〜十八〜
使者団は無事にリオドールへと還って行った。その夜、シエナの自室にもう一人の影が在った。
「では、シエナ様はご存知だったのだと?」
上質な布地を張った椅子に、傷を庇うように斜めに背を預けたシエナは、どことなく物憂げである。片膝をついてそれを見上げるアーベルは、まばたきの仕方さえ忘れてしまったかのようだ。
自分と同じ黒曜石が逸らされることなくこちらに向けられる。その眼差しが心に突き刺さるようで、シエナは気付かれぬよう、そっと視線を外した。
「ああ、知っていた。レミアがラウナだということはな」
なるべくさらりとかわしたつもりだったが、何故今までこのことを知らせてくれなかったのかと、寄越される視線に責められているようだ。
「私が知ったのもつい数日前だ。今はまだ彼の身の処し方をはかる時期ではないから、私の胸の内にしまっておいた」
シエナはアーベルを見ることもなく、もっともらしく言ってのけた。
本当は、ずっと知られずにいられれば、と思っていた。だがあの抜け目のない宰相のことだ。刺客の件で何かを感じ、アーベルに探らせたのであろう。使者団を迎えた際に彼が傍近くに居なかったのは、宰相の指示によるものに違いない。
二人の間に沈黙が落ちた。
何故と問うことも忘れ、アーベルは目の前の従妹の顔を凝視した。
多分、自分は判っていた。ラウナ皇子の入れ替わりに、シエナがとうに気付いていたことを。
アーベルの胸の内に、あの時のシエナの笑みが蘇った。恋をする者の顔で、微かに微笑んだあのシエナが。
「……ラウナ皇子と知った上で、一つ床の上で寝んでいたのですか」
自分でも情けない問いが、思わず口をついて出る。
「名目上は私の『妃』だ。向こうもそのつもりでいる。何も不都合はないと思うが?」
小さなため息と共に吐き出された応えは、これ以上何も訊くなと言いたげである。物憂げに逸らされた瞳が更に細められたかと思うと、いかにも投げやりな
瞬きの後に、追い討ちを掛けるようなため息が今度はあからさまに寄越された。
少しばかり心が通じ合ったと感じたのは、自分の思い過ごしなのか。アーベルは気持ちを鎮めるように息を吐き、拳を握った。
「相手は皇子です。皇女とは違うのですよ? 何か有ったなら……そして、こちらが皇女であると知れてしまったなら、どうするつもりなのです」
アーベルの言葉に、シエナは細く長い指先でこめかみを押さえ、薄く笑った。
「知れたところで、ラウナ皇子にはもう何もすることはできまい?」
それもそうである。祖国から命を狙われている彼が、今更シエナの秘密を知ったとて、何かを成すことなどできないのだ。
だが。
逸らされたままの瞳は、決してこちらに向けられることはない。ラウナ皇子に向けられた笑みは、決してこのようなものではなかった。
今、自分の目の前で笑う顔は、驚くほど感情を排したもので、アーベルには彼女が心に重い鎧をまとっているように感じられた。あんなに自分を請うていた従妹は、既に自分の腕など必要ないと思っているのだと。
――もしや――
体中の血が冷えていくのを感じる。
手元で大切に育てた雛鳥が、ある朝気付いたら、籠の隙間から飛び立ってしまっていたような……そんな喪失感。
ならばいっそ、その羽をもいでしまいたいと、残忍な欲望が湧き起こる。
――何を考えているのだ――
アーベルは、必死にそれを押さえ込もうとした。弾け飛んでしまいそうな理性をそれでもかろうじて繋ぎとめると、深く息を吸った。
「それとも、もう知れていると?」
問う声色は驚くほど冷ややかで、アーベルは初めて自分が深い怒りに震えているのを知った。
「……いや」
シエナの応えが返るまでに、一瞬の間があく。それだけのことで、アーベルはそれと確信した。
季節は移ろい、夜の風は少しばかり冷たい。先ほどルチエラが窓を閉めていったので、部屋の中で動くものは、二人の他何も無かった。
