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玻璃の橋板


〜二十六〜


「今までの務め、ご苦労であった」
 シエナは後宮にいた。帰還したその足で、戦装束を解く暇すら惜しんで後宮に渡ったのだ。今は亡きレミアの自室を(おとな)うと、レミア付きの女官アイラに向き合った。
 労をねぎらう言葉が、部屋の中に虚しく響いた。
「本当に……レミア様……は……、亡くなってしま……しまわれたのですね」
 嗚咽を堪え、それでも肩を震わせて大きく息を乱しながらアイラは言った。
 シエナは応えの代わりにその肩に触れる。そのまましばらく、膝の上で固く握られた、女官の白く震える拳を見下ろしていた。
「最後の言葉は……まるで今生……の別れのようで……でもレミア様は『戦とはそういうものだ』と……」
 思い出したのか、アイラの眼から新たな涙が零れ落ちた。
「そうやって泣けるのなら、我慢せずに泣きなさい。哀しみを胸の内に閉じ込めておいたなら、人はいつかその重みに動けなくなってしまう」
 泣くことで少しは哀しみも流れて行くものだからと諭しながら、シエナは泣けない自分を思った。
 いつまでも、ひとつ(ところ)に留まっているわけにはいかない。国を背負ってゆく自分には、これからしなければならないことが山程残っている。
――それに――
 約束をしたのだ。
 強い国を造ると。
 近隣諸国から争いが無くなるよう、カーネリアをもっと強い国にするのだと。
 そしてそれを子に伝え、末代までも揺ぎ無い国にして欲しいと、レミアは言った。
 現カーネリア国王の病状は思わしくない。妾妃キシナの秘密も露見し、ルベル皇子の出自についても明らかになった。
 長年のリオドールとの問題も、あの戦で片が付いた。
 今からは……。
 自分の秘密を明らかにし、皇女として立太子の儀に臨まねばならない。
 泣いている暇など、無かった。


 シエナがカーネリアに還って七日の後。
 リオドールからの正式な捜索終了の通知をもって、レミアは公に亡くなったものと触れが出された。
 その美しさにあやかろうとして首に飾り布を巻くなど、レミアに良い思いを抱いていたカーネリア国民の落胆ぶりはひとしおだった。
 街は沈み、喪に服す。それでもしばらく経てば、たくましい人々の暮らしには、何も無かったかのように元の喧騒が戻っていた。
 レミア付きの女官であったアイラは、主を失った今、その任を解かれ国に還された。無事に親兄弟とも会うことができたのだろうかと、シエナはこれもまた運命に翻弄された女官を思った。
 後宮のレミアの部屋も片付けられた。レミアの身の回りの品や衣装、壁飾りなど全てが運び出された後に訪れてみれば、そこにはまるで最初から誰も居なかったかのように、凝った造りのカーネリアの調度品が置かれているだけだった。
 リオドールとの戦から二月(ふたつき)。カーネリアは表面上、もとの平穏な姿を取り戻したかのように見えた。
 物事には、潮時というものがある。一時(いちどき)にたくさんの変化があれば、民の心もそぞろになろうというもの。ルベル皇子やシエナの身の処し方については、頃合を見て慎重に事を運ぶこととした。


 会議の()は、開け放った窓から甘く濃い花々の香りが風に乗って流れ込み、眩暈がしそうなほどであった。シエナの隣には宰相が、そしてその隣にはエルガ将軍が座っている。
 いつものように始まった重臣会議。さまざまな案件の最後に、宰相が直々に二つの報せがあることを告げた。
「本日お集まりの皆は、誰もがこのカーネリアの主だった臣下である。その方々に、わたしから謝らねばならないことがある」
 誰もが宰相の真摯な言葉に居ずまいを正す。珍しく逡巡した宰相は、それでもしばらくの(のち)に重い口を開いた。
「まず第一は、第二皇子ルベル様について」
 部屋の中の視線が宰相に集まる。手元の文書に書き込みをしていた重臣も、その貴人の名を聞いて文書から顔を上げた。
