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玻璃の橋板


〜二十〜


 このところ、国王の容態はあまり芳しくなく、もう何日も意識のないままである。
 唯一生気に満ちていたシエナと同じ黒曜石の瞳は、もうずっと長い間瞼の奥に隠されていた。
「父上……?」
 国王の眠る寝台の脇に、椅子が置かれている。その椅子に座り、シエナはそっと呼び掛けてみた。薬師も女官も控えの間にひきとってしまった今、この部屋にいるのは、シエナと国王のみであった。
 何度呼び掛けても、父王が応えることはない。それでもシエナは、時折そうやって呼び掛けては、枯れ枝のように痩せてしまった彼の指をそっと撫でた。
 耳障りな呼吸音が規則的に聞こえ、その胸もかろうじて上下している。それだけが今やっと確認できる、国王存命の証なのだ。
 その瞳が開かれることも、病を得るまでは凛々しかった声を聞くことも、もう叶わないことなのだと薬師は言った。今はただ、次第に小さくなって行く命の灯火を、それでも懸命に長らえようと手を尽くすだけ。どんなに薬の知識に()けたジェイドの流れを組む薬師でも、消えて行こうとする命の灯を呼び戻すことはできないのだと。
「父上、まだ逝かないで下さい。私にこれ以上、茨の道を歩ませないで下さい。あなたが崩御したなら、私は何も明らかになっていない中、偽りの姿を捨て、王とならねばなりません。一度王となってしまえば、もう後に戻ることはできない。弟皇子ルベルがあなたの御子だったとしても、私は彼を排さねばならない」
 国王の耳元に小声でささやきかけ、その閉ざされた瞳を覗き込む。それでもやはり、応えはなかった。
 妾妃キシナの生母もまた、このような病床にあった。屋敷が人手に渡るのも、そう遠くないことであろう。隅々までくまなく調べるのだと、アーベルは言った。だがそこで何かが出て来るという保証はないのだ。そうなればどのみち、血筋の定かでないルベル皇子は、排されてしまうのだろう。
 それでも今は、そこに望みを掛けるしかなかった。万が一にも、何かが出てくるかも知れない。望みの糸が少しでも残っているのならば、傍目からはどんなに愚かしく見えようとも、それを手放すわけにはいかない。
「だからどうか、今は逝かないで……ルベルの素性が判るまで、どうか……」
 全ては国王の命の灯火に掛かっている。
 もう長い間、実質的な王の職務は、第一皇子の立場にあるシエナが担っていた。だが国王がいるのといないのとでは、その立場に格段の差が出てしまうのだ。
 王室の血を繋ぐもの、それが王である。確実に王室の血を受け継いだ子を産まねばならない。そのためにはシエナは女であったと披露目し、伴侶を得なければならない。
 そうなれば『妃』としてこの国に在るレミアもまた、排される。リオドールは黙っていまい。例えレミア皇女がラウナ皇子であったと披露目したところで、それならば何故カーネリアに偽りの輿入れをしたのだと、今度はこちらの民が黙ってはいないだろう。どのみち、戦が始まってしまう。
 それは――。
 レミアとの永久(とわ)の別れを意味していた。
 二度も祖国の刺客に命を狙われ、それでもシエナの為に生きると誓ったレミア。愛していると……言葉だけでは足りずに、証を与え合った。この身体に刻まれた彼の印は、シエナを幸せにもしたが、同時に奈落の底へも突き落とした。
 前よりも一層彼を想う自分がいる。彼を失う日が確実に近付いていることを感じながらも、その日がきたなら、自分はおかしくなってしまうのではないかとさえ思える。
 一日でも長く……。
 そのためにも、国王に今逝かれては困る。
 今やカーネリアは、いつ戦となっても良いだけの力を付けた。口実さえあれば、いつでもリオドールを叩く準備は整っている。
 戦の口実となるであろう諸々の事柄が、シエナを苦しめていた。