彼の瞳の色が変わったのを、シエナも察する。小さく息を吐いた。
「おまえに嘘はつけぬな。そうだ。彼ももう、知っている」
シエナが皇女であることを。だからこそ、愛しんでもらえたことを。
お互いの居場所をお互いの中に求めたことすら、アーベルには見抜かれてしまっているのかも知れない。
寄越される眼差しの中、シエナは何も取り繕うことができなくなって、自分の手元に視線を移した。
風が強いのか。木々の梢がざわざわと揺れる音が、窓を通して聞こえてくる。
「……愛して……いるのですか?」
搾り出すように、アーベルが言った。梢の鳴き声と響き合い、彼自身がわなないているようだ。
怒っているのだと思った。なのに寄越されたのは、怒りを滲ませながらも切なげな声である。シエナは思わず顔を上げた。
そこには、見たこともない表情を浮かべたアーベルがいた。
いつも見る彼は、感情を押し殺し、何を考えているのか相手に悟らせない。だが今、目の前にいる彼のその漆黒の瞳も薄く開いた唇も、痛みと哀しみと切なさを饒舌なほど伝えて来る。
応えの代わりに、シエナはほんの少し唇を弓形に引き上げた。だがアーベルの痛みを感じ取ったせいか、自分でも知らぬ内にその眉根は寄せられて、笑みにはならなかった。
「シエナ様……」
アーベルの唇から、苦しげな声が漏れた。
「今後一切、閨に渡ることはなりません」
苦しげでありながら、凜とした張りのある声。それは一切の反論をも跳ね返す、強いものであった。
「何故……!」
シエナは思わず立ち上がった。
失いたくない。やっと見つけた、心許せる相手を……そしてその人と一緒にいられる閨での逢瀬を、失うわけにはいかなかった。
いずれ戦になると
彼の皇子は言った。それはいつか必ずや訪れるのであろうと、自分も心の奥底で承知している。
そうならば、その時が今生の別れ。あとどのくらい一緒にいられるのかすら判らないのに。
「おまえが心配するのも判る。だが私は『皇子』で、彼は『妃』だ。閨に渡らねば、重臣の内にも
訝る者が出てくる。そうすれば、私の秘密が暴かれるかも知れぬだろう」
「秘密など!」
声高に、アーベルが叫んだ。拳を握り、床を蹴るように立ち上がる。こんなに激昂した彼を見るのは、初めてであった。シエナは思わず身をすくませた。
怒りの色を纏ったまま、アーベルが近づく。だがその顔は何の表情も読み取れない程冷徹で、見ているこちらは心の底から冷え切ってしまいそうだ。垣間見えた痛みも切なさも、既に冷たい鎧の内に隠されてしまっていた。
いつもは慣れ親しんだ側近であり、従兄であるアーベルの変わり様に気圧されて、シエナは壁際へと後ずさった。アーベルは歩を緩めない。ゆっくりと獲物を追い詰めるように、シエナを見据えたまま歩み寄る。
怖いと思った。
戦場において、命のやりとりをした時よりも。
心許した筈のアーベルを、シエナは怖いと思った。
床に置かれた彫像に足を取られ、そのまま壁際に倒れこむ。
「くっ……」
頭を庇ったために背中の傷を壁にひどく打ち付け、シエナの顔が痛みに歪んだ。
だがそれを見てさえ、アーベルは表情を変えなかった。倒れたままのシエナの前に、ゆっくりとしゃがみ込む。彼女の身体の両脇に手をついて、逃れられぬよう、閉じ込めた。
「誰が許しても、わたしは許さない。あなたはもう、閨に渡ってはいけない」
無礼ともとれる口調で、アーベルは言った。覗き込めばその漆黒の闇に囚われてしまいそうに思える瞳が、シエナのすぐ目の前にある。
眼を背けたいのに、背けることができない。
「……どいてくれ」
ようやくそれだけの言葉を口にする。アーベルの眼が細められた。
「何をす……!」
だが応えの代わりに寄越されたのは、力強い抱擁だった。
抗うシエナを、アーベルはその腕の中に閉じ込めた。
「わたしがどんな想いでこの数年の間、耐えてきたか……判りますか?」
