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玻璃の橋板


〜一〜


 富める国、カーネリア。
 代々冷徹な王によって治められ、衰退と繁栄を繰り返しながらもなお強大な力を誇るその国は、領土の隅々まで豊かに作物が実り、緑深く水の利に恵まれた土地であった。
 新緑に染まる森には新しい命が生まれ、あちこちで生き物の声が木霊する。時折枝が揺れるのは、驚いて駆け出す小動物のせいか。豊かに茂った木々の葉は適度な湿り気を帯びた地面に影を落し、さやさやと風に揺れてつかの間の木陰を作っていた。
 その森を抜けて、今、四頭立ての馬車が連なってゆっくりと進んで行く。
 長く続く、輿入れの行列。
 騎馬の兵が、馬車の列を囲むようにして護っている。
 中でもひときわ、きらきらと煌く車。工芸師が細部にまで心を配って細工した象嵌によって美しく飾られたそれは、リオドール国第一皇女、レミアの乗る車である。
 何代か以前には、カーネリアは近隣諸国を震え上がらせる程の力を持った、唯一の国であった。だが今ではその力は分かたれ、海沿いに広がるペリエル国、その隣国であり、カーネリア国とは小国をひとつ隔てたリオドール国、そしてカーネリア国の三国がその勢力をせめぎあっていた。
 『拝謁の儀』という、近隣諸国の皇子・皇女を人質にとる儀式も、二代前の王の御代からこちら、行われていなかった。時代が移れば国勢も変わる。だが今でもカーネリア国は依然強大国の中に名を連ね、その動向は近隣諸国の運命をも左右する程であった。
「レミア様、国境を越えました。ご覧下さいませ、この道の滑らかさを。さすが石の加工に秀でたカーネリア国ですわ。車の通る道筋には、全て平石が敷き詰めてありますもの」
 皇女の乗る車の中で、女官アイラがはしゃいだように口を開く。普段は年齢よりも大人びて見えるアイラも、もう国には戻ることのできない皇女の心中をおもんぱかってか、いつもより華やいだ声をあげていた。
「ええ……」
 短く答えたきり、レミアはまた押し黙ってしまった。車窓の縁に頬杖をつき、揚げ戸の隙間から外の様子を見るともなしに眺めている。そんな様子も、無理もない事とアイラは諦めて口を閉ざした。この車中にはレミア皇女とアイラの二人が向かい合って座っているだけ。だが車の外には、騎馬の武将が従っている。風の気紛れで、車中で交わされる言葉が外に漏れ聞こえないとも限らない。
 不意にレミアは頬杖を外し、アイラの顔に、ひた、と視線を据えた。
「わたしは捨て駒にされたのです」
 輿入れの車中にいる皇女とは思えない程険しい表情で言い、レミアは、ほうっと深く息を吐く。
「捨て駒などと……ご自分をそのように卑下なさいますな」
 アイラが分別のある女官らしく、皇女をたしなめる。
「捨て駒は、捨て駒です。わたしの想いなど、一滴たりとも汲んでは下さらぬ。父上はそのような御方なのです」
 吐き捨てるように言うと、レミアは座面に片足を引き上げ、その上に顎を乗せた。
 背中まで伸ばされた蜂蜜色の髪は、柔らかそうだがピンと張った竪琴の弦のように真っ直ぐだ。髪飾りとして巻き付けられた錦の布には、磨いた石がはめ込まれている。その先端は絹の房飾りになっていて、皇女の頭が車に揺られて動くたび、さらさらと虹色に彩りを変えていた。
 くっきりとした目元は涼やかな曲線を描き、はしばみ色の瞳が心なし寂しげである。形の良い鼻梁の下に続く、不機嫌そうに噛み締められた唇が痛々しい。
 彫りの深い顔立ちで、どこか中性的ななまめかしさも漂わせている。
 (よわい)、十五歳。
 柔らかな曲線を描く、まだ少し幼さの残る(おとがい)が、膝の上でこつん、と跳ねた。
「レミア皇女、そのような行儀ではいぶかしく思う者が現れますわ」
 アイラが皇女の足に手を沿え、座面から引き下ろそうとする。足首に付けられた小さな黄金の鈴飾りが、シャラン、と鳴った。
 レミアはそれに抗い、アイラの手首を掴んで難なく己の足から引き剥がしてしまう。細い手首を掴んだまま、向かい合って座るアイラの顔に自らの顔を寄せ、その耳元でささやいた。
「いぶかしく? 秘密が露見するというのか? ……案ずるな。命が潰えるその時まで、わたしはうまく皇女を演じてみせる」
 演じてみせる、と。
 そう、今、輿入れの馬車に乗っているのは、レミア皇女ではなかった。
 本当の名は、ラウナ皇子。
 リオドール国第二皇子、その人であった。


