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玻璃の橋板


〜二十五〜


 エルガ将軍は陣に戻り、レミアがリオドール国王を討ったのだと報せた。実の父である王を討ったことで、皆のレミアを見る眼も一層信頼に裏打ちされたものとなった。
 証拠の首を片手に掲げれば、軍の士気も否応なしに高まる。陣は怒涛のような歓喜の声に満ち溢れた。
 リオドール国王が討ち取られ、残る王族は第一皇子ルバトのみとなった。この先の戦を絶つためにも、現王室を完膚(かんぷ)なきまでに叩き、二度とカーネリアに歯向かうことができないようにしなければならない。今、リオドール軍は兵を減らし、湖の向こう側に退避している。カーネリア軍から勝どきの声が聞かれるのも、もはや時間の問題と思われた。
 喧騒を背にして、レミアは岩屋に戻った。風除けの赤い別珍の布を片手で押し上げ、頭を低くしてその入り口をくぐる。中にいた人影が身じろぐのが感じられた。
「レミア」
 先に岩屋に戻っていたシエナが、その名を呼んだ。エルガ将軍に知られてしまったとは言え、まだ人目のあるところで本来の名を口にするわけにはいかない。
 隣に腰を下ろせば、シエナの優しい手がレミアの結い上げた髪を梳いた。
「辛いのでは?」
 寄越された問いに、レミアは軽く首を横に振った。
「もうわたしの中では終わったこと。父王への想いも、(まつりごと)の道具として使われ、受けた仕打ちも……良きも悪きも、全てを断ち切るためには、わたしがこの手で討つしかなかったのだから」
 気遣わしげに髪を梳くシエナの手を片手で掴み、レミアは自分の腕の中にその身体を招き入れた。
「あなたがいればいい……例え傍にいられなくても、あなたが無事で、カーネリアの国に君臨していてくれれば」
 身体に回した腕に、力を込める。
「わたしがもし、無事に落ち延びることができたなら、国政とは無縁の場所で、ずっとあなたを見護っている。あなたを脅かすものには、決してならない。政の道具として使われ、あなたの行く手を阻むようなことは、もうしないだろう。だから……あなたには戦のない世を作って欲しい。国と国とが互いに信頼し合って交わりを結び、民が安心して作物を作り、親子がお互いを思いやって生きていける、そんな世を」
 レミアの眼が、抱き留めたシエナの肩越しに遠くを見るように見透かされる。
「カーネリアの国をますます栄えさせ、力をつけて、近隣諸国を束ねていって欲しい。そしてあなたの産む子にも、それを伝えて……」
 そこでふと身体を離し、シエナの瞳を覗き込んだ。
「……わたしの子でないのが心残りだけれど」
 ふふ、と口元に笑みさえ浮かぶ。
 今は(いだ)きあう二人も、明日には別離の時を迎えるのだろう。だがもう繰言は言わない。父王との決別を終え、レミアは一層強くなったように見えた。
 シエナも唇に微かな笑みを刷いた。
「約束する。私はカーネリアを強い国にしてみせる。あなたが何処にいようとも、私の名を聞くことができるように」
 見交わす瞳は、言葉よりも饒舌にお互いの想いを語る。自分の腕の中に納めてしまうだけが愛ではない。繋いでいた手を離し、例え遠く離れてしまっても、お互いを想い合う気持ちがあればそれでいい。同じこの世に生まれ、巡り合った。惹かれあい、愛し合った。その想いがあるだけで自分は強く生きていけるのだと、その瞳は伝えていた。


 始まりは傷を舐めあうような気持ちだった。お互いがお互いの中にしか生きる場所を見出すことができず、寄りかかるようにして愛し合った。
 だがさまざまな試練を乗り越え、その気持ちは本物の愛へと変わった。相手の全てを自分のものにしてしまいたいと思った。
 そして今、そんな気持ちは幼子の愛だと知った。例えその手を離してしまっても、相手を想うだけで胸の一部が温かくなるのを感じることができる。
――死が二人を分かつまで。
 カーネリアの神に誓った言葉よりも強く。死してなお、お互いを愛することができると、今は思えた。


