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玻璃の橋板


〜十七〜


 昨夜の出来事が夢の中のことだったのかと思えるほど、朝の光は清々しかった。
 シエナは寝台の上に身体を起こす。
 薬のおかげで深く眠っていたからか。頭の中が(もや)に包まれたように、いまだはっきりしない。それでも鳥の声に呼び掛けられると、今日は午後から使者団を見送るのだったと思い当たった。
 ふと首を巡らせば、隣に眠る筈のレミアがいない。部屋の中を見渡すと、長椅子の上に横たわるレミアがいた。
 『妃』の自室とはいえ、寝台は二人が眠ってもまだ広さには余裕がある。何故なのかと(いぶか)りながらもシエナは寝台を降り、レミアの傍に立った。
 見下ろせば、彼はまだ眠りの中にいるようだ。規則正しく上下する胸。伏せられた睫毛は長く、その下にはしばみ色の瞳を隠している。頬には一筋の髪が乱れ掛かり、赤い唇は緩やかに閉じられていた。
――愛しいと思った。
 昨夜、自分は最後まで言えたのだろうか。『私はずっと、あなたの傍にいたい』と。
 逢えば逢うほど募ってゆく想いを、ちゃんと伝えられたのだろうか。
 本来の姿を必要とされることが嬉しくて、傍に居たいと思った。だがその想いは短い間に徐々に形を変え、彼だから愛しいのだと思えるようになった。
 命を懸けてこの身を護ろうと言ってくれた雄々しい姿も、刺客と渡り合った剣の腕も、この身の辛さを何より深く判ってくれたその心根も。一国の王たる者に必要な厳しさと潔さ、そして温かさを持っている。
 鳥が一段と高く鳴き、風が渡った。シエナの少しばかり寝乱れた後れ毛が、甘い香りの風に遊ぶ。
 黒曜石の瞳が、ほんの少し曇った。
――いつまでも、こうしているわけにはいかないのだ――
 このままずっと、国を、人を、そして神を欺き続けるわけにはいかないだろう。いずれ、レミアの秘密は明かされることになる。
 その時には……。
 永久(とわ)の別れが待っているのだろうか。
 欺いた罪は重い。レミアにその意図はなかったとはいえ、裁きを受ければそれは即ち謀叛とみなされて、背負う(とが)はその命をもってあがなわねばならない。
 シエナの肌が粟立った。
 失いたくない。一度知ってしまった、人の胸の温もり。それをもう一度手離す勇気は、自分には無い。
――二人一緒にどこかに行ってしまえれば――
 それも叶うはずのない願いだ。王族である自分が、国を捨ててどこに行けるというのか。王族であったから、この身を偽った。この身を偽ったから、レミアと出逢うことができた。これも運命という大きな歯車の一つなら、自分達もまたここから(のが)れることなどできはしないだろう。ならば、この『国』という檻の中で、無様にもがきながら生きていくより他、道はあるまい。
――生きて行くより、他……――
 それは、自分一人で、ということだ。レミアと一緒には生きて行けまい。
 シエナは彼の顔を見下ろしたまま、その傍に膝をついた。
 知らず、視界がにじむ。
 溢れた想いは雫となって、レミアの頬に落ちた。
 ぴくりと瞼が動き、続いてゆっくりと長い睫毛がその帳を開く。
「……シエナ?」
 まだ夢の続きにいるような面持ちで、レミアはその名を呼んだ。自分の頬に落ちた雫が冷えてゆくのに気付き、指先でそれをすくう。目の前の黒曜石が水面(みなも)に揺れているのを見てとり、その身を起こした。
「何を……泣いている?」
 レミアの指先が、シエナの頬に伸ばされた。
「あなたを失いたくない」
 辛そうに寄せた眉根のまま、シエナは言った。
