〜十二〜
髪が舞い上がり、そして落ちた。
シエナが、ガクリと膝をつく。傍らの地面に、飾り紐が落ちた。
細い色糸をきっちり編みこんだそれは、今しがたまでシエナの髪を頭上高く結い上げていたものだ。縛めを解かれ、漆黒の髪が一斉に背に流れる。その背には、男の短剣による裂け目ができていた。
「シエナ様!」
レミアが駆け寄ろうとする。男はそれを見て取ると、今度はレミアに向かって短剣を突き出した。
「……!」
手にした剣でレミアはそれを打ち払った。だが男の剣さばきは癖があり、予測がつかない。作法と流儀に
則った御前試合のようなわけにはいかなかった。加えて女物の夜着の裾が、足に絡み付いて思うように動けない。
僅かに避け損ねた刃が、レミアの袖を掠めた。
ここカーネリアに輿入れしてよりこちら、剣の修練などしたことがない。皇女であると偽っている以上、表立ってそれをできる道理がなかった。皇子であった頃にはいつも腰に携えていた長剣も、今は我が手を離れ、遠くリオドールに置いて来た。
それでも時折誰も見ていない自室で、護り刀を手に型をなぞってはみるものの、生身の相手と刃を打ち合わせることはなかった。女官アイラではレミアの相手にはならない。修練不足は、一瞬の遅れとなって剣筋に現れる。
相手の繰り出す刃に動かされるようにしてそれを凌ぎ、突き出された剣先をかわして回り、薙ぎ、払い、突き返し……。
リオドール国においては、王族が戦場に赴くのは
齢十六になってからと決まっている。半年前の輿入れの際にまだ十五であったレミアは、まだ実戦を経たことはなかった。
だが彼も軍部の将軍を師に、厳しい修練を積んだ皇子である。何度も刃を交わしている内に、レミアの剣は勘を取り戻した。次第に瞳にも凜とした光が宿り、雑念が遠のくのと引き換えに、何も考えなくとも体が動くようになる。緊迫した刃が光れば、自ずと体が応えを返した。
打ち払った剣先が回りこんで次の突きを繰り出す前に、レミアの剣がその行く手を阻んだ。
夜着が絡み付いて動けなかった足も、その上質な薄い布地の動きさえ読んだかのように、滑らかな動線を描く。そして……。
弾かれた短剣は、月灯りに舞って地面に落ちた。レミアがすかさず足で払う。滑るように闇に消えたそれは、二度と男の手に戻ることはなかった。
「リオドールの者ならば、何故わたしを狙う」
少々乱れた息の下、片手に持った美しい象嵌の剣を、男の喉元に、ひた、と当てる。もう一方の手には護り刀を逆手に持ち、相手の心の臓にあてがいながら、男の間近でレミアは問うた。
「……ラウナの『
皇女』さん」
何の特徴もない男の声が、
揶揄するようにレミアを呼ぶ。
「くっくっ……」
男の喉から、厭らしい嗤い声が漏れた。
「国王はあんたをお見限りだ。今夜の俺の獲物は、あんただったのさ」
再び雲が月を隠した、その闇の中。
断末魔の叫びが、漆黒の夜を引き裂いた。
覚悟していた筈なのに。
そんなことは、百も承知だった筈なのに。
刺客の口からあからさまに放たれた言葉は、レミアの心を砕くのに余りあった。
一切を断ち切るように目を瞑り、ほんの少し腕に力を込めただけで、男は息絶えた。
耳元で聞いた悲鳴は、誰のものだったのか。
自分の心があげたものかも知れないと……レミアは思った。
「大事……ありませんか、レミ……ア」
崩折れた男の体越しに、動く影。
虚ろな身体に、シエナ皇子の声だけが響く。
その背に傷を負ったように見えた。
ふと目を転じれば……。
「……!」
レミアは息を呑んだ。瞠目したまま、声を出すことができなかった。
そこにいるのは紛れもなくシエナ皇子である筈なのに。
地面に片手をつき、苦しげに喘ぐその姿は……!