 控えめに扉が叩かれ、宰相が部屋に入って来る。
 ちらりとそちらに視線を送り、シエナは父の指を撫でていた手を止めた。
「アーベルが申すに、シエナ様はこちらではないかと」
 誰も問うていないのに、宰相はそう言ってシエナの斜め後ろに立つ。片膝をついて国王に向かって頭を垂れると、立ち上がり、シエナに並んで一国の主の顔を覗き込んだ。
「そろそろお覚悟を決めなければなりますまい」
 シエナの方を向くことなく、宰相は言った。
 控えめではあるが重々しく響くその声に、何故だか今日は腹も立たなかった。何も口にはしなかったが、腹の底で、ただ「そうか」と思う。
 今までは、国のために自分の生きる道を曲げさせたこの男を、心の奥底で煙たいと思っていた。それは自然と態度に出て、側近の知るところとなった。
 彼の息子であるアーベルが、自然と二人の間を取り持つような役目を担っていたのだが、そのアーベルも最近ではあまりシエナの前に姿を見せなくなっていた。
 シエナに想いを告げ、またそれを無理強いしてしまう形となってしまったことで、彼もまたひどく傷ついていたのである。
 アーベルを頼ることのできない今、宰相は自らシエナと話す機会が増えた。それは徐々にシエナの彼に対するわだかまりを溶かし、以前ほど悪い感情を覚えることがなくなっていた。
 隣に立つ、父王よりも若く見える宰相を見上げる。
 彼はもう知っているのだろう。自分が『妃』として迎えたレミアを愛しく想っているのだと。アーベルの知ることは、全て宰相の知るところとなる。アーベルのシエナに対する想いですら、この男は知っているのかも知れない。
――そろそろ、覚悟を……――
 口実を見つけ、戦を始める覚悟を決めろと。国王の命の灯火も儚く、妾妃キシナの生家の取り壊しも迫っている。もう残された時間はあまりない。そしてそれは、レミアのことも想い切れと言っているのであろう。
 口実――。
「あなたなら、戦の口実を何としますか?」
 再び国王を見下ろし、シエナは問うた。しばらくの沈黙が、辺りを支配する。
「あの者が……」
 しばらくの後、宰相が口を開く。
「刺客の(なり)がカーネリアのものでなかったなら、あの件を盾にリオドールに仕掛けることもできたでしょうが……」
 そこで言葉を切り、宰相は言い淀んだ。
 刺客に襲われたレミア。
 死して後も尚、カーネリアの者であると主張するような形で、刺客はレミアの命を狙った。事が成就していれば、カーネリアの者がレミアを亡き者にしていたということになる。カーネリアがリオドールに戦を仕掛ける口実にはなるまい。
 そこまで考えて、シエナは急に背筋が冷えるのを感じた。思わず、眼を細める。
「……我が国が、リオドールの皇女を殺めるのだと?」
 知らず口をついて出た言葉に、宰相が訝しげにこちらに顔を向けるのを感じる。
 何故、レミアは祖国に命を狙われたのかと思っていた。カーネリアに輿入れする前は、疎まれてはいたものの、命まで取られるとは思っていなかったのだと、彼は言った。
 それはこの国に皇女として輿入れをして、初めて成り立った図式だ。
 ――皇女と偽って、シエナのもとに輿入れをした。
 ――シエナのもとに輿入れし、カーネリアの者に殺められる。
「……!」
 ガタン、と椅子が鳴った。シエナは思わず立ち上がっていたのだ。
 カーネリアの者が、リオドールの皇女を殺める。
 それはリオドールにとって、立派な戦の口実なのではないだろうか。
「宰相……戦の口実を作る為に……この国で死ぬ為に、レミアは輿入れさせられたのです」
 シエナの口から漏れた言葉は恐ろしく残酷で、宰相も思わず眉をひそめた。
 何故そこまで疎まれるのかは判らない。ただ戦の口実を作るためだけに、レミアは輿入れさせられ、命をも狙われたのだ。
 シエナは怒りで震えた。
「人の命を何だと思っている……!」
 その為にどれだけ()の皇子が傷ついたことか。敵国とも言えるカーネリアの皇子に縋らねばならないほど、レミアは追い込まれていた。
 こんなことに利用される為だけに、彼は生まれてきたのか。
 そして今、こんなことに利用されたが為に、その命は潰えようとしている。
「……くっ!」
 シエナは拳を握った。
 自分ではもはや、彼を救うことはできない。国という大きな流れの中にあっては、例え王族であろうとも、その願いだけで人の運命を変えることはできないのだ。
 握った拳に更に力を込める。掌に爪が食い込み、皮膚が破れて血が滲んだ。
 その赤色は……まず第一に護らねばならない、王室の血の証であった。