 ***


 コツコツと回廊に響き渡る二人分の靴音。
「シエナ様、探しましたぞ。国王は先ほどからお待ちです。この時分、稽古場にいらっしゃるとは思いませなんだもので……。確か今は軍学の学士がお部屋に上がっている時間ではありませんでしたか?」
 付き従う大柄の男が、少し息のあがった低い声で言う。広い王宮の中を随分と探し回ったらしい。
「ああ、宰相には悪いことをしました。どうしてもできぬ型があったので、エルガ将軍に頼んで剣の稽古をつけてもらっていたのですよ。学士殿のほうは、もう私に教えることはほとんど無くなったとおっしゃって、快く承知してくれました」
 シエナと呼ばれた、その人が前を向いたまま答える。真っ直ぐな黒髪を頭上高く束ね、長く垂らした先が、風を切って進むのに合わせて、さらさらと揺れた。胴衣の背にはまだ汗が滲んでいるのが濃く色の変わった染みとなって見てとれ、膝のすぐ下で絞られた脚衣には、稽古用の剣によると思われる、裂け目ができていた。
「ご冗談を。シエナ様ほどの剣の使い手ならば、並みの兵士では敵いますまい」
 宰相が苦笑を漏らす。
「ですが、今日も将軍には勝てませんでした」
「将軍はこの国随一の剣の使い手ですぞ。それを超えようとは、シエナ様も熱心でいらっしゃる」
 再び宰相が苦笑を漏らした。
 シエナはそれを眼の端に認めたが、何も無かったようにまた視線を戻した。
 大股で先を行くシエナの革の長靴が高めの音を立てるかと思えば、つき従う宰相の短靴も、控えめではあるが切れの良い低い音を聞かせた。
 磨いた平石を敷き詰めて造られた床は、滑らかに続いている。色や大きさの違う石を組み合わせて、美しい幾何学模様を描き出していた。
 壁や天井は漆喰で塗り固められており、所々に空を雄々しく飛ぶ鳥や強さの象徴である猛獣の姿を彫りこんである。外側に面した壁の天井に近い部分には、漆喰に透かし彫りを施した天窓がはめ込まれていた。長い(ひさし)のお陰で、雨が降り込むことなく明かりが取れるようになっている。
「私にはどうも、力ずくの戦いよりも頭を使う参謀の仕事の方が向いているようです」
 宰相を振り向いてほんの少しだけ片眉を持ち上げると、シエナはとある扉の前で足を止めた。中の者に悟られぬよう、小さく息を整えてから、三度、拳で扉を叩いた。
 それを待ちかねたように、扉が内側から静かに開けられる。シエナは軽く(こうべ)を垂れると中に進んだ。
 女官が控える次の間の前を抜けると、一層重厚な造りの扉が現れる。シエナはまたも三度、拳で扉を叩いた。
「お呼びですか、父上?」
 カーネリア城の正殿の宮にある、王の居室。
 回廊に敷き詰められたものよりも上質な石で造られた床は、一層滑らかで、継ぎ目を探しても判らない程だ。(かかと)を下ろす度に、カツカツと音をたてる。それは決して耳障りなどではなく、むしろ心地よく部屋の中に響いた。
 万が一侵入した者がいても、足音を立てずに国王の寝台に近寄ることができない造りになっている。それはそのまま、このカーネリアを狙う者が大勢いる、という事をあらわしているのだ。
 部屋の中程に天蓋付きの寝台がしつらえてあり、腰窓から漏れ入る柔らかな光を受けている。天蓋の上質な布地の分かれ目から、枯れ枝のように痩せ、節の目立つ指が手招きしていた。
「シエナか。待ちかねておったぞ」
 天蓋の中から声が掛かる。少し喉に詰まったような、耳障りな呼吸音の混じる声。
「火急のお呼びと聞き、稽古場から衣装替えもせずに参りました。このような(なり)で……ご無礼、お許し下さい」