結い上げられていた髪は縛めを解かれて長く背に乱れ掛かり、裂けた衣装の合間から傷ついた肌が覗いている。赤を吸った衣装は重みでだらりと垂れ下がって片方が外れ、華奢な肩が露わになっていた。
……それは、どう見ても女人のもの。
恋焦がれていたカルサ、その人がそこにいた。
胸の線を消す為に巻かれていたと思われる布が、衣装と共にバッサリと裂かれ、腰の辺りに乱れ掛かっている。荒い息遣いと共に上下する胸は、かろうじて体に残った胴衣の下で、柔らかな曲線を描いていた。
「カル……サ」
呼ばれて、シエナは己の姿を悟った。
背が熱い。傷から噴き出した血が、胴衣の腰や腹を生暖かく濡らす。
周りの景色がいつもの闇夜に増して黒々と沈んで見えるのは、大量の血を失ったためか。
だが……ここで気を失うわけにはいかない。
騒ぎを聞きつけて、間もなく女官や侍官がやってくるだろう。
今までも、乗り越えて来た。戦場において、何度も危ない目に遭って来たのだ。死ぬかと思われる程の傷を負ったことも、一度や二度ではない。
宝剣を拾い上げ、背を丸めたまま、のそり、と立ち上がる。杖にした刀身に足元の小石が当たって、カチリと微かな音がした。
レミアが手を差し伸べる。その顔は蒼白であった。泣けば良いのか、それとも叫べば良いのか……短い間に起きた全ての出来事が、その胸の内でせめぎあい、自分でもどうしたら良いのかとまどっているようだ。
傷ついているであろう、レミア。リオドールの刺客が放った言葉を、シエナも聞いていた。父である国王が、レミアを襲わせたのだと……。
だが今は、それに構っている時間はない。
己の秘密が露見する前に。
このカーネリア王室の血が、混沌とした闇に引きずり込まれる前に。
「事の詳細……は……私が伝えます……あなたは何も……言わぬよう……」
それだけを口にするのがやっとだった。もはや体が自分のものでないように重く、唇でさえ、思うように動かすことができない。
それでもシエナは、一歩ずつ足を運んだ。立ち尽くすレミアが、次第に遠のいて行く。
――アーベル――
首を巡らせ、彼を探した。何処かにいる筈だ。彼の間諜が、刺客の動きを探っていると言っていた。
歩く度、生暖かいものが身体を伝う。それが己の血であると、シエナは朧に意識した。
――この血のために、私は……――
死した後は、神となる血筋。自分の身体を伝うこの生暖かいものが、この国を護るというのか。
――ならば、護ってくれ、カーネリアの神よ――
もう、足が動かない。それでも倒れるのだけは耐えた。
正殿の宮に目を向ける。案の定、闇に紛れて高い身の丈の黒い影が、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。
――遅いぞ――
暗転しそうになる視界をそれでも何とか見開いて、シエナは声にならない悪態をついた。
手を伸ばす。その指先に、闇色の衣装の端が触れた。
そしてそのまま……シエナは意識を手放した。
腕の中に崩折れて来た体は、儚くて頼りなげで……その双肩に次代のカーネリア国を背負って行く者のものとは到底思えなかった。
アーベルの中で、何かが弾け飛んだ。何も考えられなくなって、思わず膝をさらって抱き上げる。
「シエナ様!」
走りながら、その名だけをうわ言のように繰り返した。視界の端で、立ち尽くすレミアが小さくなっていく。だが妃の事に構っていられる心の余裕は、今のアーベルには無かった。
――何故、こんなことに!――
秘密を知るシエナ付きの薬師の元へと彼は向かっていた。シエナの体を診ることができるのは、その事情を知る唯一の薬師だけである。ジェイドの流れを汲む彼は、有り難いことに腕が良かった。
「くそっ、わたしの足はこんなにも遅かったのか……!」
足が千切れてしまうのではないかと思われる程、必死に走っている。それなのに、シエナの宮への道のりは、少しも縮まっていないように思えた。
そうしている間にも腕の中の荒い息遣いは次第に細く弱くなっていき、上下する胸の動きがわずかずつ小さくなっていくのが見てとれた。シエナの体から流れ出た血が、自身の衣装を生暖かく濡らす。
――失ってしまう――
何度もこんなことがあった。戦場において、シエナが命に関わるかと思われる程の傷を負ったことも、一度や二度ではない。