「最初から、あなたを王として、この国に迎えていたなら……。この婚姻が偽りでなく、本当のものだったなら……。そうしたら、私達はずっと一緒にいられたのに」
 シエナの唇が、自分でもどうしようもない程震えた。
「全ては私が皇子として生きてきたから! あなたに生きる道を変えさせたのも、私のせい。最初から皇女であったなら、いずれあなたを王婿としてこの国に迎えられたかも知れない」
 それは、初めて知る恐怖だった。失いたくないものなど、自分にはないと思っていた。全ては国のため。その為には自分は何も望んではいけないのだと思って生きて来た。
 だが今は違う。
 目の前にある、欲しいもの。唯一自分が欲しいと願ったものが、こんなに得難いものだったとは。
 どう考えても、今『妃』として在るレミアが、シエナの秘密が明かされた後、何事もなくその伴侶としてこの国に留まることはできそうになかった。
 皇子を皇女と偽って輿入れしたのには、何か意図があったのではないかと詮議されるであろう。レミアの意思とは関わりなく、それは国と国との思惑の中で処理される。そこに救いはないように思えた。
「私の願いはいつも……たった一つ欲しいと願ったあなたでさえ、この手にすることは難しい」
 シエナの腕が伸ばされる。
「こんなにも、愛しているのに」
 レミアの衣装に取り縋り、シエナはその顔を埋めた。優しい手が、髪の上を滑るのを感じた。
「わたしは、約束したね」
 レミアはシエナの髪を、愛しむように何度も撫でた。
「あなたを一人残して、逝きはしないと」
 シエナは顔を埋めたまま、小さく頷いた。
「わたしは逝かない。あなたがこの世にいる限り、わたしは……たとえ一緒にいられなくても、必ず生き抜いてみせるから」
 凜と言い放った言葉は、リオドールの矢のように、シエナの心に真っ直ぐに突き刺さる。
「生き抜いて……?」
 問うたシエナの顔を見下ろしたまま、レミアがゆっくりと頷く。
「一緒にいられなくても……と?」
 再び寄越された問いに、同じくゆっくりと頷いて、レミアはその唇に笑みを刷いた。
「あなたがいるから、わたしは強くなれる。あなたと同じ時間(とき)を生きるためなら、わたしはどんなことでもする」
 怪訝そうに見上げるシエナを、変わらぬ微笑が優しく包み込んだ。ふと、その顔が厳しくなる。
「カーネリアとリオドールは、いずれ戦となる。あの父上は、何も策のないまま偽りの姻戚関係を結ぶ人ではないから……そうなれば、どのみちわたしはこのままではいられない。祖国に還されるか、人質となるか……ふっ、人質にはならぬな。父上はわたしの命を取ろうと思われる程のお方なのだから」
 諦めの息と共に、皮肉るように嗤う。
「いずれ、わたし達に別れは来る。だが覚えていて欲しい。わたしはあなたを残して、一人で逝きはしないと。必ずどこかで、あなたを想って生きている。だから……」
 シエナの唇に、優しい口付けが降る。
「あなたは一人ではない。いつもわたしと共に在るのだから」
 背中の傷をいたわりながらも、少しだけ強く、抱き締められた。
「愛している」
 耳元で囁かれた言葉に、シエナは目を瞑った。嬉しいのか哀しいのか……涙が溢れて止まらない。
 愛されているという想いと、必ず来るであろう別れと。
 まばたきをする一瞬の間も惜しい気がした。
 ずっと、深く、レミアをこの眼に焼き付けておきたい。ずっと、深く、レミアの腕を感じていたい。
 扉の向こうに人の気配がする。女官が起き出したのであろう。じきに、閨代わりのこの部屋に(やす)む、皇子と皇女を起こしに来る。
 たとえそれまでの、短い間であっても……。
 扉の向こうに人の立つ気配がした。
 それすら構わぬほど、今一度、二人は強く抱き締め合った。


