〜四〜
シエナは片膝をついたレミアを見下ろしていた。
美しい皇女だった。
こちらの言葉に返答が無いのは、緊張しているためか。
長い睫毛に縁取られたはしばみ色の瞳が、哀しみの色を纏っているように感じられた。
――私の後ろめたさが見せる幻であろうな――
シエナは、そんな自分を心の中で
嗤った。
今宵、共にここで休まねばならない。
おそらく自分は、一睡もできないであろう。十三歳で迎えた『戴位の儀』の際の、ままごとのような閨とは違うのだ。
アーベルは、首尾よくこの部屋の外に潜んでいてくれるだろうか。
頃合を見計らって、彼と入れ替わる。そうすれば、閨の儀式は、アーベルが無事に務め上げてくれるだろう。
自分は物陰に潜んで朝が来るのを待つだけだ。耳をふさいで、二人の睦み合いから目を背けていれば良いのだ。
――胸の奥が、疼いた。
レミアが、すっと立ち上がった。寝台に座るシエナの瞳を上から覗きこむ。はしばみ色の瞳が笑みの形に細められた。
見る者を一目で虜にしてしまうような、魅惑的な微笑み。
蜂蜜色の髪が肩にかかり、月の女神のそれのように輝いて見えた。カーネリアの清めの湯には、花を浮かべる。その花のものか。甘やかな薫りが、ふわりと鼻腔をくすぐった。
知っている筈の薫りなのに、レミアのものと溶けあい、異国の薫りがした。頭の芯が痺れるような心地に、シエナはとまどった。
――相手は、皇女であるのに――
彫りの深い中性的な顔立ちが、一層シエナを惑わせた。
瞳を合わせたまま、レミアは滑るように身体を寄せる。
シエナの背に、ざわりと波が立った。
レミアの指がシエナの頬に添えられた。異国の色を纏った瞳が、吸い寄せられるように近づいた。
逃れようと思いはしたが、はしばみ色の呪縛に
捉えられてしまったように動けない。
赤い唇が、すぐそこにあった。
「な……」
シエナの喉の奥から漏れたのは、その一音のみ。
唇を重ねられる。強く押し付けられ、唇を割られた。同時に、口の中に癖のある味が広がる。頬を固定され、顔を背けることもできない。
「……!」
シエナは白い喉を仰け反らせて、喘ぐように癖のある味を飲み込んだ。
口付けを終えたレミアが、僅かに唇を離す。頬に添えた手もそのままに、間近から黒曜石の瞳を覗きこんだ。
「何を……しました?」
血のようだ、と思った。
レミアの赤い唇は、リオドールの岩場に広がった血のようだ、と思った。
赤い唇を見つめ、シエナは問うた。
レミアは黙したまま、何かを待つような顔でシエナを見つめている。シエナの瞳の中に、自分の姿を探し出すように。だが見開かれたままのシエナの黒曜石を見つめ、次第にその顔が曇っていった。
「あなたは……」
シエナは、はしばみ色の瞳の奥を探った。
「あなたは……私と閨を共にしたくないと、そう思っているのですね」
レミアを見上げたまま、シエナは静かに言った。
「な……ぜ?」
頬に添えた手を力なく落とし、レミアは小さく首を振った。
「……何故、効かない?」
がくりと膝をつく。今度はレミアがシエナを見上げた。
「カーネリアは、狙われる国なのですよ」
静かに言い、シエナはふと、唇を歪めた。
「この国は、近隣諸国の中にあって、古来より強い力を持ち続けて来ました。歴史書をひも解けば、カーネリアに滅ぼされた国の名など、たやすく十は見つけられるでしょう。その国の民はどうなったと思いますか?」
問いかけ、わずかに眉根を上げた。
レミアはただ、黙ってシエナを見つめている。
「全ての民を排除することはできません。それだけの大掛かりな軍備はできませんし、もとより民に罪はないからです。だから、新たにカーネリアの領土となった地で、今まで通りの生活を保障します。でも、滅ぼされた国の民は、それを黙って受け入れる者ばかりとは限りません。滅ぼされた王室に近いところにあった者ほど、この国への恨みは深いのでしょう。他の国に逃れ、カーネリアを狙おうとする者もいる」
眼を細め、シエナは白い指先で、癖のある味の残る唇を拭う。艶めいたその仕草に、レミアは息苦しさを感じた。
皇子である筈なのに、シエナはそれだけではない何かの色を纏っている。レミアには、そう思えた。
「私達カーネリアの王族は幼い頃より、近隣諸国で産出されるあらゆる危険な薬を飲みます。害が無い程度に少量ずつ、そして次第に量を増やして。そうやって、身体を薬に慣らして行くのです。少量で死に至らしめる薬に対しては、いつも解毒の薬を持ち歩いています。あなたが私に飲ませた薬も、もとはジェイドの秘薬。何代か昔に我がカーネリアが滅ぼした国のものです。ジェイドの民は、なにもあなた方リオドールにばかり流れ着いたのではありません。我が王室にも、ジェイドの流れを汲む薬師が、何名か仕えているのですよ」
シエナは、寝台の端から立ち上がった。
「……!」