ふりほどこうとするシエナの腕を、力ずくで押さえ込む。
本気になれば、アーベルの腕を開かせることも、シエナにはできた。いつどのような者に襲われても対処できるよう、体術の修練も充分に積んでいる。だがそれは、アーベルと本気でやり合うことを意味していた。お互い、無傷では済まないだろう。
「アーベル、やめろ」
彼とこんなことで
諍うつもりは無かった。身を捩って、彼の呪縛から逃れようとする。だがアーベルは、それを許さなかった。
「あなたを恋しいと想う気持ちを押さえるのがどれだけ辛かったか、判りますか?」
請うように、アーベルは言った。
はっと息を呑み、シエナは抗うのをやめた。
「あなたが無防備にわたしに取り縋る時、どれ程の想いでわたしが自分を律し続けていたか、あなたは知らないのでしょう」
アーベルがシエナの肩に顔を埋める。漆黒の髪が、シエナの頬を撫でた。
自分と同じ位置で高く結い上げられた髪。いつも頭を垂れて自分の前にひざまずく彼のこの結いを見つめ、何度昔のように心を開いて欲しいと願ったことか。取り縋る腕をそのまま受け留めて……少しでもいい、国を背負うこの背に温かく手を添えてくれたなら……と。
だがその願いが叶うことはなく、取り縋る腕は払われた。行き場の無い心を持て余し、シエナはアーベルへの思慕を断ち切った。真っ直ぐに自分を請うて差し伸べられた手をとってしまった。
もう後には引けない。レミアは……ラウナ皇子は、その命を掛けて自分を愛しいと想ってくれたのだから。
「これ以上傍にいると、取り返しのつかないことをしてしまう。だからあなたと距離を置いた。なのに、あなたは……!」
埋められた顔が、わずかにこちらを向く。吐息が首筋にかかり、シエナの肌を甘い痺れが走った。
「やめ……」
震える声を振り絞った。だが喉が焼け付いたように干からびて、言葉が続かない。
ゆっくりとアーベルはその顔を上げ、触れるか触れないかの距離でシエナを見つめる。その瞳は扇情的で、いつもの彼のものではなかった。
彼の熱がこちらに伝わってくるのを、シエナはかろうじて耐えた。見つめていれば引き込まれてしまいそうに感じるのに、眼を離すことができない。
「どうかしています。相手は、このカーネリアを謀った者なのですよ? 謀反の罪を負うであろう罪人に、あなたを渡すわけにはいきません。こんなことになるのなら……」
漆黒の瞳が真っ直ぐにシエナを見つめる。
「この身を裂く思いで我慢などするのではなかった。あなたを奪い、自分のものにしてしまえば……あなたはわたしから離れて行くことなどなかったのに!」
焦点も合わぬほど近くにあったそれが更に近づき、唇に唇が重ねられた。
レミアと違って強引に奪い取るような口付けに、シエナは顔を背けた。だがそれで抱擁が解かれることはなく、背けて反らせた喉に唇が押し付けられる。
「いや……だ」
渾身の力で圧し掛かる身体を押し返す。
「今更……」
背中の傷が痛んで悲鳴を上げた。
「今更、何を言う!」
互いの身体の隙間から無理やりに腕を上げ、振り払うように横に払った。乾いた音がして、アーベルの頬が僅かに朱に染まる。
シエナの頬を涙が伝った。
「おまえといる時でさえ、私は女でいることを許されなかった。私が傍にいて欲しいと縋った時も、おまえは自ら離れていったではないか。今更何を……!」
濡れたきつい眼で、アーベルを見上げる。
「ではあの時、わたしがシエナ様を受け入れていれば良かったのですか? 女であることを隠さねばならないあなたと、男であるわたしが、どうやって結ばれるというのです! わたしはずっとあなた一人を想ってきた。その想いを、ずっとこの胸の内に秘めてきた。あなたが女王として晴れてこの国に君臨することができた日に、わたしはこの想いを告げるはずだったのに!」
息もできぬ程、強く抱きしめられる。背中の傷が再び悲鳴を上げた。
「アーベル、痛い」