 湖はひっそりと静まり返っていた。昨日の戦などなかったように、水面(みなも)はそよ吹く風に撫でられ、さざなみが立つのみであった。
 湖の反対側からは、そこに注ぎ込む河を(さかのぼ)ることができる。どうやらリオドール軍は、昨夜の内に河筋を上へとのぼっていったようだ。
「この河も干上がっている」
 シエナは馬を進めながら、もとは大きな流れであったであろう河を眺めて呟いた。
「カーネリアではさほど雨が降らなかったようには思いませんでしたが、リオドールでは随分日照りが続いたようですな」
 エルガ将軍が隣から同じく河を眺めた。
 リオドール軍の行軍跡を辿るように、カーネリアは軍を進めていた。それは堤からもとは河底であったであろう場所へと降り、何度か水際に近寄っては離れていた。戦いで傷ついた者に飲ませる水を補給するために違いない。
 おそらく兵を休ませたのであろう。水際には軍がしばらく留まったような跡があり、そこには血を押さえた布切れなども落ちていた。
「リオドールの痛手は、こちらが思うより大きかったようですね」
 アーベルが血染めの布を一瞥する。
「こう頻繁に水際に寄っているところを見ると、高位の者が傷を負ったと見えます」
 傷から来る熱に浮かされて、何度も水が欲しいと言ったのだろう。それが聞き届けられ、軍の行く先を変えられるのは、身分の高い者に違いない。
「兄皇子……かも知れません」
 レミアが何の感情もこもらない声で、淡々と言った。
「王族に手傷を負わせたらしいという報告は受けておりませんが……あの国王のもとでなら、武具に細工をして身分を偽ることなど、何の恥も感じずにするかも知れませんな」
 将軍は国王が手傷を負って隠れていたことを思い出していた。
「どのみち、このような深手を負った高位の者を連れているのであれば、軍の進みは遅いはず。あと半時もすれば追いつくでしょう」
 アーベルが武具の襟元から長い黒髪をなびかせた。
 レミアはその何物にも染まらぬ漆黒の髪が風に遊ぶさまを、見るともなしに見ていた。
 この近衛の長は、シエナを何年も愛し続けている。自分がこの国に来なければ、いつかこの者の想いはシエナに通じたのだろう。
 この先――。
 この先、自分がいなくなったなら。
 アーベルがシエナの伴侶となるのかも知れない。
 隣ではシエナが馬を巧みに操っている。息を乱すことなく進むその横で、アーベルが近衛の長の務めを果たすべく、ぴったりと寄り添って護っている。
 レミアの心の中に、不思議と嫉妬の感情が湧いて来ることはなかった。それよりももっと深い気持ち。
 この者ならば、シエナを託せる。
 この者ならば、シエナと共に戦のない世を作ってくれる。
 カーネリアは、末代までも安泰であろう。
 既にシエナの傍から離れることを定められた自分。この先、自分が命を懸けて愛したシエナを託すとすれば……。
 アーベルこそがこの戦いを生き延びてシエナと添い遂げてくれること。心の底からそれを望む気持ちが強くなっていくのを感じながら、レミアは彼の漆黒の髪が風に遊ぶ様を眺めていた。


「……か?」
 不意に掛けられた言葉に、自分が深い物思いに沈んでいたことを知った。シエナが馬を寄せ、自分に話しかけている。
「あ……申し訳ありません。何と?」
 これが最後の妃言葉となろう。あと少しでリオドール軍に追いつく。その戦いに乗じて、自分は逃げ延びなければならない。
 レミアは唇に笑みを刷いて訊き返した。
「あの花のことを訊ねたのです」
 シエナはそう言って、先の堤の上で風に揺れる草花を視線で指した。ちょうど人の(くるぶし)までの背丈で、小さな赤い花を咲かせている。
「あれは水がなくてもあのように美しく咲くのですか?」
 先ほどから軍が止まる度に、馬がこの花の葉を好んで食べている。少ない水でも生きていくことができるほど強い花ならば、カーネリアに持ち帰って増やすことはできないだろうかと考えたのだ。
「カーネリアの色である赤い花をつけますし、国境付近から増やして行けば、行軍の際の馬の食糧調達が楽になりますね」
 アーベルが鈴のように丸くふっくらとした花を遠目に見て言った。
 レミアはその花を見やった。あれは水辺でのみ見られる花だ。シエナが言うような、乾きに強い花ではない。蕾のつく時期に水がなければ、その年の花は見ることができないのだ。草自体はどこにでも根付き、その根から新しく芽吹くことができるが、花をつけ、種を結ぶまでには至らない筈。
 干乾びた河の傍で、こんなにも美しく咲いているのは……。
 レミアは突如、胸の奥にずしんと鉛を打ち込まれたように感じた。
「あの堤の上に走るのですっ! 早くっ!」
 緊迫した声で言うが早いか、馬の腹に蹴りを入れる。シエナもアーベルも将軍も何かを察したのか、黙ってそれに続く。騎馬の者もこぞってそれに続き、歩兵も全力で走り出した。


