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玻璃の橋板


〜三〜


 湯殿は、湯気に煙っている。
 石造りの湯船には程よい温かさの湯が張られ、その水面(みなも)には色とりどりの見たことも無い花々が散らされていた。
「水と石の国、カーネリア……」
 ちゃぷん、と水音を立て、薄物一枚の姿でレミアは湯に入った。
 女官アイラは、既に用を終えて湯殿から出て行った。呼ぶまでは決してここには入って来ない。後に一人残されたレミアは、香りの良い湯気をいっぱいに吸い込んだ。
 賓客を迎えるために建てられた『清蓮の宮』。その中程に、この湯殿は造られていた。
 今は他国からの客はいない。婚儀が滞りなく済み、晴れて正妃と認められた後、披露目の儀が行われる。ここカーネリアにおいて、婚儀とは厳粛を要する儀式であるため、それが済むまでは他国からの客は一切この城内に入れないのだ。
「わたしが本当にレミアなら良かったのに」
 皇子であるのに、皇女として婚儀にのぞむ。こんな馬鹿馬鹿しいことを、父であるリオドール国王はやってのけようとしているのだ。
 共に妾腹の子として、ラウナ皇子とレミア皇女は産まれた。同腹ではなかったが、同じ頃に産まれた二人は、髪の色も顔の造りも、良く似ていた。
 自分が父王に疎まれていると感じ始めたのは、いつ頃からだっただろう。兄である第一皇子にも冷たくあしらわれた。腹違いであれ、同じ兄弟であるのにと涙した事もあった。
 そんな時にいつも優しくしてくれたのは、異母姉であるレミア皇女だった。半分とはいえ、同じ血を引く姉でなければこんな女性と添いたい、と思っていた。
 そんな異母姉に、婚儀の話が舞い込んだのだ。父王が強く望んだ、と聞いた。
 相手は強大な国、カーネリア。小国一つを挟んだ向こうに、眠る獅子のように静かに、だが最大の脅威として存在する国。
 こちらのリオドール国も、近隣の国を力でねじ伏せ、父王一代の間にカーネリアに並ぶ強大な国となった。だが歴史と伝統に培われ、語り継がれた神話によって下々の民にまで染み付いた愛国の心に護られたカーネリアは、隅々まで王の統治が行き届き、一筋縄で倒せる相手ではなかった。
 父王は、カーネリアをも手中に納めたいとの野望を持っていたのだ。婚姻によって姻戚関係を結び、カーネリア王室を内から侵食しようとしていたのだろう。
 だが……異母姉は死んだ。
 カーネリアから、婚姻承諾の使いが来た、数日後のことだった。
 その日、朝早く部屋を訪ねて来た異母姉は、馬に乗りたいと言った。胴衣と脚衣を貸してやり、馬を引き出してやると、嬉しそうに出かけて行った。
 ……それが異母姉を見た、最後だった。
 異母姉は落馬して亡くなっているのを発見された。泥と血で汚れた頬。婚儀が決まったと聞かされた時に見た凍りついた笑顔が、二度と瞼を開けることのない、紙のように白くなってしまった面差しの上に蘇って消えた。
 顔かたちがそっくりだったからなのか。
 代わりに自分がラウナの名を捨てさせられ、レミアとなった。
 亡くなったのは第二皇子ラウナだと、ふれが出された。
 ラウナ皇子は、リオドールの国から消えてなくなった。
 異母姉と同じ位長かった髪を背に下ろした。その髪に飾り布を留めつけられ、女の衣装を纏わされて、皇女として振舞うことを強いられた。
 そして仕度を整えられ、こうしてカーネリアに送られて来たのだ。
 出立の前、父王は言った。
 秘密が露見すれば、命はない、と。
 おまえは本物のレミアではないのだから、この先何があっても、リオドールは国益のみを優先する、とも。
 それが何を意味するのか、この時は判らなかった。
 だが、万が一、男だと知られてしまったなら、リオドールからの助けは無いのだという事だけは判った。
「わたしは捨て駒にされたのだ……」
 何の駒にされたのかは、いまだ判らない。だが父王が自分を捨てたことだけは、痛いほど感じられる。
 長い睫毛を伏せてひとりごち、レミアは深く息を吐き出した。