 寝台の近くまで歩み寄ったシエナが床に片膝をついて頭を垂れると、国王付きの女官の手によって天蓋の布地が左右に振り分けられた。女官はそれぞれの布を飾紐で束ねると、軽く頭を垂れて後ろに下がった。
「そなた達は、もうよい。控えておれ」
 王の言葉を受け、女官は静かに部屋を辞した。
 慈愛に満ちた眼差しがシエナに向けられる。国王は大儀そうに上半身を起こし、軽い咳をひとつ零した。
 シエナは背を擦ろうと、思わず立ち上がった。
 国王は小さく笑み、軽く手を上げてそれを制す。
 国王の、黒曜石のような瞳がシエナを捉えた。弱々しく見える身体の中で、瞳だけが不釣合いな程生気に満ちている。病弱ではあるが、まだまだこの王の御代は続くのであろう。
「大事ない。これでもこのところ、具合は良いのだ。それよりも、シエナ……」
 国王は淡々とシエナに何事かを告げる。シエナは瞠目した。
「なんと……おっしゃいました?」
 いつになく声を荒げるその人は、カーネリア国の王位継承権を持つ身の上である。
 肩の下辺りまで伸ばされた黒髪を頭の上高くで束ねている。真っ直ぐに流れ落ちる毛先は、黒毛の名馬の尾のように艶やかだ。一所だけ短く梳き下ろされた前髪が額に影を落とす。その下にすっと通った鼻筋。続く花弁のような唇。きめの細かい白い頬に、意志の強そうな黒曜石の瞳が少しばかり潤んで見える。
 カーネリア国第一皇子、シエナ。
 今のところ王位継承権第一位の人であり、現国王が正妃との間にもうけた唯一人の御子である。御歳十七歳。
 細身でありながら、その剣の腕はエルガ将軍に次ぐとも言われ、軍策を練れば、儚げな面差しからは思いもよらない強固な策を打ち立てる。
「ですから、シエナ様に正妃様を、と国王は仰せられました」
 シエナの後に控えていた宰相モルグが、国王の言葉の後を引き取った。
「リオドール国王からの使者が、直々に書状を持って参りました。あちらの皇女との婚姻を承諾しろと。さもなければ、先の一件を楯にわが国に攻め入る用意がある、とも言っております。さしでがましい事とは重々承知しておりますが……先だってのペリエル国との戦から日が浅い今、リオドール国と事を構えるのは、得策では無いと思われます」
 宰相の苦渋に満ちた声が、重厚な石造りの部屋の中に響く。
「そんなことが……できると思っているのですか? 私は……!」
 シエナの唇が震えた。
「私に正妃などと……本当にそんなことができると思っているのですかっ!」
 再び言い募り、勢いよく宰相を振り返る。束ねた髪が、はずみでシエナの頬を打った。
「カーネリア王室の血筋を守るため、ひいては国を守るために、この婚姻は受けて頂かねばならないかと……。いかに()の国の王が非情だと言えど、カーネリアがこの婚姻を受ければ、しばらくはこちらに手を出す口実を失うことになります。次の手を打って来るとしても……近隣諸国の目もあります。おそらく半年の間は何もできないでしょう。その間に軍備を建て直し、リオドールに攻め入ることもできます。それまで、どうかご辛抱を」
 宰相は、シエナのきつい視線を受け止め切れずに、顔を伏せた。シエナはそんな宰相を睨み付けたまま、唇を噛む。視線を戻さぬ宰相の伏せた顔をしばらく無言で睨みつけた後、シエナはふっと小さく息を吐いた。
「そうですか……ならば勝手にすればいいでしょう」
 一段低い声で冷ややかに言い放つと、シエナは再び寝台に向き直った。
「父上。お望み通りこの婚姻を承諾しますと、リオドールの王にお伝え下さい。……失礼」
 カツッと荒い靴音を残して、シエナは王の御前を辞した。宰相の横を過ぎようとした刹那、す……と歩を緩める。
「あなたはまた、私に茨の道を行けと言うのですね」
 前方をしっかり見据えたまま、小さな声でシエナは言った。