 小高い丘の向こうから、地響きが轟いた。
 河は丘を取り囲むようにして蛇行している。その向こうから、何かがやってくるのを感じた。
 それは水だった。
 真っ黒に泥砂(でいさ)を抱いた水が、丘の半分を崩しながら押し寄せて来る。
 馬が恐怖にいななき、人々が悲鳴を上げる。
 馬が、人が、荷車が、怒濤のように荒れ狂う水に呑まれて行った。
 堤の上に駆け上がったレミアは、黒い水に押し流され、それでも助けを求めて差し延べられる人々の手が、やがて力尽きて沈んでいくのを見た。
 リオドール軍は河を()き止めたのだ。おそらくは何日か前、カーネリアが進軍してくる少し前に。退却を余儀なくされ、カーネリアが深追いして来た時は、堰を切って水攻めにする。一気に流れ出る水に、追い込まれたリオドールの味方をさせるという策だったのだろう。
「わたしが……もう少し早く気づいていれば……」
 レミアが喉の奥から搾り出すような声を上げた。
 その耳元を、ひゅん、と音を立てて何かが突き抜けて行く。続いて何本もの矢が、生き残ったカーネリア軍に降り注いだ。
 いつの間にか丘の上にいくつかの人影が現れ、弓を構えている。長い弓は敏捷性には欠けていたが、長い距離を射抜くには都合が良かった。
 ひゅんっ、と続けて音がする。
 少し先の、騎馬の兵が苦悶の声を上げて馬から墜ちた。
「シエナ様!」
 アーベルが、自身の身体の陰にシエナを庇う。
 カーネリア軍はそれでも果敢にリオドール軍に戦いを挑んで行った。短い弓の射程を得ようと、前に出る。アーベルも剣で矢を払いながら、前に進んで行った。
 レミアも矢をかわし、馬を進める。シエナも臆することなく進んだ。
「火矢を射かけよ!」
 シエナのよく通る声が、令を下す。射程を得た弓が火矢を弾いて敵陣に叩き込んだ。
 木製の盾が燃え、荷車に火が付いたのが遠目からもはっきりと分かった。
「臆するな! 我々はまだ戦える!」
 シエナの兵を鼓舞する声が、怒号の中でもひときわ澄んで響き渡る。
 勢いを得て、カーネリア軍はそのままリオドールとの距離を縮めた。
 回り込んだ先に切られたばかりの堰の残骸が有った。リオドールの兵もこちらに向かって来る。二つの軍は、再びぶつかり合った。
 人馬入り乱れ、剣や槍が刃を交わす間を、少し後方からリオドールの弓兵が矢を射掛けて来た。さすがは長い歴史を誇る弓部隊、味方に当たることは稀である。敵ながらその技は見事なものだった。


 戦いの最中(さなか)、胸騒ぎがしてレミアは丘の上に眼をやった。
『ひゅっ!』
 何故だかすぐ近くで弓弦の鳴る音を聞いたような気がした。
 ちょうどレミアの剣が相手の武具を刺し貫いたところだった。
 矢が真っ直ぐにこちらに向かって来る。剣を抜こうとしたが、武具に引っ掛かったらしい。固い振動が手に伝わって来ただけだった。
 アーベルが背を向けて戦っていた。矢がその距離を縮めた。
――願ったのは、シエナの未来。そしてそれを支える……。
 レミアはびくともせぬ剣から手を離した。手綱を操ってアーベルの前に躍り出た。