 その日も、カーネリア城はいつもと変わらぬ朝を迎えた。
 いつもと変わらぬ目覚め。ルチエラの運んで来た手水を使いながら、シエナはまたいつもと変わらぬ一日が始まるのだと思っていた。
「シエナ様」
 まだ朝の仕度が整っていないというのに、扉を叩く音と共に次の間から声が掛けられる。それはいつも聞き慣れた、彼のものだった。
「シエナ様はまだお仕度が整っておられません。しばらくお待ちを……」
「いや、いい」
 ルチエラが待つように言うのを、シエナは遮った。
「入れ、アーベル」
 シエナの招きに、漆黒の髪を頭上高く結い上げ、すっかり仕度を整えたアーベルが入って来る。
「このような朝早く、失礼を致します」
 彼が片膝をついて頭を垂れるのに黙って小さく頷いて応じ、シエナは手巾で顔に残る雫を拭いた。
「こちらもまだ仕度が整っていない。すまないが、あれこれしながら聞かせてもらうぞ。おまえも楽にするといい」
 手巾をルチエラに返し、シエナは鏡の前に座った。鏡越しにアーベルに視線を向けると、礼を解くように促した。
 ルチエラが髪を結い上げていた飾り紐を解く。夜の間にほつれた髪が全て背に流され、シエナの面差しは皇女のそれになった。櫛で優しく梳ると、漆黒の髪は艶を増して輝き出す。
「例の屋敷が、本日明け渡されることとなりました」
 頭を上げ、アーベルは言った。シエナの瞳が一点を見つめ、それからゆっくりと脇に逸らされる。
 ルチエラがシエナの髪を頭上高く持ち上げ、全ての髪をその手の中に握り込む。飾り紐できつく結い上げると、うなじに残る後れ毛を櫛で撫で付けた。
「では、妾妃様のご生母が……?」
 改めて鏡越しにアーベルに視線を送ると、シエナのそれはアーベルの視線と絡み合った。
「昨夜遅く、亡くなられたそうです」
「そうか……」
 手短に告げられた言葉にそれだけを返して、シエナは口を閉ざした。
 ルチエラがシエナの夜用の上着を外し、ちらとアーベルを見やる。
「アーベル様、少しの間、お顔を伏せて頂けますか?」
 そう言って彼が言われた通り顔を伏せるのを見届け、ルチエラはシエナの胴衣をその肩先から外した。
 アーベルはその間、上質な布地の造り出す衣擦れの音を聞いていた。ルチエラが胴衣を手渡し、シエナがそれを自ら(まと)う気配がする。もう良い頃だろうかとそっと顔を上げると、袖が引っ掛かったのか、まだシエナは胴衣を纏ってはいなかった。胴衣の袖に片方だけ腕を通し、もう片方の袖を直している。いけないとは思いながら、その姿から眼が離せなくなってしまった。
 滑らかな白い肌。胸の線を消すために巻かれた布から垣間見える背に、いくつもの白い傷跡が残っていた。あの傷は、共に戦った折についたものだ。そして一番新しい傷は、刺客に襲われた時に負ったものなのだろう。
 その傷をなぞるように、肩先に薄桃色の花びらが散っていた。それを見留め、アーベルはハッと瞳を伏せる。
――あれは……――
 レミアの付けた印に相違なかった。やるせない想いが胸の中に渦巻く。春の花にはまだ早いこの時期、薄く色づくその花びらに……シエナはもう、手の届かない所に行ってしまったのだと思い知らされた。
 アーベルは黙って唇を噛み締めた。それより他、彼には自分の想いをあらわす手立てが無かった。
「それで、調べはいつから行うのだ?」
 いつの間に着替えを終えていたものか。シエナはすっかり身支度を整え、こちらに身体ごと向き直っている。
「……本日、これから向かいます」
 応えた声が震えてはいないか。アーベルは、まだそんなことを気にしている自分を腹の中で哂った。
 ルチエラが、脱ぎ散らかした衣装を抱えて部屋を辞した。後に残るのは、シエナとアーベルの二人だけである。
 窓の外で、小鳥が枝に遊ぶのが見えた。
――動くか、動かぬか――
 シエナは、小鳥の白い羽根が朝日に煌くのを、黙って眺めていた。
 この日が来るのを、千秋の思いで待っていた。何かを見つけることができるか否か。この身の処し方が、今からの捜索に掛かっていた。
「アーベルも、行くのだろう?」
「勿論です。捜索には人手が要ります。指示する者も必要ですし……」
「私も同行して、構わないか?」
 城下を見下ろすこの場所で、ただ報告が上がって来るのを待っているのは嫌だった。できることなら、自分もその場所に出掛け、自身の手でこの身の運命を切り開いてみたい。
 窺うように視線を向けると、アーベルがゆっくり頷くのが見えた。
「いいでしょう。シエナ様と知られぬよう、粗末な衣装を用意させます。折角お召し替えなさったところ申し訳ございませんが……」
 そう言ってアーベルは、再び頭を垂れた。