だが……何度そんな修羅場をくぐっても、アーベルの胸には『今度こそ失ってしまうのかも知れない』という不安が湧いて来る。それは『絶対に失いたくない』という願いの裏返しなのだけれど。
やっとの思いでシエナの宮にたどり着き、薬師の部屋の扉を半ば蹴破るようにして中に入った。
「もう随分血を失ってしまった。……早く!」
悲鳴のように叫んで薬師を呼びつけると、何の飾りもない治療用の寝台に向かって真っ直ぐ突き進み、そこにシエナを横たえる。見下ろせば、自分とよく似た白い額には脂汗が滲み、結いを解かれた漆黒の髪が一筋、張り付いていた。
石臼で薬草を挽いていた薬師は、その中からできたばかりの薬をすくい上げると、湯に入れて煎じ始める。
「今宵は何か、よからぬ事が起きはしないかと案じておりました」
そう言って寝台の脇に立つと、その無残に引き裂かれ、重く湿った胴衣をすべてシエナの体から抜き取った。白い肌が蝋燭の灯りに浮かび上がる。そしてその背には、目をそむけたくなるような傷が刻まれていた。
アーベルに遅れることしばらく。ルチエラが顔色を失ったまま飛び込んで来た。
寝台に横たえられたシエナを見ると、はっと息を呑む。その向こう側に、死人のような顔色で立ち尽くすアーベルを見留めると、おびえたように歩をすすめた。
「ルチエラ殿。お手伝いを頼めますかな?」
落ち着きのある声で、薬師は言った。それに黙って頷くと、ルチエラの心も少しばかり落ち着きを取り戻した。衣装の袖をまくり上げ、薬師の指示する物を台に乗せて運んで来る。
道具と薬、それに大量の清潔な布と水が用意され、薬師の治療が始まった。アーベルは片時も傍を離れることができずに、ずっとそれを見守っていた。
治癒を早める香が焚かれ、紫煙が寝台の周りに立ち込めた。
傷口を縫い合わせ、薬を塗り、清潔な布でそれを押さえる。他にも治癒してしまった傷が、滑らかな肌に白く残っていた。
薬師が血の気の失せた唇をこじあけて薬湯を飲ませた。体の中で血の量を増す働きのある薬草で作られている。先ほど石臼で挽いていたものだ。ルチエラがそれを介助する。そうしている間にも、アーベルは無事を願って彼女の白く冷たい指に己の指を絡めていた。
「この布がなければ、おそらく今頃『皇子』の命はなかったでしょう」
一通りの治療が済むと、薬師は足元を見た。そこには裂かれた衣装と共に、胸の線を消すためにきつく巻きつけていた布の残骸が落ちている。それを見やり、薬師はそれも運のひとつなのだと神妙な面持ちで告げた。
「運の良し悪しも、王族の資質のひとつです。シエナ様は強い運をお持ちなのですよ」
白い治療用の夜具を一枚かけられただけの姿で横たわる『皇子』を見やる。
片側に流された漆黒の髪の間から、白く華奢なうなじが覗いていた。
治療の甲斐あって、うつぶせた肩の辺りは次第に上下する動きを強め、夜が明ける頃にはシエナは薄く瞼を開けた。
「シエナ様」
縋るように呼びかけると、黒曜石の瞳が心配げに覗き込む彼を映す。
「……アーベル?」
そう名を呼ばれて、己がまだその指を絡めたままであることに気付いた。悟られぬようにそっと外し、冷えた手を夜具の中に入れてやる。
それからも薬師の治療は続いた。正気を失った者にとって、痛みは常世の国との境から、その者を呼び覚ます力となる。だが瞳を開けていられるまでになった者にとっては、それはもはや苦痛でしかない。
薬師の治療は、今度は痛みを取ることに重きをおかれた。
「痛みますか?」
「いや……さほど」
定刻ごとに繰り返される問いと応え。強い薬を処方され、シエナの痛みは随分やわらいでいるようだ。
シエナは、正午になってようやく起き上がることができるようにまでなった。あの傷でこれだけの時間にここまで回復するとは、薬に長けたジェイドの流れを汲む薬師は、まこと腕が良い。
「心配かけたな、アーベル。私はもう大丈夫だ」
そう告げる黒曜石の瞳には、生気が戻っている。もう心配ない。
「ルチエラ」
シエナは女官の名を呼んだ。
ルチエラが一歩前に進み出る。
「今から支度をしてくれ。政務を執る。決済事項が残っている筈だ」
そう言って、寝台の上に身を起こす。傷に障ったのか、その眉がしかめられた。
「無理です! あれだけの血を失ったのですよ? 今はまだ寝ていらして下さい」