 矢に弾かれた兜が目の前を飛ばされて行く。
 アーベルが振り向いた瞬間、すぐ傍でレミアの胸がびくり、と反った。
 背後には、荒れ狂う水が黒々と流れていた。
 どちらの軍のものか、力尽きた者達がその間を浮き沈みしながら漂って行く。
 眉根を寄せたレミアの唇が、微かに開かれる。その端から一筋、紅い血が流れ出た。
『閨に渡ることを許して欲しい。いずれ戦となろう。そうすれば彼の命の保証はない』
 視界いっぱいに、結いの解けた蜂蜜色の髪が舞った。いっぱいに見開かれたはしばみ色の瞳が、確かに自分を見た。
 レミアの手が手綱から離れ、その身体は暴れる馬の鞍からずり落ちて行く。
 アーベルの胸の内に巣食っていたどす黒い感情が、鎖となって身体を縛る。動かさなければと思った腕が、鎖に絡め取られてびくともしない。
 手綱を放れ、力なく、宙を舞う手。
 躊躇いは一瞬。
 次の瞬間、弾かれたようにアーベルは腕を伸ばす。だが遅れた。僅かに触れたレミアの細い指先は、掴もうとするアーベルの掌から滑り落ちた。
「レミア様――っ!」
 目の前で、黒い濁流の中にゆっくりと堕ちていく身体。その背には、何本もの矢が深々と刺さっていた。堕ちながら――血に濡れたレミアの一層白い頬に、微かな笑みが浮かんだような気がした。


 シエナはちょうど敵の槍を自身の剣で叩き折ったところだった。
 振り向きざまに反対側の敵に一太刀くれると、すぐ近くで水音を聞いた。
 何故だかそちらに眼が向く。アーベルが顔色を失ったまま黒い水面に向かって何事かを叫び、腕を伸ばしていた。
 シエナは惰性で襲い来る敵を屠った。アーベルの言葉の意味を――その唇が叫び続ける人の名を――理解できなかった。
 目の前に刃が突き出される。腕が勝手に動いて、相手を薙いだ。その敵の身体もまた、黒い水に沈む。


――ふと見渡せば、いつも共に在った蜂蜜色の髪だけが、シエナの周りから消えていた。


 リオドールは最終的に五分の一の兵力となり、第一皇子ルバトも瀕死の重傷を負った。辛うじて命は取りとめたものの、もはや馬に乗って軍の指揮を執ることができない身となってしまった。子も成すことのできぬ身体となってしまった為、現王室の血はここで途絶えることとなる。
 カーネリアもこの戦いで四分の一の兵を失った。その内の半分は、リオドールが背水の陣で臨んだ水攻めによって流された者達である。
 リオドールとの戦の決着は、両国と国境を接するトルメイン国が間に入って調停という形でつけられた。以前はカーネリアとは敵対する時期もあったが、今はどちらにも傾倒せず完全に中立の立場を維持している国である。
 調停の内容は、その戦果からカーネリアに有利なものとなった。
 これ以上カーネリアと隣国カルドラルに干渉しないならば、リオドール国の存続は認める。第一皇子ルバトを即位させて王とし、その亡き後は先代の王、(すなわ)ちレミアに討たれた王の末弟を王位に据え、その血筋に玉座が移ることとする。リオドールが約定を守るならば、カーネリアも敢えて侵攻することはない。
 レミアが助けて欲しいと願っていた妾妃ドーラについては、今まで通りの暮らしが約束された。
 リオドール側からすれば、国が存続するだけでも良しとしなければならなかった。
 元は小国であったものが、先代の王の代に武力を頼みに力を伸ばして来た国である。先王は何事も自分ひとりの胸の内で定め、重臣の意見などには耳も貸さずに国を率いて来た。その王亡き今、果たして新王ルバトが同じだけの器量をもって国を治めて行けるかと問えば、(いな)と答える者の方が多いであろう。重臣も武官もこの戦で顔ぶれを変え、国政も今までと同じようには行くまい。
 カーネリアにとっても、リオドール国を存続させておいたところで今までのような脅威はないであろうという判断のもとの譲歩であった。
 またこれは調停外の話となるが、シエナは第一皇子ルバトと個別に会見の場を持った。その席で、カーネリアに寄越したレミア皇女が、実はラウナ皇子であることを知っていると告げた。戦を始める口実を得るため、亡くなった先王の手なる者によって、その命を狙われ続けたことも。
 それを肯定するように、怪我もまだ癒えぬルバトの顔がみるみる内に蒼白になり、ガタガタと震え出す。
 頃合を見て、シエナはそれすらも不問に処すと告げた。こちらも自身を皇子と偽っている身。後々のことを考えてのことであった。