 シエナ達を待っていたのは、粗末な屋敷だった。
 元は立派な屋敷であっただろうそれは、長い間の風雨にさらされ、けれども没落したために手入れも行き届かずにいた。屋根は苔生(こけむ)し、壁は所々漆喰が剥がれ落ちて、中から基礎の石積みが覗いていた。
 中では、もう作業が始まっているらしい。時折何かを引き剥がすような音が響いてくる。屋敷の取り壊しと捜索は、同時に行われることになっていた。
 シエナはアーベルを振り返った。
 頭から粗末な上衣を被り、見事な漆黒の髪を隠している。いつもは優雅に茶器の取手をつまむ綺麗な指先も、今日ばかりは土を引っかいて爪の間を黒く染め、まるで物心ついた時から労役に携わっている者のようである。
 シエナも粗末な上衣を被って、折角撫で付けた髪にもわざとほつれを作り、アーベルと似たような風体である。だが、さすがに爪への細工はしていなかった。
「ひどい有様だな」
 シエナは物の怪でも住んでいそうなその屋敷の様子に、そこで最期の時を迎えた年老いた人のことを思った。
 娘が妾妃として城に上がった時、どんなにか誇らしい思いでいたであろう。王の子を身籠ったと聞いて、どれほど嬉しかったであろう。
 だが一年と経たぬ内に喜びは深い哀しみへと変わる。キシナは亡くなり、家は衰退の一途を辿った。自身も病を得、長く患った末に孤独の中、下仕えの者に看取られて……。
 その寂しさは、如何(いか)ばかりか。
 国の頂点に立ち、皆に(かしず)かれている自分も似たようなものか、とシエナは思った。
 王族であるというだけで、人々は膝をつき、頭を垂れる。だがその中のどれだけの者が、シエナ自身を見ているというのか。唯の一人も、居はしまい。
 王室の血を繋ぐための器。ただ、それのみが、シエナに求められるものである。
 皇子として生きる為に、いろいろなものを諦めて来た。だが自分までもが自身を諦めてしまえば、もう生きてはいけまい。王室の血の中にしか自分の生きる道が無いのならば……立派にそれを護ってやろう。血に縛られ、王家に縛られ、人々の期待に縛られて、無様にもがきながら、護って行こう。
 シエナは漆喰の剥がれた壁を、拳でトン、と叩いた。ほんの少しの衝撃にも、漆喰はパラパラと崩れ、地面に降り積もる。
「さて、どこから調べるか」
 小声でアーベルがつぶやいた。
「キシナの自室はどうだろう」
 シエナがそれに応じた。
 ここにいる者達は皆、アーベルの配下の者ばかりである。だが皇子であるシエナがここに来ていることまでは知らされてはいない。アーベルはシエナに対し、無礼な態度をとることを前もって詫びていた。
「カルサ、こちらへ」
 アーベルが、シエナの幼名を呼んだ。レミアにもそのように呼ばれたことがあると、シエナは心の中で苦く笑った。
「ああ」
 この捜索が、レミアとの絆を断ち切るものになるかも知れないと思いながら、シエナは運命の皮肉さを心の中で少しだけ呪った。
 キシナの自室は、まだ誰も調べてはいないようだった。
 生母が手をつけさせなかったのか、妾妃として城に上がった時のままになっているようだ。壁に飾られた絵画は優しい色合いで部屋を華やかに彩っている。この部屋の主が、その一年後に儚くなってしまったことなど、何も知らないように。
 シエナはその絵画を裏返して見た。壁からそれを外し、額縁を外す。だがどこにも不審な物はなかった。
 置かれたままになっている寝台も、寝具を捲り上げてみた。日によく干された寝具はまだそこに主がいれば、毎晩の夢を誘えるほどに柔らかである。
 アーベルも卓の引き出し、壁際の椅子、あらゆる調度品を検めていった。
 数刻が過ぎ、二人はそれぞれの思いのままにあらゆる所を調べた。だが一向にそれらしき物は出てこない。まるで部屋の主が今も生きていて、夕刻になればまたそこに戻って来そうなほど整えられているのに、その思い出だけがスルリと抜け落ちてしまっているようだ。
 もともと、どんな物があるのか、誰も知らない。自分達が何を探しているのかすら判らないのだ。書付けなのか、絵画なのか、装身具なのか。何が第二皇子ルベルの出自を明らかにするものなのか、見当もつかない。
 大体、そんな物が残されているのかすら、判らないのである。