アーベルが、部屋の片隅に片付けられている布の山を視線で指した。それはシエナの血を拭ったものだ。赤い花が咲き乱れるように、それはあった。
シエナの瞳が険しくなる。
「神の系譜を護るために、私は私の生きる道を曲げさせられたのだ。私には、カーネリアの神がついている。だから大事ある筈がない。でなければこんな茶番、やっていられるか」
最後は吐き捨てるように言うと、シエナは誰の手も借りずに寝台から降りた。足元がふらついて、思わず寝台に寄りかかる。アーベルが手を出すよりも早く、ルチエラがその手をとった。
「シエナ様の思うようになさいませ。何かお考えがあってのことなのでしょう?」
母のように、姉のように優しく響くその声に、アーベルはもはや何も言えなくなってしまった。
あれだけの傷を負いながら、シエナが政務を執ったのは次の日の午後であった。
薬に長けた亡国、ジェイドの流れを汲む薬師が夜通し治療に専念したおかげか、それともシエナ自身の持つ命の力なのか。歩く際には少々足を引き摺るものの、ゆっくりとした動きであれば、その上質な衣装の下にそれだけの深い傷を負っているのだとは誰も思わなかった。
いつもは煩わしく感じていた胸の線を消すために巻く布が、今日は有り難い。これがあるおかげで、随分体も動かし易く感じた。
朝議はシエナのいないままに終えたが、午後からの決済事項などは、自室の脇の謁見の間に重臣を招いて行われた。
「昨晩、後宮に賊が侵入しました。その者はシエナ様が討ち取られ、既に事は片付いております。その際、シエナ様は少々のかすり傷を負われました」
シエナが政務を執る前に、アーベルが近衛の長として、居並ぶ重臣達に事の次第をかいつまんで説明した。その説明は随分と事実が捻じ曲げられてはいる。だが全ての経緯を見通すことのできぬ今、臣下が動揺してあらぬ方向に国政が走って行ってしまわぬよう、とりあえずの処置であった。
一番説明を欲しがっていると思われる後宮には、夜のうちに同様の内容を書面で届けてある。
そうして何事も無かったかのように、政務が執り行われた。
シエナは重臣のひとりひとりから報告を受け、書面に羽筆を走らせる。時折内容について訊ねると、的確な応えが返って来た。だが大抵の事柄はシエナのもとに上がって来るまでに、練りに練られたものである。今更、
否を唱える案件は無かった。
どれだけの書面に目を通し、署名をしただろうか。チラと見やると、重臣や役人の居並ぶ脇で、宰相が物言いたげにこちらを見ているのに気付いた。
「何か?」
書面に視線を戻し、再び羽筆を走らせながら、シエナは短く問うた。宰相に対する素っ気無い態度は、いつものことである。
傍らにはアーベルが控えていた。
宰相の息子であり、近衛の長でもあるアーベルは、治療の間中、夜通しシエナに付き添っていた。朝を迎えてからこちらも、ずっと傍らについている。
「宰相殿、ご心配はごもっともですが、あなたがおられると皇子がお疲れになるようなので」
父子ではあっても身分の違いから、アーベルは宰相に対して目下の者の礼をとる。だがその言葉は、シエナの体を気遣うあまり、
棘を含んで聞こえた。
「ではアーベル、後でお前から申し上げてくれ」
そう言うと、宰相は部屋を辞した。短靴の底が、コツコツと床を叩いて遠ざかる。
「……すまないな、アーベル」
書面に視線を落としたまま、シエナはぽそりと言葉を零した。
「宰相を嫌っているわけではないのだよ。でも……」
「わかっています」
この部屋には他に人もいる。全てを短い言葉の裏に呑み込んで、二人はそれきり押し黙った。
「お体には障りませんでしたか?」
決済事項も片付き、重臣も皆引き払ったのを見届けると、シエナは謁見の間から自室の寝台へと場所を移した。
それをシエナ付きの女官ルチエラと共に手伝ってやりながら、アーベルが心配そうな面持ちでシエナを気遣う。
「大事ない。私にはカーネリアの神がついている」
シエナは戯言のように言いながら、大人しく夜具を掛けられていた。背中に負った傷を庇うため、うつ伏せている。結いの先から乱れ掛かる髪に隠れて、その表情を読み取ることはできなかった。
ルチエラが退出の為、片膝をついて礼をする。顎を微かに引き、黙ってそれに応じると、アーベルはまたシエナに視線を戻した。
「……死んでしまうのではないかと思いました」