 国王の部屋を辞し、シエナはただ真っ直ぐ前を見据えて歩き続けた。宰相に向けたはずの言葉が、歩を進めるごとに自分の心に突き刺さって来るようだ。
――茨の道……か――
 シエナの唇が、皮肉な笑みの形に歪む。足の運びは次第にのろのろと緩くなり、ついには心の重みをそのまま引き受けたかのように、その場から動けなくなってしまった。
 ふと目を転じれば、足元に小さな花が咲いていた。踏めばすぐに折れてしまいそうな淡い色の可憐な花は、それでも懸命に茎を伸ばし、日の光を求めて上へ伸びようとしている。
 まるで自分のようだ、とシエナは思った。
 決して得られることのないものを求めて、懸命に光を探そうとしている。茨の道を手探りで進み、身体中傷だらけになりながらも、出口を探そうと足掻いている。
――私が、正妃を迎えるなどと……――
 シエナには、異母弟(おとうと)のルベル皇子がいる。母こそ違え、彼もシエナに次ぐ王位継承権を持つ身だ。
 あまり会うことを許されぬ、腹違いの弟。彼こそ、妃を迎えるのに相応しい。
――私は……――
 いつの間にか、シエナの指は足元の花を手折っていた。
 風に吹かれ、淡い花弁がふるる……と震える。いつしかシエナの心は、幼い日へと戻っていた。


「何を贈ったら、ルベルは喜んでくれるだろうか」
 五歳になったばかりのシエナは、今から会う異母弟皇子の事を考えて、少しばかり緊張した面持ちで塀の破れをくぐった。
 『正殿の宮』での儀式の時以外、ルベルには会っていない。その時でさえ、女官や侍官に遮られて、言葉を交わすことはできなかった。シエナ付きの女官がルベルの事を、妾腹の御子と()(ざま)に言っているのを聞いたこともある。
『第二皇子というお立場を判ってらっしゃるのかしら? 妾腹の御子、ルベル様は』
『こちらの宮で、シエナ様と一緒にお暮らしになりたいなどとおっしゃったようよ』
――ショウフク?――
 詳しい意味など判らなかったが、それがあまり良い意味で言われた言葉ではないのだということを、シエナは薄々感じていたのだった。
 いつも寂しそうにしているルベル。昨日はお熱が出て一日中伏せっていたのだと、シエナ付きの女官が噂していた。
 自分が病で苦しい時、誰か側にいて欲しいと思う。ルベルも今、そんな気持ちではないのかしらと、シエナは小さな胸を痛めたのだ。女官に言えば、きっと『行ってはいけない』と叱られてしまう。そこで昼餉が終わった後の女官の交替の時間を狙って、自分の宮を抜け出て来たのである。
「あ……これをお見舞いに持って行こう」
 自分が何も持っていないことに気付いて、シエナは足元に咲いていた花を手折った。小さくて可憐で、シエナが密かに好きな花だ。
 贅を尽くしたお見舞いもそれはそれで嬉しかったが、シエナは病の床に伏すと、必ずこの花を見たくなった。
「まあまあ、シエナ様。こんなところまでお一人でいらしたのですか?」
 あと少しでルベルの住まう宮の入り口、という所で、女官が一人歩きのシエナを見つけ、やんわりと咎めた。シエナは手に持った小さな花を後ろ手に隠すようにして、ついっ、と女官から視線を外した。
「こちらは異母弟君(おとうとぎみ)の住まわれる宮です。シエナ様のいらっしゃる所ではありませんよ。ここはお通しするわけにはいきません。わたくしどもが叱られてしまいますもの」
 女官は優しく諭すように言い含める。だが賢いシエナは、その言葉の裏でこの女官が迷惑がっている事を悟ってしまっていた。噛み締めた唇が、みるみる白くなっていく。小さな拳に、ぎゅっと力が入った。
 視界がじんわりとぼやけてくるのに気付き、シエナはくるりと(きびす)を返すと、もと来た道を振り返りもせずに駆け出した。女官もわざわざ追って来る気配はない。
 走りながら、握り締めた掌の中で、小さな花が萎れているのに気付いた。
――どうして私はルベルに会ってはいけないんだろう――
 幼心にシエナはいつも、そう思っていた。