 さんざん探して、すっかり日も傾きかけた頃、燭台の灯りを持ってアーベルが部屋に戻って来た。
「他の部屋も、まだ探している最中だ。壁を剥がしたりしているが、さっぱりそれらしき物は見つかっていない」
 落胆の混じった声で、アーベルは言った。
「もし何かを隠すとして……カルサならどこにする?」
 他に誰もいなくても、万が一の用心は必要だ。アーベルは、城内にいる時とは違ってくだけた物言いをした。それはまるで何も知らなかった幼い頃に戻ったようで、シエナの心がチリリと痛む。
「私なら……」
 考えを巡らせ、部屋を見渡す。寝台、卓、調度品、額縁、椅子、飾り棚、衝立……。考えうる限りの所は探したつもりだ。まるで夜盗に遭ったかのように乱れた室内は、それだけ探し尽くしたのだという証である。
「女性は何かあると、書付けを残したり、友に話したりするものだと聞いているが、私は……」
 以前、ルチエラがそのようなことを言っていたように思う。それを聞いて以来、シエナはなるべくそのような事をするまいとして来た。皇子として生きる自分が、女人のするようなことをしてはいけないと思ったからである。今更、女人としてどこに隠すのかと考えてみても、なかなか思い浮かぶものではなかった。
 妾妃の友と呼べる者には、疑惑を持った時に調べが入っているはずだ。それで何も出て来なかったというのなら、話していなかったという事なのだろう。
 ならば、書付けの一つでも……。
 一通り眺め渡して、寝台に視線を戻した。
 そこに眠るキシナを心に思い浮かべた。それは何故か、たった今も病床にある、父王の姿と重なった。
 シエナはゆっくりと寝台に歩み寄った。
 王の居室は、万が一侵入した者がいても、足音を立てずに国王の寝台に近寄ることができない造りになっている。誰かが近付いてもすぐにそれと判るよう、床の敷石に細工がしてあるのだ。
 ――コツ、コツ……。
 シエナはわざと(かかと)を打ちつけ、ゆっくりと敷石を踏み鳴らす。右へ左へと蛇行しながら、全ての敷石を踏んでいった。
 ――コツン……。
 並の者なら聞き逃してしまうであろう、ほんの小さな響き。だがシエナとアーベルは、咄嗟に眼と眼を見交わした。
 お互いの眼を見据えたまま、どちらからともなく、ゆっくりと頷く。シエナは足元に視線を移し、数回軽く、その敷石を踵で蹴った。
「ここか」
 寝台の枕元の格子は、薄く延べられた金属でできている。アーベルが一つ一つ確かめると、その中の一本が外れ、手の内に落ちて来た。
 そのまま物も言わず、彼はその格子を敷石の隙間に差し込んだ。(えぐ)るように持ち上げると、下から黒い土が覗いた。
 持ち上げた敷石の下の角は欠けて丸く削れ、ここに敷き詰められた後から何度かそうやって持ち上げられた様子があった。
 アーベルは手にした格子で、黒い地面を突いた。
『ガツッ』
 手応えを感じる。手で土を退けると、そんなに深くないところに、金属製の箱が埋められていた。
 床の上にそれを取り出し、開けようとする。だが鍵がかかっていて、容易には開けられそうになかった。
 身分を誤魔化すため、いつも()いている長剣は城に置いて来た。アーベルは懐に入れていた短剣を取り出した。逆さに持ち、その柄で鍵の部分を叩いた。
 鈍い音が響き、何回かの後に鍵が壊れて床に散らかった。
「……つっ」
 アーベルが自身の拳を口元に持っていく。見れば、壊れた鍵に打ち付けたのか、皮膚が破れて血が滲んでいた。
「大丈夫か?」
「ああ、このくらい」
 問いかけるシエナに口の端を引き上げて見せると、アーベルは曲がってしまった蓋を力任せに開けた。錆びた蓋が無理やりこじ開けられる悲鳴のような音と共に、中からキシナのものと思われる書付けがあらわれた。まだ城に上がる前の何でもない日常の様子や、嬉しかったこと、哀しかったことなどが書き綴られている。読み進めて行けば、話にしか聞いていなかった妾妃がどのような人であったのか、手にとるように知ることができた。
 書付けの最後のところは、袋とじになっていて、そのままでは読むことができないようになっていた。アーベルが短剣で、それを裂く。長い歳月を経た紙は、暗がりに細かい埃を舞い上げて二つに割れた。


