂を耳にしたことがある。レミア皇女亡き後、皇女を(かた)って成り代わり、それを女官や侍官が不審に思わない……そんなことができるとすれば、それはラウナ皇子のみ。
「……レミア皇女は、ラウナ皇子だったのか」
 それならば、合点がいく。何故、閨の儀式を半年の間、拒み続けたのか。シエナが皇子であると思っているならば、拒むより他、手はあるまい。
 ぐるりと見渡したアーベルの視線の先に、白く浮き上がったものがあった。灯りをかざしながら、近づいてみる。入口に近いところにある、衣装ばかりを集めた一角に浮かび上がるそれは、豪華な刺繍と輝く貴石で彩られた、純白の婚礼衣装であった。明らかに一緒に埋葬されたのではなく、後から投げ入れるようにして置かれたものだと判る。
 アーベルの脳裏に、先刻別れたばかりのラーラの顔が浮かんだ。彼女がただの衣装係でないことは、別れ際に垣間見たあの身のこなしで知れた。彼女の隠れたもう一つの仕事とは、おそらくレミア皇女を護ることだったのだ。王族を護る為の武術を心得た者ならば、さきほどの仕掛けをかわすこともできよう。
 おそらく彼女は、本物のレミア皇女が亡くなったのだということを悟ったのだ。生前よく彼女のいる衣裳部屋に忍んで遊びに来ていたという程、交わりがあったのだという。国が正式にラウナ皇子の死のふれを出したとしても、それがレミア皇女であるということぐらい、容易に判ろうというもの。
 あの娘は、縫い掛けの婚礼衣装と共に城を辞し、残りをあの屋敷で仕上げたのだろう。そうしてこの墓に、それを納めた。
――せめてもの、(はなむけ)か――
 いくら武芸をたしなんでいたとしても、幼い頃からの信仰を覆すことはできまい。それでも死者の穢れを畏れぬほど、ラーラの心の中に、レミア皇女はいたのだ。


「しかし……何がどうなっているのだ」
 アーベルは棺の中のレミア皇女に視線を戻す。ひとりごち、その表情を曇らせた。
 リオドールの皇女と思って迎えた妃は、皇子であった。リオドール国は何故、皇女の性別を偽ってまでカーネリアとの姻戚関係を望んだのか。確か、ラウナ皇子――今となってはそれがレミア皇女だと分かったわけだが――が亡くなったとの知らせが届いたのは、こちらがその縁談を承諾した後であった。あまりに急なことであったため、やむにやまれず、代理の者を立てたのだろうか。それにしても、それが第二皇子であったとは……。
 そんなことが知れれば、入れ替わった皇子の命が取られることは勿論、国と国との戦にすら転げて行きかねない。
「わからないことばかりだ」
 知らず、ため息が漏れる。
 どのみち……。
 どのみち、ラウナ皇子の生きる道はないように思えた。
 入れ替わりが知れた今、彼をこのままカーネリアに置いておくことはできない。リオドールに還したとて、猛獣の穴に肉を放ってやるようなものだ。その命は、いずれ潰える。そしてそれが、カーネリアとリオドール両国の戦いの幕開けとなろう。
 ただ、それが『今』でないことは確かだ。カーネリアはまだ、その準備を整え切れてはいない。
「父上に相談せねば」
 ダリュにも堅く口止めをすると、アーベルはその夜の内に馬上の人となった。