苦痛に歪んだシエナの顔を見て、アーベルがはっと息を呑んだ。
「わたしは……」
そろそろと腕の力を緩める。僅かにできた隙間から身を捩って、シエナはこの甘い鳥籠から逃れた。壁に背を預けて座ったまま、それでも立ち上がることもできずにいる。
アーベルの唇が這った首筋を手で押さえた。そうしていないと、甘い痺れが全身に回ってしまいそうで怖かった。
「遅い……アーベル」
やっとのことで、それだけを口にする。
大きく息をつくと、少しばかり身体の震えがおさまった。
「もう遅いんだ、アーベル。おまえは私を遠ざけた。私はそれに耐え切れず、彼を愛してしまったのだから」
『愛して』と。
はっきりとシエナの口から、その言葉を聞いた。
「は……はは、は」
乾いた笑いがアーベルの喉を突いた。
こんな筈ではなかった。どこで道を間違えてしまったのか。
アーベルの苦悩が、シエナにも伝わる。
どうしようもないと判っていても、それでも心とは自分の思い通りにはならないものだ。
シエナの涙は頬を濡らして零れ落ち、床に散った。
「あの人は……ラウナ皇子は、私が女としてそこに在ることを許してくれた、初めての人だ。『妃』として迎えた『皇女』に想いを寄せているなどと……可笑しければ嗤え。何と罵られようと、私は約束した。この国に在る限り、彼を護ると。失いたくない……」
濡れた瞳のままで、シエナはアーベルを見上げた。
「神は、お許しにならないでしょう」
手の中から逃げてしまった小鳥を遠くから眺めるような瞳で、アーベルは言った。諦めなければならないと、とうに承知している筈なのに、まだ
一縷の望みを抱いたまま立ち尽くしているような……。
「そうだな。私達はカーネリアの神に許されて婚儀に臨んだが、カーネリアの神に許されない夫婦となったわけだ」
シエナが自嘲気味に笑う。
「わたしでは駄目ですか? わたしではあなたの支えになりませんか?」
床に座したまま、アーベルは少しばかり膝を進めた。それを見てシエナが身を固くする。己の首筋を押さえる手に更に力を込めた。
「私達は、主従でいる時間が長すぎたのだ。おまえは私のため……国のためを思って、私を遠ざけたのだろう? それは、多分正しかったのだろう。でも私は寂しかった。おまえに引き剥がされた身体は、誰かに縋っていないと、もう一人では立っていられなかったんだ」
「だからラウナ皇子に縋ったのだと?」
それ以上近づくのを諦め、アーベルは問うた。
応えの代わりに、シエナは寂しく笑った。
「閨に渡ることを許して欲しい。いずれ戦となろう。そうすれば彼の命の保証はない。短い間でも良いから……私はもう、彼なしでは……息の仕方さえ忘れてしまったのだよ」
レミアは共に同じ
時間を生きると言った。だがそれは叶わぬことだろう。心だけを置いて、その身体は土に還ってしまうのかも知れない。
シエナの瞳から新たな涙が、はた、と零れた。
「怒らないのか?」
いつまでも黙ったままの従兄を、シエナはそっと窺う。
「わたしが引き留めても、あなたは行くのでしょう?」
そこには辛そうに眉根を寄せたまま、無理に微笑もうとする漆黒の瞳があった。
刺客の刃によってシエナが傷を負ってから
三月の後。
薬師の治療によってその傷は治癒し、彼女の背には白い傷跡が残るのみとなった。
そうやって治癒してきたいくつもの傷は、その跡を滑らかな肌に刻んでいる。そのどれもが、シエナが身体を張ってこの国を護って来たという証なのだ。
痛みもなくなり、シエナはまた剣や弓、体術の稽古に明け暮れていた。
「将軍、今日はやっと将軍のご要望を叶えることができます」
エルガ将軍の詰め所を訪れたシエナは、戸口に立つと、悪戯を仕掛ける幼子のように口の端を引き上げて見せた。
将軍が声のした方を見やると、いつもは一人でここを訪れるシエナの後に、誰かが付き従っている。
扉の隙間から垣間見えるその人は、蜂蜜色の髪を長く背に流していた。