 これが日の目を見る頃は、私も母も、おそらくこの世にはいないのでしょう。
 この家は没落し、屋敷も取り壊され、この部屋の床の敷石も剥がされ……そうでなければ見つからない所に、私はこの書付けを隠しました。
 私は城に上がり、月満ちて、子を産んだのでしょう。その子が皇子だったのか、それとも皇女だったのか、それはこれを書いている今、私には判りません。
 何故、子の生まれにくい王室において、それでも産むと断ずることができるのか……。
 それは、その子が今、私のこの腹にいるからなのです。

 城に上がることが決まる前に、私には好きな(ひと)がいました。焦がれ続けたその人と深い仲になったのは一度だけ。誰も知らぬ逢瀬でした。
 そして私は家を盛り立てるため、城に上がることが決まってしまいました。
 腹の子の父親は、私が想いを寄せていたというだけで国を追われ、今はどうしているのか、私には知ることができません。
 まだ宿ったばかりの命。
 私がこの命に気付いたのは、ほんの数日前のことでした。

 母に言って、城に上がるのを辞退しようかとも思いました。
 ですが、思いがけず私が城に上がることで、父亡き後没落してゆく一方のこの家を盛り立てることができるかも知れないと喜ぶ母に、私はどうしても言い出すことができませんでした。
 それに言ってしまえば、宰相殿の弟イリル様に、この子を流されてしまうことでしょう。この子の父親が、国を追われたように……。
 私はどうしても、この子を産みたかった。
 唯一人、愛したあの人の子を、この世に生み出してあげたかった。

 私は賭けに出ることにしました。
 このことは、私一人の胸にしまっておこう、と。
 万に一つ、イリル様に流されることなく、ここでこの子を産むことができたとしても、父親は行く方知れず。ならば……。
 今、この国には双子の皇子と皇女がいらっしゃる。たとえ男の子だったとしても、私が産むこの子に、王位が回ってくることはないでしょう。
 ならばこのまま、この子と共に城に上がっても、何も問題はないはず。
 私一人が口をつぐんでいれば、この子は何不自由なく城内で暮らすことができる。父親のいない子と(さげす)まれて生きるよりも、王族として暮らす方が、この子の為にも良いのではないか……そんな(よこしま)な心が無かったとは言いません。
 ただ、これだけは信じて下さい。
 この子を無事に産み落とすこと。それだけが私の願いだったのです。

 迷って迷って……そう心に決めたものの、本当に口をつぐんでいても良いものかどうか。国を謀るという大罪を、私は犯してしまうのです。
 私は良心の痛みに耐えかねて、この書付けをしたためました。
 母の願いが叶い、家が没落しなかったなら、この書付けが見つけられることもないでしょう。
 でも反対に、これが見つかってしまったなら……。
 家名に泥を塗り、母の期待を裏切ったことが白日のもとに晒されるのでしょう。
 私が産むはずのこの子の将来を、潰してしまうことにもなるのでしょうね。
 これは、私の最初で最後の賭けなのです。もう後戻りはできません。

 国を謀った罪は、この子を産み落とした後、私自身の命でつぐないます。
 明日は城から迎えが来ます。
 私は毒を持って、城に上がります。

 どうかこれが、未来永劫、見つかることのないようにと願わずにはいられません。

        〜キシナ〜


 シエナとアーベルは、その書付けを読み終えても、そこから眼を離すことができなかった。妾妃のその後を思わせるような儚げで細い筆跡でしたためられた事柄は、二人の言葉を失わせるのに充分であった。