 天空の日が真上に掛かろうとする頃、アーベルは城に戻って来た。
「ご苦労だったな」
 短く(ねぎら)うと、宰相は厩番の男を眼で制し、自ら馬の引き綱を引いた。
 息子の帰りを待ちかねたのか、それとも他の意図があるのか……宰相は厩の近くまで彼を迎えに出ていたのである。
「只今戻りました」
 鞍から降り、アーベルは宰相の数歩後を従って馬房まで歩く。彼が馬を繋いでいる間、砂埃にまみれた上衣を手で払っていた。
「何かわかったか」
 こちらが馬を繋ぎ終えたのに気付かぬ様子のアーベルに、宰相は声をかけた。腰を折って膝の辺りを払っていた彼の息子は、そのままの姿勢で顔を上げる。そこには少しばかりの疲労の色が見てとれた。
 無理もない。夜通し馬で駆けて来たのだ。ろくに眠ってもいまい。
 だが宰相は、そんな様子にも気付かぬふりをした。気付いてしまえば、それが彼の矜持(きようじ)を傷付けると思ったからである。
「こちらへ」
 馬房はずらっと並んでいる。ここには城で使う馬がほとんど集められているのだ。その数はざっと見渡しただけでも何百とある。
 そんな馬ばかりの中で、他に聞く者もいないであろうと思われるのに、アーベルはさらに物陰へと宰相を導いた。
「レミア皇女は、ラウナ皇子でした」
 声をひそめて告げる。遠くから、馬のいななきが聞こえてきた。
「……何だと?」
 宰相が応えを返すまでに、たっぷりの時間があいた。
「王族の墓を暴いて参りましたが……ラウナ皇子の墓に眠っていたのは、レミア皇女でした。この眼でしかと確かめましたゆえ、間違いはございません」
 尚一層、声をひそめる。
「今後宮にいるのは、ラウナ皇子。男の身でありながら、皇女と偽ってこの国に輿入れして参ったようです」
「何のために……?」
「そこまでは判りません。おそらく、皇子自身にも知らされていないのかも知れません。祖国に命を狙われたのも、その辺りの事情が原因かと」
「うむ……」
 宰相はアーベルの報告を腕組みしたまま聞き終え、短くうなると、それきり黙りこんでしまった。
 昨日使者団の余興の際に、再びレミア――ラウナはその命を狙われたのだと聞いた。そんな状況下であっても、()の皇子は凜として、王族らしい威厳と気品、そして激しさをも感じさせたのだと、エルガ将軍が手放しで褒めていた。
『リオドールの者として何らかの罰を受けなければならないと言うのならば、わたしはそれに従いましょう。それで全ての罪があがなえるのなら。カーネリアの安寧の為に、リオドールの者として、逝く覚悟はできています』
 そう言ったラウナ皇子は、祖国への思いを断ち切り、この国のために命を投げ出す覚悟を固めているようだったのだと。
 あの将軍に一目置かれるということは、それなりの人となりであるということだ。飄々として人当たりが良さそうに見えて、彼の人を見る眼は意外なほど厳しい。
「惜しいな」
 こんな形でなければ、他にラウナ皇子の身の処し方もあったであろうに。皇女として堂々と偽りの輿入れをして来たという事実は、どう拭っても消えはしない。審議にかけられればそれは謀叛とされ、彼の命を繋ぐ手立ては、もはや無いように思われた。
「このことは、しばらく伏せておかねばなるまいな」
「はい、わたしもそのように思っております」
 ひとりごちるように零した言葉に、アーベルが応えを返す。
「どのみち、彼の国との戦は避けられぬと思われます。ならば、時が満ちるのを待つ方が、賢明かと」
 カーネリア国もシエナ皇女を皇子と偽っている。こちらも、妾妃キシナの生家の取り壊しが目前に迫っていた。キシナの生母はこのところ、危篤状態が続いているという。生家取り壊しで第二皇子ルベルの出自が明らかになるか否か、まだはっきりとは判らぬが……。
 万が一何も出てこない場合、ルベル皇子自身に何らかの災難が、誰かの手によって人為的に起こされるということもありうる。王室の血を護るためならば、それにも目を瞑らねばなるまい。
 シエナの秘密を明らかにせねばならないのも、そう遠くない話であろう。
 そうすれば、これは国を揺るがす問題である。
 ラウナ皇子の入れ替わりも、いずれ皆の知るところとなろう。
 こちらも戦の口実を得るが、リオドールも黙ってはいまい。
「戦になる……か」
 シエナの傷の回復を待って、早急に手を打たねばなるまい。先のペリエル国との戦いから半年以上経ってはいるが、戦を始めるにあたっては、もうしばらく国力を盛り返さねばならない。
 そしてその時が、リオドールとの戦の始まりなのだ。
 宰相は唇を引き結んだ。誰もいない厩の、わずかに埃の舞う宙を見つめる。
 一旦瞼を伏せ、深く息を吸う。そして思い切るように、眼を開けた。
「すぐに使者団を見送る儀式が始まる。おまえはシエナ様の護衛に付け」
 行きかけて、宰相はふと足を止める。
「やはりおまえに頼んで良かった。これほど早く報告を聞けるとはな。おまえほどの乗り手は、その城内を探しても他にはいないだろう。幼い頃は泣いて馬を怖がったものだが……大きくなったな」
 半身を巡らせてアーベルを振り向いた彼の顔には、一人の親としての満足げな笑みが浮かんでいた。