「レミア殿!」
途端に将軍が破顔する。人懐こそうな笑みは、心からのものだ。
飄々として人当たりが良さそうに見えて、彼の人を見る眼は意外なほど厳しい。その将軍が、レミアの資質を高く買っている。
「ようやく後宮から開放されましたかな」
後宮ばかりに引きこもっていないで、軍兵にその心根の端でもくれてやって欲しいぐらいだと将軍が言ったのは、使者団を迎えた時であった。祖国への思いを断ち切り、この国のために命を投げ出す覚悟を固めているレミアの潔さを、将軍はとても快く思っていたのである。
レミアは祖国リオドールに命を狙われていた。あれから三月が経ち、その間には表立って何もなかったものの、またいつ狙われないとも限らない。将軍は、レミアにもお飾りではない護身術を身に付けさせたらどうか、と進言していたのである。
難色を示した重臣もいたが、宰相がそれを説き伏せた。シエナには意外であったが、宰相もレミアがむざむざ刺客の手に掛かることは良くないと思っているらしい。後宮付きの兵を強化することは勿論だが、レミア自身にも刺客と渡り合うだけの
術を身に付けてもらうことが一番だと考えたようだ。
祖国リオドールでは皇子として修練を積んではいても、輿入れから一年近く何もしなければ、やはり腕は衰えてしまう。いざという時に役立つよう、将軍自ら剣の指南をすることになっていたのである。
「今日いらっしゃるとは思いませなんだ。このようなむさ苦しい所ではありますが……」
言いながら、長剣や短剣、それに数々の得体の知れない武具が山積みになる中、レミアの座れそうな椅子を探し出して部屋の真ん中に据えた。
レミアの長い衣装の裾が、床に散らかった馬具に触れる。革と金属で造られたそれは簡単に均衡を崩し、騒々しい音を立てて一層散らかった。
「レミアはすぐに着替えをさせますから、椅子は結構ですよ、将軍」
口元に拳を当てて苦く笑うと、シエナは手にしていた胴衣と脚衣をレミアに渡した。
「あちらの部屋で着替えておいで」
視線で奥の小部屋を指すと、シエナは柔らかく笑った。レミアはまるで本物の妃のように優雅な所作でそれに応え、小部屋へと消える。
「まこと、似合いのご夫婦ですな」
見守る将軍も、そんな二人の様子に目を細めた。
この国の中において、ラウナ皇子がレミアと入れ替わっていることを知るのは、宰相とアーベル、そしてシエナとその女官ルチエラの四人だけである。
シエナの秘密を知るものも、数少ない。
将軍の眼には、シエナ皇子とレミア皇女として映っているのだ。
「レミアはリオドールで、ある程度の剣術は習得したようです。私よりも腕はいいかも知れませんよ」
そう言って、シエナはクスリと笑った。
正殿の宮でも自分の宮でも、後宮でも……。シエナには、あまり心許せる者はいない。
だがこの将軍に対しては、病床にある父王の代わりのように思って接して来た。いや、むしろそれ以上に思っていたのかも知れない。
戦場において先陣を切る時、眼の端で窺えば必ずこの将軍がすぐ傍に付き従っていた。何度危ないところを救われたか知れない。
だから今、この将軍に自分たちの身の上を偽っていることは、シエナにとって心苦しいことであった。
シエナが剣の腕を上げれば、この将軍は手放しで喜んでくれる。レミアに対してもそうであろう。
今こうやって秘密が暴かれるかも知れない危険を冒しても彼に教えを請うということは、将軍に対する贖罪の気持ちからでもあった。
「シエナ様」
小部屋の扉が開き、控えめな声が掛けられる。振り返れば、レミアが着替えを終え、そこに立っていた。
稽古のし易い胴衣と脚衣を身に着けたレミアの身体は、細いながらも均整が取れていた。胴衣の襟は詰まっていて、脚衣も布地に余裕を持たせている。身体の線を消す補正具を着けているため、男であるとは判らない。だが万一のことを考えて、髪は結い上げずにいた。