「出自に曇りありとの報を受け、今まで内密に調べをしていた。それが先ごろ明らかになったので皆にご報告したい」
 言葉を切り、長机の上で組まれた指先に視線を落とす。唇を引き結んで肩で小さく息をつくと、居並ぶ重臣を力強い瞳で端から順に見渡した。
「第二皇子ルベル様は、王室の血筋ではないことが判明。よって皇子の位を廃することとする」
 途端に部屋の中が蜂の巣をつついたような騒ぎとなる。重臣達は寝耳に水の事柄に、隣り合った同士で何事かを囁き合う者、また宰相に向かって真意を問いただそうとする者もあった。
「もうひとつの報せは!」
 ひときわ大きな声で、宰相が皆を見渡した。その毅然とした姿勢に、騒ぎも少しばかり小さくなった。
「……第一皇子シエナ様について」
 次は何事かと、また騒ぎが大きくなりかける。間髪を入れず、宰相は次の言葉を続けた。
「第一皇子としての位を廃し、改めて第一皇女としての披露目をする」
 部屋の中が一瞬、水を打ったようにしんと静まり返る。次の瞬間、それは元の何倍もの騒ぎとなって膨らんだ。
 今度ばかりは宰相が何を言おうとも、重臣達の騒ぎを納めることはできなかった。皆一様に驚きの表情を隠せず、宰相の隣に座るシエナにその瞳を向けていた。
 エルガ将軍でさえ、シエナを見つめたまま言葉を失っている。手にした羽筆が指の間から零れて机の上を転がるのにさえ、気付かぬ様子であった。
――それは何の前触れも無かった。
 音も無く、空気が動く。
 重臣達の視線は導かれ、皆が同じように上を向いた。
 その視線の先には、シエナが全ての眼差しを一身に受け、立ち上がっていた。何物にも動じない黒曜石の瞳で皆を見下ろし、ただそこに立っている。
 その凜とした立ち姿に、彼女を見つめたまま騒いでいた重臣達も徐々に静かになった。
「皆の者、よく聞け」
 高い、皇女の声色でシエナは言った。今まで皇子であることを疑いもしなかったシエナの本来の澄んだ声に、部屋の中で動く物は無くなった。皆驚き、しかしその一切を胸の内に呑み込んで、シエナの言葉に耳を傾ける。
「私は兄皇子と共に双子としてこの世に生を受けた。そしてルベルが生まれた日の朝、共に病の床に伏せっていた兄皇子が亡くなったのだ」
 シエナの言葉に、当時を知っている年嵩(としかさ)の重臣が大きく頷いた。
「ルベルの出自には生まれ落ちた当初から疑われるものがあった。そこで宰相は」
 静かな瞳で隣に座る宰相に眼をやる。が、それも一瞬のこと。彼が見返すよりも早く、シエナは皆に視線を戻した。
「私を亡くなった兄皇子と偽り、しばらくの間、ルベルに王位継承権が渡るのを抑えようと試みた。皆も知っての通り、第一皇子亡き後は第二皇子にその権利が移る。血筋に疑いのあるまま、王位継承権の第一位にルベルを据えることはならなかったのだ。究明に思いのほか時が掛かって『立太子の儀』を迎えてしまえば、王位継承を覆せなくなってしまう。ならば確実に王室の血をひく私を王位継承権の第一位に据えようと、宰相は考えたのだ」
 確認するように、シエナはぐるりと重臣の顔を見渡した。王位継承についての決まり事は、古来より続いてきたことである。重臣も心得ているのか、しきりに頷く者も在った。
「だが表立ってルベルを排斥するわけにもいかなかった。万が一、正式な国王の御子であった時に飛ぶ首の数は、百や二百では済まなかったであろう。そうやって私に王位継承権を移したその裏で、彼の出自についても長らく調べをして来たのだが、先ごろそれを明らかにする(あかし)が見つかった。妾妃キシナ様の書付けである」
 懐に携えていた書付けを、皆の前で高く掲げた。
「ここに、この後宮に上がる前にルベルを身ごもっていたことが記されている。検分の結果、キシナ様の筆跡であることは確認済みである。これを()って、正式に彼を廃することとなった」
 シエナは顎を上げ、胸を反らす。皇女と知れた今でも、侮られることのないように。この身こそが、今この王室を継ぐことのできる唯一のものなのだから。