思わずレミアは、身体を退く。
シエナの起こした風が、威圧感をもってレミアに迫る。
枕もとの剣を取るのだろうか。それとも、こちらの意向を知った上でなお、閨の儀式を進めるつもりか。
どちらにしても、既に自分には何も道が残されていないことを、レミアは悟った。
謀反の罪で斬られるか、秘密が露見し、斬られるか。
白くなるほど唇を噛み締め、静かに眼を瞑った。
――せめて、この皇子の手に掛かって死ねるのを本望としよう――
口惜しかった。
亡くなった異母姉のこれからの人生を、自分が生きていくのだと思っていた。優しかった異母姉の名を継ぎ、ラウナ皇子の名を捨てさせられた時から、不本意ではあったがこれしか自分の生きる道は残されていなかった。
なのに、それさえも今、潰えようとしている。
異母姉のこれからの生も、一緒に潰えてしまうような心地がした。
そんな口惜しさと……そしてほんの少しばかりの安堵と。
もう怖れるものはなくなった。秘密を守る為に、皇女を演じる必要もないのだ。
国に還っても自分の居場所は無い。誰からも重きを置かれていた訳ではなかった。
『大切にします』
そう言ってくれた、誠実で美しいシエナを欺く時間が、長くなくて良かった。
せめてシエナの手で、この茶番のような生を終わらせる事ができるのをよしとしよう。
短い一瞬に溢れる程の想いを巡らせ、レミアは待った。
眼を閉じて、待った。
だが……何も起こらなかった。
うっすらと瞼を開ける。
窓辺にたたずんだシエナが、ゆっくりと顔をこちらに向けるところだった。
何かの気配が、す、と窓の向こうをよぎった。闇に棲む生き物か。
開け放たれた
蔀戸の向こうで、月が美しく輝いていた。
その光を受け、シエナの頬も輝く。黒髪の縁が、金色に光って見えた。
「……どうなさるおつもりですか」
レミアは床についた膝を、シエナへと進めた。気丈に言ったつもりの語尾が、心とは裏腹に微かに震える。
――みっともないこと――
レミアは顔を伏せた。
父王の請いに首を縦に振ってより、覚悟はできていた筈なのに。心と身体は別なのか。それとは判らぬほどではあったが、細かく震える唇を感じ、情けなくて目頭がつんと熱くなった。
――こんなだから、父王にも兄上にも疎まれていたのだ――
リオドール国において、こんな思いをした事は一度もなかった。疎まれながらも、いつも何事もそつなくこなして来たつもりだった。
実戦の経験こそ無かったが、御前試合でも、いつも上位の成績を修めていた。
だが、今の自分はどうだ。祖国リオドールという後ろ盾を外せば、ただ一人の人として、満足に立っていることすらできない。
おそらく、父王も兄上も、こんな自分の資質を見抜いていたのだろう。だから疎まれ、ないがしろにされていたのだ。
「大丈夫です。あなたに触れたりはしませんよ」
シエナの声が、暗い渕に沈んで行こうとするレミアの心に降り注いだ。
レミアは、はっと顔を上げる。
「約定通り、この婚儀は滞りなく行われたのです。あなたは晴れて、私の正妃となった。どんな事情で閨を共にしたくないのか……それは詮索しないこととしましょう。これからも、あなたに触れることはありません。私の方にも、あなたに触れられない
理由がある。ですが、あなたは間違いなく、私の正妃なのです」
シエナの唇の端が弓形に引き上げられ、黒曜石の瞳がレミアを真っ直ぐに捉えていた。
蔀戸の向こうに、朝の光が戻って来たようだ。
シエナはそっと、天蓋の布を持ち上げた。
落ち着いた色調の部屋は、何もなかったように柔らかな光に満ちている。
気持ちの通じ合った者同士であれば、最良の朝であろう。
ほとんど眠ることはできなかった。寝台の隣でこちらに背を向けて眠るレミアの息遣いを感じるたび、小さな痙攣を伴って身体が目覚めてしまう。
いや、レミアも眠ってはいなかったのかも知れない。
こちらを気遣いながら、小さな息をつくのが何度も聞こえた。
彼女にとって、この贅を尽くした寝台は、茨の寝床だったに違いない。
哀れな皇女。
正妃として避けては通れぬ閨を、それでも避けようと相手に薬を盛った。そんなに嫌な相手のもとに嫁がされ、このように一つ寝台の上で朝を迎えねばならないとは。
この婚儀、本意ではなかったのだろう。他に好いた男がいたのかも知れない。
昨晩……。
レミアの意思を知った。
閨の外に潜んでいたアーベルには、レミアに悟られぬよう、役目のないことを告げた。頭を垂れて聞いていた彼は、驚いて顔を上げた。その時……一瞬ではあったが、目が合った。
月明かりの中で一層黒々と輝く瞳に、自分はどう映っていたのだろう。それを見出す前に、影となって彼は去った。
その後姿を眼の端に捉えながら、安堵の息をついていた自分がいた。
――私は……――
事が成っていれば……自分にとっても、それは茨の寝床だったのだと、シエナは自分を