ややあって、アーベルは息を吐くように声を絞り出した。その語尾は震え、力が抜けたように寝台の脇にガクリと膝をつく。女官も薬師も誰もいない二人だけの部屋。アーベルは、今やっと鎧で覆われたその胸の内を吐露した。
それほど昨晩のシエナの衣装は、赤に染まっていたのだ。
「間諜から刺客の内の一人を見失ったと報告が入った時は、既にあなたは閨に渡った後で……」
寝台の端に片手をかけ、膝頭に視線を落とす。
「……あなたは、無茶ばかりなさる」
ポツリと漏らした言葉には、飾りも体裁も、何もなかった。
今までもそうだった。戦場において深手を負っても、体が癒えぬ内に気力だけでまた先陣を切る。本来なら、王族がそのようなことをせずとも良いのに、まるで自分の運を試すかのように打って出るのだ。
『ご自分の体が、ご自分だけのものではないと自覚して下さい。そんなことは他の兵にさせればいいのです』
何度訴えても、戦場にある時のシエナは聞かなかった。そして本当に、戦いの神が降りたかのように、シエナはいつも勝利したのである。
それはまるで、女である自分を斬りさいて、本当の皇子になってしまいたいと願うような……それともいっそこの運命ごと戦場に散ってしまいたいと願っているような……そんな痛々しさだった。
――臣下としてではなく、男として、その傷ついた心を支えてやれたなら……。
そんなアーベルの願いも、今の状況では望むべくもなかった。
全ては、たったひとつの嘘を護るために。
扉が三度叩かれ、ルチエラの案内でアーベルが部屋に入って来た。
あれから、宰相のもとに使いに走ったのである。
「悪かったな。それで宰相の話は何だったのだ?」
傷口にあてがった布を交換するために、シエナは寝台の上で背中を見せていた。白く滑らかな肌に刻まれたその傷があまりに痛々しくて、アーベルはそっと視線を外す。
「明日入城するリオドールよりの使者団の様子を伝えたかったとのことです」
外した視線はそのままに、アーベルは寝台の脇に片膝をついて頭を垂れた。
「おおかた毛色の違う者が紛れ込んでいるとの報告だろう」
言い当てられて、アーベルは片膝をついたまま主を見上げた。軍学の師が舌を巻くほどの軍策を練るシエナは、時折、並み外れた洞察力を見せた。今までも、そうやって何度か国の危機を救っているのである。
「はい。使者はお一人。楽師や歌舞を供する者どもを引き連れての入城となるそうですが、その中に、妙に隙の見せ方が一定しない者がいるとのことで……わたしの間諜は全て、刺客の方を探らせておりました故、使者については父……宰相殿に任せておりました」
「一定しない隙……か。意図して作ったものであるという証だな」
隙が無ければ疑われる。だが意図して作った隙は、見る者が見れば、同じような事を繰り返した時に露見しやすい。
無い隙をわざと作る……それはすなわち、その者がよほどの
手練であるという事である。
そしてそれを見抜く者は、それ以上の力量を持つものである、ということだ。宰相の放つ間諜は、随分と優秀なのだろう。
「先の刺客の件といい……リオドール国王め、何を考えている?」
傷口にあてがった布の上から清潔な布を更に幾重にも巻き、薬師の治療は終わった。道具を片付け、一礼すると、ルチエラに見送られて部屋を辞す。
「今宵も閨に渡る。先触れを」
薬師が部屋から出て行ったのを見届けると、やおら、シエナは寝台の上に身を起こし、ルチエラに向けて指示をした。
「そのような怪我で、何をおっしゃいますか!」
アーベルが驚いた様子で立ち上がり、シエナを押しとどめようとした。
「ルチエラ、行かなくてよい! シエナ様はここで寝まれる」
振り向きざま、アーベルは傍らに控える女官に向かって叫んだ。
「午後の政務だけでもご無理なさっておいでなのに、その上閨に渡るだなどと! 閨ではいつも眠っておられぬご様子。この傷と体力の消耗、その上眠ることすらしないとは……判っておいでなのですか? 明日は使者を迎えるのですよ? 無茶です! シエナ様の命は、シエナ様だけのものではありません!」
いつもはあまり表情を変えないアーベルが、珍しく声を荒げた。その瞳には、シエナを失うことへの怖れの色が浮かんでいる。
――国を思うゆえ……か――
アーベルの瞳に気付かぬふうを装い、シエナはもう一度ルチエラに視線を向けた。