「王室の血筋は護らねばならない」
 少しばかり低い声で。その中には、そのために自分自身も様々な(かせ)を強いられてきたのだという苦さも含まれていた。
「死してなお、神となってこの国を護る血筋を、何人(なんぴと)たりとも穢してはならない」
 高らかに言うが早いか、腰の宝剣をするりと抜いた。髪を結ってある飾り紐に指をかけ、切っ先を僅かな隙間に滑り込ませる。宝剣の冷たく輝く刃に触れた飾り紐は、まるで指に溶ける淡雪のように断ち切られた。
 重臣の間から、悲鳴にも似た小さな声が上がる。
 結い上げられていたシエナの漆黒の髪が、縛めを解かれてばさりと音をたて、背に落ちた。癖のない真っ直ぐなそれは、遠い北国に棲む美しい魔性のもののようにシエナの白い頬を縁取った。
 一陣の風がシエナの黒髪を一房すくい上げた。シエナは剣を持ったまま顎を引き、強い瞳で皆を見渡す。
 リオドールとの戦から還って来てよりこちら、シエナはあまり眠ることもなく、食も細くなってしまっている。それは却ってシエナの面差しに深い陰影を与え、凄烈なまでの美しさを備わせることとなった。
 そんなシエナの行ないの一部始終を見た重臣達は、己の心の奥底までが冷え切っていくような、それでいて、見続けていれば虜にさせられてしまいそうな、そんな感覚を覚えてとまどった。
 剣を鞘に納め、シエナは音もなく座った。机に肘をつき、眼の前でその白く細い指先を組む。
 見渡す視線は力強いまま。だがその背に流れる黒髪だけが、シエナの本来の姿を皆に知らしめていた。
「今まで国の最たる重臣の方々を(たばか)っていたこと、心よりお詫び申し上げる。これもこの国の安寧のためと、ご理解いただきたい」
 座ったままではあったが、宰相は(こうべ)を垂れた。臣下の長である宰相の行ないに、重臣達は色めきたちながらも誰も責める言葉を口にする者はいなかった。
 会議の間には、相変わらず甘い花々の香りが漂っている。それはまるで本来の姿に戻ることのできたシエナを喜ぶように、その髪にしばし絡んで流れて行った。


 シエナの皇女としての披露目は、次の日に行われた。異例のことであるので、近隣諸国からの客は招かず、内輪での披露目となった。続いて立太子の儀が行われ、シエナはカーネリアの神の前で正式に次の女王となることを決定づけられた。
 ルベルに関しては、皇子の位を廃されたという報せだけで、特別な儀式などは執り行わなかった。シエナの立太子の儀に参列したものの、既に王族ではないということから、貴族としての待遇となった。
 その報せはカーネリア国内だけでなく、近隣諸国全てに届いたが、どの国も一様に驚いた様子で、取り急ぎ、立太子の儀を迎えたことへの祝いの使者を送って寄越した。
 シエナは皇女の衣装を身に纏い、艶やかな漆黒の髪も長く背に流してそれを迎えた。いつもの凜とした皇子姿しか知らない使者達はとまどい、しかしその魔性のような美しさに目を奪われた。
 そんな中、リオドールも使者を立てて寄越した。だがその使者には、亡くなった先王の妾妃、ドーラが同行していたのである。それなりのもてなしをしようとするカーネリアに、妾妃は私的な用向きで来たのだからと、それを断った。
 リオドールの使者との謁見は、『正殿の宮』の大広間にて行われた。偽りに偽りを重ねていたとはいえ、かつては婚姻関係によって結ばれていた両国。いくら先に戦いがあったのだとしても、その辺りの礼を欠くカーネリアではなかった。
 使者は、シエナが皇女であったことについては何も責めることはなかった。
 その皇女のもとに輿入れさせたレミア皇女が実はラウナ皇子であったこと。そしてそれをシエナ自身が知っていること。またそのラウナは既に亡く、先の戦で大敗を喫したこともあって、リオドールはカーネリアに対して強い物言いをできる立場には無かった。ただ立太子の儀についての祝いを述べ、携えて来た品を献上したのみにとどまった。