 波間に消えたレミアの身体は見つからなかった。せめて亡骸であっても……とシエナが望み、何度も捜索の手が入ったが、河は素知らぬ顔で元の豊かな流れを湛えるばかりだった。
 調印を終えてリオドールを去る最後の日、シエナはレミアが矢を受けて沈んだ河岸に立っていた。馬の手綱を引き、水面を見やる。これがあの時と同じ河かと思う程、静かで豊かな流れだった。
 足元を見れば、赤い花が風に花弁を揺らしている。馬が首を下げ、その葉を()んでいた。
「アーベル……」
 シエナは、同じく馬の手綱を引いて傍らに立つ漆黒の瞳を見上げた。
「レミアは……最期にレミアは、笑ったのだな?」
 アーベルから聞いたレミアの最期は、彼らしく潔いものだった。背に何本も矢を受け、波間に沈んだレミア。あの傷であの流れの中に放り出されれば、まず生きてはいまい。
 アーベルは、自分が彼に庇われたことも、そして手を伸ばすのが遅れた自分を許すように笑ったことも、全て包み隠さずシエナに告げた。
「わたしがレミア様に庇って頂くなど……」
 眉根を寄せたアーベルが、苦しそうに言った。
 そんなことをするなどとは、考えてもみなかった。レミアは自らの命を楯にしてアーベルを護り、何を託そうとしていたのか。この先もシエナを変わらず護れと、そう言いたかったのか。
「レミアが決めてそうしたことだ。その結果おまえが今ここに居るならば、私はそれでいいと思っている」
 本当は泣き崩れてしまいたい筈なのに涙が出ない。レミアを失って心の中には大きな嵐が荒れ狂っている筈なのに、うっすらと微笑みすら浮かべることのできる自分がいる。
 哀しみが大きすぎて、心がついていかないのだ。
 何をどう感じたら良いのか、シエナには思い出せなかった。
 再び足元の花に眼をやる。赤い花弁が震え、葉の緑も瑞々しい。
「この花とレミアに我々カーネリア軍は救われたのだ。美しい花……だな」
――美しい。
 そう、これは、美しいと感じるものだ。
 美しい花。美しい大地。美しい空。
 そこには、美しいレミアだけがいなかった。
 何度も捜索し、それでもレミアは見つからなかった。怒涛のような流れに引き千切られた白い手や足だけが漂っているのが見つかりもしたが、それをレミアのものと断ずることはできなかった。誰のものとも知れぬその身体の一部は、他の大勢の兵士の亡骸と共に荼毘に付された。
 シエナはあまりにも自分がレミアの身体を知らないことを呪った。愛しい人の亡骸であれば、どんな小さな欠片になってしまっても見つけ出したいのに。
 生きているとは、思えなかった。けれど、完全な亡骸でなければ認めたくない。そんな想いも、仕方のないことであろう。美しかったレミアは、その冷たく血の気を失った美しい(かんばせ)のまま、この豊かな流れのどこかの底で永い眠りについたのに違いない。
「行くぞ」
 鞍に手をかけ、シエナは馬上の人となった。アーベルもそれに従う。
 花は揺れ、河は流れる。
 風は渡り、雲は揺蕩(たゆた)う。
 いつかはこんな日が来ると、覚悟していた。レミアと別れ、それでも自分は前を向いて生きて行かねばならない。
――愛している――
 声に出すことなく心の中でそっと呟いた。
 蜂蜜色の髪に彩られた美貌が、流れる雲の上に浮かんで――そして消えた。