争う二人の顔を交互に見比べていたルチエラは、寄越されたシエナの眼差しに、小さく頷いて礼をした。そのまま部屋を辞す。
「シエナ様!」
今にも零れんばかりに黒曜石の瞳を見開き、アーベルは思わずきつくシエナの両肩を掴んでいた。
「傷が痛むではないか……アーベル」
ほんの少し顔をしかめ、シエナは笑った。
アーベルは、己の手がいつの間にかシエナの肩に掛かっているのに気付き、雷に打たれたようにそれを引く。
「……何のために私が無理を押して午後の政務を執ったと思う?」
シエナは、静かに問うた。
「私は普段通りなのだと、皆に知らせるためだ。大事ないといくらおまえが言葉で伝えたとて、私の姿を見ない内は、それを信じぬ者もいるだろう。政務も執れぬ程の傷を負ったのだと勘ぐる者もいるやも知れぬ」
「それは……」
「普段通りであれば、いつもすることをいつものように行なったとて、誰も不審がる者はいないだろう。堂々と閨へ渡ることもできる。なぁ、アーベル。使者が到着するのは明日。おまえでは、今宵の内に妃に話を通すことは無理であろう?」
「こんどの使者訪問の裏に何かがあるという事を、ご存知だったのだと……?」
アーベルは、毒気を抜かれたようにシエナを見た。
「ああ、刺客に襲われた時にな」
シエナもそれを見返す。
「今から言うことは、まだ誰にも言ってはおらぬ」
シエナが顔を寄せる。
「……やつの狙いは、レミアだった」
広い室内に二人きりであるというのに、一層声をひそめた。
アーベルは瞠目した。シエナが狙われるというのなら、水面下で敵対する国同士、そのようなこともあろう。だがリオドールの皇女が、リオドールの者に狙われるとは。
「何故なのかは判らぬがな。使者を寄越しながら、時を同じくして裏で自国の皇女を狙う刺客をも放つとは……おかしいではないか。ならば、使者団の内にも同じ目的の刺客が潜んでいると考える方が、道理に合うだろう」
誰にも告げていない事実。それをアーベルにだけ明かしたと言うシエナの瞳は、昔と変わらず手放しの信頼を寄せてくれているように澄んでいる。アーベルは心の奥が絞られるように切なくなった。
最近は、会えば相手の言葉の裏に、別の意味を見出そうともがいていたけれど。肩の力が、ふっと抜けたような気がした。
「わたしは……シエナ様のお命が関わると、全てを見通すことができなくなるようです。頭に血がのぼってしまって……申し訳ございませんでした」
そう言って昔のように微笑もうとする。だが長きにわたって自分を厳しく律してきたアーベルには、そんな些細なことも難しく思えた。
代わりに、一層深く、自分と同じ色の瞳を見つめる。いつの間にかシエナは、もがきながらも確実に一国の長たる威厳を身につけつつあるようだ。物言いにもそれは表れ、昔と同じようだと思った瞳の色も、よく見ればどことなく違っていた。
シエナを女性として見ることのないよう、自分を律して来た。できるだけ近づかぬよう、心に鉄の
枷を課し、想いを悟られぬよう、感情を顕にすることも無くなった。
それも国のため。ひいてはシエナのためと思っていた。
そして今、ふと気付けば、何故だか……いつの間にか、二人の距離が遠くなっていることに、今更ながら気付いた気がした。
扉を叩く音が聞こえ、しばらく後にルチエラが衣擦れの音をたてながら入ってきた。これから閨に渡る支度をするのだ。
シエナが寝台から降りようとするのを、横から差し出されたアーベルの手が助ける。一瞬彼の顔を見やり、シエナはすぐに
俯いた。
本当はそれだけの理由で閨に渡るわけではない。この身が、カルサと名乗った女人と同じ者であると知れてしまった。こちらもレミアがラウナ皇子であることを知っている。その二つの事実をどうするか……。
彼の皇子に問うてみたいと思ったのだ。
アーベルは、まだこの事を知らない。レミアが皇子であったことも、こちらの秘密が知られてしまった事も。彼に言えば、それは即ち宰相の知るところとなり、レミアの命はすぐにでも潰えてしまうだろう。
そうなる前に。
そのために、傷が痛むのをおして、政務を執った。
レミアを護りたいと思った。自分が女人でいることを許してくれる人を、失いたくないと思った。
「……すまない、アーベル。そして、有難う」
添えられた手から己の手を離す刹那、シエナは俯いたままそう告げた。