 妾妃との会見は、使者とは別の機会を設けることとした。ラウナがあれだけ慕っていた方である。その心根は母のように温かいのであろう。よもやシエナに仇なすものではあるまい。
 『清蓮の宮』は賓客を迎えるためのものだ。謁見を終えたリオドールの使者は、その中の一室をあてがわれ、眠りについた。
――その夜。
 暗闇の中、蝋燭の灯りがちらちらと揺れ、シエナの自室を(おとな)う。間もなくそれはもと来た道を辿り、『清蓮の宮』へと消えた。


「よくおいで下さいました」
 部屋の主は、柔らかな肘掛け椅子から立ち上がってシエナを迎えた。軽く頭を下げると再び椅子に腰掛け、すっと背筋を伸ばす。その居ずまいからは、高貴な暮らしが窺えた。
 シエナもまた、軽く頭を下げる。伴ってきた女官ルチエラが燭台に火を入れて次の間に辞すのを見届け、自分も向かいの椅子に座した。
 リオドールの妾妃は、付き従って来た女官を全て下がらせていた。この部屋にいるのは、妾妃とシエナの二人だけである。
 燭台の灯が、ジジ……と音を立て、炎が妖しく揺らめいた。
「夜分遅くにお呼び立てして申し訳ありません。別な機会を設けて下さると伺いましたが、あまり公にできることではありませんので、こうしてこのような夜中にお越し願った次第です。実は私的な用向きと言いますのは、ラウナ皇子のことについてなのです」
 柔らかく微笑みながらもどことなく哀しい色を湛えた妾妃ドーラの瞳は、ラウナとは異なる濃灰色だった。だがその面差しは、どことなく彼に通ずるものがある。背に流れる髪はラウナよりもやや薄い蜂蜜色であった。それが蝋燭の灯りに妖しく輝くさまを見れば、シエナは胸の奥に突かれたような痛みを感じた。
「ドーラ様は、ラウナによく似ていらっしゃる」
 だがその痛みも哀しみも全て己の胸の内に呑み込んで、シエナは笑んで見せた。
「私の妹アルマがラウナの母なのです。共に妾妃という立場でしたけれど」
 妾妃の声は柔らかく、けれどもどことなく愁いを含んで聞こえる。
「シエナ様はラウナが河に流された後、あの子の為に捜索の手を尽くして下さった。それはあの子を……シエナ様が皇女であると分かった今だからこそ言えることですが、ラウナを愛して下さったからなのではないかと思ったのです」
 遠慮がちに、それでも何かを問いかけるような眼差しを向けられる。シエナは唇に笑みを刻んだまま黙って俯いた。
「おそらくラウナもシエナ様を愛したのでしょう。それならばどうしてもお伝えしなければならない事がございまして、私はこうしてカーネリアに参ったのです」
「私に伝えなければならない事……?」
 シエナは俯けていた顔を上げた。
「それはラウナ自身でさえ知らなかったこと。何故あの茶番のような婚姻を結ぶことになったのか……(さかのぼ)れば、何故それ程までに、あの子が先王から疎まれていたのかを」
 言いながら、妾妃は辛そうに睫毛を伏せた。その様子はまるでこのカーネリアに偽りの輿入れをして来た頃の、艶やかに微笑んではいてもその奥に哀しみを秘めたラウナがそこに居るように思え、シエナの喉元に熱い塊が上って来る。
 妾妃はしばし逡巡し、それでもやがて心を決めたように正面からシエナに視線を寄越した。
「ラウナ皇子は……先王の御子ではないのです」
 告げられた言葉はシエナを驚かすのに余りあった。ラウナが王の子ではない。それはまるで、先ごろ皇子の位を廃されたばかりのルベルのようではないか。
「では、ラウナは王族ではないのだと……?」
 あの物腰、言葉遣い、心根……。何をとっても王族らしくないところは一つも無かったのに。第二皇子としてそのように育てられたのだと言われれば、そうであるかと納得もする。だが、あのように非道なことも平気でする先王のもとに居たのにもかかわらず、ラウナの心根は真っ直ぐだった。あれは高貴な血のなせる業ではなかったのか。
「いいえ。先王の御子ではありませんでしたが、ラウナはその異母弟君(おとうとぎみ)の御子なのです」