「……!」
 ふいに訪れた強い風にあおられた花弁が一片(ひとひら)、細い茎を離れて飛んでいった。遠い日に想いを馳せていたシエナの心は、『現実(いま)』に引き戻される。
――妃などと……――
 このような自分のもとに送られてくる皇女と、そしてそれを迎えなければならない自分と。
 承知はしたものの、これから先、自分達を待っているであろう苦難の道のりを思うと、シエナの心はどうしようもなく塞がれるのであった。


 シエナを見送った宰相は、胃の中のものがせり上がって来るような感覚を覚えた。
――またシエナ様を苦しめてしまった――
 国王は天蓋を下ろし、今から寝むという。あのような決断を下した自分を認めてくれたとは言え、シエナの父である王にとっても苦渋の選択に違いない。病がちであるのも、心に重荷を背負っているからなのかも知れなかった。
――こんな決断を下すのは、いつも自分だ――
 宰相は、全てが始まった、あの遠い日を思った。


 暗い部屋だった。
 主の願いで灯りは落とされ、蔀戸(しとみど)も閉められている。どこかで赤子の鳴き声が聞こえる。まだ産まれたばかりの、頼りなく、それでいて力強い産声。
「しばらく眠ります。一人にして下さい」
 部屋の主は、控える女官にそう言うと、寝台の上でそっと背を向けた。
 小さな衣擦れの音の後、扉が微かな音を立てて閉められる。寝台の上の人影は、それを背で聞いていた。
 部屋の主は、カーネリア国王の妾妃。儚げな容姿の女人で、暗い部屋の中でも白い肌が、ほうっ、と光るようだ。強く抱き締めたなら折れてしまいそうなほど、その肩は痩せている。
 途切れ途切れに聞こえる赤子の声は、たった今この妾妃が産み落としたばかりの、男の子のものであった。
 カーネリア国第二皇子の生母。本来ならば誇らし気な笑みも零れようというのに、この妾妃の頬は濡れていた。
「う……ううっ……」
 嗚咽と共に、肩が細かく上下する。
 泣いているのだった。人前では泣けなかったのだろう。人払いをした今、夜具の端を細い指で握り締めながら、ただ泣いていた。
「申し訳……ありません、王……。あのような……あのような御子を……」
 妾妃の口から思いがけない言葉が零れる。
 少しばかり開きかけた扉の向こうで薬湯の盆を持ったまま、はっと息を飲む者がいることに、この妾妃は気付いていなかった。