 布をきつく巻き付けて胸の線を消しているとはいえ、他の者の手を借りれば、いつか秘密を知られてしまうかも知れない。
 シエナの仕度は、いつも全てルチエラが一人で整える。
 シエナは、今まで着ていた衣装を肩先からはずし、床に落とした。
 薄物から透けて見えるきめの細かい肌はあくまでも白く、乱れて肩にかかる髪の黒色が、一層その白さを際立たせている。すんなりと伸びた肢体は柳の枝のようにしなやかで、この身体のどこに屈強な兵に混じって戦に向かう力があるのだろうかと思わせる。
 だがよく見れば、その背や腕には、既に癒えてしまった傷跡が白い線となって残っていた。戦に出れば、たとえ王族であっても、生命の危険と隣り合わせなのだ。
 遠く北の国には、雪に棲む美しい魔性がいると言われている。透き通るような白い肌に夜を想わせる黒い髪で、人を惑わす。一年を通して雪に閉ざされた深い山の中で、魔性に魅入られた者は眠るように生命を落とすという。
 四季の移ろいのある、ここカーネリアにおいては、そのような魔性が巣食うこともないであろう。だがシエナの美しさは、さながら噂に聞くその魔性のようであった。
 ルチエラが差し出した白色の胴衣をはおり、繻子織の黒い脚衣をその上に着ける。
 腰に綾織の飾り帯を巻き、房を整えて脇に垂らす。
 淡い水色の絹に金の刺繍が施された上衣に袖を通すと、ふわりとカーネリアの香が身体を包む。
 その上に、錦の飾り帯を肩先から斜めに掛け、最後に長く裾を引く衣を着けた。
「シエナ様……」
 ルチエラが、ほうっと息を吐いた。
 どこから見ても、非の打ちどころの無い、一国の皇子である。少々線が細くはあるが、黒曜石の瞳は、それを補って余りあるほどの力に満ちている。
「御髪を整えましょう」
 ルチエラはシエナの後にまわり、飾紐を解いた。
 はらりと髪が落ちる。真っ直ぐに流れ落ちる黒髪は、夜の闇のようだ。
 ルチエラの優しい手で、髪を(くしけず)られる。シエナはそっと瞳を閉じた。


 女性であれば、このように髪を背に下ろすことができる。私にはいつ、それが許されるのだろう。
 軍策を練ることも、剣を使うことも嫌いではない。幼少の頃より、そのように育てられた。だが女官達が他愛も無いことで楽しげなお喋りに興じている時、どうして自分には、あのように笑うことが許されないのだろう、と寂しく思っていたことも事実である。
 こうやって髪を結い上げ、(まなじり)にきつく墨を入れて、自分はいつまで皇子を演じれば良いのか。
 シエナは顔を上げ、鏡に映る自分の姿に眼を留める。
 錦の飾帯。
 金色を基調にしたこれは、婚儀の時につける色合いだ。
――婚儀? 誰の?――
「は……ははは」
 不意に可笑しくなる。シエナはこめかみにその長い指を当て、鏡から眼を逸らして力なく笑った。
 決まっている。リオドール国の皇女と、自分との婚儀ではないか。
「シエナ様?」
 ルチエラが、心配そうに歪めた瞳でシエナを覗きこんだ。
「大事ない。少しだけ……ほんの少しだけ、この身が哀れになっただけだよ」
 鏡の中からルチエラを仰ぎ見る黒曜石が……水面(みなも)に揺れていた。