 『正殿の宮』の一室で、迎えた時と同じように、使者を見送る儀式が執り行われる。今はまだ少しばかり早いので、シエナは控えの部屋に一人座っていた。正装に身を包み、その外見は全くの皇子である。
「よろしいでしょうか」
 ルチエラに伴われて、アーベルが入って来た。
「何やら所用で出掛けていたそうだな。ご苦労であった」
 疲れなど周りに感じさせぬアーベルであったが、シエナの眼はごまかせない。昨晩あまり眠っていないのも、彼女にはすっかり分かってしまっているようだ。
 少しばかりいたわるような視線を投げかけ、だがすぐにそれを押し隠す。こちらの矜持を傷付けまいとしてくれているのだろう。
「いえ、大したことはありません」
 従妹の心遣いを感じながら、アーベルはそれだけを言って口をつぐんだ。
 今は儀式の時間が迫っている。本来ならばラウナ皇子の入れ替わりについて説明しなければならないところだが、今はそんな暇はないように思われた。
 だが……。
 毎晩のように閨で共に寝んでいる妃が皇子と知ったなら、この従妹はどうするだろうと、アーベルは思った。
 蜂蜜色の髪。赤い唇。中性的な美しさを持った皇子、ラウナ。


――美しい皇女だった。アーベルも見ただろう? だが閨で見る皇女は、その何倍も美しかった。そんな皇女だから、私の『影』としてでも抱きたいのだろう?


――この私でさえ、翻弄されたのだ。女の私でさえ! 事を成すのに、好いた女でなくても良い、とおまえは言った。それが美しい女なら、しめたもの。そう思ったんだろう?


 あの時シエナに言われた言葉。それと全く同じ想いが、今度は自分の中に湧き上がるのを感じた。
――馬鹿なことを――
 そんな想いを、すぐさま自分の中で打ち消す。
 シエナの国を思う心は、幼い頃から知っている。自らの命さえ、国のためには投げ出す覚悟であることも、戦場において何度も目の当たりにしてきた。このカーネリアが謀られたのだと知れば、相手が誰であれ、どんな容姿であれ……好意をもって接するものはその懐深く包まれることを許すが、そうでない者は――例えそれを隠して近づいたとしても、決して無傷では還さぬであろう。
 そう思い当たり、ほっと息をつく。そうして、そんな風に安堵してしまう自分にもまた、アーベルは少しばかり苛立った。
「お時間でございます」
 女官ルチエラが頭を垂れ、出立を促す。
 すっと音もなく、シエナが立ち上がった。
「いくぞ、アーベル」
 寄越されたのは、久しぶりに見る、笑み。ほんの少し唇を弓形に引き上げただけであるが、そこには何の駆け引きもないように見える。
 それが自分にだけ向けられたものであると確信し、アーベルもその漆黒の瞳を細めた。


 レミアもまた、控えの間で座っていた。
 女官アイラは、レミアの衣装の裾を直し、襞が綺麗に出るように整えている。
 今日は使者が帰ってしまうのが寂しいのか、黙々と仕事をこなすのみであまり口を開かない。
「アイラ、今日は無口だね?」
 部屋の中に二人だけであるという安堵感からか、レミアは声色こそ使っているが、皇子の口調のままで問う。
「そうでしょうか」
 顔を上げることもなく、アイラは言った。
「アイラには、好いた(ひと)はいたのか?」
 何故そんなことを問うてみたくなったのだろう。自分が愛する人を見つけたからなのだろうか。
「いいえ、そんな……」
 アイラは顔を上げぬままであった。だがその手が少しばかり止まる。
「今となっては、言ってみても仕方のないことです」
 そう言って、またレミアの衣装の裾を整えはじめた。
「そうか……」
 レミアもまた、アイラから視線を外し、椅子の肘掛に肘をついてもたれ掛かった。
「愛する人と離れ離れになるというのは、どんな気持ちなのだろうか。わたしは今まで人を愛したことがなかった。自分のことで精一杯で、誰かを欲しいと思ったことなど、無かったんだよ」
 肘をついたまま、レミアはその指先で自分の唇をなぞった。赤い唇は、本来の色。その指先に、紅の色が付くことはなかった。
「けれど、わたしは信じているよ。例え離れてしまっても……一緒にいられなくても、重ねた心は容易に離れることはない。相手を想うだけで、生きる力となる。護りたいと願うだけで、どんな困難にも立ち向かう力を得ることができる。そしてそれだけで、自分は幸せなのだと」
 アイラはレミアを見上げた。そこには、衣装こそ皇女のものであるが、涼やかな皇子の眼で正面を見据えるレミアがいた。
 毎日共に居るから分からなかったが、改めて見れば、この半年の間にレミアは随分と大人びたように見える。それは体つきなどばかりでなく、心の在り様にも表れていた。
 このカーネリアで、恋をしているのだろうか。リオドールでいつも亡き異母姉と共に居た頃は、こんな話をしたことは無かった。いつも父王に虐げられ、それでも認めてもらおうと懸命になっている姿しか思い浮かばない。
 見上げるアイラに気付き、レミアは柔らかく笑む。
「今生の別れとなってしまっても、愛した気持ちは消えることはない」
 まるでそれは……。
 自分の命が長くないことを悟っているような言葉。
「レミ……」
 何を言おうと思ったのだったか。
 思わず掛けた言葉は、扉を叩く音に打ち消された。急いでレミアの脇に控え、膝をついて頭を垂れる。
 部屋に入って来たのは女官ルチエラ、シエナ皇子、そしてそれに付き従うアーベルであった。