 妾妃はシエナを見つめたまま、ゆるゆると首を横に振った。
「それはいったい……」
 何故異母弟君の御子が、第二皇子として現王室に名を連ねていたのか。シエナは、ラウナ自身でさえ知らなかった彼の事実を知らされることの重さに、胸が苦しくなった。知らず、片手を上げて詰まる胸を押さえる。そこには今まで公にすることを許されなかった女性らしい膨らみがあった。
「私と妹アルマとは共に妾妃という立場でしたけれど、姉妹で寵を争ったわけではないのです。先王は、妹を深く愛しておられたのですが、妹は……」
 非情で押しの強い先王のもと、リオドールも国力を大きく伸ばしつつあった。ならばその国を受け継ぐ世継ぎをと、良家から正妃を迎え、第一皇子ルバトが生まれた。そんな折、先王はラウナの母、アルマを見初めたのだ。情の薄い先王の、ただ一度の熱情だった。
 アルマには既に貴族の恋人がいたらしいのだが、激しい気性の先王は、半ば奪い取るようにしてアルマを後宮に迎えた。だが、なかなか心を開かないアルマに業を煮やした先王は、事もあろうによく似ていると言われていた姉をも後宮入りさせたのだ。これが輿入れ前に亡くなったレミア皇女の母、現在の妾妃である。
 強引な先王のやり方に募る恨みもあったが、既に後宮に入れられてしまった身ではどうすることもできない。せめて心までは渡すまいと、二人の妾妃はお互いを護るように身を寄せ合った。
 リオドールの後宮は、カーネリアのものほど厳しい警護のもとにない。登城を許された貴人であれば、少しばかりの苦労の後に出入りすることもできる。
 それはペリエル国との戦の為、先王が城を空けた折のことであった。病を得て戦に参加していなかった先王の異母弟が、後宮のアルマのところに忍んできたのだ。実はこの異母弟こそ、アルマの引き裂かれた恋人であった。病というのは戦を抜け出す口実で、事が露見すれば命を差し出す覚悟で逢いに来たのである。
 それからしばらくしてリオドール軍は戦いに勝利した。先王が帰還してからは、アルマも少しは心を開いたように見えた。そんな中、姉のドーラに続いて妹アルマの懐妊が判明する。
 月満ちずして、アルマは子を生んだ。早産であったにもかかわらず、しっかりした良い子だと皆が喜んだのもつかの間、アルマは何故か自害して果てた。
 産後の心が不安定な時期に悪い風が入り込んだのだろうと、先王は哀しみながらも納得した。だがそうではなかったのだ。
 アルマは姉にだけは真実を話していた。ラウナ皇子が先王の子ではなく、恋人の子であることを。先王が三月(みつき)に及んだ戦いから凱旋し、初めて閨に呼ばれた時には、既に懐妊の兆候があったことを。
 そうしてアルマは哀しい唄を歌った。恋人と引き裂かれ、他の男に嫁ぐ歌――それは自分の身になぞらえてアルマが好んだ唄だった。
 自害したのは、心が弱かったからなのかも知れない。恋人の子を王の子と偽って護っていけるだけの覚悟が、どうしてもつかなかったのに違いない。いつか事が露見するのではないかという恐れが、アルマにその身を投じさせた。物見台の上、鳥となってアルマは堕ちた。
 妾妃ドーラは、遺されたラウナを自分の子のように慈しんだ。先王も激しく冷たい気性ながらも、幼いラウナには笑顔を見せることもあった。
 だがそれも長くは続かなかった。どこからどう洩れたものか、異母弟とラウナの母アルマとのことが先王の耳に入ったのである。それからしばらくして、異母弟は狩りの最中に獅子に襲われ、命を落とした。先王がラウナを手元に招くこともなくなった。
「異母弟君の死は、先王の手によるものだという噂もあります」
 それぐらいの事はやりかねない程に、リオドールの先王の気性は激しかった。
「私は先王を恐れていました。レミアを生む前もその後も、私は妹の身代わりでしかなかった。おそらく先王は先王なりに、妹を愛したのでしょう。でも本当の意味で、その想いが実ることはなかった。そしてそれは……ラウナを(うと)むことに繋がったのです」