「宰相殿……」
 後宮にいる筈の妾妃付きの女官が息を切らして執務室に駆け込んで来る。聞き覚えのある声に、宰相モルグはゆっくりと顔をあげた。
「おお、ルチエラ。どうした、そのように血相を変えて。こちらはたった今、第二皇子のご誕生を聞いたばかりだ。おまえもご苦労だったな」
 ルチエラと呼ばれた女官は宰相の前で小さく膝を折って会釈をすると、「お人払いを」と言った。
 この女官は宰相の妻の縁者である。まだ十三歳であったが、賢い娘であったので、宰相の口聞きで妾妃付きの女官として後宮に出仕している。
 ルチエラは、たった今、妾妃の自室で聞いた言葉を宰相に告げた。
「うむ」
 小さく唸ったきり、宰相は黙り込んでしまった。
「よいな、ルチエラ。この事は他言無用だ。王室の根本に関わる大事。慎重に対処せねば。おまえはもう戻りなさい。長く後宮を空けていれば、不審に思われないとも限らないからな」
 ややあって口を開いた宰相の眉根には、苦渋の皺が深く刻み付けられていた。
「どうしてこのような事ばかり、たて続けに起こるのか……」
 ルチエラの後姿を見送り、ため息と共に吐き出された言葉。宰相は、この一晩の内に起こった出来事に思いを馳せていた。
 御歳一歳になられる正妃の御子は、双子であった。一方は皇子、一方は皇女である。良く似た容姿であったが、心持ち皇女の方が髪の色が濃いようだ。だがよちよちと可愛らしく歩くその姿は、まったく見分けがつかない程であった。
 今、カーネリア国には流行り病が蔓延している。あちこちで人が死に、働き手が失われて、冬作物の収穫にも影響が出ると予想される。穀物の収穫後であったのが、せめてもの救いであった。
 王室とて例外ではなく、まだ体に力の無い皇子も皇女も、共に病の床にある。
 ……いや、病の床にあったのだ。つい今朝がたまでは。
 皇女はなんとか持ち直した。だが皇子の方は生来の弱さもあって、今朝、息を引き取った。今はまだ公には伏せられているが、その知らせをどのように行うべきかと思案している最中に、先の妾妃の言葉である。
 王位継承権第一位であった正妃の皇子は亡くなってしまった。男子継承が慣わしのカーネリアにおいて、王位継承権は正妃の皇女ではなく、妾妃の産んだ第二皇子に移る。だがその皇子の出自が定かではないとすれば……。
「ご本人にお聞きするしかなさそうだ」
 宰相は、妾妃を訪ねるべく、後宮に向かう手続きを始めた。
 妾妃を後宮に入れるにあたって尽力したのは、宰相の弟、イリルであった。万一のことがあれば、イリルだけでなく、自分の立場も危うい。
 だが、事は王室の血筋に関わる重大な事柄なのだ。おろそかにはできない。
 弟イリルだけでなく、共に自分も国を追われるかも知れないと腹をくくって後宮に向かった宰相を待っていたのは、妾妃が亡くなったとの知らせであった。懐妊中から体調の思わしくなかった妾妃は、産褥熱によって、あっけなく命を散らしたのだという。
 これで、事の究明には膨大な時間を要することとなってしまった。その間、王位継承権をどうするか……。
 宰相は、ある決意を固めた。
 第二皇子が国王の御子であるかどうか疑わしい内は、王位継承権の第一位に据えるわけにはいかない。究明に思いのほか時が掛かり、『立太子の儀』を迎えてしまえば、王位継承を覆せなくなってしまう。
 カーネリア王室は、正しい血筋の上に成り立って来たもの。常世の国に旅立った後は、神となって国を護るべき血筋なのだ。
 信仰には根拠がある。カーネリアの礎が定まって久しく、神話と共に護られて来た信仰が人々の心から薄れ始めた頃、王室の血を継がぬ者が力で王を追い、玉座を得た。半年もしない内に豊富だったはずの水が枯れ、山から石が落ちてきて人を襲い、大地が荒れた。大地が荒れれば人心も荒れる。カーネリアは危うく潰えてしまうところだったという。
――神話は事実だったのだ。
 それ以来カーネリアにおいて、王室の血筋は第一に護らねばならないものとされている。
 従って疑わしい血を持つ者の名を、その系譜に書き入れるわけにはいかない。護るべき血筋を穢せば、今度こそこの国は神の怒りに触れ、潰えてしまうだろう。
 だが表立って第二皇子を排斥するわけにもいかなかった。臣下の者にその血筋を疑われるような事が有ってもならない。万が一、正式な国王の御子であった時に飛ぶ首の数は、百や二百では済まなくなるであろう。
 ならば出自の確かな皇女を皇子と偽ってでも、王位継承権の第一位に置いた方が良い、と考えたのである。
 そして国中にふれを出した。
 『双子の皇子・皇女の内、亡くなったのは皇女であった』と。
 その時から皇女は、皇子となった。『戴名の儀』によって幼名を捨て、『シエナ』と名乗った。
 切れ者の宰相ならではの策である。だが、苦肉の策であることも確かであった。
 シエナが年頃を迎える前に、事の真相を明らかにできなかったならどうするのか。近隣諸国の間からは、自国の皇女を差し出してでも、カーネリアと姻戚関係を結びたいと願う国が現れることは必至。
 そうなる前に、第二皇子ルベルの出自に関して明白な事実を掴み、晴れてシエナを女王として披露目する手筈であったのだが……。


 事は唐突に起きたのだった。