身の丈は既にシエナを追い越し、頭半分ほど高かった。女にしては長身のシエナだが、もうこれ以上伸びることはない。一方レミアは、アーベルにも届かんとする勢いである。この先もっと、その差は広がって行くのだろう。
何か勘付くことはなかったかと、シエナは将軍を窺った。だが彼は何も疑うことなく、眼を細めてレミアの稽古着姿を眺めている。その眼差しは、シエナに向けられるものと同じであるように感じられて、人知れずほっと胸を撫で下ろした。
「さて、では稽古するとしますかな」
腰に
佩いた剣の柄を軽く叩き、将軍は外へと続く扉に手をかけた。
修練場に剣をまじえる高く澄んだ音が響く。日差しのもと、髪も結わずに身体を捻り、回るレミアの動きは、若獅子のようにしなやかである。
将軍の突き出す剣に遅れることなくその切っ先を防ぎ、手首を返してその懐を突こうとする。身の丈が伸びた分、踏み込めば容易に相手の懐深く斬り込むこともできたし、後ろに跳べば、相手の剣先の届かぬところまで退くことができた。
離れて見ているシエナは、その作法にのっとった剣を美しい剣舞でも鑑賞するかのように眺めていた。これもまた、レミア――ラウナの皇子としての資質なのだと。
蜂蜜色の髪が風になびき、飛び散る汗までが金色に輝いているように見える。
――あの時も――
刺客と渡り合った時にも、このように舞っていたのだろう。暗がりでよくは判らなかったが、あの剣呑な
時間の中、不謹慎にもその身のこなしを美しいと思う自分がいた。
今目の前で剣を遣うレミアは、少しでも目を離せば日の神に愛でられて、光の中、儚く消えてしまいそうに思える。
いつ失うかも知れない美しいこの人を、一瞬でも長くこの眼で見ていたいと思った。
「そこ!」
将軍の剣が、短い声とともに繰り出された。鋭い切っ先がレミアの喉元に、ひた、と据えられる。一瞬の間があき、レミアの剣が鞘に収められた。
「参りました」
少々弾んだ息のもと、レミアは軽く頭を垂れた。将軍の剣が勝っていたのである。
二人は無言でシエナのもとに歩み寄った。
「ご苦労でした、将軍」
シエナは
労いの言葉を掛けると、冷たい水の入った茶器を将軍に差し出す。
「勿体無いことを」
口ではそう言ったものの、将軍はそれを両手で受け取って押し戴くようにすると、口元に運んだ。
「いや、おみそれしました」
将軍はレミアに向き直る。
「シエナ様と同じく、レミア殿の剣は素晴らしいですな」
そう言って、心の底から喜んでいるように破顔した。
「これならば、いつ刺客に襲われても渡り合えますぞ。ただし……」
将軍の顔から笑みが消える。姿勢を正すと、真っ直ぐにレミアを見据えた。
「作法にのっとるだけが剣の道ではありません。実戦では相手もその一瞬に命を懸けている。いかに相手を
陥れ、勝つか。綺麗事だけでは済まされないのですからな」
将軍が、ふと空を仰いだ。レミアもその視線の先を追う。空は晴れ渡り、薄い雲がたなびいているだけである。
ふと、昔、異母姉と共に祖国で見た空が思い出された。
「人が生きたいと願うならば、どんな事でもしなければなりません。それも剣の道と同じこと。辛い選択も、人の道に外れていると思える策も……生き残り、生き続けるためには、自分が良しとしない手段を選ばねばならない時もあります」
レミアは、空から将軍の顔に視線を戻した。彼はまだ顔を仰向け、その瞳で雲の行方を追っている。
「ですがそれは、国という大きな流れの中にあってはほんの些細なこと。いずれ正しい道であったと、誰もが認めるところとなりましょう」
仰向けた顔のまま、将軍は言った。ゆっくりと包み込むような言葉は、こちらの何もかもを見透かしているようでもあり、また、何も知らない風でもある。
ただ……。
将軍の言葉はレミアの心の中に優しく降り積もる。
――何もかもが許される日が来るのかも知れない――
レミアの心に、一筋の光が射したような気がした。