 婚儀の間は、神殿とは別なところにある。それでも正殿の宮の中で、一番神殿に近いところに造られていた。
 シエナは、自分の宮から回廊を渡って中庭を抜け、婚儀の間に入った。
 物心ついてよりこちら、ここに入った覚えはない。ここは王、並びに次代の王となるべき皇子のみが、婚姻の儀式を行うところなのだ。入ったことがないといっても、それは当然の事であろう。
 高い天井には、抑えた色調で一面に模様が描かれている。壁は漆喰に緻密な彫刻が施されたもので、上のほうには透かし彫りになった天窓がはめ込まれていた。
 回廊にも天窓はある。だがここの天窓からは、本当に神が降りて来そうな、そんな心地がした。
 入口から入って真っ直ぐ進んだ先に、祭壇がしつらえてあった。蝋燭(ろうそく)が灯されている。天窓からの僅かな光しか差し込まないこの部屋の中では、蝋燭の揺れる灯りに周りの物の影も揺らいで見えた。
 長い衣の裾を風に遊ばせ、シエナは奥へと進んだ。神官が祭壇のこちら側で聖なる水を銀の器に張っているところだった。
 何も言葉を交わさず、ただ一礼をする。再び神官は聖なる水の用意を続けた。
 天井を見上げる。描かれた模様は、いつの代の物なのだろう。長い年月を経てもなお、おごそかにこちらを見下ろしている。
 天窓から差し込む僅かな光に、舞い上がった塵がきらきらと輝いて見えた。
――厳粛な儀式なのだ――
 カーネリアの神の前で永遠(とわ)を誓う儀式。
 それを自分は、穢しているのではないだろうか。
 いつわりの愛を誓い、一生添うことのできない人を正妃に迎える。
 それとも……それさえも、血筋を守るためになら、許されるのだろうか。
 ふと、今こちらに向かっているであろう、リオドールの皇女に想いを馳せる。
 ルベル皇子の出自が明らかになり、晴れて自分が女王となった時には、皇女はどうなってしまうのか。女に嫁した皇女という傷は消えまい。
 リオドールに戻されることになるのだろうか。
 それともこの国から出ることも叶わず、人質として留められることになるのだろうか。
 ならば……それならば、皇女が何も知らずにここにいる間だけでも、自分にできるだけのことは、してやらなくてはならない。
 まして口封じの為に、生命を落とさせるような事があってはならない。
 皇女には罪はないのだから。
 罪が有り、罰を受けなければならないのだとすれば、それはこの身にこそ、与えられるべきものなのだから。
 同じ皇女として、いや、皇女として生きることのできなかった自分だからこそ、大切にしてやらなければならない。
 恨まれもするだろう。皇女のみならず、リオドール国王の怒りも買うだろう。
 かの国との戦は避けられまい。
 国力をつけ、戦に勝たねばならない。
 祭壇に眼を転じる。
 蝋燭の灯りが、シエナの決意を試すように、そっと瞬いた。


 神殿の扉が静かに開かれ、先触れの女官が皇女の到着を告げた。
 シエナは、ゆっくりと振り返る。扉からの逆光で、皇女の身体の輪郭が光って見えた。
 開かれた時と同じように静かに扉が閉められ、伏し目がちにこちらに歩んでくる姿がはっきりと見て取れる。皇女が一足歩む度に、鈴の音が小さく響いた。
 お互いの声が届く距離まで進むと、皇女は膝を折って深く礼をした。
「あなたがリオドール国皇女、レミアですね」
 大きくはなかったが、シエナの声は思いの外、神殿の中に木霊する。
「はい」
 短く答えると、レミアはシエナの隣に立った。真っ直ぐに前を向いている。
 シエナも祭壇に向き直った。
 神官が、この国の教えにのっとって儀式を進める。二人の手を重ね、その上から聖なる水を注いだ。水は先にシエナの手を濡らし、次にレミアの手を濡らしてから大振りの銀の杯に集められる。神官はそれを捧げ持ち、祭壇の上に置く。手を重ねたまま、二人は誓いの言葉を唱和し、婚儀は滞りなく終わった。


 続く祝宴は、婚儀の間の隣の大広間で行われた。
 重臣達が集い、にぎやかに宴が進められる。シエナは杯を捧げ持ち、レミアに向かって小さく会釈した。レミアもぎこちなく会釈を返す。背に垂らした髪が揺れて、はらりと零れた。
 ほの暗い婚儀の間で見るよりも、並んで座るレミアは美しかった。
 背中に流れ落ちる豊かな蜂蜜色の髪は柔らかく、だがピンと張った竪琴の弦のように真っ直ぐだ。
 くっきりとした目元は涼やかな曲線を描き、はしばみ色の瞳がその中央でこちらを見つめ返している。形の良い鼻梁の下には、赤い唇。
 彫りの深い異国の顔立ちで、どこか中性的ななまめかしさも漂わせている。
 本当の皇子であれば、この瞬間に恋に落ちるのかも知れない。だが、自分は皇子ではない。
「大切にします。あなたを……幸せにはできないかも知れませんが、大切にします」
 はしばみ色の瞳を覗きこんだまま、正直な気持ちをシエナは告げた。
 偽りの誓いを立てた自分を、心の中でレミアに詫びる。
 レミアの答えは、無い。ただ黙って、こちらを見つめ返している。
 美しい宝玉のような瞳だ、とシエナは思った。
――この瞳をも、私は欺くのだ――
 静かに……ただ静かに、二人は見詰め合っていた。