 その事実は公にはされなかった。ラウナも変わらず第二皇子として城に暮らすことを許されていた。だがそれは、新たな企てのための布石に過ぎなかったのだ。何かの折、リオドール王室に属するラウナを捨て駒に使うことによって、他国を圧することができるのではないかと考えたのである。それはラウナにとって、王室を追われるよりももっと辛い茨の道となった。
 リオドールとしては、長らくその国勢を誇ってきたカーネリアと繋がるのか、それとも()の国を潰すのか、意見の分かれるところであった。潰してしまえば将来の愁いもない。だが強い国力を持つカーネリアのこと。一筋縄ではいかないだろう。
 逆に繋がれば、彼の国の中にリオドールの血が食い込むこととなる。そしてそのためには、カーネリア国第一皇子シエナのもとに、こちらのレミア皇女を差し出すことになろう。
 そして先王は、後者を選んだ。だがその手駒とする筈のレミア皇女は、この報せを聞いた翌日、ラウナ皇子の乗馬用の衣装を身に纏い、冷たくなって見つけられることとなる。
「こちらからカーネリアに強引に婚儀を迫ったリオドールとしては、その矢先にレミア皇女が亡くなったとはどうしても言い出せなかった……。そこで先王はラウナを身代わりに立てて婚姻関係を結び、またその裏でラウナを亡き者にして、それによって戦を始める口実を作ることを思いついた……まさにラウナは、先王があの子を王室に留めておいた当初の目論見(もくろみ)通り、捨て駒にされたのです」
 淡々と語り終えると、妾妃は窺うようにシエナを見た。シエナは曖昧な面持ちでゆっくりと頷く。
 ラウナを人としてでなくただの捨て駒として使ったのだという耐え難い事実については既に気付いていた。だがリオドールの人間に眼の前でそうなのだと断ぜられて、シエナの胸の内は穏やかではなかった。先王がラウナ自身の手にかかったことも、世の(ことわり)なのではと思えてくる。
「リオドールの為には黙っていた方が良かったのでしょう。でも私はどうしてもシエナ様に伝えなければならないと思った。ラウナを愛して下さったあなたに、あの子の背負っていた事実を知って頂かなければならないと思ったのです」
 それが自身の命を懸けて救ってくれようとしたラウナにしてやれる唯一のことなのだと、妾妃は苦く微笑んだ。


 リオドールの使者が国に帰ってより十日の後。カーネリア国王崩御の報せが近隣諸国にもたらされた。
 病のため長きに渡って伏せっていたのだが、最期は眠るように息を引き取った。
 第二皇子ルベルがその位を廃されたことも、またシエナが皇女として披露目をしたことも、ずっと意識もなく眠り続けていた国王の耳に入ることはなかった。羽筆で長く線を引けば、徐々に(かす)れて消えて行くように、国王の命の灯も次第に小さくなって、そして消えた。
 王が死した後、国を護る神となるという信仰のもと、『昇神(しょうしん)の儀』が行なわれた。そしてその三日後にはシエナを女王とする『戴冠(たいかん)の儀』が行なわれた。
 ここにカーネリアの全てが、シエナの薄い肩に掛かることとなった。シエナ女王、十八歳のことである。


「彼は、もう待っていますか」
 宰相に伴われて急ぐシエナは、前を向いたまま訊ねた。女王としての披露目も済んだというのに、いまだ大方の時を男物の衣装を身に着けて過している。だがその髪は結い上げず、背に流したままであった。
「既に謁見の間にてお待ち……」
 そう言いかけ、宰相は苦く笑う。
「先刻より謁見の間に待たせております」
 それを聞き(とが)めることもなく、シエナも苦く笑んだ。
 謁見の間に着くと、既にその人は中で待っていた。片膝をつき、垂れた頭を柔らかそうな薄い金の巻き毛が彩っている。
「よい。頭を上げよ」
 柔らかな背もたれのついた椅子に座り、シエナが言うと、その人はゆっくりと顔を上げた。
 シエナは、長く言葉を交わすことのなかった異母弟皇子――今は一介の貴族の身分に落とされてしまったルベルを正面から静かに見据えた。