 ルチエラが扉を入った所で膝を付いて控える。シエナとアーベルが、真っ直ぐにレミアに向かって歩を進めた。
 『皇子』の姿を認めると、レミアは唇に薄く笑みを刷いた。いつもどこか哀しげに微笑むレミアが、今日は暖かく柔らかな……まるで包み込むかのような笑みを見せている。
 それはまるで、恋をする者のような……。
 シエナに付き従うように歩み寄るアーベルがそれに気付いた。眼の端で、それとわからぬようにシエナを窺う。
「……!」
 アーベルの瞳は、そのまま凍りついてしまった。
 それは、見たこともないような笑みだった。
 シエナの白い陶器のような顔に浮かんでいるのは、本当に微かで、傍目からははっきり笑みと取れるようなものではない。だがそこには確かに、渇望と安堵と……相手がそこに在ることを()い、そこに在ったと知って安らぎを得た瞳の色。
 先ほど自分に向けられた、親愛の情のこもった笑みとは全く違う。もっと扇情的でその瞳を向けられていない自分でさえ、思わずその袖を引いて引き留めてしまいたくなるような笑みだ。
 アーベルの歩みが遅くなった。
 目の前で、頭上高く結い上げられた漆黒の髪が揺れて遠ざかる。
 それは恋をする者の顔だ。今のシエナは、アーベルから見れば恋する女性そのものだった。
 自分にはわかる。何故なら、この自分こそ、シエナに対して禁じられた恋心を抱いているのだから。
 そう言えばと思い当たった。
 シエナが傷を負った翌日、彼女は無理を押して閨に渡った。使者を迎える当日の朝議で、シエナに特別な『色』を感じたのではなかったか。その時は、レミア皇女がラウナ皇子だとは思っていなかった。だから得体の知れない不安を感じただけであった。
 だが今なら判る。あれは、恋する者の纏う『色』だったのだと。
 心の臓が早鐘のように打ち鳴らされる音が、体中に響き渡った。
 これから見送らなければならない使者のことも、新たな刺客から護らねばならないレミアのことも、アーベルの頭の中で遠のいて行く。ただひとつ、シエナの微かな笑みが、アーベルの心を砕いた。
 レミアが優雅な仕草で立ち上がり、片膝をついて頭を垂れた。肩先から蜂蜜色の髪が零れて、頬を覆う。薄く刷いた笑みも、その下に隠された。
 それに遅れること数瞬、アーベルも距離を置いて片膝をついた。時間がのろのろと過ぎて行く。
――この後はどうするのだったか……ああ、頭を垂れるのだった――
 いつもしているその所作でさえ、いちいち思い出してやらなければできない。


『どうしてわたしがシエナに頭を垂れなくちゃいけないんだ』
『シエナ様は第一皇子であらせられます。アーベル様はそれをお護りするのですよ』

『靴が脱げてしまったんだ』
『シエナ様は肩につかまって。わたしが履かせてあげる』

『幼い頃は、いつもこうして私の世話を焼いてくれたのにね』
『あの頃は、思慮に欠けておりましたゆえ』

『どうして昔のように、私が泣き止むまで抱き締めていてくれない?』
『シエナ様が女であるのと同じように……わたしも男であると、気付いてしまったからなのですよ』


――今はもう、呼吸の仕方さえ忘れてしまったように思えた。