嗤った。
天蓋の布を指先から滑り落とし、シエナは傍らに眠るレミアに視線を落とした。
長い睫毛が細かく震えている。
「眠ってはいませんね」
指を伸ばし、頬に触れた。
睫毛が上下に分かれ、はしばみ色の瞳が覗く。緩やかな軌跡を描いて、それがこちらに向けられた。
「そろそろ女官が起き出す頃です。カーネリアの朝は早いですからね。あなたもそろそろ仕度をなさい」
シエナは天蓋の布を左右に振り分けた。
ほんの少しの間に、部屋を満たす光は、柔らかなものから清々しいものへと変わっていた。
その眩しさに、シエナは眼を
眇める。寝台から降り、朝の気を吸い込むように、大きくひとつ息をした。
朝の光の中に、シエナが立っている。
頭上高く束ねられた黒髪は少しばかり結いがほつれ、後れ毛が頬に乱れかかっていた。襟の乱れから白いうなじが覗いている。
その肌の滑らかさに、レミアはハッとした。自分の中で、
靄が湧き出るように、奇妙な感覚が芽生える。
――何を考えているのだ、わたしは――
シエナは皇子ではないか。このような
形をしているとは言え、自分もリオドール国第二皇子なのだ。
レミアは無理にシエナから視線を引き剥がすと、枕もとの剣をとって寝台を降りた。
片膝をつき、袖に包んでそれを差し出す。
シエナは小さく頷いて、差し出された剣を受け取った。
シエナの指が、袖の中の手に触れる。レミアはそこだけが熱を持ったように熱くなるのを感じた。
受け取った剣をすぐには腰に付けず、シエナは寝台に歩み寄った。
鞘を払う。光を受けた刀身が、美しく煌いた。
レミアはただ、静かに見ていた。
不思議と怖れはなかった。昨夜はあんなにも情けなく思っていた唇も、今は震えていない。
シエナは、す、と片手を寝台の上にかざした。剣の切先をその指先にあてがい、ほんの少しだけ突く。
すんなりと伸びた指先に、赤い珠が膨れた。
みるみる内にそれは大きくなり、零れて寝台の上に散った。
「何をなさるのです!」
レミアは慌てて立ち上がる。慣れない衣装の裾を踏み、ふらりとよろけた。
倒れそうになる身体を、シエナが受け止めた。まだ青年になる前のレミアの身体を、シエナは違和感無く少女のそれと感じたようだ。
剣を収め、シエナは婉然と微笑む。
「驚かせましたか? これはあなたの破瓜の印。閨の儀式の翌朝、女官達が検めます。カーネリアの習わしなのですよ。これが無ければ、あなたのここでの立場が辛いものとなりますから」
レミアの瞳が見開かれた。
自分の身を傷つけてまで、事を成していない相手を守ろうとしている。
こちらには、肌を合わせられない事情がある。だが、シエナの方は、何故……?
「あなたが……」
何故だか判らないが、シエナに尋ねたい衝動を抑え切れなくなった。
「シエナ様が私に触れたくないとおっしゃるのは、わたしを疎んじてのことですか?」
――何故、こんな事を訊ねたのだろう
――そのままにしておけば、眼を瞑っていられたかも知れないのに
――自分の心に気付かずにいられたかも知れないのに
「疎んじて……?」
シエナは眉尻を上げた。
疎んじていると言うならば、それは我が身の運命を、であろう。目の前で自分を見つめる、この哀れな皇女を疎んじる
謂われは、決して無い。
「あなたをそのように思ってはいませんよ。大切にしたいと思っています」
不安げにこちらを覗きこむレミアの手を、そっととった。
しなやかな指先は、少し躊躇したものの、大人しくシエナの手に納まった。
「あなたのここでの暮らしは、決して心地良いものとはならないでしょう。むしろ、あなたが私を疎んじることになるかも知れない。それでも……どんな事が起きたとしても、これだけは覚えていて欲しい。私は、あなたを心から大切にしたいと思っているのです」
そう言って微笑んだ黒曜石の瞳は、深い哀しみの色を湛えていた。
『大切にしたい』
何度願った言葉か。
祖国リオドールでは、そのような言葉をかけてくれる者などいなかった。
異母姉は優しかった。だが、大切にしたいとは、言ってくれなかった。異母姉も父王の言葉ひとつで、どうとでもなってしまう身の上。できない約束をくれるほど、思慮に欠けた人ではなかった。
力強い言葉で、『大切にしたい』と。
ここで妃として暮らす限りは、それは約束されたものとなるのだろう。
――ならば、欺き通してみせる――
心苦しくはあった。
だがそれよりも、心の渇望の方が勝っていた。
シエナを手放したくない。
大切に思ってくれる相手を、失いたくない。
たとえそれが、茨の道だとしても。
この身に新たな
枷をはめるものだとしても。
「ご厚情、ありがとうございます」
閨の儀式を締めくくる、作法に
則った儀礼的な言葉。
この言葉に万感の想いを込め、レミアはこの上無く美しい笑みを、その
顔に浮かべた。