 宴はまだ続いている。だがレミアは、先に席を辞すように女官に促された。
 カーネリアの女官が、後宮の一室にレミアを案内した。
「こちらがこれより先、レミア様に使って頂くお部屋です。現国王の正妃様が亡くなって久しく、今はレミア様の他にお住まいになっておいでの方はございません」
 女官は一通りの小部屋を案内した。
「国王はお身体の具合が思わしくなく、これ以上の御子は望めませんので、次代の王の正妃様にこちらのお部屋を使って頂きます」
 後宮において、一番格式の高い部屋なのだろう。窓枠にも、据えられた卓や椅子にも、緻密な細工が施されている。
 それはそれで充分に美しく贅を尽くした物であったが、祖国リオドールの慣れ親しんだ自室とは違う様式に、レミアは胸がつまる思いがした。
 これから、自分の闘いが始まるのだ、と。
 そこへ、リオドール国からついてきた女官アイラが、果物をいっぱいに乗せた鉢を持って入ってきた。レミアを見つけ、泣きそうな笑顔になる。
「レミア様……案じておりました。婚儀は滞りなく済んだのですね?」
 卓の上に放り出すようにして鉢を置くと、アイラは駆け寄ってくる。
 カーネリアの女官はそれを眼で制した。
「閨の儀式に臨む前に、もう一度清めのお湯を使って頂きます。アイラ……でしたか。あなたに、レミア様のお身体を清めて頂きます。レミア様はお身体の具合が思わしくないとお聞きしております。こちらの作法では何事かあるやも知れません。お願いしますよ」
 アイラの手に、カーネリアの香が炊き染められた衣装が渡された。
「この先、リオドールからお持ちになった衣装を着けて頂いても構いません。ですが、今宵だけは、この衣装をお召し下さい」
 儀礼的なものです、と言い置いて、女官は部屋を辞した。
 別の女官が、二人を後宮の湯殿に案内した。湯を使い、身体をアイラに洗わせる。
 レミアの秘密を知る、唯一の女官。その彼女の手によって、薄物の上から丹念に洗い上げられる。
 レミアの身体から、祖国の薫りは消えて無くなった。


 ――父王に疎まれ、兄皇子にも冷たくあしらわれていた。
 ――母である妾妃も、自害して果てたと聞く。
 ――何故、そうなったのか。
 ――何故、自分は疎まれていたのか。
 ――秘密が露見すれば、命は無い。
 ――出立の朝、父王が言った。
 ――リオドールは、国益のみを優先する、と。
 ――祖国に未練は無い。
 ――無いけれど……。
 秘密を抱えたまま、寄る辺無い身になったしまった自分を思い、レミアは小さく息を吐いた。


 カーネリアの衣装を纏ったレミアは、手燭を持った女官に先導されて歩を進める。
 今から行われる閨の儀式を思い、レミアはその身に緊張が走るのを感じた。秘密が露見する時が、自分の命の潰える時。
 不意に、シエナの言葉が胸の内に蘇る。
『大切にします。あなたを……幸せにはできないかも知れませんが、大切にします』
 黒曜石の瞳に射抜かれるかと思われた、あの時。
 本当の皇女であれば、力強い言葉を胸に、至福の時であっただろう。だが自分は本物のレミア皇女ではない。
 この先に続く、誠実に自分を迎えてくれたシエナを欺き続ける暮らし。それを思うと、レミアの心は揺れた。
 だが、欺き通さねばならない。
 生きるために。
 袖の内で拳を握り、レミアはくじけそうになる心を叱咤した。
 後には、懐剣を持った女官が二人、つき従っている。その内の一人は、アイラである。アイラもまた、悲壮な決意を強いられていた。
 閨の身代わりをするよう、国王から仰せつかっていたのだ。
 レミアには、薬が渡されていた。即効性のある薬で、意識を朦朧(もうろう)とさせる。その間に誰とどのような話をしたのかすら忘れてしまうのだという。効用が切れた後には至福感が残り、身体にもあまり害は認められない。
 何代か昔、薬学に長けた国ジェイドが、カーネリアによって滅ぼされた。他国に逃れた内の何名かが、リオドールに流れ着いた。ジェイドの秘法を知るその者達は、王室に召抱えられて薬師となった。以来、リオドール王室にのみ、ひっそりと受け継がれている薬なのだと聞く。
 だが薬を使っても、どうしても拒めなかった際には、アイラが身代わりに立つよう言い含められているのである。万が一にも子ができぬようにと、予め幾日も前から薬を飲まされていた。
 それぞれの思いを胸に、四つの影は閨へと進んで行った。