 ルベルもシエナを真っ直ぐに見つめる。ただ、静かな時が、そこにはあった。
「……おかしなものだね。異母弟(おとうと)であった時には、目通りも叶わなかったのに、今はこうやって逢うことができる。……知っているか? 幼少の頃、私はあなたが病の床に伏せっていると聞いて、あなたを見舞おうとした事がある。残念ながらあなた付きの女官に止められてしまったけれど」
 昔を懐かしむようにシエナが笑んだ。柔らかく、血の繋がった肉親に見せるような笑みである。
「もったいないこと……」
 シエナの笑みに身を固くするように、ルベルは応えた。
 ふとシエナの顔に影がよぎる。
「あなたとは、これまでちゃんと話をしたことがなかったね。あなた自身が私に対してどう思っていたのか、訊いてみたいと思っていた。あなたの母上を後宮に入れるにあたって尽力した、宰相の弟イリルがその職を辞したことは知っているね?」
 シエナの問いに、ルベルは頷いた。
「わたしのことで、責任をとってお辞めになったと聞きました。国を去るおつもりなのだとも。イリル様は、わたしには優しかったのです。後ろだてとなってくれた上、何くれと気遣ってくれて……。母も亡く、国王の血筋でもないと知れた今、わたしは彼より他、頼る方がおりません。イリル様が国を去るとおっしゃるならば、共に行きたいと思います」
 ルベルは真摯な眼差しをシエナに寄越した。開け放した窓から流れ込む風が、遠くを飛ぶ鳥の羽ばたきさえ伝えそうなほど静かな昼下がりである。
「そのことだが」
 シエナはルベルから視線を外し、小さく息をついた。椅子の肘掛に肘を置き、指を口元に当てる。白粉を塗って色を潰すことのなくなったシエナの唇は、レミアを思わせるような赤い色をしていた。
 再びルベルに視線を戻す。眼の前の金色の巻き毛に、シエナは失ってしまった愛する人を想った。
 ラウナがリオドール国王の子でなく、その異母弟の子であったこと。そしてその為に国王にないがしろにされ、ただ戦の口実を作るためだけに、死ぬことを前提にカーネリア国に送られたこと。
 それを思うと、ごく僅かな限られた者しか知らなかったとは言え、ルベルも今まで出自に疑惑があったため、辛い思いもしたのではないかと思ったのだ。
 シエナは訊いた。
「私の臣下となることが嫌か?」
 ルベルがシエナを見返したまま、驚いた顔で息を呑む。
「あなたの母上の生家も人手に渡り、既に無い。継ぐべき財産も名誉も無くなってしまった。ならばいっそのこと、あなた自身が新たに私の重臣として仕えてはくれないだろうか」
 ルベルとて、生まれてよりこちら、王位継承権第二位の皇子として、国の重要な知識、歴史、軍学などを学んで来た。武術の腕も相当に磨かれている。彼の矜持(きょうじ)さえ許せば、これほど重臣として取り立てるのに良い人物は、そうは居ないであろう。
 それに……。
 シエナはルベルともっと一緒に居たいと思った。異母弟として共に城内で暮らした頃は、言葉を交わすことすら許されなかった。それでもずっと肉親の情を感じていたのだ。今、出自が判って血の繋がりが無かったと知らされても、長きに渡って培って来た想いを打ち消すことは、到底できない。
「城門のすぐ脇に、空いた土地がある。そこに屋敷を建て、このカーネリア国に留まって欲しい。突然私から『弟』を取り上げないでくれ」
 重臣として、自分を支えて欲しい。そうやって今までの溝を埋めたいのだと、シエナは静かに微笑んだ。
 ルベルが眼を伏せる。
「……皇子であった頃にも、わたしには王位への夢など、もとよりありませんでした。異母姉上(あねうえ)……いえ、シエナ様のお人柄を漏れ聞く度、次代の王となったあなた様を陰ながら支えることができたなら、と思っておりました」
 ふと、顔を上げる。
「お側にお仕えできることを、嬉しく思います」
 自分の居場所を得て、ルベルは初めてシエナに向かって微笑んだ。