 後宮の建物にぐるりと囲まれるようにして、閨はあった。
 入口は一つで、廊下にはいくつもの蝋燭が灯されている。入口を入ると、警護の男が二人、それに付き添ってきた女官が三人控えるための小部屋がある。この部屋で、朝になるまで交替で不寝番に立つのだ。
 そしてその更に奥には、重厚な造りの寝室の扉が、静かにレミアの入室を待っていた。
 儀式に臨む際の作法やしきたりを女官から口伝えで聞いた。
「レミア様、失礼を。今宵だけ、(あらた)めの儀をさせて頂きます」
 先導の女官が膝を折って会釈をした。その手がゆっくりと伸ばされ、衣装の上からそっと身体に触れられる。
 レミアは思わず身を硬くした。
――秘密が露見せぬよう――
 顔は正面を向いたまま、祈るような気持ちで、視線だけで女官の表情を読み取ろうとする。掌にじっとりと汗が滲んだ。
「レミア様、お加減が悪いのですか? お顔の色が優れませんが……」
 ふと手を止め、女官が心配げにレミアを見上げた。
「大事ありません。慣れないことで、気が昂ぶっているのです」
 レミアは心の内の動揺を封じ込めるように、唇にぎこちない笑みを刷く。それは初々しい美しさで、見る者を魅了するには充分な媚薬となった。
 女官は、はっとした顔になった。
「失礼を致しました」
 そのまま頬を朱に染めてレミアから離れる。
 気を研ぎ澄ましていたからか。詰めていた息をそっと吐き出すアイラを、背に感じた。
 不審な物を何も持っていない事が確認され、レミアは寝室の扉と向き合った。
 中に入ると、背後で微かな音を立て、扉が閉められた。室内は華美ではなかったが、重厚な装飾が施されている。落ち着いた色調の部屋だった。
 シエナはまだいない。
 レミアは、寝台の脇の椅子に歩み寄り、腰掛けた。
 今宵の閨の儀式を無事に乗り切ることができるだろうか。全てはこれからの自分の行ないに掛かっている。
 シエナは十七歳。あのような儚げな(かんばせ)であるが、相当な剣の使い手であると聞く。
 こちらも男だ。このような(なり)をする前は剣の修練や乗馬をこなしていた。細く長い指が節くれだつことも無かったし、歳の割に華奢な肩が盛り上がることも無かったが、それなりに力もある。だが、二つも年上の皇子を前に、果たして秘密を守りきる事ができるのだろうか。
 頃合を見計らって、レミアは苦しそうな表情を作った。寝室の扉を細めに開き、不寝番に立った女官に言って、次の間に控えるアイラを呼ばせた。
「例のものを」
 手短に指図して扉を閉める。うまくいくか不安に駆られながら、寝台の脇の椅子に掛けた。
 体中の血が、音を立てて巡りはじめる。背にざわりと異質な気配が這い上った。息が乱れ、掌にじっとりと汗を握る。
――落ち着くのだ――
 乱れた息を整えるように、大きく胸を膨らませる。部屋の隅で焚かれているカーネリアの香が、レミアの鼻腔をくすぐった。
 しばらくして、アイラが茶器に汲んだ薬湯を持って来た。煎じた薬草の葉を全て()してはしまわず、茶器の底に少しばかり残してあった。アイラと一緒に別の女官も控えている。
 一旦閨に入った皇女を訪れるのは、あまり好ましい事では無い。折りしも今夜は、初めての夜なのだ。間違いがあってはならない。お互いがお互いを監視するように、女官が二人で寝室を訪れたのも道理である。
 レミアは茶器を手に持ち、薬湯を口に含んだ。薬草も一緒に口に含む。飲み下した様子を作り、茶器を戻して軽く会釈をした。
 アイラともう一人の女官は、茶器を持って部屋を辞した。


 程なく扉が開かれ、シエナが入って来た。
 レミアは椅子から立ち上がり、シエナの前に進み出ると、片膝をついて頭を垂れる。
 シエナは腰につけた剣を外し、護り刀として枕元に置く。寝台の端に腰掛け、レミアに向き直った。
「縁有って、あなたを正妃に迎えることとなりました。あなたもこの国を自分の国と思って下さい」
 漆黒の後れ毛に包まれた白い頬に笑みが浮かぶ。柔らかな、それでいて少し寂しげな笑み。


 ――レミアの心が、チリリと痛んだ。